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乳と卵
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乳と卵の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.31pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全42件 21~40 2/3ページ
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本書は川上未映子氏による芥川賞受賞作。 女と姉とその娘の、たった三日間のできごとを描いた作品。 主人公の女が住む東京に、40手前の姉・巻子と、その娘・緑子がやってくる。 豊胸手術を切望する巻子。 頑に言葉を発しようとしない緑子。 かつて一緒に住んでいたこともあったからか、それを自然と受け入れる女。 そんな三人の取り合わせという奇妙な設定の中、物語は進行する。 合間合間に挟まれた緑子の日記というか独白が、なんというか、切実だった。 ポジティブな友達とのやりとりを、自らのネガティブな思いに重ねて書かれてあり、 そのなんともいえない青臭さと切実さは痛々しかった。 まるで鬱屈した思いがどんどん溜め込まれ、破裂する時を待っているかのようだった。 そこまでコテコテではないので、関西弁の文章には違和感はなかった。 テーマがテーマだけに、男性である私は、本作を読むにあたって少し損をしているのかな、と思えばいいのだろうか。 そして本書に収録されたもう一編は、私には、意味不明。 | ||||
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本書に登場する、“わたし”の姪、緑子は 初潮や生理、卵子など、思春期ならではの疑問を抱く女の子。 ただし、彼女と話すには、筆談。緑子は自ら、言葉を捨てたのだ。 一方、その母親の巻子は豊胸手術しか頭にない。 巻子には見えていない。なぜ、緑子が言葉を捨てたのか。 そのズレが、緑子の日記と、巻子の豊胸に対する執着心に見て取れて 物語を興味深いものへと変容させている。 文章は、川上未映子氏独特の大阪弁の口語体。 まるで、頭に浮かんだ言葉をそのまま書き留めてあるかのようで、 違和感を感じるかもしれないけれど、それが、単なる文字の羅列ではなくて、 要らない部分をちゃんとそぎ落とした洗練された文章であることを読み進めていくと認識できるのである。そして、長い文章だからこそ、リアリティがあって、物語の世界を身近に感じてしまうのだ。 川上氏にしか生み出せない文体。彼女の魅力を感じた作品でした。 | ||||
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登場人物は、わずか3人。短い小説である。 主人公と、その姉と、姉の娘。主人公から見た母と娘は、言葉が足りない。「ありがとう」と「ごめんなさい」が言えないばかりに傷つけあう。でも、そこに気持ちがないわけではない。 母娘の断裂の契機は、生殖と性行為とが微妙にニュアンスの違いを持つ事態に近しい。母親は乳房の復興を願っており、娘は生理の開始を恐れている。 しんどかったのは、この乳と卵が備わった女の体を持つ、ということ。その女の体に自覚的に、意識的に、違和感すら伴って対峙してしまうときの、体に閉じ込められているモノのつらさ。そのつらさを感じずにはいられず、無視することもできない、感性を持ってしまったしんどさ。 この小説はしんどいなぁ、と思うことは、そこで、この小説を書かざるを得ない人もしんどいなぁ、という思いに転化して、この小説家と同じく女の体を持つものはしんどいなぁ、と普遍化する。 それにしても、「私」にとっていつから身体はこんなにも他者になってしまったのだろう。 | ||||
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性にまつわる赤裸々な語り、最後の奇妙な盛り上がりは読んでいて飽きること無く、 それなりのカタルシスもあったが、これが後年、自分や世界へ、多くの影響を与えるとは思えなかった。 母・巻子の豊胸手術、娘・緑子の出生への悩み、そこにがんじがらめになる余り、二人は意思疎通を滞らせる。 迷走の果てに目が覚め、互いに今までの間違いを悔いるシーンで話は終わる。 しかし、私はその後の、親子を見たかった。 巻子は本当に貧乳へのコンプレックスを昇華できたのか、 ノートでしか親と向き合えない緑子はきちんと話せるようになったのか。 終始関西弁で捲し立てられる話は、読んでいて小気味良いリズムであったが、 同時に、人情話のベールを無理に被らせた居心地の悪さも感じた。 後ろの短編「あなたたちの恋愛は瀕死」の系統でしつこく筆を進める作品が、 作者には合っているのではないかと思う。この作品以外も読んでみたいと思う。 | ||||
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表現の仕方が古文的現代文と言ったイメージで、文章と言うより、そらんじているような軽快さはあるけれど、内容を把握しづらく多少憤懣してしまう事。 だけども、あえて簡潔過ぎない表現が、すごくリアルで現実との違和感がなくスラッと読めました。作者のキメの細かい思春期の女の子の心情の表現や女同士で論駁しあう様は滑稽であり、愁嘆でありました。 | ||||
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饒舌の関西弁はときにリズムを生み出し、心地よい。(私は関西在住なのですらすら読めました。) ただこのリズムに頼りすぎたと思う。本質を見ればこの小説の持つ意味というのは本当に範囲の狭いものだ。特に私を含む男性が読むには向いていない。 後半は皆さんが仰るように特に減速した。それこそ卵とぐちゃぐちゃになるというのはそれは視覚的には強烈なのだけれど、そこからすんなり収まってしまう。そういう狙いなのか。身体と言葉はすごく魅力的なのに、勿体無い。 現在執筆中という川上さんは「リーダブルな」小説を目指したいと言う。彼女の可能性には本当に羨ましいものがあるし、"これから"を期待していいと思う。 | ||||
