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Tetchy さんのレビュー一覧

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レビュー数1426

全1426件 21~40 2/72ページ

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No.1406:
(7pt)

かつて日本ミステリが世界のクオリティに近づいた頃の短編集

日本人読者向けに編んだ『世界傑作推理12選&ONE』がよほど好調だったのか、続いて編まれたのが本書。但し前回の「&ONE」に当たる編者クイーン自身の短編は収録されておらず、代わりに日本人作家、当時日本を代表していた夏樹静子氏と松本清張氏からそれぞれ1編ずつ収録されているのが特徴的だ。

このアンソロジーの幕開けを担うのが執事ジーヴスシリーズが本書刊行20数年後に大ブレイクを果たしたP・G・ウッドハウスの「エクセルシオー荘の惨劇」だ。
イギリスの下宿屋で突然亡くなった船長の死因はコブラの毒によるものだった。21世紀の現代ならさほど珍しいとは思わないが本作が書かれた1914年はコブラのような毒蛇に噛まれると云う死因はあり得なかったのだろう。だからこそホームズの「まだらの紐」のトリックが当時は斬新であったがゆえに今なお語り継がれているのだろう。
被害者はその毒舌ぶりから決して周囲から好かれているわけではない船長だが、どうやってコブラの毒が彼に回ったのかは判らない。
正直事件の中身は小粒だが、事件を解き明かす意外な探偵役を立てた功績は大きい。

次は短編の名手エドワード・D・ホックの「三人レオポルド」。
流石短編の名手ホックである。上手い!そしてそつがない。
面白いのは通常ならば偽名を使った犯人を突き止めるというプロットになるのに、本作は逆に犯罪者が自分を逮捕しようとしている警官を突き止めようとする、しかもそれがシリーズキャラクターであるレオポルドであるところだ。しかしホックはミステリに求める水準をいつもクリアする安定した作家であると再認識した。

私は彼女は長編も書けるが短編もまた書ける作家だと思っていたが、それを証明してくれたのがルース・レンデルの「生まれついての犠牲者」だ。
いやあ、やはりレンデルは上手い!
いつもながら我々の周囲にいそうな「ちょっと困る人」をミステリのテーマに取り入れ、そして全てが犯罪に向かうように実に上手く物語を運ぶ。
本作では村に突如引っ越し来た発展的な都会派の女性ブレンダが実は自分の話とは異なり、それほど情事を重ねて訳でもなく、実は普通の女性だったことが発覚する。しかし妻に悪影響を与える前に最近起きた強盗殺人事件に見せかけて殺してしまおうと企む。
事件は上手く行くのだが、結末はいつものレンデルらしい皮肉を見せながら予想外の方向へ進む。
最後の運命の皮肉とも云うべきラストに読者が納得する形で結実するところがすごい。

やはりこの作家も選出されていた。EQMMの常連作家で短編の名手ヘンリー・スレッサーの「世界一親切な男」は本当に親切な男の話だ。
妻を過失とはいえ、死なせてしまった男たちに夫が仕組んだことは過剰なまでの恩返しだった。飲む・打つ・買うにそれぞれ執着する者たちに断酒をしようと決意すれば高級なお酒をしこたま送り付けて重度のアル中にし、女好きの男が自分にとって最高の女と結婚したかと思った矢先に、それをはるかに上回る美貌の女性を送り込んで、情事を起こさせ、妻を逆上させ、ギャンブル好きな男には定期的にギャンブル資金を送ってマフィアに借金までさせる。そう、それぞれが最も好む方法で人生を破綻させるのだ。

あまり知られていない作家だが、クイーンは別のアンソロジー『クイーンズ・コレクション』にも彼の作品を選出している。ハロルド・Q・マスアは当時現役の弁護士でもあった作家で「受難のメス」も裁判を扱ったミステリだ。
手術の失敗の訴訟から脱税容疑へと僅か30ページ足らずの作品なのに目まぐるしく展開が変わる本作は現役の弁護士の作品ともあって裁判や訴訟内容にリアルを感じさせ、実に読み応えがある。
本作で起きる殺人事件は半分以上も過ぎてであり、正直その犯人は見え見えのミスディレクションでミステリ読者なら容易に想像がつくだろうが、最後の一行は洒落ている。内容的にも小説としての面白みを感じる作品だ。

ジョイス・ポーターはシリーズキャラのドーヴァー警部が登場する「臭い名推理」が選出された。
正直云ってワンアイデア物である。確かにこの着眼点は面白いが、アンソロジーに選ぶほどの物かと云えば、ちょっと疑問だ。

パット・マガーことパトリシア・マガーはトリッキーな本格ミステリが特徴的だが、「完璧なアリバイ」はオーソドックスな題材のミステリだ。
上手い!起承転結がはっきりとし、しかも詰将棋の如く無駄なく妻殺しへと物語が収束していき、そしてツイストの利いた皮肉なラストへつながる。これぞミステリのお手本とも云うべき作品だ。

ビル・プロンジーニの「朝飯前の仕事」はシリーズ探偵“名無しのオプ”が登場する。
私は“名無しのオプ”シリーズの読者ではないので詳しいことは解らないが、てっきりハードボイルドもしくはサスペンス系の作風と思っていたら、本格ミステリで、しかも機械的トリックを使った非常に原理主義的など真ん中の内容であったことに驚いた。
しかし本書の読みどころは上流階級と下流階級の溝を扱っているところだろう。上流階級の者たちは下流階級を蔑み、また逆に下流階級は顎で使う上流階級を妬み、そんな2つの階級に横たわる断層を皮肉っている。

ドナルド・オルスンは初めて読む作家だが、その作品「汝の隣人の夫」は選ばれるだけの出来栄えだ。
これはウールリッチの有名作「裏窓」と編者クイーン自身の『中途の家』をうまくブレンドさせた佳作である。
月の半分も出張している夫エドワードとその間家を守る妻セシル。やがて隣に若夫婦が越してきて、しかも隣人の夫は若くてハンサムでいつも庭で筋トレをして逞しい身体を晒している。これが子供もいなくて不在がちな夫を持つ人妻の好奇心をそそらざるを得ない。
しかしそこで情事に至るのではなく、妻の妄想上の恋が日記に綴られていく。つまり実際に浮気は起きないのだが、いつも隣人夫との情事を想像しているがゆえにセシルは彼を意識して普通に接することができなくなる。
本作で書かれているのはミステリとしては実にありきたりなシチュエーションや動機なのだが、物語を一人家に籠りがちな妻の視点を中心に描き、彼女が書く妄想常時日記の内容に上手く読者を惹きつけることでサプライズを演出している。つまりそれほど奇抜な動機や登場人物の設定を案出しなくても書き方を工夫するだけで十分読み応えのあるミステリが書けるのだと証明した、良いお手本のような好編だ。

かつてはミステリランキングの常連作家だったピーター・ラヴゼイの「レドンホール街の怪」は捻りの効いた作品だ。
1979年に書かれた本作は前年に『マダム・タッソーがお待ちかね』でCWA賞を受賞し、まさに脂ののった時期に書かれた作品であり、たった20ページ強の作品なのにツイストを利かせた作品となっている。
素性の知らない紳士が間借人となっているが、彼を警察が訪ねて来て彼のことに疑惑が生じる。さらに追い打ちを掛けるように彼の借りている部屋は家具などが一切ないがらんどう状態。
家主は犯罪者に貸したのではないかと気を揉みながら警察が来たことを話すと、なんと1枚500ポンドから1,000ポンドほどの値がつく希少な切手ブラック・ペニイとブルー・タペンスを昔の間借人が壁紙代わりに一面に貼り付けたという逸話があり、彼はそれを手に入れるために部屋を借りたのだという。そしてそれは確かに存在し、自分はもう十分にお金を手に入れたので残りは全て家主に差し上げると述べる。
反転に次ぐ反転でしかも最後は詐欺なのか果たして真実なのかと疑問を投げかける抜群の結末を見せる。いやあ、まさに最上のミステリではないか。

クイーンの日本人推理作家のアンソロジーでは常連の1人である夏樹静子の「足の裏」は本当にありそうなお話である。
色々と考えさせられる話だ。人口3万5千人ほどの小さな市で起きた銀行強盗を端緒に由緒ある寺で昔から行われていたスキャンダルが暴かれることになる、まさに社会問題を扱ったミステリだ。
今でも行われているのか知らないが、本作ではお賽銭を寺の住職や僧や事務員たちも含めて山分けする慣習があるらしい。つまり新聞やニュースで報道されるお賽銭の金額は予め見積もられた金額であり、それよりオーバーした金額については関係者で山分けする習慣があるとのこと。タイトルはこの金銭を足の裏と呼ばれていることに由来する。
本作は昭和時代の作品だが、今にも通ずるテーマであり、令和の世でもあるのだろう。全く人間とは金銭に関しては成長していない動物なのだと思い知らされる。

さてアンソロジーの最後を飾るのはもはやクイーンにとってもお気に入りの作家となった感のある松本清張氏の「証言」だ。
愛人を囲うある会社の課長が逢瀬の時にたまたま家の近所の人間と出くわす。昭和のどこか淫靡な雰囲気漂うシチュエーションに、近所の人間が後日殺人事件の容疑者として逮捕され、自分の証言で無実になると究極の選択を迫られる。こんな時、あなたならどうすると読者自身の倫理観を問われるような作品だ。
今でも愛人報道は後を絶たず、ワイドショーの格好のネタとして大々的に報じられているが、昭和も平成も令和も男と女は変わらないことを思い知らされる。
そしてそんな窮地に陥っても主人公は逢っていないと自らの保身のために嘘をつきとおす。
本作の狙いは世の中嘘で凝り固まってできているという皮肉だ。それぞれが嘘で塗り固められた生活を送っていると警鐘を鳴らしているのだ。
これが冤罪の構図なのだろう。曖昧だった記憶が警察の執拗な事情聴取でやがて頭の中で事実にすり替わっていく。たとえそれが嘘であっても自分が信じたい方向へと脳が働きかけるからだ。
とにもかくにもついた嘘は自分に返ってくるという戒めの物語だ。


訪問すれば本格ミステリの巨匠として手厚くもてなされる日本人はクイーンにとっては実に愛すべき読者、ファンだったのだろう。日本人読者向けに『世界傑作推理12選&ONE』の続編として編まれたのが本書だ。
しかも収録作品はクイーンのアンソロジーに含まれた作品は―私の知る限りでは―ゼロであり、また前のアンソロジーとは異なって日本人作家の作品がたった12の席のうち2席をも占めるまでになったのは日本人読者に対するサーヴィス精神の表れだろう。

その中身は今回もまたヴァラエティに富んでいる。

殺人事件の犯人捜し、自分を逮捕する潜入捜査官探し、復讐譚に脱税、浮気相手との結婚を考えた妻殺し、窃盗、主婦の妄想恋愛、詐欺、そして冤罪。様々なヴァリエーションを駆使して質のいいミステリを提供している。

クイーンが日本人ミステリ読者のために向けて編んだアンソロジーだけあって実に粒揃いであるが、その中でベストを挙げるとすればルース・レンデルの「生まれついての犠牲者」とピーター・ラヴゼイの「レドンホール街の怪」、夏樹静子氏の「足の裏」になるか。

「生まれついての犠牲者」は名作『ロウフィールド家の惨劇』を彷彿とさせる、その事件の犯人が最初の一行目で解る導入部に始まり、登場人物全ての設定が最後の皮肉な結末へ結実する。
実に計算された作品だが、その人物設定が我々の周囲にいる誰かを彷彿とさせるため、じつにリアルに感じられるのだ。つまり情理のバランスが実に上手くとれている作品なのだ。

「レドンホール街の怪」が上手いのは最後のオチで真相の2パターンが想定されることだ。
しかもこの作品、たった24ページなのだ。う~ん、実に濃い内容だ。

「足の裏」は寺の住職たちの賽銭横領と云う社会問題を扱ったミステリ。とにかくこのスキャンダラスな真相が発覚するまでのプロセス、そしてそれを補強する物語の舞台設定が実に緻密なのである。
日本のどこかにありそうな全国で知られる有名な寺を観光資源として抱える小さな市という舞台設定とそこで起きた銀行強盗の事件という発端が最後の真相に寄与するきめの細かい物語運びに感嘆した。そして明かされる最後の真相については今でも行われているのではないかと考えさせられるものであった。

次点でドナルド・オルスンの「汝の隣人の夫」とを挙げる。前者の最後のオチはこの手の出張しがちな夫に対して最初に抱きやすい疑惑なのだが、それを妻の妄想を中心に描いたことで見事にミスディレクションに成功しているからだ。また本作はある意味、編者の『中途の家』の変奏曲な構成であるのも興味深い。

特に面白く感じたのはまだこの頃は機械的なトリックを扱った本格ミステリが書かれていたことだ。
また意外性を放つどんでん返しの作品、特に運命の皮肉めいた作品が多くあり、そしてそれらのアイデアは秀逸である。

クイーンは数多のアンソロジーを編んでいるが本書のようにEQMMに掲載した、自身が掲載検討した作品に基づくものが多々あったように思える。
しかし精選されたとはいえ、EQMMは月刊誌であり、現在も刊行が続いている雑誌である。従ってかなりの量の選から漏れた短編が蓄積されているはずだ。

隔月刊行されている早川書房のミステリマガジンでさえ、EQMMに掲載された短編は網羅されていないだろう。つまりかなりの数の埋もれた短編がEQMMにはあるはずなのだ。

エラリー・クイーン亡き後、それらが日の目を見ないのは悲しすぎる。やはりクイーンの衣鉢を継ぐアンソロジストの登場を望みたい。

本書収録作品は1976年から1980年と古典と呼ぶにはまだ早い時期の作品群が連ねているが、この頃はまだアイデアがそれぞれの作家で潤沢にあったのだろう。ほとんどの作家が鬼籍に入ったアンソロジーは、かつての名声を馳せた作家たちの最盛期の実力を知るにもってこいだった。

そして現代もまだこの流れは続いていると思いたい。短編集は売り上げが落ちると云われているが、これに懲りず、ミステリ好きな読者たちを唸らせる短編のアンソロジーを刊行する習慣は続けてほしいものだ。

しかしクイーンのアンソロジーに日本人作家の作品が2作も選ばれたことを考えると、日本のミステリも一旦は世界に認められ、世界に近づいたのだ。
しかし現代の日本人作家のミステリが劣るかと思えば、必ずしもそうではない。クイーンのような世界に発信する人物が欠如しているだけなのだ。

世界のどこかで本書のようなアンソロジーが編まれるとき、そこに日本人作家の作品が収録され、やがて日本人作家の作品ばかりで編まれたアンソロジーが世界で広まることを夢見て、本書の感想を終えよう。

▼以下、ネタバレ感想
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新 世界傑作推理12選 (光文社文庫)
エラリー・クイーン新 世界傑作推理12選 についてのレビュー
No.1405: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(8pt)

子供の頃のワクワク感が想起させられる隠れた傑作

いやあ、なんとも気持ちの良い小説だ。久々に童心に帰り、ワクワクしながら読み進めることができた。

廃工場マニアの大学生コンビが訪れた鈴鳴という田舎町で絡繰りの天才が仕掛けた120年後に動き出すと云い伝えられている隠れ絡繰りの謎を追うミステリだ。

まず導入部が面白い。
大学の同じ講義で気になる美人学生の気を引くためにその子の素性を調べて出身地にある廃工場を特集した専門雑誌を2人で見ながらこれ見よがしに話して興味を引く。そして女子学生に話しかけられるよう仕向け、仲良くなろうという企みだったが、夏休みを利用して廃工場見学に行くのにその子の提案で一緒に行って、しかもその子の実家に泊まらせてくれると云う予想以上の収穫を得るのである。

美人学生の名は真知花梨。そして見事彼女の気を惹くことに成功した学生2人は郡司朋成と栗城洋輔という。

そして彼らが訪れる田舎村鈴鳴は昔は絡繰り職人の村として知られており、かつて磯貝機九朗という天才絡繰り師がいた。そして真知家と山添家というお互いに啀み合う2大地主によって二分されている村で真知家は林業で財を成し、鉱山と工場を、山添家は宿屋と川を使った運送業で財を成し、温泉旅館と観光業を営んでいたが、工場は既に閉鎖され、旅館も細々と経営している有様で、今は資産を売り払いながら生活している。しかし彼らが村の名士であることは変わりなく、皆彼ら一族には会釈をし、尊敬の念を抱く。そして真知花梨はその真知家のお嬢様なのだ。

そして彼女にはさらに女子高生の玲奈がおり、彼女は家ではおしとやかな名家のお嬢様ぶるが実は隠れてバイクに乗り、そして宿敵の山添家の息子太一といつも一緒にいる仲だ。

そして鈴鳴にはお戌様の祭りが行われ、この年は丙戌で60年に一度の本祭りの時期に該当した。そして村には機九朗が仕掛けた隠れ絡繰りがあり、それが120年後に動き出すと云い伝えられ、この年がそれに当たることからお戌様の本祭りに絡繰りが作動すると云われていた。

郡司と栗城に真知姉妹と山添太一、そしてもう1人、理科の高校教師で玲奈が所属する物象部の顧問であり、尚且つ機九朗の子孫である磯貝春雄が加わり、この隠れ絡繰りの謎に挑むというのが本書の大筋だ。

この鈴鳴と云う村が実に特徴的で絡繰り師の村であったからか、村の看板や標識にはやたらと凝った、いわゆる「判じ物」がところどころにあるのが特徴的だ。
「判じ物」で有名なのは「春夏冬 二升五合」と書いて「商い 益々繁盛(あきない ますますはんじょう)」と読ませる、とんち文のようなものだが、本書では道路の行先標識に「呼吸困難」と書いてあり、これを「行き止まり(いきどまり)」と読ませたり、「貴方ボトル」と書いて「郵便(You瓶)」と読んだりする。

そんな頭の体操めいた謎かけから物語はやがて天才絡繰り師磯貝機九朗の仕組んだ隠れ絡繰りの謎解きへと移り変わっていく。

やがて調べていくうちに機九朗が仕掛けた隠れ絡繰りが鈴鳴村全体を使った壮大な仕掛けであったことが判明していく。

しかし決してスリリングに、また陰湿に描かれるのではなく、どことなくのんびりとした感じで語られる。
これもお金持ちだからこその心の豊かさゆえだろうか、彼らと悲壮感は全くの無縁なのだ。

やがてそれらのエピソードを基に隠れ絡繰りの在処を突き止めるのは郡司朋成だ。

天才はあらゆることを想定しているからこそ天才なのだというのを我々読者は思い知る。

隠されたお宝を探し出すその過程でそれにまつわる人々の秘密もまた炙り出され、意外な真相へと辿り着く。
実はそれは本来ミステリとはこうあるべきだという理想形なのかもしれない。人が死なず、町に伝わる隠れ絡繰りの謎を探ると云うのは暗号で描かれた宝地図を読み解き、真相に一歩一歩近づいていく冒険小説の面白みがあり、胸が躍らされた。

本書は私にとって森作品のベストとなった。解りやすさもあるが、なにしろ登場人物全てに好感が持て、鈴鳴という架空の田舎村を舞台に広げられる物語の結末が実にほっこりとさせられたからだ。

確か本書はドラマ化されたが、私は観ていない。いや寧ろアニメ化、2時間枠のアニメ映画として観てみたい。細田守氏あたりがしてくれないだろうか。

森氏は常々人はたいてい人生にとって無駄なことに時間と労力を費やす非効率的な生き物だと述べる。しかし無駄なことが実は一番面白く、それが出来るのもまた人間だと説く。

天才絡繰り師磯貝機九朗が遺した120年後に作動する絡繰りは動いてしまえば何ともないことだが、それを動かす機構を観て感動を覚える。

しかし相変わらず森氏の描くキャラクタには魅力があるなあ。
本書に登場した郡司朋成、栗城洋輔、真知花梨と玲奈姉妹、磯貝春雄に山添太一はノンシリーズにしておくには実に勿体ない魅力を持っている。
そして実は最も存在感があったのは一度もその姿を見せない天才絡繰り師磯貝機九朗だ。彼は自分の仕事で天才性と先見性を示すことで誰よりも存在感を放った特異なキャラクタである。
森作品で天才と云えば真賀田四季を想起させるが、機九朗は彼女とは全く正反対の、無駄と思われることに全知全能を傾けて行う天才だ。それは彼の培った技術の粋を後世までに遺し、そして伝えたかったのかもしれない。
しかし一方で未来の日本人に対して「どうだ、これほどのことができるか」と自身の仕事を誇示するために作ったのかもしれない。彼が隠した真知家と山添家の秘密も含め、実に人間らしい天才ではないか。

本書は隠れた森氏の傑作としてぜひとも読んでほしい。そこにはこれまでのシリーズ作品には一切出てこない愛すべき隠れキャラの冒険が存分に盛り込まれているから。



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カクレカラクリ An Automaton in Long Sleep (講談社文庫)
No.1404:
(8pt)

サイコパスから街を守るのは不眠症の老人男女2人だった。

物語の舞台はキャッスルロックに並ぶキングの架空の町デリー。そう、あの大著『IT』の舞台となった町だ。

勿論その作品とのリンクもあり、“IT”に立ち向かった仲間の1人マイク・ハンロンは図書館々長となっている。

さて上下巻約1,280ページに亘って繰り広げられるこの物語はスーザン・デイという中絶容認派の女性活動家の講演を招致することでデリーの街が中絶容認派と中絶反対派に二分され、そして彼女がデリーの街に訪れるXデイに起こる惨事を主人公が食い止める話だ。

通常ならばまだ生まれぬ赤ん坊の命を絶つ中絶容認派の方が過激な思想集団のように思えるが、なんと本書では中絶反対派の方が容認派達を「赤ん坊殺し」と蔑んで、過激派の如く、容認派の中核団体である女性救援団体<ウーマンケア>を襲撃するのだ。

しかし途中で物語はスピリチュアルな展開を見せる。そして見えてくる物語の構造を端的に云えば、次のようになるだろう。

デリーの街に蔓延る異次元の存在。彼らが解き放ったサイコパスから街を守るのは不眠症の老人男女2人だった。

冗談ではなく、これが本書の骨子である。

本書の主人公70歳の老人ラルフと68歳のロイスが立ち向かうのは不眠症とエド・ディープノーという男、そして彼にも見えるチビでハゲの医者だ。

まずエドという男はいわば“隣のサイコパス”ともいうべき存在で、妻キャロリンがいた頃はエドとヘレンの間にできた娘ナタリーを連れてきて、恰も本当の孫のように見せており、そしてお互いの家に誘って食事をする仲でもあった。さらにエドはキャロリンが最期の入院をしていた時にも足繁く見舞いに行くほどの献身さを見せたものだ。

しかしスーザン・デイという妊娠中絶容認派の女性活動家の件になると彼は一変してサイコパスへと転身する。デリーの街に講演に来るよう誘致する嘆願書に妻のヘレンが署名したことを知ると彼は烈火の如く怒り、彼女に暴力を振るう。しかしそれは彼のDVが発覚することになった、いわば失敗であり、それまでにも妻のヘレンに暴力を振っていたことが明るみになる。

常に微笑みを絶やさない、好青年ぶりを発揮するエド・ディープノー。
しかし彼もまたオーラの世界と云う異次元を見る能力者であり、デリーの街が持つ特別な≪力(フォース)≫を知覚する人物でもあった。

さて本書で述べられる主人公ラルフの不眠症。実は私にも当てはまることがいくつかあり、背筋に寒気を覚えた。

通常の人が7分から20分のうちに眠りに就くが寝つきの悪い人は最長3時間はかかるらしく、そして浅い眠りが続き、一晩中起きていたかのような錯覚を覚える。

ラルフは妻が生きていた時は6時55分に目を覚ましていたが、それが6時になり、やがてそれが5時台、4時台、3時台と早まっていく。そして目が覚めた後はもうどうしてもそれから眠ることはできなかった。

更に寝不足のため、ごく単純な判断を下すのが困難に感じ、そして短期記憶が減退していく。

これは私にも大なり小なり当てはまることで、特にぐっすり朝まで寝たいのにいつも5時台に尿意を催して目が覚め、その後は寝付けなくなる。

寝つきが悪く、果たして睡眠を取ったのか判然としないことが1年に一回はある。

そしてケアレスミスが多くなり、しかも短期記憶の欠損をしばしば感じる。
他者が報告したと述べていることを思い出せないこともあるのだ。

従ってラルフの抱える苦悩は肌身に染み入るほど私事として捉えることができた。
本当に不眠症は辛いのである。

そしてラルフとロイスが不眠症が重くなるにつれて見えだすオーラの世界に住まう異次元の存在、3人のチビでハゲの医者たちと称される者たちはラルフが例えるギリシア神話の「運命の三女神」、クロートー、ラケシス、アトロポスと名乗る。

ギリシア神話ではこの三姉妹は寿命と死を司り、運命の糸をクロートーが紡ぎ、それをラケシスが割り当て、そしてアトロポスが断ち切る。つまりこの糸の長さが割り当てられた人の寿命を定める。

一方本書の彼らはクロートーが大きな鋏を持ち、ラケシスと共に行動する。彼ら二人は≪意図≫のエージェントで死すべき時が訪れた、即ちあらかじめ意図された死を与える。

一方残りの1人アトロポスは錆びたメスを持つ≪偶然≫のエージェントでいわば不意に訪れる死を与える。つまり災害によって亡くなったり、事故によって死んだり、もしくは何者かに殺されたりといった「不必要な死」だ。

彼らは生物に繋がっている風船紐を断ち切ることで死をもたらす。クロートーとラケシスはアトロポスが選んだ生物に死をもたらすことを止めることができない。そして彼は自分が死をもたらす人物の持ち物を持ち去る。それは大切にしている何かである。
時々我々もいつも使っているものが突然無くなり、どうしても見つからない時があるが、その時はこのアトロポスが持ち去っているのかもしれない。つまりその時は自分に死が訪れているのかも!?

