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乳と卵
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乳と卵の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.31pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全68件 21~40 2/4ページ
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主人公のもとを訪れてきた姉とその娘。姉は豊胸にご執心で、娘はそんな母との会話を拒否している。そんな二人を前になすすべなしの主人公の、夏の数日が饒舌文体にて軽快に描かれる。 大きな出来事は起こらないが、日常の些細な一コマ一コマに、主人公の脳内を言葉が駆け巡る。読み進めると会話の捉え方、ものの見方に主人公のひととなりが表れてくるのだ。言葉の奔流に身をまかせると実に愉快な気持ちになる。ふふふ。 収録作「あなたたちの恋愛は瀕死」は、旦那はん(阿部和重)が書いたかのような作品だね。 【芥川賞】 | ||||
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村上春樹と川上未映子の対談で本書が紹介されていたことで読む機会を得た。 村上は本作に関して「『乳と卵』は文体だけだ」と断言している。これは「内容が無い」ということを 言っているわけではない。ちょうど村上と川上が「文体こそいかに大切なのか」という文脈で議論している 中での村上の発言であり、むしろ高く評価した一言である。その村上の断言を読んですぐに本作を購入した 次第だ。 ではどうなのか。 本作で川上が展開する「女性の感覚と論理」というものを男性の僕が実感することは極めて難しい。 同じ人間でも男女によって、全く違う点があることに驚いた。 ボーボワールは「女性は女性として生まれるのではなく、生まれた後に女性になっていく」という ようなことをどこかで書いていたと聞いている。本作はある意味では、その言葉を乗り越えた地点での 「女性とは何か」を指し示しているような印象を受けた。その「乗り越え」る為の手段が川上の 本作における「文体」ではなかろうか。かつ、そこを村上は評価しているのではないか。僕は そんな風に読んだ。 川上の本を読むのは初めてだ。もう少し読んでみようと思った次第である。 | ||||
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川上ワールド炸裂でした。思春期の娘が豊胸手術をしたがる母とノートでしか意思表示をしない、不思議な関係。母からの愛情を欲しがっているが拒むということでしか表現できずに悩んでいる娘と卵によるぶつかり合いの表現には圧巻されました。 | ||||
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某雑誌で著者のコラムを読み、気になってこちらの小説を読んでみました。 東京生まれ東京育ち、関西出身の親しい友人がいるわけでもありませんが、この本の文体(口調?)は全く気になりませんでした。 それどころか、声に出してみるとなんと気持ちの良いこと!私は、憧れの関西弁ってやつを手に入れた気がして楽しくなりました。 母であること、女であること、一生まとわりつく「女性であること」という事実に、登場人物それぞれが向き合っていたり、ぶつけていたり。 著者の本をもっと読んでみたくなりました。 | ||||
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関西弁で読みにくいかなと思ったけれど、ぐいぐい引き込まれていって、あっという間に読んでしまいました。 川上未映子さんの作品を初めて読みましたが、とっても感動しました。 | ||||
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到着、早々あっという間に読み終えてしまいました。 母と娘の心のあり方をのぞき見したような感じです。 ありがとうございました。 | ||||
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レビュアラーのどなたかがおっしゃっていたけれど、関西芸人のテレビ進出がなかったらこの本は読み進むのに難儀しただろう。彼らのおかげでこの本に対処するリテラシーが自然に培われていたのだった。わざわざ入門書や文法などを学習しなくても本書を楽しめたことに感謝。芸人たちもそうだけれど、著者の語りも物凄いものがあった。さすが芥川賞受賞作品だ。津軽弁も物凄い語り力があるのだが、残念ながら日本人の多くがそれを学習していない。大阪弁が第二標準語に迫りつつある現状で本文学は成立した。 表題を見たときどうして「ミルク&エッグ」とか、今風な言葉づかいをしなかったのかと思ったのだが、冒頭からそのわけが分かった。 胸のことを大阪では乳といい、卵(らん)は卵子と卵(たまご)が掛けてあったのだ。 レトリックというのだろうか、大阪弁のリズムでヴァイタリティックにまくしたてているなかで、斬新な比喩が次々と連発し、豊胸手術をする女の心理を掛け合い(弁証法)で分析し、大阪の下町を全国的に紹介し、姉妹、母娘らの心理を描写し、最後の大乱闘へ山場を持って行く構成・・・お見事です。 作品の出来とは関係ないけど、賞味期限が切れたばかりの卵を捨てようというのは違いますからね。全然、食べられますからね。うちの娘も捨てようとするけど、おとーさんは食べておなか壊してませんからね。もったいないことしないでね。 | ||||
