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Tetchy さんのレビュー一覧

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レビュー数1433

全1433件 1401~1420 71/72ページ

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No.33: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(6pt)

キャラクターが奇抜すぎかな。

腹話術師が人形を介して推理を披露するという、キャラクターを作りすぎた感が否めない我孫子氏の第2のシリーズ。しかしこのシリーズはなんと読んでいるのだろう?腹話術師朝永嘉夫シリーズ?それとも腹話術人形鞠小路鞠夫シリーズ?ま、どうでもいいか(ここでは人形シリーズとなってますね)。

本作はその第1弾で4編収録の短編集。軽いイントロダクションといった感じ。
各編のストーリー、真相についてはもう既に忘却の彼方なのだが、それでも2編目の「人形はテントで推理する」は今でも覚えていた。これは発想の転換というか、先入観を利用したミスリードがよく効いている。たしかあとがきか解説でも作者自身お気に入りの1遍であるとの弁が伝えられており、特にチェスタトン張りのトリックが本人はいたく気に入ったようだ。しかしチェスタトンという名前が誇らしげに出てくるところを見ると、やはりミステリ作家はいつかはチェスタトンのような逆説的な作品を物するのが憧れなのかもしれない。

さて元々我孫子氏の作風はライトなのだが、このシリーズではさらにそれが強調されているように感じる。上に述べたように、戯画化が強調された主人公コンビが活躍する点も含め、ライトノベルのようなテイストが強い。だからだろうか、もう一方の速水兄弟シリーズよりもキャラクターが弱いように感じた。設定の割にはあまり残る物がない短編集であった。

人形はこたつで推理する (講談社文庫)
我孫子武丸人形はこたつで推理する についてのレビュー
No.32: 2人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(4pt)

アイデアはいいのだが…。

急逝した監督の代わりに途中まで制作された映画をスタッフで観て、結末を推理して完成させる。なんとも魅力的な謎ではないか。ミステリにはまだこんなアイデアがあったのかと文庫裏表紙の紹介文を読んでワクワクしたのが本書だ。しかも私は映画好きでもあるので、その期待は否が応にも高まった。

こういう趣向の小説には付き物の、映画に関するトリビア、含蓄はしかし意外とこちらの痒い所に手が届くものではなかった。我孫子氏はクラシック・ムーヴィーのファンらしく、モノクロ映画からカラーに移る頃の映画スターに関する言及が多かった。私はこの時代の映画には疎いのであまり興趣が湧かなかったのが残念なところだ。なんせ本書で初めてフレッド・アステアを知ったくらいなのだから。
そして本書の主眼であるスタッフが推理して完成させた映画の結末は特に意外性も感じなかった。まあ、収まるべくして収まったという感じだ。プロットが抜群だったのに、どんどん尻すぼみしていった、そんな印象の強い残念な作品になってしまった。

やはり映画を題材にしているからには映像ならではのミステリ手法を採用した方が映えるのだろう。本書は特にそう思った。だから私は未完成の映画をみんなで推理して結末を作って完成させるという大枠を生かしたまま、映像化した『探偵映画』を観てみたいものだ。

探偵映画 (文春文庫)
我孫子武丸探偵映画 についてのレビュー
No.31: 2人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(4pt)

今こそ理解できる動機かも!?

速水三兄弟シリーズ3作目はミッシング・リンク物。連続殺人が都内各所で行われるが、その被害者はいずれも無関係の他人で、共通点が一切見当たらなかった。果たして速水三兄弟が行き着いた被害者を結ぶミッシング・リンクは常識では考えられない突拍子の無いものだった、と簡単に纏めるとこうなるだろう。
このミッシング・リンクはいい意味でも悪い意味でも、著者の遊び心が出た内容だ。私は前作『0の殺人』が実に鮮やかに騙されたこともあり、今度はどんな面白い仕掛けを見せてくれるのだろうと期待が高まっていたせいか、この真相は肩透かしを食ってしまった。
しかしこの稚気性が高く、非道徳的な真相は逆に云えば、今日性が高いかもしれない。ただこれはあくまで最大限の譲歩であり、やはりワンアイデア物の小品であるといわざるを得ないだろう。

本作以降、この速水三兄弟は我孫子作品にはお目見えしていない。作者のユーモア感覚を代弁するのに最適のキャラクターだっただけに本作で退場してしまうのが惜しまれる。最後に彼ら三兄弟に花道を渡す意味でも、いつかまた再登場願いたいところだ。

メビウスの殺人 (講談社文庫)
我孫子武丸メビウスの殺人 についてのレビュー
No.30: 8人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(10pt)

綺麗にダマされました!

シリーズ2作目はいきなり作者からの注意事項が述べられている。それは「容疑者は4人で、さらにその容疑者は減っていく、したがって多くの方はこの事件の真相を見破れるだろうけど、百人に一人は見破れないかもしれない」といった趣旨の文章だ。
もちろん、一ミステリ読者としては見破れらいでか!とばかりに勢い込んで読むながら推理するがいやあ、ものの見事に百人の一人になってしまった。
コメディタッチの軽い文体はクイクイ読み進めてしまうので、推理が組立てられないまま、終わりに向かってしまう。でも本書においては真相を見抜けなかったことが全然悔しくなく、むしろ爽快感が得られる。これほど綺麗に騙されると非常にすがすがしい。読後、誰かに勧めたくなる作品だ。本当はもう一つ付け加えたい賛辞があるが、それをいうと頭のいい人は察してしまうので止めておこう。

しかし思えばこの頃から異色の存在ではあったんだろう、その後の彼のミステリ作家としての道のりはいわゆる新本格作家たちとは違う方向に進む。前述したゲーム『かまいたちの夜』の原作者という他ジャンルへの係わり合い、もう無くなったが電子書籍サイトE-Novelの立上げなど、様々なことにチャレンジしている。他のミステリ作家が本格ミステリの本道を極めんと内側に意識が向かっているのに対し、彼はミステリで何か他に面白いことが出来ないかと本という媒体を越えて興味が外側に向かっているのが特徴的だ。

さて『殺戮に至る病』が未読の私は本作が我孫子氏のベスト。したがって私は躊躇なく10点を献上する。ちょっと最近10点が連発しているが、これはまだミステリ初心者であった私が読んだ作品群であり、その初読の印象に基づいて採点していることによる。つまり島田氏から端を発する綾辻氏、法月氏、我孫子氏、歌野氏の一連の新本格作家達の諸作品が私にとってミステリの黄金体験なのだ。
10点の割には少ない感想だが、これは未読の方はぜひ読んで欲しい。軽~く読んで、スパッと騙されて下さい。

