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沈黙
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【この小説が収録されている参考書籍】
沈黙の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.41pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全337件 241~260 13/17ページ
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外装状態、内部も殆ど使用感が感じられなかったので、満足です。 | ||||
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昔から何度も読んでようやく少し分かりかけてきました。片づけて見えなくなり今回求めましたが本当の信仰とは、神とはを考える機会を与えられたように思います。この本を少しでも理解すると世界から宗教戦争はなくなるのではないでしょうか。 | ||||
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様々なキリスト信仰の根源的な問題を衝き、「神の沈黙」という答えなき問に挑んだ作者の勇気と、読者を最初の一文で一気に作中に惹きつけ、畏るべき結末へと着実に導く小説家としての力量は実に見事。未だ嘗て、これ程までに劇的な小説を読んだことはなかった。 | ||||
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全く問題なく、古さを感じさせない良品でした。 BOOKOFFで買うより満足度ありですね。 | ||||
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読み終えて、言葉を失うほどの重さと静謐が残りました。 日本では、隠れキリシタンという言葉は流布されていて、慣用的よく使われます。 『沈黙』には、日本に密航し布教を試みたポルトガルの司祭とその隠れキリシタンが描かれています。 歴史が証明しているのは、暴力で信仰を止めることはできないということでした。 信仰とは一体人間にとってどういう意味があるのか?読みながら常に問いかけてくる問題でした。 隠れキリシタンにとって、キリスト教の教義さえ信じなければ弾圧されることはありません。 それなのに命を懸けて、自らの信条を守り通すのです。その為に死んでゆきます。 これは一体どういうことなのでしょうか? 一方で、暴力に負け、「転んだ」キリシタン達がいます。 日本人にはなじみ深い「踏み絵」という道具があります。 「踏み絵」を踏めば、「転び」と呼ばれ、キリスト教を捨てたと見られるのです。 拷問を受ける人たちは、死ぬか、転ぶかの選択しかありません。 死を受け入れられない弱い人は、踏み絵を踏みます。 踏み絵を踏めば、もうキリスト教徒ではないのでしょうか? 拷問がなければ善良な信者が暴力に負けて踏み絵を踏めば裏切り者なのでしょうか? 誰がその人の信仰心を決めるのでしょうか?教会でしょうか、それとも個人でしょうか? 信仰とは誰のものか?というもう一つの問題が提示されています。 遠藤周作さんは、転んだ隠れキリシタンを裏切り者のユダと対比させ、聖書の言葉の意味を探ってゆきます。 『沈黙』を読むのは2度目なのですが、時間が経ち年齢を重ねてここに書かれている意味がやっとわかるようになってきました。 この本を読むということは、人間という存在を探る行為に近いと思います。 必読と思える作品です。 | ||||
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内容は非常に良い。伝教の苦難がよくわかった。編集から経時変化があり、読む途中から本がバラけるのが困った。 | ||||
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本書のページをめくると、蟻地獄にはいったようにどんどん物語に引き込まれていく。 なにゆえ、人生は不条理なのか、信仰は答えてくれないのか。 私にはこれといって信仰はありませんが、辛い時には、なぜ?と思わず口走ってしまいそうになることもあったかもしれません。 どう生きるべきか。 本書はキリスト教を信仰する著者が書いた本ですが、宗教に関わらず一つの生き方を示してくれることでしょう。 “魅力あるもの、美しいものに心ひかれるなら、それは誰だってできることだった。そんなものは愛ではなかった。色あせて襤褸のようになった人間と人生を棄てぬことが愛だった” “強いものも弱いものもないのだ。強い者より弱いものが苦しまなかったと誰が断言できよう” | ||||
