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Tetchy さんのレビュー一覧
Tetchyさんのページへレビュー数1418件
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更科ニッキシリーズの第1作がこの作品。
前回読んだ『だれもがポオを愛していた』はこれに続く作品となるが、一致する登場人物は主人公の更科ニッキのみで、『誰もが~』ではこの事件については触れもされないから単独で楽しめる作品となっている。 実業家の邸宅で起こる3つの殺人事件。現場は全て同じ部屋でしかもジグソーパズルがばら撒かれていたというシチュエーションが一緒というのが本書の事件。 作者は各章及び犯行現場の見取り図をそれぞれパズルのピースに見立て、102片のピースが出揃った時点で読者への挑戦状を提示する。久々にトリックとロジックに特化した本格ミステリを読んだ。 そしてやはりこのシリーズ探偵更科丹希の性格には反感を覚えずにはいられない。殺人事件の謎解きが好きだという点は甘受してもいいが、事件の捜査の過程で人の秘密を暴いてバラすのが好きだと云ったり、犯人の仕業、例えば今回の事件では殺人現場にジグソーパズルがばら撒かれていることに意味がないと嫌だと云ったり、ましてや謎解きの材料がもっと集まるために誰かもう一人死なないかな、などと人の命を軽視する考えを示すに至っては、例え才色兼備であっても、こんな探偵なんかには助けてもらいたくない!と思わざるを得ない。 エキセントリックなキャラクターを案出するのはいいが、本格ミステリが殺人事件を題材にした読者との知恵比べ的要素を前面に押し出した小説とは云っても探偵が人非人であってはならないと思うからだ。人道的、道徳的な感性が欠如しているこの更科丹希という女性がどうしても好きになれない。 そして彼女の推理方法というのが動機には頓着せず、現場に残された証拠と事実のみを重視してトリックを解き明かし、犯人を限定するというもの。 これはつまり裏返せば読者への挑戦状を提示しているが故に、本書に散りばめられた各登場人物の裏側に隠された事情は推理の材料には一切ならないと公言していることになる。 確かに純粋な作者と読者との推理ゲームに徹する姿勢はいいとは思うが、それを極端に演出する為に探偵役の性格を上記のように設定するのはいかがなものか。 そしてやはり推理小説は小説であるから、理のみならず情にも訴えかけるが故に驚愕のトリックやロジックもまた読者の心の底にまで印象が残るのでは、と個人的な見解だ。 「小説を読むことは人生が一度しかないことへの抗議だと思います」 という名言を残したのは北村薫氏だが、この言葉が表すように心に何か残るものがなければ小説ではないのだと私は思う。 自分には起きない出来事を知りたいから、疑似体験したいからこそ人は物語を書き、読むのだ。だからパズルだけでは今の時代では認められないのではないだろうか? こういう作品を読むと私はもはや本格ミステリを読むことは出来ないのではないだろうかと懸念する。読書を重ねるうちに嗜好が変わってしまうのは否めないだろうが、本格ミステリから読書の愉しさに目覚めた私にしてみればこれはすごく寂しいことである。 この真偽については次に小学生の頃からミステリに離れていた私を再び読書好き、ミステリ好きに開眼させてくれた島田荘司氏の作品を読むことで再度確認したいと思う。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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すこぶる腕の立つ私立探偵なのだが、三度の飯よりもサーフィンが好きなせいでそのためにはどんな依頼よりもサーフィンを優先する。そんな魅力的な探偵ブーン・ダニエルズがウィンズロウの新シリーズの主役だ。
まずもうのっけから作品世界にのめり込むほどの面白さ。ところどころに織り込まれるエピソードが面白く、一気に引き込まれてしまった。 恐らく亡くなった児玉清氏が存命で本書を読んだなら快哉を挙げること、間違いないだろう。 まずブーン・ダニエルズの造形が素晴らしい。 両親ともにサーファーで母親が妊娠六ヶ月の頃から波に乗っていた、「海から生まれた子」。2歳で親父のサーフィンボードに乗せられ、7歳で初サーフィン、11歳で新米サーファーとなり、14歳になる頃には数多のプロサーフチームからスカウトを受ける―この件で登場するブーンの両親たちが実に愛情に満ち溢れていて素晴らしい―。 しかし純粋にサーフィンを愉しみたかった彼はその道を選ばず、刑事になり、その職を辞し、私立探偵業を営む。 そして彼を取り巻くサーフィン仲間“ドーン・パトロール”の面々の造形もまた実に魅力的なのだ。 日系人でサンディエゴ市警殺人課刑事のジョニー・バンザイは仲間のブレイン的存在。 水難救助員のデイヴ・ザ・ラブゴッドはギリシア彫刻のモデルになるほどの美男子でナンパ成功率100%。 チームで一番の若手ハング・トゥエルブはサーファーショップの店員でいいムードメーカー。その仇名の由来がまた実にウィンズロウらしい―なんと足の指が12本あるのだ!―。 海に入ると水位が上がるとまで云われている160キロの巨漢ハイ・タイドはサンディエゴ公共事業課作業監督だが、何しろ食べ物に詳しい。 そして紅一点サニー・デイはブーンを凌ぐサーフィンの腕前でウェイトレスをしながらプロサーファーを目指している、夢に出てくるような“カリフォルニア・ガール”。 もうこの彼らの人物設定だけでこの物語が面白いものになると確信してしまった。 そして彼らがいかにブーンと関りあうことになったのか、それらのエピソードがどれもキラキラとして美しい。 幼馴染の頃からブーンと親しい者や決して幸せでなかった者が彼に声をかけられることでサーフィンというやり甲斐を見つけ、“ドーン・パトロール”の仲間になっていく。 とまあ、ご機嫌な奴らが繰り広げられる物語はオフビートな語り口で軽快に流れていくのだが、ブーンが捜査していくうちに判明する真実は重い。 カリフォルニアの燦々たる陽光の下で繰り広げられた物語に、光が強ければ影もまた濃くなるという犯罪社会の現実をウィンズロウは痛烈に投げかける。 本音を云えば、前作『フランキー・マシーンの冬』のように痛快に物語を突っ走って欲しかった。最後の展開はあまりに重く、なかなかページを繰る手が進まなくなるような描写もあった。 『犬の力』でメキシコの悲惨な社会状況を教えてくれたが、人身売買、少女買春のエピソードが頻出する後半のテイストはそれに似ている。 しかし『カリフォルニアの炎』、『フランキー・マシーンの冬』と(間に『犬の力』を挟むものの)ここ最近訳出された作品には共通してサーファーが主人公になっている。 しかしこれらの作品と決定的に違うのは今回はサーフィンが人生を彩るスパイスに留まらず、サーフィンの申し子のような男であり、また彼の仲間とサーフィンチームを作っており、それぞれも個性的な面々であるという点でサーフィンに対する想いが一層強くなっていることだ。 本書は新シリーズの1作目だと謳われている。恐らく今後もブーンたち“ドーン・パトロール”のメンバー達はサーフィンに興じながら一致団結して事件を、降りかかる災厄を解決していくことだろう。 特にブーンは過去警官時代に解決できなかった少女誘拐事件の犯人の追跡が残っており、これが今後シリーズにどう絡むのか興味深いところだ。 そして今回ビッグ・ウェーヴに見事に乗り、一躍時の人となったサニーの今後もまた非常に気になる。彼女がいるのといないのとではシリーズの彩りが変わることは必定だから、この展開はまさに痛し痒しである。 最後に忘れてはならないのはやはりウィンズロウは名文家だということ。読んでいて思わず心に留めたくなる言葉に満ちている。 “波に乗るのは、水に乗る行為ではない。水は媒介にすぎず、じつはエネルギーに乗っている” “家系というものはあくまで土台であり、錨であってはならない” なんと魅力的な言葉たちではないか。 そして今回最もジーンと残る文章は最後の一行にある(“何であろうと、トルティーヤにのっけりゃ旨くなる”)。それがどんな文章かは読んで確かめて欲しい。 しかし今回訳者が東江氏から中山宥氏に代わったが、全く違和感がなかった。ウィンズロウ作品の読みどころを実によく捉えた文章だ。東江はやはり仕事を多く抱えて、手が回らなかったのだろう。 さて中山氏という優秀な訳者を得たことだし、これからもっと短いサイクルでウィンズロウ作品が訳出されることを期待しよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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ジョン・ペラムシリーズ3作目。なんと前作『ブラッディ・リバー・ブルース』から9年ぶりの刊行だ。
これほどブランクが空いたのはやはりリンカーン・ライムシリーズが受けたため、そちらにかかりっきりになっていたからだろう。 今回の事件は放火。放火事件では日本と違い、警察だけでなく、それを専門にした火災調査官という職業の人間が現地調査に当たる。 ドン・ウィンズロウの『カリフォルニアの炎』でも詳細に語られていたが、アメリカの火災を装った保険金詐欺の現状はかなり深刻で、調査官はまず起きた火災が所有者の仕業ではないかを疑うらしい。したがってそれを裏付ける証拠や状況が見られるものならば、即座にその前提で調査を進めるのだ。 ペラムが撮っているヘルズ・キッチンのドキュメント映画のメイン・キャストになる女性エティ・ワシントンが自分のアパートを保険金詐欺を図ろうと放火した容疑で逮捕される。彼女の無実を証明するため、ペラムはヘルズ・キッチンを駆け巡る、というのが物語の骨子。 ジョン・ペラムはディーヴァーの他の作品のキャラと違い、女性関係が奔放である。映画産業に関わる人間ということで彼に接近する女性も多いのは確かだが、事件のたびに登場人物の1人と寝る。実にアメリカ的エンタテインメント作品の典型的な主人公だと云えよう。 ディーヴァー初期のシリーズであるこの作品が今や彼の看板作品となったリンカーン・ライムシリーズを経て、どのように生まれかわったのかが興味を惹くところだったが、意外にもディーヴァーはライムシリーズやその他のノンシリーズで売り物にしている息を吐かせぬ危機また危機の連続やタイムリミットサスペンスといったような展開を取らず、このシリーズの前2作同様に主人公のジョン・ペラムがじっくりと訪れた町を彷徨し、町に隠された貌を知っていく作りになっている。 登場人物一覧表に記載されてない人物のなんと多いことか。ディーヴァーはそれまでに培った上記の手法を敢えて取らずにシリーズ全体のバランスを優先したようだ。 しかしこれはディーヴァー作品を読んできた者にすれば、逆行した形になって不満が残るかもしれない。 でも長らく中断していたこのシリーズが、ライムが異郷の地で捜査をした『エンプティー・チェア』の後にこの作品が書かれたことは興味深い。もしかしたら『エンプティー・チェア』を書いている最中にペラムシリーズとの類似性に気付いたのかもしれない。 また真相もどんでん返しというよりも通常のミステリが放つサプライズといった感じだ。 ヘルズ・キッチン―なお現在は正式にはクリントンという名前らしい。これはやはりあの大統領に由来するのだろうか―は裏切りの町。誰もが自分を少しでも幸せにするため、出し抜こうとする。そんな町でまたもやペラムは裏切られる。 今回ペラムがどうして赤の他人の人間のために命を奪われそうになるまで捜査をするのか、その理由が判らなかったが、最後の最後で判明する。 これで恐らくこのシリーズは終わりだろう。彼の売れない作家時代を支えたこのシリーズの終焉を素直に祝福しよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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シリーズの主人公エラリイは全く登場せず、純粋にその父親リチャード警視―本作では既に定年退職しているので正確には元警視―が事件解決に当たる物語。
