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星落ちて、なお
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星落ちて、なおの評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.16pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全31件 1~20 1/2ページ
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巨星河鍋暁斎の娘・暁翠の生涯を描いた作品。 本書を理解するうえでは、まず河鍋暁斎記念美術館(埼玉県蕨市)に行って、彼らの作品の実物に触れてみることをお薦めします。 住宅街の小さな美術館ですが、カフェも併設されており、じっくりとその世界に浸ることができます。 父である河鍋暁斎は、狩野派の伝統的技法を基盤に、中国画、西洋人体図に至る数々のテクニックや視点を身に着け、風景画・戯画・人物画・妖怪画など、ありとあらゆる作品を世に出した「画鬼」、当時の最高人気作家でした(現代ではあまり伝わっていませんが…)。 攻めに攻めた画法やモチーフは、現代人が見てもギョッとするものが溢れています。 一方の娘・暁翠は、狩野派を受け継ぎ、美人画や雑誌の挿絵などを手掛けるとともに、一門の統率、弟子の育成、美術教育(女子美大の教授)にも携わります。 しかし、これらは全て「守る」行為であり、好き勝手攻めばかり続けられた父に対し、娘であり女である自分を対比しながら、忸怩たる思いを抱いていた暁翠の様子が本作から伺われます。 そして、何かを守りながらも最高のパフォーマンスを示そうとした暁翠の心意気には、胸を打たれるものがあります。 ただ、この攻めと守りのコントラストは、二人の作品を通じて感覚的に理解できると思われるので、本作はドラマや映画にした方がよりよいと感じました。 | ||||
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画壇のこだわりがわかり面白かったです。 | ||||
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中身は読んで分かった | ||||
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作者である澤田瞳子の作品を拝読するのは今回が初。完全に前知識無しでタイトルから受けた何かしらの予兆みたいな物に引っ張られる形で手に取った次第。 物語は明治22年、幕末から明治前半にかけて「画鬼」と呼ばれ、狩野派の流れを受け継ぐ天才絵師として知られた河鍋暁斎の葬儀の場面から始まる。暁斎の弟子たちに気を使われながら葬儀を済ませた暁斎の娘・とよ(後の河鍋暁翠)は弟子たちから「周三郎さんはどこへ?」と尋ねられる。 長男であり喪主を務めねばならない立場でありながら精進落としの席を中座したまま姿が見えなくなった兄の周三郎が本郷に建つ別宅に戻ったものと当たりを付けたとよは弟弟子の様な八十五郎を連れて本郷へと向かう。 だが、本郷でとよを出迎えた周三郎が描いていたのはとよが角海老から受けた仕事で「姐さんの仕事を横取りか」と色めき立つ八十五郎をよそに周三郎はとよの才の無さを論う。自分にも暁斎に比肩するとまではいかずともまともな絵が描けると反論するとよだったが、追い打ちを掛ける様に周三郎は「親父はお前を歳を取った自分の世話をさせる為に絵を仕込んだのだ」と北斎の娘・応為と変わらぬと吐き捨てるが…… 「あるべき家族の在り様」とは何か?この作品のテーマは紛れもなくそこにあるのではないかと。平凡な家族とその愛情の中で育ったであろう一般人ですら悩むこの大問題を、天才絵師として知られる父親とそんな父親に対する愛憎と才では全く及ばないコンプレックスを抱えながら生きざるを得なかった一人の女性絵師が一生涯に渡って向き合い続けた姿を描く作品、この作品のコンセプトを簡潔に伝えようとするならその辺りに落ち着くかと。 主人公のとよ=河鍋暁翠についてはろくに知らなかったので調べてみたら明治後期から大正年間に活動した女性絵師らしく、本作の表紙を飾る「五節句之内 文月」も彼女の作品であるらしい。 物語の方は上でご紹介させて頂いたとよの父親で「画鬼」と呼ばれた天才絵師・河鍋暁斎の死から始まりタイトルの「星落ちて、なお」もこの巨星が堕ちた後にも遺され、とよを振り回す事になった暁斎の影響を指すものかと思われる。 ……世の中「二世」「二代目」と呼ばれる人々が「しょせんは親の七光り」「親には及びもつかぬ」という色眼鏡で見られる事が多いものだけど、幸いにしてとよを取り巻く人々は善人ばかりで表立って嘲笑する様な手合いは登場しない。