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Tetchy さんのレビュー一覧
Tetchyさんのページへレビュー数1418件
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さて『占星術殺人事件』で颯爽と登場した御手洗潔だが、第2作目の本書は本格ミステリの王道とも云うべき館物だ。そして奇想島田氏はやはり普通の館では勝負を仕掛けない。タイトルにあるように全体が斜めに傾いだように建てられた斜め屋敷なのだ。この斜め屋敷、その特異な建てられ方故に滞在する人は遠近感がとりにくいという錯覚を覚える。よく遊園地などにあるびっくり舘と名づけられたアトラクション内で見られる、同一線上に立った大人と子供の背の高さが逆転するというあれだ。そんな話が本作には盛り込まれているのだが、実はそれこそ島田氏のミスリード。この館が建てられた目的こそ、ここで起きる殺人事件の真相に大いに関わっているのだが、これがもう唖然とする。常人であれば理解できない目的だ。この真相ゆえに「世紀のバカミス」とまで云われているが、この評価は致し方あるまい。恐るべき執念というよりも金持ちの道楽としか・・・おっとこれ以上はネタバレになるのでよそう。
本書に関する評価は案外高いが、私はこれに首を傾げてしまう。確かにこのトリックは読者の想像を超える物だが、ミステリとしてどうかと問われれば、佳作かなぁと思う。あの『占星術殺人事件』に続く2作目として発表された御手洗物という称号がどうしても付き纏う本書は、前作と比べざるを得ない運命にある。それと比べるとなんだか普通に物語は流れ、結末までミステリの定型を保って進行する。物語としての熱が前作に比すると減じているように感じるのだ。確かに誰しも初めての小説というのは今後の人生を大きく変える分岐点と成り得る可能性を秘めているのだから、自然、気迫がこもるのも無理はないだろう。しかし作家には1作目よりも2作、3作目としり上がりによくなる作家もいるわけで、そういったことを考えれば、この作品はもう少し推敲すべきではなかったかと思う。しかしこれは単なる私の個人的な嗜好によるものなのだろう。過去何度も行われたオールタイムベストでも100位以内に本書は選ばれているのだから。 あと、意外に他者の感想で語られないのは本書の文体。前作が通常の物語の文章に加え、冒頭のアゾート製作の手記、そして最後の犯人の告白文と複数の文体を駆使していたのに比べ、本作はなんだか文章が幼いような印象を受けた。小学校の教科書で読むような物語の文体、極端に云えばそんな感じだ。しかしネットで色々な感想を読んでもそのことには触れられていないので、もしかしたらこれも単純に私の嗜好によるものなのかもしれない。 本書でも犯人や塔の模様の謎(これは簡単だったね)は解ったものの、トリックは解らなかった。ただ本格ミステリでは真相が明かされた時に読者が感じる思いは概ね4種類に分かれると思う。 1番目はそのロジック、トリックの素晴らしさに感嘆する物。これこそが本格ミステリの醍醐味である。 2番目は解らなかったものの、特段感銘を受けなく、なるほどねのレベルで終わる物。ほとんどこのミステリが多い。 3番目は解らなかったものの、なんだこりゃ?と呆気に取られるもの。バカミスと呼ばれる作品がこれには多い。 4番目は真相が読者の推理どおりだったもの。これもまた作者との頭脳ゲームに勝利したというカタルシスが得られる。 で、本作はこの4分類のうち、3番目に当てはまる。しかしギリギリ許容範囲かなと思えるのが救いだ。実際本当にこのトリックが成り立つのか一度実験したいとは思うが。特に天狗・・・おっとヤバイヤバイ。 しかし雪上での殺人や屋敷の中での密室殺人など、好きな人には堪らない作品だと思う。また本作は後々のことも含めて、御手洗シリーズで読んでおいた方がいい作品ではある。その理由はここではあえて云わないでおこう。 |
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私がミステリをここまで本格的に読むようになったのは、この島田荘司との出逢いがきっかけであった。つまり島田のミステリが私にミステリ読者の道へと導いた。だから私にとって島田の存在というのはかなり大きく、神として崇めているといっても過言ではない。一生追い続けると決めた作家、それが島田だ。
とはいっても本作が私にとって初めて触れる島田ミステリであったわけではなく、最初は『御手洗潔の挨拶』であった。その経緯については『~挨拶』の感想に譲るとして、本作はその次の島田作品だった。 実際私は『~挨拶』を楽しく読み、面白いからもっと貸してとその友人に頼んだところ、持ってきたのが本書。まず最初の印象は、題名に引いたというのが正直なところ。いまどき『○○殺人事件』というベタなタイトルと、古めかしいイラストが描かれた文庫表紙は、もし私が本屋でその本を見ても手を伸ばさない類いのものだったし、本屋でその友達に「この作品面白いよ。お勧め。買って読んでみて」と云われても決して買わない代物だった。ちなみにこの時借りた文庫の表紙は新たなイラストでノベルス版(書影がそれですね)が出版されたが、今現在でもそのままだったように思う。私が後に買った文庫版も同じ表紙だ。 ということで、その表紙とタイトルのせいもあり、実は借りるのには前向きにならなかったのだが『~挨拶』が面白かったので読んでみるかと軽い気持ちで手に取った。 本書を途中で断念した読者の中には冒頭のアゾートの話がかなり読みにくい文章だったという人がけっこういるらしい。しかし海外の古典を読んでいた私にとってはこのくらいの文章は全然大丈夫で、むしろ読みやすいくらいだった。前に挙げたブラウン神父シリーズと比べてみれば一目瞭然だろう。 さてこの6人の娘のそれぞれ美しい部位を繋げて至高の美女アゾートを作るというこの冒頭の怪しくも艶かしいエピソードはいきなり私の読書意欲を鷲掴みにし、ぞくぞくとした。昔乱歩の小説で読んだ淫靡さを感じたものだ。 その後、名探偵御手洗登場。この昭和11年に起き、その後何年間も解決できなかったという事件に御手洗が挑む。 で、この本を読んだ当初、この事件は実際にあった話だったのかというのが友達の間で話題になった。本を貸してくれたO君は実際にあったと云っていたがその真偽は今でも定かではない。その後の島田作品にはこういう虚実を混同させるような叙述があるので、私は創作だと思っている。というのもその後乱歩、海外古典を読んでいくと、本作のように「明敏なる読者諸氏ならばご存知であろう、あの世間を騒がし、国民を恐怖のどん底に陥れた忌まわしい事件」という件が続々と出てくる。さながら探偵小説ならびに推理小説の枕詞として当然付けなければならないコピーのようだ。 さてこのアゾート事件を捜査する御手洗は当初自信満々で、京都の人形師の許を訪れたりとかなり活発な動きを見せる。しかしやがて捜査は行き詰る。この辺の相棒石岡の絶望感をそそる語り口がいい。 そして真相に思い当たり快哉を挙げ、狂喜乱舞する御手洗にかなり笑ってしまった。 そして挿入された「読者への挑戦状」に戸惑ってしまった。なぜなら私はこのとき犯人までしか推理できていなかったのだ。 私は何故かトリックやロジックが解らなくても、なぜか犯人が解るということがよくある。本作もどうしてか解らないが犯人は多分こいつだろうと解った。読んでいる最中に貸してくれた友達が「犯人誰か解った?」と訊いた時に「多分○○だと思う」といった時に、感心したような顔をしていたのを今でも覚えている。まあ、軽い自慢話だが。 二度目の挑戦状でもまだ私は解らなかった。そして明かされるトリックの美事な事。私も思わず快哉を挙げた。これはすごいと本当に思った。 そしてその後も物語は全ての疑問を回収し、決着を付け、犯人の手記で閉じられる。哀感漂う物語の閉じ方はブラウン神父の純粋にロジックとトリックの素晴らしさから得られるカタルシスに加え、物語を読むことの醍醐味が心に刻まれる思いがした。 この作品で私は島田作品をもっと読みたいという衝動に駆られた。そして再び友達に次の島田作品を所望した。 もし本作を読んでいない方、もしくは途中で諦めた方は是非とも読んで欲しい。彼によって新本格は作られ、今の本格ミステリの隆盛の創世となったのが本作なのだから。 その方々に老婆心ながら注意点を云っておく。 まず無造作にパラパラと本書を捲ってはいけない。本書の肝であるトリックの図解が目に入ってしまうから。 そしてこれが一番重要なのだが、マンガ「金田一一の事件簿」は決して読んではいけない。なぜなら本書のトリックを丸ごとパクっているからだ。私はあの時大いに憤慨したものである。幸いにして本書を読むのが先だったが。 しかし私が島田氏を神と崇めるようになったのは本作ではない。それについてはまた別の機会に。 |