しかしアトロポスが風船紐―医者たちの言葉を借りれば生命コード―を断ち切っても死ななかった存在、それがエド・ディープノーなのだ。
それはつまり彼こそがデリーの街を二分する騒動や不安をもたらしたマスターコード、災厄の種であるとクロートーとラケシスは述べる

ラルフとロイスは次第にオーラが見える力を安定させていく。

まず彼らは不眠症を重ねることでどんどん若々しくなっていき、その結果周囲の人たちから不眠症が治ったと勘違いされるが、これは彼らが周囲の人たちのオーラを頂戴する能力を備えているからだ。

しかし彼らが吸うオーラとはいわば生命エネルギーなのだが、それによって吸い取られた人たちがたちまち老いてしまうとか調子が悪くなるわけではない。
この力についてラルフとロイスに教えていたのはチビでハゲの医者たちだが、彼らによれば2人が飲み込むオーラの量は海の中からバケツで海水を救うほどのもので全く影響はない。
まあ、よく考え付くね、こんな理屈。

妊娠中絶容認派のスーザン・デイのデリー来訪による妊娠中絶反対派の原理主義者エド・ディープノーとオーラの世界で人の死を扱う3人の医者。この2つの世界を行き来する不眠症の老人ラルフとロイス。

なかなか構造が見えにくい物語だったが、ラルフとロイスにオーラの世界を知覚し、そしてオーラを自由に操る能力が授けられたのはある任務のためだった。

『IT』で登場したキングが創造したキャッスルロックに次ぐ架空の街デリー。この街には他の街にない特有の見えざる力が働くようだ。

忘却と災厄の街。
この呼び名がデリーには似合うようだ。

私の不眠症が解消されないのと同様に、またも誰かが不眠症にうなされそうだ。

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不眠症〈上〉 (文春文庫)
スティーヴン・キング不眠症 についてのレビュー
No.1403: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(10pt)

狂おしいほどに切なく、そして悍ましいのに哀しい。

京極夏彦氏の百鬼夜行シリーズの中でもとりわけ評価が高く、2012年に週刊文春が行った『東西ミステリーベスト100』でのベストミステリー投票においても9位にランキングするなど、2作目にしてシリーズ代表作、いや京極氏の代表作となったのが本書『魍魎の匣』である。

そして読了の今、胸に迫りくるのは何ともすごいものを読んだという思いだ。
狂おしいほどに切なく、そして悍ましいのに哀しい。

1つ1つのエピソードが荒唐無稽でありつつも、決して踏み入ってはならない人の闇の深淵を感じさせ、見てはならないのに思わず見ずにいられないほど、つまり両手で目を塞いでもどうしようもなく指と指との隙間から見たくて仕方がない衝動に駆られる人外の姿に魅せられてしまう強烈な引力を放っている。

そんな話で構成される1000ページを超える本書で起こる事件は4つ。

柚木加菜子殺害未遂事件。

柚木加菜子誘拐未遂事件。

須崎太郎殺害及び柚木加菜子誘拐事件。

連続バラバラ死体遺棄事件。

この事件に加え、取り憑いた魍魎を箱に収めて封じ込める御筥様と云う怪しい新興宗教が関わってくる。

そして忘れてならないのは箱の存在だ。
この小説、実に箱尽くしである。箱、筥、匣の連続だ。

前作が関口巽を主体にした物語であれば今回は木場修太郎の物語であると云えるだろう。
職業軍人であった木場は終戦で敵を喪失したことで、新たな敵を違法者に見出し、刑事になった男だ。押しが強く、屈強な刑事の木場修太郎は幼い頃は絵を描くのが好きな神経質な子供で算盤の得意な几帳面な性格だった。そんな生立ちから正反対の現在の自身を鑑みて強面の鎧で装飾した中身の空っぽな箱のようだと称する。そしてその中身がどうやったら満たされるのかが解らないでいる。木場は自分の空っぽな箱の中身を見られるのが怖いため、女性との付き合いが苦手なままでいる。
しかしそんな彼が思わず自分の箱を開けようとする存在に出遭う。それは木場の憧れの存在、殺人未遂事件に見舞われた柚木加菜子の母でかつて銀幕スターだった元女優美波絹子こと柚木陽子である。彼の箱が柚木陽子で満たされ、彼は事件に本格的に関わるのである。

また幕間に挿入される久保竣公の小説「匣の中の娘」は乱歩の「押絵と旅する男」を彷彿とさせる。
久保竣公は処女作『蒐集者の庭』で幻想文学の新人賞を受賞した期待の新人で、「匣の中の娘」匣に収めた少女と旅する男を羨む主人公の男はぴったり匣に収まった少女を見て、自分も同じような少女を切望する。隙間なく過不足なく匣に収めることに執着する独白が延々と語られる。

そしてバラバラ死体の手足だけが収められているのが箱である。最初は相模湖に沈んでいた鉄の箱だったが、2回目からは桐箱。それがいくつも発見される。

更に御筥様として信者を集め、お祓いをしている寺田兵衛は以前はかなり腕のいい箱職人で<箱屋>と呼ばれていた男で、その突き詰める性格から箱に取り憑かれてしまう。

そして本書での最大の箱は美馬坂近代医学研究所である。この巨大な立方体のような建物もまた箱だった。

久保竣公が母親と流れ着いた九州の築上求菩提山に祀られている鬼神殿のご神体は箱であり、その中には壺が収められている。その壺の中にはその鬼神殿を開いた行者、猛角魔卜仙が退治した鬼が封じ込められており、その箱の名を<神秘の御筥>と呼んでいる。御筥様の由来がこの筥に由来するのは後に判明する。

では箱とは一体何なのだろうか?

ある者は部屋や家屋は箱であるといい、構えがしっかりしていても空では何の役に立たないといい、人もまた同じだと説く。

京極堂は箱には箱としての存在価値があり、中に何が入っているかは重要ではないと説く。

これら様々な意味合いを持った箱は最後に全ての謎が解かれると実に禍々しい存在へと転じる。結末まで読んでしまうと箱を開けたくなくなってくる。

ただ正直最初は実にまだるっこしく感じた。
2人の女子中学生、楠本頼子と柚木加菜子の2人が唐突に湖を観に行こうとしたところにいきなり加菜子が駅のフォームから落ちて列車に轢かれ、そこにたまたま出くわした木場修太郎が事件に関わるまでの顛末が延々80ページに亘って書かれるが、加菜子のすぐ傍に頼子が心神喪失状態で当時の状況をなかなか話さないままなのだ。

そして関口の非常に後ろ向きな自分の短編集出版の顛末に移り、カストリ雑誌編集者の鳥口守彦に最近起こっている連続バラバラ殺人事件の調査に相模湖に行ってそこで山中にある美馬坂近代医学研究所にいる木場と出くわす。

その後は楠本頼子の母親が入信している怪しい新興宗教の御筥様が現れて、本書の主題である魍魎がこの家に取り憑いているとのたまう。

やがて頼子は加菜子をプラットフォームから突き落としたのは黒い服を着た男だと木場に話して再び美馬坂近代医学研究所を訪れ、どうにか面会にこぎつけるがなんと入院していた加菜子は衆人環視の中、忽然と消え去る。
ここまでが230ページ強だ。

そんな長い下拵えを過ぎてようやく京極堂が登場するとそこからはもう無類の面白さを誇る。どんどん先を読みたくなってくるのである。

しかし何とも不思議な小説である。
通常であればこれだけの1,000ページを超える大著ならば長さ、いや冗長さを感じるのだが、それがない。確かに導入部はまどろっこしさを覚えたが、気付けば300ページ、400ページ、500ぺージが過ぎている。つまり既に通常の小説1冊分を読み終えているほどの分量なのだが、それでも物語はまだまだ暗中模索の状態。
では無駄なエピソードがいくつも書かれているのかと云えば、決してそうではない。全てが結末に向けて必要な要素であり、そしてそこに向かう登場人物たちの行動原理や動機が無駄なく描かれているのが判ってくる。

さてこのシリーズでは物語の序盤―とはいえ270ページを過ぎた辺りなので通常の長編であればだいたい中盤に当たるのだが、1000ページ超の本書ではそれでも十分に序盤なのだ―に開陳される京極堂の長々と続く説法が物語のキーとなっているのが特徴だが、本書で開陳されるのは宗教者、霊能者、占い師、超能力者についての話だ。これが実に興味深かった。

これらにどこか似て否なる者たちを京極堂は見事に解説する。

曰く宗教者は自らの信仰の布教を目的としており、そのための奇跡を起こす。信仰の姿勢や教義自体に問題なければ簡単に批判糾弾を加えるわけではない。

霊能者は信仰や布教を目的としておらず、信者を救済するのを目的としている。しかしこの霊能者自身を信仰の対象として布教を図る宗教者もいる。さらにバレない限りどんなペテンも許される。

占い師は営利目的の占術理論に基づいて吉凶を占う者だ。ある程度のペテンは容認できるが、祈祷や供養は畑違いなのでそれを売り物にしている占い師には注意が必要。

そして超能力者は特殊な能力を持った者で全く異質の存在。本書の登場人物の1人榎木津はこれに当たる。従ってペテンは一切許されない。

私が今回目から鱗だったのは過去のことを云い当てるのは情報収集によって可能であるため、本来未来予知ができることに存在価値があるのに過去のことをやたらと云い当てる占い師は信用できないという件だ。そして未来のことは解らなくて当然だから大概外れるのが道理だから別に占い師の云っている未来が当たらなくても苦情は出ないだろうし、逆に当たれば感謝されるだけなのだ、寧ろ外れるものなのだという解釈はなかなかに興味深い。

そして霊能者の祈祷お祓いの類は今後どんなことが起きると明確に云わずに、今お祓いしないと悪いことが起きる、壺を買わないと幸せになれないと云うだけで、もし祈祷や壺を買って、幸せになれなくても信仰心が足らない、供養が足らないと云ってさらに寄進を募る仕組みなのだ、云々。

人によってこれらの解釈には異存があるとは思うが、今までこれら4種類の存在について深く考えたことがなかったのでこのあたりの説明はついつい引き込まれてしまった。

ところで本書には奇妙なリンクが見られる。それは他の新本格作家の世界とのリンクだ。
登場人物の一人、小説家の関口巽が寄稿している出版社の名前を稀譚舎といい、京極堂こと中禅寺秋彦の妹敦子が勤めている会社でもある。

この稀譚舎、一部名前が異なるが綾辻行人氏の館シリーズに登場する出版社の名前なのだ。『迷路館の殺人』の作中作が稀譚社から出版されているのだ。
「舎」と「社」の違いはあるが、これも時代の違いだろう。本書は昭和27年の時代設定であり、一方の館シリーズは現代で『迷路館の殺人』当時は昭和63年なので、この間で社名が変更になった可能性はある。
いずれにせよ京極氏による先達のシリーズ作品へのオマージュだと云えるだろう。

そして忘れてはならないのは本書のモチーフとなっている妖怪、魍魎だ。

我々が日頃使う“魑魅魍魎”と魍魎は異なるらしい。魑魅魍魎とはそれ自体が成語であり、いわゆる妖怪全般を表した言葉だ。ちなみに魑魅は山のモノや山神とされ、魍魎は水のモノや水神と区別できるが、孔子が魍魎は木石の怪と云ったことからそちらの説も罷り通っており、いわば川のモノで水神でさらに木石の怪と様々な説が繰り広げられている。

しかし古代中国では帝の子供であるという神話があり、その姿は三歳児くらいの大きさで眼が赤く、耳が長く、体は赤みがかった黒、頭にはしっとりとした黒髪を湛え、人間の声を真似て人を惑わすとあり、これが現代まで妖怪を伝承する鳥山石燕が『画図百鬼夜行』に描いた魍魎の姿の基となっているようだ。従って本書で表紙になっている紙人形もこの姿を基に造形されている。
そして魍魎は死骸を食らう化け物である。

しかしどうもやはり魍魎とは呼称であり、様々な妖怪をひっくるめて指す総称と考えるのが一番だろう。
私が今回魍魎を示す内容で一番腑に落ちたのは箱詰めにされた久保竣公の姿を好奇心に駆られて見ようとする関口を思い留まらせようとした京極堂の言葉だ。

魍魎とは即ち境界である。

つまり人が人であるための領域と狂人の、人外の領域とを分け隔てる境界、それが魍魎なのだ。
やはりそういう意味では魍魎は妖怪の総称と云っていいのではないだろうか。

また本書では京極堂中禅寺秋彦、関口巽、木場修太郎、榎木津礼二郎、そして中禅寺の妹敦子に加えて新キャラが登場する。

カストリ誌『實錄犯罪』の編集者鳥口守彦はお惚けキャラと見せかけて実は京極堂の話を関口よりも理解し、彼の意を汲んで行動できる男だ。

里村絋市は外科医院の開業医だが解剖が好きなために監察医の仕事をしている風変わりな男だ。

伊佐間一成は京極堂と関口の共通の友人で町田で『いさま屋』という釣り堀を経営している。彼は物語の最後で重要な役割を果たす。

川島新造は木場の戦前からの友人で戦時中は甘粕正彦の腹心の一人として働いた男。小さな独立プロダクション『騎兵隊映画社』で映画製作をしている。
私は最初この男のモデルは実在した映画監督川島雄三だと思ったが、その風貌は雲を突くような大男で兵隊服を着ていて頭をつるつるに剃り上げており、普段はサングラスをかけていると筋萎縮性側索硬化症を患い、早逝した小男だった川島氏とは大きく異なる。どちらかというと攻殻機動隊に登場するバトーを彷彿させる。

また本書のオカルティックな作品世界を彩るのに昭和27年という時代設定がかなり活きている。

カストリ誌がまだ広く読まれ、そして昭和27年5月に起きた荒川バラバラ殺人事件が起き、更に私も学研の書籍で読んだ「千里眼鑑定」が行われていた時代である。そして本書でも箱を持った黒服の黒い手袋をした男が子供たちを攫って行くと云うデマが流れる。

そんな何か見えない物が潜んでいてもおかしくない時代の話であることが妖怪が存在してもおかしくないと人々に思わせるからこそ独特の雰囲気を備えているのだ。

なんと恐ろしき事件でありながらもなんとも素晴らしい構築美を備えた小説であることか。

それを特に感じさせるのがそれぞれの場面に書かれた心理描写が巧みなダブルミーニングであることに気付かされるからだ。物語の順を追って読んでいく時に感じる登場人物の心理と真相を知った後で同じ場面の心理描写を読むと全く意味が異なってくる。
そしてそれが実に的確にその時の本当の登場人物の心情が吐露されていることに気付くのである。

匣尽くしの本書と述べたが、本書の謎という匣が開いた時、我々が知らされるのは究極の愛の形、究極の幸福の姿だった。

我々は常に安心を求めて生きている。
誰しもが何の不自由もなく、トラブルもなく、その日その日を一日一日つつがなく過ごすことを求めて日々生きていく。そしてそれを人は幸せと呼ぶ。

しかし不思議なことにその幸せは永くは続かないことを我々は知っている。
不安や不幸がいつかは訪れることを知りつつもそれが来ないように願いながら、一日でも永くこの幸福が続くように目の前にある問題を解決して、もしくはそこから目を背けて生きている。

しかし不幸が決して訪れない幸せな生き方があることを本書は示してくれた。それは人であることを辞めることだと。

もういっその事、狂ってしまおうかしらと。

通り物が楠本頼子を唆し、火車によって亡骸を奪われ、そして魍魎によって死者は掘り起こされ、匣の中に入れられた。

怪奇と論理の親和性という本来相容れない2つを見事に結び付け、そして我々を途方もない人の道の最北へと連れて行った本書。
妖怪と医学という人外の物と人智の極致が正反対であるがゆえに実は背中合わせほどの近しい狂気の産物であることを見事に証明した神がかった作品である。

島田氏の提唱した本格ミステリの定義の理想形がここにある。確かに本書は今後読まれるべき作品であった。

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魍魎の匣―文庫版 (講談社文庫)
京極夏彦魍魎の匣 についてのレビュー
No.1402:
(7pt)

温故知新とはまさにこのこと!

