■スポンサードリンク
虚無への供物
新規レビューを書く⇒みなさんの感想をお待ちしております!!
虚無への供物の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.89pt |
■スポンサードリンク
Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全73件 41~60 3/4ページ
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
物語は、1954年12月10日、竜泉寺のゲイバア「アラビク」から幕を開けます。 作者「中井英夫」の命日が1993年12月10日で、共に金曜日であるという驚くべき符合に、この作品の底に流れる因縁のようなものを感じてしまいます。 かつて、出版社の担当が、作者から受け取った原稿を、駅のホームでチェックしているうちに、その内容に惹きこまれ、ついには終電を乗り過ごしてしまった、という逸話があるそうで、かの三島由紀夫も、二晩を費やして読破し、中井の出先まで押しかけて感想を述べたとか。 この「虚無への供物」の舞台となった1954年は、1月2日、皇居での二重橋事件からスタートし、3月1日には、第五福竜丸の死の灰事件、そして、9月26日には、世界を震撼させた洞爺丸事故、と不穏な1年であったようです。 小説の底流にある洞爺丸事故とは、台風15号の中をついて出航した青函連絡船「洞爺丸」が沈没し、千人以上もの犠牲者をもたらしたという歴史上の大惨事。 小説では、氷沼家の主「紫司郎」が乗り合わせ、海の藻屑と消えたという設定。これが、本作の重要なモチーフとなっています。 作者は、歴史的事実をうまく利用し、フィクションとないまぜにして、今で言う、バーチャルリアリティ的世界を見事に構築しています。 (中井自身は、1955年1月に、いきなり全編の結末までひらめき、その後の現実が、物語通りに進行するのに唖然とした、と述懐していますが・・) また、ホモセクシャルも、冒頭から結末までを貫く重要なキーワード。 密室殺人事件が発生。登場人物たちの推理合戦により、容疑者らしき人物が浮かび上がるわけですが、その容疑者も次の密室殺人事件の被害者になるという、ややこしい展開。 下巻の冒頭では、一度は犯人と目されながらも、その存在を否定されもした人物が、これまた密室内で死亡。 面白くもあり、じれったくもありの筋書きで、特に、フランス帰りの牟礼田が画策を張り巡らせるに及んで、劇中劇のような重層的構造(どこまでが本編か、目眩ましをくわされることも)は複雑さを増し、映画で言えば、スクリーンの俳優が、観客に向かって「犯人はお前だ」と叫ぶが如くの「楽屋落ち」まで登場するのは、作者自身も、執筆しながら、もうこんな禍々しい世界から逃れたいという、無意識の欲求から発せられたようにも思えます。 下巻267ページあたりで、マーティン・スコセッシ監督の「シャッター アイランド」を思い出させるような展開も凄い。 物語の終盤で、純文学的な様相を呈すると共に、これまでのあらすじを相対化し、客観的に論じていくところも、この小説が賞賛を浴びる要因か? たしかに、古今東西の推理小説のみならず、ルイス・キャロルやシェイクスピアまでも小説内のトリックに引用するあたりは、中井がかなりの読書家であったことを示していますし、ラストで、序章の長さを自嘲的に振り返る様も、読書マニアならでは。 また、東京の五色不動(目黒不動、目白不動、目赤不動、目青不動、目黄不動)を地理的な要素のみならず、登場人物の名前、更に殺人事件の舞台である屋敷の部屋の色にまで反映させるペダンチスムも大したものだと思います。 その上で、シャンソンや、ゲイバアなど、当時の最先端の文化・風俗を作品に散りばめ、ファショナブルに装いを凝らして、ともすれば、陰惨になりがちな物語に、若干の明るさをもたらしているのも、今日まで熱烈な読者を生み出す要因となっているようです。 この重々しい展開の中で、唯一の救いは、登場ごとに凝った衣装を身にまとい、どこか見当外れな物言いをつける久生(小説家、久生十蘭から取られたに違いありません)の存在か? そして、アリョーシャ(亜利夫)は、作者の分身と思われます。 さて、読者を騙すのが推理小説だとしたら、この小説は充分、騙され甲斐のある作品といえましょう。 ラストは、ある意味、肩透かしと言いますか、どこか空漠感が漂いますが、卓越した舞台装置(カーテンのそよぎだの、その奥にかくまわれた犯人?だの)に眩惑され、虚しい心持ちになることはありません。むしろ、小説の冒頭から、もう一度読み直したいという欲望すら、湧いてきます。 読書よりも、インターネット検索に明け暮れる方が多い昨今、この「虚無への供物」は、忘れかけていた読書欲を刺激する、すさまじい面白さに満ちた傑作と言えましょう。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