0の殺人 (講談社文庫)
我孫子武丸0の殺人 についてのレビュー
No.29: 3人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(6pt)

新本格の入門書

現在ではミステリ作家としての名もさることながら、むしろゲーム『かまいたちの夜』の原作者の方が名の通っている感のある我孫子氏。私が彼の作品に触れたのは大学の頃で、まだこのソフトは発売されていなかった。逆に云えば、先に彼の作品を読んでいたからこのソフトに期待し、実際買いもした。

さて彼の作品の最大の特徴は当時ほぼ同時にデビューした綾辻氏、法月氏、歌野氏にはない、コミカルな作風にあるだろう。一読してビックリするのはものすごい軽さ。しかもページ数も他の3人に比べると格段に少ないので、あっという間に読めた記憶がある。
しかしやはり作風は異色とはいえ、最初のミステリは館物と、定型は守っているようだ。気づいてみれば綾辻氏、法月氏、歌野氏のデビュー作は全て館物だ(法月氏は舞台は学校だが、校舎も一つの大きな館だ)。

さて本作では8の字屋敷という、その名そのまんまの8の字の形をした屋敷で起こる2つの密室殺人を扱っている。
で、実は本作は私がもっとも早く犯人を見破った作品でもある。どの段階でと書くと、それだけでもうネタバレになってしまうので書かないが、もうそれはかなり早い段階だった。
だから第1の殺人に関するインパクトは非常に希薄で、逆に第2の密室殺人の方が強く印象に残っている。シンプルが故になるほど!と思ったトリック(?)だった。

この『8の殺人』はシリーズになっており、その後『0の殺人』、『メビウスの殺人』と続く。このシリーズは速水三兄弟という兄が刑事で弟が喫茶店経営、一番下の妹が大学生という3人が探偵役を務めているが、これがまず設定として成功していると思う。ホームズとワトソン2人ではなく、3人、しかも女性を絡めたのがミソだろう。この3人の掛け合いがボケとツッコミ、イジラレ役と絶妙なトリオをなしており、物語の潤滑油となっている。私は笑いこそもっとも難しい技術だと思っているので、我孫子氏が一番作家としては他の三人よりも長けているなぁと思ったものだ。ライトノベルに親しんだ学生がちょっと背伸びしてミステリに手を出そうとした時、我孫子氏の作品はいい入門書になるだろう。
薄さの割にはカー張りに密室講義も盛り込まれており、このへんがやはり他の新本格ミステリ作家同様、マニアであることを自称しているように取れる。この密室講義では古今東西の密室ミステリに触れられているがネタバレまでには至ってなかったように記憶している。

しかし我孫子氏のデビュー作である本書はミステリの水準から云えば、並程度と云えよう。本作はキャラクター性ゆえにこの作家を追いかけようと思った覚えがある。しかしその思いは次の『0の殺人』でいい意味で裏切られる。

8の殺人 (講談社文庫)
我孫子武丸8の殺人 についてのレビュー
No.28: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

期待しすぎました

実は大学生の頃に読んだのは『頼子のために』までで、その後別の作家に移った。これは単純にその頃出ていた彼の作品の文庫が『頼子のために』しかなかったからだ。本作を読んだのはかなり後で、数年経った頃。そして本作は『頼子のために』と『一の悲劇』と合わせて悲劇三部作という謳い文句でもあり、しかも先に書いた感想でも解るように、私の中では読後数年を経て、『頼子のために』の記憶は美化されていた。手にした時の期待感は推して量るべしだろう。

まず前知識としてあったのは「悩める探偵法月綸太郎」というキャッチフレーズだ。前作で「後期クイーン問題」に直面した法月氏(この場合、作者と作中登場人物両者を指す)は自らの存在意義を見出せず、苦悶する日々を送っている。シリーズでも最長を誇る本作は、実はこの悩みのためにほとんど進まないといっていい。本作の大半は法月氏の内部葛藤と答えの見えない問いに対する自問自答で覆いつくされている。確か精神錯乱者の書いたような内容が暴走している章もあったように記憶している。

この悩みのため、実は事件そのものに関する記憶が希薄。刺された被害者であったアイドル歌手が失神から回復すると無傷であり、刺した加害者が逆に刺殺体となって横たわっていたというパラドクシカルな発端だったが、結局どんな真相だったのか覚えていない。しかしもしこれを今読むと評価はもっと下がるのは確実だろう。『頼子のために』でも最後に探偵法月が犯人に下した所業について不評の声が上がっているのを目にしたが、本作でも法月警視が行った行為は一警察官とは思えぬ乱暴な行動を取っている。あいにくこの辺については当時全く考慮が届かず、そのまま読み飛ばしてしまったが、もしかなりミステリをこなした今ならば、その時点でもうこの物語を受け入れられないことは間違いない。だからあえて本書は再読しないようにしておこう。ついでに美しい読後感保持のためにも『頼子のために』も同様である。

結局延々と繰り返される法月氏自身の問題は結局答えは出ず、これはなんと『生首に聞いてみろ』が出るまで続いた。そしてどうやら『生首~』では、吹っ切れたように悩める法月の影はなく、淡々と探偵の役割を果たしているようだ(未読なので以上の話は各種の書評から受け取った私の印象)。

調べてびっくりしたのは、本作はなんと絶版になっているらしい。法月綸太郎といえばけっこうネームヴァリューもあると思うのだが、絶版になったりするんだなぁ。これはやはり上に書いた警察官とは思えぬ法月警視の行動によるところが大きいのだろうか。
本作で一応私が読んだ法月作品の感想は全て挙げた。振り返ると大した事書いてないなぁと思わざるを得ない。でもこれはこれでよしとしよう。

ふたたび赤い悪夢 (講談社文庫)
法月綸太郎ふたたび赤い悪夢 についてのレビュー
No.27: 3人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(10pt)

背筋がゾクッとした。

今までの法月作品の解説に頻繁に出てきていたのが本作のタイトル。どの書評家も法月氏といえば本作を俎上に上げていた。そこで目にしたのは「ロス・マクドナルド主題によるニコラス・ブレイク風変奏曲」、「法月綸太郎4作目にして早くも後期クイーン問題に直面」という、ミステリマニアならではの表現。ロス・マクドナルドもニコラス・ブレイクも、そしてクイーンさえも当時読んだ事の無かった私にはどんな物かも想像もつかなかったが、なにやら面白そうな匂いはプンプンしていた。
そんなことから期待して読んだ本書だが、読後、これは確かに傑作だと思った。

