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デンデラ
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デンデラの評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.31pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全18件 1~18 1/1ページ
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この作家の大ファンになりました。奇想天外な内容が面白くて明け方近くまで読み明かしました。今まで読んできた小説が生ぬるく感じてしまいます。他の本も読みたいけれど、これほど面白い本が見つかるか疑問です。 | ||||
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なかなか良いババアファンタジーです。 なかなか無いですよね?このジャンル。 ファンタジーは若者だけの物ではないという気迫を感じます。 何なら異世界転生物の要素も入っています。時代を先取りしています。 応援したい。 | ||||
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映画をみてから原作があるとのことで本作を読みました。 ネタバレになるかもしれませんが、映画と本作では一部内容が異なります。 しかし映画の疑問はこれで解けると思います。 でもなぁ、熊と全力疾走の追いかけっこしたらすぐに追いつかれちゃうと思うの。 そこが違和感。 | ||||
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少子高齢化時代の今日、今に生きることの大切さの意味を「デンデラ」は読む人に問いかけている。日本が戦後74年をこえて人工的には4人に一人は70歳をこえ団塊の世代と言われ昭和22〜25年生まれの大半が70歳をこえた。歳をとるそれは祝うべき事柄であるが「デンデラ」に描かれるのはその当時は少なくない村社会、とりわけ人口、数百人での自給自足経済で生きる人々は60歳になるとデンデラ野に捨てられた。そして村人、家族友とはなれ無人の山あいにあって生き絶えていく。凍えそうな降り積もる雪。捨てられる山間の僻地は人が住めるところではない。まず生きるに欠かせぬ食べ物とてない。そんな中で極楽を信じる(老婆)は横たわり死の瞑想に入る。白帷子に降りしきる雪あと数時間で凍死寸前にあって予想外の事態に出会う。古びた帷子、防寒用の外衣に身をつつんだ老婆二人。それは同じ部落の山入りで死での別れをした筈の同朋だった。住む生き物といえば野うさぎか、言い伝えで知られる山の主という熊。今この目で見る人は明らかに生きた人間。何故、そこにいる。この人らは数年も前に極楽に行ってるはず? 物語では齢70歳でお山に行くことを設定しているが柳田国男の「遠野物語」には60歳の伝承を伝えており部落の特性では一律ではない。主人公、斎藤カユ。そしてかっては先人としてお山に眠っているはずの知り人、自分を入れてその数50人。 総支配に関与するのが30年前にお山に捨てられた長老、三ツ屋メイ。村の掟に逆らいてずくりで築き上げた手ずくりの隠れ家。100歳の大婆の想いとは何なのか。極楽行きとは全く正反対の執念。生きることの意味をといかけている。 | ||||
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姥捨山に捨てられた老人たちのその後の闘いを描いたものです。サバイバル的内容がメインかと思いきや,映画『リメインズ 美しき勇者たち』を彷彿とさせるような人食い熊や雪との闘いが大半を占めました。 一度生を諦めた老人たちが如何に生きることにこだわるようになっていったのかという心理描写が巧みです。 最後は,カユは熊を村に誘うことに成功したのでしょうか。想像をかき立てられます。 | ||||
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ストーリーに引き込まれ、貪るように一気に読み通しました。 最後はもう少し最期まで描写して欲しかったし、村や村との関係に変化をもたらすようなストーリーを期待しました。 熊との対決のシーンは、まるで進撃の巨人です。 感傷的な気持ちにならざるを得ない死を瞬間的なもので描写していて、死なんてあっけなく、逆にだからこそ真剣に真摯に生きようという気持ちを持ちました。 読了満足感は結構あります。 | ||||