物語は、1954年12月10日、竜泉寺のゲイバア「アラビク」から幕を開けます。 作者「中井英夫」の命日が1993年12月10日で、共に金曜日であるという驚くべき符合に、この作品の底に流れる因縁のようなものを感じてしまいます。 かつて、出版社の担当が、作者から受け取った原稿を、駅のホームでチェックしているうちに、その内容に惹きこまれ、ついには終電を乗り過ごしてしまった、という逸話があるそうで、かの三島由紀夫も、二晩を費やして読破し、中井の出先まで押しかけて感想を述べたとか。 この「虚無への供物」の舞台となった1954年は、1月2日、皇居での二重橋事件からスタートし、3月1日には、第五福竜丸の死の灰事件、そして、9月26日には、世界を震撼させた洞爺丸事故、と不穏な1年であったようです。 小説の底流にある洞爺丸事故とは、台風15号の中をついて出航した青函連絡船「洞爺丸」が沈没し、千人以上もの犠牲者をもたらしたという歴史上の大惨事。 小説では、氷沼家の主「紫司郎」が乗り合わせ、海の藻屑と消えたという設定。これが、本作の重要なモチーフとなっています。 作者は、歴史的事実をうまく利用し、フィクションとないまぜにして、今で言う、バーチャルリアリティ的世界を見事に構築しています。 (中井自身は、1955年1月に、いきなり全編の結末までひらめき、その後の現実が、物語通りに進行するのに唖然とした、と述懐していますが・・) また、ホモセクシャルも、冒頭から結末までを貫く重要なキーワード。 密室殺人事件が発生。登場人物たちの推理合戦により、容疑者らしき人物が浮かび上がるわけですが、その容疑者も次の密室殺人事件の被害者になるという、ややこしい展開。 下巻の冒頭では、一度は犯人と目されながらも、その存在を否定されもした人物が、これまた密室内で死亡。 面白くもあり、じれったくもありの筋書きで、特に、フランス帰りの牟礼田が画策を張り巡らせるに及んで、劇中劇のような重層的構造(どこまでが本編か、目眩ましをくわされることも)は複雑さを増し、映画で言えば、スクリーンの俳優が、観客に向かって「犯人はお前だ」と叫ぶが如くの「楽屋落ち」まで登場するのは、作者自身も、執筆しながら、もうこんな禍々しい世界から逃れたいという、無意識の欲求から発せられたようにも思えます。 下巻267ページあたりで、マーティン・スコセッシ監督の「シャッター アイランド」を思い出させるような展開も凄い。 物語の終盤で、純文学的な様相を呈すると共に、これまでのあらすじを相対化し、客観的に論じていくところも、この小説が賞賛を浴びる要因か? たしかに、古今東西の推理小説のみならず、ルイス・キャロルやシェイクスピアまでも小説内のトリックに引用するあたりは、中井がかなりの読書家であったことを示していますし、ラストで、序章の長さを自嘲的に振り返る様も、読書マニアならでは。 また、東京の五色不動(目黒不動、目白不動、目赤不動、目青不動、目黄不動)を地理的な要素のみならず、登場人物の名前、更に殺人事件の舞台である屋敷の部屋の色にまで反映させるペダンチスムも大したものだと思います。 その上で、シャンソンや、ゲイバアなど、当時の最先端の文化・風俗を作品に散りばめ、ファショナブルに装いを凝らして、ともすれば、陰惨になりがちな物語に、若干の明るさをもたらしているのも、今日まで熱烈な読者を生み出す要因となっているようです。 この重々しい展開の中で、唯一の救いは、登場ごとに凝った衣装を身にまとい、どこか見当外れな物言いをつける久生(小説家、久生十蘭から取られたに違いありません)の存在か? そして、アリョーシャ(亜利夫)は、作者の分身と思われます。 さて、読者を騙すのが推理小説だとしたら、この小説は充分、騙され甲斐のある作品といえましょう。 ラストは、ある意味、肩透かしと言いますか、どこか空漠感が漂いますが、卓越した舞台装置(カーテンのそよぎだの、その奥にかくまわれた犯人?だの)に眩惑され、虚しい心持ちになることはありません。むしろ、小説の冒頭から、もう一度読み直したいという欲望すら、湧いてきます。 読書よりも、インターネット検索に明け暮れる方が多い昨今、この「虚無への供物」は、忘れかけていた読書欲を刺激する、すさまじい面白さに満ちた傑作と言えましょう。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
