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太陽を曳く馬
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太陽を曳く馬の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.72pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全7件 1~7 1/1ページ
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高村薫はBL路線が本当に好きなんだなと思う。 警察や僧侶の男くさい世界に滲むひとさじの隠微さ。あからさまにではなく、あくまでも密やかに。 | ||||
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上巻読書中は下巻は間をおいてから読もうと考えていたが、掉尾のあまりの引きの強さから連続して下巻に突入、 結果、合田の凹にけっきょく一月付き合ってしまった、 自分もずいぶん辛抱強いと思うが、著者の力業漲る文章は退屈な物語を読み通させる魅力はある、 下巻は冒頭からえんえんと仏教(禅宗)側からのオウム真理教解釈のようなものが語り続けられる、 仏教界からオウム事件に関するダイレクトなまとまった発言があったかどうか記憶ないが、伝統仏教側からすればオウムははねっかえりのチンピラたちが暴れただけの認識だろうが、ここで著者は禅宗僧侶たちの言葉を借りて総論するように膨大な言葉が記述されている、 物語は福澤親子という特異極まる二人を巡る迷宮のようだが、仏教、とくに禅宗が近代哲学にとても親和性があるらしことが朧気に立ち上がってくると思う、 ミステリの体裁は取りながらも本作は結論を語る物語ではないので隔靴痛痒な印象そのままに物語は終了する、 最終章の直前、合田のあまりの執拗さに呆れた心療内科の医師が合田に向かって次のように吐き捨てるのがクライマックスかもしれない、 いわく、P.299 ”あなた、食欲や性欲はふつうにあります? 夜はちゃんと寝られます? 仕事にじぶんを合わせるのが少々しんどい、というところではないですか? もう少ししんどくなってきたら、早めに心療内科へ行かれることを是非お薦めしておきます。” 「我らが少女A」の合田を知っている読者は合田は本作後にどうにか更生できたのだとわずかにほっとできるかもしれない、 | ||||
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「我らが少女A」にいたく感激したので、返す刀のような勢いで本書を手に取ってしまった、 少し読み進んで、これは何かおかしいと異変に気付き検索してみると、本書は合田シリーズでもあるが、他の主人公を語った別シリーズの最終話でもあるらしい、 警察や裁判関係の書類に唐突な印象で私信が連続する作りも、何か別シリーズとの絡みが関係するらしい、 物語は地味なもので、裁判関係の公文書そのままのページも多く(もちろん作者の創作だが)、作者の試行錯誤がダイレクトに語られてた純文学風味の印象が極めて強い、 ただし作者独特の文章と文体には読み進ませる強い磁力があり飽きることなくページをめくってしまったが、この作風なら下巻は時間をおいてから読もうかなどつらつら読み進んでゆくと、最終ページの最終行、これを書かれては続けて読むしかないという波乱を感じさせるのだった、 第一部TOKYO POPでは現代美術論らしきものが語られる、 その中で、P.79に次のように合田は語る、 「社会や時代の全体をなおも言い当てることができると信じて疑わない警察の言葉を尻目に、この世界の意味と無意味を審級している未知の言葉たちの、恐るべき強度と先鋭さを見よ。」 合田が語ることは実務家である警官の視点なのか、それともキリスト教徒である一日本人としての視点なのか? 仏教徒の意見でないことは間違いないが、なにか批判のための批判が語られているような隔靴痛痒な印象がある、 数万年前の洞窟壁画を材料に現代人と古代人が同じ価値観を共有しているような意見も語られる、 その部分は私のような折口信夫に親しんでいる読者には古代人の価値観を現代人の価値観で強引に解釈したい、解釈してしまいたいという傲慢さを感じさせるものだった、 そう、折口の想像力は飄々と長大な時間を超えてゆくが、個人主義・民主主義・人権・近代的自我などに捕らわれた囚人たちの想像力は時の重さにはけして想像力が及ばないからである、 そして上巻の後半では禅宗を代表として現代仏教批判らしきものが語られる、 では、なぜ禅宗なのか? なぜ禅宗以前の律宗や華厳宗、そして天台・真言ではないのか?