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その後の姥捨て山という設定のようだが、それはまったく関係ありません。いわゆるパニック小説です。女性が描けていないとか人間が描けていないとかの批判は的外れです。単なるパニック小説なんですから。そもそも老婆たちの運動能力、生命力も半端なく強く、とても現実の老人とは思えないほどですから(笑)。ありえないです。難しいことを考えて読む小説ではありません。エンターテイメントです。 | ||||
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時代背景は判然としないが、口減らしとして姥捨てが慣例化している貧農が舞台となっているから、推して知るべしだろう。登場人物は、皆、老婆である。なんと平均年齢80歳強! 70歳を迎えた斎藤カユは、村の慣例通り『お山』に捨てられた。極楽浄土を願い雪原に横たわるカユ。しかし、カユが目覚めると、そこには『お山』に入って死んだとばかり思っていた老婆たちがいた。老婆たちは、『デンデラ』という女だけの社会を形成し、『お山』に入ったものを救いながら、生きてきたのだ。助けられたことに怒りをあらわにするカユ。『デンデラ』に溶け込もうとしないカユだったが、やがて、老婆たちの対立に巻き揉まれていく ・・・ 僕は、本作品を読んでいて斎藤環さん『戦闘少女の精神分析』を思い出した。『戦闘少女の精神分析』では、闘う少女たちをファリック・ガール=男性器を持つ女性と定義づけて精神分析を試みていくのだけど、斎藤カユら老婆たちのキャラクターがまさにファリック・ガールなのだ。会話をおっていくだけなら、年齢、性別ともに不詳でも通じてしまう。そんな独特な雰囲気が本作品を特徴づけているようだ。 『村』に復讐を誓う襲撃派と『デンデラ』の繁栄を願う穏健派の内紛、襲いくる凶暴な人喰い羆、そして謎の疫病。 凍てつく雪景色の中、闘いが繰り広げられていく。一人また一人と命を落とす老婆たち。ヒロイズムに突き動かされた行動に、戦闘少女の精神性が垣間見える(肉体の破壊描写がグロテスクゆえ、そういうシーンが苦手な方は注意されたし)。戦闘”老婆”の生きざまを見よ! 崩壊しつつある『デンデラ』を前に、襲撃派にも穏健派にも冷ややかな態度をとっていたカユは、目的意識に目覚める。ラストは羆との最終決戦だ。満身創痍となったカユの決断とは何か。そして、それは成就するのだろうか ・・・ と続いていく。 本作品を簡単に要約すると、ただただ、老婆たちが殺されていくだけのお話だ。好き嫌いが別れそうだけれど、私は、解説にあるようなラノベ感覚と、老婆たちのアクティヴさに惹かれた。 | ||||
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楢山節考が姥捨て山の話なら、このデンデラは姥捨て山のその後を描いた作品です。 ある貧しい村では、老人たちは70歳をすぎると、息子に背負われ山に捨てに行かれます。 ここまでは良く聞く話です。 しかし、この作品では、捨てられた主人公、斎藤カユが、自分以前に捨てられた老婆たちに救われます。 そして49人の70歳以上の老婆で構成されたもう1つの村、「デンデラ」へ連れて行かれます。 主人公を入れて50人です。 村の長は三ツ屋メイ(100歳!)です。 70歳で捨てられたメイは30年かけてデンデラを作り上げたのです。 その目的は自分を捨てた村の人々への復讐でした。 しかし、山の主である、熊がデンデラを襲撃するに及んで、デンデラは村への襲撃どころではなくなります。 しかも、デンデラでは疫病まではやりだし、存亡の危機に瀕します 途中、ミステリー的な要素も盛り込まれ、厳しい自然との戦い、熊との死力を尽くした戦闘シーン、デンデラ内部での派閥抗争など読みどころ満載です。 作者の佐藤友哉という方の作品は今まで読んだことありませんでしたが、インパクト抜群の作品です。 高齢者しか出てきませんが、決してウェットでなく、どちらかというと爽快感を感じることができます。 | ||||
