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沈黙
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【この小説が収録されている参考書籍】
沈黙の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.41pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全337件 21~40 2/17ページ
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長崎に訪れる機会があったら、これを読んでからだと、さらに旅行が楽しくなるでしょう | ||||
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初めて純文学の本で面白いと思えた本である。夢中になって読んでしまった。 神とは、信仰とはなんなのか。どれだけ祈ろうと願おうと現実はあまりにも残酷で冷酷である。主はずっと沈黙を貫いている。なぜあなたは何も言わないのか。口を閉ざすのか、沈黙を貫くのか。あなたはいるのか。 宗教とは何なのか、とても考えさせられる。 舞台はキリシタン弾圧下の長崎。日本での布教を目的にイエズス会から2人の司祭が長崎に上陸する。 自分も歴史は割と好きで個人的にフラッと調べたりするけど基本的に自分は日本の奉行寄りの考えでキリスト教の布教や宣教師に対していい思いは持っていない。 免罪符の販売でルターから批判されて自国で信者を失って焦って食い扶持と権力を絶たれることを恐れたイエズス会本部の肥えたおっさん達が、若い活力のある宣教師達にハッパをかけて危険な海外布教に行かせて、命令した本人達は自国で踏ん反り返り、野心に燃えて布教に行った宣教師達は酷い目にあう、そんな感じだったんだろうなきっと。 歴史を紐解くとヨーロッパ諸国の常套手段で 宣教師が来て信者を増やす→商人が行って市場を掌握する→最後に軍隊が行って植民地化する。 という流れで植民地を増やしていったらしいけど、日本は島国であり、そしてそう簡単に行くほど日本人は馬鹿じゃなかったから植民地化はされなかった。 本だけを読むと宣教師が正義で日本奉行側が悪のように描かれてるけどその背後の歴史まで知ってから読むとまた見方が変わる。植民地化する一歩目を歩もうと日本に入ってきた憎き宣教師に対して棄教すれば日本での住居と妻を当てて生活の面倒まで見るって言ってくれてるんだからかなり良心的だと思う。 いろんな見方ができて面白い。 | ||||
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ヨイ商品でした。 | ||||
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中学生の子供のために購入。世の中の理不尽について学んでほしい。 | ||||
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これも利用したいです。 | ||||
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宣教師の思い、農民信者の基督教に対する理解度、幕府が弾圧しなければならない理由が良く理解出来る内容です。 | ||||
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2022年9月11日読了。 踏む場面はもちろんのこと、かつて師と仰いだフェレイラが変わり果てた姿で自己否定に走る、そのうえでロドリゴと問答していく場面がなんとも虚しい。 棄教は自分の信じるもの、生きがいを捨てること。 なにも殉教しなくてもと思うかもしれないが、既存の仏教などで救われぬ人々が新しい宗教に助けを求めるのもまた自然なのだろう。それを棄てることは、自分を自分で焼き捨てるも同然。 身のつまされる思いのする作品。 | ||||
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永遠の名作 | ||||