クイーンはいくつものアンソロジーを編んでおり、その中に『黄金の12』というものがあるが、本書はなんと日本読者のために編まれた新たな12編に自身の短編1編を加えたものだ。これだけで生前のクイーンがいかに親日家だったかが推し量れる。

そして恐らくは来日したときに交流した日本ミステリ界の関係者たちとの歓談から日本人読者が古今東西のミステリを満遍なく楽しむ気質であることを察したのであろう、本書は古典から編まれた1977年当時の現代ミステリまで、更にアメリカのみならず西欧のミステリも対象に幅広く短編が選出されている。

まず開巻一番の作品はエドナ・セント・ヴィンセント・ミレーの「『魚捕り猫』亭の殺人」だが、これは『犯罪文学傑作選』に選出された「『シャ・キ・ペーシュ』亭の殺人」という短編で、既読済みなので敢えてここでは触れないでおく。

その題名はこの作家よりも別の作家の雄名作を想起するのではないか。「世にも危険なゲーム」はギャビン・ライアルの長編ではなくリチャード・コンルの短編だ。
マンハント物は今でも数多く書かれており、様々な趣向が凝らされてはいるものの、だいたい生き残りを賭けた鬼気迫る戦いであったり、強者どもが一堂に会してバトルを繰り広げるゼロサムゲームであったりと概ね構成は似ている。本作も全く以てその域を出ていないが、なんと本作が書かれたのは1925年なのだ。前掲のライアルの近似題名作が刊行されたのが1963年となんと40年弱も先んじている。つまり本作はこのサバイバルゲーム物の源流なのだ。
まさに命を懸けたチェスゲームが繰り広げられる。その内容は長編ネタといっていいほど濃いもので短い話の中に凝縮されており実に面白い。
最後の結末も洒落ており、今なお鑑賞に値する傑作だ。

アガサ・クリスティは英国ミステリの女王だが、本書収録の「うぐいす荘」は本格ミステリではなく、サスペンス物だ。
クリスティによる青ひげ譚。
奇妙な余韻が残る作品だ。

次の2編は題名のみかなり前から知っていた作品だ。

今なお現代作家がその真相を解き明かそうと数々の著作が出されている切り裂きジャック事件をモチーフにしたのがトマス・バークの「オッターモール氏の手」だ。
これは明らかに切り裂きジャック事件をモチーフにしているというよりも作者なりの切り裂きジャック事件の犯人の推理の披露ではないか。今に通ずるサイコパスの怖さを思い知らされる1編だ。

そしてヒュー・ウォールポールの「銀の仮面」は1933年に書かれた古典ではあるが、その内容は現代に通ずる怖さを持っている。
そう、これはアカデミー賞を受賞したある有名な作品そのものだ。このモチーフは荒木飛呂彦氏もマンガで扱っていた。本当の悪党は微笑みながらやってくる。そして善人はいつの時代も悪人たちの餌食にされるのだということをまざまざと描く。

ドロシー・L・セイヤーズといえばピーター卿シリーズだが、本書収録の「疑惑」はノンシリーズの1編だ。
イギリスの古典には毒殺物が多い。それはかつて毒殺魔と呼ばれる稀代の殺人鬼、しかも医師だったり、婦人だったりと、とても殺人を犯しそうにない人物が行っていたセンセーションなギャップがよほどミステリ作家陣にも受けたのではないだろうか。
本作もまたその毒殺魔、いや毒殺婦の系譜に連なる作品になる。少ない登場人物で繰り広げられる疑惑劇だが、今ならば特に意外な展開ではないオーソドックスな作品だ。

一方ベン・ヘクトの「情熱なき犯罪」は完全犯罪がほんの些細なことで崩れるという典型的な話だが、こちらは捻りが実に効いている。
いやあ、完全犯罪がもろくも崩れ去る小説をこれまでいくつも読んできたが、最後にそれが自分を容疑のど真ん中に陥るという反転の鮮やかさは技巧の冴えを感じる。

次のウィルバー・D・スティールの「人殺しの青」は曰く付きの馬を手に入れた牧場一家に訪れた悲劇を扱った作品だ。
人を殺して手に入れた馬は実は人を襲う荒くれ馬だという反転からさらに作者はもう1つ反転を仕掛ける。田舎の閉鎖された空間では何でもないことが狂気を生み出すということだろうか。

まさかこの作品が読めようとは思わなかった。世評高いスタンリー・エリンの「特別料理」はいわゆる乱歩が称した「奇妙な味」の代表作だ。
実に上手い短編である。正直題名からどんな結末か解るような内容だが、エリンはそれを状況を仄めかせ、そして敢えて書かないことで読者に行間を読ませ、「特別料理」の正体がなんであるかを悟らせる。エリンはこの作品でエラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジンのコンテストで最優秀処女作特別賞を獲ったとのことだが、まさにそれに相応しい1編だ。

シャーロット・アームストロングの「敵」は『黄金の13/現代篇』で既読済みなので感想は割愛する。

どちらかというと私立探偵小説作家の色合いが強いジョー・ゴアーズだが、クイーンのお眼鏡に適ったのが「ダール アイ ラブ ユ」だ。
1962年の作品のため、パソコン通信やインターネットがない時代であるため、情報のやり取りの手段はごく一部の機関にあったテレタイプであるが、本作の内容は現代に通ずるものだ。
突然夜中に一通の入電があり、それは彼のことを慕う女性からの物。思わず浮き立つチャーリーは相手の気を引こうとなんと上司を失脚させる暴挙に出る。
それが原因で上司が散弾銃で自殺すると彼女の居場所を必死になって突き止めるが・・・。
ある意味当時の時代を考えれば本作は意外な結末を持ったSFだろう。
う~ん、この内容はSNSや出会い系サイトなどが発展した今こそ実に身に染みる作品ではないだろうか。

『サイコ』で有名なロバート・ブロックの「ごらん、あの走りっぷりを」はある脚本家の手記で語られる作品だ。彼は統合失調症なのか被害妄想の気がある。彼は精神科医のカウンセリングを受けているが自分が不当に虐げられていると思ってやまない。また彼は女優の妻を持っているが、彼女のことも疑っている。脚本家とは結び付きそうもない奇妙な題名は彼が思い出した童謡『三匹のめくらねずみ』の中の歌詞の一節である。
今となっては特に珍しくない狂える男の末路である。

最後のエラリイ・クイーン自身の短編「三人の未亡人」は『クイーン検察局』所収の「三人の寡婦」で既読済みなのでここでは感想は省くことにする。


エラリー・クイーンが―というよりも既に片割れのマンフレッド・リーは鬼籍に入っていたため、正しくはフレデリック・ダネイだが―来日して日本のミステリ作家と交流を持ち、親日家になったことは有名で、その後3冊もの日本のミステリ作家の作品で傑作選を刊行するまでになった。
幸いにして私はそれを読むことが叶ったが、更に日本の読者のために海外ミステリ作家の12選を編んだことは偶然古本屋で見かけるまで知らなかった。調べてみると日本のために組んだ独自のアンソロジーは『日本文芸推理12選&ONE』と『新世界傑作推理12選』があるようだ。

パズラー作家のイメージがあるクイーンだが、本書では本格ミステリに拘泥せず、スリラー、ホラー、奇妙な味系と多種多彩な作品が収録されており、クイーンのアンソロジストとしての腕前を存分に披露する形となっている。

更に年代も幅広く、古くは1923年の物から新しいもので1973年と50年に亘る作品群の中からセレクトされている。

但しここに収録されている作家はどちらかと云えばクイーンの数あるアンソロジーでは常連ともいうべき作家が多く、クリスティ、セイヤーズ、ベン・ヘクト、エリン、アームストロング、ゴアーズ、ロバート・ブロックがそれに当たる。また全てが初選出作ではなく、3作が私にとって既読の作品であった。

但し、本書はこれまでのアンソロジーの中でもかなりレベルの高さを誇った。従ってベスト選出には実に迷わされた。

例えばベン・ヘクトの「情熱なき犯罪」は殺人犯がある特性を活かして、偽装工作を細密にしていくのが面白いし、その工作が自分のミスで逆に自分の犯行動機を裏付ける証拠になってしまう反転が見事だ。

また世評高いスタンリー・エリンの「特別料理」も噂に違わぬ傑作だ。
今まで食べたこともない極上の「特別料理」の正体は、さすがに似たような作品が流布している現代では容易に想像できるが、エリンの優れたところは敢えて核心に触れず、周囲の状況を主人公2人の会話で仄めかせ、徐々に読者に悟らせていくところにある。まさに引き算が絶妙になされた作品なのだ。

そんな傑作ぞろいの中で選んだベストは2つ。リチャード・コンルの「世にも危険なゲーム」だ。もはや数多書かれたマンハント物だが、実は1925年に書かれた本作がそれらの源流なのだろう。そして原点である本作は今なお読むに値するほど趣向が凝らされている。

普通の狩りでは満足しなくなった狩猟狂の将軍が人間を狩ることに快感を覚え、わざと獲物が自分が所有する島に迷い込むように暗闇の灯火を照らして島の岸壁に激突させ、島に流れ着いた船員たちを捕えて、獲物にする。しかもその方法は3時間先に逃げさせ、将軍が彼らを追って狩るというもの。3日間逃げおおせたら自由を与えるが、将軍は切羽詰まると犬を放って探すなど、決して獲物を逃がそうとはしない。

そんな殺人ゲームに巻き込まれた冒険家の1対1の戦いはわずか40ページ足らずの作品で語るには読み応えのある内容で短編であるのが勿体ないくらいだ。
最後に対峙する二人の決闘シーンの結末の付け方も実に上手い省略の仕方で逆に勝負の行方が際立ち、カタルシスを感じる。作者のコンルは本作含め2作しかミステリーを書いていないというから驚きだ。

もう1作はヒュー・ウォールポールの「銀の仮面」だ。
まさにアカデミー賞を受賞した映画と同じような侵略譚が繰り広げられる。その入り込み方が実に巧みでマダムの人の良さに上手く付け入り、あれよあれよと取り入って監禁にまで至る様は実に恐ろしい。昨今問題になった洗脳事件を彷彿とさせる。

今なお脈々と続くマンハント物、ゼロサムゲーム物の原典を生み出した偉大なる先達と現代社会に今なお蔓延る侵食する一家の恐ろしさを生み出した先達に敬意を払ってこれら2作品をベストとする。

現在エラリー・クイーン作品の再評価が始まっており、これまでの作品の新訳が精力的に進んでいる。
角川文庫の国名シリーズの新訳版が表紙を美男子化されたクイーンを配することで購買層が広がり、そして今は早川書房がライツヴィルシリーズまでが新訳刊行されており、この私も長らく絶版で手に入らなかった作品を新訳で入手できる恩恵に預かっている。

一方アンソロジーも東京創元社が復刊フェアで折に触れ復刊しており、これまた恩恵に預かっている。
しかしこの光文社文庫で刊行されたクイーンのアンソロジーはそのような兆候は全く見えない。

本格ミステリ作家としてのクイーンの再評価が高まる今、アンソロジストとしてのクイーンにもスポットライトを当て、復刊してはどうだろうか?

クイーン自身の評価ではなく、彼が紹介した今でも読むに堪えうる傑作がこのまま埋もれていくことは何とも惜しいのだ。

ミステリの遺産を、文化を継承していくためにも節目節目で復刊活動はされなければならないだろう。

しばらくクイーンのアンソロジーからは離れていたが、本書を読むことでまた再燃してしまった。次はもう1つの『新世界傑作推理12選』にも可能であれば手を伸ばしたいと思う。

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世界傑作推理12選&ONE (光文社文庫)
No.1401: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

キングなのにホラー作品のないヴァラエティ豊かな短編集

4分冊で刊行された短編集“NIGHTMARES & DREAMSCAPES”も本書でとうとう4冊目を迎える。

最終巻の劈頭を飾るのは「第五の男」。
なんと開巻して始まるのはホラーでもファンタジーでもない、エルモア・レナードやドン・ウィンズロウを彷彿とさせるクライムノヴェルだ。
現金輸送車を襲い、大金を手に入れた強盗一味のうちの1人、友人を殺された男が彼らに復讐する物語だ。
実に真っ当なクライムノヴェル。これと云ってキングならではといった特色がないとも思えるが、主人公が服役していた刑務所がショーシャンクであったのが唯一のキングテイストか。

次の「ワトスン博士の事件」はその題名からも判るようにキングによるホームズ譚だ。
いやあ、まさかキングがホームズ物のパスティーシュを書いているとは思わなかった。本作はしかし作者がキングとは解らない、真っ当なパスティーシュである。
またホームズ譚であるだけでなく、これはキングによる本格ミステリでもある。しかも王道の密室殺人事件であるところも憎い。きちんと伏線とトリックが仕掛けられているところも堂に入っている。
家族の個性を活かしたトリックとホームズ物のアンソロジーに選出されても遜色ない出来栄えだ。
ホームズ譚の中にキング作品のメインモチーフである家庭内の支配的な存在として振舞う父親が盛り込まれており、さらに事件の真相はクリスティのある有名作品を彷彿とさせる。そういえば構造的には「メイプル・ストリートの家」と同じではないか。
しかし最も驚いたのは密室であることの必然性にも言及されていることだ。密室内で明らかに他殺と見える殺され方をした場合、実は関係者にとっては不利にしかならない。密室で死んだ場合、事故死もしくは自殺に見せかけることが自分たちを容疑の外へ置くことになるからだ。この密室が密室殺人に切り替えざるを得なかったというところもキングは本格ミステリの何たるかを理解していると云えよう。
このように本作は実に綿密に設定されたホームズ譚なのだ。やるなぁ、キング!

「アムニー最後の事件」はチャンドラー張りのハードボイルド物、と思いきや意外な展開を見せる。
今度はキング版フィリップ・マーロウの登場かと思いきや、やはり一筋縄ではいかない。
1939年頃のヒットラーの写真が新聞の一面を飾る時代、つまり第2次大戦時代を舞台設定にしたハードボイルド小説を10年間書いてきた作者サミュエル・D・ランドリは5冊のアムニーシリーズを著し、好評を得ていたが、5冊目を書いた後に現実世界では息子のダニーがブランコから落ちて頭を打って、大量の出血があったので輸血したところ、その血液の中にエイズウイルスが入っており、間もなく息子は亡くなってしまう。妻は息子の死で鬱病になり、1年後の息子の命日に自殺、作者自身は全身を侵す帯状疱疹に悩まされてしまう。
恐らくこの物語は長編ネタとして考えていたのではないか。物語は広がりを見せることも可能だったろう。しかしキングはこの物語にあっさりと決着をつけてしまう。
突飛な設定すぎて何とももやもやの残る作品となった。もっとうまく書きようがあっただろうに。

最後の「ヘッド・ダウン」はキングの息子オーウェンが所属するリトル・リーグの野球チーム、バンゴア・ウェストが18年ぶりに州選手権に出場し、勝ち上がってその年のメイン州のリトル・リーグ・チャンピオンになるまでを綴ったノンフィクションである。
これが何とも面白い。小さな町のまともなユニフォームさえもない一少年野球チームが個性を発揮し、3人のコーチの指導と采配の許で名うての強豪チームたちと立ち向かい、勝ち上がっていく展開はなんともドラマチックだ。
そして12歳の少年たちで構成されるリトル・リーグの少年たちのなんと瑞々しいことか。メンバー1人1人に個性があり、キングはそれを実に上手く描き分けている。
普段は普通の少年たちである彼らは時に四つ葉のクローバーを見つけてチームのムードを良くしたり、また週刊誌の乳癌検査の広告に出ている女性の乳房の写真に興奮するませたガキたちでもあるが、コーチの熱心な指導を従順に聞き、一心不乱に野球に打ち込む純粋さがある。
特にコーチの1人が話すエピソードが印象的だ。普通の学校生活を送っているだけならば知り合うこともなかった子供たちが裕福な家庭の者も、貧しい地区で育った者も隣り合って笑い合うことができる。それが同じチームで同じスポーツに励んで汗水流すことでそんな奇跡が起こるのだと。
丸いボールが丸いバットに当たることの奇跡とそれを実現することを許された者たちが起こす感動とその奇跡を現実のものにしようと子供たちに指導する熱心なコーチと抜きん出た才能と選手としての心を持つ少年たちがいることで成し得た勝利の数々。彼らは勝ちたいからこそ頑張っているだけだ。その姿と過程が親たちの、いや野球を愛する者たちの心を動かすのだ。
そして野球が、いやベースボールがアメリカ人にとってかけがえのないスポーツである様がバンゴア・ウェストが勝ち上がる顛末やそのチームに関わり、熱意を持って指導するコーチたちの姿から立ち上ってくる。
州のチャンピオンになった瞬間、少年たちの親たちが涙を流しながらフェンス越しにみな手を伸ばして、子供たちに触れて祝福してやりたくて仕方ない様は胸を打つ。
以前はベースボールがアメリカの国技だったが、今はアメフトとなっている。しかし私は本作を読んでベースボールはアメリカ人にとってソウル・スポーツ、即ち魂が求めてやまないスポーツではないかと感じた。

それは表題作「ブルックリンの八月」を読んでさらに強くなる。この作品はキングによる詩であり、内容は野球賛歌だ。56年6月のエベッツ・フィールドの1シーンを描いた詩である。

そして本書には最後にボーナストラックとともいうべき短編がキング自身による解説の後に収録されている。最後の短編「乞食とダイヤモンド」は童話だ。
さてこの話の教訓とは何なのだろうか。


冒頭でも述べたように本書は短編集“NIGHTMARES & DREAMSCAPES”の最終巻である。
モダンホラーの帝王と評されるキングだが、本書はそれまででもホラー以外の様々なジャンルの短編が収録されていたが、最終巻の本書でもそれは変わらない。

クライムノヴェルあり、ホームズ物のパスティーシュ(!)あり、ハードボイルドあり、そしてノンフィクションあり、そして詩に童話とこれまでで一番ヴァラエティに富んだ作品集となった。
何しろキングの十八番であるホラーが1編もないのだ。
そしてそれらはまさにその道の作家が憑依したかのような出来栄えである。いやはやキングの才能の豊かさに驚かされるばかりだ。

特に本書では偉大なる先達たちのオマージュの作品が複数あるのが特徴的だ。

「第五の男」はレナードを彷彿させるクライムノヴェルだし、世界一有名な探偵ホームズに「アムニー最後の事件」では作中の人物がレイモンド・チャンドラーのフィリップ・マーロウシリーズのキャラクターから引用していると述べている。

さて本書のベストは「ヘッド・ダウン」を挙げたい。ホラーでもなく、フィクションでもない、作者自らがエッセイと述べているノンフィクション作品は自分の息子が所属していたリトル・リーグ・チーム、バンゴア・ウェストが勝ち上って1989年度のメイン州リトル・リーグ・チャンピオンになるまでの足取りを描いた作品だ。

時にスポーツはフィクションを超える感動をもたらすが、本作もそうで、まともなユニフォームさえもない地方の一少年野球チームがコーチ3人の指導の許、勝ち上がっていく様子が実に楽しい。

そしてこんな劇的な出来事を目の当たりにしたキングはこのことを書かずにはいられなかったのだろう。記憶に留めるだけではなく、記録に留め、そして親バカと云われようが、作家と云う特権を活かして読者に触れ回りたかったに違いない。
まさに親バカ少年野球日誌。
しかしそれがまた実に面白いのだから憎めない。

次点として「ワトスン博士の事件」を挙げる。キングによるホームズ物のパスティーシュである―おまけに密室殺人事件を扱った本格ミステリ!―という珍しさもあるが、実によく出来た内容で驚かされた。
ホームズ物のパスティーシュでは正典で書かれなかった理由もまた1つの趣向であるが、本作はそれもまたきちんと設定されており―まあ、ありきたりではあるが―、内容もなかなかに読ませる。キングの文体は情報量が多いのが特徴だが、それが逆に改行の少ない古典ミステリにマッチして違和感を覚えさせなかった

なぜキングが売れないとされている短編集を4分冊にて刊行されるほどの分量までに著すのかが解った気がする。
それはキングという作家のネームバリューで求められる作品以外の物語を彼が書きたいからだ。長編にするには短い話が彼の中にはまだまだたくさん潜んでおり、それを出してしまいたいからだ。

今回これほどまでにヴァラエティに富んだ短編群を読んでキングのどうにも止まらない創作意欲の熱をますます感じてしまった。そしてホラーやファンタジーだけのキングよりも私は短編群で見せた様々なジャンルの彼の作品が好きである。

やっぱりキングは短編もいいよなぁと思わされた。この後も短編集は分冊形式で訳出されているが、願わくばこの流れは決して止めないでいただきたい。

▼以下、ネタバレ感想
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ブルックリンの八月 (文春文庫)
No.1400: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

ある意味、男が憧れる癒やしのシチュエーション

何とも不思議な小説である。
毎回行くたびに場所が変わる店名のない料亭。そこは女将だけが応対し、1人が切り盛りしているように思える。そしてそこで毎回異なる女性と主人公が食事をする。
たったこれだけのシチュエーションの話が繰り返される。水戸黄門の方がもっとヴァリエーションあると思ってしまうほど毎回同じ展開なのだ。

しかしこれがなぜか面白い。そして読んでいる私もこんな料亭があれば行ってみたいと思わされるのである。

この名もなき料亭には次のルールがある。

決して誰かを連れて行ってはいけない。1人で訪れなければならない。

一緒に食事をする女性の名前や個人情報を尋ねてはいけない。但し向こうから話すのは問題ない。

一緒に食事する女性と別の機会に会う約束をしてはいけないし、連絡先を交換してはいけない。

そして不思議なことに大学の教官である主人公の小山が突然店に行きたいと云っても必ず空いている。
そして行くたびに場所は異なり、どこかの家だったり、ビルの地下にあるかつて料亭だった店舗だったり、小規模な旅館だったり、街中によくある1階がレストランになっているアパートを改装した1室だったり、郊外の奥まった森の中にある亡くなった芸術家の家だったり、廃校になった郊外の小学校でも営業したりする。そして鉄塔の足元にある大きな屋敷だったりもする。

またそこで出される料理は全て女将にお任せである。主に和食だが、洋食の時もある。味はいいのだが、それがよくある美食小説で繰り広げられるような読んでいるこちらが思わず食べたくなるような描写は特にない。

そしてその奇妙な料亭を切り盛りする女将も実に整った顔立ちをしているがあまり特徴的ではなく、すぐに忘れてしまい、街中であってもそのまま通り過ぎてしまうような印象だ。

そんな料亭での一番のご馳走であり、読みどころであるのは小山が毎回一緒に食事をする女性たちなのだ。

それは大学生のような普段着の女性だったり、眼鏡をかけた知的な若い女性だったり、30を越えた女性だったり、地味な女性だったり、異国風の女性だったりと様々だ。そしてその誰もが接客を仕事にしているような女性ではないように見えるのが共通している。

最初のうち、小山は現れる女性たちの食事をする美しい所作に見とれてしまう。いやそれもまたご馳走の一部として味わうのだ。

私が本書の中で一番印象に残ったのは「ほんの少し変わった子あります」の「ほんの少し変わった子」である黒いセータに黒いジーンズを履いた短めの髪型の長身のボーイッシュな女性だ。
20代前半と思われる彼女は本書で唯一小山と会話をしない女性だった。しかし彼女の食事をする所作はそれまでに出会った女性の中で最も美しく、優雅で洗練された動作で食事をする。言葉は交わさずともその仕草が小山にとってはご馳走であり、ただ淡々に食事をする静けさと相まって奇跡とも云える安らぎの空間を提供するのだ。その沈黙と究極までに美しい所作で能弁に会話をしているかのような濃密な空間がそこにある。そして小山は女性と一緒に食事をすることに意味があると見出す。

そしてまた最後が素晴らしい。

私は思わずため息が出た。なんて素晴らしいのかと。
この究極なまでに研ぎ澄まされた無駄を一切排除した能弁な沈黙と空間の濃密性に羨ましさを感じられずにはいられなかった。

ただそこにいるだけ。
ただ一緒に食事をしているだけ。
しかし相手が洗練され、無駄がなく優雅であるならばもうそれだけで胸がいっぱいになり、心は、魂は充足されるのである。
幻のようなあのひと時。
しかしそれは彼にとって永遠なのだ。こんな思いを久々に抱かせてくれたこの女性のエピソードに乾杯。

またこの通り一辺倒の物語で描かれるのは女将の店と女性だけではない。上に書いたようにほとんど会話がないのはまれでなにがしかの話が出てくる。

そしてそれらを聞いて小山は自分の考えに耽る。
いや実は女将の店に行くきっかけはいつも自分の生活や仕事に対する思索に耽り、ふと思いついたように店に行きたくなるのだ。
それは小山が一人考えることでその孤独を紛らわしたいからだ。
つまり孤独を愛しながらも実は誰かを必要としているのだ。
しかし作中で小山はあの店は「孤独増幅器」だと述べる。孤独を紛らわすために女性に逢いに行くがその女性はその時限りなのだ。そしてふと気づけば一人の自分がいる。つまり誰かと過ごす時間が濃密なほど孤独は助長されることに小山は気付く。

そして再びその孤独を紛らわすために彼は女将の店に行くのだ。

その都度彼は何かを得て、また何かを失うような思いを抱く。
私が印象に残っているのは過去を振り返った時に何を成しえたかと考えるとき、思い付くのはその代償として失ったものばかりだと述べる件だ。

50も過ぎた私もまた同じ思いを抱く。小山は50代にもうすぐ届きそうな年だと述べているからまさに少し前の私と同じくらいの年齢だろう。

私は折に触れ自分のこれまでの人生のそれぞれの場面が唐突に頭に浮かぶことがよくある。
それは実は自分の失敗したエピソードだったり、なぜあの時もっとこうすればよかったと後悔するシーンばかりだ。そんな時私は何ともやるせない気持ちに苛まれ身悶えしてしまう。あの日あの時それは今の自分ではない自分になれるチャンスだったのではないかと。