これは現在世間ではエラリイ・クイーンシリーズの1つとして扱われているが、現代ならばスピンオフ作品とするのが妥当だろう。 クイーン元警視が主人公ということで物語の趣向は従来のパズラーから警察小説、いやプライヴェート・アイ小説に変わってきているのが興味深い。つまり証拠を元に推理するプロセスではなく、足と刑事の勘で捜査を進めていき、容疑者を犯人と断定する決定的な証拠がない時点でも直接的に自身の推理を披瀝し、容疑者にプレッシャーをかけるという手法を取っている。これがクイーンのシリーズ作品としては実に珍しいことだ。 そして警察小説ではなく、プライヴェート・アイ小説と訂正したのは既に警察を退職したリチャードがなかなか口を割らない容疑者を落とすため、警察が踏むべき手順を逸脱した捜査方法を取るからだ。 捜査令状を抜きにした不法侵入に証拠捏造。エラリイが活躍する作品では良識という存在だったリチャードがこれほどまでぶっ飛んだことをやるとは思わなかった。 これは思うに作者クイーンが私立探偵小説なるものを書きたかったに違いない。そこで理詰めで考えて行動するエラリイではその趣向には合わないとしてリチャードを退職警官と設定して著したのではないか。 だから肝心の事件の真相は私の予想したとおりだった。これは恐らく当時としてはショッキングな真相かつ驚愕の真相だったかもしれないが、現在となっては別段目新しさを感じないし、恐らく読者の半分くらいは真相を見破ることが出来るのではないだろうか。 もしかしたらそれ故に本書が長らく絶版の憂き目に遭っているのかもしれない。 しかし本書でもっとも面白いのは物語のサイドストーリーとしてリチャード・クイーンとハンフリイ家の保母ジェッシイ・シャーウッドの恋物語が語られることだ。前妻を亡くして30年後に訪れた我が世の春。熟年男女の恋愛が物語の横軸になろうなんてかつてのクイーン作品では考えられなかった演出だ。 63歳という年齢でありながら50代の夫人を魅了するリチャード。やもめが長かっただけになかなか本意を伝えず、不器用で拙い付き合い方を示す彼と看護婦一筋で人生を送ってきたジェッシイのようやく訪れた春を受け入れようか入れまいかと葛藤する熟年同士の恋模様は、今では稀有な純情恋物語としても読め、物語の絶妙なスパイスとなった。 とまあ、今回はリチャードが実は無頼派の気質を持っていることや老境に至ってなお女性を魅了する雰囲気を備えていることなど、シリーズでは垣間見れなかった意外な一面が見れたことで個人的には面白かった。そしてジェシイ・シャーウッドとの関係が次回作以降、どのようにシリーズに関ってくるのか非常に愉しみである。 今までどおり何もなかったかのようにいつもの様子で物語が展開するかもしれないが・・・。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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どうやらシリーズ物らしく、『オレたちバブル入行組』の続編に当るようだ。なぜこんな書き方をするのかと云えば、実はこの作家の作品を読むのは本書が初めて。
乱歩賞作家で名前は認知していたが、食指が伸びず、私の読書人生の線上には乗らないだろうと思っていたが、上司から出張先で頂き、そのまま捨てるにはもったいないということで読んだ次第。 率直な感想としては面白かったといえるだろう。銀行を舞台にした経済小説というよりも企業小説で、主人公の半沢の反骨精神が本書のキモだ。 次長の身分で自らの上司、他部署の部長のみならず、各支店の支店長はおろか常務取締役や頭取までにも食いつく。いくら仕事がデキルからといって、こんなあちこちに自分の道理を通して我が道を行き、歯に衣を着せない言動を行うサラリーマンなんているわけがない。ましては旧弊的な風習の残る銀行業界だから何をかいわんや。 一般企業に勤める私でさえ、読みながらこれは夢物語だ、日本とよく似た世界での出来事だと思ってしまう。 しかしこういう風に思ってしまうこと自体、私が年取ってしまったのだろう。 20代の頃は自分の理想に少しでも近づけようと時に横暴にふるまって意志を通してきた。それがカッコいいと思っていた節もあるし、俺がやらなきゃ誰がやるんだ?といった妙な正義感に駆られていたように思う。半沢を見ているとかつての自分がいるかのように思えた。 しかしこの年になってくると自分を通すことがいかに周囲の理解と協力の下に成り立ってきたのかが解り、またそれによって犠牲にさせてしまったことも少なからずあることを知ってしまった。 だから若いころのように純粋な気持ちで自分を貫くよりも周囲への配慮を優先してしまうようになっていた。 正直云って主人公の半沢は会社という組織の中では異端分子であり、同じ部署で同僚にしたくもないし、もちろん部下にも持ちたくない人物だ。 作者は銀行マンから作家に転向した人だから、銀行マン時代に云いたくても云えなかったことを彼に代弁させていると容易に推測できる。つまり半沢こそ作者の理想像なのだろう。 そして本書を読むサラリーマン全てが自分ではできない言動をわが身を省みずに行う半沢に日頃の鬱憤を晴らすヒーローとして重ね合わせていることだろう。 さて物語だが、半沢を中心に大きく分けて3つのエピソードから成り立っている。 1つは冒頭から展開する融資した伊勢崎ホテルという老舗ホテルの莫大な損益をいかに解決するかという話。 そしてもう1つは半沢のいる銀行からタミヤ電機という会社に出向になった近藤直弼の再生の話。 そして最後は金融庁の黒崎検査官という凄腕の検査官の検査をいかにしのぐかという話だ。 これらは最初は独立していながらも徐々に漸近していき、密接に関わってくる。しかもそれらは有機的に関係を持ち、一方が一方において致命的な原因になったり、また他方では絶体絶命の窮地を打開する切り札になったりと実にうまく絡み合っていく。この辺のストーリーの運び方とプロットの巧みさには感心する物があった。 特に金融業という一般の人にはなかなか入り込みにくい題材を平易に噛み砕いて淀みなく語って読者に立ち止まらせることなく進行させるのだから、この読みやすさは実は驚異的だと云ってもいいだろう。 この面白さに気付くのは本書を手に取った人のみだというのは至極当たり前のことだが、そういう意味では本書は実に題名で損をしていると思う。 実際私がそうだったのだが、バブルを経験していない社会人はバブル入社組に色眼鏡をかけて見ているところがある。戦後まれに見る好景気で名前さえ書ければ馬鹿でもアホでも入社できた時代、そんな認識があるのだ。 特にその頃もてはやされたのはオツムは足りなくても体力に自信のある、いわゆる体育会系の人物で、実際私の勤める会社にもバブル入社の人間は妙に体格のいい人間がそろっており、しかもそういった人種の例に洩れず、尊大で傲慢な人も見受けられる。そんな偏見と先入観を持っていたため、「バブル組」=「バカ集団」という図式があった。しかし本書を読んで認識を改めた。 実は彼らこそ会社における犠牲者なのだということに気付かされた。作中、登場人物の一人で半沢の相棒渡真利が云うには彼らの世代は全共闘世代が何も考えずに金融業を迷走させたツケを払わされており、しかも同期が大量にいるからずっと出世競争に晒され、戦々恐々としているのだと。 今まで私は彼らをそんな風に思ったことはなかった。確かに競争の厳しい世代であるだろうことは解るが、ここまで逼迫した世代だとは思わなかった。 確かにこれがまるまる私の会社に当てはまるとは思わないが、上に書いたような先入観が長らく私の中にあっただけに、この事実は新鮮だった。 今後この作家の小説を読むとは解らないし、おそらくはないだろうが、本書は読んで良かったと思える作品だった。 やはり本を読むということ、その作品をその時に読むということは何か見えざる者に導かれているように以前から感じていたが、今回も同様の思いだ。 さて次に上司はどんな本を勧めてくれるのか。本書を読んでそれが楽しみの1つとなってきた。 |
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リンカーン・ライム3作目はライムのテリトリーであるニューヨークを離れたノースカロライナ州のパケノーク郡なる異郷の田舎町での捜査。
ニューヨークのどこにどんな土があり、どんな建物が建っているか、手に取るように熟知していたライムだが、やはり異郷の地ではそれが通用せず、また現地捜査官の捜査レベルの低さに失望を禁じえない。 作中で例えられているように世界一の犯罪学者と称された彼もそこでは“陸に上がった魚”で、いつものような調子が出ない。 さらにライムとアメリアに捜査協力を頼んだ保安官ジム・ベル―なんと『コフィン・ダンサー』で活躍したローランド・ベルのいとこ!―が殊更に彼ら2人を優遇するものだから、地元の保安官連中は面白くない。そんな軋轢との戦いも今回は要素に加わっている。 さらに今回は今まで師弟関係と愛情を分かち合う強い絆で結ばれていたライムとアメリアの関係に変化が訪れる。なんとアメリアがライムの意見を疑問視し、犯人と思われる少年を留置場から逃がして独自の判断で捜査に臨むのだ。 証拠が全てだという現代に甦ったシャーロック・ホームズとも云えるライムの考えと容疑者に直に対峙したアメリアの直感が錯綜する。云わば理と情の錯綜だ。 そして読んでいるこちらはどちらが正しいのかハラハラしながら読むようになる。 そして今回も追うべき犯人の素性は判っている。ただ前作はライムたちにとって未詳であったが、読者たちにとっては犯人の身元は判っていた。今回はライムたちも判っているところに違いがある。 これがまた曲者で、はてさてどんなサプライズがあるのかと身構えてしまう。 その追われる犯人とはギャレット・ハンロンという16歳の少年。養子として迎えいられたものの馴染めず、浮浪少年のように気に食わない人間がいれば暴力に訴え、拉致したりするという癌ともいうべき存在である。 彼はまた昆虫を愛でる“昆虫少年”と呼ばれており、その知能は年齢にそぐわない専門書を読解するくらい高い。彼はその仇名のとおり、昆虫に関する知識を基に行動し、大人達を手玉に取る。特にハチを味方につけて、生物トラップとして活用し、彼を追う者達へ容赦ない痛手を負わせる。 やはり今回もどんでん返しがあった。それは一概にこれだ!と云えるものではなく、あらゆる要素に亘って読者の予想の上をいく展開を見せていると思う。 特に今回は事件の本質自体が変わっている。前2作が連続殺人鬼対名探偵というシンプルな構成にその正体にサプライズを仕込んでいた。そして今回はライムが協力を依頼されたのは誘拐事件で犯人の居所およびその獲保と監禁されている被誘拐者の救出だったのが、捜査が進むにつれ、本当の巨悪が見えてくるという構図になっている。 しかしなによりも今回のどんでん返しは警官殺しの罪に問われたサックスの処分だろう。これは私も凄いと思った。 どうにもならない事実をひっくり返すのにこれほど得心のいく新事実もない。いやあ、やはりディーヴァーはディーヴァーなのだなぁと感嘆した次第。 またシリーズ3作目になっても更なる鑑識に関する知識を提供しながら、今回は“昆虫少年”ギャレットが作中で色んな昆虫に纏わる習性や特殊な能力について薀蓄を傾ける。 しかし上に述べた様々な手法や技法を駆使してはいるものの、物語としてはいささか盛り上がりにかけるように思えた。 シリーズ物でありながらも作品ごとに趣向を変えるディーヴァー。今回はリアルタイムで殺人が起きるというものでなく、追う者と追われる者の頭脳合戦という構図を描きながら、それを包含する大きな構図を徐々に展開するという趣向だったが、個人的にはライムの唯我独尊ぶりが低減され、逆にこの話ではライムよりも他の人物の方がよかったのではないかと思わされた。 今回は証拠が語る事実を重視する捜査方法よりも捜査経験豊富なベテラン刑事が直感に頼って捜査を進める手法の方が適していたように思う。 さて今回の題名ともなっているエンプティ・チェアーとは「エンプティ・チェアー療法」に由来する。これは空っぽの椅子を患者の前に置き、患者にそこに座っている者を想像させ、色んな質問を投げかけ、それを椅子に向かって応えさせることで、患者の深層心理で抱えている感情を引き出し、更生させるという方法だ。 しかし果たして今回それが題名になるほど物語に大きな役割を果たしていたかというと甚だ疑問だ。私が読んだのは文庫本だが、文庫本の表紙にあるように今回の影の主役は蜂だし、またメインとなるのはギャレット・ハンロンという“昆虫少年”がメインだから、それに倣った題名の方が的を射ていると思う(原文が不明だから憶測でしかないが、やはり『インセクト・ボーイ』か『バグ・ボーイ』なのだろうか?)。 また『悪魔の涙』に引き続いてファンサービスというべき一文があった。ライムがギャレットの隠れ家に来たときに心中でもらす人物、元FBI交渉人アーサー・ポターは『静寂の叫び』の主人公。ここにもまたディーヴァーの作品世界の膨らみを感じさせてくれる演出があった。今回は一行で、しかもライムの心情吐露の部分での名のみでの登場なので気付かない人もいたのではないだろうか。 ということで前作『コフィン・ダンサー』が1作目を超えるエンタテインメント性とどんでん返しの意外性を備えた稀有の傑作だっただけに今回の作品はどちらかといえば“静”のディーヴァーだったように感じた。 しかしこの先の彼の作品がさらに盛り上がりを見せることを知っているがゆえに彼の作品の期待感は高まるばかりだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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全てのモチーフがポオの作品に繋がっていた。そんなポオ尽くしの奇妙な事件。
