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乳と卵乳と卵乳と卵乳と卵乳と卵乳と卵乳と卵乳と卵乳と卵
乳と卵
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乳と卵の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.31pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全68件 41~60 3/4ページ
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女であることを、こんなふうに、きちんとえぐりきって表現できる作家はとても少ないと思う。だって女は隠す生き物なのだから。救われるような感じといってもいいほど、書かれていることに共感できる。ただ、私には大阪弁であることが、はぐらかしのように思えたので、星ひとつマイナス。 | ||||
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この文体には賛否両論があると思いますが、読みにくいと思うのは最初の10ページくらいで、あとは逆にリズムで読む感をつかめばいとも易しく読めます。情景描写や形容表現、オノマトペは非常に独特かつ想像に易く、一方の描写によって、他方の情景を連想させる力があると思います。おもしろいと感じるかどうかは小説に何を求めるかによって個々違うと思いますが、この文体や作者の哲学には刺激を受けました。 | ||||
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テンポよく進むお話で、楽しい。 大人の女友達と話をしているような感覚で、メリハリある内容であり尚且つ心地良く読める一冊でした。 私は「先端で・・・」を先に読んで、それは関西弁がきつくて読みきれなかったけれど、こちらは適度に標準語が入っているのでまだ大丈夫でした〜。 | ||||
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川上未映子の芥川賞受賞作「乳と卵」は、豊胸手術をしたいと切望する母と初潮を迎える時期にきて言葉を失い筆談しかしなくなった娘が、東京の語り手(母の妹)のもとを訪ねたときの模様を大阪弁を基調にしたしゃべくりで書いた物語。前作「わたくし率 イン 歯ー」でもそうだったが、文体に独特の躍動感というか運動性があり、読んでいて快い。ただ、「わたくし率」の方が、統御しきれない言葉のきらめきがあったが、今回は評価を意識してか、意図的にまとめていったという感じは否めない。その意味では、多少不満がある。もっと書きたいように書いて、それがおのずと評価に――人々に届くということに――つながるのが理想なはずである。 豊胸手術に取りつかれたホステスである母巻子の姿は悲喜こもごもの姿といってよいが、そうした妄想から離れたところで生きられないのは多かれ少なかれどんな人間にも当てはまる。それはたんに「若く」ありたいというような簡単なことではない。どうにもついて離れぬ、自己の身体への妄想。乳首の大きさと黒ずみに悩みながら、それをどうにかしようともがく巻子は、生活が苦しいにもかかわらず豊胸手術の費用も、またその痛みをも気にするところがない。そんな言葉にならない人の思いの切なさと動かし難さを川上未映子は的確に表現している。 娘の緑子の方は、友達たちが初潮を迎え、自分の体が成長していくことを体感しながら、そうした「大人になること」をうまくいけ入れることができず、人間など生まれてこなければいいと考える。彼女は、母にもやさしい思いを持っているが、それを話し言葉で表現する手段を失い、ただ筆談というかたちで他者とコミュニケーションをとることができるだけである。自分のなかで卵子が成熟し、生理として排出されることを、その生と死のありようを、人はどのようにして自然かつ自明なこととして受け入ることができるようになるのか。少女の思いはここでもうまく言葉にできない。緑子はそのことを母の豊胸手術への違和感として感じてもいる。クライマックスで、酔った巻子に「お母さんは、ほんまのことゆうてよ」と叫んで、玉子を自分の体に叩きつけて割るシーン、母も一緒になって自分の体に玉子を叩きつけ、そこらじゅうが玉子だらけになるシーンは、まさに成長できない卵の死んで行く姿を象徴しているが、それが同時にこの二人の新しい人生へのステップでもあるという意味で、生を象徴していもいる。