だが、表立って「七光り」と嘲笑されなくても親と同じ道に進んだ自分の才能が全く及ばないという事実は時に嘲笑以上に傷を負わせる事もある。 その象徴たるエピソードがとよの結婚生活であろうか。弟子の一人が世話をしてくれた結婚相手は明治時代においては奇跡ともいえるぐらいに「理解のある男性」なのだけれども、この時代に「好きに生きてくれ」と示す愛情はとよを全く救わない。 夫から理解と自由が与えられてもとよの胸のうちに湧き上がるのは「この人は優しいけれど自分が逃れられない画業の辛さを理解してくれない」という孤独感と絵師と一般人の間に横たわる絶望的な距離なのである。冒頭でとよを葛飾北斎の娘・応為に準えた兄の周三郎が「あの親父は俺たちにゃ獄だ」と吐き捨てた様にとよは物心着く前に絵師に仕立て上げられそこから逃れられない身であり自身が他人に理解して貰える「普通の人」では無い事を繰り返し突き付けられる。 そして本作においてこの孤独は家族という枠組みを通じる形でとよを苦しめ続ける事に。赤い血ではなく、墨で繋がった暁斎や周三郎以外には理解者がいない絵師の孤独をとよは家族を得る事で埋めようとするのだけど、家族としての愛情を知らない自分にどんな家族が作れようかという悩みは長年にわたってとよを苦しめ続ける事に。 とよは別れた夫との間に娘を授かり女手ひとつで育てようとするのだけど「自分の酷い人生を繰り返す事だけは避けたい」と娘を絵から遠ざけようとして、それがまた娘を、とよを苦しめるタネになるのだから何とも救われない。 人として、母として理解者が得られないのであればせめて画業だけでもとよの味方であれば良いのだけれども明治の、文明開化の時代は暁斎が学んだ狩野派の技法を「古臭い」と当の絵師たちも含めて切り捨てる方向へと進み続けるのだからとよの孤独は深まるばかりなのである。 ただ、面白い事に本作で描かれるのはとよを含めた河鍋の血筋だけでは無い。暁斎の弟子であり、とよの弟弟子みたいな八十五郎も大手酒問屋の旦那でとよのパトロン的な立場でもあった清兵衛も家族を設けるのだけれども、その人生は順調とはいかない。時に婿として入った家を追い出され、あるいは妻を大いに傷付けることとなり例え一般人であっても幸福な家族を作り上げるのは容易では無いのだと繰り返し読者に訴えかける。 ただ、そんなイザコザだらけで上手くいかない事が当たり前の様な諸々の「家族の問題」は本作におけるとよの立場を想えばどこか「救い」になっていたかもしれない。要するに「一般人ですら思うに任せないのが家族なのだから、まともでない育ちの絵師が家族の問題で悩むのは当たり前だろう」ってな訳である……周りが完璧超人ばかりであるよりはダメっ子、ドジっ子がちょいちょい居た方が気は楽でしょ? その意味で本作は選択の余地もなく絵師にさせられてしまった、まともな愛情など受けようも無かったとよの救済の物語であると言えるかも。一般人には理解して貰えない絵師と言う生き方しか出来ない自分の需要に至るまでの過程こそが本作を通じて作者が描きたかったものではなのかと本を閉じながら思わされた次第。 追記 それにしても大芸術家の子として生まれ、父に愛憎を向けながら(どっちかと言えば憎が多め)いざ結婚したら自分が嫌っていた父そっくりだったと気付かされるあたり、とよのモデルって「美味しんぼ」の山岡士郎なんじゃないのかと密かに思っていたりする。 | ||||
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再読 前回はストーリー展開に気持ちが行ったが 今回は、絵描きが、いかに時代の寵児ともてはやされようと、 いつかは傲慢な新人たちに時代遅れだとか懐古趣味だとかいわれ 人心も離れ値段も下がってゆくという残酷な有様がとても良く解った。 かつてどれほど多くの人の目を驚かせ喜ばせたのか 彼の絵が移ろいやすい世人から侮られ、謗られ忘れ去られた今でも 河鍋暁斎という画鬼の恐ろしさ素晴らしさを、自分だけは知っている P317 河鍋暁斎しかり橋本雅邦、栗原玉葉しかり。 100年後の今でこそ皆有難がって高価な値で売買されていてもそんな事は当事者は知らぬ事。 みんなそのような目に会ってきたのだ。 ルネッサンス時代の絵画でも今でこそのものだ。 そんなことを思ったらなおさら鹿島清兵衛の 「結局人はあの世に何も持っていけないのですよ。ならせっかく生まれたこの世を楽しみ 日々喜んで生きたほうが息を引き取る瞬間納得できるじゃないですか。 それは決して絵や能には限りません。漁師もお役人も商人も・・ この世のすべてはきっと自ら喜び、また周囲を喜ばせられた者が勝ちなんです。P314」 勝ちはともかく結局はこんな生き方が一番幸せなんだろうと思った。 | ||||