本書は数あるガイドブックで時折取り上げられる作品。それほど評価が高いのであれば食指が動くというもの。どれどれといった感じで読んでみた。 本書では捜査に当たったボルティモア市警のナゲット・マクドナルド警部の私記という体裁を取っている。そのため、創元推理文庫特有の国内作品の英題表記のページにわざわざその旨が謳われているという芸の細かさにニヤリとしてしまった。 しかも“読者への挑戦状”付のど真ん中の本格ミステリ。久々にこの挑戦状を見た。 だが哀しいかな、この頃には私は既にこの作品に対する興味を失っていた。 あいにく私はポオに疎く、読んだ作品は『モルグ街の殺人』、『黄金虫』、『黒猫』の3作品しかない。本書でメインモチーフとして扱われている『アッシャー家の崩壊』は未読の為、十分に愉しむことが出来なかったのだ。 そのため、作中で繰り広げられるポオの作品に擬えた犯罪の数々と登場人物が折に触れ語るポオ作品との関連性に逆に辟易としてしまった。 こういった作品とはやはりモチーフとなるものに読者もある程度の造詣を持っていないと、乱痴気騒ぎを窓の向こうから見ているような冷めた目線で読んでしまいがちだ。それはある種その仲間に入っていけないものにとってパーティとは騒音以外なにものでもなくなってしまうのと同様に、作中で出てくるポオ作品のモチーフの数々が作品の進行を妨げているようにしか、思えなかったのが辛い。 確かに明かされる一連の事件の流れは確かに理路整然とした本格ミステリなのだが、謎を魅力的にするファクターに乏しかった。それもそのはずで、作者は作中で主人公のニッキに動機や陰謀などは興味がなく、誰がどのように動いたら一番合理的かを推理する方法を探り当てるのが彼女の推理作法だと云わせている。つまり人間の“情” ではなく、あくまで“理”を追及する作品であるのもこの要因の1つだと考えられる。 しかしそれでもなお本書の面白さがあまり伝わらなかった。特に本書ではエピローグの作者の分身ともいえる人物にポオの『アッシャー家の崩壊』に関する新解釈が収録されているが、原作を読んでいない私にとって全く以ってどうでもいいような内容だった。 こんな趣向も含めてもしも私がポオを読んでいたらこの評価もガクンと上がるのではないだろうか? ともあれ久々に自分に合わない本を読んだ。それほどこだわりのない人ならばポオ経験なしでも十分楽しめるが、経験者の盛り上がり様はいかほどだろうか。 次に読む本が読書の愉悦に浸れる作品であることを祈りつつ、この感想を閉めよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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今回はノンシリーズの1作だが、嬉しいことにリンカーン・ライムが脇役で登場する。シーンは短いがその後の捜査に関する手掛かりを提示するので友情出演といった趣がある。
ワシントン市を相手取り、市を相手に身代金を要求する恐喝犯。4時間ごとに無差別殺人を起こすと宣言する男はしかし、殺人を犯すのは別の暗殺者と周到な計画で臨む。 この磐石と思われた犯罪計画が、トラックの運転手のわき見運転による信号無視で脆くも崩れ去る。明晰な脅迫者が突然死を迎えることで斯くも素晴らしいノンストップアクション作品が生まれるのか。 この見えない暗殺者に対抗するのが元FBI科学犯罪文書研究室の捜査官で離職後の今は文書検査士として自宅勤務をしているパーカー・キンケイド。彼の文章に隠された秘密を見抜く力、そしてそれらを分析・解析するプロセスは非常に面白い。直筆の文書も書中に掲載され、その中に隠された犯人の意図や性格を作中の彼の言葉を借りれば、パズルを解くが如く、あれよあれよと解明されていく。 例えば本書の題名は恐喝犯が遺した手紙の筆跡のある特徴に由来する。「i」の点が上に尻尾を伸ばし、水滴のような形を残していて、それをパーカーは「悪魔の涙」と呼んでいたのだ。これら文書に纏わるエピソードはたくさんあるが、特にビックリしたのはインクについて一部のメーカーは製造場所が判るように化学的なタグをつけていること。こんな薀蓄が私の知的好奇心をくすぐってしまう。 さらに取り調べ相手に与えた飲み物を入れたマグの表面に圧力を感知する仕掛けがあって、取っ手にマイクロチップ、バッテリーと送信機が仕込まれていて指紋がその場でデジタルデータとしてパソコンに送信されるなどという驚異のシステムがあることを初めて知った。 ディーヴァーはよく息をつかせぬスピーディな展開とどんでん返しが専売特許のように巷間では賞賛されているが実はそれだけではない。彼の精緻を極める取材力が登場人物たちを実在する人物であるかのごとく、読者の眼前に浮かび上がらせるからだ。 彼の作品に登場するFBI、市警の面々の捜査と彼らが交わす会話のディテールはまさしくその道のプロフェッショナルが放つ言葉そのものだ。だからこそ読者は普段垣間見れない世界を彼の作品を通じて教えられ、実際の捜査がものすごく高度な知的労働であることを思い知らされる。 さらに挙げるならば組み合わせの妙。前述したように本書では世界一の犯罪学者と称されるリンカーン・ライムも登場するが、彼は脇役に過ぎない。あくまで主役は文書検査を生業とするパーカー・キンケイドだ。 思うに今回のプロットはライムシリーズとしても全然損色なく最上のエンタテインメントが作れただろう。しかしあえて作者は文書検査士という職業の者を選んだ。この普段我々が接することのない職業の崇高さ、高度な技術と知識を要することを上手く物語に溶け込ませることで彼が主役であるべきだと説得している。 大晦日のワシントンを襲った無札別殺人テロに対抗する相手が文書検査士なんて発想はなかなか、いやめったに浮かばないだろう。この一見ミスマッチといえる組み合わせを用いながら、さも彼が捜査に加わって中心人物となることが必然であるかのように見せる文章運びの巧みさ。これらがディーヴァーを現代アメリカミステリの第一人者として知らしめているのだ。 さらにモチーフとなる業界や専門分野を登場人物たちの心情に絡ませるのも上手い。 『コフィン・ダンサー』では航空業界の人間をターゲットにしつつ、飛行機に対する思いをロマンスに上手く擬え、さらにライムの窓際に巣食っていたハヤブサのエピソードまでも因子として組み込んでいたが、本書でも同じく文書分析を登場人物の心情に上手く絡ませている。特に捜査班のリーダー、女傑のマーガレット・ルーカスの亡き息子が残した手紙から偲ばれる人柄について一度パーカーは筆跡は人柄を示さないと一蹴して、反感を買いながらも、打ち解けるにつれて「筆跡は精神の指紋だ」と述べ、二人の距離を縮めさせるあたりは非常に上手い。 最初はプロとして腕を買われたパーカーが気概もあったのだろう、あくまで感情をはさまずにプロとして放った言葉を、共に修羅場を経験するにつれて同族意識と愛に似た感情を抱くにつれ、本当の感情を吐かせる、この段階的に親和性を深めさせるプロセスが上手いと思うのだ。 しかしとはいってもディーヴァーを語るにどんでん返しを抜きには語れない。今回も大晦日が明ける夜の0時までの殺人予告というタイムリミットサスペンスを展開しながら、どんでん返しが待っていた。技法としてはけっこう、いやかなりあざとい感じがした。 彼が独白する一連の事件の背後に隠れた計画は、どうにもこじつけのように感じてしまった。 また折に触れ物語の表層に浮上するゲリー・モスの存在が逆に事件との関連がないままだったのが残念だった。議員汚職を告発し、テロに遭って家を失い、自身も重症を負って入院中の身である彼のこの事件がなんらかの因子となるのではと思っていたのだが。逆にこういうところがディーヴァーらしくないと思った。 作品の質としては悪くはない。寧ろ標準以上だろう。先に述べたように直筆の脅迫状を掲載してそれについて主人公パーカーに分析させるなど、読者の眼前で実際のFBIの捜査が繰り広げられているようなリアリティをもたらせている。 だからこそ逆に本書はストレートに終息する方がよかったように思う。どんでん返しが逆に仇になってしまった。また既にディーヴァーに高いハードルを課した自分に気付かされた一冊でもあった。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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【ネタバレかも!?】
(1件の連絡あり)[?]
ネタバレを表示する
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僅か270ページの分量に18もの作品が収録されたクイーンのショートショートミステリ集。しかもそれぞれ犯罪別の課に割り当てられた事件だという懲りようだ。
まずは恐喝課の事件「金は語る」。 イギリスから移住してきたミス・アルフレードというのが推理の鍵だが、イギリス英語とアメリカ英語の違いは日本人には解らないだろう。英語母国圏の人に通ずるミステリではある。 次は偽装課の事件「代理人の問題」は世紀の対決と云われるボクシングのタイトルマッチを控えた1時間半前に挑戦者が誘拐されるという事件が起きる。 身代金引渡しの代理人として指名されたエラリイは何とか犯人を捕まえようと明晰な頭脳を働かせる。これは少し注意をして読めばわかったであろう真相だ。 ネタ的には「金は語る」同様、物に関する呼び方の違いが事件解決の手掛かりになっている。 不可能犯罪課の事件「三人の寡婦」は遺産相続を待つ姉妹の障害となる義理の母親が毒殺されるのだが、その毒がいかに盛られたかを探る問題。 これは一見あざといと思われるが、よくよく考えると作者は細かいところまで仕掛けを施している。 こんな課があるのか寡聞にして知らないが珍書課が手がけた事件「変わり者の学部長」はシェイクスピア研究の権威であるニューヨークのとある大学の教授ホープ博士が見舞われたある災難のお話。 これは個人的ベスト。謎は比較的易しく、正直一瞬にして犯人は解った。 しかし何よりもホープ博士が無意識に発するスプーナリズムという2語以上の単語の最初の音を互いに入れ違って発音する癖が非常に面白い。この癖で通常の言葉がかなり変わった内容になってしまうというのだ。もちろん真相もそれを見事に手掛かりにした物で、さらに題名の原題さえもその言葉遊びに徹しているクイーンの遊び心が憎めない。泡坂妻夫氏が書きそうな一編だ。 ミステリと云えば必ず登場するのが殺人課。彼らの事件「運転席」は鉱山会社の共同経営者である3兄妹が亡き長男の妻に株を買い占められ、退任せざるを得なくなった状況下で起きた未亡人殺人事件の犯人を探るもの。 本書では明記はされていないものの、解決場面の前に一行、間が開けられており、これが暗に問題編と解決編の分水嶺になっていることを示しているのだが、本書においてはそれが機能していない。 公園巡視課という実在するか判らない部課の事件が「角砂糖」だ。 日本のドラマに出てきそうな未解決事件課の事件「匿された金」は強盗が仲間から騙し取ったお金を巡る事件を扱っている。 チェスタトンのある有名な短編を想起させる真相だが、あまりに唐突過ぎる。たった10ページで語らずにもっと分量を割いてほしいところだ。 ここまで来ると何でもあり感が漂う横領課の事件を扱ったのが「九官鳥」。 クイーンでは初ではないかと思われる倒叙物のテイストを含んだ作品。しかし推理の材料が犯行直前に行われたトランプによるくじ引きで誰が指名されたかで糾弾されるのはなんとも非現実的。もっと調べることがあるだろう!と思わされる作品だ。 これは絶対ないだろう、自殺課は。そんな課が扱った事件が「名誉の問題」。 過去の手紙が事件の引き金となる。これは正に『災厄の町』の原型、もしくは同じ主題を扱ったアレンジ作品だ。しかしやはりショートショートゆえに醜聞となりうる手紙の内容そのものには触れず、バークの犯人探しに終始する。バークが遺した文章が手掛かりとなり、犯人が特定されるが、冒頭の1篇「金は語る」同様、アメリカ英語と英国英語の違いが推理の鍵となるのは二番煎じの感が否めない。こちらの方が解りやすいのはあるが。 エラリイが久々にライツヴィルに還って活躍するのが「ライツヴィルの盗賊」。担当は強奪課だ。 本書中、最長の作品(とはいっても30ページ強だが)。やはりクイーンはライツヴィルが舞台となると熱くなるのだろうか。あとやたらと登場人物が頻出し、途中で訳が判らなくなってしまった。 詐取課の事件は「あなたのお金を倍に」という詐欺の事件。 詐欺師の事件を扱いながらも密室消失事件が謎というのはいかにもクイーンらしい。そしてこのトリックはシンプルがゆえに効果的だ。また詐欺の手口もシンプルなゆえに21世紀の今でも行われていると言う意味では今日的ではある。 ここまで来るともう驚かなくなってくる。埋宝課の事件「守銭奴の黄金」はポーの「盗まれた手紙」へのオマージュだ。 壁一面、もしくは床一面に貼りめぐらすという至極単純な解答を予想していたが、作中でも云われているようにこれはポーの「盗まれた手紙」へのオマージュ。つまりいつも目のつくところほど気付きにくいという盲点を利用したトリック。 もはやハリー・ポッターの領域である、続く魔術課の事件は「七月の雪つぶて」。 列車消失という大ネタを用意しながらいささか内容が弱い1作。最後の台詞も効果的だとは思えない。 すごく限定された犯罪の課、儀相続人課の事件「タイムズ・スクウェアの魔女」はタイムズ・スクウェアの魔女と称される女性が疎遠になった唯一の血族である彼女の甥に遺産を相続しようとした途端、甥だと名乗る2人の男性が現れるという話。 唯一“読者への挑戦状”が挿入された1編だが、その謎解きはフェアとは云い難い。 不正企業家の事件「賭博クラブ」もまた詐欺事件がテーマだ。 これも事件の真相よりも詐欺の手口の方が面白い。正直犯人が誰なのかはどうでもよくなってしまった。 ここまで来ると噴飯物の課、死に際の伝言課の事件は「GI物語」。老人が残したダイイングメッセージ、“GI”の意味を解き明かす。 GI=軍隊上がりというのはあまりに陳腐だからさすがにそれを作者はしない。クイーンはダイイングメッセージ物を数多く著しているが、本書もそのヴァリエーションの1つ。 