■スポンサードリンク
等伯
新規レビューを書く⇒みなさんの感想をお待ちしております!!
等伯の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.33pt |
■スポンサードリンク
Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全109件 21~40 2/6ページ
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
まだ読み終えていません | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
著者の安部龍太郎さんにはまっています。現在下巻を読んでいるところですが、信長、秀吉戦国時代を主人公の画家の生い立ちから時代背景を見事に捉えているのには驚きです。感動で引き込まれます。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
日経新聞で読んだ方が購入したのを借りて素早く読みました。 面白くもう一度じっくり読みたくて上下買い求めました。 美術館でも観賞して、どっぷり浸かりました 時代背景もわかりました。 ライバルの狩野永徳も読みました。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
安部龍太郎が好き | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
ちょっと間延びしているかな | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
一気に読むことほどでなく、長さを感じました。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
上巻に相当失望させられ、下巻を読むのをためらいましたが、買った以上は読まねばとページを開きました。 上巻と同様、どの人物も同じ様な口調で、各人の職業、身分から表れる個性が無い。特に主人公の人物描写の物足りなさは、どうにもならない。ドタバタとして、考えも行動も始めたと思えば、ためらい、他の方向に思考も行動もウロチョロとまとまらず、とても将来の天才絵師の人物造作とはいえません。等伯はこんなに俗な個性の薄い人物だったのでしょうか? 又、その描く絵画の描写も誠に工夫が無い。絵画を言葉で説明する時には、それだけの個性ある、画像が読む者の脳裏に浮き上がる様な文章が必要でしょう。この部分は読み飛ばしてしまいました。 あとがきによると、著者は一応資料は読み、専門家の意見も聞いてはいるのでしょうが、歴史上の裏付けとその根拠の記述が曖昧なのです。後の等伯・信春の画力に関する記述も、先人の資料に沿って単純に述べられており、そこで小説家としての作者のひとひねりというものが感じられません。読み込んだ歴史資料を背景に生み出された作品というより、歴史の事実をつなぎ合わせ、その間隙に人物を踊らせているとしか感じられませんでした。これは自分の偏見でしょうか? 加えて会話だけでなく、文章全体が平板で、時として妙な文になります。あとがきには等伯に影響を与えた日蓮宗について触れていますが、日蓮の言葉を引用する時に、なぜか「日蓮上人は・・・・おっしゃった」という風に、敬語を使うのはまるで、作者自身が日蓮宗の信者ではないかと違和感を感じたのは、これも自分だけでしょうか?日経新聞の連載だった様ですが、何故これが直木賞を?と考えずにはいられませんでした。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
時代小説というものは、ある意味で誠に難しい創作姿勢を、作者に迫ります。歴史の事実を曲げるわけにはいかない。同時に資料に沿って書いてばかりでは、それこそ古文書のコピーになってしまいます。加えて、旧仮名遣い、漢文調の文章で書いても、読めぬ読者が増えた現代では、登場人物の言葉遣いに神経を注がなければなりません。そういった今の時代風潮に納得していても、この作品の登場人物達の会話があまりに「標準語」ばかりなのはどうしたことでしょうか?戦国の世に「現代人か?」と疑います。工夫というものがありません。(近衛前久だけ、途中から急に関西弁を使わせ始めますが・・・・) ですから、どの人物も同じ様な口調で、各人の職業、身分から表れる個性が無い。特に主人公の人物描写の物足りなさは、どうにもならない。ドタバタとして、考えも行動もはあちらこちらにまとまらず、とても将来の天才絵師の人物造作とはいえません。第一章で読むのをやめようかと思いましたが、我慢して読んでいき、主人公が京都で生活をし始める頃にやっと少し落ち着きました。と思えば、後半は又、ドタバタとして展開が荒くなります。 著者は一応資料は読んでいるのでしょうが、歴史上の裏付けとその根拠の記述が曖昧なのです。後の等伯・信春の画力に関する記述も、先人の資料に沿って単純に述べられており、そこで小説家としての作者のひとひねりというものが感じられません。読み込んだ歴史資料を背景に生み出された作品というより、歴史の事実をつなぎ合わせ、その間隙に人物を踊らせているとしか、上巻を読んだ限りでは感じられませんでした。これは自分の偏見でしょうか? 時代物に限らず、小説が変わってしまいました。「下町ロケット」で直木賞が漫画化したと思いましたが、この作品も小説というよりコマ送りの時代漫画を読んでいる様な気分なのです。購入してはあるのですが、下巻を読もうか、迷っています。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