本書は森氏の思弁小説だろう。
小山と磯部と云う2人の大学の教官の口を通じてその時々の考えが述べられる。
そしてその考えに呼応するように女将の店で女性に遭い、2人で過ごした時間や聞いた話を思い出し、思索に耽るのだ。時にはあまりに色んな話を聞き過ぎてあれは幻だったのかと思ったりもする。多すぎる話は逆に印象に残らないということだろう。

実は私は女性と食事するのが大好きなのである。かつて若かりし頃は合コンをいくつも経験し、個人的に食事にも行ったりもした。
実は男同士で食事に行くよりも女性と食事する方が実りがあると思っている。

従ってこの小説のシチュエーションが実に面白かったのはまさに私の趣向にマッチしていたからだ。
様々な女性の様々な性格、様々な生き様や様々な事情。
それらを共有する時間のなんと愉しいことか。そして時に心揺さぶられることのなんと愉しいことか。

しかし最後に本書では女性の得体の知れなさを感じさせる。

本書に登場する女性の共通するキーワードは題名にもなっている「少し変わった子」であることだ。
男は実はこの少し変わった子に弱い。

女性と食事をすることの愉しさと怖さを知らされる小説だ。
できれば怖さは知らぬままにいたい。
そう、夢は夢のままが一番いい。


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少し変わった子あります (文春文庫)
森博嗣少し変わった子あります についてのレビュー
No.1399:
(7pt)

通勤時間に読むにしては陰惨すぎる

芦辺拓氏の鮎川哲也賞受賞作『殺人喜劇の十三人』に登場した森江春策はその後シリーズキャラクターとなり、今なお書き継がれているが、本書はその2作目にあたる。
1作目では学生だった彼はその後新聞記者となったが脱サラし、司法試験を受けて弁護士資格を取り、刑事事件専門の弁護士となったが、有罪率99.9%の日本の裁判に勝つために自ら真犯人を突き止める探偵業も副業としているという設定だ。

この森江春策は芦辺作品のいわばメインキャラクターであり、現在では数々のシリーズ作品が書かれている。それは即ち数々の事件を解決してきた名探偵であるが、他の名探偵とは異なり、周囲からは頼りなく、また要領悪い弁護士のように見られ、元同僚の新聞記者来崎四郎の評によれば「冴えない学生だった森江春策はその後冴えない記者になり、そして今は冴えない弁護士となっている」とされている。私が抱いていた名探偵像からは乖離したキャラクターだ。

本書は1995年、つまり平成7年に刊行された作品だが、この題名『歴史街道殺人事件』とはなんとも古めかしく昭和のノベルス全盛期に刊行された推理小説群を彷彿させる。
本書も最初はトクマ・ノベルスの版型で刊行されたことから、恐らくはかつての島田荘司氏がそうであったように、当時新本格ブームで続々とデビューする新米作家たちに少しでも固定読者を付けようと敢えて俗っぽい『〇〇殺人事件』の名をつけ、そしてトラベルミステリ風に味付けしたものを版元が要求したように思われる。そしてあとがきではまさにそのことが書かれていた。このベタな題名が生んだ功罪についても。

本書は宝塚、天王山、奈良、伊勢でバラバラに切断された死体が発見されるショッキングな内容でこの殺人ルートを解明するミステリである。

それらを結ぶのが題名にもなっている歴史街道、本書では伊勢―飛鳥・斑鳩―奈良―京都―大阪―宝塚―神戸を結ぶルートでそれぞれ≪古代史ゾーン≫、≪奈良時代ゾーン≫、≪平安・宝町ゾーン≫、≪戦国・江戸時代ゾーン≫、≪近代ゾーン≫と区分けされており、このルートを辿ることで二千年の歴史を体感できるとされている。
この歴史街道は実際に歴史街道推進協議会によってPRされており、現在もホームページで情報が更新されている。関西に住んでいる身としては実に興味深い内容で個人的に巡ってみたいと思った次第である。

しかしこの歴史情緒溢れるルートを舞台に本書では死体がばら撒かれ、そして加えて2つの殺人事件が起こる。そしてその中心には森江の高校時代の友人、味原恭二がいて彼が最有力容疑者となる。

この味原恭二という男は本書では決して好感の持てる人物として書かれていない。主人公の森江をして「自分の興味あるものに他人を巻き込んで散々利用した後にすぐに他の物に興味が移って顧みもしない」男と評されている。森江自身も高校時代に彼に誘われて演劇グループに所属し、最後の公演に向けて準備に明け暮れていた矢先に既に演劇に興味を失った味原は受験生へと転身し、逆に森江達にまだそんなことをやっているのかと歯牙にもかけない仕打ちを受けていた。

それは大人になってからも続き、劇団≪ストゥーパ・コメッツ≫に所属するといつの間にか牛耳るようになり、そして有名した後は興味が尽きたのかデザイン企画会社に転身し、現在に至っている。そしてその資金は彼の恋人でバラバラ殺人事件の被害者である川越理奈の父親から出資してもらっているのだ。まさに他人の土俵で相撲を取っては後を濁してばかりいる男だ。

従って彼の周りにいた人物も次第に去っていき、その肉親や知り合いは味原に対して嫌悪もしくは憎悪に似た感情を抱いている。
共同事業者の稲荷克利と新規コンピューターソフトを一緒に作ろうと巻き込んだ新進気鋭のゲームクリエイター白崎潤が森江の捜査の過程で殺人事件の犠牲者となっていく。

本書にはいくつか物理的なトリックが登場するが令和の今では懐かしさを感じさせる。

しかしこの犯行の内容が意外にも凄惨だったことに驚いた。

いやはや読んでててこの件は何とも背筋が寒くなる思いがした。上に書いたように本書はサラリーマンが通勤中に読むようなノベルスで刊行された推理小説だが、この犯行内容は通勤中に読むにはショッキングすぎるではないか。

しかし事件の真相から立ち上るのは味原恭二、白崎潤、稲荷克利、本庄静夫という4人の男の中心にこの事件の最初の被害者川越理奈という女性がいたことだ。そして彼女は非の打ちどころのない、知り合えば魅了されてしまうほどの魅力を備えた女性だったということだ。

歴史街道を軸に1人の女性に魅せられた男たちと1人の男性の才能に魅せられた1人の女性の物語であったのだ。

しかしその周囲の男性を翻弄する女性の心を射止め、なおかつ1人の女性が心酔する才能を持つ男を引き込んだのが全く好感の持てない味原と云う男なのは人間関係の綾というか人の心の不可解さを感じさせる。そしてそういう人が実際に自分たちの周りにいるのだからまいってしまう。

ところで本書では事件解決の直前にあの阪神淡路大震災が発生する。しかしこの震災が事件に何か影響を及ぼすわけでもなく、単純にその時期にこの事件が起きたということだけのことで描写されるのだ。正直この件は必要だったのかと首を傾げざるを得ない。

本書には他にも死体をより集めて作られた絶世の美女を贈られた貴族、紀長谷雄のエピソードなども盛り込まれ、歴史街道で起きた殺人事件を彩る。その他にも様々な伏線が散りばめられ、それらが確実に事件の真相に結びつき、実に細やかな作りになっている。

多分刊行直後に読めば当時まだ20代だった私には単なる通勤時の時間つぶしに読むキヨスクミステリとして片付けていたであろうが年齢を重ね、史跡や歴史遺産に興味を抱いた今ならば歴史街道と云う魅力的なコンテンツがあることを知っただけでも本書を読んだ価値を感じてしまう。
日本の二千年の歴史を感じるこの街道にいつか必ず足を運んでみることにしよう。
ただその時は本書の陰惨な事件を忘れた状態で、だが。

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歴史街道殺人事件 (徳間文庫)
芦辺拓歴史街道殺人事件 についてのレビュー
No.1398: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

色んなジャンルの詰合わせ

『ドランのキャデラック』、『いかしたバンドのいる街で』に続く短編集“NIGHTMARES & DREAMSCAPES”の3冊目の訳書である。

「かわいい子馬」は祖父から孫への最後の訓示のような話だ。
題名の「かわいい子馬」はその祖父が時間を具現化したイメージであり、アドバイスを受けた孫同様に読者である私も正直云って腑に落ちるものではない。ただそこに書かれている時間に関するこの老人の話は実に興味深い。
かくれんぼで隠れそびれたのは鬼役の子が1分数えるのが早かったからだと云って老人は孫を慰める。それを証明するために自分の懐中時計を与え、かくれんぼ鬼と同じようなペースで60を数えたときに何秒経っているかを確認させて、実際には35秒しか経っていなかったことで決して孫がとろくさくて隠れそびれたわけではないと教える。
そして人間の生涯には3種類の時間があると説く。
子供の頃は時間は長く感じて、例えば新学期が始まった時は夏休みなんて永久に来ないんじゃないかと思い、夏休みが来たら新学期なんてはるか先のことだと思うだろうと。子供時代の時間は、一日は長くてワクワクに満ちている。
そして我々が現実の時間の長さを感じるのが14歳くらいから60歳くらいだと老人は云う。時間の感覚が身に付き、長さを正確に知って行動できる。そしてその現実の時間こそが「かわいい子馬」で仲良く付き合っていけと諭す。
そして年老いてくると時間は早く過ぎていく。朝かと思ったらすぐに昼になり、そして夜になる。それを意識しだすのは40歳くらいで人々は夏になったかと思えばお店ではハロウィンの準備をしだし、そしてすぐにクリスマスの準備をしだすと。
確かにこれはその通りだ。「かわいい子馬」という概念は別にしてもこの時間に対する感じ方はみな同様に抱いていた気持ちではないだろうか。
そして老人はその子に時間の概念を教えたかっただけでなく、今日みたいに友達から虐められるようなことが起きても自分がそばにいると勇気づけたかったのだろう。祖父祖母にとって孫とは何とも可愛くて愛おしい存在なのだから。

次の「電話はどこから……?」は珍しく脚本形式で書かれた作品である。
聞き覚えのある女性の泣き声が受話器から聞こえ、パニックになるが、その声の主が解らない。これはそんな物語だ。

「十時の人々」は奇妙な侵略物である。
一般的には私たちと同じ人間にしか見えないが、ある特定の条件下の人間だけがその蝙蝠人なる異形の怪物の真の姿を見ることができるという侵略者たちの脅威を描いた作品だが、キングはこの特定の条件を何とも細やかな設定にしている。そんな人々を主人公が〈十時の人々〉と呼んでおり、それが題名の由来である。

次の「クラウチ・エンド」もまた「十時の人々」同様、我々の世界と異形の物の住まう世界は隣り合わせだと警告している物語だ。
物語の舞台はキングにしては珍しくイギリスはロンドンの片田舎クラウチ・エンド。そこはしかし異次元との境が最も薄い地域であった。そしてたびたびそこでは異形の物たちが蔓延っては生贄を攫っていく。そこに住んでいる友人宅を訪れた旅行中のアメリカ人夫婦はその異界へと紛れ込んでしまう。そしてそんな体験をした女性は失踪したままの夫を残して帰国し、自殺未遂を図り、療養所で過ごした後、退院してもなおある奇行をしないと落ち着かない日々を送る。

最後の表題作はキングによく登場する家庭を制圧する父親に怯える子供たちが主人公だ。
これはキングらしからぬ痛快な物語だ。不思議な金属が現れ、侵食する話と云えばあの陰鬱な駄作(敢えて云おう)『トミー・ノッカーズ』を想起させるが、本作はあの作品のように迷走せず、実にシンプルに展開する。
自分たちの家の中に金属があり、それが日々広がっていく。訳が分からないまま、カウントダウンを続ける計器が見つかり、“その時”が来るのが判る。
一方で反りの合わない継父との生活に日々心身をすり減らしている母親と子供たちがいる。そんな現状打破のためにこのカウントダウンを利用する。
結末は実に痛快!
敢えて色々な説明を省いて“その時”までを描いたキングの技巧を素直を褒めたい。


キングの短編集“NIGHTMARES & DREAMSCAPES”も本書で3冊目。その内容はさらにヴァラエティに富むようになった。

初頭を飾る「かわいい子馬」は純文学とまでは云わないが、普通小説である。

祖父はかくれんぼで遊んでいた孫が一人隠れそびれたのを参加していた友達に嘲笑われていたのを見て、彼に自分の懐中時計を託し、そして時間に関する話をする。その内容については既に上の感想で述べているので、ここでは別の話を書こう。

祖父から孫への最後の時間に関する話というテーマながら、作中で祖父が自嘲気味にすぐに横道にそれてしまいがちだと云うようにキング作品らしく、物語は色んなエピソードが含まれている。それは少年の無垢なる心では大人のやることが全て新鮮に見えたことやどこにでもあるアメリカの一般家庭の風景が断片的に挿入されており、何とも瑞々しい。

少年は祖父が親指の爪に擦り付けてマッチに点火するのをまるで手品を見ているかのように驚いて眺め、さらにその火が強風にも関わらず消えないのに、逆に振るだけでマッチが消えることを魔法だと感じる。

6歳年上の姉が男の人とは一生付き合わないと云った2カ月前に彼は姉がバスルームで1人全裸になって鏡で自分の姿を見ていて泣いていたことを彼は知っている。

また姉が悪戯で少年に“ちんちんつねり”をするのを彼は嫌っているが時々姉が愛犬にするように優しく撫でるときは寧ろ気持ちがいいことを黙っている。

父親が出張旅行に行っているとき、母親は病気の友達の見舞いに行くことがあって、少年はどうして父親の出張の時にいつも母さんの友達の病気が重くなるのか不思議がる。

そんなごく普通のアメリカ家庭でありながら、少年が祖母祖父の許で暮らしていることや断片的に語られる両親や姉のエピソードで、はっきりとは書いていないがその家族に何かあったであろうことを悟らせる。

次の「電話はどこから……?」はジャンル的にはホラーだが、なんと脚本形式で書かれている。

しかしなぜこの話を脚本形式で書いたのか?
それはワンアイデアの物語を依頼された枚数まで膨らますためにキングが編み出した一種の荒技だったのか。

「十時の人々」はキングの好きなモンスター小説かと思ったが、侵略物と考えるとSF小説に分類されるか。
人々の知らないうちに通称“蝙蝠人”と呼ばれる怪物たちが人間に化けて社会的地位の高い人間に成りすましていた。通常彼らの姿は人間としか見えないが、ある特定の条件を備えた人物だけが彼らの正体を見ることが出来る。
この設定はある協会に依頼されて書いたような設定が妙なおかしみを感じさせる。

しかしこの蝙蝠人の精緻かつ醜悪な描写はまさにキングの独壇場だ。蝙蝠人というネーミングながら、決して蝙蝠の頭をした人間として描かれているわけではなく、大きな目と牙を備え、頭部には肉塊が蠢いて膨張しては膿を噴き出し、1本の黒くて太い血管が脈打っていると想像するだに気持ちの悪い風貌だ。そして彼らの正体が見えない一般人は普通の人々に見えるので、そのグロテスクな肉塊に頬にキスを交わすという吐き気を催すような描写も出てくる。

「クラウチ・エンド」はキングにしては珍しくアメリカではなくロンドンの片田舎を舞台にした物語。
クラウチ・エンドとはその舞台となる町の名前でセイラムズ・ロットやキャッスルロック、デリーと云ったキングお得意の不穏な雰囲気を孕んだ街の話だが、驚くことにこのクラウチ・エンドは実在する街のようだ。キングの友人ピーター・ストラウヴが住んでいた町で一度訪れたことがあるようだ。

しかし「十時の人々」と「クラウチ・エンド」は表裏一体のような話だ。
前者は希望を残した終わり方だが、後者は諦観が込められている。

最後の表題作はキングの持ち味である高圧的な父親の支配という恐怖を描きながらも、最後はSF的結末に至る作品だが、これはとにかく主人公となる4人兄妹たちがいい。愛情の欠片も感じさせない継父を嫌悪しつつも恐れながら、日々神経を衰弱させる母親を気遣う子供たち。そんな中、自分たちの家の壁の中に金属が入っているのを見つけ、それが次第に広がっているのに気付く。しかもカウントダウンしている計器を発見するに至り、どうやら何かが起こることを察し、彼らはこの怪事を利用して継父を一掃しようと企むのだ。

この4人兄妹はキングの名作「スタンド・バイ・ミー」の少年たちを彷彿させる。

普通小説、ホラー、モンスター小説、侵略物のSF小説、ジュヴナイル。しかし各編は左に書いたジャンルを見事にミックスさせて一括りにできない作品に仕上げている。
いやだからといって全くストーリーは複雑ではない。寧ろシンプルだ。しかしシンプルなストーリーに複数のジャンルを放り込んでいるのだ。

さて本書におけるベストは表題作の「メイプル・ストリートの家」だ。なかなか懐けない継父との確執が募る4人の兄妹たちの鬱屈を、何とも豪快な結末に溜飲が下がった。

あとは「十時の人々」の発想の面白さを挙げたい。

同じ習慣を持つ人々がいつも同じ場所で顔合わせ、顔馴染みであるがお互い挨拶も交わさず、名前も知らない人たち。そんな人たちはみないるのではないか。
本書では休憩時間の10時と3時に一服をしに出てくる人たちだが、例えば同じ通勤電車の同じ車両で乗り合わせる人たちやいつも行く馴染みの店で出くわす人々などなど。
この作品が面白いのはそんな人たちがみな共通して特殊な能力を持っていたという設定だ。この発想が実に面白かった。

また「電話はどこから……?」も過去の過ちを自分が過去の自分に教えてやれたらよかったのにと、これまた誰もが抱く心理に基づいた作品だ。しかしそうは上手く行かないのがキングらしい。

とにかくキングはどんなジャンルの話も書けるのだという思いを強くした。この短編集では普通小説も収録されている。これは逆に他の作品も読める短編だからこそ著したのだろう。さすがにキングのビッグネームでもこの手の普通小説は長編では盛り上がりに欠けて売れ行きも芳しくならないだろう。

さて“NIGHTMARES & DREAMSCAPES”もあと1冊。次はどんな悪夢が、どんな風景を見せてくれるのだろうか。

▼以下、ネタバレ感想
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メイプル・ストリートの家 (文春文庫 キ 2-29)
No.1397: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(8pt)

まるでカードの裏と表のようなおいた男性刑事と若き女性刑事のコラボレーション

『レイト・ショー』で登場した新シリーズ・キャラクター、レネイ・バラードとハリー・ボッシュが早くも共演したのが本書である。

ひょんなことから2人で捜査に当たることになったのは9年前に起きた未解決事件だ。それはデイジー・クレイトンという当時15歳で亡くなった街娼をしていた少女の殺害事件だ。

これがなんと前作『汚名』の囮捜査で知り合った薬物依存症の女性エリザベス・クレイトンの娘が亡くなった事件であることが判明する。
いやあ、まさかあの作品の最後にエリザベスに誓った事件の捜査を読めることになろうとは、コナリーは本当に読者のツボを押さえる術をよく知っている。

しかしそちらは余技的なもので、昼勤のボッシュが担当する事件は14年前に起きたサンフェルナンドを牛耳るギャング、サンフェル団のボス、クリストバル・ベガ殺害事件だ。

このシリーズを読む醍醐味の1つとして警察というものの生態が実に肌身に迫るように感じられることが上げられる。

今回ボッシュが探る未解決事件、エリザベス・クレイトンの娘デイジー殺害の捜査で段ボール箱数個に亘って保管されている当時の職務質問カード、通称シェイク・カードをしらみつぶしに調べるが、その中でバラードはティム・ファーマーという警官が書き記したカードに興味を覚える。
彼が書いたカードの裏には散文詩のような彼の相手への印象が刻まれ、それがバラードの心を打つ。興味を持ったバラードはその警官のことを尋ねるが、ボッシュから3年前に自殺したことを知らされる。しかもそれは退職の1カ月前。
現場にこだわった彼は退職前に内勤をさせられるのを拒み、退職届を出した後、最後のパトロールの最中で自殺する。カードに詩を残した警官は詩人のように自殺した。

また未解決事件の捜査で当時の担当刑事に状況を尋ねると自分が解決できなかったのだから誰も解決できないと決めつけて素っ気なく応対する刑事もいる。

また警察航空隊が勤務時間が一定でしかも危険手当が付くことからベテラン警察官の憧れの部署であることや、SIS、即ち特殊捜査班は犯罪者を“排除”する、いわば超法規的措置を行うロス市警の中でも独自の立場を保持した部署で外部からたびたび非難の対象となるが、警察の中ではむしろそこに加わりたくないと思う警察官はひとりもいないこと。本来ボッシュがいるべき部署なのではないか。

さて“レイトショー”即ち深夜勤務担当のレネイ・バラードにはボッシュと共に共同で捜査するデイジー殺害事件以外にも様々な事件が舞い込み、駆り出される。

バスルームで頭を割られて死んだ遺体があり、殺人事件かと思えるような事件がある。

また後日その家で高価なアンディー・ウォーホルの版画が盗まれる。

女性からレイプ被害の連絡を受け、駆け付けると相手は現在人気上昇中のコメディアンで、風評被害を与えることに配慮して慎重に対処せざるを得なくなる。

連絡のつかなくなった男の父親が市長の友人で高額納税者であることから昼勤刑事の引継ぎで深夜にもその男の許を訪ねるように命じられ、行ってみるとそれが殺人事件だったことが判明する。

バーの喧嘩騒ぎの通報を受けて出動すれば用心棒を殴ったのは4人の学生のうち誰かであるのを探ろうとすればそれぞれが異なる供述をし、しかもそのうちの1人は弁護士の息子だったりする。

そんな彼女と仕事をする警察官は捜査の終りに皆彼女に親しみを覚えるのだ。そのことについては後に触れよう。

物語はバラードの章とボッシュの章が交互に語られる。この構成が2人の刑事を対比させ、そして胸に沁み入りさせる。

レネイ・バラードはまだ若い女性刑事だ。上司に逆らった廉で深夜勤務専門の刑事となっているが、彼女はそれを自分の中で大切なものとしている。
彼女の周りにはしかし彼女を理解する者がいて、彼女を陰ながら応援している。かつてボッシュの相棒だったルシア・ソトもまたその一人だ。
そしてレネイ・バラードはまだ刑事として汚れていない。容疑者を何としても捕まえたいと願うが、あくまで決められた規則に従って創意工夫を凝らして犯人の懐に入り込む。女性刑事につきもののリスクを抱えながら、時に屈強な犯人に取り押さえられそうになり、またはレイプされそうになりながらも彼女は決して屈しず、心折らせることなく悪と立ち向かう。
遺体現場に行けば、腐敗臭が服に沁みつかないかと気にして、何着か着替えを用意し、着替えが無くなると実家に戻って選択するための有休を取るといった女性らしさも垣間見える。また共に捜査して自分を救ってくれた仲間にお礼に食事を奢り、それがきっかけで友人となったルーク・ヘザーは航空部隊の女性観測手で、レネイとのホットラインを持ち、協力し合う。
また深夜勤務担当刑事は勤務が明けると昼勤刑事に事件を受け渡せばそれで終わりなのに、彼女は取り掛かった事件の捜査の手助けを申し出る。それが彼女の周りに理解者を、仲間を作っていくのだ。