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『詩人と狂人たち』の出来栄えに失望した私は本作に関してはチェスタトンコンプリート達成(当時出版されていた分に関して)のための一里塚として惰性的に本書を手にしたのだが、これが当たりだった。
先に書いたようにブラウン神父シリーズでもチェスタトンが得意とする逆説を利用した短編は数多く収録されていたが、本書はその名の通り、逆説ばかりを集めたミステリ短編集である。 ブラウン神父シリーズの時に若干この逆説に慣れというか、飽きにも似た感慨を抱いていたが、そんなときでもこの短編集に収録されている逆説は斬新さに溢れた煌めきがあった。 どんな逆説か以下に挙げてみよう。 「三人の騎士」:死刑執行の中止を伝える伝令が途中で死んでしまったために、囚人は釈放された。 「博士の意見が一致すると・・・」:二人の男が完全に意見が一致したために、一人がもう一方を殺した。 「道化師ポンド」:赤い鉛筆だったから、黒々と書けた。 「名指せない名前」:国民から好かれていた思想家は政府から忌み嫌われていたが追放されなかった。 「愛の指輪」:ガーガン大尉は誠実な人がゆえに、不必要な嘘をつく。 「恐るべきロメオ」:明らかにその人だと思われる影法師ほど見間違えやすい物はない。 「目立たないのっぽ」:背が高すぎるために目立たない。 と、ちょっと読んだだけでは???と首を傾げる逆説ばかりだが、これらの逆説がポンド氏によって非常に合理的に解説される。 中にはその逆説が成立する状況を想定しやすいものもあるが、そのほとんどは謎という魅力に満ちている。特に1編目の「三人の騎士」は「ああ、そういうことだったのか!」と膝を打ってしまった。そしてこの1篇で私はこの逆説ミステリ集に取り込まれてしまった。 そして本書は最後に読んだだけあって、私の中でチェスタトンの評価を決定付けた作品集とも云える。最後が『詩人と狂人たち』だったら、今もこれほどにチェスタトンという名前は私の中に深く刻まれていたか、微妙ではある(でも『~童心』があるから、チェスタトンはやはり忘れられない作家ではあっただろうけど)。 現在この作品は絶版だが、この作品と『奇商クラブ』はぜひとも復刊して、多くの人に読んで欲しい短編集だ。 光文社が『木曜日だった男』みたいに古典新訳文庫で上梓してくれると一番いいのだが。 |
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題名どおり、この作品の主人公は詩人で画家のガブリエル・ゲイルが狂人が起こす事件を解き明かすというロジックに特化した短編集。しかし『木曜の男』に引き続いて主人公の職業が詩人。本当にチェスタトンは詩人が好きだ。
90年初頭にトマス・ハリスの『羊たちの沈黙』が起爆剤となって、サイコホラーが一大ブームを巻き起こしたが、いわゆるそれは人間の心こそ怖いということに気づいたからだった。そしてそれは今まで理解不可能であった狂人の行動・心理が狂人にも彼らなりの理論と哲学の下で行動していることがこれらの作品群で解り出した事も一因だろう。本作はそれに先駆けること60年も前に発表された狂人が狂人の不可解な行動を狂人の視点で解き明かすという非常にエキセントリックな短編集なのだ。 しかし本作はその過剰なエキセントリックさゆえに私の中ではもっとも評価の低い短編集になっている。ブラウン神父、ガブリエル・サイム、バジル・グラントと今までチェスタトンの主人公は非常に個性的で、普通に付き合うには遠慮したい人物ではあるが、一般的な常識は備えている人物ではあった。しかし本書における主人公ゲイルは彼自身が狂人であるため、彼の言動には面食らってしまい、ついていけないことが多かった。 これに拍車を掛けるように各編もこちらの常識・理解の枠外を振り切っていて、もう訳が解らんわぁと何度もなってしまった。 これを読んだのはやはり大学生の時でそれなりの知識はあった頃だったが、そのときの印象は上述のようにすこぶる悪い。しかし他者の感想ではなかなか興味深い趣向が盛り込まれているとのことなので(この趣向についてはもはや頭に一片も残っていない)、機会があればもう一度読み直してみたいなぁとは思っている。機会があれば、ね。 |
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本書は短編集だが、ブラウン神父物ではなく、この1巻だけ活躍するバジル・グラントが探偵役を務める連作物だ。構成は語り手である私が「奇商クラブ」という誰もがやったことのない商売を手がける人たちと邂逅することで出くわす不思議に挑むという連作物だ。そして本作が出来としてどうかというと、これはかなりイイのである。
ちらっと調べてみると、本作はあの大傑作『ブラウン神父の童心』に先駆けること6年前の1905年に出版されており、先に大絶賛した『木曜の男』と同じ年に出版されている。つまりこの頃のチェスタトンにはかなり語るべき逆説、奇想が頭の中に湛えてあり、その奇想のすごさに驚く。発表後1世紀以上も経っているのに、似たようなネタを見た事がない。とにかく常人には発想できない珍妙な商売ばかりなのだ。 どんな商売なのかをここで明らかにするとネタバレになるのであえて止すが、とにかく21世紀の今でもない商売ばかりだ。つまり云い換えれば、商売として成り立たないであろう物ばかりだと云える。それもそのはず、ほとんど狂人の商売としか思えないものばかりなのだ。 そしてそれら奇妙な商売の謎を解き明かすバジル・グラントという人物もそれ相応に変な探偵なのだ。元裁判官だったが、裁判中に法廷で突然発狂して職を辞したという、エキセントリックな人物。つまり毒は毒をもって制す、ならば狂人には狂人をといった趣向の作品集なのだ。 本作には6編の「奇商クラブ」譚が収録されているが、その中でお気に入りには「家屋周旋業者の珍種目」と「チャッド教授の奇行」が特に秀逸。前者は映像化すれば、最後の真相が実に生えるに違いない1編であり、後者はもうスゴイの一言。云い意味でも悪い意味でもチェスタトンしか思い浮かばないトンデモ商売(?)なのだ。 ただし本作における真価は実はこの「奇商クラブ」にはない。実は創元推理文庫版ではノンシリーズ物の短編「背信の塔」と「驕りの樹」が併録されているのだが、この2編がすごい作品なのだ。 両者とも物語のトーンは幻想小説風だが、最後に明かされる真相はそれが故に実に絵的であるし、戦慄すら覚える。一見不合理だと思える狂える人たちの行為が狂人なりの合理的な理由によってなされていることが解るという趣向では「奇商クラブ」とは同趣向だが、物語の迫力というか風格が違う。「背信の塔」は物語冒頭で語られる主人公の当初の目的を読んでいる最中忘れてしまう熱気に溢れ、最後にそれが予想を超えた真相で知らされる。「驕りの樹」は一本の奇妙な樹を巡る話が二転三転し、これも最後に明かされる真相で汗ばんだ手にさらに汗を握らせる。あえて詳しくは書かないでおこう。 本作を読んだ頃はまだ世間を知らない大学生。今読み返せばその不思議な世界観に包含されたチェスタトンのメッセージが読み取れるかもしれない。それほど深い2編だ。 本作はこの2編があるが故に私の中では大傑作の短編集となっている。 |