推理小説三大奇書の一つに数えられる作品ですが 他2つに比べてたら、圧倒的に読みやすく それでいてミステリとしてもすごくよくできている 素直に「名作」と思える作品でした。 犯人にあたる人物が最後に登場人物たち(+α)にかける言葉は 心打たれるものがあり、考えさせられたりもしました。 ただ ここが奇書とされる由縁なのですが 『十戒』、『二十則』、『幻影城』などなど ミステリな用語が頻繁に出てきて 登場人物たちが(妙な)推理をするのに参照したりするので その辺りをある程度は知ってるくらいのミステリの知識はあったほうが より楽しめる作品ではあると思います。 いろいろなミステリをある程度読み込んでから辿り着くべき 至高のミステリといえる作品だと思います。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
この物語を何度読んだことだろう。 終戦の混乱も収まった昭和のある時期に、東京に確かに存在した迷宮へ誘い込まれてしまうのだ。 洞爺丸事件の暗い影を背負った兄弟に、高等遊民の探偵たち。退廃と活気が混濁しながら連続する悲劇は運命であるかのように避けられない。 そして犯人はいったい誰だったのか?すべての謎は解けたのか? 迷宮の中ではその質問自体が意味を持たない。 昭和の推理小説の最高傑作。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
当時からアンチミステリの大作として大きく評価されたこの作品。 登場人物のキャラクター設定も舞台設定も、そして多く鏤められた作品内の舞台装置としてのメタテクスト。 ある意味でこれは現在におけるPCゲーム風な楽しみ方を内包していた作品だったととれます。 ノベルゲームが好きな方ならば若い方でも十分に楽しめることうけあいです。 美しい日本語とほんのりと耽美な世界観。そして魅力的なミステリ的味付け。 どこからとっても名作です。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
オチはひどいが、推理小説の可能性を示唆した日本四大奇書の一つ。 事件に全く関係ない推理や話が多いが、個人的には、最近の推理小説のように病的なほど無駄を削った推理小説よりは好みではある。ただ、ドグラマグラには明らかに負ける。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
推理小説史上、屈指の傑作とのことです。なかなか骨が折れますが一読の価値あり。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
中井英夫(1922-1993)、1964年の作。 〈犯人〉は「不条理」の中に「意味」を渇望して殺人を為し(「人間らしい悲劇」「人間らしい死」「人間の誇り」「人間の秩序」・・・)、〈探偵〉は「事件」の中に「解釈」を求めて推理という名の駄弁を弄する。そしてそれはいずれも、【虚無への供物】でしか在りようがなかった。 〈犯人〉は世界の不条理(因果な事件事故、及びそれがもたらす苦悶)と社会の虚無(〈探偵〉たちの駄弁)とに対峙していた。そして〈探偵〉とは、この物語を読み進めている他あろう我々〈読者〉の姿である。 この物語の冗長さは、〈探偵〉の則ち〈御見物衆〉〈読者〉〈我々自身〉の駄弁の冗漫さを表しているのではないか。 "物見高い御見物衆。君たちは、われわれが***の遺族だといっても、せいぜい気の毒にぐらいしか、考えちゃいなかったろうな。どれほどのショックだったか判るわなんぞといいながら、******を待ち受けてゾクゾクしていたくらいだから、察しはつくよ。・・・。しかし君たち御見物衆が***や***という人形に魂を吹き込む役割を受け持ったことだけは、覚えておいてくれ。全部とはいわない、しかし、この一九五五年、そしてたぶん、これから先もだろうが、無責任な好奇心の創り出すお楽しみだけは君たちのものさ。