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遠藤周作が求めた赦す神・イエスとは結局、浄土信仰の阿弥陀如来じゃねえの?とオモタ 「善人なおもて往生す。いわんや悪人をや」の 親鸞の絶対他力・悪人正機説に行き着くような キチジローのようにどんなに弱く罪深い人間でも 「南無阿弥陀仏」とただの1回でも唱えれば 西方浄土に一人残らず救済してくれる阿弥陀如来のようなイエス像を 日本人・遠藤周作は求め続けた 日本人キリスト教徒として彼がが求め続けたイエス像は 浄土信仰の阿弥陀如来、利他・他者救済に生きる菩薩行、大慈悲に どうしてもなってしまう というのが今の感想 | ||||
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遠藤周作は「イエスの生涯」で自分なりの史的イエス像にせまろうとしたが、 そのことで保守的なカトリック教徒からは批判され、 一方、史的聖書学者の田川建三氏からも痛烈に批判されることになった。 信仰とは何か。 信仰とは私的で内面的な問題である。だがそれならば、迫害や拷問に対し、 口先では信仰を捨て、心の中で信じていればそれで済むのか? そこにまた新たな苦悩が生まれる。 その苦悩はやはり信仰によって解決されなければならない。 私は日頃からの氏の苦悩が、 見事に司祭の苦悩に投影されているように感じられ、 厳かな気持ちで拝読させていただいた。 | ||||
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ゴルゴダの丘で、イエスは十字架にかけられた。イエスは問う。「わが神.....どうして私をお見捨てになったのか。」されど、神は沈黙していた。いや、神は本当に沈黙していたのか。 パードレは、イエスと似て非なる刑を受けた。鞭打ち、市中引き回し。その後、イエスは十字架で殺されたが、パードレは殺されなかった。自分の死は、自分で受けいればいい。だが、自分の信仰のために、信者が殺される。自分は、どうすればいいのか。彼の説得者は言う。「神は何もせぬではないか。」確かに、神は沈黙していた。 結局、彼は信者を生かすために、転んだ。踏絵を踏んだ時、絵の中のイエスが言った。「踏むがいい。私はお前たちに踏まれるために、この世に生まれ、お前たちの痛さを分かつために、十字架を背負った。」 沈黙―いや、沈黙ではない。孤独、監視、軽蔑と、飼いならしの先に見えた答えが、「イエスは私の中にいる」と言うことだろうか。本書は、信仰とは何か、生きるとは何かを投げかけてくる。ゆえに、語り継がれているのだろう。 | ||||
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キリシタンへの弾圧があった当時に、一信者としてもし自分自身が存在していたならどうであったか。密告をした者、周囲からの中傷、拷問。私は一人沈黙し、考える。 | ||||
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1614年のキリスト教追放後に、転向した師の消息を求め日本に潜入するポルトガル人宣教師の行動と心情により、キリスト経思想の禁忌に深く切り込んだ傑作です。 元ロシア外交官の佐藤優さんは、苦難を抱えるキリスト教信者への神の沈黙という壮大なテーマを扱った欧米知的エリートに広く知られる優れた日本小説と紹介されていました。 信仰・愛・人間の根源的在り方と真理・神と人間の距離と関係性等について深く洞察し・主人公の行動と心情をもってそれらを深く表現した非常に意義深い小説です。個人的には以下の主人公たちの言葉に心が捉われました。星四つなのは私の感性が未熟だからなのかも知れませんが、五年後・十年後にまた読んでみたい作品です。 ・神は自分の運命を、信じられない者に委ねられた ・生きていることがこんなに幸せ ・美しいものや善いもののために死ぬことはやさしいがみじめなものや腐敗したもののために死ぬのは難しい ・神から超えられない試練は与えられない ・この世は苦患(くげん)ばかり ・罪とは人がもう一人の人間の人生の上を通過しながら、自分がそこに残した痕跡を忘れること ・神は襤褸(ボロ)のように汚い人間しか捜し求められなかった ・行為は正邪・善悪を区別できるものではない ・憐憫は情欲と同じように一種の本能に過ぎなかった ・仁慈の道とは我を棄てること ・師と比較し自尊心を満たすことで漸く眠りについた ・人はどんな状況でも虚栄心から抜けられない ・祈りはその苦しみをやわらげやしない ・全てのものを私は認めます。もう自分の全ての弱さを隠しはせぬ。 ※小説に記載順 | ||||
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日本文学というと和のイメージしか思い浮かばない方もいるかもしれません。 しかし鎖国していた日本というイメージも持って欲しいです。 そこから人々がどう考え禁止や信仰と戦ってきたかわかる本です。 フィクションですが事実のように伝わってきます。 友人のクリスチャンは喉から心臓が飛び出してきそうで読めきれませんでした。 最後の一行も意味不可視気に書いてあり余韻も十分に味わえる作品です。 ぜひ読み切って下さい。 | ||||