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光文社古典新訳文庫から本書の新訳版『木曜日だった男』が出版されたことを知った時は驚いた(書影もそちらになってますね。私が読んだのは創元推理文庫版)。あれほど癖の強い、あくの強い作品を新訳版で出す光文社の編集部の見識をまず疑った。この光文社のシリーズは商業的にも意義的にも世の読書家に好評をもって迎えられているらしく、その余勢を買ったあまりの無謀な行為ではと疑ったのである。
しかしネットでの書評を読むと意外と良好のようで、不評コメントは私が調べた限りでは見当たらなかった。 で、本作は間違いなく傑作である。しかし残念ながら万人に推奨できる傑作ではない。これを初チェスタトンとして選ぶとしたら、その後その人はチェスタトンと訣別するのではないだろうか。なぜならば一読しても、訳が解らないからだ。 物語はガブリエル・サイムなる詩人が無政府主義者と論争になるところから始まる。主人公詩人!しかも相手は無政府主義者!もうこれだけでクラクラだ。 この「クラクラ」には二種類の意味がある。 1つは文字通り、理解不能という意味でのクラクラ。もう1つはこのチェスタトンならではの人物設定に対する酩酊感のクラクラである。 実は私はこの本を2回読んでいる。したがって上述のクラクラ感は正に私が抱いた感覚なのである。 さて物語はサイムが「日曜」と名乗る人物が議長を務める無政府主義者集団に加わる。実はサイムはロンドン警視庁の公安警察官であり、彼はこの無政府主義者集団を壊滅するために送られたスパイなのだ。 そして彼は「日曜」から「木曜」と名づけられる。そう、他のメンバーにはお察しの通り、「月曜」から「金曜」という委員会がいるのだ。そしてサイムはこのメンバーと接触していくのだが、実に意外な展開が待っている。 そして最後に残った議長「日曜」を追い詰めるサイム。しかしそこで明らかになる驚愕の事実!そして・・・。 このオチ―あえて真相と云わない―を知ったその瞬間、読者はきっと呆気に取られるだろう。そして唐突に訪れるカタストロフィに似た結末に呆然とせざるを得ない。 通常ならば駄作のレッテルを貼られるべき作品なのだが、チェスタトンの作品を読んできた者ならばこの作品は甘美な麻薬の如き魅力に満ち満ちているのだ。 上で述べたプロットを彩るのは全編これ、チェスタトンの哲学、逆説、宗教論とあらゆる思想論だ。サイムをチェスタトンの代弁者にし、事ある毎に登場人物と議論を重ねる。リアリティという観点から極北の位置に存在する人物たちはもちろんそんなサイムを変な奴だと一笑に付せず、論破しようと議論でもって対決する。この議論が実に面白い。いや正直に云えば1回目の読書では全く読みにくくてしょうがなかった。さらにその難解な文章の合間を縫うように展開するストーリーもまた曲者であり、何がなんだか解らないうちに1回目の読書は終ったと云えよう。 しかし2回目に読むとこの難解さが逆に心地よくなってくるのだから不思議だ。恐らくそれは免疫が出来たのだろう。だからチェスタトンが読者に放つ悪夢としか思えないクライマックスシーンも実に愉しめるようになる。特に本書では一般大衆と警察が入り混じって大勢サイムを追いかけるシーンは悪夢さながらも一歩間違えば喜劇である、そんな余裕まで感じられるようになる。 つまりこれはチェスタトンしか書けない奇書なのだ。それを愉しめるかどうかはまず本書を当たる前に「ブラウン神父シリーズ」を先に当たってもらいたい。その後なおチェスタトンを読みたいのであればこれは本当に読むべき作品である。 数少ないチェスタトンの長編という意味でも貴重な1冊。当時私は創元推理文庫版の難解な訳にてこずったが、今は光文社から新訳版が出ている。今からこの作品に遭遇する人はなんと恵まれた人たちなんだろうと私は思わずにはいられない。 |
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センセーショナルな題名が付けられたシリーズ最終巻。
さて本作では今までの短編集では2、3編の割合で収録されていた思い込みを逆手に取ったチェスタトンならではの逆説を取り扱った作品が数多く収録されている。 未読の方に先入観を与えて読書の興を殺ぐことを避けるために、あえて具体的な題名は挙げないが、収録作8編中5編と約6割をこの趣向の作品が占める。 これほど連続すればさすがに食傷気味と云いたくなるが、それでもまだ名作といえる作品がある。 その本を開いた者は神隠しに遭い、消失してしまうという呪いの古書。そしてその言い伝えどおりに本を開いた者が次々と消えていくという抜群に魅力的な謎を扱った「古書の呪い」は人間消失のトリックとチェスタトンの逆説が見事に融合した傑作だ。 その他白眉な作品として「とけない問題」を挙げる。世界でも有名な箱が修道院にやってくる。しかしそれを有名な盗賊が狙っているので助けて欲しいと請われたブラウン神父とフランボウは修道院に向かうがその最中に祖父が死んだので助けて欲しいという婦人から連絡が入り、その家に立ち寄ることに。そこでは既に祖父と思しき老人は木から首を吊って死んでおり、しかも体には剣が刺さっていた。さらに木の周辺にはその老人の物と思える手足の跡が散乱していた。この不可解な事件をブラウン神父が見事真相を突き止めるという話だが、これはある意味、推理小説の定型を打ち破った作品といえるだろう。 シリーズを読み通した者の性なのか、2作目の『~知恵』以降、事あるごとにクオリティが下がっているという言を連発しているが、それはやはり最初に『~童心』を読んでしまったからだろう。やはり第1作は傑作すぎた。もしこのシリーズを未読の方が取っ掛かりとしてこの第5作目から手に取ったならば、恐らく面白いと思うだろう。今になって思えば、チェスタトンはクオリティは保っていたのだ。ただ私は常に『~童心』クラスを求めてしまっていた。それだけのことだ。 さてこのブラウン神父シリーズ全5集を読むことで私の中で“チェスタトン”という1つのジャンルが出来てしまった。それはミステリを読む書評家も同様で、奇妙な論理、逆説が導入された作品を読むと「チェスタトン風」という枕詞が挿入されることからも明らかだろう。 この後、私はチェスタトンを追いかけることを決め、当事絶版本だったブラウン神父シリーズ以外の作品を求める長い逍遥が始まるのである。 |
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本作はまず「ブラウン神父の秘密」という短編で幕を開け、最後に「フランボウの秘密」という短編で閉幕する。内容的には神父が自身の推理方法について語り、その実施例として神父が解決した9つの事件が語られるという構成になっている。アルバムでいうところのコンセプト・アルバムのような内容になっている。神父の推理方法については後で述べることにしよう。