何か面白いことはないかなあとキョロキョロしていれば、それにふさわしい突飛で残酷な事件が、いくらでも現実にうまれてくる、いまはそんな時代だが、その中で自分さえ安全地帯にいて、見物の側に廻ることができたら、どんな痛ましい光景でも喜んで眺めようという、それがお化けの正体なんだ。俺には、何という凄まじい虚無だろうとしか思えない。・・・、そんな虚無への供物のために、俺は一滴の血を流したんじゃあない。俺が***を殺したのは、人間の誇りのためにしたことだが、どっちにしろ海は、もうそんな区別をしやしない。俺のしたことも、別な意味で"虚無への供物"といえるだろうな" 社会は、私を匿名多数の眼差しに消してゆく。私の吐き出す言葉が、不可避的に社会そのものの一分子に堕し、私自身に疎遠な異物となり、ついには私自身を抹消する。私の実存は、社会という虚無に溶け消えていく。社会に在っては、私の言葉も、ここに出てくる〈探偵〉たちの駄弁と何ら変わらないのである。だからこそ、〈探偵〉は我々〈読者〉のことなのだ。現に、私は匿名多数の駄弁に取り囲まれているではないか。その中には、確かに私自身の声も混じっているのだ。「私は、それとは別の、何かなのだ」という叫び声が。匿名の誰かが発する虚しさとと同じ響きで。それはまさにこの文章のことであり、この文章の読者のことを云っているのだ。ここにははっきりと、自己関係的機制が表れている。 本書は、耽美のアイロニーに彩られた実存主義文学といえないだろうか。現代にまで響く告発の書である。そしてそれは不可避的に自己関係的機制をなすのである。ここにこそ、本書がメタ・フィクション、アンチ・ミステリとならねばならぬ理由があるのではないか。 "推理小説がもはや困難だという最大の理由は、現代にふさわしい、新しい悪の創造を、作家ではなく現実の事件のほうが片端からやってしまうせいだろう。"(中井英夫) "そしてそのジャンルについて、現代ではもはや成立不可能だという認識を持ってしまえば、打つ手は一つしかない。推理小説の形をとりながら、このジャンルの不可能性を――立証するとまではいわなくとも、強く暗示するような作品を書くことである。その「反推理小説」の中に、ゲームの純粋性からはみ出してしまうものを、推理小説としては不純な要素を、夾雑物を塗りこめることである。中井英夫の脳裏にはそうしたいわば敵中突破の戦法が閃いたのではないだろうか。"(出口裕弘) 「三大奇書」という括りで色物扱いしてしまうには、余りに勿体ない傑作。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
作者自身が「アンチ・ミステリー」と位置付けただけのことはあり、その形式は推理小説の姿をかりつつも、実態は深遠な幻想への入り口だ。 どれだけ推理小説を読みなれた者でも、薔薇と不動とシャンソンに彩られ、同時に呪われたこの物語を読み進めるうちに、虚実の間に落下していくことを避けることはできないだろう。 序盤から中盤にかけて読み進めていくうち、我々の住む現実世界ではアリエナイことが、この作品の中では何もかもがアリエルことだと認識してしまっている自分に気づく。そして何度も繰り返される反転、反転・・・ そうなったなら、あなたはもうこの作品の虜となり、中井英夫=塔昌夫という人物によって捧げられた、一つの時代への大いなる供物を目にすることを避けられない。 そして読み終わった後にはぜひ、読む前にこの本自体に漂っていた雰囲気、ウワサから想像した性質、おどろおどろしい装丁に抱いた不安と恐怖がどのように変わったかに気づいてほしい。 その確かな読了感こそが、今度は我々読者に捧げられた供物なのではないだろうか。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
三大奇書と呼ばている本書。興味本位で読み始めたら、上下巻一気に読んでしまいました。独特の世界観、登場人物達の推理合戦、話の展開、とにかくオススメです。ほかの二つも面白いのかしら? | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
何回か読み返さないと作者の意図、物語の本当の真相は理解できないと思う。が読めば読むほど面白い本はそうザラには無いのでお勧めします。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