プライベートでも前作では良き友人だったライフガードのアーロン・ヘイズと今回恋人になっている。

一方ボッシュは定年を過ぎ、サンフェルナンド市警の予備警察官という無給の刑事だ。
彼もまた悪に対してはそれが世に蔓延ることで次の犠牲者を生むことを良しとせず、取り掛かった事件は必ず犯人を捕まえようと昼夜を問わず捜査に没頭する。彼は常に眠れない。なぜなら寝ている間に悪人が罪を犯すことが判っているからだ。

しかし彼は長年行ってきた規則から逸脱した捜査の仕方が身に沁みついており、その強引さゆえに過ちを犯し、そしていつもクビになるリスクを伴う。

また彼は昔自分が行った上司の名前を騙って行った捜査が許でその上司が誤って拷問にかけられ死に至らしめたことを警察官内では公然の秘密のように知られている。

そして以前の捜査で知り合ったエリザベス・クレイトンを麻薬中毒から救い、自宅へ住まわせ、そして彼女の娘が殺害された未解決事件の捜査を行うが、エリザベスは自分がボッシュの自宅にいることで娘との連絡が途絶えていることを気に揉んで、出ていってしまう。

ボッシュの周りにはいつも仲間が、連れが去り行くのだ。

レネイ・バラードもまた親しい同僚にボッシュと働くことは好きで、先輩刑事として学ぶべきところはあると思うが、その日の終りになるとどこか信用できないところが残ると述べている。

この老いた男性刑事と若き女性刑事の境遇はまさにカードの表と裏のような関係だ。

ボッシュの許からは常に仲間が、連れが去っていくと述べたが、だからこそ娘のマデリンこそが彼にとってかけがえのない存在であることが今回さらに強調される。

しかしこの娘への強い思いを再確認することでボッシュはエリザベスに対して行った自分の行為を悔いる。

今回彼がエリザベスに対して強い思いを抱いていることが今回ひしひしと伝わる。

さて今回の作品の原題は“Dark Sacred Night”、つまり『暗く聖なる夜』だ。それは既にボッシュシリーズ9作目、原題“Lost Light”で使われている。
この原題はルイ・アームストロングの名曲“What A Wonderful World”の歌詞の一節であることから訳者は逆に曲の題名を少し変えて『素晴らしき世界』と名付けたことだろう。しかしこの一節、実は作中にも出てくる。

それはバラードがゴミ集積場の中から行方不明者のバラバラ死体を昼勤の刑事が捜すのを手伝い、無事遺体が見つかった時にお互いに「なんてすてきな世界だ」と言葉を交わすのだ。これが即ち原文ではルイ・アームストロングの題名そのままであり、ここから訳者は邦題を採ったと思われる。
どうもコナリーはこの歌が大好きのようで確か作中でもボッシュがBGMで流した場面があったと記憶している。今後原題が“What A Wonderful World”になったら、訳者はどうするのだろうか。

ボッシュは彼女に刑事としての激しさを、何があっても前に進み続ける強さを彼女に見出す。
ボッシュとバラード、カードの表と裏、そして陰と陽、警察の外側と内側。そんな2人は実は相反することなくいつも背中合わせの存在なのだ。

今まで何人もの相棒と組み、または育ててきたボッシュにとってレネイ・バラードは最後の切り札になるのだろうか。

これから書かれるであろう2人のコンビとしてのシリーズ作を愉しみにしようではないか。


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素晴らしき世界(上) (講談社文庫)
マイクル・コナリー素晴らしき世界 についてのレビュー
No.1396: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

シリーズ読者へのサプライズと思いがけないプレゼントのような短編集

森氏の第5短編集。森氏の短編は長編に比べて抒情的な作品が多く、また作中で解かれない謎が隠されている。
はてさて今回はどうだろうか。

幕開けの「ラジオの似合う夜」はある人物の海外出張で出くわしたある不思議な事件の話だ。
一人称叙述でどこかの会社員の体で語られる本作は物語が進むにつれて、あることが判明する。
彼が相手をした外国の研修生X・Jは1年の研修で主人公に惚れてしまったようでこの研修でもその想いを隠さない。
そして彼が出張に来た彼女の国はやたらと秘密が多く、宿泊先のホテルでは監視カメラで監視され、捜査の見学をしに来たのに警察署にも行けず、そして唐突に帰国させられるといったもの。
事件は一応答えが出されるが、残された別の指紋については正直アンフェア感を拭えない。
なかなか考えられた展開ではあるが、本作の味わいはそんな窮屈な国で優秀な捜査員として生きるX・Jと主人公の間に生まれた愛のようなものがそんな政治事情で引き裂かざるを得なかった悲哀であることだ。やはり森氏の短編はセンチメンタルだ。

次の「檻とプリズム」は観念的な話だ。小さい頃から檻に入れられて育てられた少年はやがて近所の1人の少年と親しくなる。しかし彼に関心を持つ少女が現れ、街で起きている幼女殺人事件の犯人ではないかと彼を疑っていると打ち明けられる。
物語はこの3人のなんとも微妙な関係が語られる。少女は少年の3つ年上の友人を殺人犯として疑い、少年は友人にそのことを打ち明けようか迷う。
少女はもしかしたら彼の友人に気があったのかもしれない。もしくは少年自体に気があり、友人から離そうとしたのかもしれない。少年は友人に結局そのことを話すが、友人は彼女こそ危険な空気をまとっていると少年に話す。
いわば奇妙な三角関係を感じさせる。
少年が友人と交わす会話の中で彼が全ての生き物はかつて植物で動物もそうだったが、大地から離れることを選んだので植物より早く死ぬようになったというなかなか面白い話がある。そして主人公は動物たちが以前持っていた幹や枝や根はどうしたのかと訊くと、学者たちによればそれはすっかり無くなってしまったというが友人はまだあると信じてそれを調べていると話す。。
また一方タイトルの檻は少年が子供の頃に閉じ込められていた檻も指すが、みんなが檻から出たがっているという精神的な檻をも指す。つまり常識でいることは檻に入っているようなものだという意味だ。少女が少年の友人に関心があるのは友人が彼女にとって恐れるものでありながらも興味が尽きない存在であるからでその一歩が踏み出せないのは彼女が檻から、普通という名の檻から出る必要があると少年は説く。
まあ、なんとも観念的な話である。

次からはショートショートが5作続く。
まず「照明可能な煙突掃除人」は星新一作品を想起するショートショート。最後のオチは同氏のある有名作を想起させる。

2つ目の「皇帝の夢」は夢で聞いた囁きが中国の皇帝の名だと知り、その皇帝の墓を訪れた無職の男の話だ。

3つ目の「私を失望させて」は退屈しのぎに面白い話を始めた女ともだちの話。それは桃太郎を題材にした現代風の内容だったのだがというもの。童話桃太郎の話に潜む違和感に突っ込みを入れつつ、またおじいさんとおばあさんをおにいさんとおねえさんに変えたり、桃太郎が必ずしも鬼退治をしに出掛けたわけでなく、たまたま海水浴に行った無人島に鬼がいたのでついでに説教したという現代風(?)にアレンジされているのだが、何とも脱力的なオチ。これなら題材は正直なんでもいいではないか。

4つ目の「麗しき黒髪に種を」は子供会のピクニックの時のある思い出を語ったもの。
この物語は長い黒髪を持つ女性に纏わる苦い思い出について不意に思い出す内容で、なんだか作者の実体験のように感じられる。最後にそんな事態になってしまったことを悔む自身の心情が描かれている。最後のどうでもいいようなオチは作者自身を出し過ぎたゆえの照れだろうか。

5つ目の「コシジ君のこと」は小学生の時のクラスメイトが大人になって毎日夢の中に登場するという話だ。コシジ君というそのクラスメイトは華奢で虐めの対象になっていた。そんな彼が大人になって夢に現れても実に冴えない。そしてある日小学校の建物が取り壊されることになったのでお別れ会が開かれ、そこで久しぶりに当時担任だった先生に逢って、コシジ君の話をしたら、コシジ君はふざけて遊んでいたサッカーゴールの下敷きになって死んだことを思い出す。そしてそれ以来彼は夢に出てこなくなった。この喪失感はグッとくる。

次は短編と云っても少し長めのショートショートと云えるか。「砂の街」は久しぶりに故郷の街に主人公が帰ってみると街中が砂に覆われていたという実に奇妙な設定だ。
家路に至るまでに主人公はどこもかしこも砂だらけな風景を目にする。そして奇妙な砂をまき散らす丸い装甲車みたいな車が通っているのを目にする。そして家に着いてみると鍵が閉まって入れないので裏口から回って入ろうとしたところに隣家の昔馴染みの鎌谷さんというおじさんに見つかり、電話を貸してやると云われてお邪魔するとなぜかそのままお茶を出されて自分と同じように大学院に通っている姪を紹介される、と全く先行きが読めない話が続く。

「刀野津診療所の怪」はGシリーズ物の短編だ。
これはまさに収穫の1作。もやもやしていたGシリーズの中で一番面白い話かもしれない。
島の診療所で起きたと噂される怪異現象について全ては説明されないが、これが読後に話を整理していくとだんだん見えてくるからまた面白い!
ところで「刀つのPQR」の意味は何か?これだけが解らない!あ~、もどかしさが止まらない!

最後の短編「ライ麦畑で増幅して」もまたもどかしさが残る作品だ。
「午前と午後が背中合わせ。それが小川君のものだ」
本書の謎は実は上の遺言の意味にある。そしてそれについては明かされないのだ。このもどかしさが森ミステリの歯がゆくも面白いところだろう。これはネタバレサイトでググるしかない!
ところでこの小川令子とこの後に出てくる美術鑑定士の椙田泰男は自分の記憶ではこれまでの既出作には出てきてないキャラクタだが、今後出てくるかもしれないので記憶しておこう。


森氏5冊目の短編集はシリーズは彼が手掛ける全10作のシリーズの5作目と10作目の次に出される周期になっていたが、4作で完結の四季シリーズからGシリーズ3作目で出版されたもので周期が異なっている。もうその辺にはこだわらなくなってきたのだろうか。

しかし5冊目となる本書は上に書いたように既に4つのシリーズを経ており、従って収録された短編もそれらのシリーズキャラが登場するものが増え、それぞれのシリーズのボーナストラック的な内容となっており、ファンには嬉しい贈り物となるだろう。

従って本書では10作品中シリーズ物の短編が2つ入っており、従来入っていたS&Mシリーズ物はなく、VシリーズとGシリーズ物になっている。但しGシリーズは犀川と萌絵が再登場しているシリーズなのでどちらかと云えばS&MシリーズはGシリーズに移行したと考えるのが妥当だろう。

1作目の「ラジオの似合う夜」は主人公の一人称叙述で始まるため、最初は不明だが物語が進むにつれてVシリーズのある人物が語り手であると解ってくる。

「檻とプリズム」はノンシリーズ物で、云うならばアンファンテリブル物だ。
幼女が殺される事件が連続して起きており、それが主人公の友人ではないかと忠告する少女が現れる。
檻は自分の中にある心の殻であり、プリズムはその少女の瞳を指す。そして少女と2人の少年の関係は疑いを持ちつつも関心を抱く微妙な心模様が読みどころか。

また5つのショートショートが載っている。
「証明可能な煙突掃除人」は亡くした父との邂逅を、「皇帝の夢」は成人した大人のある様子を、「私を失望させて」は桃太郎を現代風にアレンジした内容を、「麗しき黒髪に種を」は長い黒髪を持つ女性に纏わる自分の過去の苦い思い出を、「コシジ君のこと」は小学校の同級生が毎日夢に出てくる話が語られる。
「私を失望させて」は単なる一人の人形劇である、いわば作中作ネタなのだが、それ以外は過去や忘れていた思い出を奇妙な形で思い出させる、もしくは出くわさせられるといった作品である。

そして奇妙なのは「砂の街」だ。これは主人公が帰郷すると故郷の街が砂だらけになっていたというもの。少しでも歩くと砂が立ち上り、口や目の中に入り込んで難儀する。作中でも少し触れられているが鹿児島の桜島付近で住む人たちは火山灰によってこのような生活を強いられているのだろうかと同情してしまう。

ただこの作品は実に奇妙な形で物語が進む。主人公がコンビニの自動販売機で飲み物を買おうとしていると―というかコンビニに自販機があることが奇妙なのだが―店員がネットオークションで前日に競り合った電気機関車のモデルを送り出すところに出くわして忸怩したり、家の中に入ろうとすると昔から知っている隣のおじさんに呼び止められ、お茶を勧められたかと思うと自慢の姪を勧められ、二人きりにさせられたり、その姪は昔からなりたかったので妹と思ってほしいと頼んだりとシュールな展開が繰り広げられる。
また砂をまき散らす砂連隊なるものも出てきて、日本ではないどこかの話のように思わされる。ラストは色々な意味合いを含んで何ともこの作者のやり口が憎たらしいったらありゃしない。

そして「刀津野診療所の怪」はGシリーズ物の短編だが、実はこれには嬉しいサプライズが詰まっていた。これについては後に述べるが、それまで微妙な感じだったGシリーズのキャラクタに一気に親近感を覚える結果となった。

そして最後の「ライ麦畑で増幅して」はネタバレサイトでこれが後のXシリーズに出てくるキャラクタ2人だというのが判明した。またもこの短編集は別のシリーズへの橋渡し的役割を果たしていたわけだ。
そしてあの謎めいた「午前と午後が背中合わせ。それが小川君のものだ」の意味は解らなかった悔しさよりもカタルシスが先に立った。

本書のベストを挙げると「コシジ君のこと」と「刀津野診療所の怪」になる。

前者は実にシンプルで泣かせに来ているのは判っていても、こういう話に私は弱い。コシジ君をかつての自分の同じようなクラスメイトに重ねてしまうからだ。
そして彼が夢の中でも冴えない風貌で冴えない仕事を一生懸命している姿が主人公に自分のことを訴えかけているように思えた。

後者はもうこれまでのシリーズが見事なまでに結びつく、特にまだVシリーズとS&Mシリーズの関係性を知らなかった頃に読んだ短編「ぶるぶる人形にうってつけの夜」が伏線となっていたことが判明するこのカタルシスが堪らなかった。
森博嗣氏はシリーズ読者を裏切らない!
いや寧ろ幸せにしてくれる!
そう感じた短編だ。

あと珍しく犀川の駄洒落が聞いていた。「ふうん」「何ですか、ふうんって」「漢字変換する前」は実に見事!
爆笑してしまったし、佐々木睦子の「カナダの首都みたいな顔をしている」「トロントしている」も誤ってはいるが実に面白い!
またGシリーズの登場人物の素性も少しずつ明かされたのも収穫の1つか。山吹の実家が人口200人くらいの離島で旅館をやっており彼に寛奈という姉がいたこと。そしてそのことで彼らの誕生月と両親の名前の付け方が分かったことなどなかなか面白い肉付けがされていた。

とまあ、さすがに短編集も5集目になると1集目のようなそれぞれの短編に込められた濃度の高さは低くなったが、逆にここまで来るとシリーズ読者、いや森作品読者にとってのサプライズと思いがけないプレゼント、即ち読んできた者だけが判るご褒美をシリーズの短編で感じるようになった。

しかし毎回思うが以前書かれた作品の伏線が数年後に活かされ、そしてそれらが矛盾やパラドックスなく繰り広げられる物語世界の広さと深さを思い知らされる。

森作品は1作1作のミステリの深度は浅いが、作品を重ねるごとに著作全体に仕掛けられた謎やリンクが立ち上り、むしろそちらの深みこそが醍醐味だろう。
森作品は1作1作がコラージュの1片1片に過ぎなく、それらが集まって壮大な絵が描かれるのだ。

読めば読むほど天才性が際立つ作家だ。

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レタス・フライ Lettuce Fry (講談社文庫)
森博嗣レタス・フライ についてのレビュー
No.1395: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

登場人物たちの人生遍歴が常人の倍以上では?

江戸川乱歩賞受賞作がそのままその年の直木賞受賞作となる、実にセンセーショナルなデビューを飾った藤原伊織氏。そんな彼のまさに世間が待ちわびていた2作目が本書である。ファン・ゴッホの未公開のひまわりの絵画を巡る美術ミステリだ。

1997年刊行の本書。28年前の、しかも前世紀の作品。その時既に社会人だった私にとってはさほど前の話のように思えなかったが、やはりところどころに時代を感じさせる。

例えば本書ではオリックスではイチローがまだ活躍しており、デザイン会社での記憶媒体ではMOが主流となっている。いやはや懐かしい。
USBメモリーやSDカードが主流になっている現在、MOなんてもう時代の遺物だ。私も当時使用していたが、今の若い子たちはMOなんて知っているだろうか。

更に驚いたのは携帯電話の最初の3桁が030であり、そして番号が10桁であることだ。PHSが050だったっけなどと思い出した。

またタクシーに自動車電話がついてるなどという描写もあり、私もずいぶん昔から生きている者だなぁと思い知らされた。

さてそんな時代性を感じさせる物語の主人公秋山秋二はかつてデザイン会社で新進気鋭のデザイナーとして働いていた男だ。若くして才能を評価され、自身の作った広告が日本アートディレクター協会のJADA賞―なおこれは日本グラフィックデザイナー協会JAGDAがモデルだろう―のグランプリを当時最年少で受賞したほどの才能を持つ。勤め先を若くして独立するまでになる。

そんな彼が全ての名声と才能を放棄し、世捨て人のような生活を送っているのは彼の妻英子が他界したからだ。しかも自殺し、さらにはその時身籠っていたことが判っている。
しかも夫の秋山は大学生の頃に罹ったおたふく風邪の後遺症で無精子症となっている。つまり彼の妻英子は死ぬ前に夫ではない誰かの子供を身籠っていたのだ。

その後彼は渡米し、そこで射撃に夢中になり、腕を磨く。留学ビザも取り、長くいるつもりだったが1年後に父の死をきっかけに日本に戻って現在に至る。

そんな彼を今回の事件に巻き込むきっかけを作ったのはかつて彼が勤めていたデザイン会社の元専務、村林だ。今の社長井上と共にデザイン会社京美企画を立ち上げ、その後将来性のあるインダストリアルデザイナーの道に進むことを選んで京美企画から独立し、今はその方面で一流デザイナーとして名が通るまでになった人物だ。

彼は京美企画在籍時代に秋山が異常な博打の才能を持っていたことを思い出し、彼が手に入れた500万円を摩る為に彼をカジノに誘う。

そして村林に連れられて行ったカジノで遭遇した若い女性加納麻里が本書のヒロインと云えよう。秋山は彼女に亡き妻英子の面影を見出す。

しかし私は今回この加納麻里という人物像に藤原氏らしくない、作り物感を抱いてしまった。

父親と二人暮らしで育ち、しかもその父親は腎不全で臥せっており生活保護を受けながら極貧生活を送っていた。たまたま買った宝くじが当たり、100万円が入ると生活保護を打ち切られるような社会のシステムに嫌気が差し、ヘルスのバイトで自分で金を稼いで生活を支え、そしてその一部を大学の入学金に当て、奨学金をもらって大学に入った苦労人だ。

しかしその大学も中退し、ヘルスを本業にしていたところ、週刊誌に美人ヘルス嬢としてグラビア紹介されたのが仁科老人の目に留まり、スカウトされ秘書になった。そして仁科に連れられたカジノで秋山と出遭ったのだ。

しかしこのたった21歳の彼女に作者はかなりの要素を盛り込んでいる。

全米ライフル協会の帽子を知っていて被っていたことやPC、ポリティカリー・コレクトネス、政治的正当性といった耳慣れない言葉と意味を知っている。さらにはフランス語も理解して書物も読める。

ヘルスのバイトをして学費を稼ぎながら、アメリカ社会における全米ライフル協会の微妙な立ち位置を理解し、さらにフランス語を読める元女子大生。しかも21歳と云えば大学3年、いや4年生かもしれないが、こんな知識を持つ女子大生は東大生や有名私立大といった上位の学生しかいないだろう。
さらにヘルス嬢時代に実の父親が客として訪れた暗い過去をも持っている。
美人過ぎるインテリヘルス嬢でそんな痛々しい過去を持つなんて人物に陰影をつけるとはいえ、理想を押し付けすぎやしていないだろうか。

また途中で秋山に近づき、彼の味方となるカジノのマネージャー原田邦彦もまたミステリアスな男だ。一流ホテルの支配人と見まがうかのような優雅な身のこなしと礼儀を知り、なおかつ記憶力がよく、さらに全体像を見通す視野の広さを持っている。
さらにやくざにも太刀打ちできる戦闘能力もあり、修羅場に置かれても一切動じず、相手が無礼なことをしても、さらには重傷を負っても顔に笑みさえ浮かべる男。
おまけにゲイであり、一流電機会社の役員と大物実業家仁科とで取り合いをさせるほどの魅力を備えている。

この原田と加納麻里を従えるのが仁科忠彦という実業家だ。若かりし頃は画家の道を選んだが、自分の才能に限界を見出し、実業家の道を進み、金融関係の仕事やカジノの経営、画商やさらに民間の美術館まで手広く事業を展開している老人でしかもバイセクシャルでもある。

このように複雑な絵を描きながら展開するこの物語はゴッホの知られざる8枚目のひまわりの絵を巡る美術ミステリであり、冒険小説でもあるが、読み終わった今、実に類型的な作品であるなとの印象が拭えなかった。

まずゴッホの知られざるひまわりの絵の存在を巡るまでの道のりは本格ミステリ的興趣もあり、実に面白い。
主人公秋山秋二のモラトリアムな生活に突如介入してきた、かつての上司村林のカジノへの誘いをきっかけに彼の周りで彼を見張る者たちが現れたり、また自殺した妻に似た女性が絡んできたりと主人公の身に何が起きているのか不明な点が学芸員をしていた亡き妻英子の遺品に遺されていたメモからゴッホの知られざる8枚目のひまわりの存在に至る、この見事な展開はそれまで何が謎なのかが解らなかっただけに、目の前の靄が一気に晴れる思いがした。