物語は娘頼子を亡くした父親の復讐譚という手記で始まる。これがなんとも重い話だ。警察の捜査に納得いかない父親が高校生だった娘の死の謎を探り、それが担任教師との肉体関係にあることを突き止め、彼を殺害し、絶望して自殺を図るが未遂に終る。これだけでも重いが、この真相はさらに重い。学校からスキャンダル隠しのため、父親の警視経由で事件の調査を依頼された探偵法月により、愛憎が入り混じった家庭内の悲劇が暴かれる。どの家庭でも起こりそうなよくある事件が、頼子の家庭に落とした翳が、それぞれの心に渇望感を与え、愛を歪めた結果、悪夢のような結果を招く。

昨今の読者諸氏の感想では、あまりに都合的すぎて、しかもなんだか理解できないところが多い、法月は探偵として力量不足だ、などという批判的なコメントをよく目にするが、私はそうは思わない。無論、本作を読んだ時期は私がまだミステリ読者としてそれほどこなれていなかったせいもあるのだろうし、もし今再読すれば、ところどころに粗が見えて、以前よりも素直に賞賛できないかもしれない。しかし、私は当時の読後感を尊重したい。私は本作で新本格という言葉を意識した。確かにコレは新しい本格だなと。

しかし数年後、私はロス・マクドナルドの諸作を触れるに至り、この認識が過ちだったことに気づく。私が新しい本格だと思った事は既にロスマクによってなされていた。そしてロスマクこそはハードボイルド作家ではなく、本格ミステリ作家なのだという思いを強くする。
しかし本作が法月氏のターニングポイントであると云われているように、私にとっても本作がターニングポイントであった。本作がなければ、私は彼の作品を読み続けようと思わなかっただろう。


▼以下、ネタバレ感想
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新装版 頼子のために (講談社文庫)
法月綸太郎頼子のために についてのレビュー
No.26:
(5pt)

こねくり回し過ぎ!

法月綸太郎3作目で・・・、いい加減しつこいので止める。

名探偵法月綸太郎シリーズ2作目は新興宗教グループで起こる教祖の殺人を扱った事件。本作ではくどいくらいに探偵法月による推理のトライアル&エラーが繰り返される。このスタイルは当時現代英国本格ミステリの雄だったコリン・デクスターの作風を踏襲したものだ。前作がカーで、本作がデクスター、第1作目は似非ハードボイルド風学園ミステリと作品ごとに作風と文体を変えていた法月氏。よく云えば器用な作家、悪く云えば決まった作風を持たない軸の定まらない作家である。

こういうトライアル&エラー物は何度も推理が繰り返されることで、どんどん選択肢が消去され、真相に近づくといった通常の手法に加え、堅牢だと思われた推理が些細なことで覆され、現れてくる新事実に目から鱗がポロポロ取れるようなカタルシスを得られるところに醍醐味がある。しかしそれは二度目の推理が一度目の論理を凌駕し、さらに三度目の推理が二度目の論理を圧倒する、といった具合に尻上がりに精度が高まるにつれて完璧無比な論理へ到達させてくれなければならない。それはあたかも論理の迷宮で彷徨う読者へ天から手を差し伸べて救い上げる行為のように。
しかしこのトライアル&エラー物が諸刃の剣であるのは、それが逆に名探偵の万能性を貶め、読者の侮蔑を買うことにもなるのと、論理が稚拙で魅力がないと単なる繰言に過ぎなくなり、読者に退屈を強いることになるのだ。そして本作は明らかに後者。繰り返される推理がどんどん複雑化して読者の混乱を招き、もはやどんな事件だったのかでさえ、記憶に残らなくなってしまった。実際私も本稿に当たる前に記憶を呼び戻すために色々当たってみたら、こんな話だったのかと思い出した次第。したがってこの感想を読んだ方はお気づきのように、今まで私が述べてきた内容は本書の中身に関する叙述が少なく、読後の印象しか滔々と述べていない。とにかく読み終わった後、徒労感がどっと押し寄せてきたのを覚えている。

しかし今回調べてみて読んだ当時気づかなかったことが1つあった。それは事件の当事者である甲斐家と安倍家という2つの家族の名前だ。双子という設定も考慮するとこれは聖書に出てくる「カインとアベル」がモチーフとなっている。そういったバックストーリーを頭に入れて読むと、案外理解しやすいのかもしれない。
お気づきのようにここまでの法月作品に対する私の評価というのはあまり芳しくない。しかしこの評価は次の『頼子のために』で、がらっと変わることになる。

誰彼(たそがれ) (講談社文庫)
法月綸太郎誰彼 についてのレビュー
No.25: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(4pt)

ごく普通の本格ミステリ

法月綸太郎2作目で名探偵法月綸太郎初登場作品(ややこしい)の本書は実にオーソドックスなミステリ。本格ミステリの趣向の1つにクローズドサークル物を称して“雪の山荘物”と呼ぶが、これは正にそのど真ん中の設定だ。

雪山のペンションに集った人たちにはそれぞれ思惑を秘めており、そして離れの密室で殺人が置き、そこには犯人と思しき足跡が残っているのみだったという、これまた定型中の定型だ。本書は開巻してまもなくエピグラフに確か「白い僧院はいかに改装されたか」なる一文が記してあった記憶がある。これは都筑道夫のエッセイ集『黄色い部屋はいかに改装されたか』の語呂合わせだが、このエピグラフは法月氏が新本格という単語に過敏に反応していたようにも取れる。黄金期の名作を換骨奪胎して新たな本格を、という作者の意気込みが込められていると読み取るのは穿ちすぎだろうか。この時はまだ本家を読んだ事が無いので比べようが無かったのだが、後に本書の原典となっているカーター・ディクスンの『白い僧院の殺人』を読んだ時はそのシンプルな真相に思わず「あっ!」と声を上げるぐらい驚いた。しかし本書についてはそれは全く無かった。ふ~ん、なるほどねというくらいだっただろう。本稿を書くのに、色々調べたのだが、“読者への挑戦状”が挿入されていたことさえ忘れていた。
薄いので記憶を刷新するためにも一度読み直して原典と比べてみるのもいいかもしれない。

雪密室 新装版 (講談社文庫)
法月綸太郎雪密室 についてのレビュー
No.24: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