さて本作は第4短編集ということもあり、寛容に捉えてもネタ切れの感があると当時は思っていた。例えば、「大法律家の鏡」はもろ「通路の人影」の別ヴァージョンと云える作品だ。作者が得意とする思い込みを利用した逆説を用いた作品(「顎ひげが二つある男」、「マーン城の喪主」)もあり、連続して読んだ身としては小粒感は否めなかった。強いて挙げるとすれば「世の中で一番重い罪」と「マーン城の喪主」が一つ抜きん出いるだろうかというくらいで、それも『~童心』に入っていれば普通くらいの出来だと感じていた。 しかし今回諸作について内容を調べてみると、学生当時に読んだ印象とはまた違った印象を持つ作品もあった。特に「メルーの赤い月」で開陳される山岳導師なる隠者の特殊な心理は、海外で暮らすようになった今では理解できるが、当時はまだ海外はまだしも社会人にもなっていない頃だったので、何なんだこれは!と激昂したに違いない。 また本作には後の黄金期のミステリ作家、特にカーに影響を与えたと思しき作品も見られる。中でも「顎ひげの二つある男」のシチュエーションはあの作品を、「マーン城の喪主」のトリックはあの作品と思い当たる物がある。 しかし本書の注目すべき点は冒頭にも述べたブラウン神父の推理方法だ。彼は自分こそが犯人だという。それは彼が推理する時は自分も犯人になって考えるからだ。彼が犯人だったらこうするだろうと犯人の心理と同化することで事件の真相を見抜くと告げる。 なんとこれは現代の犯罪捜査でいうところのプロファイリングに他ならないではないか。本作が出版された1926年の時点で既にチェスタトンはこの特殊な犯罪捜査方法について言及していることが驚きである。勘繰れば、このチェスタトンの推理方法からプロファイリングが生まれたようにも考えられる。 小学校の時、児童版の名探偵シリーズでお目見えした時は、単に人物が神父というだけで、ホームズやミス・マープルその他と変らないという印象でしかなかったが、本作で神父の推理方法が明かされるに至り、その印象はガラリと変ってブラウン神父という探偵の特異性が見えた。神父ゆえの宗教的観点からの謎解きだけでなく、犯罪者の心理と同化するブラウン神父の推理は全く以って他の探偵とは一線を画するものだ。 確かに各編のクオリティは落ちている(それでも水準はクリアしているが、こっちの期待値が大きいばかりについついこのような云い方になってしまう)が、本作はこの、正に“ブラウン神父の秘密”が判るだけでも意義が高い。 |
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さて第3短編集である。
本作はいきなり「ブラウン神父の復活」というセンセーショナルな題名の短編で幕を開ける。本稿を著すために色々調べた際に知ったのだが、前作『~知恵』からなんと12年のブランクを経ての刊行だったようだ。そういう背景を知るとこの短編の意味するところも解る。2作で辞めるつもりだったチェスタトンの復活宣言だったのだろう。 で、その「ブラウン神父の復活」だが、いきなり神父が死ぬという展開が衝撃的だ。短編集の初頭にいきなり主人公が死ぬ話である。とはいえ、結局は単なるファース(笑劇)に終わってしまうのだが。この趣向からも作者が愉しんで書いていこうという姿勢が現れている。 本作で個人的ベストを挙げるとすれば続く「天の矢」と「犬のお告げ」となる。 しかし「天の矢」はカーも某作で使っているトリックであり、日本作家の作品でも見られるほど有名なトリックだ。私は確かこのトリックを藤原宰太郎氏の推理クイズ本(綾辻氏も云っていたが、本当にこの本の犯した罪は重い。今は全て絶版になっているようだが)で知っていたという前知識があったので看破したが、それでもなお面白いのはトリックを彩る物語・設定の妙だろう。 「犬のお告げ」は最初意味が解らなかった。特定の出入り口しかない建物で起きた密室殺人を扱っているが、その犯行が犬のお告げとも云うべき鳴き声で暴かれてしまうという内容。しかし再読してみて、この重層的な構成の面白さがじわじわとこみ上げてきた。偶然に頼った部分も大きいが、こんな事を考えるのはやはりチェスタトンぐらいだろう。 名高い「ムーンクレサントの奇跡」は複層階の最上階で起きた人間消失と全く違う場所で見つかった消失した人間の死体というすこぶる魅力的な謎だが、前述の推理クイズ本に図解で解説されていた記憶があり、その時点でもう興趣は削がれるが、全く知らないとなると案外楽しめるのではないか。今でも記憶に鮮明に残っている作品だし。しかしこの真相に納得できるかどうかは別だが。 「金の十字架の呪い」はその題名の示すとおり、オカルティックなムードが横溢しているが、真相はなんとも子供騙しといった感じ。 「翼ある剣」はもう1つの「シーザーの頭」とも云える作品。ある資産家に養子として迎えられた男がその後その夫婦に3人の子供が生まれたため、追い出され、遺産相続できなくなった恨みを3人兄弟のたった1人の生き残りの兄弟を殺して晴らし、遺産を手に入れようとする話。この作者ならではの逆説的解明が成されるが、かなり犯行は際どい。 7代ごとの当主は午後7時に自殺する呪いがあるというカーの諸作を思わせる「ダーナウェイ家の呪い」。そして午後7時に当主が死ぬのも定石どおり。明かされる真相はなかなか心理的錯覚を利用していて面白い。 最後の「ギデオン・ワイズの亡霊」は死んだと目されていたギデオン・ワイズをその後街で見かけたという男が現れ、その男は亡霊に悩まされるならばということで自分が殺したと自白する。しかしその後、当のワイズが転落した崖の裂け目から現れ、その男を許すといい、事態は一件落着かと思われたが・・・という話。明かされる裏側のストーリーはけっこう複雑だ。 さて本作は全般的に奇抜なトリックが目立つが、理論派のチェスタトンらしからぬ実現性の低い物が散見される。代表作とされる「ムーンクレサントの奇跡」をはじめ、「翼ある剣」、「ダーナウェイ家の呪い」など。 とはいえ、「犬のお告げ」や「天の矢」といった名実ともに傑作と云える作品も収録されており、全体的に観て水準以上の短編集となっている。すなわちチェスタトンの復活は成功したと云えるだろう。 率直に云えば、この3作を通じて解ってくるのはチェスタトンのミステリというのは与えられた状況を読者が推理して真相を云い当てることは出来ない。クイーンに代表される知恵比べの要素よりも、異様な舞台設定で起こる事件を解き明かすチェスタトン独特の理論を愉しむところにある。それは恐怖の対象である闇をチェスタトンが知性の光で照らし、白日の下に晒してくれるような効果がある。そして私自身、こうしたチェスタトン独特のロジックに対する渇望感が芽生え、そのロジックと独特な世界観に浸れる事自体が楽しい。だから私の評価はもしかしたら偏愛が篭もっているのかもしれず、正当な評価に成りえていないのかもと思ったりもする。従って合わない人もいるかもしれない。しかしこのシリーズを読むことなく、一生終えるのは勿体なぁと思う。是非とも1冊は手にして欲しい。 |
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さて第1短編集の余勢を買って、私は次の日には5冊のシリーズ全てを本屋で買ってしまった。ずらりと並んだ5冊のブラウン神父シリーズに満悦の笑みをこぼしたものだった。
が、しかし本作は総合してみると『~童心』よりは落ちるという評価になる。というよりも『~童心』が凄すぎたということでもあるが。 しかしそれでもなお、本作には後のミステリ・シーンに多大なる影響を与えた作品が収録されている。 収録作12作中、白眉なのは「ペンドラゴン一族の滅亡」と「銅鑼の神」と「ブラウン神父の御伽噺」。 「ペンドラゴン~」は祖先が船乗りで海賊でもあったペンドラゴン家に伝わる因縁をバックグラウンドにしており、ブラウン神父らが同家の屋敷を訪れたところ、ちょうど若き当主が航海から帰ってくるところだった。しかしその夜、同家にある塔が火事になる。ジプシーの協力で危うく消し止めたブラウン神父が語った真相に驚嘆した。 「銅鑼の神」は冒頭からなにやらおどろおどろしい印象が強く、特にブラウン神父らがひょんなことから台座の下に隠された死体を発見し、街中の人間に追い掛け回されるというシチュエーションが怖かった。そして明かされる真相もオカルティックで寒気がした。 そして短編集最後を飾る「~御伽噺」は公民の報復を恐れて城から一歩も出ない独裁者がなぜ城の外で射殺されたのかという謎を扱っており、これが見事に裏返って不可解な状況が納得のいく論理、しかも想像を超えた内容であったのが実に印象に残った。 最後の「~御伽噺」のチェスタトン的逆説とも呼べる論理はこれ以降も様々なヴァリエーションで繰り広げられる。そしてこの3編に共通する、一種狂人の論理とも云うべき内容は日本の作家、特に泡坂妻夫氏の作品に多々見られる。 その他については寸評を。 女性が話していたグラス氏という男性。しかし部屋を覗いてみるといつもそこには女性しか折らず、彼は忽然と姿を消していた。そしてある日グラス氏は女性の婚約者を紐で縛り、そのまま逃走してしまう。果たしてグラス氏とは何者なのかという謎は魅力的な「グラス氏の失踪」だが、真相はかなり腰砕けでジョークとしか思えない。