さらにゴッホが8枚目のひまわりを書いていた可能性についてもゴッホ生前の創作姿勢から可能性の高い“あり得る話”だと思わされるし、何よりも主人公の亡き妻英子とゴッホ8枚目のひまわりの存在をアメリカ人美術コレクター、ナタリー・リシュレとの交流から繋げていく流れは実に読み応えがあり、まさに歴史秘話的な興趣に満ちている。
恐らく藤原氏は美術が好きで造詣が深いのだろう。でないとこんな話は浮かばない。

ただここからがいけない。登場人物たちやプロットが非常に類型的になっているのだ。

モラトリアムな主人公が事件に巻き込まれ、望むと望まざるとに関わらず、銀座の中心に住みながら家とコンビニの往復でしか毎日を過ごさなかった日々から一転して赤坂のカジノや京都の亡き妻の弟の家まで行く羽目になり、そこから晴海の倉庫で銃撃戦へと展開していく。

原田という謎めいたカジノのマネージャーが味方に付き、記憶力と洞察力が高い上に身なりは優雅、さらに格闘能力も高く、おまけにゲイであるというなんとも作られたような便利な登場人物に、亡き妻の英子に似たヒロイン加納麻里は上述のように21歳の若さにしては世間だけでなく、アメリカ社会のことまで知っており、フランス語まで解する。

敵も不動産投機に失敗し、大量の借金を抱えた融会社の社長田代誠介がやくざと組み、知られざるひまわりの絵を奪おうと執拗に追ってくる。
その社長は秋山が以前勤めていたデザイン会社と取引の厚い一流電機メーカー、アイバ電機工業の社長の息子で元広報宣伝部長で都落ちの身。彼を取り巻くのは元アイバ電機社員の鷺村修で依願退職後、暴力団の八雲会に所属しており、その八雲会で幅を利かせているのが曽根で会の武闘派である。風貌は平凡な男だが、平気で人を撃ち、刃物で人を刺すことのできる男だ。

しかしこの曽根は元々中古車ディーラーをやっており、村林が広告会社時代に私語をしくじった顧客だった。その時、お詫びに上がったのが村林と社長の井上で彼は激昂する曽根に殴られるままに殴られ、瀕死の重傷を負った上に多額の賠償金を支払った過去がある。

一介の元サラリーマンが暴力団と手を組み、さらに一介の零細中古ディーラー元社長が一流の拳銃使いとなっている。

とにかくそれぞれの登場人物に設定を盛り込みすぎなのだ。
年齢と持っている能力の高さ、成熟度が釣り合わない気がした。いわばプロットを成立させるために登場人物たちに設定を押し込めている感じだ。
また人間関係も狭すぎる。このバランスの悪さが読書中、常に頭に付きまとってしまった。

惜しかったのは秋山の妻の英子の肖像だ。
まず主人公秋山と英子の出逢いの場面が何とも瑞々しい。高校2年の秋山に新入生の英子が話しかけるシーンは久々に青春物の恋愛小説を読んだ清々しさを感じた。秋山の才能に惚れ、そして結婚するにまで至った2人の関係はまさに運命が引き合わせた2人だ。
物語のもう1つの謎はそんな彼女の自殺の原因だ。秋山を慕い、才能に惚れ、ついてきた彼女がなぜ自殺したのか。それも他人の子を孕んで。

でもやっぱりどう考えても英子の自殺のエピソードはいらなかったように思う。これは単に枯れた中年男の恋愛願望ではないか。

また導入部で秋山秋二の特殊な博打の才能に関してその後見せ場が出てこなかったのはなんとももったいない。
特に渡米時代に肖像画を描いたお礼としてもらったライフルを帰国の際に預け荷物に入れてそのまま日本に持ち込めることができた件には、いくら分解して詰め込んだといえど、その現実感のなさに驚いた。

このように中の餡子は非常に美味しいのに昔子供の頃に食べた質の悪い外側の皮がパサパサな饅頭のような作品になったのは誠に残念だ。まさに昭和の味わいといった古めかしさを感じた。

既に鬼籍に入っており、今はもう数限りある残された作品を愉しむしか術はないが、江戸川乱歩賞受賞後、直木賞受賞後の1作としてはこのプロットはなんとも類型的すぎる。
刊行年の年末ランキングにランクインしなかったのも頷ける。
彼の作品は全て持っているのでそれらが藤原伊織という名を刻むだけの価値あることを強く望みたい。


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ひまわりの祝祭 (講談社文庫)
藤原伊織ひまわりの祝祭 についてのレビュー
No.1394: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

教科書では学べない西洋史をここで

最近では老境に入ったこともあり、それまでずっと棚上げされてきたシリーズの完結に勤しんでいる田中氏だが、本書はその前に書かれた19世紀のヨーロッパを舞台にした、実在の人物を登場させた冒険活劇が描かれていたが、本書もそのうちの1つ。作者あとがきによればこの後『髑髏城の花嫁』、『水晶宮の死神』と続き、全部で三部作となるようだ。

で、私はこの田中氏の19世紀のヨーロッパを舞台にした冒険活劇は実に楽しみにしている作品である。なんせこの前に読んだ『ラインの虜囚』が無類に面白く、久々に胸躍る童心に帰って冒険活劇の躍動感に胸躍らせたからだ。

さてそんな期待を抱きながら繙いた本書もまた『ラインの虜囚』とまでもいかないまでも実に楽しい冒険小説となっている。

まず本書にはあの有名な文豪チャールズ・ディケンズと童話作家ハンス・クリスチャン・アンデルセンが登場する。デンマークの作家アンデルセンがディケンズの許に遊びに来ているという設定で、なんとこれは作者自身のあとがきによれば史実のようだ。

その2人の冒険に巻き込まれるのは語り手であるエドモンド・ニーダムとその姪メープル・コンウェイの2人だ。
ニーダムはクリミア戦争からの帰還兵で元々ジャーナリストであったが帰還後、彼の勤めていた会社は既に倒産しており、幸いにしてその社長が紹介してくれた貸本会社ミューザー良書倶楽部の社員に姪と一緒に雇われることになる。この2人が実在の人物であるかは不明である。

そんな2人が社長の命でディケンズの世話をすることになり、そしてディケンズのスコットランドのアバディーンへの旅行に随伴することになる。そしてその地でディケンズと因縁深いゴードン大佐と再会し、彼の所有する月蝕島に行くことになる。そしてそこで彼ら街の権力者であるゴードン大佐とその息子クリストルと対決することになるのだ。

まず貸本屋が当時一大産業として成り立っていたというのに驚く。主人公2人が就職するミューザー良書倶楽部は会員制の貸本屋で客層は上流階級で会員費で潤沢な資金を得て話題のある、内容的にも評価の高い本を扱っていた。19世紀当時はまだ本は買うものではなく借りる物だったのだ。

従って作家連中は自作を貸本屋に置いてもらわないと死活問題であったため、貸本屋は売れる本を書くよう作家に指示できる立場であったのだ。いわば編集者も兼ねていたとのことだ。また逆に売れる作家に対しては将来への投資として旅行費の立替なども行い、まさに今の出版会社と変わらぬ役割を果たしていたようだ。

さて今回ニーダム一行が月蝕島を訪れるきっかけとなったのは新聞で氷山に包まれたスペインの帆船が流れ着いたというニュースが入ったからだ。しかもその帆船は16世紀にイギリスに攻め入って返り討ちに遭い、帰国の途中に行方知れずとなったスペインの無敵艦隊の1隻だともっぱらの、しかし確度の高い噂が流れていたからだ。

ここでまた田中氏によってこのスペインの無敵艦隊について蘊蓄が語られるわけだが、イギリス侵略に失敗したスペインの無敵艦隊は西方の英仏海峡にイングランド艦隊が待ち受けていた関係でなんと東からグレートブリテン島を北上し、アイルランドへ回って帰還するしかなかったと述べられている。そしてそれほどの距離を航行する予定ではなかったため、食糧が尽き、おまけに北の暴風と嵐に巻き込まれて130隻中67隻が帰還し、残りの63隻のうち35隻が行方不明のままだったとのこと。
つまり田中氏はこの史実に基づいて氷山に包まれたスペインの無敵艦隊が200年の時を経てスコットランド沖の月蝕島に流れ着くという実に劇的なシーンを演出する。

そしてこの月蝕島の成り立ちがまたすごい。
この島の領主リチャード・ポール・ゴードン大佐は暴君とも云える存在で財力に物を云わせ、農民から土地を巻き上げ、借地料や借金を払えない農民たちを強制移住させて追い出していた。さらに安い賃金で雇い長時間労働をさせて過労で次々と死なせていた。また月蝕島を買い取ると島民たちが生業にしていたガラスの材料となる海藻取りを、海の中まで自分の土地だと宣言して禁じ、貧困にあえがせていた。それは彼の目的のためだった。

やはり都会よりも歪んだ思想を持つ権力者が幅を利かせる田舎の方が怖いというがまさにゴードン大佐の支配するその街はその典型だ。

ちなみに私は昔からイギリスの小説で大佐という肩書の登場人物が出ることに違和感を覚えていたが、今回の田中氏の説明でその疑問が解消できた。

貴族や爵位の持たないが、広大な土地を所有する大地主などを「郷紳(ジェントリー)」と呼ぶらしく、そしてそういう身分の人物が敬称で呼ばれたいときに使うのがコロネルという位であり、これを「大佐」と訳していたわけだ。つまり大佐とは決して軍人の階級を示すわけではないのだ。
しかしこれは今回初めて知ったが、やはり大佐という肩書は軍人を想起させるので解ったと云えど違和感は当分払拭できそうにないだろう。

またこの悪辣な親にして子もまた同じく心底悪党である。
次男のクリストルは長身でハンサムだがプライドが高く、またすぐに女性が自分になびくものだと思っており、メープルに対して異様な執着を持つ。さらに剣の名手であり、力量の劣る敵を自らの剣で思う存分傷つけ、嬲り殺そうとする異常な性格の持ち主だ。
さらには気に入った女性を島まで連れて行ってはお気に入りの服を着させてもてあそび、飽きてしまえば殺してはまた新しい女性を物色して連れてくるを繰り返していた卑劣漢だ。

そんな悪党親子と立ち向かうディケンズ一行の面々もまた個性的だ。

ディケンズは貧しい家庭の出であることにコンプレックスを抱いているが、情に厚く、自分が気に入った者たちへの支援を怠らない人物だ。

翻ってアンデルセンは大人になって子供で少しのことで狼狽え、嘆き、そして喜ぶ。ちょっとした知的障碍者のように描かれている。

そしてメープル・コンウェイはおじのニーダムに憧れ、将来ジャーナリスト志望の若き娘で作家の悪筆を見事に読み取る能力があり、それを買われてミューザー良書倶楽部に雇われる。そして女性の地位向上、識字率向上に努力を惜しまず、また悪党クリストルにも一歩も引かない気の強さを見せつける。

そして主人公のニーダムは案外深みのあるキャラクターであることが次第にわかってくる。
彼は戦争から帰還後貸本屋の従業員として雇われ、また姪に対して気の良い兄的存在のいわば“いいお兄さん”的存在なのだが、クリミア戦争の後遺症で神経症を患っていることが明かされる。

とまあ、ヒーローとヒロイン、ボス的な存在であるディケンズと道化役のアンデルセンと冒険仲間としては典型的でありながらも申し分ない面々以外にも『カラブー内親王事件』の張本人メアリー・ベイカーも加わる。さらに周辺では先に述べた桂冠詩人アルフレッド・テニスンや『月長石』の作者ウィルキー・コリンズなど実在の人物が登場するのもこの田中氏の19世紀冒険活劇の特徴である。

とまあ、実在する人物が実にのびのびと動き、さらに胸をむかむかさせる悪党が登場し、意外な人物の正体が明かされながら、なじみのない西洋の近代史の蘊蓄も散りばめられ、エンタテインメントてんこ盛りの作品だ。

そして本書の隠れたテーマとはやはり教科書で学んだ歴史の裏側や教えられない当時の人々の生活やイギリスの社会や風習などを事細かく盛り込み、そしてその時代の人々に命を与えることだろう。
例えばゴードン大佐は急速に発展したイギリスの産業革命によって生み出された、一大財を成し、その資金力を己のエゴのためだけに使ってきた悪魔のような権力者であり、社会の高度経済成長の暗部でもある。

また教科書では決して学ばない当時の人々の生活様式や風習を書き残すことで読者が興味を持ち、次世代の歴史小説家が生まれることを期待しているのではないだろうか。

本書を書いた当時、作者田中氏は59歳。そしてこれが三部作の第1作目であることを考えると、やはり後続のまだ見ぬ作家の卵たちに向けた花束ではないだろうか。

本書の巻末には本書の登場人物が生まれる1789年から1907年の年表と数えきれないほど膨大な量に上る参考文献が載っている。やはりこのことからも田中氏が自分の趣味だけでこのシリーズを書いているわけではないことが判るというものだ。

このシリーズ、作者あとがきによれば「ヴィクトリア怪奇冒険譚」三部作と銘打たれているようだ。そしてこのあとがきにも本書に登場した実在の人物やイギリスの通貨の単位や長さや面積の単位などについても触れられている。

『銀河英雄伝説』という歴史を紡いだ田中氏が晩年に着手したのは英国の歴史を舞台にした冒険活劇三部作。
それまでの19世紀西洋冒険活劇譚も併せて、彼が遺そうとしている田中芳樹版歴史の教科書。それは単に勉強ではなく、かつて胸躍らせて本を繙いた少年少女の心をくすぐる作品群になるに違いない。
幸いにしてこの後残りの2作も近いうちに刊行されるようだから、楽しみにして待つことにしよう。

▼以下、ネタバレ感想
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月蝕島の魔物 (ミステリーYA!)
田中芳樹月蝕島の魔物 についてのレビュー
No.1393: 2人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

便利さの裏側に潜む、何とも危険なキス

リンカーン・ライムシリーズ12作目の本書ではリンカーンはNY市警を辞め、大学で鑑識技術の講義を行っている。

従っていつものようにアメリア・サックスとコンビを組んでの捜査とはならず、それぞれがそれぞれの事件を追っている。

アメリア・サックスが追っているのは未詳40号と付けられた、異様に背の高く、痩せた風貌の殺人容疑者だ。しかしリンカーンの手助けを借りれないアメリアは遅々として進まないNY市警の鑑識結果にイライラしながら、それまでの捜査で培ってきた洞察力で容疑者を追っていく。

一方リンカーンはそのアメリアが偶然出くわした容疑者を尾行中に入ったショッピングセンターで起きたエスカレーターの事故の調査を行っている。上りのエスカレーターの上り口の乗降板が開き、そこに落ち込んだ店の従業員がモーターに挟まれて圧死した原因を突き止め、残された家族のために賠償金を請求するための証拠集めを強引に休暇を取らせた相棒メル・クーパーと講義の熱心な聴講生である、同じく四肢麻痺の生涯を持つ、元疫学研究者のジュリエット・アーチャーと共に当たる。

この2つの捜査(調査)はやがて1つへと繋がっていくのだが、これまで読んだリンカーン・ライムシリーズとは異なり、非常にじっくりと時間をかけて進むのだ。

今まで彼らが相手にしてきた犯人は次から次へと犯罪を、殺人を繰り返し、事件を未然に防ぐために証拠類と奮闘するリンカーンとの秒刻みの戦いが醍醐味だったが、アメリアが捜査する未詳40号は、彼の犯罪が発覚した被害者トッド・ウィリアムズ以降の殺人がなかなか起きないでいる。

またリンカーンサイドも自室内に実物大のエスカレーターのモックアップを設けてまで、事故を起こしたメーカーのエスカレーターの調査を行うが、彼らが想定する誤作動の原因探しは試行錯誤の連続で、なかなか捗々しく進まない。

これほどじれったく長く続くこの2人の捜査も珍しい。

この並行する2人の捜査は300ページを過ぎたところでようやく交わる。アメリアの追う未詳40号とライムの調べるエスカレーターの事故が繋がる。
エスカレーターの事故は内蔵されたスマートコントローラーを意図的に遠隔操作した者の仕業だった。その人物こそが未詳40号だった。

いつもながらディーヴァーは色んなテーマを扱い、我々の生活と彼の対峙する敵の犯罪が実に近いところで繋がっていることを知らしめてくれるが、本書ではさらにその距離が縮まっている。
今回の敵、未詳40号が殺人に利用するのは我々の生活を便利する通信技術だ。スマートフォンのアプリで遠隔操作するシステムの穴から潜り込み、誤作動を起こさせて人を殺す、なんとも恐ろしい敵だ。

まずはエスカレーターの乗降板を意図的に開放させ、人を落としてモーターに巻き込んで殺害。

次に家庭のガスコンロを意図的にガス漏れさせ、ガスが室内に充満したところで点火し、住民を丸焼きに。

そして大型テーブルソーを誤作動させて腕をスパッと切るかと見せかけて電子レンジの出力を何倍にも上げておいて温めていた飲み物とマグカップの中に含まれている水分を水蒸気爆発させる。

さらには自動車の制御システムも遠隔操作して猛スピードで逆走させ、衝突事故を起こさせて渋滞を招き、アメリアの追跡を交わす。

生活が発展し、便利になるとそれを悪用する輩も出てくる。スマートフォンのアプリで色んなことができ、色んなものとリンクすることが可能になったが、ウィルスを侵入させて壊したり、スパイウェアを侵入させて個人情報を搾取したりと枚挙にいとまがない。
しかしディーヴァーは過去に『ソウル・コレクター』で他人の情報を奪って成りすまして犯行を行う犯人を描いていたが、今回は便利さを利用して人を殺すという誰もが被害に遭いそうな犯行方法を生み出した。
何とも恐ろしい犯行を、犯罪者を生み出したものである。あまりにリアルすぎて背筋が寒くなる。

更には街ですれ違って自分を罵倒した弁護士の素性を調べ上げ、アパートのセキュリティシステムに侵入して、幼児誘拐まがいの悪戯を仕掛けることもできる。

また恋人との情事を盗み聞きしていた隣人を防犯カメラで捉え、自分たちのプライベートを汚したことで殺害する。

題名の「スティール・キス」とはこれら便利な物たちの誘惑を比喩した“鋼鉄のキス”という未詳40号の比喩に由来する。

また一方でアメリアも刑務所に服役していた元警官で恋人だったニック・カレッリが再び彼女の前に姿を現す事態に出くわす。彼は強盗事件に関わった容疑で逮捕され、服役していたが、実は冤罪でそれは彼の弟のやった事件で彼は弟の身代わりになったというのだった。しかしその弟も今は亡く、彼はやり直すために当時の事件の資料を調べ、潔白を証明したいとサックスに協力を求める。
そしてサックスもかつてと変わらぬニックに心を傾けていく。

またロナルド・プラスキーはプライベートでヤクの売人と接触し、独自の調査を行っている。

そんな複数のエピソードを交え、今回も大なり小なりのどんでん返しを見せてくれた

ディーヴァーだが、ある程度パターン化してきた感は否めない。

行く末が逆に判っているからこそヒヤヒヤさせられることも無くなってきた。そう、免疫がついてきてしまった。

あといささかあざとい仕掛けも感じた。

そんな風に思っていたら、なんと今回の結末は意外にもリンカーンとアメリアにとっても苦いものとなる。

人生全てが順調ではなく、万全ではない。生きていれば一度や二度、挫折もし、苦汁を舐めさせられることもある。
しかしそれを乗り越えて生きてこそ、人はまた成長し、そしていつかは笑って話せる過去へと消化できるよう、心が鍛えられるのだ。

転んでもただでは起きない者もいる。

今回色々な悪が描かれてきた。

巨大企業のビジネス優先主義によって製品の欠陥を隠匿しようとした悪。

その犠牲になり、復讐のために次々と人を殺してきた悪。

自らの犯行を正当化し、かつての友人や恋人を騙してまで大金をせしめようとした悪。

それぞれの悪が円環のように巡り、そして殺しの連鎖を導く。人が利己的にならなくなった時に犯罪は無くなるのだろうか。

スティール・キス。
それは便利さの裏側に潜む甘美な罠。
もう我々はスマートフォンなしでは生活できなくなってきている。我々の便利な生活が危険と隣り合わせであることをまざまざと痛感させられた。便利と危険は比例することを肝に銘じよう。

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スティール・キス 上 (文春文庫)
No.1392: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

いかした短編のある本です

『ドランのキャデラック』に続く短編集“NIGHTMARES & DREAMSCAPES”の2冊目の訳書である。

本書は「献辞」で幕を開けるが、これはいわゆる本の冒頭に書かれるそれを指すのではなく、れっきとした短編の題名である。しかしその内容はまさに本の冒頭に掲げられる献辞についてのお話だ。
蛙の子は蛙という言葉もあれば、トンビが鷹を生むという言葉もあるように、時にはこの親にしてこの息子と云った至極当たり前な子供ではなく、突然変異的に秀でた子供が生まれることがある。本書は黒人の最下層の夫婦の間に生まれた子供が小説家になった理由を実にキングらしい生々しさで語る。
本作ではそれ以外にもこのベストセラー作家の創作の苦悩など作家ならではのエピソードに溢れていてなかなか興味深く読んだ。その辺についてはまた後ほど述べることにしよう

次の「動く指」は実にキングらしい奇妙で恐ろしい話だ。
ある日突然排水口から人間の指が現れたら、どうする?
そんなシュールなシチュエーションをホラーにしたのが本作だ。
手指というのは不思議な物で、神経が集中し、細かで繊細な動きが出来ることから、手指の動きだけで感情すらも表現出来る。実際多彩なフィンガージェスチャーがあり、自分の感情を表すのを強調するために手指で補う。例えば映画『アダムス・ファミリー』で登場する手首だけの存在ハンドなんかはその好例だろう。
洗面所からにょっきり飛び出して来る1本の人間の指。いつも見慣れた物で自身も持っている物なのに、なぜそんなところから1本だけ出てくるとこれほどまでに気持ちが悪いのか?
ただそれは神経を逆撫でするようにカリカリと音を立てる。気持ち悪い上に気に障るため、次第に主人公の精神を苛む。しかも意地が悪いことに主人公が洗面所にいるときだけ姿を現し、彼の妻の前には現れない。
主人公は自分だけが見る幻覚かと思うが、やがて劇毒物である排水口クリーナーと電動植木鋏で立ち向かう。
そこからの展開はキングの独壇場だ。もだえ苦しむ薬傷した指はいくつもの関節を持ち、どんどん伸びてくる。このアイデアは実に秀逸。人間の指から異形の物へと変わる瞬間だ。
しかしワンアイデアでよくもここまで凄まじい作品を書くものである、キングは。

「スニーカー」は都市伝説ような作品だ。
アメリカのトイレのブースは扉の下部が大きく空いているのが特徴だが、そこから人の靴を見て使用中かを判断する慣例になっているようだ。
この主人公は3階のトイレの一番手前のブースに1組の薄汚れた白いスニーカーがあることに気付くが、それがいつ行ってもその持ち主が入っているので気になりだす。そしてそれが怪事であることを示唆するように周囲に虫の死骸が増えていく。
今回この奇妙な現象にキングは理由を付けている。
また本作では音楽業界の裏話などもあって、洋楽好きな私にとっては面白く読めた。ショックだったのは本書が発表された1993年の時点で主人公がロックはもうかつての栄光を取り戻す力がないという意味の言葉を放っていることだ。確かに90年代からヒップホップが台頭してきたが、この時点でもうそんな境地だったとは。
更にバンドの中でもベース・ギタリストの存在についての話も面白い。華やかさに欠けるゆえに慢性的に人手不足らしい。
またローリング・ストーンズのビル・ワイマンが演奏中に居眠りしてステージから転げ落ちたという逸話は本当だろうか。そして個人を名指しして大丈夫なんだろうか?
また地味でないベース・ギタリストとしてポール・マッカートニーを挙げているけど、スティングも忘れないように。
トイレのブースからいつも見えるスニーカーからこんな話を紡ぎだすキングの着想の冴えを感じる作品だ。
ところで物語の主要人物のファーストネームがジョンとポールとジョージィなのは意図的なんだろうか?