こんな高校生いるか!と当時は思ったものだが…。

法月綸太郎と云えば、クイーン同様、作者と同名の名探偵が活躍(?)する法月綸太郎シリーズが有名だが、デビュー作はノンシリーズの学園ミステリである本作である。本作についてはその後ノーカット版が刊行されたようだがそちらは未読。
まず開巻一番に驚くのは目次に書かれた章題の多さ。確か60くらいあったように思う。綾辻氏の作品を読んでから、新本格ミステリ作家はそれぞれこだわりがあるのだろうと思っていたがこんなところにこだわりがあるのかとちょっと引いた記憶がある。それらの章題もハードボイルド的でなんだかキザな感じを受けた。
中身を読むと確かにキザだ。登場人物全てがなんだか精神年齢が少し高く、自分が高校生の時と比べると老成しているように感じた。しかしどこか青臭さ、高校生特有の全てを悟ったように物事を斜めに見るようなヒネた物の云いようは確かに高校生らしくもあるが、身近にこんな輩が居たら、かならず喧嘩を売っていたに違いない。

さて本書では島田氏が御手洗シリーズで本家シャーロック・ホームズを非難したのと同様に、本書でも法月氏が信奉するクイーンを非難する場面が現れる。それは主人公の担任の口からクイーンの『チャイナ橙の秘密』について痛烈な感想が開陳されるのだが、これを読んだ私はこの件を思い出して、思わず頷いてしまった。「まさになんなんだ、あれは」の作品だったからだ。この辺について語ると脱線してしまうので、ここら辺で止めておこう。

さて本書では教室から出された机と椅子の謎。血まみれの教室、密室の謎などが1人の高校生によって暴かれる。名探偵気取りの主人公(工藤くんだったかな?)がクラスメイトに訊き込みをし、教師と警察の睨みを交わしつつ、真相に肉薄していく(警察いたよな、確か)。
学園ミステリは私は好きなのだが、本作はあまり好きではない。不思議にこの作品を読んで私の高校生活を思い出すことが無かったからだ。初期の東野作品に活写される高校生活、有栖川有栖氏の大学シリーズの大学サークルの描写などノスタルジーに駆られることしばしばだが、本作にはどこか別の国の高校のような気がして、いまいちのめり込めなかった。多分その理由の大半は私が全く主人公に感情移入できなかったことによるだろう。
しかし読んだ当初はあまりこの作品から汲み取れる物は無いと思ったが、あの真相は高校生が読むと案外ショックなのかもしれない。高校生が気づく信頼関係が崩壊する衝撃があると今になって思うのだが、高校生諸君は一体どういう風に思うのだろうか。いつか意見を聞きたいものである。

密閉教室 (講談社文庫)
法月綸太郎密閉教室 についてのレビュー
No.23: 2人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(10pt)
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この凝りようが堪らない!

迷路館。
この題名を見たときにようやく本格ミステリらしい館が出てきたと思った。しかし表紙絵は記念碑のようなオブジェが森の彼方に見えるだけで「あれ?」と思ったものだが、開巻するやいきなり妙に凝った装丁だったのに驚いた。本の中に本がある、しかも講談社ノベルスを何から何まで模倣したそのデザインにニヤリとした。こういうのを作中作という趣向だというのを本書の解説で初めて知ったのだから、いかに私がまだヒヨッコだったのかが解るだろう。
しかも中に収められた館の間取り図はもう生活すること自体を全く無視した本当の迷路が館の中に組み込まれてあり、逆に私は「コレだよ、コレ!」と喜んだのを覚えている。ここまで奇抜な館を用意するとリアリティ云々は吹っ飛んでしまい、もうその異質な世界で繰り広げられる殺人劇を今か今かと不謹慎ながら待ち受けるだけであった。
建築関係の仕事に進んだ今だとこの館を見てすぐに「ありえない」と一笑に付すだろう。なぜなら日本の現行の建築基準法に全く適っていないからだ。しかもこれが日本で名高い建築家の手になる仕事だというのだから、抱腹絶倒、荒唐無稽とは正にこのことである。しかし当時学生だった私はそんなことは露知らず、純粋に物語に没頭することが出来た。これこそその時が私にとって読むべき時期だったのだと今になって思う。ちなみに私の専攻は土木であり、建築学は全くの門外漢であった。しかし就職すれば会社はそんなことには頓着せず、土木も建築も一緒くたでせざるを得なくなる。まあ、でもこれはいい誤算ではあった。

さてそんな館を用意した綾辻氏はさらに本格ミステリ好きの中枢神経を刺激する設定を放り込んでくる。その館の主は宮垣葉太郎という本格ミステリの巨匠であり、そこで彼の弟子とも云える新進作家たちを読んで競作を行い、優れた作品を書いた者には彼の名前を冠した賞と賞金を送るという設定。いやあ、堪らない設定だ。しかもこのシチュエーションは当時の新本格シーンを牽引し、若い本格ミステリ作家を推薦して次々とデビューさせた島田氏、そしてその推薦を受けた綾辻氏、法月氏、我孫子氏、歌野氏の境遇をそのまま投影したようで、フィクションながら一部ノンフィクションのような錯覚を覚えた。だから作中に出てくるそれぞれの作家、評論家、編集者の実際のモデルは誰なのだろうと空想に耽ったりもした。

しかし、これだけミステリ好きをくすぐる設定は冷静に眺めると非常に異様な光景である。なにしろこの競作は宮垣氏が自殺した状況下で行われるし、こんな住みにくい迷路の家にこもって創作すること自体もまた異様だ。そして連続殺人事件が起こるのだが、それでも逃げ出さず、館に居続け、捜索を続ける彼らは狂気の作家達と云えよう。全てが終わり、事が公になったとき、果たして彼らの社会的評価というのはどうなるのか?などという懸念が今更ながらに湧いてくる。

しかし本書を読むのにそんなことを気にしてはいけない。本書は日本に似たどこか別の国で行われた事で捉えるぐらいの寛容さで臨めばかなり楽しめる作品で、私は館シリーズで2番目に好きな作品である。迷路館という特殊な館を存分に活用したトリックに加え、事件が終った後で判明する真相にはかなり驚いた。館シリーズと呼ばれるこのシリーズで初めて館が主役となった作品だと思う。

ちなみにここで出てくる宮垣氏の畢生の大作『華麗なる没落のために』はその実、鮎川哲也氏の未完の作品『白樺荘事件』を指していたのではないかと私は思っている。まだ見ぬ巨匠の作品を一刻も早く読みたい、そしてそれは巨匠最後にふさわしい傑作に違いないという思いが込められているように感じた。

で、ミステリを数こなした今、この3作を振り返ると綾辻氏はトリックとロジックという本格ミステリの王道と思われがちだが、実は叙述トリックの使い手でもあるということ。その分野では折原氏の名が広く知られているが、この館シリーズ3作は全て叙述トリックが仕掛けられていることに気づくだろう。どこかの対談かコラムで作者自身、叙述トリックこそが本格ミステリにおける最後の砦のようなことも云っていた記憶がある。
叙述トリックはその名自体がネタバレという人もいるが、私は一つの意見として受け取るに留めている。なぜなら優れた叙述トリックはそれを意識しても看破できず驚きをもたらすからだ。

とりあえず綾辻作品は本作で一旦休憩。次の作家に移るとしよう。

迷路館の殺人<新装改訂版> (講談社文庫)
綾辻行人迷路館の殺人 についてのレビュー
No.22: 3人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

2作目のジンクス?