そんな言葉にならない生と死のあわいで生きるしかない人間のありようが「乳と卵」の描く世界なのである。 川上未映子は独特の感性をもった作家である。今回の大阪弁のしゃべくりでは、詳細に描写するあまり、ときに文体が弛緩している箇所があるが(たとえば生理用ナプキンを着ける場面)、つぎのような個所は全編の白眉といってもいい。 今日まだ一言も口をきかない緑子の唇のなかには、真っ赤な血がぎゅっとつまっていてうねっていて集められ、薄い粘膜一枚でそこにたっぷりと留められてある、針の本当の先端で刺したぐらいの微小な穴から、スープの中に血が一滴、二滴と落ちて、しかし緑子はそれには気づかず、白いスープのゆるい底に丸い血は溶けることなくそのまま滑り沈んでいくのに、やっぱりそれに気がつかずにその陶器の中身の全部を自分ですべて飲み干してしまう。濡れた、その薄い唇が合わさるすきまに赤い丸の輪郭がちゅるっと消えて、消えて、消えて、とやってると[……] この表現はするどい。作者はそれを意識的に使う技量をもっているが、全体の構成のなかでその場所を的確に定めるところまでは行っていないようだ。それができたとき、川上未映子の「長編」というものを私たちは読むことができることになるだろう。 | ||||
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話題性が無くなった1年後の現在、あえて読んでみました。客観的に受け止められるかなー、と。読む前から作者にはちょっと反感を持っていたし、オビに顔写真なんて売り方にもひるんじまいますけど。 読んでみると、なかなかいい作品でした。関西弁の饒舌体は、それなりに必然性が感じられたし、女性の肉体性について、エロスとは別な次元でこだわった面白さを感じました。豊胸手術とか小学生のかん黙とか、現代的な事象も盛り込まれ、母子の断絶と和解を適度な湿り気で描いていました。 作者は頭もセンスもいい人なんだなーと感じました。ついでに顔とスタイルまでいいところに、やっぱり少しむっとしますが。 | ||||
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おもろい。才女やわぁ。文体が独特、読みにくい、という感想を持つ人は、昔の小説読んでないのかも。これってまさに樋口一葉。意味が掴みにくい人は黙読ではなく、音読してみるといい。よーくわかる。無駄な描写もなく、よく考えられた文章。しかも今どき人情噺。いいじゃない! 筆者は若い女の子じゃない。30歳の、哲学の好きな大人の女性。 こういう読み方ははやらないけれど、私が抱いた感じでは、この母はきっとあまりの生き難さに、子供を父親の手にゆだねたいのだろう。そういう自分の正直な感情に向き合うのが怖くて、許しがたくて、別のことに異様に関心を向ける。そういうの、長く生きてるとよーくわかる。娘は敏感にそれを感じ取り、早く大人になって母を助けたい、でも成熟した女になるのはいや、という感情に引き裂かれている。おかあさん、本当のこと言って、という叫びは、だから切実。大阪人情噺。新鮮! | ||||
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関西弁がネイティブなら、問題なく読めるはず。筒井康隆さんの唯野教授思い出すなぁ。町田康より、だんぜん読みやすいし、理性的すぎないでいいんじゃないかな。ところどころで入るエピソードや回想なんかも変にまとめすぎたりせずに投げだされてる感じが◎。前作から頻出する「〜部」って表現、使いたくなりません? 男性の僕にはテーマをちゃんと理解するのは難しいけど、言葉を追いかけること自体の快楽はたっぷり味わわせてくれます。 ユーモアやバランス感覚のある素敵な作家さんだと思いますよ。 挿入される緑子の日記部が秀逸。「ちゃんと話の時をつくらな、あかん。なんでそんなことするのかってあたしちゃんときけるかな、胸の話とかはしやんと、全部、ちゃんと、したいねん」 | ||||
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芥川賞をとった作品なので、読んでみようかと思い、借りてみた。タイトルが何を意味するのか、わからなかったのだが、読んでみて理解できた。ちょっと、奇抜な発想なので、目をふせたくなるようなシーンもあるのだが、物語の結末は、心に迫るものがあったし、それなりに、面白かったと思う。ただ、ちょっと、文体が読みにくいところが難点か。 | ||||