「スニーカー」は音楽業界が舞台だったが次の表題作はさらにその色を濃くする。
ドライブ旅行で道に迷った挙句に辿り着いた街は普通ではなかった。
これは数あるホラーの中でも使い古された物語で、作中登場人物も意識的に自分たちが『トワイライト・ゾーン』の世界に紛れ込んだんじゃないかと自嘲気味に話す。
しかしこのありふれた物語の設定にキングは実に面白いアイデアを注ぎ込んだ。
それは私にとってはまさに夢のような街なのだが、うまい話は簡単に転がっていなかった。
夢はその瞬間を愉しむから楽しいであって、これが夜ごと続く、しかも強制されると悪夢でしかないのだろうな。

「自宅出産」はその地味なタイトルから全く予想もつかない展開を見せる。
アメリカの、メイン州の沖合に浮かぶ島で暮らす漁師の夫婦の苦難の生活が描かれたと思いきや、いきなり物語は転調する。
そして物語の主人公マディー・ペイスはかつて一家の長として頼りにしていた夫が蘇るに至り、マディーは身籠った子供を護るためにかつて愛した夫を撃退するのだ。寄る辺のない妻から一人逞しく生きていくことを決意した母親の誕生である。
この内容と全くそぐわないタイトルはこんな状況の中だからこそ自宅出産を決意するという一人で生きていくことを選んだ女性の決意表明なのだ。パニック小説とヒューマンドラマをミックスした、なんとも云えない味わいとなっている。

本書の最後はまたもやシュールな作品「雨期きたる」だ。
キングファンである荒木飛呂彦氏の漫画『ジョジョの奇妙な冒険』にも大量のカエルが降ってくるエピソードがあったが、これがネタ元だったのか、それともちょうど連載前公開された映画『マグノリア』がネタ元だったのか、定かではないが、しかしカエル以外にも魚やオタマジャクシなどが空から降ってくる怪異現象は実際に起きているようで、その原因は竜巻で空に巻き上げられたそれらが降ってくると考えられている。
恐らくキングもその怪異現象を聞きつけ、この作品の着想に至ったと思われるが、やはりキング、そんなニュースさえもホラーに変える。
なんとも奇妙な物語である。


短編集“NIGHTMARES & DREAMSCAPES”の2冊目の本書は6作が収録され、総ページ数は330ページ強。1冊目が7作収録で320ページ弱だったから2冊合わせて13作と650ページほどの分量だ。
しかもまだ半分なのだから、キングの短編集の分厚さには驚かされる。

2冊目の本書には貧困層の黒人夫婦の息子が作家になった秘密、洗面所から出てきた動く指に悩まされ、格闘する男の話、トイレの決まったブースに入っている白いスニーカーの持ち主に纏わる話、迷った挙句に辿り着いた街の恐怖、一家の長を喪った女性の一大決心と世界の終末の話、田舎町を訪れた若いカップルを襲った怪異現象の正体などがテーマになっている。

そしてそれぞれの物語のアイデアは単なる思い付きに過ぎないものも多い。

ろくに教育も受けていない両親から生まれた子供が作家になった。

もし排水口から人間の指が覗いていたら怖いなぁ。

いつもあのトイレのブースに同じ靴があるんだよな。

折角の旅行だから知らない道を通って“冒険”しようじゃないか!

我が身に起きた不幸のために世界の終りだと感じた時、本当の世界の終りが来たら?

空から雨じゃない物が大量に降ってきたら気持ち悪いよな。

それらは我々の周囲にもよくある話だったり、またふとしたことで頭に浮かぶふざけ半分のジョークのような思い付きだったりする。

しかしキングがすごいのはその思い付きからその周辺を肉付けしてエピソードを継ぎ足して立派な読み物にすることだ。

そんなことが起こる人々、そんな奇妙なことに直面する人たちはどんな人だったら物語が生きるか、その人たちは職業に就き、どんな生い立ちを辿ってきたのか、独身か結婚しているのか、家族と暮らしている子供か、それとも一人暮らしなのか恋人と同棲しているのか、とどんどん肉付けしていく。そして普通の生活をしている我々同様に彼らは自分たちに襲い掛かる災厄に対して信じようとせず、一笑に附することで最悪な結末を迎えることになるのだ。

また一方で日々を懸命に生きる人々への救済を感じさせるものもある。

例えば最初の1編「献辞」では最下層の黒人夫婦の息子が作家になる話だが、学もない夫婦から生まれた子供がそんな知的階級の仲間入りをするわけがないことに対して、キングはある仕掛けで人生の転機を、チャンスを掴むことを示唆する。
アメリカはチャンスの国と云われており、社会の底辺の人間が子供に自分のようになってほしくないとの理由で教育を施して、立身出世をする話はよくあるが、キングはあるチャンスの素なるものを加えた。

チャンスは誰にでもある、そしてその時に行動することが大事なのだと云っているようだ。
自身が作家を目指し、ごみ箱に捨ててあった原稿を妻が投稿したことでデビューすることになったキングにとってこのチャンスの素は夫人だったのだろう。

あとこの母親が間接的に作家のDNAを受け継ぐベストセラー作家のピーター・ジェフリーズは素晴らしい作品を書くのに、その人物像はろくでなしで人種差別者であると書かれているが、これは実際のモデルがいるに違いないと思っていたら、ちゃっかりあとがきに書かれていた。

また「動く指」はキングには珍しく狂気と正気の境の曖昧さを描いている。排水口から蠢き出てくる複数の関節を持った動く指と格闘して血塗れになる主人公はある瞬間にプツンと神経が切れて狂気に陥ったかと思えば、警官が来た時には自分の名前と職業をきちんと答える冷静さを見せる。

「いかしたバンドのいる街で」に出てくる主人公クラーク・ウィリンガムに自分の姿を重ねてしまった。
遠出をした時についついナビにない道を通って“冒険”したくなる性癖が私にもあるのだ。そんな時、妻は呆れていつも制止しようとする。本作はそんな私にとって戒めなのだろうか。

「自宅出産」は本書における個人的ベストだ。まずは典型的な父長制である家族が頼りにしていた父親が死に、その代わりとなる夫もまた死ぬことで身重である女手一人で生きていくファミリードラマ風の展開から一転して全く予想もつかない展開に思わず声を挙げた。

こんな奇妙な女細腕奮闘記、キングにしか書けないだろう。

また本書でも恐怖のイマジネーションを喚起させるキングならではの描写が目立った。
「動く指」の関節がいくつもある長い指が排水口から蠢き出てくるイメージや「スニーカー」の1つの鳩目に紐を通し忘れている描写も何気ないがトイレに行くといつも見えるスニーカーを気にするとそんな些細な事が気になって仕方なくなる心理状態、そして「自宅出産」の海から蘇った腐乱死体と化した夫の手からお腹の中の子を護るために、その子のために靴下を編んでいた編針を眼窩に刺したことで網かけの靴下が骸骨の鼻先でぶらぶらと揺れるシーンなど、よくもまあ思い付くものである。

「雨期きたる」の次から次へと降っては湧いてくるヒキガエルたちを次々と潰す描写と雨上がり後のヒキガエルが溶けていく様もまたグロテスクである。

これほどまでに物語を紡ぎながらも我々の心の奥底にある恐怖を独特のユーモアを交えて掻き立てるキングの筆致はいささかも衰えていない。

さてようやく半分の折り返し地点である。次はどんなイマジネーションを見せてくれるのだろうか。

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いかしたバンドのいる街で (文春文庫)
No.1391: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

あなたをあなたたらしめているのは本当はあなたではないのでは?

ある日目覚めると女になっており、しかも5年の月日が流れていたというトリッキーな作品『僕を殺した女』でデビューした北川歩実氏の3作目が本書。デビュー作同様に「自分探し」、即ち自分の存在意義そのものがミステリという作品になっている。

本書の謎は1点に尽きる。
それは木野杏菜と名乗る女性は本物なのか?

この木野杏菜という女性は4年前に殺害されたはずの女性なのだが、再び娘を殺された親たちの許に姿を現す。しかもその登場の仕方は10年前と同じで、彼女の育ての親、木野茜によって指定のホテルのレストランで待ち合わせる。

しかし彼女は連続婦女暴行犯江尻静夫によって彼女の友人森島美緒、日田麻夜らと共に殺害されたはずだった。しかし過去を調べていくうちに木野杏菜は江尻の恋人であり、それが原因でクラスの中でも孤立し、親しかった美緒と麻夜たちから避けられていた節があり、彼女はそんな2人に対して復讐するために江尻と狂言誘拐を図り、そして江尻と共に2人を殺し、自分の身代わりを仕立てて杏菜自身も殺されたと見せかけようとしたとの疑いが出る。

しかし一方で事件の4年後に再び木野茜によって美緒と麻夜の親である森島とその息子政人と日田、そしてかつて杏菜が養子として世話に預けられた外川家の長男大樹らに引き合わされた木野杏菜は交通事故で記憶を亡くした別人の三原理香子という女性であると彼女の親で精神科医の西浦義明という人物が出てくる。彼は娘を亡くしたショックで心神喪失状態だった彼女の生みの親、外川円夏の依頼で自分の娘理香子を円夏に与えて彼女を第2の杏菜にしたのだという証言まで出てくる。

そのどれもが信憑性があり、そしてそのどれもが疑わしい。
この1人の女性、木野杏菜の正体が本人なのか、それとも木野杏菜の記憶を刷り込まれて作られたコピー、即ち模造人格を植え付けられた別人なのかがはっきりしないのは渦中の人物である木野杏菜が記憶喪失であるからだ。

謎自体はシンプルながらデビュー作同様、とにかくこの北川歩実という作家はこの1つの謎をこねくり回す。

再び現れた木野杏菜、即ち外川杏菜は本人ではなく、木野茜が外川の遺産を横取りするため外川杏菜の記憶を刷り込ませた別人だ。

いや、4年前に殺された杏菜は別人で、彼女こそは交通事故で記憶喪失になった本当の外川杏菜だ。

この2つの選択肢を行ったり来たりする。

上に書いたようにこの2つの選択肢をそれぞれ真実として補強するために関係者が現れ、新たな事実が判明していく。

しかし驚かされるのはたった1人の女性の正体を突き止めるのにかなり多くの人物が関わっていることだ。

最初は子供に恵まれない夫婦木野茜と鹿島幸平の2人に杏菜という赤ん坊が授けられた。

この赤ん坊は木野茜が懇意にしていた小学校時代の先生だった山内ミサと夫で診療所を経営する順次から紹介された。未成年の少女が身ごもって生んだ子供がその赤ん坊だった。

しかし夫と別れた茜に代わって杏菜を育てる人物が現れる。その人物外川円夏は実は山内夫妻の娘で杏菜の実の親だった。

木野杏菜は外川仁という医者と彼の連れ子である大樹を加えた4人家族の一員となり、外川杏菜となる。

そして外川家と親しい同じく医者の日田昭夫とその娘麻夜、弁護士の森島治郎とその息子政人と娘の美緒が加わり、杏菜は政人に恋をし、麻夜と美緒と友人になる。

そしてこのグループに亀裂が入る原因となったのが森島が弁護を担当していた連続婦女暴行犯江尻静夫が杏菜と美緒と麻夜を誘拐して殺害することで狂ってくる。そしてその中には会田由紀子という別に誘拐された少女もいた。

更に西浦義明という精神科医が加わり、彼の娘で交通事故で記憶喪失になった三原理香子という女性が木野杏菜のコピーか否かという謎へと展開する。

1人の人物の記憶を巡り、その波紋がどんどん大きくなり、そして影響を及ぼしていく。

それは単純に人助けではなく、外川家の資産を巡る金儲けの側面を孕んでくる。

さてこれほどまでにこねくり回された木野杏菜を巡る事の真相は一応解決されるが、我々の記憶というものは何とも薄弱なものだろうかという思いが残る。
これは単に物語の上での話ではない。
例えば仕事でも自分のミスを認めようとしたくないがために、やっていないことをやったと記憶をすり替える。

また声の大きい人が語った根拠もない話を事実だと受け止めようとする。

それほど我々の記憶というのは薄くて弱くて脆いものなのだ。

では自我を形成する人格とはいったい何によって立脚しているのだろうか?
自分が自分であることの根拠はそれまで歩んできた人生という記憶ではないか。

しかしその記憶が薄くて弱くて脆いものであるならば、いとも簡単に人の人格は変えられてるのではないか。

これが本書の語りたかったことだろう。

もし貴方が貴方であると訴えても周囲が信じようとしなかったら、貴方は貴方であることを自分自身が信じていられるだろうか?

結局我々の現実というのは自分だけの確信だけで成り立っておらず、それを支持する他者の意見によって補強され、そして確立しているのだ。

どれだけ自分を信じてもそれを他人が受け入れなければ、そして他人が頑なに信じたことを押し付けれれば、そしてそれが多数を占めれば我々一己の存在などすぐにでも上書きされてしまう。

なんともまあ、恐ろしいことを見せつけてくれたものである、北川歩実氏は。
この作品を読んだ後、貴方は確かに貴方自身であると胸を張って証明できるだろうか。
正直私は自信が無くなってきた。

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模造人格 (幻冬舎文庫)
北川歩実模造人格 についてのレビュー

No.1390:

慟哭 (創元推理文庫)

慟哭

貫井徳郎

No.1390: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

あらゆる意味で新人離れしたデビュー作

1993年の鮎川哲也賞の候補になり落選しながらも刊行されることになった貫井徳郎氏デビュー作である本書はその年の『このミス』で12位にランクインするなど好評を以て迎えられた作品だ。

そんな期待値の高い中で読み進めた本書だったが、最後まで読み終わった感想は微妙というのが正直なところだ。

さて本書は北村薫氏をして「書きぶりは練達、世も終えてみれば仰天」と驚嘆させたと当時評判だったが、確かにその内容と筆致はとても新人の作品とは思えないほどどっしりとした重厚な読み応えを備えた作品だ。

本書は幼女連続誘拐殺人事件の捜査を進める警察の話と心に大きく空いた穴を埋めるために新興宗教へとのめり込む30代の男性の話が並行して語られる構成で進む。

まずメインの警視庁捜査一課のキャリア出身の佐伯課長が陣頭指揮を執る捜査の内容は新人とは思えないほどの抑えた筆致で、キャリアとノンキャリアの確執、もしくはキャリア同士の確執、さらには佐伯の微妙な生い立ちと現在の立ち位置など縦割り文化が顕著な警察組織の中で軋轢を上手く溶け込ませ、よくもデビュー前の素人がここまで書けたものだと感嘆した。

それは後者の新興宗教にのめり込む30代の男、松本の話も同様で、新興宗教の内情とそこに所属する人々の描写は実に迫真性に満ちている。この細やかな内容は経験しないと判らないほどリアリティに富んでいる。

街中で幸せを祈らせてほしいという修業に興味を持った松本が出くわす、マンションの1室で行われる講話、そしてひっきりなしの入会の勧誘、更に合宿と称した監禁状態での洗脳行為に暴利としてか思えない高額な参加費やテキスト料。

これらは作者自身が実際にその手の新興宗教の集会や講習、そして合宿に自腹を切って参加しないと書けないことばかりだ。もし彼が実際に入会したのであれば、新人賞の応募作品でここまで金を掛けて取材したことになり、その気合の入り方には驚かされる。

また新興宗教が実に“おいしい商売”であることも詳らかに書かれる。
本書が刊行された90年代初頭の時点で日本に存在する新興宗教の数は23万にも上っていたことや元手がかからず、出版物やグッズ、財施などでどんどんお金が入ってくること、宗教法人であることから税の優遇措置を受けており、さらに33種類に亘る収益事業を許されていること。
浴場業、料理飲食業、遊技業、遊覧所業、貸席業、理容業、美容業、興行業、不動産販売業、倉庫業、駐車場業、金銭貸付業とほとんどの業種が網羅されている。
これらは巨大な宗教団体が政治内部にも強いコネが古来からあることからこれらの優遇措置が認められてきた悪しき風習と云えるだろう。

ただこれほど読者の共感を得られない主人公も珍しい。
どうにもこの男に対して嫌悪感が先だって罵詈雑言が止まらない。

微妙な読後感の後に訪れたのは一人の身勝手で無能な男に対する大いなる憤りだった。

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慟哭 (創元推理文庫)
貫井徳郎慟哭 についてのレビュー
No.1389: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

恐怖に磨きの掛かった短編集

キングの短編集“NIGHTMARES & DREAMSCAPES”の邦訳を4分冊で刊行した第1冊目。しかし1冊の短編集が4冊に分かれて刊行されるのは出版社の儲け主義だと思われるが、キングの場合、逆にこれくらいの分量の方が却っていいから皮肉だ。

さてその短編集の1作目は本書の表題作「ドランのキャデラック」だ。
妻を殺された相手に復讐するどこにでもいるような中年オヤジの奮闘譚というどこにでもあるような題材である。彼は頭の中に響く亡き妻エリザベス励ましの言葉にほだされて復讐の方法を思い付き、そしてその決行のために典型的な中年太りの身体を鍛え、そして工事現場で修業をして重機の運転を身に着ける。彼が思い付いた復讐とは敵が運転するキャデラックを偽りの工事の迂回路におびき寄せ、大きな落とし穴で敵の愛車キャデラックごと生き埋めにすることだった。
この実に荒唐無稽な復讐を成すために身体を鍛え、重機の運転を身に着けるというのはよくあるが、数学者の友人に自身が創作しているSF小説のためと偽って必要な落とし穴の寸法を割り出してもらうところはキングならではのディテールが細かさだ。いわゆる荒唐無稽な話をリアルにするアプローチの仕方が面白い。
そして復讐成就のために偽りの迂回路案内の看板を用意したり、復讐の相手が通る前までにただ一人でアスファルトを剥ぎ取り、巨大な落とし穴を満身創痍になりながら掘る一部始終は絶対不可能と思われる状況に立ち向かう冒険小説の主人公のようでなかなか面白い。

次の「争いが終わるとき」はハワード・フォーノイというとある作家の手記である。
いやはやこんな話を思い付くのはキングしかいないだろう。
とにかく手記を遺すことに拙速な作家の手記から始まり、やがて自身が超天才であることとさらに弟もまた誰も予想がつかないことを発想する超天才であることが次第にわかり、そしてその弟が発明した世界平和をもたらす蒸留酒へと至る。
何の話をしているのか皆目見当のつかない発端から、超天才兄弟の生い立ちと現在までの経緯、そして手記の体裁で語られることの意味が最後で判明する展開含め、物語自体に謎が含まれており、技術としてはかなり高い作品だ。
それに加えて最後のオチも面白いのだからキングはすごい。しかし繰り返しになるがこんな話、キング以外誰が思い付くだろうか。

次は厳格な教師が登場する「幼子よ、われに来たれ」だ。
生徒に慕われる者、生徒に見下される者、はたまた特に話題にも上らない者など教師にも色々いるが、本書に登場するミス・シドリーは昔気質のいわゆる“教室の支配者”のような厳しい教師で自分の授業中の私語は許さなく、また他の科目の教科書を開くことも許さない、生徒から恐れられている先生だ。
しかしそんな教師も異形の物に対峙すると1人の女性となる。
彼女が見たのは本当に異形の物だったのか、それとも気が触れた彼女の妄想だったのか。
生徒に舐められまいと厳格に振舞う先生が自分を恐れない生徒に出くわすと自身の精神基盤が不安定になることはよくある。自分の教義に生きる者ほど他者にもそれを要求し、それに従うことが当たり前だと思うようになるが、それが適わなくなると意外にも脆く崩れていく。
しかし本作の邦題は内容から外れているように思う。原題は“Suffer The Little Children”、つまり「幼子に苛まれる」だが、なぜ「幼子よ、われに来たれ」としたのだろうか。

次も異形物だ。「ナイト・フライヤー」は地方の小空港で連続する殺人事件を週刊誌記者が追う話。
オカルト専門の週刊誌では吸血鬼などは特別なものではなく、存在して然るべきらしい。私はこの話を読んでいるとき、そんなものをまともに追い求める雑誌があるのか判断つかなかったため、吸血鬼ありきで記者が取材していることになかなかのめりこめなかった。
この手の週刊誌がキングの創作か判らないがこの導入部をすんなり受け止めるか否かで物語の没入度が変わると思う。私はキングの作品を読んでいるにもかかわらず、妙に常識に囚われた頭で読んだのでのめり込むまで時間がかかってしまった。
キングが書きたかったのはこの手のベテラン記者であっても、本当のモンスターには恐怖を覚えることか。そしてその光景を一生抱えて生きていくと述べる記者の独り言は実に説得力ある。これぞ恐怖、これぞトラウマだ。
ちなみにこの週刊誌記者リチャード・ディーズは『デッド・ゾーン』に登場していたというのは作者の作品解説で知った。