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この作品の執筆前の取材模様は紀行エッセイ「切支丹の里」に詳しいが、その中では本書に登場する実在のポルトガル人神父フェレイラ、表面上は転びつつも隠れ切支丹としての信仰を守り続ける集落が昭和になってもカトリック教会を拒みながらその信仰を頑なに守り続ける様子等に触れている。そして、このエッセイの中で作家は転び者達に触れながら「私が彼らに近い」(30p)と語り、正宗白鳥を引きながら「どんな人にも、どんな作家にも彼が人間である限り、「打ちあけるよりはむしろ死を選ぶやうな秘密」が暗い意識の裏にかくれている」(126p)と謎めいたことを語っている。遠藤周作の信仰の核の部分でどんな「秘密」が作用していたのかは分からないが、作家が転んだ切支丹達に自身の姿を投影していたことだけは事実のようだ。 さて、この作家は本作以外にも徹底して「救済」の不可能性を描き続け、また「キリストの誕生」等の随筆では原始キリスト教まで遡りながら、イエスの死後、彼の意図に反して神格化とカトリックの教義が生まれるメカニズムを探ったりもしている。つまり、かなり宗教としてのキリスト教に対して相対化した視線を持っていたにも関わらず、彼が信仰の内側に留まり続けた理由は何だったのか。これが僕の長年抱いていた疑問だったのだが、本書の佐伯彰一氏の解説で少し謎が解けた気がする。ヒントはロドリゴが転ぶ瞬間にあるのだが、現世的な「救済」がたとえ来ず、転び者達が表面的に信仰を否定してみせたとしても、「行きて汝のなすことをなせ」というイエスのユダに対する言葉が残響する様子。救いを経験しなかった転向者だからこそ神との関係がよりパーソナルなものに深くなるという逆説。この当たりにこの作家の信仰のかたちがあるのではなかろうか。 星を一つ削ったのは、着の身着のままで逃亡する主人公による書簡体の前半が不自然に長いこと(=こんなに自然描写と心象風景ががきちんと対応している長い手紙は普通書かんだろう、と思ってしまう)、会話を成り立たせるために主人公が短期間で日本語ペラペラになってること、など不自然なことが設定に目立つ点だ。でも、こんな技術的な穴にもストーリ―自体の持つ力が勝っているため、さして気にならない。表紙の写真もこの作品の内容とマッチしていて、お見事だ。 | ||||
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この作品には大きく分けて二つのテーマが二重の螺旋が絡むが如く上手く相乗しながら描かれている。 まず、一つは異物(キリスト教)をたたき台にして日本人の気質をあぶり出そうと試みた作品である、ということ。 個の倫理に勝る場の倫理。 徳川時代を安泰に導いた屋台骨を担うこの普遍的な意識こそが今日にまで連綿と続く日本人のナショナリティなのだろう。 それは我が国がその骨格において思想・哲学の領域においても形而上的なコペルニクス的転換を経験してはいないと言うことに他ならない。 仏教も儒教もキリスト教も、そして神道すらも場の倫理というブラックホールのような習合性に飲み込まれ、均される。 この物語は島原以降の、日本に於けるキリスト教受難の最も苛烈な時代を舞台にしているのだか、 信者に対する迫害者側のスタンスが〜例えば西欧に於ける魔女狩りのようなヒステリックな短絡さは微塵もなく、日本ではキリスト教は決して根付かないという不動とも言うべき知見を拠り所に、早急さを必要としない懐柔策で真綿で首を絞めるが如く政策を実行していく。 諸外国との軋轢を避け、国庫の現実に於ける生産者たる農民の損失を防ぐ一方、要所要所で効果的にみせしめを仕立てる。 対処療法としての過剰な弾圧は、そこにはない。 全ては徹底したリサーチと、人間の一筋縄ではいかない心理の綾を知り尽くし、マクロに見通しを付けようとする恐るべき日本人の特性の為せる業だと思う。 …この物語のもうひとつのテーマである、「信仰とは何か?」という問い掛けもはるばるポルトガルからやって来た一人の宣教師の心の変遷を辿って描出する。 宗教は決してイデオロギーではない。 教えを体系化し、組織化することで顕現せしめるものではない。 頑なに信念を曲げることを拒み続けた宣教師は、隠れ信徒が拷問を受け死に行く姿を見せられ選択を迫られる。彼自身が踏み絵を踏めば、助ける、と。 その時、彼は内なる声を聞く。 (踏むがいい。お前の足は今、痛いだろう。今日まで私の顔を踏んだ人間たちと同じよいに痛むだろう。だがその足の痛さだけでもう充分だ。私はお前たちのその痛さと苦しみを分かち合う。そのために私はいるのだから。) 宣教師は“転び”、日本名に改められキリスト教対策〜机上におけるスパイ活動の仕事を強いられる。 それでも彼はキリスト教徒である自分を、教会という組織に属していた時よりも強く感じているのだ。 彼はそれまでの苛酷な状況の下、何故キリストは沈黙を破り、事態を一変させる奇跡の御業を施してくれぬのか…ずっとそのことばかりを思い続けてきた。 その答えを彼は踏み絵に彫られたキリストの磨耗した絵姿より得るのである。 それは彼がキリストを想う愛の質が、エロスからアガペーに昇華した瞬間だったのかも知れない。 自分がどのような境遇に置かれても、いちばん惨めな者になろうとも他者が苦しむ姿を見たならば、それに寄り添うだけの力だけは失わない心でいること… “沈黙”を破るとは、それを識ることに他ならないのだ。 | ||||