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とてもおもしろかったです。 偉大すぎる父を持ち、「一門」という重たい看板背負わなければいけない立場、いずれもわたしには縁遠い話かなと思いきや、キャリアウーマン(明治大正という急速な時代の変化の中で、絵師という仕事に生きる女性)の苦悩、という観点で、「わかるー」と思えるところがたくさんありました。 | ||||
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読後の感想は、「つまらなかった」。 河鍋暁斎の娘、とよが、父、あるいは兄との関係性についてわだかまりを抱きつつ、その流儀を変えずに画家として生きていく様を綴った小説だが、あえて分類するとすれば、これはエンタメ小説ではなく、時代背景を明治大正時代とした純文学の範疇に入るのではないかと思う。 徹頭徹尾、とよが父や兄の存在におびやかされ、親子とは、兄弟とはの自問自答を何度も重ねつつ物語が展開していくが、内容は至極平坦であり、正直、読んでいて退屈した。平坦だからいけない、ということではない。ときどき挿し挟まれる比喩表現や言い回しが私には的外れに感じられることが多く、共感できない部分が多かった。 しかも、とよとの関係性が稀薄な人物とのエピソードがしばしば切り取られ、それに多くの紙数を割いて記述するほど大げさなものなのだろうかと首をひねる箇所も多く、最後まで合点がいかなかった。 さらに、例えばとよに終始付き従い、まるでとよの家僕のように滅私奉公するりうという登場人物の人生を、とよはどう思っているのだろうか、といった点も気になった。りうをどこかへ嫁がせようと働きかけるとか、りうに感謝している、あるいは、りうに申し訳ない、といったとよの心情を述べた箇所は一切なく、りうがとよにとって、ただ都合のいい道具に過ぎないように感じられ、違和感を抱いた。 好みの問題なのかもしれないが、私はこの小説を好評価することはできない。 | ||||
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毎章、終わり方がとても惹きつけられた。 どきどきしながらページを捲るのは久しぶりで、とても良かった。 重いような場面でも読み易く、するする読めた。 | ||||
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本書の主人公は、幕末から明治にかけて活躍した日本画家の河鍋暁斎の娘、とよ(河鍋暁翠)である。 物語は当時22歳だったとよの父暁斎が亡くなった明治22年に始まり、その後日本画に対する価値観が激変する中で、暁斎の娘という看板を背負ったとよがどのように生きたかが描かれる。 利己主義で家族を顧みない兄の周三郎(河鍋暁雲)との葛藤、時代遅れとされた狩野派から親しい人までが距離を置く中で感じる孤独など、読んでいてつらい部分もあるが、それでも読み進めてしまうのは、とよの不器用でもまっすぐな生き方に共感してしまうからだ。 主人公だけではなく、暁斎の弟子で、暁斎の死後とよの面倒を見た豪商の鹿島清兵衛を始め、脇役として登場する人物たちの生き方もしっかり描かれ、味わいのある素晴らしい作品であった。 | ||||
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人はなんのために生まれてくるのか‥、そして偉大な父と同じ道を歩む娘(河鍋暁斎)はなぜ茨の道を選んだのか‥その答えがエピローグにある。父や兄への憎しみが、澄みきった煌めきに変わるまでの長い道のりが丹念に描かれている。諦めずに読み進めて良かった。読了したあとなぜか泣いた。主人公の絵師、河鍋暁翠にお疲れさま、と心から声を掛けたい。 | ||||
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初めての作家の作品を読了。直木賞受賞作品ということもあり。なんでこれを題材にしたのか、全く内容が入って来ない。主人公に興味がわかない。流し読みで終わり。 | ||||
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●明治22年から始まった物語はおよそ10年おきに描かれている。本文での主人公とよの話より、む しろ描かれていない10年間の方に大きな出来事や時代のうねりが生じている様子。著者はあえてそ の部分を割愛して、本文のストーリーを濃密にすることにより主人公の心模様を活写している。 巨星落ちてなお心を縛られる”とよ”の懊悩。偉大な父の後ろ姿そのものが、とよへのマインドコン トロールだったのかも知れない。絵に対する姿勢は揺るがないが、夫婦とは親子とはを模索する心の 動揺があまりにも切ない。 残念なことは、開巻後しばらくすると感じる既視感である。偉大な絵師である父を持つ子供たちの 苦悩や身内の者たちとの軋轢。加えて女性主人公から見た視点などなど、朝井まかて「眩くらら」の 主人公・応為の姿と強烈にダブって見える。読書中その影が纏わりつきます。もし本書を先に読んで いれば★5だったと確信します。 | ||||