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こういった文体は金井さんから町田、舞城王太郎といろいろいるけど、川上さんの文体が一番いいと感じた。 今後も頑張ってほしい。 | ||||
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文体の独特さは、賛否両論ですが、最初は読みにくかったものの、次第に古典を読んでいるかのごとく一定のリズムを持って心に落ちてきました。関西弁だからこそ、よかったのだと思います。 内容としては、これといったドラマチックなことは何も起こらない(最近の芥川賞の特徴ですね〜)ですが、女性ならではのある意味「えげつない」表現にびっくりしました。夜中に生理がきて、下着を汚したときの描写などは「なんとなく臭いを嗅いでみた」、など、普通の作家では書かないと思います。 この「女」をずばっと前面に押し出した作品は、怖いもの見たさもあり、今後も読んでみたいですね。 | ||||
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初潮におびえる少女と、自らの外見(乳頭の形)におびえる母親を、両者の間に入ることにおびえる母親の妹が語る。「女」におびえる女しかでてこない「おびえ」小説。この「おびえ」は作者がどこまでも突き詰めて書く小説に「おびえ」ているからでしょうか。意識と身体、言葉と意味という古めかしい構図から一歩も出ようとしないことも、樋口一葉という伝統的な「文学」に依拠することも、「おびえ小説」の小説への抵抗に見えてきます。「武装」している感じ。 典型的なのは、いわゆる饒舌文体なのに、しゃべっているうちに自分がわけわからなくなる、ということがないこと。いや、漢字をずっと書いているうちにその意味があやふやになったり、記憶があいまいになったりすることはあるけど「あー、あやふやだ」と思っている自分は保たれている。典型的な自意識保存小説です。「私」の一体感だけは保つ。そーいう意味では、これから「私」をつくろうとする若者には向いている作品かもしれません。 唯一、初潮前の少女の美しさにほれぼれする語り手(これもどうなの?性以前の女ってロリコンおやじの視線だよ)が、初潮のことばかり考えている少女の意識に感染するかのように、その夜、早めの生理になるところは興味深かった。意識のままにならないものが描かれた唯一の場面。ところがそれさえ生理の処理の失敗として、少女への教訓にしていくんだけど。どこまでも意識化。なんて啓蒙的な。 ラストの母と娘の対決を「言葉が足りない」と思って傍観している語り手の、「言葉でできている意識」を守ろうとする抵抗感が気になって仕方ない小説でした。だから芥川賞なのだろうけれど。余計なお世話だけど、哲学勉強してまーすっていう作品外の身振りだけは、あるところで思考を制限して分かりやすく書いている実態にそむいているし(それが悪いわけじゃない、これから人格形成する若者には逆にいいぐらい)、天然ぶりをさらしているのでやめて欲しい。。。だれか注意してあげればいいのに。 *2011年1月の追記 文庫化を機に再読してみると、男性原理に支配されたなかで女性はいかに思考することができるのか、という問題をめぐって、言葉で思考すること自体、いかに批判的にもせよ男性原理への依存になってしまうのではないか、ということを乗り越えるのが大阪弁との融合に求められていることに気付きました。標準語=批評言語=男性的、大阪弁=身体的言語=女性的。 5000円札の「たまごみたいな顔」をした樋口一葉が、ラストの卵の散乱や主人公の生理と響き合っていることを遅まきながら発見。受精しない卵(卵子)つながり。しかも生理以前の女の子へのお守り。やっぱりよくできている。 | ||||
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一般受けする作品はプリンかババロアのようなもの。口当たりよく、つるりと飲み込んで、お腹にたまらない。そこにうんと歯応えのある堅焼き煎餅が出てきたら、強烈な印象を持ってしまうと思う。そんな作家は好き不好きが分かれる。心理描写のおもしろさ、ただし「息継ぎ」しづらく、読みこなすのに根性が要ると感じた。☆は5つでもよいのだが、強い印象、すばらしい作家さんだけに敢えて辛く4つ | ||||
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なんか「乳と卵」っていう題名が、いかにもどろ臭そうで、芥川賞っぽくて、手を伸ばさずにいたのですが、読んでみたら表と裏に隠された微妙な母子の関係がけっこうよくて、思ったよりするって読めました。ただ5000円札見るたび、この話思い出してしまいそう…な気がします。 | ||||