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前半は名作「沈黙」の裏話を散りばめつつ、軽い文体で西欧キリスト教の表象について解き明かし、日本人の常識と西欧キリスト教の違いや、キリスト像も時代につれて変遷する事などを取り上げています。 しかし。 「母なるもの」の章で、文体は一変します。 長崎県浦上町の隠れキリシタンを訪ねる旅の話ですが、この一章は本格的な短編小説として屹立しています。 冒頭の研ぎ澄まされた簡潔な文体による船着き場の描写の数行から、著者がこの一章を渾身の思いを込めて書いている事が伝わります。 岸壁に打ち寄せる波の音や漁村に沁みついた魚の匂いまで感じられる風景描写、長崎県浦上の隠れキリシタンと「私」自身の母の思い出を交互に描出していく緻密な構成に、著者の卓越した技量を味わえます。 (もちろん、ここに描かれた私小説的な「母」を事実と考える必要はありません。) 今は亡き「私」の母、母の遺品の戦災に焼けた「哀しみの聖母」像の面影は、隠れキリシタンの納戸神、「胸をはだけ、乳房を出している、この島にどこにもいる女たちの顔」をした聖母像へと繋がります。 「この涙の谷にて」という隠れキリシタンのオラショは、旧約聖書の詩篇を連想させます。 そして、 「むむ 参ろうやなア 参ろうやなア パライゾの寺にぞ、参ろうやなア」 という長崎県浦上町の次郎さんの唄は、「沈黙」のあの名シーンに出てくる唄です。 この渾身の短編小説は、前半部の一編一編のテーマと密接に響き合っています。 この一冊を通して 名作「沈黙」の遥か彼方に響いている「声」を読者は感じ取る事ができるでしょう。 (ちなみに、まったくの私見ですが、日本人は母性的な観音信仰だけで生きてきた訳ではない気がします。戦乱、病魔、災厄、人間の力だけではどうにもならない数々の苦難にあえいでいた日本人は、毘沙門天、不動明王など、外敵を打ち払い、災厄から守ってくれる力強い仏像も信仰していました。日本人の信仰には、災厄や魔から守ってくれる父性的信仰、観音像に象徴される母性的信仰の両方が存在していた気がします。) 本書「父の宗教、母の宗教、マリア観音について」の章で、著者は 「新訳聖書は、むしろ「父の宗教」的であった旧約の世界に母性的なものを導入することによってこれを父母的なものとしたのである」と言っています。 旧約の時代は、血で血を洗う復讐を繰り返す時代でした。その時代に、守らなければならない明確な行動規定としての律法、「父の宗教」は必要だったのかもしれません。 しかし新訳の時代に「母性的なものを導入することによって、父母的なものとなった」と著者は言っています。 日本人の魂にも、父性的信仰と母性的信仰が存在し、さらに「父母的なもの」超越的な信仰があったのではないでしょうか。 | ||||
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親に頼まれて注文しました。 | ||||
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映画の予告を見て気になり、先ずは原作をと思い購入。 非常に考えさせる内容でした。 もしも、この映画をみようとお考えの方がいらっしゃいましたら、私はこの小説を読んでから観る事をお勧めします。 | ||||
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当時は日本人は奴隷にして西洋に売られていた?しんりゃくの為のキリスト教だった。 | ||||
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要領の良い宣教師たちの心の揺れ動きがもっと有ればよかった。 この書籍の隠れキリシタンは随分と酷い目に遭っていますが、実際は役人に守ってもらっていた隠れキリシタンもいたそうです。踏み絵に関してもプロテスタントの人は割とあっさり踏んでいたとも聞きます。 | ||||
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話には聞いていましたが、随分と経って今ようやく読みました。 軽妙にて精緻な文体はまるで古さを感じさせません。驚くべき解りやすさと理解させる力があります。今年の新作だと言われても通じる文筆力はまさに驚異。これが数十年前の作品と思うと恐るべきことです。 さて、私はクリスチャンです。そしてこの作品に全く同意できます。都合のいい神ではない。死ぬ時にこそ恵は完成される、という事でしょうか。人の作りし教会よりも、一人の信心にこそ神は宿るという事なのでしょう。全く納得できる事です。 | ||||