新聞の連載を読みました。家族に勧めて単行本を購入。骨太の本格的作品です。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
等伯は武士の出でもあるのである程度剣術ができた。戦国の波乱の時代を権謀術数に巻き込まれながらも時に勇敢に立ち回ったことが描かれていた。細部が見事に描かれていて、琵琶湖を滑走していく木造船の先頭に立つ、緋色のマントをなびかせる信長は生きているように目に焼き付いた。それにしても信長は戦争に強かった。戦闘に強かっただけでなく、恐るべき革命家でもあった。主人公とは別にあの頃の情勢が分かり歴史の勉強にもなった。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
京都の智積院で等伯の『楓図』を観賞し、「最愛の息子久蔵を失い、その悲しみをぶつけた痛々しいまでの迫力」に心を動かされ、この本を読むに至った。智積院にはその久蔵が描いた『桜図』も展示されていたが、これは読了後の今思い返せば、至極久蔵らしい優しさに溢れた絵であった。 読了後に金地院南禅寺塔頭にて『猿猴捉月図』を観ることができた。水に映るお月さんに手を伸ばすテナガざるの、ふわふわした毛がなんとも乙で心やすらぐ襖絵であった。オリジナルを、しかもガラス越しでなくそのままに観賞できるのはここぐらいだろう。(咳やくしゃみが出そうな人はぜひマスク着用をお願いしたい。)金地院は小堀遠州が作った庭も素晴らしく、また人もそれほど多くなく、とても落ち着く場であった。 あとはやはり『松林図』を一度は観たい。ただこれは東京国立博物館にあり、また常に観賞できるわけではなく公開されるのは1年の内、僅かな期間に限られているようだ。ちょうどこのレビューを書いている期間はたまたま特別公開されていて(2020年1月2日(木) ~ 2020年1月13日(月))なんとかして行けないものか思案しているところだ。。。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
等伯の絵師としての「おさえられない業」が、彼の人生とその周りの人々に “禍”と”幸”をもたらす。 「都に出て自分の腕を試したい。」 ”禍” ⇒ 養父母を失い、自分も家族とともに七尾を追われ、妻の静子を失う遠因にも。 ”幸” ⇒ 様々な出会い。腕を思う存分試すことでき絵師としての道が開ける。 「狩野永徳に勝ちたい。」 ”禍” ⇒ 最愛の息子久蔵を失う遠因に。 ”幸” ⇒ 楓図、松林図など傑作を生み出す力に。 ただ、養父母も静子も久蔵も、当事者たちは皆、決して不幸ではなく、 むしろ等伯と関わって幸せであったように思えてならないのが救いである。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
松林図屏風は東京国立博物館で観ました。音が聞こえてきました。それは、ブレードランナー2049の中ででできた、ボーッという音です。あの映画の中でも霧か砂の中でぼんやりかすんで見えるシーンがありました。また、等伯のことは、100de名著の法華経の最終回で、著者の安部龍太郎さんが話されていたことでも知りました。その法華経の回では、植木雅俊さんの解説がとてもよかったです。そして、等覚一転名字妙覚の教えも感心しました。その言葉が、この作品の最後に、等伯が達した境地として表されています。三日三晩一心不乱に書き上げて、、、気絶する。ものすごい境地であると思います。願う境地は今の延長戦上にあるのでなく、脚下にあるという教えです。自分などは本当の幸せや安心は家族との日々の暮らしのなかにこそあると思います。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
週末の二日を使って上下巻を読み切ってしまった。おもしろい小説には、一気に読み通させる力がある。本作は、間違いなくおもしろい小説である。 では、そのおもしろさの源泉は何か。それは、著者の徹底的な取材と下準備、プロット作成にある。たとえば、主人公等伯の故郷である能登七尾の描写は、実際に著者が現地に行って、入念に裏取りをしている。また、国宝『松林図屏風』の文章での表現を豊かにするため、著者は水墨画の修行もしたという。こうした積み重ねが、本作の絵画の描写や、風景にゆたかな色合いをもたらす。本には、白い紙と黒いインクしかない。それでも、そこにゆたかな色彩を描き出す。著者の表現力が遺憾なく発揮されている。 おもしろさの源泉その二は、著者が、人間の営みに目を配っている点だ。歴史小説となると、時代を動かす大きな事件や、主人公の活躍ばかり取り上げられる。しかし、本作には、戦国時代から安土桃山時代にかけて、民衆がどのように生活し、どのような感性を持っていたのかという点を重視している。時代背景や気候、文化、歴史、宗教。多様な切り口から等伯が生きた時代を描き出し、読者をその時代へと誘う。 久しぶりに、こんなにおもしろい本を読んだ。出版不況の時代でも、日本の小説はまだまだやれるという熱いメッセージを受け取ったような気分だ。まだまだやれる。それは、きっと読者の心にも響くはずだ。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