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最初の一行から最後の一行まで、一切の無駄も隙もない文章。ぐいぐいと読まされて、本当に新人?とびっくりです。前回の芥川賞で前作が候補になった時、町田康にそっくりと非難する声があったそうだけど……違うじゃん。単に大阪弁の語りというならむしろ谷崎潤一郎だし、作者本人は逃げも隠れもせず樋口一葉ですと言ってるんだし、多和田葉子が好きという言葉も出てくるから、おいくつですか?と本当にびっくりです。寺山修司とか岸田理生の匂いもするし、椎名林檎っぽい気もするけど、もうそんなんどうでもええわ、他のどこにもない、古そうでいて新しそうでいて、本当に凄い新人。凄いです。 たとえばもう、15ページから続く飲み屋街の描写ひとつとっても、饒舌というよりは本質のど真ん中を突くストライク。豊胸手術をしたがる母と、初潮を恐れる娘という設定にしても、その母子と語り手の距離感にしても、三日間のできごとがきっちり並べられた作品構造にしても、全てが満点。今日からファンです。 | ||||
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「やっぱ、コミュニケーションよね。」 なんて、ワイドショーの安っぽい批評家か!? みたいなことしか思いつかないんだけど、 大切なことは、うまく語れないことの中にあるのかもしれない。 だから、すれ違ったり、傷つけあったり、 話せるのにノートを使って会話したり? さすが、芥川賞受賞なだけあって、斬新で独特な文章が楽しい。 女性ならではのえぐい部分を、しっかり描写しつつも、そんなにグロテスクにならないのはそのせいか?若いんだか、古いんだか、固いんだか、やわらかいんだか、わからないような。 です、ます調も、断定調もごちゃまぜなのに、自然。 こんなふうに、自由に書き綴って、独特のリズムみたいなのが生まれたら、読むほうも楽しい。 最後は、卵の複線が、思わぬ形で盛り上げてくれて、やっぱりジーンとしちゃうわけです。 | ||||
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この作品、〈女性の生理・身体性〉を突き詰めて描いている。だから、男の私にとっては、なかなか共感はしにくい。何と言うか、生々しすぎる。いや、初めて知った世界だというのではない。いろいろの伝聞や読書経験で、この程度の知識は漠然とではあるが私にもある。それは勿論、他人事としての、実感を伴わない知識に過ぎないのだが。 初潮、思春期を迎えての身体的心理的変化の疾風怒濤ぶりは、男よりも大きいのであろう、と思える。男の私自身ですら思春期の一時期は苦しかった記憶があるが、女性の変化はそれに勝るだろう。〈女は子宮で考える〉なんて表現もある。あるいは♪おんなはう〜み〜♪ 誰の言葉か忘れたが「女は男にとって存在論的他者」という表現があったように思う。で、この小説は女にとっての「存在論的不快」を描いている、と思った。それは成長の一過程で現れるものであって、それを克服というか超克というか、乗り越えて女性の成熟はなされるのだろうが、一時的にはそういう状態になる、と。 そういう意味ではこのテーマはいわばありきたりなのだが、小説の言語表現(樋口一葉風の延々と続く長広舌のねちっこさと深さ)には作者の言語センスのただならぬ才能を感じさせられた。私は韻文はからっきしダメなのだが、その一歩手前の散文で妙技を見せてくれたように思った。 | ||||
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貧しい母子家庭に育ち、生まれ生きることに後ろめたさを感じ、自分が子供を産める大人の女になることを恐れる少女、大阪の品なき京橋のスナックで懸命に働き、豊胸手術に生きる因(よすが)を求める母、二人の互いへの愛情と切なき極限の魂の邂逅の物語です。 小学生の緑子は著者自身の代弁(表現)者であり、本書は著者が描かずにはいられなかった少女期の自分自身へのレクイエムだと感じました。芥川賞の名に恥じない、自身を表現し人間存在の核心に迫った素晴らしい親娘の物語だと思います。 