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この本で、作者は明確でないものを表したいということだろうと思う。 改行のない文体、織り交ぜられる口語関西弁。うまく使って、 言葉にしにくいことを表現できているような気がする。 賛否両論あって、それだからこそ、この作品の良さだと思う。 | ||||
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文学好きならば、「文体がすごい」とは思わないのではなかろうか。ありていに言えば「ありきたり」である。実際に「ありきたり」かどうかは、検証してみないとわからないが、少なくとも「走るような文章を読点なしで、口語調に滑らせていく」ような文章に、真新しさは感じない。 そもそも文章の修辞法で文学にチャレンジするのは、なかなか難しい。それは、すでにそういう類の小説が出揃っているという意味以上に、文学が新しい「言葉づかい」をけん引して作り出していくという役割から一抜けしてしまっているからである。衰退しつつある文学に、風俗的に言葉づかいを変えていくエネルギーはもはやない。そういう時代に、一風変わった文体で小説を書くのは、ハンディだ。 文体を選ぶ際、そういう時代的な見地から、この作者が無意識だったとは考えがたい。感覚頼りに「この文体意外あり得ない」という発想だった可能性は、否定できなくはないが、一部「若書き」な箇所は残しつつも、綿密に配置されたであろうプロットを追う限り、文章の自由奔放さは仮の装いに他ならず、よくよく耳を澄ませば、本作の文体は、抑制のきいたプロットと不可分であり、文体自体も充分に「抑制」が効いている。 あるいは「抑圧」と言ってもいいかもしれない。 妹に一方的に語られる姉「巻子」と、その娘「緑子」は、完膚なきまでに社会に抑圧されている。それは彼女たちの「母子家庭」という状況に起因した「抑圧」ではない。ひとことで言えば母巻子の「器量の悪さ」からくる抑圧だ。「格差社会における貧困」とか「生活保護受給者」であるとか、私たちが、テレビや新聞でよく見るあの種の抑圧である。 巻子は、その抑圧からの解放の道筋として、「豊胸手術」に活路を見出す。読者はもちろん、その活路にこそ抑圧の本質を観ることになる。「うわぁ、豊胸手術とか悲劇ぃ・・・」と、もはや痛々しい。でも、これが笑えない。笑わせない。これには、本当に綿密な主題選びが見て取れる。まだ、伏線や素描に未熟さは残るし、ラストの収まりがキレイ過ぎるところには、疑義を挟まぬでもないが、将来が楽しみな作家である。佳作。 | ||||
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私は国語の偏差値が47だったのでこの文章の良さを理解することが出来ず、きっと日本語を使いこなせる達人ならばこの文章が放つ魅力に気がついて新たな文学の楽しみを見つけることが出来るにちがいないので自分もその仲間入りをしなければと目に蒸気機関をつけたように休めること無く読み進めたけれども、ついに最後まで理解することは出来ずあーあ本当に無駄な時間を過ごしたなと後悔した。 これはセットで売られている『あなたたちの恋愛は瀕死』を読んだ感想である。一番はじめに短いほうから読んでみるかとと思って先に読んでみたら糞つまらなかった。このレビューにおいて最も評価されている人が「関西弁で無ければ成立しない」と書いたがまさにそれ。『あなたたちの恋愛は瀕死』は関西弁では無く標準語の作品でこれは本当に読み進めるのが困難なのだ。 では、『乳と卵』に関してはどうかと言えば、実際関西の女性にはこれと同じくらい思ってることをフィルター無しにこちらに伝えるような傾向があるようにおもえるし、この文章を読んでもまったく不思議には思わない。 それどころかまるで関西の女性の友人が一人で来て自分の近辺の話しを聞かせて貰っているような感覚を覚えて魅力的だと感じました | ||||
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今更ながら,ああ,嬉しい。 自分好みの文体の作家を発見したときは本当に嬉しい。 町田康の「くっすん大黒」を初めて読んだときの喜びを思い出す。 大阪に住む姉「巻子」が,その娘「緑子」とともに,東京に住む「わたし」を訪ねてきて,そして帰って行く。 巻子は,豊胸手術を真剣に考え,そんな巻子に納得いかない緑子は,言葉を一切しゃべらずノートで筆談する。 ただそれだけの物語なのですが,関西弁の中に時々混じり込む「です。ます。」文がなんともおかしくて,にやにやしながら一気読み。 特に,緑子のノートに書かれる内容が抜群です。 たとえばこうだ。 「胸について書きます。あたしは,なかったものがふえてゆく,ふくらんでゆく,ここにふたつあたしには関係なくふくらんで,なんのためにふくらむん。どこからくるの,なんでこのままじゃおれんのか。」 レビュータイトルの文章「厭を練習。厭。厭。」は,冒頭の緑子の日記からの抜粋ですが,この一文立ち読み後,即レジへ。インパクト大。 傑作です。 | ||||
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川上未映子の作品はこれが初めてです。なんとなく図書館で目に留まりました。 他の人の書評にもありますが、最初の文体はとっつきにくさはありますが、 徐々に心地よくなります。 内容というか、話題も多分女性からすればどこか共感できる内容だと思います。 話題のせいか分かりませんが、人間を一言で言いきらない文体や安直に割り切ら ない表現に、彼女の人間に対するやさしさのようなものが感じられて私は好きです。 これから他の作品も読んでみたくなりました。 | ||||