「日本三大ミステリ奇書」とか、「日本三大アンチミステリ」とか言われるので、 敷居が高いと思われがちですが、 読んでみたら普通に面白い、良質なミステリでした。 これ、「奇書?」という感じで、そんなに奇妙な作品でも無いです。 内容は結構、登場人物のキャラクターもあって、 コミカルタッチにも思えます。 ちょっと島田荘司の「斜め屋敷の犯罪」を思い出しました。 特に奈々村久生嬢のキャラクターが良いですw 最初の方、4人で推理比べをする場面があるのですが、 その辺が長くてなかなか一気に読み進められませんでしたが、 後半(上巻の後半辺り)になると先が気になって一気に読んでしまいました。 新装版で、文字も大きく読みやすくなっていますが、 1ページにぎっしり文字が詰まっている(改行が少ない)ので、 例えば京極夏彦の「魍魎の匣」、「絡新婦の理」などより実質のボリュームがあるかも知れません。 本の厚みの見た目よりもボリュームがあります。 綾辻行人や有栖川有栖、法月綸太郎など、 新本格派などの本格ミステリ好きなら間違い無く楽しめる作品だと思います。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
正直、最初読んだときはハズレかと思ったよ。 素人探偵がほっとけばよいのに事件に首をつっこむし、最初から最後まで登場人物の言ってることが突飛だし、久生や藤木田老のキャラが気に入らないし、アリョーシャが主人公のくせに影が薄いし(テレビドラマでは完全に消されたらしい)、 紅司、蒼司、藍司、とテキトーにつけちゃったんだろうなーと思われる名前の人物が出てきて時々ゴッチャになるし、(殺し方、殺され方が)あまりグロくないし、 黒死館と同じくペダントリーではあるけれども、黒死館はある程度纏まったペダントリーであるのに対し、虚無への供物はあちこち飛んでしまうペダントリーで、 最初の 1.サロメの夜 から 終章の 59.壁画の前で まで嫌いなタイプのミステリー(?)だった。 犯人が出てきても、途中から犯人なんかどーでもよくなっていたから、へぇ、そうなの といった感じだった。 しかし……最後の 60.翔び立つ凶鳥 で私は心を奪われた。「虚無への供物」に憑り憑かれてしまった。 「虚無への供物」が日本三大奇書では最後の作品であるからか、他の2作品のネタが入っちゃってます。でも…… 「ドグラ・マグラ」では作者(夢野久作)の力不足で結局表現できなかった、ストーリー自体のグロさ 「黒死館殺人事件」には無かった、文章、登場人物の人間らしさ(それも「黒死館殺人事件」を構成する一つの要素と思っていますが) 他の2作品に欠けてた表現が、「虚無への供物」では見事に表現されている!(かなり上から目線になってしまいましたw) 兎に角、途中で詰まらないと思っても我慢して、何度も読むべきです!! 「ドグラ・マグラ」とは違って、「虚無への供物」は2度、3度……と読む度に面白くなる。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
東野圭吾氏を始めとする今風(1990年代〜2012年現在)の推理小説、クリスティーを始めとする欧米の黄金期のミステリに慣れている読者には取っ付きにくい本だと思います。しかし、小栗虫太郎の「黒死館殺人事件」などの戦前の「探偵小説」ものを知っている人や、1950年代の社会状況に詳しい人には楽しめる内容だと思います。上記の「推理小説」の正反対や「アンチ」という意味での「反・推理小説」ではなく、社会批評の比重が大きい、推理という要素を使った小説、ぐらいに考えると入りやすいかと思います。 二冊に別れているので買う時に迷いますが、前後の推理小説、小説というジャンルを語る上でやはり「読んでおきたい」作品かと思います。そういう意味で上下で1,500円という文庫で出ているのは便利だと思いました。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