でも今でも記憶に残っているのはやはりインパクトがあったのか。 「泥棒天国」は山越え途中で起きた馬車強盗事件に隠された裏のストーリーが実にチェスタトンらしい。 無音火薬の発明家とそれを中傷する愛国者の決闘という、実にチェスタトンらしいシチュエーションの「ヒルシュ博士の決闘」もミステリ初心者だった当事の私にはあっと驚く結末だった。 殺人犯の目撃者の証言が全て食い違っているという「通路の人影」も蓋を開けてみればほとんど子供騙しなトリックでビックリするが、こういう誰もが思いつくけれど敢えてそれを推理小説のネタにしないような物まで作品に投影するチェスタトンの貪欲さにかえって感心してしまう。 「器械のあやまち」は嘘発見器が犯した過ちを扱ったもので、これにインスパイアされて乱歩は「心理試験」を創作したのか、などと勘ぐったりしてみる。 「シーザーの頭」は遺産相続された3人兄妹に起きる恐喝事件の意外な真相を、「紫の鬘」は同様に紫の鬘を被った男の意外な正体を、独特のロジックで解き明かす。 そして自分の作ったサラダで危うく毒殺されそうになる「クレイ大佐のサラダ」もそこに至るまでのシチュエーションが特異だし、「ジョン・ブルノワの珍犯罪」も殺された卿が死に際に残したメッセージから犯人が最初から解ってはいるものの、そこに隠された意外な論理はチェスタトンが得意とする逆説だ。 単なるワンアイデア物なのに退屈しないのは全編これペダントリーに満ちていて、愉悦の読書を提供してくれるからだ。正直云って、トリックは推理クイズの域を脱しない物も多いが、それを包む物語のガジェットが実にヴァリエーション豊かであることがその陳腐さを上手く覆い隠している。これはやはりチェスタトンという博学者ならではの芸当だ。そして読みにくい訳も相まって、読み終わった後になんだか読む前よりもえらくなった気がするのもこのシリーズを読む理由になったのかもしれない。 そんな興奮を持ちながら私はこのあともシリーズを読み続けるのである。 |
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私がこの本を手にしたのは本当に何気ないことだった。家から自転車で10分くらい離れたところにある書店に大学帰る際に立ち寄るのが日課となっていた私は、いつものように立ち読みを済ました後、コミックコーナーを散策し、ふらりと文庫本コーナーに行ってみると、そこにブラウン神父シリーズ5作が並んでいた。しかも装丁を刷新したようで、なにげに惹かれるものがあった。
久々に推理小説を読むのもいいなぁと思った私はとりあえず1冊手に取り、レジに向かった。A型で几帳面な私はシリーズ第1作が本作であることを調べておいた。 久々に読む推理小説ということで、長編は抵抗あったが、これは短編集だったのもこれを買う動機の一助になっていたように感じる。隣にはアシモフの黒後家蜘蛛の会シリーズも並んでいたが、そちらは興味を沸かなかった。今にして思えばそちらも刷新された装丁であったようで現在も同じ装丁だが、なんだか食指が沸かないイラストだった。このシリーズは今もまだ読んでいない。 さてまずびっくりしたのはこの上ない読みにくさ。シリーズ開幕の1作目「青い十字架」は全編に宗教論が横溢しており、その難解さにいきなり面食らった。最後に明かされる真相はなるほどという域を脱しておらず、しかも半分くらいしか理解できなかった宗教論自体も真相に関与していたことも解り、うわ~、読み通せるかなぁと非常に不安になった。 翌日2作目の「秘密の庭」を読んだ。この真相にはかなり驚いた。久々に推理小説を読んだ当時の私にとってはものすごい真相だった。この真相はもし今初めて読んだとしても驚愕するだろう。この2編目で私の中でこの短編集の評価は一気に高まり、読み続ける決意を固めた。 そこからはもう目くるめく読書体験の連続だった。 ホテルで神父が滞在する部屋のドアの外から聞こえる異なるペースで行ったり来たりを繰り返す足音を扱った「奇妙な足音」。 パーティーで催された劇の最中で盗まれたダイヤモンドの犯人をブラウン神父が見事に当てる「飛ぶ星」。 殺人予告を受けた男は衆人環視の中、なぜ殺されたのかという謎が魅力的な「見えない男」。 領主の居なくなった屋敷を管理する元召使が集める奇妙な品物の数々の意味を探り当てる「イズレイル・ガウの誉れ」。 「狂った形」はブラウン神父とフランボウが訪れた詩人の家で起きた詩人の自殺の裏側に潜む事件を看破する。 決闘を挑まれ、敗れて死んだ公爵の意外な真相が実にチェスタトンらしい逆説に満ちている「サラディン公の罪」。 「神の鉄槌」は庭で殺された男は頭蓋骨を粉砕されるほどの力で頭を割られ、骨の欠片が胸部にまでのめりこんでいたという殺害方法が奇怪だ。まあ、これは今ではちょっと確率的にありえないトリックだと解っているが、当時は面白かった。 エレベーターの開口部に転落死した盲目の女性を殺したのは姉か、それとも被害者の信望する宗教の教祖か。最後にツイストが効いている「アポロの眼」。 なぜ名将名高い将軍は無謀な戦闘を仕掛け、自軍を壊滅させたのかが実にチェスタトンらしい論理が冴える「折れた剣」。 ピストル、ナイフ、ロープ。三つもの凶器が在って、なぜ卿は窓から墜落死したのかを奇想としか云えない論理で解き明かす「三つの凶器」。 この中で心理的に盲目になる錯覚を利用した「見えない男」と「葉っぱを隠すなら森の中。では・・・」のフレーズで知られる「折れた剣」は今でもミステリの王道ロジックとして活用されるくらい有名な作品。 読んだ大学生当初は「見えない男」の論理は、眉唾物のように感じたが、社会人になって出逢う人の数が飛躍的に増えると確かに頷けた。 「奇妙な足音」の実に奇妙な真相にうすら寒さを感じ、「イズレイル・ガウの誉れ」、「サラディン公の罪」、「三つの凶器」の、自分の想像の範囲を超えたロジックにカタルシスを感じ、「神の鉄槌」の宗教的なシチュエーションに目くらまされた思いを感じた。 チェスタトンが逆説の大家であることを知ったのはこの後のことで、とにかく彼の独特の論理は今までの私の既成概念を打ち砕いてくれる思いがした。 本作では最初盗賊として登場していたフランボウが神父に諭されて改悛して、神父の相棒となるという展開も新鮮だった。 本作は冒頭でも述べたように当時超訳に慣れ親しんだ後もあって、実に訳が読みにくかったのが特に印象に残っている。ただその難解な訳文を我慢して読み通すと、間違いなく得られるカタルシスがあった。また難解な話を読むことで自分の知的レベルが向上する思いもした。 あれから数知れず海外ミステリ、国内ミステリを読んでいるが、それでも本作が極上の短編集であることは今でも私の中で揺るぎない。 |
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本作は私にとって最後のシェルダン作品となった。既にこの時は社会人となっており、シェルダン以外の海外作品もそれなりに数を読んでいた。