〜以下、著者の日記「そら頭はでかいです、世界がすこんと入ります」から抜粋〜 「私は子供の頃、生まれてきたことがなぜか後ろめたくて、わけが判らなくて、なぜ毎日はこんななのに、いつかみんな死んでしまうのに、いくら働いたってお母さんはちっとも楽にならんのに、なんで3人も子供を生んで、朝も夜も毎日働いて、みんな死んでしまうのに、悲しいことの方が多いのに、お母さんはそれでいいの。しんどくないの。そんな風に感じていた」 「表現する人はすごいなどと、なんでかいつの間にかそういう馬鹿げた話になっているわけだけど、表現というのは実はほんとうは滑稽で恥ずかしいものだ。表現者というのは大きな声を出してみたり、反抗してみたり、ここに居ますと叫ばなければ、そこに黙って座っていられないどうしようもない種類の人間であって、いわば一番判りやすく欠落した人間であるともいえる」 格差社会が表面化した現在の日本において、貧しさの中、すれ違いながらも互いを思いあう親娘の哀切な物語が芥川賞に選ばれたのは、出版業界や選考委員等々の思惑の域を超えた大いなる意思によるのではないか、ふとそんな気がしました。 | ||||
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ほとんどの芥川賞選考委員が賛成したのも納得できる作品。 読みにくい「小さな話」であり、純文学純文学している。しかし純文学らしい深く鋭い味わいも確かにある。 乳と卵子のつながりは選考委員が選評で述べていたようにもう一つストレートには腑に落ちないが、 日記をつけ辞書を調べ言葉の意味に拘る喋らない緑子(小学生)が、物事の根源を哲学的に探っているのに対して、 貧乳で豊胸手術を受けようとする母(中年女)「ほんまのことなんて、ないこともあるねんで」と現実に疲れた科白で応じながら、 二人が激しく衝突する文学ファンの間で評価が高いクライマックスは、 確かに、表現力でも相当に高いものがあるし、意味を考えても、鮮烈だと感じる。 前作とも構造が似ていて、(日記が出てきたり、クライマックスが騒動であること等)、 この作家に幅の広さがあるか疑問もあるけれど、 この小説は「純文学としては」、やはり腕っ節の強い、なかなかの作品であると感じました。 タイトルの「乳と卵」のついて。 衝撃のあるクライマックスの親子対決の、 「母と娘」の意味かもしれませんね。 乳を持つ大人と、卵である娘、の対決という意味。 (貧)乳に悩む女と、卵(生まれたこと)に悩む娘、の対決という意味。 ともかくこの小説は語り手である自分は脇役で、母娘のお話です。 貧乳である母を「父」性的なものと見立て、 「乳と卵」ならぬ「父と卵」という洒落的な含意もあるのかな? などと、 読者がちょっと迷ってみるのも、読者の勝手、読書の楽しみです。 | ||||
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最初は何とも読みにくい文章だなあと思っていたが、読み進む内に苦ではなくなりました。 樋口一葉のオマージュだという解説を読んで、納得しました。確かに、長い文の連続でした。少女の名前も緑子というのは、「たけくらべ」の美登利から採ったのかな? 物語は、コンプレックスから豊胸手術をしようとする母親巻子、その娘で初潮への不安と母への愛憎から喋らない緑子、東京でひとり住まいの語り手で巻子の妹夏子の3人だけが登場人物です。夏子の家での二泊三日の生活がすべてです。 内容が内容なだけに、男性の私としては解らないところが多すぎますが、話としては結構面白いと思いました。 文章全体も起承転結がしっかりしていて、しかも、ラストのクライマックスの卵のシーンは最高でした。 | ||||
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皆さん言われているように、関西弁でとうとうと流れ続く文章が 独特の味で、楽しんで読みました。 ただ関西弁を自分の言葉としないので、文体による効果と関西弁 による効果との区別がつかない。もちろん両者相まって著者の文 章なのだろうけれども、関西弁での微妙なニュアンスや意味合い がわからない自分としては、本当に味わえているのか?も確信は もてず、やや不安というか、損してるかも感があります。 この文体のまま、標準語に変換したらどんな感じか読んでみたい ものだと思いました。 内容については、たいして中身はないというご意見もなるほどと いう感じですが、女家族で育ったためか、母親と娘の葛藤や、つ いにふたりの間の壁が崩れた場面は心うごくものがありました。 | ||||
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