最後から2番目にして久々に実在する課が現れた。麻薬課の事件「黒い台帳」は有力な麻薬売人を記した黒い台帳の移送を頼まれたエラリイが拉致され、丸裸にされたにもかかわらず、件の台帳が見つからなかった謎が挙げられている。 最後、誘拐課の事件「消えた子供」は利発でありながら家庭環境に恵まれない子ビリー・ハーパーの誘拐事件を扱ったもの。 これは誘拐事件の新聞記事を見て覚えていた書面をそのまま書いたというエラリイのロジックの妙に感心した。しかもたった7歳の子が犯罪を犯すというのは彼自身のある傑作を想起させる。 本書はクイーンによるミステリ小ネタ集と云っていいだろう。恐らく長編に成りえなかった事件のトリックを上手く料理して、正味10ページぐらいのミニミステリにしている。確かにそれぞれの事件は小ネタ感は拭えないものの、アイデア一つでは長編になりうるネタも揃っている。 本書における個人的ベスト作品は「変わり者の学部長」だ。とにかく物語の設定にも使われていた単語の一番上の子音と母音を入れ替えて話をするスプーナリズムという症状が非常に面白く、ためになった。 またミステリ界の巨匠とも云える有名な作品へのオマージュがそこここに見られるのも特徴的か。 「匿された金」はG・K・チェスタトンの「見えない男」の影響を感じるし、「守銭奴の黄金」はポーの盗まれた手紙の主題そのままだ。他にもどちらが卵で鶏か知らないか、クイーン自身の作品をモチーフに扱ったものもあった。例えば「名誉の問題」は「災厄の町」、「消えた子供」は「Yの悲劇」といったように。 ただ『犯罪カレンダー』でも感じたことだが、収録された作品のアイデアに非常に似通った物が複数あり、どうも一つのアイデアをヴァリエーションを変えて使用しているように感じた。やはりクイーンは意外と手札が少ないのではと思ってしまう。本書でもその傾向があったのは否めない。 そして今回は日本人にはいささかピンと来ない、解りにくい真相が多かった。 特に英国と米国の文化の違い、言葉の違いが推理のきっかけになっているものが散見され、せっかくの真相がやや腰砕け気味になったのは残念な思いがした。 あとページ数が少ないがゆえに1編あたりの情報量が多かったのも気になった。おかげで6割ぐらいの話がよく読み取れなかった。 恐らくはクイーンは『ミニ・ミステリ傑作選』というアンソロジーを出していることからも、彼自身がこの手のショートショートミステリに興味を持ち、且つ自身でも創作してみようと思ったことが本書の基となったのではないかと推察できる。 ただやはり今の日本本格ミステリは長編、短編共にクオリティが高い為、完成度という点ではやはり劣ってしまう。私の場合はもう免疫が出来ているせいもあって、こんなものだろうと済んでしまうのだが。なかなか人には勧めようと思わない1冊であることが残念だ。 ただ多少、いやかなり強引かと思われる警察の担当課をあてがって検察局の犯罪記録として編んだ構成はやはりただの短編集では面白くないという作者の稚気が見えて、やはりこの作家は晩年になってもとことんミステリが好きだったのだなと思うと、憎めないわけではあるのだが。 しかし挙げられた課の名称は大仰で脱線気味の感が強かった。逆にそれが制約となって注目すべき謎よりも、その周辺の瑣末なことが推理の対象になってしまったのではないかという勘繰りもしてしまう。 やはりたった約270ページで18編は多かった。もっと精選した短編集を次回は望みたい。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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殺人事件が起きずにこれほどハラハラさせられるミステリは最近読んだことがない。そう、“ラブストーリー”と題名に附されながら、これは極上のミステリなのだ。
本書での謎というのは実に上手い語り口で徐々に紐解かれる。 物語はまず2つの平行世界で繰り広げられる。共通するのはバーチャル・リアリティ(作中ではバーチャル・リアリティをさらに発展させた次期型リアリティという設定)をそれぞれの分野で外資系総合コンピューターメイカー、バイテック社のMAC技科専門学校で研究している敦賀崇史と三輪智彦と津野真由子の三人。 一方の世界では崇史と智彦は入社して2年目の社員で、智彦に新恋人が出来、崇史に紹介する。しかしそれは彼が学生時代に彼が乗っていた山手線に並行して走る京浜東北線に乗っていた憧れの君、津野麻由子だった。崇史は親友の幸せを祝いながらも、激しい嫉妬に襲われ、真由子を手に入れたいという恋情に駆られる。 もう一方の世界ではMAC技科専門学校での研修を終え、入社3年目の崇史は麻由子と同棲していた。しかし智彦が麻由子の恋人だったという夢を頻繁に見るようになり、深層心理で智彦に対して罪悪感を抱くようになる。そして当の智彦はバイテック社の本社、ロサンゼルスに赴任していたというもの。 この2つの世界の設定が交互に語られ、まずはどちらが現実でどちらがバーチャル・リアリティなのか、読者は混乱に注意しながら読み進めることになる。 やがて読み進むにつれてそれら2つの異なる時間軸で語られる話が1つのある謎に収束していく。 それは即ち、「記憶は改編できるか?」という謎だ。 『宿命』以後の東野作品を中期とすると、この頃のテーマに頻発するのが「記憶」ということになろう。『宿命』然り、『変身』然り、『分身』然り。そして本書然り。 これらの作品に共通するのは近い未来に成立し得るであろう医療技術が物語の発端になっていることだ。前掲の3作品については未読の方の読書の興を殺ぐといけないので敢えて触れないが、本書では現実と見紛うほどの非現実体験、即ちバーチャル・リアリティの研究から発展した記憶改編が技術として挙げられている。 記憶というのは果たしてなんだろうか?東野氏は『変身』で主人公成瀬にこんな台詞を云わせている。 「脳はやっぱり特別なんだ。あんたに想像できるかい?今日の自分が、昨日の自分と違うんだ。(中略)長い時間をかけて育ててきたものが、ことごとく無に帰す。(後略)」 「それは死ぬってことなんだよ。(中略)かつて自分が残してきた足跡を見ても、それが自分のものだとはとても思えない。二十年以上生きてきたはずの成瀬純一は、もうどこにもいないんだ」 自分が自分である為の証拠。それこそが記憶だと成瀬は激白している。 その記憶を改編することとは自分の足跡を消し、新たな自分を生み出すことではないか? そんな記憶は果たして自分の存在意義を示すのか? 特にこの記憶改編の仕組みを東野氏はぼやかさずに実に合理的に説明している。詳細は本書に当たられたいが、その方法論は実現可能ではないかと思わせるほど論理的だ。 本書では不良に2人囲まれてどうにか逃げ出したという事実を5人に囲まれてどうにか撃退したという風に大袈裟に誇張して語る行為を例に挙げている。 人は年を取るにつれ、現実と理想が乖離していくのを痛感し、理想が適わぬ夢であることを知り、諦めてしまう。だから人は少しでも理想に近づけたくてついつい嘘をついてしまうのだ。 年を取るにつれ、本書の登場人物が抱えるこの想いは痛切に心に響く。そしてそれ以外にも本書には私のツボとも云える設定が盛り込まれている。 まず冒頭の一行目からグッと物語に引き込まれた。山手線と京浜東北線というある区間では双子のように並走するこの路線をパラレルワールドに擬えるところが秀逸。 そしてそれぞれの電車に乗る人々はそれぞれの空間だけで完結し、同じ方向に進むのに何の関係性も生まれないという主人公敦賀崇史の独白がさらにツボだった。 そして毎週火曜日に路線を跨いで同じ車両の同じ位置に立つ女性に恋心を抱くという設定もツボだし、さらに親友の彼女がその女性だったなんてベタにもほどがあるが、好きなんだなぁ、こういうの。 多分これからあの区間を山手線、京浜東北線に乗るたびにこの物語を思い出しそうな気がする。 このような「運命の相手」が目の前に立ち、しかもそれが親友の恋人だったら?実に憎らしい設定ではないか? 主人公敦賀崇史が直面したのはこのような狂おしいまでのシチュエーションだ。親友との友情を取るか、それとも自分の恋情に従い、親友の恋人を獲るか?このなんとも先行きが気になる設定に加え、その本願が成就された1年後の崇史の姿が並行して語られ、そこでは次第に気付かされていく自らの記憶の誤差について崇史が独自に調べていくというミステリが繰り広げられる。 しかし何よりも本書はある一人の人物に尽きる。それは敦賀崇史の親友、三輪智彦だ。幼い頃の病気で右足を引きずるというハンデを背負った彼は明晰な頭脳を持ちながら、不遇な人生を歩んできた。そんな彼に訪れた大きな幸せ。それが恋人津野麻由子だった。 冒頭に私は本書はラブストーリーだと銘打ちながら実は極上のミステリだと書いたが、最後にいたってこれはなんとも切ない自己犠牲愛に満ちたラブストーリーなのだと訂正する。 こんなに心に残る話は無条件で星10を献上したいところだが、『魔球』同様、犠牲を被る相手に不満が残ってしまう。 特に今回は社会的弱者の立場の人間が自ら犠牲になるというのがどうしてもしこりとして残ってしまう。上にも書いたが、不遇な境遇を強いられた彼がようやく手に入れた唯一無二の幸せ。それさえも身障者という理由で諦めなければならないのだろうか? 誰もが幸せになるために選んだ道は実は誰もが不幸になる道であった。 謎は解かれなければならないのがミステリだが、本書においては知らなくてもいいことがあり、それを知ってしまうことが不幸の始まりであった。 『変身』では記憶を自らの存在意義の証と訴えた東野は本書では記憶のまた別の意味を提示してくれた。次は何を彼は問いかけるのだろうか? ▼以下、ネタバレ感想 |
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建築探偵桜井京介シリーズ第8作目。8作目にして舞台は初の海外。イタリアのヴェネツィアである。
本書の前に編まれた初の短編集には桜井の海外放浪時代の事件が書かれていたが、それはこの作品への手馴らしといったものか。元来海外、特にヨーロッパ建築に造詣の深い作者だから、京介が大学を卒業して輪をかけて融通のつく立場になったことも含めてこの舞台は満を持しての物だと云えよう。 やはり海外が舞台になると観光小説の色が濃くなるのか、作者が取材で得たイタリアの風習や各所名所についての薀蓄が施され、実際殺人事件が起きるのは344ページあたり。最後のページが489ページだから、約3/5を過ぎたあたりなので、これは非常に遅いといえよう。アーロン・エルキンズのスケルトン探偵シリーズを読んでいるような感じを受けた。 さらに異色なのは建築探偵シリーズでありながら今回は対象となる建築物がないことだ。羚子が住まう島に京介、神代教授、蒼の一行は向かい、ブランドメーカーの前社長の遺した屋敷に滞在するがその建物に関する衒学的知識を披瀝する場面は一切ない。 今まで事件の真相よりも建物に込められた人の想いを解き明かすのがシリーズの主眼だったのだが、今回は全くそれが見られず、逆に殺人事件に主眼を置いた本格ミステリになっている。 しかしそれでも篠田氏の騙りは浅いなぁと思う。特に賊が襲ってきて無差別に人を撃ち殺すところなんかはその時点で真意が透けて見えるほどバレバレだ。やはり驚愕の真相やどんでん返しをこの作家に求めるのは酷なんだろう。 そしてやはりこの作家、自分の美学に酔っているとしか思えない。最後で明かされる本書の真犯人の動機はなんとも観念的で独りよがりだし、最後に自決するのも昭和の頃の少女マンガを読まされているような感じがした。毎度毎度酷評を連ねて恐縮だが、このような自己陶酔ミステリはどうにも苦手で斜に構えて読んでしまいがちになる。 さらに二十歳になった蒼は成人しても京介とじゃれ合うことを止めない。この辺のBLテイストをどうにかしてほしいものだ。この2人の関係性、特に蒼の同性愛的親愛の情にはついていけなかった。 とどのつまり、シリーズを親しむのは読者がそのキャラクターにどれだけ感情移入し、友好関係を築けるかが鍵なのだ。申し訳ないが女性がハッとするほどの美貌を持つ探偵桜井京介にしろ、成人しても幼稚さと同性愛的愛情表現が抜けない蒼は嫌悪感を招きこそすれ、また逢いたいと思わせるキャラではなかった。ある意味私にはBL小説は向かないことが解っただけでも収穫かもしれない。 これでこのシリーズは打ち止めにしたいと思う。というよりも篠田氏の諸作からは本書を最後の一切手を出さないことにしよう。 他の本格ミステリ読者同様、探偵を擁立しながら本格テイストが薄かったこのシリーズと上に書いた付加的要素が私の求めるものとは違ったようだ。シリーズ当初から仄めかされている京介が抱える闇の正体など気になるエピソードは残るものの、それが今後私をしてシリーズを読ませるだけの魅力を放っているわけではない。 さらば桜井京介。シリーズ半ばだが、我、君の許を去らん。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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クーンツ版フランケン・シュタインシリーズ第2弾。実は最近のクーンツ作品ではとびきりに面白い作品だと感じ、新刊が出るのを愉しみにしていた。