そしてアカデミー出版の超訳という訳し方が実は書評家たちにはかなり不評で、しかも円滑な訳文のために原文を削除していることやさらには物語の構成自体も変えていることも知った。 また今まではそれほど読書に熱心ではなかったが、この頃になると島田荘司の諸作とも出逢い、個人的に所有する本が飛躍的に増えることになった。そんなことも契機になり、ハードカバーで出ていたシェルダン作品はこれが最後になってしまった。 さて本作では作者自身も脚本家として関わった銀幕の世界、世界のショービズ界の頂点ともいえるハリウッドを舞台にスーパースターを夢見る青年トビーが波乱万丈の物語が繰り広げられる。ハリウッドの内幕を描いた作品だと記憶があり、確かこのトビーという青年はコメディアンを目指していたと思う。そしてエンタテインメント界に付き物の人を狂わせる魔力という物に取り付かれ、手当たり次第に女性に手を付けるんではなかったかな?なかったかな?というのは、実はこの作品についてはもうほとんど忘却の彼方にある。当時この本について一行感想というのを残していたが、それには「コメディアンを主人公にしているのにギャグが寒すぎるのは致命的」とだけあった。 まあ内容に触れた感想ではないので楽しんだのかどうかは解らないが、こういう否定的な意見を残していることからも私がシェルダン作品に飽きを感じていたのがわかる。 結局、ここまで読んで振り返るとシェルダン作品は『真夜中は別の顔』をピークとしてそこから下っていったように思う。だが外国作家の作品を読むこと自体が初めてだった(ホームズ物の児童用リライト版は除いて)私にとってシドニー・シェルダンの作品は私に海外作品への門戸を開いてくれた。今の私の海外ミステリ好きの礎は間違いなくシェルダンによって築かれたと云えるだろう。 すでにこの世を去り、ほとんどの人が過去の作家と思っているだろうし、それは私も同じだ。今更彼の未読作品を読む気にはなれない。 しかし忘れ去られるには勿体無い作家だ。なぜなら彼の作品は面白いからだ。ドイルやルブラン、クイーンやカーが没後の今でも読まれるように彼の作品も後世に残してほしいものだ。 ありがとうシェルダン。合掌。 |
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それまでのシドニー・シェルダン作品は全て単発物だったが、本作は初めて続編だ。それも個人的ベスト作である『真夜中は別の顔』の続編であるから、これが出た時には「待ってました!」と快哉を挙げたものだ。
ちらっとネットで調べてみたが、シェルダン作品で続編が書かれたのは本作以外ではどうもないようだ。このことからも作者自身もこの『真夜中は~』には手応えを感じ、特別な思い入れがあったのではないだろうか。 さて本作では前作では影の存在として、さほど表立って描かれなかった大富豪コンスタンティン・デミリスが前面に出てストーリーが展開する。なんと前作でショックのあまり記憶喪失となったキャサリンを、自分に対する裏切りの復讐として殺そうと画策しているのだ。とにかくこのデミリスの黒さが全編に渡って描かれている。そしてこいつは本当に悪い!そして金が豊富にあるだけに恐ろしい。しかし悪は栄えず。その権力と財力とで封じ込めてきた復讐劇が、綻んでいき、デミリスの周囲を真綿で首を絞めるようにデミリスもまた窮地に陥っていく。それをたくみに交わすデミリスの奸智もまた見ものだ。 そして前作でも裁判でデミリスの策謀に一役買ったあの百戦連勝の弁護士(名前忘れた!)も登場場面が増えている。 特に冒頭でいきなり毒殺容疑で逮捕された妻の無実を晴らすために公判中、いきなり証拠物件として挙げられているその妻が飲ませた薬品を嚥下し、なんともないことをアピールし、無罪を勝ち取るのだ。もちろんそれは毒薬。そこからどうやって彼は助かるのかというのは本書の興を殺ぐのでここでは詳述を避ける。 ただこの裁判のくだりは後にトゥローの諸作を読んだあとでは、やはり想像の産物と云わざるを得ないほど細部が甘い。恐らく本当の裁判ではこのようなことをして、即無罪という判決には至らないだろう。 検事が出す証拠に対し、いくつも反証を挙げ、それを陪審員の判断に委ねなければならない。1つ1つがつぶさに検証されるわけだ。特にここでの裁判はそれまで弁護側は劣勢であり、最後の巻き返しの切り札であのようなパフォーマンスをせざるを得なかったようだった風に思う。 ただやはりこのシーンは今でもこのように感想に書けるほど鮮烈に残っていた。当時読んだとき、私は既に大学生であったが、実に単純にシェルダンマジックに引っかかってしまった。あれから15年。今この作品を読むと私はどういう風に思うだろうか。 しかし、私の記憶力もここまで。本作は面白かったという感慨は残ってはいるものの、詳細についてはもはや霧の彼方。ただ前作がアンハッピー・エンドだったのに対し、今回はハッピー・エンドだったのは覚えている。やはりそこはアメリカ人なんだろうね。巨悪は滅びないといけないのだ。 しかしあの結末から上下巻もの物語を紡ぎだし、しかも冗長さを感じさせないというのが素晴らしい(詳しく覚えていないけど)。ただ後から振り返ればこの頃、既にシドニー・シェルダンも一時の狂的な売り上げから比べると下り坂であり、人気の高い『真夜中は~』の続編の本書はその右下がり曲線を押し上げるための起爆剤として期待されていたように思う。そして私個人的にもシェルダン作品はここまでという思いがある。 |
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シドニー・シェルダン原作の作品をドラマ化することで数字が取れることが解ったのか、テレビ朝日は本作もドラマ化したらしい。しかしそれは土曜ワイド劇場という2時間枠でのドラマ化であった。しかし本作は実は昔にオードリー・ヘップバーン主演で映画化されたらしいが、全く知らなかった。
プロットとしては比較的単純。大企業の社長が事故で亡くなり、莫大な遺産を相続した娘が他の親族から命を狙われるという物で、ミステリの定型としても非常に古典的であるといえるだろう。 ストーリー展開はもう定石どおりで、最初に命を狙う会社の重役連中の人となりがエピソードを交えて語られる。それぞれに大金が必要な事情があり、誰もが命を狙ってもおかしくない。 で、娘のエリザベスが何度も命を落としそうになるわけだが、やっぱりこの辺の危機また危機の連続というのは確かにクイクイ読ませる。 ただここまで来ると読む側もこなれてきて、パターンが読めてくるのだ。特にシドニー・シェルダンの人物配置が常に一緒なのが気になる。主人公はいつもヒロインで、それをサポートする魅力的な男性がいる、そして2人で降りかかる災難や危難を乗り越えていく。絶体絶命のピンチになった時にこの男性が颯爽と現れ、カタルシスをもたらすというのが、共通しており、それは藤子不二雄の一連のマンガのキャラクター構成がほとんどの作品で共通しているのに似ている。いじめられっ子の主人公にそれを助ける特殊能力を持ったキャラクター(ドラえもん、怪物くん、オバQ、etc)、いじめっ子とその子分、そして憧れのヒロインとほとんどこの構成である。これは両者が自分の作品が売れる黄金の方程式を見つけたということなのだ。で、私はこういうマンネリに関しては全く否定しない。なぜならマンネリは偉大だからだ。この基本構成を守りながらもヒットを出すというのは作者のヴァリエーションに富んだアイデアが必要だからである。そしてこの両者はそれを持っているのだ。これはまさに才能と云えるだろう。 さて本作では他の作品と比べて、意外と先が読める。さらには最後に明かされるエリザベスの命を狙う犯人も案外解りやすい。巷間ではそれが他の作品よりも評価がちょっと低い原因となっている。でもシェルダン作品を初めて読んだ人はどうなんだろうか?私は今まで何作か読んできて、作者の創作テクニックに馴れてきたがために見破れたように思える。なんせこの時まだ高校生だし。 しかし本作は私にある一つの希望を与えてくれた本でもある。本作でヒロインのエリザベスをサポートするリーズ・ウィリアムスという人物の生い立ちだ。彼は貧しい家の出ながらも一生懸命努力して一流企業でその地位を固める。それだけならばまだよくある話なのだが、彼は自らを磨き、どんな場所に出ても恥ずかしくない、社交界でのマナーを身に付け、洗練された人物となり、周囲の信頼を得るのだ。それがゆえに自分が貧しい出自であったことをちらりとも窺えさせない。 私も決して裕福な家庭ではなく、それどころかむしろ貧しい家庭の部類だったといえよう。しかし本作でのリーズの生き様は努力すれば自分も洗練された男になれるかもしれないという希望を与えてくれた。今の自分を振り返って果たして自分が洗練されているかどうかはわからないが、両親が私を育てくれた環境よりは裕福だし、それなりにいいお店に出入りもでき、そういう場所での振舞いもそつなく出来るようになった。思えば今の自分があるのはこのリーズの影響が強かったように思う。高校のときにこの本を読み、リーズのような男に出会えたことは私にとって非常な幸運だったのだろう。 本書はシドニー・シェルダンのこれまで読んだ所作では出来栄えという点では確かに面白いけれども並みの部類になるだろうが、このリーズというキャラクターのお陰で私の中ではちょっと特別になっている。 |