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長崎に住んで、キリシタンの村を訪れたり、遠藤周作記念館の建つ断崖から夕日を眺めたりすると、どうしても、その作品は気になります。 読むと、悲しい、美しい物語でした。 「だがその足の痛さだけでもう十分だ。私はお前たちのその痛さと苦しみをわかちあう。」 「強い者より弱い者が苦しまなかったと誰が断言できよう」 何でもない人たちの苦しみ、「あの人」のやさしさ、小説は遠藤周作の創作であるけれども、私たちは、この物語が生まれるにいたった過去の事実を、果てしなく思いめぐらさなければいけない。 | ||||
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クリスチャンでない私にとって、どうして神をここまで信じられるのかが 理解できなかった。 どうしてそれをほかの国まで広めようとしたのかもよくわからなかった。 (ただの知識不足ですね、馬鹿まるだしですみません) 馬鹿の私が思ったことは、 たとえそれが真実で正で万国共通で普遍的なものだとしても、 それが必要かどうかは、また別の問題ではないか?ということ。 たとえば科学は(今の世の中、この地球上では)普遍的で真実で万国共通だけど、 本当に必要なものなのかは、誰にもわからない。 それによって恩恵をあずかる人たちも大勢いるけれど、 それがなくても幸せに生きていける人たちも大勢いる。 この主人公も、宗教をそこまで真髄のように信じない人だったら もっと人間らしい幸せな人生を送ったのではないの? そこまでして何がしたかったのか、私には本当にわからなかった。 人間よりも神が大切にする意味がわからなかった。 個人的にはもうちょっと「本当に神はいるのか」という問題 に深く踏み込んだものが読みたかった。 クリスチャンのキリストの存在を信じる思考がどのようにできているのか 知りたかった。 途中までは引き込まれるように読んでしまったが、 語り手はクリスチャンであるので、その思考だけで最後まで進んでいく感じ。 | ||||
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この本は遠藤周作が17世紀の日本の史実、歴史文書に基づいて創作さた歴史小説です。 ポルトガルのイエスズ会の高名な神学者クリストヴァン・フェレイラが穴吊りの刑に屈して棄教しました。 それが事実かどうかとセバスチャン・ロドリゴとフランシス・ガルベの二人の神父がポルトガルからマカオを経由して日本に密航してきました。(史実によると二人はスペイン人)五島列島に潜入した二人が隠れキリシタンの布教をするが長崎奉行に追われる身となる、二人は一緒に捕まるよりは別々に逃亡して少しでも生きながらえる方法を選ぶがそれぞれ捕らえられてしまいました。キリスト教徒の殉教を見る度に神は何故沈黙しているのかと悩みます。 それまでの壮絶な逃亡生活、苦しい悩みに感動しながら読みました。 そう言えば、キリストの12人の弟子たちも皆殉教しているがこの時も神は沈黙していたのでしょうか? キリスト教と言うのは殉教の中に成り立っているのでしょうか? それにしても政治的理由があるにしても、日本国のこの秀吉の様にキリスト教が布教するのを拒んだ国は他に有るのだろうかと日本の強固な拒絶の姿勢にも驚いてしまいました。 | ||||
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「イエスの生涯」と「キリストの誕生」で人間心理からキリスト教誕生の本質に迫ろうとした 遠藤周作の問題意識”神の沈黙”と”キリストの愛”について、 基督教弾圧下の日本におけるポルトガル人司教ロドリゴの苦悩を通して描いた作品です。 「なぜ神は沈黙し続けるのか」 傍らで拷問に苦しむ信徒の命と自らの信仰のどちらを選ぶかー 異邦人信徒を自認する著者ならではの問題意識ともいえますが、 司教の心理を克明に描いた先の遠藤周作の答えは……。 キリスト教は普遍的であるというロドリゴに対して 日本人信徒の信じた神はキリスト教の神ではないとする 棄教司教フェレイラの言葉など 宗教とは何かを考えさせられる作品です。 | ||||
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信教の自由がなかった時代にカトリックの信仰を持ったが故に直面する肉体的苦痛と信仰的、霊的葛藤と苦痛が描かれている。当時、果てしなく遠い日本へ宣教のためにこられて、苦痛と苦悩の中で殉教せざるをえなかった神父さんたち・・・。 当時はキリスト教に対する正しい理解がなかったから、といってしまえばそれまでではあるが、真実なものに対する「人間の無知と誤解」の恐ろしさを感じた。 翻訳もされて、あまりにも有名である遠藤周作氏の代表作ともいえるこの小説に関しては、多くを語る必要はない。 | ||||
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