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入口は読み辛い文章だったが、後半からは内心を惹き付ける奥深い味わいのある作品と思う。 | ||||
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昨年読んだお気に入りの1冊。 やはりの展開もあるけど、昔の絵画の立ち位置や、画業の生業がよくわかって、りあるであり、大変参考になった。 | ||||
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創作の葛藤 家族との関係 己の絵を描くために選ぶ道 他人には理解出来るものではないことを知り なおも筆を執る方を選ぶ画人。 幾重もの苦難に遭っても 決して絵への想いを絶やさない。 輝き失せても、なお 絶やさぬ想い。 永遠に失せない 澄みきった煌めき。 絵を描くことを心に決め 生きていく主人公の生き様。 そこに常に家族への 割り切れない想いがあり 自分自身を振り返えり また歩き出す物語。 とても面白かった。 | ||||
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これまで澤田さんの本は何冊か読んできたが、どの作品も自分の暗部を鈍器で殴られているような痛みがあり、読んだあとは必ずと言ってよいほど自己嫌悪に陥り、発狂した。 しかしこの本の文章は、初めから優しく暖かく柔らかい印象を受けた。 最近の澤田さんの顔も柔和な感じがするから、何か心境に大きな変化でもあったのだろうと推測する。 この小説の主人公とよは、私と祖母を足して二で割ったような人物だ。兄にいじめられ、しかしその才能に憧れ、対抗心を燃やしているという点では私に、そして我慢強いという点では祖母に似ている。私にも祖母のような我慢強さがあればいいのだが、どうも拙速で自制の利かないところがある。 ただ、とよと兄周三郎との間にあったような愛憎入り乱れる絆は、私と兄の間には希薄だ。こう言ってしまってはとよたちに失礼だとは思うが、私はとよと周三郎が羨ましい。私と兄は力の差がありすぎて、喧嘩したくても私が一方的に批判され、抑えつけられてしまうのだ。二歳しか年が変わらないのに。 「この世を喜ぶ術をたった一つでも知っていれば、どんな苦しみも哀しみも帳消しにできる」という言葉が作中に出てきたが、私の場合、その楽しみの一つは恋愛である。私の人生には苦しみ・哀しみが多いが、連れ合いと楽しく戯れているときは気を紛らすことができる。連れ合いと出会えてよかった、この本を読んでよかったと心から思う。 とよが父の人生を語り伝えたように、私も連れ合いの死後、彼の人生を、思想を語り伝えたいと思う。そしてもちろん、自分の人生・思想も。 光も闇も私の一部なのだから、包み隠さずすべてを語らねばならない。 | ||||
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不世出の絵師・河鍋暁斎の娘として生まれた「とよ」の、絵師としての人生の葛藤を描く。父は「狩野派」の手法を身につけながら、自由爛漫な絵を描ける偉大過ぎる父親の子として生まれ、父親は画鬼と言う様な、すべてをそれに注ぎ、それ以外のことは眼中にないような、絵については厳格な人物であり、家庭であった。そういう父親だったから、子供を見る目も、親子と言う関係ではなく、自分を継げる子供(4人)は誰かと言う師弟の関係でしか子供たちを観ない。そういう環境で育った長男と長女(とよ)、弟、妹であるが、長男と弟は養子に出され、妹は早く死ぬ。家に残ったのが「とよ」である。こういう家庭に生まれたのは運命であり、長男と「とよ」は、父親を超えようと頑張るが、その父が死に、重く絵師としての家を守るという思い任務と言うか責任と言うか、「獄」に繋がれているような長男も「とよ」も、そういう認識を共有する。どう頑張ったとしても、とてもじゃない、父親の域には行けないことを十分すぎるほど自覚するが、逃げ出せない。逃れられない意識に雁字搦めになっていて、その苦悩は大きい。 また、時は、明治から大正であり、時代が大きく変わり、いろんな価値観も変わっていくが、父親の古い多彩だが、基本的に狩野派に基礎を置く父の画風や手法を継いでいかなければならないと、肌に刷り込まれている。その葛藤もある。 ただ、私が一番強く感じたことは、タイトルにしたように「親子ではなく、師弟としての人間関係しかなく、絵がすべての関係性である。したがって、親の子として愛されることもなく、ために、長男も「とよ」も互いに対抗し合う関係、意識であり、本当に人を愛することが出来ない人間になっていることの一人の人間としての葛藤が強く印象に残る。「愛を知らない人間は孤独であり、幸せではない」という事が、大きなテーマとしておかれているように感じた。しかし、実際は偉大な絵師の息子、娘に生まれたがゆえに、其処から抜け出せない現実の自分がいる。 帯に「家族ってなんだ?と思わず我が身を振り返ること必至」とある。帯には、その他いろいろ書いてあるが、想像するに発行する担当者たちの意見をそれぞれ載せているのではないかと思われる。その中で、私の感想に近いのは、この言葉である。 | ||||