物語は前作からの続き。時系列的にもハーカーの死の直後から始まる。つまり連続ドラマを見ているような構成になっている。 本書では前作のハーカーに当たるようなカースンとマイクルのコンビに敵として立ちはだかるキャラクターとしてはヴィクターが生み出したレプリカントの夫婦の殺し屋ベニーとシンディのラブウェル夫妻が登場する。この2人のキャラクターが出色の出来だ。 ハンサムな夫に美しい妻で常に太陽のような笑顔を浮かべている、所謂アメリカの良心とも云うべきような理想のカップルなのだが、その役割が示すように微笑を浮かべながら殺しを履行するのだ。さらにシンディは培養によって生み出された生物でありながら出産願望が常にある。よくもまあこんなキャラクターを次から次へとクーンツは思い浮かべるものだと感心する。 1話完結で紡がれたオッド・トーマスシリーズと明らかに創作作法が違うが、逆に私はこのシリーズの手法の方が先が読めない展開だけに面白く感じた。 またところどころに挿入される小ネタも面白く、その中の1つに登場人物の口から古今東西の小説の名前が出てくる点が非常に楽しく感じた。 例えば前作で読書好きのヴィクターの妻エリカ4に後妻として登場するエリカ5が秘密の培養室に潜り込むときには少女探偵ナンシー・ドルーのように云いながら、いやノラのように勇ましいと訂正する。 前者は恐らく日本の読者でも知っているだろうが、後者は「?」が点灯することだろう。実は私もピンと来なかった。なんとノラとはハメットの『影なき男』に登場する私立探偵ニック・チャールズの妻なのだ。なんともマニアックな選択だ。既読の私でさえ思い出せなかった。 他にもデュカリオンの相棒である映画館オーナーのジェリー・ビッグズがミステリ好きであり、自身の好みを開陳する。曰く 「刑事が先住民だったり半身不随だったり、強迫神経症だったりする話は好きじゃないんだ。それに探偵が料理上手なのも」 それぞれ該当するシリーズが思いつくのではないだろうか。思わずニヤリとしてしまうシーンだ。 また古典『フランケン・シュタイン』の時代から生きてきたヴィクター。彼が今まで生きてきたことで歴史の裏側で時の権力者に関ってきたことがエピソードとして語られる。 スターリンもその中の1人で、彼が行った大量虐殺はヴィクターが自分の意のままに操れる新人類を生み出すことを見越しての行為だったと記される。こういったアクセントは小説好きの興趣をそそる。 そしてやはりキャラクターの妙味を忘れてはならない。 正直に云って主人公のカースン、マイクルのコンビは存在よりもヴィクターと彼が創造したレプリカントや新人種のキャラが立ちまくっている。彼らはヴィクターにあらかじめ人間を殺してはいけない、命令に背いてはいけないというプログラムが施されており、しかも本書では担わされる役割でアルファ、ベータ、ガンマ、エプシロンといった階級分けがされていることが判明する。彼らが旧人種と呼ぶ人間に成り替わって社会生活を営む者からヴィクターの身の回りの世話や研究所の掃除をするだけの役割の者でダウンロードされる情報量が違うという設定だ。 しかし何といってもヴィクターのプログラムゆえに発生するその特異な思考や性癖が彼らのキャラを際立たせているといっていい。前述した夫婦の殺し屋ラブウェル夫妻はもとより、人間の死体を処理する廃棄処理場長、警備主任など、クーンツの奇想のオンパレードだ。 元々クーンツには物語ごとに狂人やフリークを生み出しては読者をハラハラさせていたが、ここに至ってさらにその枠を大きく振り払って、嬉々として健筆を揮っているかのようだ。 しかしその中のキャラクターでも物語を鍵を握ると思われたヴィクターの実験場ハンズ・オブ・マーシーを抜け出した新人種ランドル6が早くも退場するとは思わなかった。しかも主役のカースンの弟に会いに行くという役割的には重要だっただけに、あっさり殺されたのはなんとも呆気ない。 本書を読むとやはりクーンツは三部部作構想だったようで、ヴィクターとデュカリオンの対決を早々に着けようとしているようなせっかちさを感じた。 本書ではレプリカント、新人種の生みの親ヴィクターの制御が徐々に崩壊し、カタストロフィへ向けて様々な事象が描かれる。 細胞分裂を起こし、異形の存在へ変身する者。 抑えていた旧人種すなわち人間への嫌悪感への箍がはずれ、殺人衝動のままに殺戮を起こそうとする者。 レプリカントである自分の存在に絶望し、死を乞う者。 そして前作ハーカーから分離した存在は創造主ヴィクターへの反逆を促し、殺すよう促す。研究所を制御していたコンピュータはバグを起こし、怪物を世に解き放とうとする。 そしてとうとうヴィクターと対面したデュカリオンはどう彼に対抗するのか。色んな謎や不吉な予感を孕みつつ物語は閉じられた。 一刻も早い次巻の刊行を望む。枯れてもクーンツと思わせる次が気になる作品だ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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リンカーン・ライムシリーズ第2作。
当初ディーヴァーはライムを単なるノンシリーズの登場人物として考えていたようだが、あまりにも好評だったため、シリーズ化したと述べている。これが今に至ってディーヴァー人気を決定付けるのだから、全く嬉しい限りだ。 さて今回のライムとアメリアの相手はコフィン・ダンサー。唯一の目撃者の証言からその上腕部に棺の前で女と踊る死神の刺青―表紙絵はそのイメージを捉えるのに大変助かった―があったことがわかり、それ以来通り名として呼ばれている。 前作と違うのは今回はあらかじめ敵の素性が誰なのか示されている点だ。匿名の誰かではなく、スティーヴン・ケイルという固有名詞を持った人物がターゲットを狙う様子が同時進行的に描かれる。 しかしだからといって油断してはいけない。何しろ作者はあのジェフリー・ディーヴァーだからだ。どこにどんなサプライズが潜んでいるか解らない。 特に冒頭のシーンには驚いた。 作品のイントロダクションとしてダンサーの最初の犠牲者が現れるが、この導入部のミスディレクションの冴えは久々にいきなり頭をガツンとやられるほどの不意打ちを食らった。最初の1章で既に私はディーヴァーの術中に嵌ってしまった。 また前作『ボーン・コレクター』の事件から1年半以上経ち、アメリアとライムの関係はもはや前作よりも深まっている。それは師弟関係としてもそうだが、お互いに恋愛感情を抱くまでになっている。 それがライムの葛藤を生み出す。四肢麻痺で現場に出られない自分の代わりに手足となって現場捜査をする存在であるアメリア・サックス。しかし現場の最前線に出ることは生命の危険度も増すことになる。従ってライムは大切な存在になりつつあるアメリアを危険な現場に晒すことを拒むようになる。 通常ならば相棒との信頼関係が深まることで、危険な現場ではお互いがお互いを守ろうとバックアップしあう姿勢が生まれるが、このライムという身動きの取れない人間だからこそパートナーに対する信頼と愛情が芽生えるにつれ、現場に送ることへの危惧と期待のジレンマに陥るというのは実に巧妙なプロットだ。 しかしこのライムの心境については作者はさらに巧妙な仕掛けを施している(かつての恋人クレア・トリリングはライムの指示で現場に向かい、ダンサーが仕掛けた爆弾によってこの世を去ってしまった)。なんとも細部に至るまで抜かりのない作品だ。 そして前作ではやたらと目に付いたライムの自殺願望は今回全く見られない。しかしそれは不自然とは思えない。なぜなら前述したとおり、前作から1年半経っており、彼はアメリアと一緒に仕事することで生き甲斐を見つけ、また技術の進歩から機械を介して照明を点けたり、CDをかけたり、電話を掛けたり、移動したりと健常者と変わらぬ生活をすることが出来るようになったからだ。 しかし今回はそれが逆に仇になる。音声で反応する機械は発生する側が冷静でないとなかなか認識しないのだ。それがゆえに詰まらぬミスで警察官を三名殺させてしまう。つまり自殺願望の鬱状態から新たに身障者が抱く錯覚がライムにとって一つネックになっている。 そして今回も詳述を極めた色んな専門的知識がふんだんに盛り込まれている。 まずは爆破犯に関する知識。概ね爆破犯は一つのテクニックを学ぶとそれを繰り返し使うことが多いとの事。つまり爆弾の種類、手法こそが爆破犯を限定する指紋の役割を果たすことになる。 また現場の血痕の形で犯人の意図や被害者の状況が判ったりもするし、指紋は同一人物の指紋であっても他の箇所から採取された指紋を繋ぎ合わせては証拠としては扱えないことも勉強になるし(アメリカだけの話かもしれないが)、映像解析をするならばJPEGファイルでは解像度が落ちるのでビットマップファイルで保存した方がいい、などとここまで細かい知識が開陳される。 しかし何といってもディーヴァーのその専門的知識が大いに活かされたのは物語の終盤にパーシーが航空機内に仕掛けられた爆弾との格闘の一部始終だ。 正に手に汗握るエンタテインメント。もうこれを読むと生半可な知識で書かれた航空パニック小説は読めなくなるなぁ。 特にこのシーンで重要な鍵となるのがライムの部屋の窓に巣食うハヤブサだ。このハヤブサは1作目から登場している小道具だが、本書では保護者の対象が飛行機業界の人間ということもあるのか、このハヤブサの物語に果たす役割が大きくなっている。 まさか1作目での心理描写用の小道具だと思っていたハヤブサがここまで物語に寄与するとは思わなかった。これぞディーヴァーの構成力の素晴らしさだろう。 そして素晴らしさといえば忘れていけないのはキャラクター造形だ 。2作目にしてますますライム、アメリア、ロン・セリットー、アル・クーパー、そして忘れてならない介護士のトムらのチームワークは団結力を増し、さらに前作では敵役でもあったFBI捜査官のフレッド・デルレイがチームにとって無くてはならない存在までになっている。 彼らに加えて新キャラクターの証人保護システム専門の刑事ローランド・ベル。温厚な性格ながら常に周囲に細心の注意を配り、保護者を守るためには自分の命を投げ出すことも厭わないプロフェッショナル。 また保護される側のパーシー・レイチェル・クレイも忘れがたい。決して美人でもなく、身長も低いがそのコンプレックスが原動力となって全ての航空機の操縦が出来、さらには整備も出来るパイロットの中のパイロット。彼の仕事に対する姿勢にライムは彼に通じるプロ意識を感じ、なんとライムでさえ説き伏せるほどの意志の強さを備える。 そして悪役コフィン・ダンサー。かつてライムが仕留め損ねた凄腕の殺し屋。爆破犯のセオリーを覆し、その都度新しい爆弾を作って殺しを遂行し、耳の形をいじったり、整形したり、傷痕を増やしたり、体重も増減させ、指紋さえも変えるという超人的な暗殺者。 わざと現場に証拠を残してライムに敢えて勝負を挑んだ前作の相手ボーン・コレクターとは違い、ダンサーは殺しの痕跡を残さずに現場を後にする。その中で残された僅かな証拠を採取し、知識と推理力を総動員して立ち向かうスティーヴン・ケイルとライムの応酬は敵の裏の裏を掻く“動”のチェスゲームの如き精緻さを極める。 いやあ本当にページを繰る手が止まらなかった。このダンサー対ライムの姿を描いた本書を読んでいる最中、大沢在昌氏の新宿鮫シリーズの第2作『毒猿』が頭をしばしば過ぎった。 また余談になるが『ボーン・コレクター』のウェブ上で挙げられた感想を読むと、ほとんどの人がリンカーン・ライム=デンゼル・ワシントンと脳内変換していたと書いてあったが、私は実はそうは思わなかった。もちろんこれは映画の影響によるのだが、作中の描写を読むと端正な顔立ちをした髪の長い髭を生やした白人という描写があったので、私は映画『7月4日に生まれて』で主演した時のトム・クルーズを擬えていた。本書で正にトム・クルーズのようなという一節を読んで我が意を得た気がした。 当初は作者は映画化されるときに、ライム役をクリストファー・リーヴを希望したという話をどこかで読んだ気がするが、リーヴに関しても本書では触れられているので映画化に対する不満やしこりがやはりあったのだろう。 これほどエンタテインメントに徹しながらも1作目以降映画化されていないのは不評だったのか、それとも作者の意向なのか判らないが、私見を云わせてもらえば、その理由の一端が本書の行間から見えたような気がした。 冒頭に書いたようにやはりディーヴァーはサプライズを仕掛けていた。しかもかなりメガトン級だ。 久々に地球がひっくり返るような錯覚を覚えたぞ! しかもその明かし方は前作よりもさらに磨きが掛かっている。 いやはや参りました、ディーヴァー殿。 さて次はどんなサプライズを、エンタテインメントを提供してくれるのか、非常に愉しみだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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エラリイ・クイーンといえば、名探偵エラリイ・クイーンにドルリー・レーンのシリーズが思い浮かび、それ以外の作品はないかと思っていたが、本作は数少ない彼のノンシリーズ作品。<シンの辻>と呼ばれるニュー・イングランドの過疎化が進む村で起きた事件を扱った作品だ。
