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深海のYrr



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深海のYrrの評価: 6.33/10点 レビュー 3件。 Bランク
書評・レビュー点数毎のグラフです平均点6.33pt

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全1件 1~1 1/1ページ
No.1:
(8pt)

ところで映画化の話はどうなった?

重厚長大とはまさにこのこと。
しかし単に長くて厚いだけなら退屈を促すだけだが、驚くべきことに本書とはそれは無縁の言葉だ。一言で云うならば、圧巻。この言葉に尽きる。

日本のミステリシーンにその名を留めさせたのが本作『深海のYrr』。上中下巻の三分冊で合計1,600ページ以上もありながら、刊行された2008年の年末の『このミス』では11位に食い込んだ。

深海に埋蔵されているメタンハイドレードの氷塊に巣食う大きな顎を持ったゴカイの発現を皮切りに、クジラやオルカたちが人間を襲い、世界中で猛毒性のクラゲが異常発生する。そしてフランスの三ツ星レストランではロブスターがゼリー状の物質に侵食され、人間にも害を及ぼす。

さらにゴカイはメタンハイドレードを侵食し、とうとうノルウェー沖の大陸棚の崩壊を招き、大津波がヨーロッパに起き、数万人もの命を奪う。そして被害の外だったアメリカにも白くて眼のないカニが数百万匹という単位で上陸し、病原菌を撒き散らし、ニューヨークを死の街にしてしまう。

地球全体の7割を占める海だが、その正体はほとんど謎に包まれており、作中でも語られているがメタンハイドレードなる次世代エネルギー資源が地球規模で埋蔵されているのが発見されたのもつい最近の事だ。
この未知なる神秘の世界で起こる世界的変事を大部のページを費やし、詳らかに作者は語っていく。神秘であるが故にそれが起こりえると納得してしまうような内容だ。

さてこのイールと名づけられた太古からの単細胞生物の襲撃はもちろんこれには人類が地球に及ぼした環境破壊が根底になっているのだが、それにも増して強調されるのは人間がイルカやクジラ、オルカなどの海棲類にしてきた仕打ちに対する怒りが込められている。

本当かどうか解らないが、本書ではアメリカ軍がイルカやオルカの脳に電極を入れて思考回路を解明しようとし、動物兵器を作る計画があったことが語られる。その仕打ちは正に人類のエゴ以外何物でもなく、動物愛護者でなくとも憤懣やるかたない所業だ。

しかし裏返せばこれほど西洋人の自然に対する保護意識を高める内容もないなと気付かされる。最近のマグロ漁獲規制やシーシェパードによる蛮行とも思える捕鯨反対運動など、こと海の生き物に対する西洋人の反発の強さは最近日に日に強さを増している。
本作が書かれたのは2004年だから現在に続くそれらの運動に繋がっているように感じる。作者シェッツィングはドイツ人だが、彼も海棲類にはそれらのグループに共通する愛着以上の感情を抱いているのかもしれない。

またパニック小説でありながら、登場人物のキャラクターにも彫り込んでおり、そこにもページを随分割いている。

主役の1人、レオン・アナワクは自身がネイティヴ・アメリカンの出自である事をひたすらに隠そうとする。翻って彼が忌み嫌うジャック・グレイウォルフはアイルランド人の父親とネイティヴ・アメリカンの混血児である母親の間に生まれたが故に、自身がネイティヴ・アメリカンであるアイデンティティがないのだが、逆に彼はオバノンという姓を使わず、グレイウォルフと名乗り、ネイティヴ・アメリカンたろうとする。
この両者の二律背反な位置づけは、逆にレオンをして近親憎悪を抱かせている。つまり彼はジャックが鏡に映った自分のように感じられてならなく、それがかえって彼の反感を買っているのだ。

またもう1人の主役シグル・ヨハンソンもスタットオイル社の社員で友人であるティナ・ルンを愛していると知りながら、恋人がいることを知るが故、本心を隠す。
そしてティナも恋人がいて初めてヨハンソンへの恋慕に気付かせられるのだ。

彼ら以外の脇役にも人物造形にはページを割いており、中編から陣頭指揮を執るジューディス・リーは真の天才である人生が語られ、くじけることがない強靭な精神が起因するところまでしっかりと描かれる。

ティナの退場で新たなヒロインとなるジャーナリストのカレン・ウィーヴァーもまた、どんな僻地や未踏の大地まで恐れずに身体を張って取材する姿勢が過去両親を幼い頃に亡くした際に心が折れ、転がるように堕落していった人生がある日入水自殺からの生還を期にタフな心と身体を持つに至る経緯が語られる。
彼女の造形には『砂漠のゲシュペンスト』の主役ヴェーラを想起させるものがあった。