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「姥捨て」された老婆たちが「デンデラ」というコミュニティを築き、サバイバル生活をする―― そこでは捨てた村に復讐を近う「襲撃派」、新しい生活を発展させたい「穏健派」が対立しており、 主人公はどちらに与することもなく、短気で怒りやすい考え無しではあるが、持ち前の直感で関わっていく。 ……というあらすじである。 奇抜で興味深い設定ではあるが、これらは全てガジェットに過ぎない。 途中何度も襲いかかる羆も、デンデラを襲う疫病も、襲撃派と穏健派の対立でさえ、単なる舞台装置である。 更に、キャラクターもテーマのための記号でしかない。登場人物たちは老婆であることを作中何度も強調されるが、 70を超えた老婆たちは羆を相手に大立ち回りするし、思考や性格も若くまるで十代の少女を見ているようである。 ゆえに、「老婆たちの知恵で村に復讐する活劇」と思って読み始めると肩透かしを食らう。 肝心のテーマについては、多くを内包しており、単純に語ることはできないが、 個人的には、「個は孤である」という点が印象に残った。 登場人物たちは「姥捨て」について様々な見解を持っており、その姿に共感するも、反感を抱くも読者の考え方である。 読者としての自分は「51人目のデンデラのメンバー」として、安全な位置から思考実験に参加しているような印象を受けた。 なお、主人公が最後どうなったかはほぼ確定的に暗示されるものの明確に描写はされていない。 「その後」は読者の主義によっていくつかに分かれるだろう。不思議な作品である。 | ||||
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主人公は斎藤カユ、70歳。 舞台は、姥捨て山の向こう側にある隠れ集落デンデラ。 とある貧しい村で、70歳になると男女ともに姥捨て山に行くことが決まっていた。 これを「お山参り」という。 お山参りをすれば極楽浄土へ行ける、というのが村の言い伝えであった。 物語りは、雪降りしきる中、カユのお山参りのシーンから始まる。 意識朦朧、これで安らかに極楽浄土へ行けると考えるカユ。 いざ命のともし火消えようとしたところで、カユはデンデラの老婆たちに救われる。 デンデラで目が覚めたカユは、助けられたことを喜ばない。 むしろ憤慨する。 デンデラの老婆たちを「生き恥」だと考え、そして口に出して罵る。 それでもデンデラ軍団はカユを包み込むように受け入れる。 老婆たちは、ほとんど皆が生まれた村のことを恨んでいた。 そして、いつか村を復讐のために襲撃しようという「襲撃派」と、 デンデラを静かに発展させていくべきだという「穏健派」の派閥に分かれていた。 決して一枚岩ではないのである。 そんな平均年齢80歳の老婆集落に、熊が襲ってくるのだからたまらない。 あれ? 男がいないぞ。 集落の長である三ツ屋メイ(100歳)は言う。 「男なんざ絶対に入れんよ! この『デンデラ』は女だけのものだ! ざまあみろ」 ひゃぁっ、手厳しい!! デンデラで生活したいとは思わないけれど、こうまで憎まれると男としては肩身が狭い。 全体を通してみると、無人島に漂着したロビンソンみたいなサバイバルものであり、 女学園で派閥に分かれて火花を散らす乙女たちの青春ストーリーのようでもあり、 熊に喰われるシーンがやけに生々しいパニック・ホラーという感じもあって、 さらには生きるとは何か、死ぬとは何か、そんなことを考えさせる純文学風でもある。 そんないろいろな要素を詰め込むだけ詰め込んで、うまくまとめ上げた感じ。 それにしても、この老婆たち、とにかく元気だ。 木槍をもって熊に突っ込んだり、山を駆けたり、互いに取っ組み合いのケンカをしたり、 とてもじゃないが、診察室で見る70歳、80歳の人にはムリだろうと思う。設定を、 「ある村では豊作祈願のため、毎冬になると裏山の社に15歳の少女を生け贄として捧げていた。 彼女らはただ死を待つのではなく、山の向こうに小さな集落を創っていた」 という風にすれば、アクションシーンは違和感がなくなるが、 村に対する凄まじい恨みや、熊や飢えや病気といった「死」と対峙する姿などは、 やはり若造ではなく老婆たちでないと醸し出せない味わいだ。 映画化もされているこの小説。 グロテスク描写もふんだんに盛り込まれているので、苦手な人は避けるべし。 | ||||