ここで起きるのはこの寒村でアメリカの財産とも云われるほどの画家となった村の誇りとも云える老婦人ファニー・アダムスが何者かによって殺されるという事件。そして折りしもポーランドからアメリカに避難してきたジョゼフ・コワルチックなる男がその近くを通っていたことから、村人たちは彼を犯人とみなし、即私刑を下そうといきり立つ。 これほどまでに村が一致団結して異邦人を断罪しようとするのは、その昔、イタリアからの移民で流れてきたジョー・ゴンゾリが村の指導者ヒューブ・ヒーマスの弟レイバンの想い人を寝取ったことでいきり立ったレイバンがジョーを殺そうとし、返り討ちにあって死んでしまうという事件があったからだ。しかし裁判はジョーの行為を正当防衛とみなし、無罪放免となったという忌まわしい事件があった。それ故に今回の事件こそ司法の手に委ねず、自分達の法に則って始末したいという思いが強かった。 人口たった36人の閉鎖されたコミュニティで起きる殺人事件はいわば村の誰もが家族のような者だから、近所同士の結びつきが強い。つまり村民一人一人が家族のようなものだ。 そんな中で起きた殺人事件。しかも殺されたのはおらが村の有名人で古株で誰もが慕う老婦人だから、村人達は狂気にも似た思いで容疑者を断罪せんと裁判に臨む。 一方容疑者コワルチックを守ろうとするのは<シンの辻>の由来となったシン一族のルイス・シン判事と彼の従弟ジョニー・シンの2人。特に戦争から帰還し、軍隊を去った判事の従弟ジョニーは原子爆弾の落とされた広島の惨状を目にし、人生の意味を見出せぬまま、無職の日々をすごし、判事に付き添う。戦争から帰っても普通の生活になかなか戻れなく、放蕩生活を続けるしかない彼の心情は戦争の暗い翳を感じる。 生きる意味を見出せないジョニーと一人の死に固執し、敵討ちに意気込む閉鎖されたコミュニティの連中。この対比がジョニーにある決意を生む。 この閉鎖された社会での事件というテーマを考えるとどうしてもライツヴィルシリーズが思い浮かんでならない。特にスキャンダラスな事件が起きることで村中の人間が一人の人間に怒りの眼差しを向ける展開は、『災厄の町』を思い起こさせる。本作はライツヴィルシリーズで遣り残したことにチャレンジした一冊とも取れる。 クイーン作品にしては珍しくほとんどが法廷シーンで繰り広げられる。しかし内容は村人が総出で参加する私的裁判であるから、実は無効裁判なのだ。 そんな茶番劇であっても判事や弁護士、検察は手を緩めず、真実を追及していく。村人はいつでも容疑者を有罪にして死刑にせんと息巻いている。 法廷シーンばかりであっても、きちんとロジックで容疑者の無実を判明するところがさすがはクイーンである。 特に超写実主義といえる被害者ファニー・アダムスの絵を巡って推理が繰り広げられ、真実が明るみに出るあたりはもう見事の一言だ。実に上手い小道具だ。 従ってなぜ本書にクイーンが出てこないのかが不思議だ。ジョニーの役はクイーンに置き換えても違和感はなかっただろう。なぜこの作品の主人公がエラリイ・クイーンでなく、元軍人のジョニーなのか。 それは作中でも書かれている戦争による大量虐殺の悲劇とそれがもたらすミステリの存在価値を今一度問うために、戦争を経験した者に敢えて一人の個人の死の真相を探らせることが必要だったではないかと個人的に思う。 ここで思い起こさせられるのはやはり笠井潔氏の『大量死と密室』論だ。以前戦争による無名の人間が大量に殺されることの無意味さ、虚しさについてクイーンは『帝王死す』でも明確にメッセージを打ち出していた。 やはりクイーンはあの作品だけでは足らず、戦争経験者を主人公にすることでさらに深く描こうとしたのではないか。広島の原爆の惨状までもが言及されるのには驚いた。 しかしかつて警察捜査のノウハウすら知らないことが作中でも散見されたクイーンだが、本書では証拠品の保護や現場保存について田舎警官を強く追及するシーンを読んだ時は、第1作目の国名シリーズを読んだときと隔世の感を覚えた。 あれだけ無頓着に現場に立ち入り、指紋付着に配慮せず、勝手に遺留品に触り、時には持ち帰って警察に内緒にするという、およそ警官の捜査を扱った作品とは考えられないほどの非現実さを感じたものだが、本書ではそういう行為をきちんと罰しているところが凄い。やはりハリウッドや探偵クラブなどの交流で警察捜査の知識を蓄えていったのではないだろうか。 閉鎖された空間での魔女裁判を描いた本書。題名が示すとおり、一枚岩と思えた村人たちの団結は実はガラスのように脆いものだった。 地味な作品だが、本書に込められたテーマは案外重い。作者クイーンの犯罪とそれに関与する人間たちの謎への探究は今後も続いていく。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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とうとうリンカーン・ライムシリーズである。
ジェフリー・ディーヴァーの名声を磐石の物としたこのシリーズ。満を持して手に取った。 知恵と知識を使っての連続殺人鬼ボーン・コレクターとの戦い。次から次へ手がかりを残しては殺人を犯すボーン・コレクターと四肢麻痺で厭世観に持ちながらも、かつてNY市警中央科学捜査部長の座まで登りつめ、ありとあらゆる場所を踏査しては知識として蓄えてきたリンカーン・ライムとの丁々発止のやり取りが実にスリリングで面白い。 いや面白すぎる! そして健常者だった頃に暇さえあればマンハッタン中を歩き回り、地理や地質、建っている建物やどこにどんな企業や店があるのかを調べては自分の知識の糧としていたライムの推理方法はアメリアが持ち帰った証拠類から見事な犯人の意図を、絵を描き出す。それは指紋や靴の磨り減り方からも職業や趣味を云い当てるほど、人間というものを知り尽くしている。 特にビックリしたのは私の仕事の分野である建設業で用いられるベントナイトに関する記述だ。 世界一の犯罪学者と称されていたとはいえ、他分野の工法にも精通しているとは、どれだけの知識があるんだ、ライムは!いや、正確に驚嘆すべきは作者ディーヴァーの知識の深さか。 このライムの推理の過程や独自の経験に裏付けられた鑑識道具の数々や手法を読むと、私はどうしても世界一有名な探偵を思い浮かべてしまう。 そう、シャーロック・ホームズだ。四肢麻痺というハンデはあるものの、ライムは現代に甦ったシャーロック・ホームズなのだ。 そして身体の動かせないライムの代わりに手となり目となり鼻となり足となって捜査を行うアメリア・サックスは彼のよき助手ワトソンといったところか。 しかしアメリアは原典のワトソンと違い、父親も警官だった女性警官で、自分というものをしっかりと持った女性だ。従ってホームズ=ライムに逆らい、抗いもするし、また彼を凌駕する発想を持ったりする。実に血の通った人物だ。 そう、今回一読してビックリしたのはこれらキャラクターの造形の深みだ。 まずはやはり主人公リンカーン・ライムのキャラクターの深さだろう。かつては大統領さえも一目置いたという凄腕の鑑識員だった男だが、操作中の事故で四肢麻痺になり、自暴自棄な毎日を暮らしている。あらゆることに退屈し、後は自殺して一刻も早く魂が解放されることを望んでいた。 傲慢で不遜だが、その知識と明察な頭脳はいささかも衰えがなく、犯人ボーン・コレクターの意図を読み取り、次の被害者のいる場所と犯人の居所を残された手がかりで推理する。 そして彼の手となり足となるアメリア・サックス。モデルも経験したほどの美貌の持主ながら父親と同じ警察官への道に進んだ彼女。最初の登場シーンはバランスの悪いルーキーといった感じだったが、反目しながらもライムの凄さを認め、彼のやり方を吸収していく。 この2人のやり取りが物語にツイストをもたらし、ページをくいくい捲らせていく。 そしてライムに援助を求めてきた元同僚のニューヨーク市警殺人課刑事ロン・セリットーに彼の若き相棒ジェリー・バンクス。ライムが信頼する市警の鑑識員メル・クーパー。 そして本書の名バイプレイヤーと云えるライムの介護士トムを忘れてはならない。彼のような身障者を腫れ物に触るが如く珍重せず、通常の人間として扱い、ライムのわがままを無視し、揶揄するヘルパーこそ本来介護士のあるべき姿なのだろうと思う。 そして連続殺人鬼ボーン・コレクター。面白い作品には名主役に匹敵する悪役が必要だが、その役割は十分、いや十二分に果たしていると云えるだろう。 ライムの著書を熟読し、それをバイブルにして鑑識の知識を自家薬籠中の物として、かつての世界一の犯罪学者に挑むボーン・コレクターは人の美しい容姿や肢体といった人間を覆う皮膚には興味を抱かず、その中にある骨に異常なまでの愛情と興味を注ぐ。人を傷つけるにも、骨が損傷しないか気になるくらいだ。 彼の性癖の基となるのが20世紀初頭の1911年にニューヨークを震撼させた連続殺人鬼ジェームズ・シュナイダーの犯行だ。これはあとがきによれば作者の創作のようだが、彼が骨を愛でる記述が昔読んだ楳図かずおのある作品の冒頭に書かれた一節を思い出させる。 「骨は美しい。醜いのはそれを覆う皮膚だ」 確かこのような文章だったように思うが、正にボーン・コレクターの心情がこれだ。時代と東西の文化の壁を越え、同じモチーフで全く違う作品が書かれたことがなんとも興味深い。 このボーン・コレクターの正体を私なりに推理した。 下巻の終わりが近づくにつれて、自分の推理が当たっていることを確信していたが、まんまとディーヴァーにやられてしまった。 さてディーヴァーが自作で開陳する専門的な知識、特に登場人物の職業や性癖などに由来する業界人でしか知りえないようなリアルな情報が毎回の読みどころだが、本書もその例外に漏れず読ませる。 まず挙げられるのは鑑識という作業に関する細かいところまで神経が行き届いた仕事ぶりだ。ミステリ番組やミステリ小説では端役に過ぎないこの仕事だが、いやあ、事件後の現状保存に対し、鑑識員がこれほどまでに細心の注意を払っているとは思わなかった。 この鑑識の仕事にスポットを当てたのは正にディーヴァーの着眼の良さであり、功績だろう。本書に挙げられた情報は膨大な物だが、特に印象に残ったのは現場に入る鑑識員は靴に輪ゴムを巻いて入るというもの。その理由は・・・是非本書で確認して欲しい。 そして四肢麻痺の重度の身障者であるライムが語る身障者の生活の苦労だ。毎日同じことの繰り返しがやがて絶望に変わるというのは先にも書いたが、例えばチョコレートなど甘い嗜好品が逆に楽しみの後の苦痛を助長させるということ。そして歯に詰まっても自分で取り除くことが出来ないこと。つまりこんな簡単なことが出来ない自分に気付かされる事実がさらに絶望を生むということ。 これは全ての身障者に当て嵌まることではないかもしれないが、もし自分がライムと同じ境遇に陥ったならば、彼と同じように感じているかもしれないと痛感したエピソードだ。 そして今回ボーン・コレクターが残す手がかりの解明の端緒となるのはニューヨークの古地図だ。その手がかりと共に古きニューヨークの街並みがライムの口から説明されていくのも知的好奇心をくすぐる。通常ならば小説を読む付属的な愉悦に過ぎないこういった薀蓄が次の被害者の居場所を探る手がかりとして物語に有効に働くところがディーヴァーという作家の凄さだ。 いやあ、この作家は読書好きのツボというものを心得ている。堪らないね。 さて事件を解決しながらも自殺願望の火が消えないリンカーン・ライムのその後が非常に気になる。シリーズはこの後巻を重ね、今も書き続けられているのだからライムの命はまだまだ続いていくのだろうが、そんな予断などが意味を成さないくらいに先の展開が非常に気になる。 本書の評価は先に述べたようにボーン・コレクターの正体に納得のいかなさを感じたことと、最後のライムの凄まじいまでの犯人対決シーンが私の中で役割分担されていた“知のライム、動のアメリア”の構図が見事にひっくり返されたことに対する戸惑いと、そして今後のシリーズでさらに面白い作品があることを期待しているという3つの理由から8ツ星としておくことにする。 まだまだ未読の作品があることがこの上もなく嬉しい。 最後にディーヴァー作品をこよなく愛した故児玉清氏に合掌。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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【ネタバレかも!?】
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建築探偵桜井京介シリーズ初の短編集。桜井の今まで語られなかった若き日に海外放浪をしていた頃に出くわした事件も含めて語られている。