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まず、セリフの江戸言葉だけでなく、地の文も「~とて」や「~なれど」など古文調の表現が多く、ふだん時代小説を読んでいない自分には、非常に読みづらい。 内容についても、時代遅れとされつつある河鍋派を継ぐ者としての責任と、天才絵師の父に遠く及ばない己の実力、人生の全てを絵にかけた兄との気概の差に悩む河鍋とよの葛藤を描いたようであるが、絵師の人生を扱っている割には、とよが描いた絵についての細かい描写や、とよが悪戦苦闘しながら描いている光景の描写がほとんどなく、絵師の「産みの苦しみ」というものが全く伝わらない。 全体的に重厚な作品で、安っぽいお涙頂戴がないのはよいが、感動できる部分もなく、直木賞作品としての期待は裏切られたというのが率直な感想である。 | ||||
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明治22年春、画家・河鍋暁斎が物故し、娘のとよが野辺送りを済ます。とよ自身、河鍋暁翠と号す画家だ。兄で画家の周三郎とは折り合いが悪く、また弟の記六は芸術の道に精進する気力を見せない。画鬼と称された父の一門を、とよは双肩に背負うことになるが……。 ------------------------------- 今年2021年上半期の直木賞受賞作です。 偉大な父の影にあった女流画家の明治から大正にかけての半生を描く小説です。 鬼才と呼ばれた大きな存在である父に、幼少のみぎりから絵のてほどきを受けたものの、果たしてそれが自らの意志によるものなのか。また父は、慈愛を注ぐ娘としてではなく、単なる使い勝手のよい助手的な弟子として育てただけではないかという、大きな疑念を持ってとよは生きることを強いられます。その思いは、とよに歩み寄るつもりはない兄・周三郎とて同じです。 「あの親父は、俺たちにゃ獄(ひとや)だ」(183頁) 「周三郎の言葉は正しかった。暁斎は獄、そして自分たちは彼に捕らわれた哀れな獄囚だ。絵を描くとはすなわち、あの父に捕らわれ続けることなのだ」(184頁) 「今となっては、父に対する周三郎の――そしてとよの愛憎だけが、自分たち兄妹と父の絆なのではあるまいか」(208頁) 父に対するわだかまりのみが、家族をつなぐという不思議なパラドクスがそこにはあります。 絵筆をとることが義務感と負担感しか与えない懊悩の業と化したとよの人生のなんと辛いことか。 そのとよを襲う大正12年の出来事の描写のすさまじさは忘れがたいものです。心が折れる思いを味わいながら頁を繰ることになります。 しかし作者の澤田瞳子氏は、そこで筆を置きません。とよ自身、筆を握りつづけることが、父の遺志を継ぐという娘の責務に終わらないことを悟っていきます。後段の筋運びは実に見事です。 なかなか凄い小説を読んだ。そういう思いを抱きながら書を閉じました。 ------------------------------ 女性画家に関する以下の書を紹介しておきます。 ◆乙川優三郎『 冬の標 』(文春文庫) :末高明世(まつたかあきよ)は幕末の上士の家に生まれ、幼いころに南画塾の塾生となる。絵描きとなる夢は高じるものの、おなごは嫁してこそ、の世の習いで馬島という名の家に嫁ぐことに。家を守り、夫と舅姑に尽くす日々を送りながらも、絵への熱は冷めることはなかった。画塾の相弟子、平吉と光岡修理との交流は細く長く続いていたが、それも保守派と勤王派の争いの中で大きく揺らいでいくことになる……。 . | ||||
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画鬼と呼ばれた江戸から明治まで活躍した絵師の河鍋暁斎(かわなべきょうさい)。当時は偉大な絵師であり弟子も多い。本作品は、暁斎の娘である河鍋とよ(河鍋暁翠)の視点で暁斎の没後の人間模様を描く。とよと暁斎の関係、とよと義兄である周三郎(暁雲)との関係は血のつながりなのか絵を介したつながりなのか、とよの心情を明示から大正十三年まで一貫して描く。タイトルの「星」は暁斎や周三郎を表しているのだろう、二人が亡くなった後も絵は残り、とよの人生に影響を与える。芸術の罪深さを感じるとともに、芸術が残せる大きなものを読み取った。 | ||||
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