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ようやく手にとった。 日本がキリシタンを弾圧する中、現地に赴いている布教使が「ころんだ」(踏み絵を踏んで棄教の意を示した)と聞いたロドリゴは、自分はそうはならぬと思いながら苦しい海路を経て日本にたどり着く。隠れるように過ごし、司教である彼らに儀式を求める日本人の信者たち。ロドリゴは、「なぜ神は沈黙しているのか」そう思いながら、彼のために命を捨てていく日本人信者たちのむごい最期を見ていく。 この小説は、キリシタンの話であって、なぜか日本的、自分には浄土真宗的に読んでしまうものがある。これが遠藤周作の宗教観を反映しているところなのかと思う。 自分はキリスト教の教義をよく知っているわけではない。しかし、この物語の中で、「これがないと生きていけない」という人たちの姿は、尊いというか、自分自身の大事なところに切っ先をつきつけられているような気持ちで見るしかなかった。自分は考える。「なにが正しいのか」それは宗教的ななにかを軸としての正しさを考えて登場人物を見てしまう。なんという傲慢な読み方だ。でも読者の自分はそれしかできない。宗教的な正しさって正しいのだろうか。ロドリゴと同じように自分がガタガタに揺すられる。ロドリゴが揺さぶられるのはきっと自分が感じる揺れより激しいのだろう。 キチジローという登場人物がいる。詳細はストーリーに関わるので省略するが、ロドリゴが蔑んでみるような行動をする人間だ。この人物は、どうしてもロドリゴの行く先に現われる。執拗に。苦難があっても現われる。共にあったのではないか・・・と感じる。 ”自分が闘ったのは自分自身の信仰にたいしてだった” ロドリゴの言葉。自分が必死で堅く信じて守っていくことと、赦し。自分が見せられてきたのはこの物語だ。正邪の区別が出来ない物語を見せられていたのだ。 メインのストーリーとは離れて思うことがひとつあった。日本のキリスト教は日本において別のものになってしまっていたという話。それが本当かどうかわからないけれど、堅く信じた人たちだけの間で「これが正しい」と狭い狭い世界に閉じこもっていたならば、変質してしまうものはあると思う。自分はこれをたまに今の仏教においてもみている気がする。なんだかそういうことが重なって、そのタイミングでこの本読んでしまったのだ。宗教の力というのは、自分になくてはならないかもしれない(断言が出来にくい)が、同時に畏れを感じている。 タイトルの「沈黙」は、ロドリゴがこの物語の中において静寂に身を委ねるときに考えていること。最初は、次々と迫害されて死んでゆく信者に救いの手が差し伸べられないという意味を含んでいた。でもこれは静かだということじゃなくて、なにかが聞えそうなのに聞えないことなのかなと最後は思った。わかりそうでわかれないもの。 人間がなぜ宗教を必要としているのか。その本質を明確に言い当てるのではなく、読み手の中にいろんな衝撃を与えることで思考のスタートを促しているような本。このキャラクターはこうだって判断出来ない。自分はこんなにも他人のことがわからない。そのことも絶望的に思うのだった。本当にわからない。 | ||||
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遠藤周作はもともと、この作品に「日向の匂い」とい題名を考えていたが、編集者の申し出によって「沈黙」という題名になった。 この作品のラストは、踏み絵を踏んだポルトガル人司祭ロドリゴの、この言葉で結ばれている。 「そしてあの人は沈黙していたのではなかった。たとえあの人は沈黙していたとしても、私の今日までの人生があの人について語っていた。」 この作品には、西欧キリスト教的な完全なクリスチャンは出てこない。 殉教を遂げた農民モキチ達の信仰さえ、ポルトガル人司祭ファレイラから見れば、「この国の者達があの頃信じたものは我々の神ではない。彼等の神々だった。デウスと大日と混同した日本人はその時からわれわれの神を彼等流に屈折させ、そして別のものを作りあげはじめたのだ」 しかし、この作品世界の中では、その不完全なクリスチャン達の一人一人に、「あの人」イエスの呼びかけや働きの痕跡が残されている。 水磔に処せられた青年モキチは、息たえだえに切支丹の歌をうたう。 参ろうや、参ろうや、 パライソ(天国)の寺に参ろうや 日本信徒の殉教は、西洋人ロドリゴが夢みていた輝かしいものではなく、みじめで辛く、讃美歌も日本風であったが、紛れもない殉教であった。 