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さて私がシドニー・シェルダンの作品の中で何が一番面白かったかと問われれば、本作を躊躇なく挙げるだろう。というよりもシェルダンの作品を読んだ方の多くは『ゲームの達人』か本作を挙げる方ばかりではないだろうか。
当時からシドニー・シェルダンの小説は社会現象になるまでになったと思うが、本作でその頂点を迎えたように思う。日本でドラマ化されたのもむべなるかなと思うくらいストーリーに起伏があり、先が読めない作品だ。『ゲームの達人』もドラマ化されたがあれは当時まださほど普及していなかったNHKの衛星放送であり、万人が見れるものではなかったが、本作は民放局のテレビ朝日がゴールデンタイムにドラマ化したのだ。それからも本作の人気の高さが伺えるものと思う。今でいうならば『ダ・ヴィンチ・コード』を日本の民放局がドラマ化すると同じくらいか(違う?)。しかし私はこのドラマを観なかった。本のイメージが崩れると思ったので、それは家族全員意見が一致し、一度もチャンネルを合わせる事はなかった(たしか当時母がノエル役の黒○瞳をあまり好きではなかったことも一因だったように思う)。個人的には過激な描写(特にノエルのパート)の多い本作をどう映像化するのかと、思春期独特の好奇心があったのだけれど。 まず開巻してすぐに本作のクライマックスから始まる。それは世界中が注目する大裁判が開かれようとしているというシーン。つまりここで物語の収束する先を読者はあらかじめ知らされるわけだ。しかもこの裁判というのが実に大規模。なんせその裁判を傍聴せんがために自家用ヘリや自家用ジェットまで動員して世界中のセレブが我先にとその地を訪れるという派手さ。この時点でもう読者である私は物語に釘付けである。 そこからはシドニー・シェルダンのいつもの作風とも云える主要登場人物の成立ちが語られる。しかし本作の面白さは並行して語られる主人公の2人の女性の対照的な人生に尽きるだろう。キャサリンとノエルの生き様はまさに太陽と月のような趣で繰り広げられる。 いつも天真爛漫で想像するのが大好きなキャサリンと不遇な出自から貧しい人生を運命付けられたノエル。どちらも美貌を備え、持ち前の行動力で自らの人生を切り開いていこうとするヴァイタリティに溢れている点では共通しているが、その生い立ちはかなり異なる。 特に衝撃的なノエルの方。というよりももはや読んだのが20年くらい前でもあることで強烈な印象を残すノエルの方しか覚えていないというのが正直なところだ。 金持ちと結婚することを人生の目標とし、己の美貌を武器にのし上がろうとする彼女は悪女になることも辞さず、体を売ることも厭わない。特に今でも鮮烈に覚えているのは堕胎のシーンだ。確か妊娠の相手は本作の中心人物のプレイボーイのパイロット、ラリーだったと思うが、彼女を裏切った恨みを、憎しみを敢えて体に染み込ませるために堕胎が危険と思われる妊娠月まで子供宿し、医者に掻き出させ、最後にはハンガーのフックを自ら膣に突っ込んで引きずり出すという恐ろしいまでの女の情念を滾らせる。このシーンは魂が冷えたなぁ。 本作で忘れてはならないのはコンスタンティン・デミリスという大富豪の存在。彼は本作では影の主人公というべき存在になっている。貰った恨みは決して忘れずに、復讐する。それが何年経とうが、相手が忘れようが必ず行うという大富豪だ。金持ちは寛容であるという定説を覆すかのような人物設定に、当時は映画『アンタッチャブル』でデ・ニーロが演じたアル・カポネを重ね合わせていたが、作中では確か小柄ながらも髪はふさふさで中肉の体型だったように描写されており、全然イメージが違う。 で、最後に立ち上るのはデミリスという男の恐ろしさ。彼はやはり復讐を忘れなかったというのを最後に読者の眼前に叩きつける。詳細を書くとネタバレになるので云わないが、この結末で本作は傑作と呼ばれるようになったように思う。そしてシェルダン作品では珍しく続編を匂わす閉じられ方をしており、事実、『明け方の夢』という続編が書かれる。 本作でおなかいっぱいになり、これ以上何を書くことがあるのかと思いきや、その続編もまた読ませる内容になっており、巻措く能わずを約束してくれる。それはまたそのときに感想を述べたいと思う。 |
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当時『なるほど・ザ・ワールド』という世界のトピックをクイズにした番組が人気を博していたことは記憶に新しいと思うが、その中でスペインの牛追い祭について放送されたことがあった。その映像は衝撃的で、映像の中には牛の角に太股を刺されて突き上げられている者や、転倒して人ごみの波と牛の大群に踏まれて消えていく者も散見され、実際死者も大勢出ているようで、スペイン人ってやつは無茶するなぁと思っていたが、本編はその牛追い祭から幕を開ける。その狂騒を利用してバスクのレジスタンスが行動を起こす、そんな内容だったように思う。
シドニー・シェルダンはアメリカの作家でありながら、作中の舞台をアメリカに固定せず、南アフリカやスペイン、ヨーロッパ諸国と実に多彩だったように思う。高校生当時はアメリカでさえ小説の舞台として馴染みの薄い国だったので気にならなかったが、数多の海外作品を読んだ今振り返ってみると再認識させられる。 で、本作はハイメ・ミロ率いるレジスタンス軍と修道院の尼僧4人が逃亡行を共にする内容で、これがまた読ませる。普通、レジスタンスの人質として追随する修道女ならば世間知らずゆえに恭順にならざるを得ないのだが、選らばれた4人は無色透明な修道女にあって、それぞれに複雑な事情を持った異色の存在。この辺の味付けは上手いね。特に4人の修道女の性格付がたくみであり、私はその中でも特に犯行からの逃走中に隠れ蓑として修道院に入ったルチアがお気に入りだった。 そしてこの状況の変化で4人の修道女たちも変化を強いられ、厳格な規律に守られた修道院生活ゆえに、心に波立てることなく毎日を平穏に暮らし、神へ仕える日々に人生の喜びまで見出していた彼女らが、世俗とレジスタンスらの男に感化され、俗性を取り戻していく。しかし確か1人はどうしても俗世に馴染めず、次第に狂っていき、そして最後に驚愕の行動に出るところは、人物が人物だっただけにかなりの衝撃を受けた。 前にも述べたがシドニー・シェルダンの描く世界は当時高校生の私には全てが未知であり、全てが新鮮に映った。冒頭の牛追い祭の荒々しい始まりから、静謐な修道院での生活へと動から静へ移る物語の運び方は話の抑揚のつけ方としては抜群であるし、今読んでも引っ張り込まれるだろう。 本作でスペインの複雑な民族事情を知ったのはまさに幸運だったと云える。その後の人生で折に触れ、このバスク地方とスペイン政府との抗争に触れる機会があり、この本を読んだことが予備知識となり、理解が早かったからだ。知的好奇心に満ちていた高校生の頃に読んだというのもまた最良の時期だったと思う。 そして本作から私は自分の小遣いでシェルダン作品を買い出した。そして私が買った本を弟はもちろんのこと、両親まで読み出す始末。しかし当時は自分でハードカバーの本、しかも外人の書いた小説を買うことが自分の中で大人の第一歩という一種のステータスのようになっていたように思う。そして本作がその対価に見合った作品だったのだから、小遣いの使い道としては良かったわけだ。 しかし今まで作品はタイトルが作品を表していることは解ったが(『ゲームの達人』も高校生の知識でもおぼろげながらも理解できた)、本作は解らなかったなぁ。この後続く作品はそんなことなく、上手いタイトルだなと思ったが。今読んだら解るのだろうか? |
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『ゲームの達人』でその面白さに開眼した私は、生来のコレクション癖も手伝ってしばらくこの作家の新作が出るたびに買っては読んでを繰り返していた。