本書3冊で登場人物表に挙げられた人数は37名。それらのほとんどにエピソードが織り込まれているからこれだけ長くなるわけだ。

さらに加えて様々な分野に関した詳細な情報がふんだんに盛り込まれており、読者の知的好奇心をそそる。
最新の深海調査内容については前述したとおりだが、他にもジョディ・フォスター主演の映画『コンタクト』で取り上げられた地球外知的文明探査機関、通称SETI―おそらく実在するのだろう。数万年後に返事が返ってくる地球外知的生命体との情報交換を生業としている国の機関があるというのはアメリカという国の懐の深さに感服する。日本ならばかつて話題となった事業仕分けで真っ先に切り捨てられることだろう―や石油会社の台所事情、津波のメカニズムについての詳細な記述、最新鋭空母についての詳細な説明、などなど、通常我々が触れることのない分野の情報が事細かに書かれている。
本書を著すにこの作者が費やした労力を考えると気が遠くなるような思いがする。

それらの中でも特に興味深かったのが、長年枯渇が叫ばれている原油について実はそれが全てではないことが書かれている。
本書によれば原油はあるにはあるのだが、それを採掘するコストと売上の採算が合わなくなってきているというのが実情らしい。自噴する油井がやがて圧力低下により、人工的に汲み上げるしかなくなったとき、莫大なコストがかかり、ここでコストバランスが崩れてしまうため、撤退せざるを得ないらしい。従って石油採掘会社は現在オートメーション化を推し進めているが、それにより従業員の大幅な解雇が問題になってきているというのだ。

また産業界と学術界の価値観の相違についても興味深く読んだ。
曰く、学術界は不明な点について明らかになるまでゴーサインは出さないが、産業界は不明点が致命的と判断されないならば、すぐさまゴーサインを出すというもの。この辺は学術探求者集団と資本主義者集団の意識の違いが如実に表されていて面白かった。

そしてこれまでの著作ではドイツ、しかもケルンと、自身の熟知したフィールドを舞台に作品を著してきたシェッツィングだが、本作ではノルウェー、カナダのバンクーバー、ニューヨークからはたまたイヌイットの住む北極、そして空母の上まで舞台がワールドワイドに展開する。なにしろ最初のプロローグの舞台はペルーの沖である。
開巻と同時に今まで読んだ彼の作品とは一味も二味も違うことが一目瞭然なのだ。

そして各地で語られる内容もまた濃密である。舞台となる場所の名所やレストランはもとより、そこに生活する人々の独特な風習や生活様式まで書き込まれている。個人的にはアナワクが父親の死を悼むために帰郷する北極圏のイヌイットでのエピソードがとりわけ印象に残った。

特に本書はイールに対抗する国として全てのディザスター作品の例に漏れずアメリカ合衆国を中心に据えており、そして例によって世界のリーダーシップを取りたがるアメリカ人の醜いエゴが揶揄的に描かれている。
この辺はフリーマントルの諸作でも常に見られる傾向だ。欧州人はやはり似たような反米感情を持っているだろうか。

とにかく派手派手しく大規模なカタストロフィを次から次へと繰り出しながらも内容は全く荒唐無稽さを感じさせない。それは上述したように作者はその1つ1つに現代科学の最新情報を織り込み、専門知識を詳細に説明しながら、それらが起こりうるべくして起こったのだと納得させる。

上に挙げたような構成だから各々ページの上中下巻という大部になるのはもう致し方ないか。しかし不思議な事に全くだるさを感じない自分が居た。むしろ毎日読むのが愉しみでパニック小説でありながらも結末を早く知りたいといった性急さにも焦がれなかった。ただこの作品に出てくる人物達の生き様や世界が崩壊していく行く末をじっくりと読みたい自分がいた。
今までシェッツィングの作品を読んできた私の感想は決して好意的ではなかっただけにこれは今までになかった感情である。

正にフランク・シェッツィングが作家として全身全霊を傾けた渾身の一作である本書。『砂漠のゲシュペンスト』で見せたエンタテインメント作家としての洗練さが花開いた感のある大作だ。
しかしだるさを感じないとはいいながらもやはり1,600ページ強はやはり長く、再読するには躊躇ってしまう。次作はもっとコンパクトにさらにエンタテインメントに徹した作品を期待したい。


▼以下、ネタバレ感想

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