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「デンデラ」と言うのは、柳田国男の「遠野物語拾遺」の中の言葉の様で、この小説も姥捨伝説の続編の形を取り、舞台は民俗学のそれになっています。 しかし、作者の語ろうとしていることは、飽く迄「現代社会」の問題点を取り上げているように思えます。 「デンデラ」は、「お山参り」で捨てられた女性たちで構成された集落です。そこに集うのは、100歳を筆頭として70歳以上の50名の女性です。この設定からして、「現代社会」の「老齢化問題」を意識しているとしか思えません。 更に言えば、「生と死」の問題にも言及しています。 とは言うものの、物語の構成は集落と羆の対決の物語になっており、その意味では「冒険小説」です。 又、「疫病」の謎解きを最後に主人公がしますが、それを見ると「推理小説」です。 ですから、いろんな要素を兼ね備えたエンターテイメントな小説として、この小説はあるのだと思います。 それだけに、いろんな楽しみ方のある、良くできた楽しい小説だと思います。 | ||||
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初めてこの作家の本を読みました。 才能がずば抜けています。 70歳を越えた老婆が熊と戦うなんて奇想天外な設定なのに、 力に溢れた筆力がそうかもなと納得させます。 登場する老婆の人物設定も、私には納得できます。 年取ったからって菩薩にはなれません。 家族よりも「自分」です。 エンディングは最初は納得いきませんでしたが、 しばらくたってから、もしかしら、復讐だったのかもと思い始めました。 エンターティメント小説のはずなのに、読み終わった後も考えてしまい、 だれかと感想を話し合いたくなる作品です。 | ||||
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まさにこのキーワードがしっくりと来る作品でしょう。 人捨てのその後を描いた作品なのですが 老いてもなお、人間の感情というものは むき出しというものです。 そしてそれがクマの来襲によりより深いものになります。 そして、共同体にありがちな派閥の存在。 その途中で起こるある事件により 人々がだんだんと減っていきます。 そしてそこにはちょっとしたミステリーも 含まれています。 もちろん見所は 主人公のカユが残り少なくなった デンデラを抜け、 もう戻ることはできない決死行へと 出て行く場面でしょう。 それは老齢の最後の炎のごとく 神秘的に映りました。 どうなったかは描かれてはいませんが それは読者の私たちが描くべきでしょう。 人を選ぶ作品ですが 悪くはありませんでした。 | ||||
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会心の一作だと思う。佐藤友哉(ユヤタン)についてきて良かったと 感じさせられた作品だった。 自分の作品の中で幼い児童や少年・少女たちに襲いかかる世界の悪意、 不条理を書いてきた佐藤友哉だが、『デンデラ』に子供たちは登場しない。 描かれるのは全員、死の淵に片足を突っ込んだような老婆だけである。 そして、彼女たちにふりかかる困難も、物語の導入こそ佐藤友哉の作品に多い 「自分たちを受け入れてくれない社会」から始まっているものの、やがて悪意も 何もない、災害に近い暴力へとその焦点が移っていき、自分たちをさいなむ 現状の責任の所在を他者に求めるような展開に陥るのを、巧みに退けているように思った。 言うなれば、心も肉体も成熟した人間が小さくか弱い子供に自分を投影して 世の中を描こうとする一種のずるさを、そしていま自分が抱えている問題の 原因を自分ではなく自分以外の誰かにそらそうとする欺瞞を、この『デンデラ』で 佐藤友哉は自分にまったく許していないし、読み手にも許可していないのである。 安易にハッピーエンドとは言い切れないし、一見これまでの作品の延長線上にある 報復や反逆を再び描いたような締められ方だが、実際のところそこには、陶酔的な悲観も 大義名分のまがいものもなく、自分の中から自分をごまかすための甘えを一切 そぎ落としていった果てに、ありのままの自分が、そんな素裸の自分を力強く 肯定して突き進んでいく爽快感を感じた。 読み終えて、「よくぞ書いた」という気持ちと「まだこんなもんじゃないだろう」 という気持ちと半々。今後への期待が賞賛に若干勝ったので、星4つにとどめた。 佐藤友哉のキャリアにおいて決定的な意味を持つ作品だと思うので、氏の作品を 未読の方だけでなく、ファンの人にこそ強くすすめたい。 | ||||