まずは「ウシュクダラのエンジェル」。 正直謎が何なのかわかりにくい作品。そして京介が泊まった時にジブリールと京介の間で起こった何かが夢の内容を表しているようだ。いきなりこんなパンチの弱い作品だということに不安を覚えた。 次はまたもや京介の海外放浪譚である「井戸の中の悪魔」。 パズル要素が強い作品だが、難解なパズルが解けるようなカタルシスは真相には伴わないのが残念。 こういう作品を読むと、元々この作者は謎を作るのが不得意ではないだろうかと思ってしまう。 次はヴェトナムを舞台にした「塔の中の姫君」。 人間消失は本格ミステリでも最も魅力のある謎だが、その魅力ゆえ真相を知るとガッカリしてしまうのが往々にしてある。さて本作は?というとまあ及第点かなと云える。 確かに真相は陳腐だ。暗闇というのはなかなか人には見分けがつかないところなのでこのトリックは十分成り立つことは解る。しかしなんとも大味な感じが否めない。 次の「捻れた塔の冒険」の舞台は日本は福島県の会津若松。 この謎も真剣に考えればアンフェアの誹りを免れない真相だ。恥ずかしながら私は寡聞にして知らなかったが、この二重螺旋のスロープで上れる栄螺堂は実在する建築物だ。WEBで調べると写真が見られるが、それほど大きくない建物で、これは8,9歳の子供が経験した謎というのがミソだろう。 恐らくこの謎は一度行った人ならば解るのかもしれないが、純粋に推理ゲームとして勝負しようとした読者にしてみれば、実に納得のいかない謎だろう。 しかし本書の狙いはそこにはなく、この捻れた塔での幼少の頃の体験がその後2人の女性に落とした昏い翳、つまり自分の悪戯で引き起こした大人まで引きずらなければならない傷を逆恨みした女性の捻れた感情を描きたかったのだ。ちょっと強引な感じもするが、篠田氏の特徴が良く表れた作品である。 また祐美の京介への一方的な愛、つまりストーカー行為が第1作の『未明の家』の冒頭で出てきた建築探偵のチラシに端を発していると推測されるところは感慨深い。 次の「迷宮に死者は棲む」も日本が舞台。広島は尾道と因島をお馴染みの三人が訪れた時に出くわした事件だ。 陰鬱なイメージでいささかホラーめいた雰囲気で語られる作品。深春の高校時代の同級生の過去の因縁話で、深春を好きだった姉の死、同級生松尾の嵐の夜の失踪、そして松尾という人間の不在と、アイリッシュの『幻の女』を思わせるミステリアスな展開はなかなか。 しかし今が幸せな者ほど過去に依存しない、過去を振り返らない。逆に今が不幸な人間は過去の思い出にすがるというのは心に響く言葉だった。 確かにそう思う。この言葉だけでも収穫はあった。 「永遠を巡る螺旋」では再び舞台は海外に。 「捻れた塔の冒険」で登場した相原祐美の怨念が引き起こす事件。まず別の短編の因縁が絡むという趣向が面白い。そして叙述ミステリ的な仕掛けは成されているが、他の作品とは色合いの違った倒叙物であるのが異色だろう。仕掛けは安易で先が読めるため、さほど驚きはないが、収録作中113ページと最も長い作品なだけに物語は読ませる。 また作中深春がBL小説に苦悩し、罵倒するシーンがあるが、これは桜井京介シリーズがBL化された同人誌が多いことに対する作者の心の叫びだろうか?しかし私は原典にもBLの要素が濃いと感じているのだが。 続く2編はいささか趣の変わった作品。「オフィーリア、翔んだ」はある酒場で出くわした初老の男の話。 この作品では桜井京介という名前は一切出てこなく、出てくるのは類稀なる美貌を備えた青年と風貌のみ語られている。しかしそれは最後の幻想小説風味の結末に続くためにあえて作者が仕込んだことだろう。 密室からどうやって出たのか?という逆転的な謎が魅力的なのだが、相変わらず篠田氏の主眼はトリックやロジックの鮮やかになく、あくまで登場人物たちが抱える心の闇だ。 「神代宗の決断と憂鬱」は最も短い25ページの作品だ。 神代教授と京介の一夜の酒盛りで語られる神代教授の真意が面白い。そして少しだけ触れられる京介と教授の邂逅の話も今後の物語への予告として興味深い。 しかしどちらかといえばファンサービスに近いような作品だ。 「君の名は空の色」では深春と蒼の邂逅のときのことについて触れられる。 中身はもはやミステリではなく、蒼と深春の関係性についてシリーズの隙間にあるエピソードを述べたようなものだ。 作中の時期は蒼が成人の日を迎えたときのこと。蒼が虐待されていた忌まわしい記憶の残る邸に行って、特別何かをするわけではなく、過去の記憶が彼にとってすでに終わったこととして片付けられているかを確認しに来たようだ。それは成人の日を迎えた彼にとって避けられぬ成人の儀式のようなものだったのだろう。 最後は桜井京介自身の過去の物語「桜闇」。 神代教授が述べている京介の過去に起きた忌まわしい事件とは別の、高校生の京介が出遭った事件の話。しかし当時の彼はまだウブで殺人方法を看破しながらも女性の色香と魅力に負けてしまう。京介の初体験まで書かれた話。 「君の名は空の色」で蒼が20の時に旧薬師寺家を訪れたように、京介も30を迎えてこの邸を訪れなければならなかったのだろう。孔子は「三十にして立つ」と云ったが、彼が立つためには訣別しなければならない過去の自分があった訳だ。敢えて幻想小説風に耽美に書いているのは桜井京介というキャラクターをイメージしてのことだろう。 冒頭にも述べたように舞台は長編と違い、日本に留まらずトルコ、イタリア、ヴェトナム、フランスへと多彩だが、意外にヴァリエーションは感じない。その理由は後で書こう。 本格ミステリの短編といえば、限られたページ数という制約があるため、物語性よりもトリック、ロジックの切れ味が味わえるが、本書では逆に篠田真由美という作家が本格ミステリにはあまり向いていないことが露呈した作品集となった。 主眼はあくまでもトリック、ロジックの妙味にはなく、長編同様に登場人物の抱える心の闇や建築物に込められた念や思想といった部分に準拠した人の行為が真相になっており、これはもはや本格ミステリではないといえるだろう。 謎自体は非常に魅力的なのにもかかわらず、推理のカタルシスをこれほど感じない短編集も珍しい。 特に似たような謎が多いのが気になった。2作目の「井戸の中の悪魔」、3作目の「塔の中の姫君」、3作目の「捻れた塔の冒険」、6作目の「永遠を巡る螺旋」はどれも細長い建築物や工作物で起きた謎を提示しており、しかもどれもが階段や昇降設備における人間消失を取り扱っている。 あとがきによればこれらは「二重螺旋四部作」と作者自身が名付けているが、要は同じような謎における推理のヴァリエーションで2つも3つも短編を拵えているような感じなのだ。従って個々の作品で開陳される誤った推理が少なく、あえて述べないことで別の作品で使用しようとしていると感じる、とまで書くとさすがに意地の悪い見方になるだろうか。 親切に感じたのは巻末にこれらの短編で述べられている事件の起きた時期と今まで著された長編での事件が時系列に年表として並べられているところ。これを見るとこの短編集は建築探偵桜井京介シリーズ第二部の第1作『美貌の帳』までの事件を全て補完するようになっている。従って本作での時間はすごく長く、蒼が高校に編入する前から浪人生を経てW大学入学の20歳になるまでの期間に遭遇した、もしくは語られた事件(出来事)となる。 そしてそれらは先にも述べたように桜井京介、栗山深春、蒼こと薬師寺香澄、そして神代宗の四者のキャラクターを掘り下げることを主眼にし、さらにシリーズに厚みを持たせることを目的にしているようなので、本格ミステリとして読むとかなり肩透かしを食らうだろう。 逆に云えばシリーズファンが読むとますますのめり込む美酒のような短編集になるということでもある。 しかしそのキャラクターがいまいち私には合わない。深春はこの中で最もまともなキャラクターで好きだが、それ以外はいかにも「作られた」感を思わせる戯画化された造形を感じる。特に蒼は、過去の事件ゆえに学校にも行かなかったことで精神的成長が遅れているのは理解は出来るが、猫のような周囲へのじゃれ付きようは読んでいて怖気が出て鳥肌が立つ。その台詞は「20の男が口にするような言葉だろうか?」と首を傾げざるをえない。特に深春に対する純粋な思いを告げるシーンはほとんどBL小説である。 今までこのシリーズ読んできたが、やはり自分にはどうも合わないようだ。最後を俟たずして次の作品でこのシリーズとは別れを告げよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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日本のミステリ読者にジェフリー・ディーヴァーの名前を知らしめたのが本書。脱獄囚が聾学校の生徒と先生の乗ったバスをジャックし、廃止された食肉工場に篭城して、FBI交渉人との一進一退の攻防を描いた作品だ。
文庫本にして上下巻合わせて760ページ強の分量だが、脱獄囚が篭城するのはなんと第1章の終わり。つまり残りは全て脱獄囚の篭城劇に費やされる。 これはすごい。これほど動きのない物語を作者は色々な情報と不測の事態とを織り交ぜてページを繰らせていく。 今では交渉人を主人公にしたドラマや映画、小説が数々作られ、もはや珍しい存在では無くなったが、それでも本書に織り込まれた交渉術の情報は知らぬ物が多く、非常に興味深く読んだ。 特に交渉人が犯人に話す内容を他の捜査官が聞いてはいけないとは知らなかった。それは犯人に親近感を覚え、いざ撃たねばならないときに決意が鈍るのを防ぐためだ。 また交渉人自身も犯人の心理を探り、親しくなって自首するよう仕向けるため、犯人の気持ちに同調して取り込まれていく恐れがあると作中では語られている。主人公の交渉人ポター自身、仕事をしていて腹を割って話した相手は同僚でもなく、犯罪撲滅に携わる警察や保安官でもなく、交渉していた犯罪者だというのが皮肉だ。それほど交渉人は犯人の心に潜り込み、また自身を晒す。非常に危険な職業だ。 そして犯人に同調し、友人ともいうべき関係になった上で、最後は逮捕すべく裏切らなければならない役割。これは心にかなり負担の強いる仕事だ。長く続けるには精神がタフでないといけないし、また割切れる心を持っていないといくつ心があっても足らないだろう。 ただそうならずに凄腕の交渉人として君臨してきたポターなのだが、最後にそれがゆえに自身の人間の薄さというのに気付かされるのが苦い。 犯人と同調し、友人に近い関係にまでなるのに任務が終わると普段の自分に戻れる。それは彼の超人的な強さなのだが、裏返せば彼はその場で演技をしているだけとも云える。 また犯人と交渉人との鍔迫り合いだけでなく、救出する側の内部でもそれぞれの思惑で暗闘が繰り広げられる。FBIを筆頭に州警察の人間、郡保安官、さらには州法務次官補までが参入し、それぞれの立場と主義を振りかざしてなかなか一枚岩となって人質救出へと向かわない。中には次回の選挙を見込んでどうにか活躍の場を貰い、当選への弾みをつけたい者まで出てくる。 さらに報道協定を結んだマスコミまで勝手に取材を始める始末。凄腕のFBI交渉人アーサー・ポターを想定外の事態が次々に襲っていく。 しかしこういった人物達の思いも判らんでもない。いや寧ろ通常であればポターの交渉を妨害する者たちこそ凡人である我らに近いと云える。 人質、しかも下は8歳の耳の聞こえない聾者たちを監禁し、精神的苦痛を与える脱獄囚たちに相見えた時、誰しもその悪辣ぶりに嫌悪し、撃ち殺したいと思うのではないだろうか? そんな心理状態の中、犯人に同調し、時には犯人と共に声を挙げて笑いさえもする交渉人の仕事ぶりは悠長すぎるように感じ、またなぜ悪党と仲良くなるのかと憤りを覚えることだろう。 この物語は交渉人を主人公に描いているからため、彼を妨害する州警察やマスコミの連中の身勝手さを呪い、罵倒するように思うが、逆に州警察の立場で物語を描くと中年太りでゆったり構えた交渉人ポターは人命などは眼中にない非道漢に映ることだろう。 と、ひりつくような犯人とFBIとの交渉を描いた作品だが、単にそれだけに留まらず、色んな読み方が出来る。 それはやはり交渉人を中心に描きながら、それぞれの立場の人間を配してそれぞれの考えに基づいて行動する人間がいるからだろう。 しかしどんでん返しだけがこの作品の魅力ではない。人質となった聾者という設定ゆえに成り立つサスペンスに特徴ある登場人物の数々。 登場人物表に掲げられた人物は26名と今までの作品の中でも多いが、本書の特徴は彼ら彼女らが非常に魅力的なキャラクターだったことだ。 主人公のFBI交渉人アーサー・ポターはFBI捜査官が襟を正して接する凄腕の交渉人だが、その風貌は腹の出た定年間際のオジサンである。そして結婚記念日には亡くなった妻の墓参りをし、妻の家系図を作ることを唯一の趣味としている。 敵役のルー・ハンディは正にアカデミー助演男優賞を与えるべき存在感を誇る。脱獄囚のリーダーであり、残忍な性格で全てを支配しないと気がすまない男。心労耐えない篭城にも常に落ち着いてポターと接し、あわよくば彼を征服してやろうと手ぐすね引いて待っている危険な男だ。 そして人質だった教育実習生メラニー・キャロルという女性がこの事件を機に変化していくのが物語の隠れたテーマだろう。 本書の原題は“A Maiden’s Grave”、『乙女の墓』という。これは聾者であるメラニーが”Amazing Grace”を聴き間違えたことに由来しているが、メラニーの乙女からの脱皮を表現した題名だろう。 尊敬する兄を事故で片腕となった原因を自分に非があると責め、教育実習生でありながら、常に堂々と振舞っていた生徒のスーザンに引け目を感じるほど自分に自信がなく、親の支配から逃れられなかった彼女がこの事件を契機に生まれ変わる。しかし「墓」と題しているようにそれは成長といういい意味とは限らない。 最後の彼女の壮絶な一面は色々考えさせられる結末だ。 しかし本書に限っては邦題の方に軍配を上げよう。内容的にしっくり来る。 さてディーヴァーの名を日本のミステリ読者に知らしめた本書だが、感想としてあと一歩といった感が残った。ここはあえて7ツ星とさせていただく。これからのディーヴァーに期待しよう。 次は『ボーン・コレクター』だ! ▼以下、ネタバレ感想 |
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本書は短編では名(迷?)コンビとして数々の事件を解決しているニッキー・ポーターがパートナーとして登場し、エラリイの助手を務めた初めての長編作品である。