で、この作品も導入部からスリリングに展開する。なんと結婚を控えた主人公の女性がいきなり逮捕され、刑務所に入れられてしまう。幸せの絶頂から不幸のどん底に落とされるというシチュエーションは数多の本を読みなれた現在であれば、さほどの驚きはないものの、当時は本当に開巻と同時に物語に惹き込まれたものだ。 で、本書を読んでもう20年近く経つのに未だにこの主人公の名前は覚えている。トレイシー・ホイットニーというのがその名前なのだが、読んだ当初は何かの冗談かと思った。というのも読書当時2大黒人女性歌手が有名で、片方は今でも知名度が高いホイットニー・ヒューストン。そしてもう1人はトレーシー・チャップマンというアコースティック系のアーティストがいたのだ。作者はこの2人の名前を組み合わせたのかしらと読中そればかりが頭を駆け巡っていた。 さて本題に戻るが、本書の特徴は銀行員から資産家との玉の輿に乗った、才色兼備の女性トレイシーがその運命の悪戯から刑務所に入り、それから自らを罠に陥れた者たちへの復讐のため、刑務所を脱獄し、稀代の女詐欺師に転身するという設定にあると思う。 大体高校生の読むライトノベル系の小説ならば勧善懲悪物が一般的であり、この展開は当時の私にとって新鮮に映った記憶がある。書き忘れたが『ゲームの達人』の主人公ケイトも決して聖人君子などではなく、むしろ自らのエゴを満たすためには殺人さえも厭わない残酷さを持っていた。そういう善悪の曖昧さみたいなものをシドニー・シェルダンの作品で学んだように思う。 そしてうろ覚えなのだが、確か男の詐欺師のライバルが現れ、2人で腕を競いながらも惹かれ合うというベタな展開も、マンガばかり読んでいた当時高校生の私にとってはすんなりと受け入れられ(そういえば『キャッツ・アイ』というマンガもありました。その頃ではないけど)、素直に作者のサービス精神を喜びつつ読んだ記憶がある。 しかしそんな世間を知らない高校生の私でも本作に挙げられていた詐欺には首肯しがたいものがあった。 確か豪華客船で行われる世界一のチェスの名人2人とトレイシーが対決するシーンがあったと思うが、あのトリックにはどう考えても無理があるだろう。ネタバレになるので詳細は省くが、同じ船上にいる客が移動しないとでも思っているのだろうかとだけ苦言を呈しておこう。 また確か本書であったと思うが、最新鋭の計算機の売り込みで大金をせしめるという詐欺があったが、あれも少し考えれば気づくはずである。実際私はそのトリックに途中で気づいた。ネットがない時代とはいえ、少し調べれば解るはずである。 その点が私をして満点を与えることができない理由になっているのだが、それでもやはりトータル的には面白く、もうこの作家、一生ついていくぞ!とまで決意した。 そしてシドニー・シェルダン熱は私の高校(クラス?)で過熱していき、学園祭で作った創作ビデオのタイトルは『明日があるから』というパロディめいた題名をつけるまでに至った(しかしその内容は全く本書とは関係なかったことを付記しておこう)。 そして数年後テレビでアメリカドラマ版が放映された。作中で絶世の美女のように描かれていたトレイシーをどんな女優が演じるのかと期待パンパンに膨らまして観た思春期の私はその普通っぷりにかなり失望した。いや、美人ではあるのだが、ごく普通の美人だったのだ。シドニー・シェルダンの描く美人の容貌の描写は思春期の私には想像を絶する美女の競演のように想像が膨らんだ。これも彼の功罪の1つといえる。 |
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小学校の頃は雑多な物を読み、特にケイブンシャとか学研から出ていた『~大百科』、『~入門』なる一連のシリーズ本、あと『マンガで読む日本の歴史』といった図書館に陳列されていた本を無作為に読んでいた覚えがある。元々本を読むことが好きで、なおかつ色んな知識(トリビア?)を吸収するのが好きな子供だった私はこれらの本が妙にあっていた。
で、中学になると図書館にずらっと並んだポプラ社の江戸川乱歩の少年探偵団シリーズに没頭し、はたまた教科書に作品が掲載された星新一氏のショートショートにも傾倒し、さらには当時ドラクエに代表されるRPG全盛の時代に出版された『ロードス島戦記』に歓喜していた毎日を送っていた。 で、今回この感想を書くにあたり、さてどこから始めようかと思案した。最初は敬愛する星新一の諸作から感想を述べていこうと思ったが、その大半の書籍は九州の実家に今も眠っており、どのショートショートがどの作品集に収録されているか、手元に本がない今となっては不明でもあるため、挫折した。 そこでここは一般に大人が本屋で手に取る作品から感想を挙げるべきだろうと誠に自分勝手な基準を設け、まずその端緒として本書を挙げることとした。 本作について、現在40歳以上の方々をおいて知らぬ人はいないだろう。当時TV朝日だったか「はなきんデータランド」なる週一の各ジャンルの売り上げランキング番組があり、その書籍部門で毎週ランクインしていたのが本書だった。 『ゲームの達人』という煽情的なタイトルは当時ゲームっ子だった私を刺激したが、表紙を見るに、どうも自分が想定しているような、ハドソンの高橋名人のような1秒間に16連射できるシューティングゲームの達人といった内容でないことは子供心でも解った。したがって毎週この本売れているようだけど、どんな本なんだろう?と思っていたにすぎなかった。 本書を手に取るきっかけは高校の同級生の勧めだった。当時クラス、いや学年でも常に1,2位の成績を取っていたK君が私に貸してくれたのだ。当時からK君は大人びており、外国の作家の小説などは親が買ってくれた世界文学全集ぐらいしか読んだことなかった私は、さすがK君は一歩抜きん出ているなぁと感心したものだった。 で、本書だが、売れるだけのことはあり、すごく面白かった。小説とはこういう物を指すのかと初めて意識した作品だったように思う。 親子4代に渡る大会社経営者の波乱万丈人生の顛末は普通の人生を生きてきた自分にとって想像を超えた世界だったし、ジェイミーがなんども窮地に陥りながらも、とうとうダイヤモンドの原石を見つけ出し、その後手ひどい裏切りを受けながらも、会社を設立するまでの苦難の数々にアメリカン・ドリームを見、またそれが単に「棚ぼた」でなしえる物でなく、九死に一生を得るほどの苦難を乗り越えないと成功は手に入れられないことを知った。 またその娘ケイトが物語の中心となるが、その気性の激しさに女性の恐ろしさを、さらには彼女の孫娘達をシェルダンがまばゆいばかりの美貌で描写するがために、どれほどの美人なのかと想像も掻き立てられた。そして私にとっては少々、いやかなりハードな濡れ場の描写に思春期特有の興奮を覚えたものだ。 またケイトの会社が社会的成功を収め、着実に帝国を築いていきながらも、家族の関係は常に泥沼であり、志半ばで斃れる者も数多あり、本当の幸せとは一体なんなのだろうかと考えさせられもした。 このようにこの小説は私にとって小説を読むことを多面的に教えてくれた作品だった。この本はその後、うちの家族の中でも回し読みされ、普段本を読まない弟さえも手に取り、2人で色々内容について話し合った記憶がある。こんな小説は本当に珍しい。 その後私はシドニー・シェルダンの新刊が出るたびに、購入することになる。当時ハードカバーで1冊2000円近かったと思うが、高校生・大学生と金のない時期にもかかわらず、自分の小遣いで買っていた。 アカデミー出版社が当時売りにしていた超訳という、翻訳家が訳した文章を作家がさらに小説として文章を練り直し、書くという手法は確かに翻訳本としては読みやすく、日本の作家のそれと違和感なく入り込むことが出来たのも、本作が広く読まれた一因だろう。しかしその功罪が解るのはかなり後になってからの話である。 |
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