『十角館~』で俄然綾辻氏の次の作品への渇望感を感じた私は間髪入れずに本作へ手を伸ばした。いきなり始まる車椅子に乗った仮面の男と美少女という横溝的な設定は、1作目で綾辻氏の、本格ミステリのもっともディープな部分を好む性癖を知っていたので、今回は抵抗無くすんなりを物語世界に入っていけた。

結論を云えば、本作は水準作と云えるだろう。『十角館~』と比べると、などといった枕詞は必要なく、客観的にミステリの一作品として見た正当な評価である。なにしろ私には珍しく物語り半ばで犯人とトリックが解ってしまったので、その後の展開が犯人側の視点で読めた。物語を裏側から眺めるように読めたのは本作ぐらいだった。
しかし本書では異端の建築家中村青司を意識してか、本書の水車館は前作の十角館よりもなかなかにデザインが凝っている。十角館が案外にコテージとあまり変わらない建物だったのに対し、この水車館は城郭のような形をしており、ドラクエに出てきたようなどっかの国の城のようなデザインである。この狭い日本ではこれほど建ぺい率の低そうな個人の屋敷もないなぁと思うような非常に贅沢なつくりである。

かてて加えて、前作が孤島と本土の距離的な断絶、つまり彼岸と此岸で語られていたのに対し、本作では過去と現在という時間の隔離があるのが特徴。そしてその2つの間では微妙に叙述表現が変わっているが、これももちろん真相に大いに関わってくる。
さらに幻視家という特異な職業は(まあ画家の一種なのだが)、当時大学生の私の心を大いにくすぐり、その印象的なエンディングをそのまま使ってクイズを作ったくらいだった。
しかし本書の水車館はミステリとしての出来は普通であり、また水車という屋敷に備えられた印象的なオブジェがトリックにほとんど寄与していないというのが不満。
しかしこの不満は次作『迷路館の殺人』で一気に解消されるようになる。

水車館の殺人 (講談社文庫)
綾辻行人水車館の殺人 についてのレビュー
No.21: 5人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(10pt)

やはりあの一行でしょう!

さて島田氏の御手洗シリーズで本格ミステリに開眼した私は同傾向の作品を読もうと各ガイドブックなどに手を伸ばすようになったり、『このミス』などランキング本を読み漁ったりするのだが、その中で「新本格」という単語に行き当たった。
色々調べてみると、松本清張以後、本格冬の時代と云われていた日本ミステリシーンにかつてのガチガチの本格ミステリを復興させようという動きを新本格といい、なにも今までにない斬新な本格という意味ではなかった。そしてそのムーヴメントの中心にいる人物こそがなんと島田氏その人だというのだから、これは何がなんでも読まなければならぬとそこに名を挙げられていた綾辻氏、歌野氏、法月氏、我孫子氏4氏の諸作を本屋で探し、一気に買い込んだ。

そしてまずは綾辻氏の本書から手を付けることになった。既に私が本作を買ったときには既に『迷路館の殺人』まで文庫は出ており、しかも「綾辻以前綾辻以後」なる形容詞まで付いているのにはびっくりした。
で、そんな前情報が期待を膨らましつつ、開巻したところ、実はお互いをあだ名で呼び合う登場人物たちにドン引き・・・。しかも彼らのあだ名が全て海外古典本格ミステリの大家のファーストネームで、いかにもミステリマニアが書きましたというテイストに、うわぁ、これ読めるのかなぁとすごく心配したが、物語が進むにつれて慣れてきた。
探偵役として現れた島田潔の名前にニヤリとしつつ、奇想の建築家中村青司が設計したというわりには十角館って普通の建物だよなぁなどと思いつつ、読み進めていった。

そして私も驚きましたよ、あの一行に。まさに時間が止まり、「えっ!?」という思いと共に足元が崩れる思いがした。しかもあの一行が目に飛び込んでくる絶妙なページ構成にも唸った。一行に唸ったのは星新一の「鍵」以来だった。
実は犯人はすぐに解った。だから答え合せしたくて早く解決シーンに進みたくて、忸怩しながら読んでいたが、この一行で自分の甘さに気づかされた。というよりも犯人が解ってなお、これほどの驚嘆を読者に与える作品というのがあるのかと心底感心したのだ。そしてまだまだミステリの奥は深い、確かにこれは「新」本格だ、などとミステリをさほど読んでいないのに一人悦に浸っていた。

今でも読み継がれ、新しい読者に驚きをもたらしている本書は歴史に残る傑作といえよう。こうして綾辻氏の名はこの1作で私の脳裏に深く刻まれることになった。

十角館の殺人 (講談社文庫)
綾辻行人十角館の殺人 についてのレビュー
No.20: 6人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(10pt)

我が読書人生永遠のベスト

今まで焦らすように引っ張ってきたが、本書が私を島田信奉者にした作品である。そしてこの作品は私の読書人生の中で未だに永遠のベストとして燦然と輝いている。

私が読んだのはハードカバー版で、確か講談社の何十周年かの記念書き下ろしシリーズの1冊として刊行されたらしく、えらく豪奢な装丁だったのを覚えている。
特に西洋画で描かれた馬上の騎士の表紙絵が飛び出してきそうなほど迫力があり、果たしてどんな物語かと胸躍らせた。
しかしこの表紙とは全然無関係の話が展開される。物語の舞台は騎士が出てくるような西洋の街やお城ではなく、関東の公園で記憶喪失の主人公が目が覚めるところから始まる。その後彼は周辺を彷徨い、紆余曲折を経て知り合った石川良子という女性と同居するようになる。そしてこの2人の生活が語られるのだが、これが実に私の心をくすぐった。当時学生だった私にとって彼らの年齢が近いこともあり、そう遠くない将来の生活のように見えたからだ。そしてこの2人の生活は貧しいけれど小さな幸せというありきたりなモチーフながら、私の願望を具現化したような形だった。
そして、物語は意外な方向に進む。それは・・・いや詳細を語るのは止めておこう。思いの強さゆえ、微に入り細を穿つように述べてしまいそうで、これから読む方々の興を殺ぎそうだから。ただ颯爽と現れる御手洗の姿にはきっと快哉を挙げるだろう。これは今でも私には全てのミステリの中でも最高のシーンである。そしてなによりも謎解きを主体としたミステリでこれほど胸を打ち、感動するとは思いもよらなかった。本作で御手洗ファンとなった女性が増えたように、私もこれで御手洗、いや島田ファンになり、こんなミステリを書く人はきっと素晴らしい人に違いないと信奉するまでに至った。これは今でも同じだ。