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70歳を迎えて「お山参り」をした斉藤カユと、「赤背」という熊の視点から描かれる、おどろおどろしい物語です。 「デンデラ」とは、東北地方の高冷地で、その昔、実際におこなわれていた「口減らし」のための姨捨山を指す言葉です。山中に建てられた小屋で、死を待ちながら共同生活する風習が実際にあったようです。仏の座である「蓮台」の字が当てられており、「れんだい」が訛ったものが「デンデラ」。仏の場所=墓地という意味もあるようです。 この小説の設定は、少し違います。 70歳になり「お山参り」をした老人は、冬の過酷な山中で死ぬことで極楽浄土が約束されているというルールが「村」の生活の中で教育されており、本人もそれを誇らしいこととして確実に死ぬつもりでお山へ入ります。 しかし、なんとこの過酷な山中で生き延びてしまった老婆がおり、「デンデラ」を作ってお山へ来た老婆ばかりを助け、自分を捨てた「村」を襲撃して恨みを晴らすという目的で共同生活をしています。 70年間暮らした村の掟や価値観と180度違う価値観に支配されたデンデラで、斉藤カユが何を感じ、どのように自分自身と向き合っているかが、この小説の「読みどころ」だと思います。寒さ、空腹、疲労、疫病、ケガ、熊の襲撃、仲間の無惨な死に直面しながら、納得のいく生き様、死に様を模索する老婆たちの格闘の中に、思わず自分を置いてしまう、考えさせられる良い作品です。集団心理の発生・拡大も、優れた描写が味わえます。 また、第2の視点である熊の描写も非常に斬新です。動物の本能に対する著者の理解の深さを感じさせます。 昔話調の優しく丁寧な語り口とは裏腹に、熊との格闘シーンなど、表現が非常にグロテスクですし、風呂にも入れない老婆たちの汚れた様子には気持ち悪さを感じるかもしれません。しかし、それらに寄り添えれば、それらは「脳内リアル」として自然に受け入れられると思います。★5つでお勧めします。 | ||||
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「でんでら野」は岩手県遠野に実在したという。姥捨て山にインスピレーションを得て創作された本作は、奇妙にすがすがしい。70過ぎの老婆の無認可秘密集落という設定のため、性の問題が皆無で、政治の問題も極小である。 物語が生と死に焦点化されて進む。どうやって生きるか。なぜ生きるか。登場人物が多すぎるが、熊の登場で、どんどん削られていく。その過程で各老婆のキャラクターが明確になってくる。生きるか死ぬかの局面で、老婆たちの驚異的な活力が発揮される。彼女たちは、さほど生に執着していない故に、強烈に生命力にあふれている。野生動物に近いのだ。 「でんでら」に未来はない。現在と過去しかない。だが「でんでら」という特殊な存在ですら、未来や希望という呪いから解き放たれることはないのだ。 | ||||
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70歳を過ぎると村から捨てられる『楢山節考 (新潮文庫)』を連想する姥捨て山で、白装束に身を包み極楽浄土を信じて疑わない斎藤カユの意識が朦朧としてきた時、聞こえてはないらない老婆の声が聞こえてきて・・・ 暴力で動いていた村から捨てられた老婆たちが女だけの共同体デンデラを形成していて、斎藤カユは望みもしないのに救出されその共同体デンデラの一員にされてしまう。しかしそこは70歳から100歳の百練千磨の老婆が人を騙して動く村で、主人公斎藤カユはこれまでの人生とは違う「生きる」意味を考えることになる。 生きていたくない筈なのに生きようとする行動に繋がる過酷なデンデラでの日々、貧しさが村を狂わせるが死にたいと願う老人が死を恐れていないわけではない。 斎藤カユを始め登場する老婆の息が聞こえてきそうなくらい描き方が丁寧なのに、生々しいわけでもない。体力も弱々しい老婆たちなのに、闘志が作品に漲り気迫が途切れることがない。 挿入される熊の襲来も、相乗効果となり、作品のスケールを大きくしている。 作品の満足度も高いだけでなく、佐藤友哉の成長からくる充実感で満たされた。 佐藤友哉は、『クリスマス・テロル―invisible×inventor (講談社ノベルス)』幕引きから3年ぶりに刊行された『鏡姉妹の飛ぶ教室 (講談社ノベルス)』が戯言から成長を感じない作品で化けてもいなかった。でも、『子供たち怒る怒る怒る』で底力を感じさせた後この『デンデラ』だっただけに読者としての充実感は非常に大きかった。 | ||||
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