下巻では、ついに主人公等伯は、狩野派の筆頭である狩野永徳と対面し、熱いバトルを繰り広げる。しかし、親しかった千利休の切腹や狩野派の妨害、そして息子久蔵の暗殺など、数多の苦難が等伯を襲う。しかし、等伯はその受難をも糧に、国宝『松林図屏風』を完成させる。描きたいという欲を捨て、ただ心のままに故郷の風景を現実に映し出す。等伯は、ある種の悟りとも言える境地に達する。 『松林図屏風』の何がすごいのか。芸術感性のない筆者には、単に墨を撒き散らしただけにも見える。しかし、そうではない。等伯は、ライバルの永徳よりも「良い絵」ではなく、「誰にも描けないもの」を描いたのだ。息子の暗殺に対する恨みや、利休の死に対する悲しみは決して絵にはのせない。勝利ではなく、一つ上の次元へと昇る。それが、等伯という男の生き様だった。『松林図屏風』を描いた時、等伯は50代後半だった。現代であれば、定年の迫ったサラリーマンが引退後の生活を考える歳である。生き続ける限り、成長と研鑽を続ける等伯の姿は、誰もが自分を省みるきっかけとなるに違いない。 ––––– 蛇足と考察 –––– 戦国時代、宗教論争、朝鮮出兵。波乱の時代だからこそ、人々は安らぎを求めていた。狩野派の絵は、絢爛豪華だが、どうしても心がざわつく。一方で、等伯の『松林図屏風』は、あまりにも静寂で質素だった。屏風を見た武将たちは、ただ呆然と立ち尽くす。戦場で散った兵士たちや、政争の末に果てた家臣を思い、涙を流す。今まで自分はいったい何をしてきたのだろうか、と。 激動の時代だからこそ、人々は心安らぐ場所を求める。それが能であり、歌舞伎であり、芸術である。こうした本作のテーマは、現代にも通ずるのではないか。現代では、イノベーションを求め続ける時代だからこそ、人々は伝統や文化を大切にしようとする。人間は、時代の流れとは逆のものを求める。芸術は、時を越えて存在し続ける。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
長谷川等伯の到達した「松林図」屏風は教科書にも取り上げられる日本画である。狩野永徳の武家好みの画と違い、素直に心にひびく日本画である。著者の丹念な資料から描かれた長谷川等伯像は、読んでみる価値がある伝記物である。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
松林図屏風がとても気になって、この本を読み始めました。魂が浄化されるような 爽やかな読後感です。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
その時代の長谷川等伯という絵師の姿を、この本を通じていろいろ知りました。勿論、下巻も購入しました。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
安土桃山時代から江戸時代初期にかけて活躍した能登国七尾に生まれた絵師の長谷川等伯の一生を描いた作品です。 上巻では、能登国七尾に生まれた長谷川等伯が京に修行に行くところから、妻の静子を京から七尾に向かう途中の敦賀でなくすまでを描いています。 己の信念を貫いて生きていく等伯が描かれており、ぐいぐい引き込まれました。 これを読んで、再度七尾や敦賀や一乗谷に行ってみたくなりました。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
主人公は長谷川等伯。戦国時代の画人である。武人でも商人でも茶人でもない。後に堂々たる文化人になるが、しかし世俗と一線を引いて生きていけるわけではない。まして戦国時代。時代に翻弄され、世の中に振り回され、嫌な思いもさんざんしながら、それでもたくましく生きていく。 一つの資料を膨らませ、他の資料とつなぐ。歴史上の点と点を結ぶために著者は精いっぱいの想像力を働かす。解釈とも言えようし、妄想かもしれない。長谷川等伯の波瀾万丈そのものの生涯は、そうやって創られていく。 歴史上の名場面、有名人がいきなりひょいと表れる。比叡山焼き討ちのときに、その山の中に等伯はいたのか。関白近衛前久と等伯は近しい関係にあったのか。著者はいずれも認める。まあ、そのほうが面白いからではあるのだが、そういう仕掛けをこの上巻全編を通じてほどこしてある。壮大な歴史ロマンの土台づくりだ。読者はドキドキわくわくしながら等伯の人生とこの時代を追いかけていくことになる。 よく調べ上げ、勉強した成果には敬意を表したい。直木賞受賞作だそうで、むべなるかなである。 ただ不得手な描写もあるようで、等伯(作中「信春」と呼ばれる)が永く一人で暮らさざるを得なかった後に家族と再会した場面はえらくあっさりとしたものだ。もっと感動的に描けばいいのにと思うが、ここは著者に照れがあったか。 また、等伯の息子は「父上、凄いね」とよく話しかける。父を敬っているからだが、それにしても「凄いね」と呼びかけるだろうか。そしてこの息子が、塾で習ったとして「地球は一日に一回自転し、一年に一回太陽の周りを回る」と父母に話す場面がある。地球、自転、太陽。これらの言葉はこの時代にあったか。私も調べたが、どうも微妙だ。それだけに、当たり前に使われていたようにセリフとして言わせるのは控えたほうがいいのではないか。 最後に、絵画技法なども著者はよく研究しているようで、創作に臨む等伯は迫力がある。読んでいて興味が湧き、ときどきネットで画像をさがしたほどだ。本物を見てみたいと思う。しかし、「遠近法」という用語がたしか二度出てきていると思うが、遠近法は西洋から伝来したもので、バテレンが持ってきたものだが、本格的な導入は幕末まで待たなければならず、この時代であるし、水墨画のことでもあるので、「三遠法」と注釈をつけたほうが、読む側が混乱せずに済むのではないかと老婆のような心を抱いてしまうのである。 | ||||
| ||||
|
■スポンサードリンク
|
|
新規レビューを書く⇒みなさんの感想をお待ちしております!!