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読み終えて、正直、何となく他の作品も読んでみたいと思った。終盤は少し駆け足で運ばれてしまった思いがあり、それが良かったのか、物足りないものなのか、判断できずにいる。消化不良のままなのである。もう一丁頼みます。しかしながら、魅力的な作家であるので、楽しんでみたい。最後の数行が、自分にとっても吉なのか、凶なのかは、時が答えてくれよう。 | ||||
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個人的には前作『わたくし率 イン 歯ー、または世界』の、ぶっ飛んでる女の怒濤の大阪弁語りで繰り出される狂気と哲学の入り交じった世界の方が好きだが、こちらも十分に読ませる。思春期の誰もが感じる自分の身体への違和感に苦しむ娘と、老いていく身体へ抗うように豊胸手術に拘る母、その親子が卵の黄身や白身にどろどろになりながら必死に答えを探す姿に圧巻の美しさを覚えざるを得ない。それを中立的な立場で見守る主人公の姿は、永遠に答えのでない謎にうち震える作者の姿だろう。この作者のものの見方は、凡人のそれとは遥かにずれたところにある天才肌の作家のそれだろう。後の長編『ヘウ゛ン』で、それはますます深化してゆく。余談だが、作者は最近同じく芥川賞作家の阿部和重と結婚なされた。こちらも一歩も二歩もものの見方のずれた天才肌の作家なので、この結婚がお互いの作風にどんな影響を与えることになるのか楽しみに見守っていたい。 | ||||
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緑子は大人になることを嫌い、人が生きていくことに疑問を持つ。 精神が体を脱け出して、人間の肉体の不可思議さに興味を持ち、悩む少女は決して暗くなく明るさを感じるところがよかった。 人間であることに疑問を持つ少女から人間らしさが溢れてくる、そうやって生きていくことを少しずつ学んでいくのかなと思いました。 | ||||
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前評判を全く知らずに読んだからでしょうか、私は読み終わった後、しばし読書の喜びにひたりました。 女性として生きることの苦しさと切なさ、その中に確固として存在する誇りを感じます。 悩みもがくすべての女性に幸あれ。 | ||||
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多分、この作品・作風に合う人・合わない人極端だと思います。 関西弁で語っているけど、なんとなく北の国からの ナレーションを思い出してしまいました。 女性作者によるほぼ女性登場人物(わたし、姉、めい)のみによる母子の葛藤を メインに描いており、男性の自分には知りえぬ世界という点で 新鮮ではあったものの、おそらく偏った感性・感覚なんだろう と自分では解釈しています。吐き気を催す人もいるんじゃないだろうか。 最後、登場人物の母子が、たくさんの卵を自らの体で 割ってぐじゃぐじゃになりますが、 選択的緘黙を行っていためいが心からの叫びをしゃべりだします。 この卵、が意味しているところは何なのか?気になって仕方ありません。 | ||||
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なんだか「横漏れしません」という生理用品のCMでも聞かされているみたいだ。「それではいままではヨコモレしていたのか」と怒ったのは山本夏彦であったが。―男たちよ、かってに女というものを幻想すんなよ。セイジョウだかコウキだかビレイだか、そういうものを女性の価値と結びつけんなよ。それを穢してそこから性的快楽を得るためだけに、一生懸命幻影を築いてるだけだろ。女なんて清浄でも高貴でも美麗でもないんだ、もっと生身の生き物なんだ―というような小説が繰り返し書かれ、「眠りかけた男たちと目覚めかけた女たち」によって支持されている。 「妊娠小説」が男流文学だとすれば、「生理小説」、これこそ「アンネの日記」にも通ずる女流文学。最後、緑子の悲しみが奔逸し、玉子まみれになるところは哀切である。 | ||||
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第138回芥川賞受賞作品。 ひとつひとつの文が異常に長い。文法的に見ればなんだかおかしな文の羅列。 しかし、それがまったりねっとりとした空気を作り出しているように感じる。 この手の文章は生理的に受け付けないはずなのだが、意外に読みやすかった。 頭の中に、ぬるっと入り込んでくる感じ。 ところどころ、少しだけスプラッタな表現がある。 私はそういうのは非常に苦手なので、読んでいて少し気持ち悪くなった。 読後感としては、「なんか生臭い感じ」。それが率直な感想。 面白く、さくっと読めたけれど。 | ||||
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いつだったか、吉本隆明が現代日本の詩人たちについて、「彼らはもう書くべきことがない」という意味のコメントをし、その理由として「日本から自然が失われたから」と語っていた。残念ながら同感である。 そのような時代にあって、川上さんは貴重である。彼女にあっては自然が失われていないから。自然とは美しい山や川を指すのではない。いや、そのような認識ではもう我々は生きていけない。究極の自然は自身の肉体である。川上さんはそのことをよくわかっている。自然が感じられる限りは、つくりものではない感情もそこに宿る。 この芥川賞作品は、コンクリートの中で、生きものとして、ひからびてしまわないセンスを湛えている。 | ||||
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