とまず疑問を持っておきたい、 1980年代、極東の大都市東京が世界のTOKIOに変化した退屈だったが静かな激変期から21世紀初頭までを事件と現代アートと仏教を材料に概観を試みているようにも感じたのだった、 劇中触れられていないが、事件のきっかけになったCDはB'zのラブ・ファントムではないのだろうか? ちなみに同曲はこう歌いだされる、 ”いらない、何も、捨ててしまおう!” カバー・アートに既視感を覚え、記憶をたどるとレディオヘッドのAMNESIACのジャケットによく似ている、 ここでは一文字も語られていないが、80年代当時のポップ・カルチャの中に現代アートを位置づけて社会観察できる読者なら作者の強引を感じさせる記述はくすくす笑いながら読みとばせるとも思う、 なにか面白みを感じた文章を以下メモすると、 P.115 美術において、本来は外部との間に成立しなければならないコミュニケーションを再現性といいますが、 それが欠けていることによって、何を描こうとしているのか理解できない絵があるというだけです。 P.120 アニメやフィギュアの禍々しさにそのまま感応する眼は、必ずしも人間や社会を見つめる眼ではない。 P.217 認識論から見た視覚の自己完結性 P.320 (仏家たちの行う葬儀は)それが死そのものに届くことはけっしてない、永遠の周縁だからだろう。 | ||||
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動きのある小説ではない。どこまで行くんだというくらいの独白、思考の文章化。 これはどういうジャンルの小説なのだろうか。 哀しいことにほとんど頭に残らず、理解できずにそれでもがんばって読了した。 がんばって読んだというマラソン的な観念を残し、振り返れば上下巻で読むのに一カ月かかってしまった。 高村薫は嫌いではない、だが自分には合わない気がする。 | ||||
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さすがの合田も泣いて、投げ捨ててしまう程、形のない精神世界に対抗、又は理解すべく立ち向かったが、手段を持ちえず、自らを異常の 状況へと追いつめてしまった。 そう言う事で宜しいのでしょうか? 造形に関わる者として、上巻のアーティストが呑み込まれる錯乱は理解できますが、宗教家の持つ精神世界は読んでいて、理解不能な催眠状態に引き込まれてしまいました。私は自身の心の神は信じますが、組織化された宗教集団が持つ「人々への救済」には疑問を持っています。 薫様も非情なお人ですね!早くいつもの?合田に戻してください・・・ | ||||
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これはおそらく、読書人生がかなり長い人にしても 難解さベスト10に入るのではないの? というぐらいに難解極まりない本です。 読んでいるうちに文章が暗号化してきて 挙句文字化け…そういう本ははじめて読みました。 ただし、この文章が一種の魔力でもあり ものすごく難解なのではありますが 読む手は止まらないのです。 おそらく宗教を取り扱っているがために そう感じるのでしょう。 ただしこの本は 強烈に何回としつこく言います。 読み終えた後の脳の疲労度はダントツ。 ほかの本に行く気力すら奪われますので。 お世辞にも薦めるわけにはいかない本です。 重厚な作品になれていないひとは 手にとってはいけません。 | ||||
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晴子情歌、新リア王につづく長編三部作。 僧侶の父とその息子の物語を軸としているが、息子のおこした殺人事件と、僧侶の下で修行していた雲水の死と、オウムの教義、そして人間には生きる自由と死ね自由がある、という四つテーマについて書かれている。しかしこの四つがうまく関連づけられていないため、前作、前々作にくらべて完成度が低い。 作者はもともと細部にこだわって全体のバランスを欠く作風だ。本作も執拗で細かすぎる記述が連続し、辟易させられる章もある。重いテーマを扱った意欲作だが、読みすすむのはたいへんで、一般的な人はほとんど読了できないだろう。ただ読書人なら読む価値のある一冊だと思う。 | ||||
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