またまた異形物が続く。「ポプシー」はギャンブルで多額の借金を抱えた男の悲惨な末路を描いた作品だ。

『ニードフル・シングス』で崩壊したキャッスルロックが再び舞台となるのが「丘の上の屋敷」だ。本書の序文によれば本作が収録作中最も古い作品とのこと。
キングの数あるホラー作品のテーマの1つに“サイキック・バッテリーとしての家”というものがある。それは家そのものが住民やその土地に影響されて負のエネルギーを溜め込み、恰も生きているが如く住民たちに災厄をもたらすと云う考えだ。
本書はその系譜に連なる1編で、財を成すたびに増築を繰り返した住民が遺した屋敷に纏わる話だ。
そして上にも述べたようにその家が建つのはあのキャッスルロック。キングによって作られた町の1つであり、そして崩壊を迎えた町だ。つまり町そのものも忌まわしき因縁があり、さらにそこに建てられた屋敷もまた不穏な雰囲気をまとっている。また崩壊後のキャッスルロックに残された老人たちの物語が集って語るような退廃的な雰囲気も感じられる。キングが親しんだ彼が作った町への鎮魂歌とも云える作品だ。
最初に読み終わった時はこの話はキング特有の丘の上に屋敷を建てた事業家の盛者必衰の歴史を綴ったものかとだけ思ったが読み返すとこれは意志持つ屋敷の話だと気付いた。

本書最後の収録作の題名「チャタリー・ティース」はゼンマイ仕掛けの足がついた入れ歯のおもちゃの名前を指す。私はこの題名で初めて知った。
本作はキング作品のジャンルの1つ、“意志ある機械”のお話だ。機械とはいえ今回はゼンマイ仕掛けのおもちゃで、電気で動くものではない。今まで見たこともないほど大きなゼンマイ仕掛けの歩く歯のおもちゃを譲り受けた男の危機をそのおもちゃが救うと云う思い付いてもキングしか書かないようなお話だ。
読んでいる最中、荒木飛呂彦氏が漫画化したような映像が頭に浮かんだ。


冒頭にも述べたように本書は短編集“NIGHTMARES & DREAMSCAPES”の邦訳を4分冊で刊行した第1冊目だが、本書だけで320ページ弱ある。これが4冊続くとなると軽く1,200ページは超える分量。本書には7作が収録されているが、これだけで通常の作家ならばこの1冊で十分な分量である。

その内容は妻を殺された男の復讐譚、ある発明をした弟を殺した小説家の告白文、厳格な教師の哀しき末路、吸血鬼の連続殺人事件を追う記者が出くわした真の恐怖、ギャンブルで抱えた多額の借金を返済するために子供の誘拐を請け負った男が辿った悲惨な結末、人を食うと噂される屋敷の歴史、ゼンマイ仕掛けの歩く歯の玩具を貰い受けた男がカージャックに遭う話とこの1巻目だけで実にヴァラエティに富んでいる。

そんな中、収録作中3作が怪物を扱った作品だ。
この頃キングは45歳。この年になるとサイコパスなど人間の怖さを扱う作品が多くなりがちで、なかなか怪物譚などは書かなくなると思うのだが、キングは本当にモンスターが好きらしい。

またキング作品のおなじみのモチーフであるサイキック・バッテリーとしての家の物語や“意志ある機械-正確には今回は器械だが―”の話もあり、初心を忘れないキングの創作意欲が垣間見れる。

しかしそれらおなじみの、いわばパターン化した作品群であるが、成熟味を増しているのには感心した。

「丘の上の屋敷」ではキャッスルロックの数少ない年老いた住民たちの群像劇と彼らの会話が延々と続く中で、彼らの話題の中心となっている丘の上の屋敷を主のいない今誰が増築しているのかと語ることでもはや家自体が自ら増築していることを仄めかされる―この作品は2回読んだ方がいい。1回めではキングの饒舌ぶりも相まってとりとめのなさが先に立ち、作品の意図を掴むのが難しい―。

そして最後の「チャタリー・ティース」ではゼンマイ仕掛けの歩く歯のおもちゃが新しい主を待ち受けていることが判るのだが、なぜそのおもちゃが彼を選んだのかは不明だ。

そう、作家生活19年にしてキングの描く恐怖はさらに磨きがかかっているのだ。しかもそれらが映像的でもあり、また鳥肌が立つような妙な不可解さを感じさせる。

西洋人の恐怖の考え方はその正体の怖さを語るのに対し、日本人は得体の知らなさそのものの恐怖を語る。つまり恐怖の正体が判らないからこそ怖いというのが日本式恐怖なのだが、本書のキング作品もどちらかと云えば後者の日本式の恐怖を感じさせる。

そんな円熟味を感じさせる作品集のまだ4分冊化されたうちの1冊目なのだが、早くもベストが出てしまった。それは「争いが終わるとき」だ。

この作品は最初何を急いで書き残そうとしているのか判らないまま、物語は進む。つまり物語自体が謎であり、メンサのメンバーになっている両親から生まれた兄弟の生い立ちが語られ、どこに物語が向かっているのか判らない暗中模索状態で読み進めるとやがて強烈なオチが待ち受けていたという構成の妙が光る。久々唸らされた作品だ。

まだ3冊も残っているのにここでベストを上げるのは早計かと思われるが、そんなことは関係ない。それぞれを独立した短編集と捉えてとりあえずそれぞれの1冊でベストを挙げることにしよう。

しかしこの頃のキング作品がどんどん長大化しており、饒舌ぶりに拍車がかかっていると思っていたが、それは本国アメリカでもそうらしく、『ザ・スタンド』から『ニードフル・シングス』に至る作品群では書き過ぎだと非難されたとある。
大作家だからこそ、またページ数が増せばその分価格も高くなるからこそ出版社もまた読者も長大化ぶりを歓迎していたかと思ったが、やはり海の向こうでも読者の思いは一緒であったか。

しかしそんな非難を受けてもキングの創作意欲というか頭に浮かぶ物語は減らないようで、短編が売れない昨今の出版事情の中、敢えて短編集を出すのは彼には大小さまざまな物語を書かずにはいられないからだ。そしてそれは今なお続いており、つい先日も『わるい夢たちのバザール』という短編集が分冊で訳出されたばかりである。

ちなみに冒頭にも述べたが本書は“NIGHTMARES & DREAMSCAPES”、即ち“悪夢と夢のような情景たち”と題された短編集の一部である。つまり本書刊行後、28年を経てもなおキングの悪夢は続いているのだ。
それではその悪夢を引き続き共有しようではないか。

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ドランのキャデラック (文春文庫)
No.1388:
(3pt)

流転だらけの人生。彼にとっての幸せとは。

ジェイムズ・ヒルトンといえば代表作は『チップス先生、さようなら』や『失われた地平線』になろうか。前者は一教師の生涯を通じて戦争下の社会情勢を描いた作品であり、後者は今なお使われるシャングリラという理想郷を創出した作品である。

で、本書はといえば趣向は『チップス先生、さようなら』の系譜に連なる物になろうか。
牧師の息子として生まれたエインズリー・ジャーグウィン・フォザギル、通称“A・J・”という男の数奇な運命を通じて日露戦争からロシア革命の頃のロシア情勢を語った作品だ。

このフォザギルという男。特段何か特技や特徴があるわけでもない、ごくごく平凡な男である。
しかしなぜか彼の周りには人が集まり、そしてそのたびに彼は名を変え、身分を変え、そして国籍さえも変えて窮地を脱するのだ。

最初は自分の世話をしてくれた裕福な叔父の秘書フィリッパに惚れるが、彼女は彼の世話人の叔父ヘンリー郷と結婚してしまう。失意のうちにそれまで書評欄を担当していた『彗星』紙に自ら志願して戦争特派員としてロシアに行き、日露戦争の取材をするが、彼はそこで飲んだビールが不衛生なもので体を壊したことで入院し、ロシア語をマスターし、ロシア人とコミュニケーションをとるに至り、戦況よりも戦時下で病院に働く人々や恵まれない生活環境などをテーマに送るようになるが、そんな情報は望んでいない新聞社は彼の代わりの特派員ファーガソンを派遣する。
イギリスに帰る列車の中でたまたま食堂車で隣り合わせた紳士に話しかけると、その人物がとあるロシアのロストフという町の小学校の校長先生で彼の流暢なロシア語に感動して彼に学校の英語教師の職をオファーし、A・J・はそれを受けてロシアに留まることになる。

これが彼のロシアでの数奇な運命の始まりだったのだと云えよう。確かに社に志願して戦争特派員としてロシアの地に赴いたのが彼のロシア生活の始まりではあるが、それは新聞社の社員としてであるため、彼はいわばまだ単に組織の一員に過ぎない。この英語教師への転身がこのA・J・フォザギルという男の運命のスタートラインだ。
しかしこれはまだ端緒に過ぎない。この時の彼はまだ運命という川に翻弄される1艘の笹舟に過ぎないのだ。

そして英語教師に着任した1年後に彼の保護者であったヘンリー卿が亡くなる。つまりこのことが彼を更に束縛から解き放つ。
その後彼はペテルブルグに移って英語の著作物をロシア語に翻訳し、校正する仕事に就く。ただその仕事でロシア皇帝の私生活に触れている箇所があることが見つかり、彼を雇った人物の取り計らいでとりあえず最悪の事態は回避するが、1週間以内にロシアを立ち退くよう通告を受ける。

それ以降も彼の運命は流転する。英国諜報部の嘱託員となり、ペテル・ヴァレシヴィッチ・ウラノフと名乗り、以後ずっとロシアではロシア人として通すことになる。

それから内務大臣暗殺を企ている革命クラブと接触したり、警察に逮捕され、収監されるが、ロシア革命の恩赦で釈放され、移動の列車の中で知り合った大学教授夫妻のために食堂車に紛れ込んで食糧を盗んだところを見つかり、銃殺されそうになったところを返り討ちにして逆にその政府高官に成りすます。
そしてその際に知り合った女囚との出遭いが彼の運命を大きく変える。その女性マリー・アレクサンドリア・アドラクシン伯爵夫人は彼の一生愛すべき存在になるのだ。

ところで人はいつ自分の使命を知るのだろう?
いや自分の生きる使命を知る人間がどれだけいるのだろう?

自分がここに生きる意味、誰かのために生きている、もしくは生かされていると悟る人はそれほどいるとは思えない。

このエインズリー・ジャーグウィン・フォザギルという男は最初は我々のようなごく普通の人物に過ぎなかった。

これが次第に人間味を帯びてくる。彼がそれまでただ成り行きに身を任せ、どうしてか判らないがとんとん拍子に物事がうまく運ぶ、流されキャラだったのがアドラクシン伯爵夫人との邂逅で変わっていく。
最初彼は彼女を赤軍に引き渡すために彼女の旅程の助けをしているだけだったが、次第に彼女の魅力にほだされ、そして彼女と共に生き延びたいとまで思うようになる。
そこから彼は主体性を以て動き出す。彼の生きざまにアドラクシン伯爵夫人と云う軸ができるのだ。

この貴族の出の夫人は達観した考えの持ち主で運命に身をゆだねる人物だった。常に気丈に明るく振舞い、生き延びるために身ずぼらしい農婦の服装を身に着けることをいとわず、むしろその状況を愉しみさえする。
さらにはA・J・が兵士に殺されそうになると銃で彼らを撃つことも躊躇わない度胸を示す。

そして彼女の存在はA・J・の物の見方に彩りをも与える。
それまでの彼は自分のことながらもどこか客観的に物事を見つめ、自分の言動ももう1人の自分が見ているような主体性の欠いた状態で受け入れていたが、初めて彼は彼女のために生き、そして無事にロシアを脱出しようと決意するのだ。
やがてアドラクシン伯爵夫人をダリーと呼び、お互い相思相愛の仲になる。

そんな彼らの逃亡行は貴重な出会いの連続だ。

A・J・とダリーの道行きはそれでもしかし苦難の道のりだった。何度も危ない目にあっては機転や稀有な親切な存在に助けられる。

奥ゆかしくも運命に流されながら、時に抗い、生きてきたエインズリー・ジャーグウィン・フォザギルという男の波乱万丈の人生物語だ。
彼はジャーナリストとして夢を抱いてロシアに飛ぶが、求められた記事を書かなかったことで帰国を命じられる。その後はただ出遭う人の申し出に乗って色んな職に就き、また時には周囲の勘違いから政府の役人になったという偶然の連続で生き延びた男だった。
そう、彼は自ら選んだ道では上手く行かず、周囲の要請や提案に従ったことが彼を生かした。

何とも奇妙な男である。
当時のロシア革命真っただ中の、赤軍と白軍、つまり社会主義派と反革命派がそれぞれの街で拮抗する特異な情勢の中でその場その場を潜り抜けるには流れに身を任せるのが唯一の生存手段だったのかもしれない。

自分の意志を貫こうとすれば叶わず、周囲に流されることで自分が生かされた男フォザギル。
なんと虚しい男であることか。
題名の鎧なき騎士とは彼のことを指すのだろうが、個人的にはいささかピンと来ない。

虚しき騎士の物語、それがこの物語に相応しいと思うがどうだろうか。


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鎧なき騎士 (世界ロマン文庫)
ジェームズ・ヒルトン鎧なき騎士 についてのレビュー
No.1387: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(4pt)

同じ空を飛び、同じ夢を見たようだ

完結した『スカイ・クロラ』シリーズでは語られなかったエピソードを描いた短編集。

「ジャイロスコープ」はクサナギが既にエースパイロットから会社の宣伝塔になった頃の話だ。
飛行機乗りとして空を飛ぶことが楽しくてしょうがないクサナギに逢える一編だ。それはパイロットとして最高の技術を持つクサナギと整備士としてより速く、性能の良い機体を作り上げることを突き詰めるササクラ2人だけの心の交流の物語だ。それはお互い飛行技術と整備技術と畑は違えど戦闘機散香という共通のアイテムを通じて分かち合える最高レベルでの相通ずるもの分かち合う対話だ。
そして何よりも本作はクサナギからのササクラへのプレゼントであることが解る。
整備士はパイロットが安全に飛べるために機体の整備に余念がないが、ササクラは整備士でありながら飛行機の性能を上げることにもまた貪欲だ。それは整備士としてはある意味冒険である。飛行機が平常通りに安全に飛ぶように整備するのが要求されるのに対し、自分が整備した飛行機が自分の腕と知識でどこまで速く飛べるか手を加えることは失敗するかもしれない実験を伴うからだ。
しかしクサナギはそれをササクラに許し、そして通常ならば遠く離れた地での空中戦でしかササクラの改造の成果が解らないが、PR撮影のために飛行場近くでその成果を披露できる機会を存分に利用して彼女の飛行技術を全て駆使してまでササクラに自身の整備した散香の飛行具合を披露するのだ。初めて自分が仕上げた機体が最高の技術を持つパイロットによって最高の飛行をする様子を見られたササクラの感慨はいかほどだっただろうか。
またPR撮影のために営業スマイルとはいえ、笑顔を見せられるクサナギが新鮮だ。その後どんどん絶望へと沈み、営業スマイルすら見せなくなる彼女の生末を知っているだけに、その笑顔が眩しく感じる。

次の「ナイン・ライブス」はクサナギの許を去り、後に大敵となるティーチャの物語だ。しかし物語と云っても特段ストーリーがあるわけではない。彼が赤ん坊を認知し、扶養手当が認められるところが語られる。そして彼にはモナミという同棲している女性がいるが、もちろんそれまでのシリーズを読んだ者ならその赤ん坊が彼とモナミとの間にできた子でないことは判っている。そう、ここではティーチャとクサナギとの間に生まれた子がどのように育てられたかが判るのだ。
そして最後彼が長じてまで空を飛ぶ理由が語られる。彼は単に命の取り合いをしたい訳ではない。ただ空で戯れたい、自由に空を飛んで遊びたいから飛ぶのだ。そこに命のやり取りが介在しているだけなのだ。そして遊びに行くからこそ死んでもしょうがないかと思えるのだ。なぜなら存分に楽しませてくれたのだから。

「ワニング・ムーン」は空中戦で被弾し、海上へ不時着したパイロットのエピソード。
正直よく判らない物語だ。海のミステリに連なる作品なのか。

「スピッツ・ファイア」は軍人たち御用達のフーコの店での一幕か。
女性はクサナギであることは判るが、男性は誰だろうか?カンナミ・ユーヒチかクリタ・ジンロウか。
とにかくこの2人はフーコの店の前に座っている老人から神の話を聞いて、なぜか基地への道中に神に追いかけられているかのような錯覚を覚える。それはいつもは上空で重力から解放された彼らが地上で飛行機ほどではないが、スピードの出る乗り物に乗っているときに感じる重力の重みなのかもしれない。

「ハート・ドレイン」はクサナギを会社の宣伝塔に仕立て上げたカイが初めてクサナギと邂逅する話だ。
最年少で軍の情報部の階段を上る上昇志向の強いカイの物語。彼女がクサナギと出会ったきっかけの物語だが、出世街道を上るカイの第一歩の物語だ。

「アース・ボーン」はある意味『スカイ・クロラ』シリーズの影の主役かもしれないフーコのエピソードだ。
歴代のパイロットと浮名を流したフーコ。
彼女の新たな門出に乾杯。

シリーズ第1作の謎が解かれるのが「ドール・グローリィ」。
本作はこれまで曖昧になっていたことのほとんどを補完する作品だと云えるだろう。
この言葉でこれまでモヤモヤしていたことが全て判明する。
しかしこのことで再び疑問が生じる。
2つの噂が証明され、そして新たな2つの疑問が生まれた短編だった。

その2つの疑問のうちの1つの回答が得られるのが最後の短編「スカイ・アッシュ」だ。
明確に書かれていないが、クサナギ・スイトの退院後のその後を描いた作品だ。


『スカイ・クロラ』本編では語られなかったエピソードを集めた短編集。その中にはシリーズの内容を補完する物もあれば、他愛のない日常を切り取ったスナップ写真のような作品もある。

そう各編で語られるのは起承転結のない日常風景だ。いわば日記のようなものだ。
しかし登場人物たちの日常を描くことでシリーズには書かれなかった部分が徐々に明らかになってくる。そしてそれまで曖昧なままで閉じられていたシリーズの謎がほとんど解かれることになる、重要な短編集ではある。

一方で飛行機乗りしか判らないようなリアルな描写もある。

例えば空を飛ぶとき、重力から解放されている彼らは少し酩酊状態にある。従って地上に降りて重力を感じるようになると現実感が起こり、そしてもし仲間が亡くなっていたりすると重い失望感に襲われていく。

またパイロットは地上ではケンカしないと述べる者もいるが、これは嘘だ。血気盛んなパイロットは映画でも殴り合いのケンカを繰り広げているではないか。永遠の若さと命を持つキルドレだからこその心情だろう。彼はその永遠の子供であることに絶望しており、唯一死ねる場所、空での交戦を楽しんでいる。それは彼ら彼女らにとってケンカではなく、ゲームであり、ダンスなのだ。
そう命の取り合いや争いをしている感覚はない。ただ単純に戯れているだけだ。
そしてその結果命を落とそうが悔いはない。いや寧ろ死ねるからこそ空を飛ぶことを愛するのだ。

従って空では自分たちが行っている空中戦が命の取り合いだと彼らは思っていない。しかし地上でリアルに人を撃ち殺すと自分が殺人を犯したと暗鬱になる。人を殺すという意味では同じなのに空と地上とでは全く異なる。
それは空では戦闘機という機体を介しての殺人であるのに対し、地上での殺人は生命そのものと相対するからだろう。これはキルドレだけでなく、飛行機乗り全てに共通する感覚なのかもしれない。

あと興味深かったのが整備士ササクラの心情が垣間見れたことだ。パイロットから絶大な信頼を受ける腕を持った整備士のササクラもまた影の主役と云える人物だろう。

彼だけがエース・パイロットのクサナギの散香を整備することができることを知らされる。またそれは自分が整備した機体が戻ってくる確率が高いことを意味する。
丹念に整備した戦闘機が必ずしも無事に生還するかは解らない。どれだけ手を加えても戻ってこなかったら無になるからこそ帰還の確率が高いエース・パイロットの機体の整備や改造は実に遣り甲斐がある仕事であることが解る。

しかしPR撮影に臨むクサナギに眼帯を付けた方が宣伝効果が高いだろうと思ったササクラはエヴァンゲリオンの綾波レイのファンなのだろうか?

さて最初私は本書を『スカイ・クロラ』シリーズを補完する短編集だと書いたが、読み続けるにつれて感じたのは森氏が発見したお話ではないだろうかということだ。

シリーズは完結したが彼の中でクサナギ・スイト、ササクラ、ティーチャ、カンナミ・ユーヒチらは生きており、彼らの語られなかった物語を発見したのだ。そしてそれをここに綴ったのではないだろうか。

正直、中には書かれなくてもよかった話もある。

ただ後半はシリーズの後日譚だ。フーコのその後。成長したクサナギ・スイトの異父妹ミズキのその後。そしてクサナギのその後の物語。

率直に云えば本編を補完するにはこの最後の3編だけがあればいいのではないか。いや「ドール・グローリィ」と「スカイ・アッシュ」2編だけで本編の登場人物たちの謎は氷解する。

森氏が代表作だと意識している『スカイ・クロラ』シリーズだと述べていることは既に知られている。つまりシリーズを補完する2編以外の、それぞれの登場人物の生活の点描や本編で一行、一文だけ書かれた何気ないエピソードについて膨らませて書いたのは作者自身が抱いたこの世界から離れがたい名残惜しさだからではないだろうか。

最後の短編「スカイ・アッシュ」で再会したクサナギとフーコがお互い呟く。
夢みたいだ、夢のようだという言葉はこのシリーズそのものについて作者が抱いている感慨ではないか。

飛行機好きの趣味を思う存分、自分の美意識の中で書き、そして最後まで書けたこと自体に対する思いがまさに「夢のよう」であること。

そして森氏の多くのシリーズ作品では他作品へのリンクが見られるがこの『スカイ・クロラ』シリーズは永遠の子供キルドレという設定ゆえか、全く独立したシリーズである。つまりこのシリーズの物語そのものが作者が見た夢そのものであったのではないか。

独特の浮遊感と力の抜けた、敢えて足さない文章で浮世離れした感のある登場人物たちで織り成されたこのシリーズそのものが常に夢見心地だったように思う。

本書の表紙の色は真っ黒だ。それは星一つない夜空を示しているかのようだ。
夜の訪れは一日の終わりを指す。夢のようなシリーズだっただけにその終わりは夜空が相応しいだろう。

読者も作者もそして登場人物たちも同じ空を飛び、同じ夢を見たようなシリーズだった。

▼以下、ネタバレ感想
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新装版-スカイ・イクリプス-Sky Eclipse (中公文庫 も 25-20)
森博嗣スカイ・イクリプス についてのレビュー