本書で教えてくれたのは人を愛することの温かさ、苦しい時にこそ助けてくれる友人を持つことが人間にとってかけがえのない宝石だということだ。それを教えてくれた島田荘司こそ、私にとって異邦の騎士その人だと思うのである。


▼以下、ネタバレ感想
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異邦の騎士 改訂完全版
島田荘司異邦の騎士 についてのレビュー
No.19: 2人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

御手洗初体験の短編集でした

本書が私の実質的島田作品初体験の作品である。それは私が大学1年の時だった。確かある月曜日の社会学の講義の際にいつもつるんでいた友達のうち、O君が読んでいた本がこの作品だった。なにげに「何、それ?面白いの?」と聞いたところ、「読んでみる?俺もう読んでるからいいよ」と云って貸してくれた。
その授業は本書の最初の1編「数字錠」を読むことに変ってしまった。

結論を云えば、なかなか面白かったというのが本音。それよりも文章の読み易さにびっくりした記憶がある。先にも書いたが、当時私は久々に読む推理小説にブラウン神父シリーズを読んでおり、その読み難い文章に「こんなもんなんだろう」と思いつつ、難解な文章を読み解くことがあえて読書の愉悦をもたらすのだ、と思っていたが、本書を読んでから、実はそれがとんでもない間違いだと気づいた。御手洗と石岡が依頼を受けて捜査するその過程は臨場感があり、云ったことのない東京や横浜の街並みも、異国の風景描写より遥かに理解しやすかった。
その90分の授業で読み終わったのはこの1編のみ。「面白かった!」といって返しそうとしたら、貸してくれるというので遠慮なく借りることにした。思えばこの時既に彼の策略にはまっていたのだ。

で、本作の感想は上の評価の通り。普通に面白いといったところ。一般的に評価の高い「数字錠」だが、私はあまりそれほど感銘を受けなかった。後で御手洗シリーズに没頭しだして、この作品以降、御手洗がコーヒーを飲まなくなったのを改めて知った。

私にとって本書の目玉は2編目の「疾走する死者」である。これはもう御手洗の演奏シーンの素晴らしさに大いに魅了されてしまった。文字で書かれた演奏シーンから超絶技巧のギタープレイが奏でる爆音が、流麗なフレーズが聴こえてくる思いがした。いや実際頭の中では音楽が駆け巡っていた。この作品での御手洗のカッコよさは随一である。
満足の体で読了した私は本を返す際に「他にもない?」と訊いたのは云うまでもない。そしてそのとき既にO君の手には『占星術殺人事件』の文庫が握られていたのだった。

御手洗潔の挨拶 (講談社文庫)
島田荘司御手洗潔の挨拶 についてのレビュー
No.18: 3人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

シリーズ物として読むべき1冊

さて『占星術殺人事件』で颯爽と登場した御手洗潔だが、第2作目の本書は本格ミステリの王道とも云うべき館物だ。そして奇想島田氏はやはり普通の館では勝負を仕掛けない。タイトルにあるように全体が斜めに傾いだように建てられた斜め屋敷なのだ。この斜め屋敷、その特異な建てられ方故に滞在する人は遠近感がとりにくいという錯覚を覚える。よく遊園地などにあるびっくり舘と名づけられたアトラクション内で見られる、同一線上に立った大人と子供の背の高さが逆転するというあれだ。そんな話が本作には盛り込まれているのだが、実はそれこそ島田氏のミスリード。この館が建てられた目的こそ、ここで起きる殺人事件の真相に大いに関わっているのだが、これがもう唖然とする。常人であれば理解できない目的だ。この真相ゆえに「世紀のバカミス」とまで云われているが、この評価は致し方あるまい。恐るべき執念というよりも金持ちの道楽としか・・・おっとこれ以上はネタバレになるのでよそう。

本書に関する評価は案外高いが、私はこれに首を傾げてしまう。確かにこのトリックは読者の想像を超える物だが、ミステリとしてどうかと問われれば、佳作かなぁと思う。あの『占星術殺人事件』に続く2作目として発表された御手洗物という称号がどうしても付き纏う本書は、前作と比べざるを得ない運命にある。それと比べるとなんだか普通に物語は流れ、結末までミステリの定型を保って進行する。物語としての熱が前作に比すると減じているように感じるのだ。確かに誰しも初めての小説というのは今後の人生を大きく変える分岐点と成り得る可能性を秘めているのだから、自然、気迫がこもるのも無理はないだろう。しかし作家には1作目よりも2作、3作目としり上がりによくなる作家もいるわけで、そういったことを考えれば、この作品はもう少し推敲すべきではなかったかと思う。しかしこれは単なる私の個人的な嗜好によるものなのだろう。過去何度も行われたオールタイムベストでも100位以内に本書は選ばれているのだから。

あと、意外に他者の感想で語られないのは本書の文体。前作が通常の物語の文章に加え、冒頭のアゾート製作の手記、そして最後の犯人の告白文と複数の文体を駆使していたのに比べ、本作はなんだか文章が幼いような印象を受けた。小学校の教科書で読むような物語の文体、極端に云えばそんな感じだ。しかしネットで色々な感想を読んでもそのことには触れられていないので、もしかしたらこれも単純に私の嗜好によるものなのかもしれない。
本書でも犯人や塔の模様の謎(これは簡単だったね)は解ったものの、トリックは解らなかった。ただ本格ミステリでは真相が明かされた時に読者が感じる思いは概ね4種類に分かれると思う。

1番目はそのロジック、トリックの素晴らしさに感嘆する物。これこそが本格ミステリの醍醐味である。
2番目は解らなかったものの、特段感銘を受けなく、なるほどねのレベルで終わる物。ほとんどこのミステリが多い。
3番目は解らなかったものの、なんだこりゃ?と呆気に取られるもの。バカミスと呼ばれる作品がこれには多い。
4番目は真相が読者の推理どおりだったもの。これもまた作者との頭脳ゲームに勝利したというカタルシスが得られる。