推理小説としての出来栄えもさることながら、 登場人物の魅力が冴えています。 白せきの美貌の蒼司、可愛らしい美少年の藍ちゃん、 白痴めいた美貌のおキミちゃん、 小生意気でお喋りだけどおしゃれな久生、 粋なのかユーモラスなのか分からない藤木田老…。 みずからを『黄色い部屋の謎』の名探偵ルレタビーユにたとえる牟礼田俊夫。 胴間声の関西弁が憎めない八田皓吉。 特に気に入っているエピソードは、 まったく本筋と関係の無いように思える 鴻巣玄次の生い立ちです。 絵描きになりたくて、でも厳しい親のもとでは夢を叶えられなくて… ついに罪を犯してしまう彼の悲痛な思いが胸に沁みました。 このように、本筋と絡まないところでも、この小説はすみずみまで魅力にあふれています。 ちなみに、わたしはあまりにも久生のファッションの描写が素敵なので 中井英夫さん(塔晶夫さん)は女性ではないかと疑ったくらいです。 本当は男性の方で、久生のファッションについては 女性のお弟子さんからアドバイスを受けていたと聴いて納得しました。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
何度読んだことだろうか。最初が三一書房版、講談社現代推理小説大系版、講談社文庫版、そして覆刻版を所有している。講談社文庫版はあまり繰り返し読んだために、何度か買い換えたものである。今までのところ、本作を超えるミステリには出会っていない。多分、これからも出会うことはないだろう。孤高の傑作である。 本新装版は分冊であるが、できれば全一冊の厚さを堪能してほしい。そして、その官能的なまでの文章に酔ってほしい。ストーリーに関しては述べない。いくらでも語ることはできるが。中井英夫、いや塔晶夫の悪魔的なまでのストーリーテラーぶりを堪能するのには、百万語を費やしても足りないくらいだ。 著者はアンチミステリとして本書を書いたようだし、一般的にもそのように認識されている。しかし、第一級品の本格ミステリである。昭和の息吹が痛いくらいに感じられる。「三丁目の夕日」なんかめじゃない。これこそが昭和を代表する文学だ。はたして、もう一人の昭和を代表する文学者である三島由紀夫の本作の評価は、非常に高いのである。実は本作は、三島作品と非常に似た雰囲気をもっている。具体的には指摘しないが、同じ空気を感じる。それは三島の虚無感というものだろうか。 しかし、けっして読みにくいわけではない。いや、むしろスラスラ読める。現代の若者たちでも、抵抗なくスピーディーに読めるであろう。しかし、そのペダントリィをきちんと理解するためには、ある程度以上の教養が必要なのもまた確かなことであり、そういう意味では読む人を選ぶ作品かもしれない。このペダントリィは小栗のものとは違い、けっして難解ではない。もし、この作品に狂気乱舞できる若者がいたら、実に嬉しいかぎりである。君は一生の宝物を手にしたのだ。 さて、この作品は誰に感情移入して読むかで、かなり評価が分かれるであろう。できれば「彼」に感情移入して、もう一度読み直してほしい。本作の評価が多分ガラリと変わるのではないかと思う。そのとき、目眩く中井ワールドの入り口が見え、ドップリと深みにはまるのである。 何度読んでも、いつも新しい発見がある。本作こそ、無人島に持って行く一冊にふさわしいものである。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
読み終わった瞬間は、正直なにがすごくてなにが奇書なのか「?」だった。だが、あとからボディブローのようにじわじわ効いてくる。こういう読後感は初めて。たぶん、この先の人生で何度か読み返すことになるであろう本。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
時折とりだして、適当なページからぱらぱらと流し読みを始める。気がつくと没頭していて結局全部読んでしまう。そんなこんなでもう十回は読んだだろうか。 ミステリ作家/評論家の笠井潔が『虚無への供物』を「起こらなかった殺人事件」をメインテーマに解題してみせたことがあったが、それはおおむね正しい。 『函の中の失楽』のミステリ作家竹本健治が、後に自作を「ミステロイド」(ミステリのようななにか)と定義づけて連作をものしたのは、実作者としていっそう正しい(下品だったけどネ)。 はりぼての日常を、無意味な風景を、陳腐な痴情を、極彩色の万華鏡に変える手法がここには描かれている。 読者は、万華鏡の無意味な色彩の乱舞に意味を見出そうとする。 でも、厚化粧の下の素顔は、どこにでもある、一度見ただけでは忘れてしまうようなありふれた顔。 それを「虚無」と呼ぶ。 小栗虫太郎『黒死館殺人事件』も、夢野久作『ドグラ・マグラ』も、そしてこの『虚無への供物』も、描かれているのは「大いなる嘘」だ。ただ、半ば無意識だった前ニ作に対し『虚無』は醒めきった眼で、冷徹に、スタイリッシュに嘘を配置した。『虚無』は読者を誘う。嘘を完璧に構築するための共犯者になれと。 これはミステリじゃない。アンチ・ミステリだって、最初からいってるじゃないか。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