そしてそのコンビが挑む事件はなんと浮気調査。本格ミステリの探偵らしからぬ事件である。浮気調査というのは私立探偵、つまりクイーンの対極にあるハードボイルド小説やプライヴェート・アイ小説で取り上げられる題材だ。 そんなエラリイの前に立ちふさがるのが女心。 稀代のジゴロとして女性を食い物にするハイエナのような男ヴァン・ハリスンの魔手から依頼人を救うべく、エラリイはハリスンが過去に食い物にした女性を探し出し、過去の被害について彼を告発するようにお願いするのだが、そのいずれもがハリスンと過ごした楽しい思い出を語るだけで、エラリイに協力しようとしない。 今までしばしば本格ミステリではありがちなように、クイーンの作品でも描かれた女性像とは典型的な男性願望が具現化したような存在だったが、本書では男性が理解しがたい女性像を見事に捉えているのではないだろうか? おしどり夫婦として知られていたダークとマーサのローレンス夫妻の間に、売れない探偵小説家であるダークの癇癪と嫉妬が顕著になってきたことから、マーサは彼をどうにか以前のようにまともな性格に治してほしいと依頼するが、事件の焦点はその依頼人であるマーサが落ちぶれた俳優と浮気をしていることが発覚し、エラリイとニッキーは手遅れにならないうちに彼女を正気に返らせるというのが本書の粗筋。 そして物語はエラリイとニッキーの努力虚しく、2人の逢瀬は重ねられ、やがて嫉妬深い夫にその事実が発覚する。そして夫は浮気の現場に拳銃を携え訪れる、と起こりうるべくして起こる事件の方向へ進む。 後期のクイーン作品には本書のようにどこに推理の余地があるのか、本格としてのサプライズとクイーンのロジックが入り込む箇所はあるのか、実に判断しにくい題材と事件が多い。特に本書は最たるものだろう。 つまり一見普通の事件に見える事象にも論理の光を当てることでサプライズを引き起こすことが出来ることをクイーンはこの時期に試みたのではないだろうか。 もしそうだとすれば、成功していると個人的には思う。観たまま読んだままの明白な事件を全体に散りばめられた色々な手掛かりを検証することで事件を180度引っくり返すことになる。 しかし一読者の立場で云わせてもらえば、クイーン=本格ミステリという頭があるため、対等に推理をするには証拠や手がかりが解りにくすぎて、どうにも後出しジャンケンのようなずるさを感じてしまう。 本書のタイトルはナサニエル・ホーソンの有名な作品と全く一緒である。そして作者はそれをあえて意識して同作品と同じ姦通罪を取り扱っているのだ。しかもホーソンの作品の題名は姦通罪に問われた女主人公が姦淫(Adultry)を示す文字Aを胸に付けられ、これが緋文字であったことに由来しているが、本書も原典に倣い、浮気のきっかけはAの文字で始まる。そしてクイーンの作品では緋文字は逢瀬の予定を知らせる手紙が赤文字で書かれていること、逢瀬の場所を知らせる手がかりが赤文字でマークされていること、そしてダイイング・メッセージが血で書かれていることで使われる。文学マニアのクイーンならではの遊び心だ。 今回重要な役割を果たすのが、ハリスンからマーサに送られるAからZまでの暗号を使った手紙である。これが事件の解明に大きく関わるわけだが、その内容には既出の作品に同様のトリックがあり、既視感を覚えた。よほど作者はこの小道具をお気に入りのようだ。 また俳優が物語に関ってくるのもハリウッドを経験した後のクイーンの作品には共通する事項だ。しかも今回は落ちぶれた俳優で50代でありながらも身なりと風貌はまだ若さを感じさせ、世のマダム連中をとろけさせる魅力を備えているが、彼がカツラを愛用し、若く見せようとしているという件がある。これも既出作品に同じような効果で用いられていた。 見た目を偽ることで本来の自分よりも若く、威厳があるように見せる者たちをクイーンはハリウッドで多く観てきたに違いない。これも映画という虚構を生み出すハリウッドでクイーンが見た光と影なのかもしれない。 最後に蛇足めいた不満を。 間男ヴァン・ハリスンの召使いが日本人という設定なのだが、その名前がタマ・マユコ。しかもこの人物は男性。 西洋人にとって日本人の名前は解りにくいかと思うが、この辺は親交深い日本の出版社に訪ねて、その妥当性を検証してほしかった。苦笑いするしかない不手際である。 本格ミステリの方向と可能性を追求し続けた作者のチャレンジ精神は上に述べたように非常に素晴らしいと感じる。 しかし読後にそれは気付かされる文学的業績と創作アイデアなのであって、必ずしもそれが物語としてミステリとしての面白さに通じているかはまた別の話である。 ただ本書はニッキー長編初登場ということもあり、今までのロートル親父と30を越えた放蕩息子に、筋肉バカの父親の部下というありきたりでなんとも色気のない取合せで進められていた物語に爽やかな新風をもたらした。浮気調査という特に女性が忌み嫌う題材にスパイとして遣われたニッキーが当然の如くながらいつもよりも元気がなかったのが残念だが、今後の登場作で本来のコメディエンヌ振りを発揮して大いに愉しませてほしい。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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稀代の天才高校生白河光瑠が創作した音楽と光をシンクロさせるエンタテインメント、「光楽」が一世を風靡し、その奔流に呑まれていく様を描いた作品。
東野氏の作品にはミステリに留まらずいくつかジャンルが存在するが、本書は『変身』にあるような、まだ現代には存在しないが少し未来に存在しうる事象を扱ったプチSF物語だ。従って殺人や何が起こったのかを探る本格ミステリではなく、新たな物が起こることでその渦中にいる人間がどんな人生や運命に引き込まれていくのかを描いた作品。抜群のストーリーテリング力を誇る東野氏だから、先が気になってページを繰る手が止められない。 特に光瑠の光楽を体験した者が次第に光瑠と同じ能力を獲得していくあたりの兆候からそこに至るまでの件は不穏な予感を抱かせながらぐいぐい引っ張っていく。光楽を体験した者に恍惚感と明日への活力をもたらすが、同時にそれを長く体験しないでいると、倦怠感や幻視、分裂症などの禁断症状を齎すという諸刃の刃でもあるのだ。この辺の毒の仕込み方が非常に上手い。 しかし人の感情や考えていることが光となって見えるという能力が本書の受け入れるべき設定であることは間違いないが、それがある歴史的根拠に基づいて設定されていたとは思わなかった。 いわゆる過去の宗教家の肖像画や仏像にあしらわれている後光やオーラという物が実は光瑠が持っている能力が万人にもある能力であることを裏付ける。なぜなら光を見ているのは信者である一般人であるからだ。この辺の話の持って行き方は非常に巧みだなぁと感心した。思わず膝を叩いてしまった。 しかし本書は何といっても光楽という光と音楽を絡めた芸術と主人公白河光瑠の造形に尽きる。光楽が人を魅了していく過程とその光楽の真の目的(疑似オーラを作り出し、オーラが見える人物を発掘していく)が遺跡などに表現されている事象に結びついていくことは面白い。 そして天才児白河光瑠の全てを達観している姿勢と視座。全てをあるがままに受け入れながらも、将来を見据え、そのためには自分が犠牲になっても踏み台になっても構わないと思うキャラクターは正に天才だ。 人の考えを察して云わなくてもしてほしいことを先んじてするという勘の良さも光が見えるという能力ゆえのことだというのが判明する。しかしそんな全てを見通す能力を持った彼に危難をもたらす為に設定したコンサート会場での爆破事件へのいきさつなどは本当にこの作家の構成力のすごさを思い知らされる。 1994年の作品だから時代を感じさせる記述が見られるのは致し方ない。ポケベルでの連絡のやり取りやレーザーディスクやビデオテープなどは懐かしい感じがした。同時代を生きていた私などは解るが新しい読者を次々と獲得している作者のこと、近い将来これらの単語の意味が解らない世代が出てくるかもしれない。 本書におけるメッセージは異端児はマジョリティである一般人に淘汰される人間の愚かさに対する警鐘だ。突出した能力を持つ者は時にはもてはやされ、時代の寵児となるが、安定を求める支配層にとっては自らの地位を脅かす膿であり、排除すべき存在にしか過ぎない。 しかしそれは人類の進化を停滞する愚行だと光瑠は述べる。それは深読みすれば江戸川乱歩賞作家として作家デビューしながら本格ミステリに留まらず色んなジャンルを描き、「明日のミステリ」を模索する作者自身の秘められたメッセージなのかなと思ったりした。 これだけ読ませる物語を書きながら、最後が唐突終わってしまうのが勿体無い。これ以上書くことは蛇足にしか過ぎないとする作者の潔さともいえるが、やはりいい作品だっただけにもっと余韻がほしかった。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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桜井京介シリーズの第二部の幕開けとなるのが本書。桜井、深春は大学を卒業し、定職につかず、趣味と実益を兼ねたアルバイトに従事するフリーターとなっており、蒼は高校へ進学している。また原点回帰という意味か、第1作『未明の家』で登場した杉原静音、遊馬朱鷺、雨沢鯛次郎らが再登場する。また蒼と京介の邂逅の時を描いた『原罪の庭』で登場した門野貴邦もカメオ出演する。
今回俎上に挙げられる建築物は鹿鳴館。もはや知らない者はいないと云われるほどの有名な迎賓館だが、実は設計図も紛失し、略図と数少ない写真が残っているだけで実に謎めいた館である。ジョサイア・コンドルという建築家が設計したと云われるこの館だが、コンドルという建築家も私には初耳だった(だから作中で誰でも名前は知っているという件があるが、これは云い過ぎだろう)。 しかし作中で語られる日本の建築学の基礎をたった一人で築いた人物という彼の経歴はなかなかに読み応えがあった。 今回の事件は京介が奇縁で知り合った資産家天沼龍麿が自身が経営するオテル・エルミタージュの開業十周年記念イベントで開演される三島由紀夫の『卒塔婆小町』という劇に伝説の女優神名備芙蓉が登場する劇を中心に演出家の大迫氏の失踪事件に加え、京介の旧友遠山蓮三郎の兄で亡くなった天沼龍麿の娘暁子の元恋人茂一の死の真相を探る事件が扱われる。天沼老が昔パトロンであった芙蓉との秘めた関係が本書の底流を流れるテーマとなっている。 本格ミステリとしての謎解きのエッセンスは相変わらず薄い。寝間着を裏返しにしたまま自殺した死体や夜中に焼身して死を遂げる支配人や劇中に腹部にナイフの刺され傷が現れる女優など、奇怪な謎は提示されるものの、そこに主眼はなく、従来の作品同様あくまで主題は建築とそれに纏わる人々の愛憎がメインになっている。特に双璧を成す遠山の兄の不審死に纏わる寝間着を裏返しにして死んでいたという謎の真相は観念的で、ガッカリした。 しかし深春や蒼の過去の事件を経てから篠田氏のこの物語世界の描き方は以前よりも濃密に感じるし、少女マンガのステレオタイプのように感じた登場人物像も立ってきて厚みが増したように思う。 ただ物語に流れる諦観めいた陰鬱さは相変わらず。この暗さがもう少し解消されればいいのだが。個人的には深春と京介の邂逅を描いた『灰色の砦』のテイストを望みたい。 ただ建築に携わる者から云わせてもらえば、2ヶ月程度で建物が未完とはいえ内装まで仕上げられるというのは無理にもほどがある。特に鹿鳴館ほどの規模であれば尚更だ。突貫工事でもコンクリートの養生期間なども必要なのだから複層階の建物であそこまでは仕上がらない。建築に造詣が深い作者ならばこの辺の現実にはもう少し配慮してほしかった。 題名にも掲げられたように、今回は美が強く強調されている。 芸術に対する美。いつかは滅びゆく美。それを敬い、崇め、それぞれがそれぞれの信仰を持つ。それがゆえに美は人を狂わせる。本書は美が一時の輝きに過ぎないと達観した者とそれを永遠の物として封じ込めようとした者の軋轢から生じた悲劇だといえよう。 真に美しいものには残酷さが隠されている。この背徳の美こそ美しい。 プロローグの恋文に書かれたイタリアのブラァノ・レエスのエピソードが一番印象に残った。娘とも云えぬ童女が編むからこそ、そのレエスは精緻な美しさを誇るが、それがゆえに若くして針子たちは視力を失うという犠牲が伴う。桜の下には死体が埋まっているというのは、そのあまりの美しさは残酷な犠牲があるからこそという妄信から出た言葉だが、この世に蔓延る美しき物の背後にはこのような負の物語があるように思えてならない。 またシリーズも時を経るにつれ、蒼と京介との関係に変化を感じる。蒼は高校生として周囲と馴染めない生活を送りながらも、それを個人で乗り越えるべき問題と捉え、京介や深春に頼ろうとせず、自立を目指す。京介と深春は逆に蒼の隠された苦悩に気付き、どう助けるべきか心を注ぐ。そしていつか来るべき別れを意識し、束の間の安らぎに身を委ねる。 シリーズの行く末は今後巻を重ねるにつれて、来るべき時へ向かっていく。それは恐らく彼らにとって迎えるべき別れであり試練なのだろう。今回もまた苦い余韻が残った。 |
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