で、本作はこの4分類のうち、3番目に当てはまる。しかしギリギリ許容範囲かなと思えるのが救いだ。実際本当にこのトリックが成り立つのか一度実験したいとは思うが。特に天狗・・・おっとヤバイヤバイ。
しかし雪上での殺人や屋敷の中での密室殺人など、好きな人には堪らない作品だと思う。また本作は後々のことも含めて、御手洗シリーズで読んでおいた方がいい作品ではある。その理由はここではあえて云わないでおこう。

改訂完全版 斜め屋敷の犯罪 (講談社文庫)
島田荘司斜め屋敷の犯罪 についてのレビュー
No.17: 7人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(10pt)

私をミステリ好きにした傑作

私がミステリをここまで本格的に読むようになったのは、この島田荘司との出逢いがきっかけであった。つまり島田のミステリが私にミステリ読者の道へと導いた。だから私にとって島田の存在というのはかなり大きく、神として崇めているといっても過言ではない。一生追い続けると決めた作家、それが島田だ。

とはいっても本作が私にとって初めて触れる島田ミステリであったわけではなく、最初は『御手洗潔の挨拶』であった。その経緯については『~挨拶』の感想に譲るとして、本作はその次の島田作品だった。
実際私は『~挨拶』を楽しく読み、面白いからもっと貸してとその友人に頼んだところ、持ってきたのが本書。まず最初の印象は、題名に引いたというのが正直なところ。いまどき『○○殺人事件』というベタなタイトルと、古めかしいイラストが描かれた文庫表紙は、もし私が本屋でその本を見ても手を伸ばさない類いのものだったし、本屋でその友達に「この作品面白いよ。お勧め。買って読んでみて」と云われても決して買わない代物だった。ちなみにこの時借りた文庫の表紙は新たなイラストでノベルス版(書影がそれですね)が出版されたが、今現在でもそのままだったように思う。私が後に買った文庫版も同じ表紙だ。
ということで、その表紙とタイトルのせいもあり、実は借りるのには前向きにならなかったのだが『~挨拶』が面白かったので読んでみるかと軽い気持ちで手に取った。

本書を途中で断念した読者の中には冒頭のアゾートの話がかなり読みにくい文章だったという人がけっこういるらしい。しかし海外の古典を読んでいた私にとってはこのくらいの文章は全然大丈夫で、むしろ読みやすいくらいだった。前に挙げたブラウン神父シリーズと比べてみれば一目瞭然だろう。

さてこの6人の娘のそれぞれ美しい部位を繋げて至高の美女アゾートを作るというこの冒頭の怪しくも艶かしいエピソードはいきなり私の読書意欲を鷲掴みにし、ぞくぞくとした。昔乱歩の小説で読んだ淫靡さを感じたものだ。
その後、名探偵御手洗登場。この昭和11年に起き、その後何年間も解決できなかったという事件に御手洗が挑む。

で、この本を読んだ当初、この事件は実際にあった話だったのかというのが友達の間で話題になった。本を貸してくれたO君は実際にあったと云っていたがその真偽は今でも定かではない。その後の島田作品にはこういう虚実を混同させるような叙述があるので、私は創作だと思っている。というのもその後乱歩、海外古典を読んでいくと、本作のように「明敏なる読者諸氏ならばご存知であろう、あの世間を騒がし、国民を恐怖のどん底に陥れた忌まわしい事件」という件が続々と出てくる。さながら探偵小説ならびに推理小説の枕詞として当然付けなければならないコピーのようだ。

さてこのアゾート事件を捜査する御手洗は当初自信満々で、京都の人形師の許を訪れたりとかなり活発な動きを見せる。しかしやがて捜査は行き詰る。この辺の相棒石岡の絶望感をそそる語り口がいい。
そして真相に思い当たり快哉を挙げ、狂喜乱舞する御手洗にかなり笑ってしまった。
そして挿入された「読者への挑戦状」に戸惑ってしまった。なぜなら私はこのとき犯人までしか推理できていなかったのだ。
私は何故かトリックやロジックが解らなくても、なぜか犯人が解るということがよくある。本作もどうしてか解らないが犯人は多分こいつだろうと解った。読んでいる最中に貸してくれた友達が「犯人誰か解った?」と訊いた時に「多分○○だと思う」といった時に、感心したような顔をしていたのを今でも覚えている。まあ、軽い自慢話だが。

二度目の挑戦状でもまだ私は解らなかった。そして明かされるトリックの美事な事。私も思わず快哉を挙げた。これはすごいと本当に思った。
そしてその後も物語は全ての疑問を回収し、決着を付け、犯人の手記で閉じられる。哀感漂う物語の閉じ方はブラウン神父の純粋にロジックとトリックの素晴らしさから得られるカタルシスに加え、物語を読むことの醍醐味が心に刻まれる思いがした。
この作品で私は島田作品をもっと読みたいという衝動に駆られた。そして再び友達に次の島田作品を所望した。

もし本作を読んでいない方、もしくは途中で諦めた方は是非とも読んで欲しい。彼によって新本格は作られ、今の本格ミステリの隆盛の創世となったのが本作なのだから。

その方々に老婆心ながら注意点を云っておく。
まず無造作にパラパラと本書を捲ってはいけない。本書の肝であるトリックの図解が目に入ってしまうから。
そしてこれが一番重要なのだが、マンガ「金田一一の事件簿」は決して読んではいけない。なぜなら本書のトリックを丸ごとパクっているからだ。私はあの時大いに憤慨したものである。幸いにして本書を読むのが先だったが。
しかし私が島田氏を神と崇めるようになったのは本作ではない。それについてはまた別の機会に。

占星術殺人事件 改訂完全版 (講談社文庫)
島田荘司占星術殺人事件 についてのレビュー
No.16:
(8pt)

魅力的な逆説集

『詩人と狂人たち』の出来栄えに失望した私は本作に関してはチェスタトンコンプリート達成(当時出版されていた分に関して)のための一里塚として惰性的に本書を手にしたのだが、これが当たりだった。
先に書いたようにブラウン神父シリーズでもチェスタトンが得意とする逆説を利用した短編は数多く収録されていたが、本書はその名の通り、逆説ばかりを集めたミステリ短編集である。
ブラウン神父シリーズの時に若干この逆説に慣れというか、飽きにも似た感慨を抱いていたが、そんなときでもこの短編集に収録されている逆説は斬新さに溢れた煌めきがあった。
どんな逆説か以下に挙げてみよう。

「三人の騎士」:死刑執行の中止を伝える伝令が途中で死んでしまったために、囚人は釈放された。
「博士の意見が一致すると・・・」:二人の男が完全に意見が一致したために、一人がもう一方を殺した。
「道化師ポンド」:赤い鉛筆だったから、黒々と書けた。
「名指せない名前」:国民から好かれていた思想家は政府から忌み嫌われていたが追放されなかった。
「愛の指輪」:ガーガン大尉は誠実な人がゆえに、不必要な嘘をつく。
「恐るべきロメオ」:明らかにその人だと思われる影法師ほど見間違えやすい物はない。
「目立たないのっぽ」:背が高すぎるために目立たない。