「この国は沼地だ」と日本布教に絶望して踏み絵を踏んだファレイラ司祭も、暗黒の牢獄の壁に「LAUDATE EUM (讃えよ、主を)という文字を刻んでいた。 司祭を裏切り踏み絵を何度も踏む臆病者キチジローは、それでも最後まで司祭ロドリゴから離れず、江戸でロドリゴが死ぬまで彼に仕え続けた。 そしてロドリゴ司祭が踏み絵を踏む時、司祭に向かって、銅板の「あの人」は言った。 「踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。私はお前に踏まれるため、この世に生まれ、お前たちの痛さを分かつため十字架を背負ったのだ。」 「強い者も弱い者もないのだ。強い者より弱い者が苦しまなかったと誰が断定できよう」 モキチ達にも、キチジローにも、ファレイラやロドリゴの上にも、この小説の中で、「あの人」の呼びかけの痕跡が、くっきりと見られる。 「あの人は、沈黙していたのではなかった。」 この小説世界の中では、すべての登場人物に (だがその足の痛さだけでもう十分だ。 私はお前たちのその痛さと苦しみをわかちあおう。そのために私はいるのだから) と呼びかける「あの人」の声が届いている。 後にロドリゴは、自分に踏み絵を踏む事を勧めたファレイラと再会し、ファレイラの中に自分の深傷をそのままみつけ、鏡にうつる自分のみにくい顔を見ることに耐えられない思いがした。 「ロドリゴは、ファレイラの嗄れた声とくぼんだ眼とそして肉の落ちた肩を黙ってみつめる。 その肩に陽が落ちていた。あの西勝寺で彼と始めて会った時も、この肩に陽射しがあたっていた。」 「夕暮になって雲が少し割れ、弱々しい陽がさした。」 この小説世界の沈黙の上には、雲が割れ、弱々しい陽がさしているのである。 | ||||
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初めまして。本日本が届きました。迅速な対応で喜んでおります。状態も良く早速読みたいと思います。ありがとうございました。 | ||||
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初めまして。予定より早く届きまして喜んでおります。本も状態も良く早速読みたいと思いました。 | ||||
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長崎に縁があったので以前から読もうとは思っていたが、読む口実ができたので購入した。 こうなるのかなという予測を立てながら読み進めていたが、結末が予想とは違ったものだった。 詳細は伏せるが少し意外性もありつつ、しかしながら味わい深いもので、信仰とは何かといったことを改めて考えさせられるきっかけになった。 | ||||
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信仰とはたとえそれがカルトであっても信じることから始まるわけだが、その信仰が打ち砕かれる事態を前にしたときに人は信仰を保ち続けることができるのか?そういったことを人々に投げかけているのがこの小説だと思う。 棄教を迫る幕府側の人間が元キリスト教徒というのも興味深い。彼はキリスト教と人間を知り尽くしている知恵者で 棄教というものをシステム化してしまっている。形だけでもいいからと踏み絵を勧め踏んだ者は許し、踏み絵を拒む者にはすさまじい責め苦を与える。 キリスト教の宣教師にはお前が信仰している神は信者がどんな目にあっても救いもしないという現実を突きつける。彼が凄いのは神が救わないなら私が救うと宣教師に思い込ませてしまうことだ。 その結果、宣教師は棄教という道を選んでしまう。 棄教者となってしまった宣教師を救うのは作中で弱きものの代表みたいなキチジローである。この男は踏み絵をし 十字架に唾を吐きかけ、家族が殉教しても自分は殉教できなかった苦しみを抱えて生きる弱者である。 宣教師はそんな彼の告解を一人の人間として聞き、一人の人間として許す。そうすることで宣教師もまた自分の弱さを許せる。 信仰とか人種とか体制とかを全てはぎ取った先にある救済をこの小説は見せてくれる。 最後に気になったのは主人公の恩師である宣教師が日本に対して「ここでは観念の神が存在しない、皆、物を欲しがるばかりだ」というセリフがあるがこれは言い過ぎだろう、だったら、なぜキリスト教にはイエス像があり十字架があるのか壮麗な教会があるのか矛盾すると思う。 | ||||
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