「アンチ・ミステリ」という得体の知れないカテゴリの筆頭格で、『ドグラ・マグラ』『黒死館殺人事件』に並んでミステリ界の「三大奇書」にも名を連ねる、ノヴェレット・オリエンテッドな作者が塔晶夫の変名で初版を放った畢生の大著。 カスタマーレヴューの賛否の割れ具合を見ても、案の定そうした禍々しい枕詞とそれに喚起される底深い闇はもはやひとかたも残らず払われてしまった感はある。ミステリとしての読みを許容できるのは、「新本格」系の作家、殊に彼らの無機的なパズル性に悪感情を抱かない向きだけだろう。この作品での「アンチ・ミステリ」の形容に関わるラディカリズムは、後続がより構築性・人工性を高めた作品を放ったことで霞んでしまっている、というのが実情だ。実際に先述の「三大奇書」にも『匣の中の失楽』『生ける屍の死』『夏と冬の奏鳴曲』『姑穫鳥の夏』『奇偶』『暗黒館の殺人』など後発のいずれかを加える声も一部であるらしく(伝聞)、実際にそれらは「三大奇書」に対して意識的であるとはいえ、『虚無』を純粋な技法主義で見れば上回っているかもしれない。 しかし誤解を恐れず言うが、本作は「ミステリ」では断じてない。思えばミステリというジャンルはどういうわけか定期的にエポックメイキングな作品を生み出し、またそれによって自壊を迫られながらぎりぎりで踏みとどまるような、存在自体がアクロバティックな均衡の上で成り立っているもの。たとえば『ブラウン神父』にしても既存のミステリへの批評的な側面はあっただろうし、ミステリ要素を措いても一種のファルスか奇妙な味の系統の作品としても読める。それと同様に本作は既存のミステリへの問題提起を(作為か無意識かは問わず)孕みながら、同時に極上の幻想文学であったと言える。ここではミステリ要素は『物語』の部屋の中で非常に目立つ調度品にすぎず、主眼はあくまでもこの透明な眩暈感を催させる構造や、人によっては空々しくどぎつく感じられるような色彩、時間と空間の限定された具象性を備えながら純観念的ともいえるワールドスケープ、そしてそうした仕掛けを可能にした澄明な文体の妙にあったのではないか。しかも幻想文学が幻想を批評するような側面をも持ち合わせていた、そういう意味では後の「メタミステリ」を先駆けていた気もするが、それも強引な後付けにすぎないだろう。 SF的ですらない殺伐と沈滞する現代のアーティフィシャリティへの返答として、また有機的な人工性をたたえた稀有の幻想文学として再読されるべき名作。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
登場人物の会話で成り立っているので、読まずにはいられないし、真剣に読んでいると振り回されてしまう。この手法にはやられました。後書きを読むと、三島由紀夫をモデルにした人物も登場していることがわかります(名前を発音すると母音が一緒)。また美輪明宏を参考にしたのではないかと思われる人物もいます。ゲイバー、シャンソン、ファッション等日本の戦後復興の時代を彷彿をさせるものであふれています。それが作者の色彩描写とマッチして、目の前にありありと想像できます。しかも今読んでも一向に色あせない。また、単なる推理小説というよりも、社会批判もしています。個人の殺人は罪になるのに、政府推奨の毒入り流通米はなぜ罰せられないのかという疑問や、目の前で死んでいるひとを写真にとってマスコミに流すという人間の無神経さなどは、現代の食の偽装問題や秋葉原通り魔事件にも通じています。しかもそれらは特定の人の問題ではなく、私たち一人一人がどこかで関わり、同じことをやりかねないとも作者は言っています。「いまの時代では、とにかく、ぼくたちは何かに変わりつつあるのかも知れないね。人間じゃない何者かに。一部分ずつ犯罪者の要素を持った生物というか・・・。」というセリフはそういう意味でとてもリアルです。人間は過去から学ばねばならないのにいつまでも同じ過ちを繰り返している愚かさを感じました。そしてこの小説のどこか妖しい美しさに惑わされてがんじがらめになっている自分も・・・。 | ||||
| ||||
|
■スポンサードリンク
|
|
新規レビューを書く⇒みなさんの感想をお待ちしております!!