と、ちょっと読んだだけでは???と首を傾げる逆説ばかりだが、これらの逆説がポンド氏によって非常に合理的に解説される。
中にはその逆説が成立する状況を想定しやすいものもあるが、そのほとんどは謎という魅力に満ちている。特に1編目の「三人の騎士」は「ああ、そういうことだったのか!」と膝を打ってしまった。そしてこの1篇で私はこの逆説ミステリ集に取り込まれてしまった。
そして本書は最後に読んだだけあって、私の中でチェスタトンの評価を決定付けた作品集とも云える。最後が『詩人と狂人たち』だったら、今もこれほどにチェスタトンという名前は私の中に深く刻まれていたか、微妙ではある(でも『~童心』があるから、チェスタトンはやはり忘れられない作家ではあっただろうけど)。

現在この作品は絶版だが、この作品と『奇商クラブ』はぜひとも復刊して、多くの人に読んで欲しい短編集だ。
光文社が『木曜日だった男』みたいに古典新訳文庫で上梓してくれると一番いいのだが。

ポンド氏の逆説【新訳版】 (創元推理文庫)
G・K・チェスタトンポンド氏の逆説 についてのレビュー
No.15:
(5pt)

狂い過ぎてついていけなかった…

題名どおり、この作品の主人公は詩人で画家のガブリエル・ゲイルが狂人が起こす事件を解き明かすというロジックに特化した短編集。しかし『木曜の男』に引き続いて主人公の職業が詩人。本当にチェスタトンは詩人が好きだ。
90年初頭にトマス・ハリスの『羊たちの沈黙』が起爆剤となって、サイコホラーが一大ブームを巻き起こしたが、いわゆるそれは人間の心こそ怖いということに気づいたからだった。そしてそれは今まで理解不可能であった狂人の行動・心理が狂人にも彼らなりの理論と哲学の下で行動していることがこれらの作品群で解り出した事も一因だろう。本作はそれに先駆けること60年も前に発表された狂人が狂人の不可解な行動を狂人の視点で解き明かすという非常にエキセントリックな短編集なのだ。

しかし本作はその過剰なエキセントリックさゆえに私の中ではもっとも評価の低い短編集になっている。ブラウン神父、ガブリエル・サイム、バジル・グラントと今までチェスタトンの主人公は非常に個性的で、普通に付き合うには遠慮したい人物ではあるが、一般的な常識は備えている人物ではあった。しかし本書における主人公ゲイルは彼自身が狂人であるため、彼の言動には面食らってしまい、ついていけないことが多かった。
これに拍車を掛けるように各編もこちらの常識・理解の枠外を振り切っていて、もう訳が解らんわぁと何度もなってしまった。
これを読んだのはやはり大学生の時でそれなりの知識はあった頃だったが、そのときの印象は上述のようにすこぶる悪い。しかし他者の感想ではなかなか興味深い趣向が盛り込まれているとのことなので(この趣向についてはもはや頭に一片も残っていない)、機会があればもう一度読み直してみたいなぁとは思っている。機会があれば、ね。

詩人と狂人たち (創元推理文庫 M チ 3-8)
No.14:
(10pt)

奇商クラブも凄いがボーナストラックがまたスゴイ!

本書は短編集だが、ブラウン神父物ではなく、この1巻だけ活躍するバジル・グラントが探偵役を務める連作物だ。構成は語り手である私が「奇商クラブ」という誰もがやったことのない商売を手がける人たちと邂逅することで出くわす不思議に挑むという連作物だ。そして本作が出来としてどうかというと、これはかなりイイのである。

ちらっと調べてみると、本作はあの大傑作『ブラウン神父の童心』に先駆けること6年前の1905年に出版されており、先に大絶賛した『木曜の男』と同じ年に出版されている。つまりこの頃のチェスタトンにはかなり語るべき逆説、奇想が頭の中に湛えてあり、その奇想のすごさに驚く。発表後1世紀以上も経っているのに、似たようなネタを見た事がない。とにかく常人には発想できない珍妙な商売ばかりなのだ。
どんな商売なのかをここで明らかにするとネタバレになるのであえて止すが、とにかく21世紀の今でもない商売ばかりだ。つまり云い換えれば、商売として成り立たないであろう物ばかりだと云える。それもそのはず、ほとんど狂人の商売としか思えないものばかりなのだ。

そしてそれら奇妙な商売の謎を解き明かすバジル・グラントという人物もそれ相応に変な探偵なのだ。元裁判官だったが、裁判中に法廷で突然発狂して職を辞したという、エキセントリックな人物。つまり毒は毒をもって制す、ならば狂人には狂人をといった趣向の作品集なのだ。
本作には6編の「奇商クラブ」譚が収録されているが、その中でお気に入りには「家屋周旋業者の珍種目」と「チャッド教授の奇行」が特に秀逸。前者は映像化すれば、最後の真相が実に生えるに違いない1編であり、後者はもうスゴイの一言。云い意味でも悪い意味でもチェスタトンしか思い浮かばないトンデモ商売(?)なのだ。

ただし本作における真価は実はこの「奇商クラブ」にはない。実は創元推理文庫版ではノンシリーズ物の短編「背信の塔」と「驕りの樹」が併録されているのだが、この2編がすごい作品なのだ。
両者とも物語のトーンは幻想小説風だが、最後に明かされる真相はそれが故に実に絵的であるし、戦慄すら覚える。一見不合理だと思える狂える人たちの行為が狂人なりの合理的な理由によってなされていることが解るという趣向では「奇商クラブ」とは同趣向だが、物語の迫力というか風格が違う。「背信の塔」は物語冒頭で語られる主人公の当初の目的を読んでいる最中忘れてしまう熱気に溢れ、最後にそれが予想を超えた真相で知らされる。「驕りの樹」は一本の奇妙な樹を巡る話が二転三転し、これも最後に明かされる真相で汗ばんだ手にさらに汗を握らせる。あえて詳しくは書かないでおこう。
本作を読んだ頃はまだ世間を知らない大学生。今読み返せばその不思議な世界観に包含されたチェスタトンのメッセージが読み取れるかもしれない。それほど深い2編だ。
本作はこの2編があるが故に私の中では大傑作の短編集となっている。

奇商クラブ【新訳版】 (創元推理文庫)
G・K・チェスタトン奇商クラブ についてのレビュー