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文体が独特とか(一時の流行物っぽいけど)改行がないとか、 句読点が、とか、そういう文章のスタイルの問題ではなく、読んでいて疲労感があるのは、 作者の「力み」が作品中に漂いすぎていて、それがちょっとキツイと感じた。 言いたいことや表現したいことはすごくわかる。 けれど、作者の混乱がそのまま表れていて、むしろ分かりすぎて、 もう少しトーンダウンしてから、消化してから書いた方が良かったんじゃじゃないと思ってしまった。 小説とは何か? ということを思わず考えてしまった。 ブンガクしているのかもしれないけれど、 この作品は、私にとっては、小説未満、でした。 同じテーマでも、小説として変換したら、また違った作品、違った表現になったんじゃないかな。 恐らく作者は頭のいいひとで、いろんなことを考えて考えて、考えすぎちゃうのかな、と。 | ||||
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この誰かを真似たような文体を疑問に思ってる人が予想通りたくさんいてよかった。 結局、個性も強すぎるとハテナマークが出てきますよね。 芥くんが泣いてますぜ。 | ||||
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性の不快さ、不思議さ、不可解さ。自分が願ってもいないのに、体だけが先へ先へと進んでしまう。この気持ちは、なかなか好転しない、なんともやるせなく、苛立たしいあの状況にそっくりだ。 なぜ人は大人になるのか。なぜ胸に脂肪をつけ、そして血がでるのだろうか。なぜで頭がいっぱいになる。なぜをたくさん放出して、きっと皆大人になっていくのかな。単純でいたいけど、単純じゃないんだよ、この世の中は。大人になるってどういうことなの? 主人公の姪、緑子は頑固で、そしてほんとうに子供らしい。なぜなら彼女はなぜで頭がいっぱいで、それを怒りに変えていくことが出来るから。そんなこと大人がしたら、周りからはやれやれって目でみられるけれど、子供なら、まぁ子供だしと、許されるから。子供たちよ、怒るのだ。怒る理由なんぞ何でもいいのだ。大人は考えすぎるから、頭が良すぎるから、そしてあの頃を忘れがちだから。。。彼らに教えてあげてください。22歳の私が小学生の緑子になぜか親近感を覚えた。 | ||||
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話題になった当初は、店頭でパラパラめくり、その文体の独特さに避けて通っていましたが、賞を受けた作品に対し、お手並み拝見したいと思い始めた時に、某古書店で見かけたのをキッカケに読んでみました。 内容は母:巻子と娘:緑子が、それぞれ女性としての自分の体に深い苦悩を持ち、悩んでいく過程で緑子は言葉を失い、また親子としての絆をなくしてしまったが、巻子の妹である「わたし」の家で過ごすことにより、それらを取り戻す話。 同じ女性として、特に巻子と同世代としては、考えさせられるものもあったのは事実です。 独特な文体に関しては、スムーズに読める文体だけが良い文体だとは言いませんし、この作品の場合、独特な文体により女性の思考がリアルに表現されているとは感じました。 ではなぜ評価がイマイチなのかと言えば、私にとっての「いい作品」は、「頭に言葉が入り込み、その言葉、もしくは作品の空気感がいつまでも頭に心地よく留まっている作品」であり、そう考えるとこの作品の場合、言葉を目で追い理解するのに精一杯で、言葉が頭に留まるどころか、読み終えた途端に言葉がいなくなってしまい、作品の余韻を味わうどころではなく、「後世に残る名作か」と考えると、申し訳ございませんが、私の読解レベルでは理解できない域にある作品だと感じました。 | ||||
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芥川賞(138回)。改行の無い文章が続く。状況描写は非常に繊細で上手に思う。女性の肉体的特性と心理的特性を書き綴っている。 個人的はあまり好きな文体でもないし物語性も無い様に思う。娯楽として楽しむ文学なのかなと。もちろん普通のヒトが持ち得ない才能を発揮されているのは間違いない。以前養老さんと茂木さんの講演会で奇抜な質問をしていた事を思い出した。哲学や心の問題にも大きな興味をお持ちの方のようだ。 | ||||
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前作「わたくし率 イン 歯ー、または世界」の演出された狂気に比べると、ユーモア度というかペーソス度というか、そこいら辺のパラメータを上げて、より一般の理解を得られる作品にチューニングされている。全体的なトーンとしては、ユルイけど悲しいみたいな。 「乳と卵」って意味深なタイトルが、母の豊胸への想いと、娘の初潮に対する恐れと嫌悪っていうベタな意味合いであるってあたりのユーモアが作品を象徴している。母親の饒舌と娘の沈黙ってふたつの文体が、女って生き物にあらかじめ規程されたやるせなさ、哀れさをうまくあらわにしていて秀逸。それと、この母娘を左右に置いた主人公の客観的な視点、思考ってのが、やけに「文学的」なんだよな(作者に近いんだろうけど)。たとえば主題とは離れるけど、「話したか聞いたかした内容のひとひらだけが、ちらりと脳裏を思わせぶりにゆくこと」に対する考察、とかね。最近、俺も歳をとったんで、こういう、シーンは思い出せないのにコンテクストの断片に既視感を持つことって多いんだけど、これなんて文学的。銭湯で幾多の女体を眺めるうちに、“漢字などの、書きすぎ・見すぎなどで突如襲われる未視感”に近い感じを持ってしまった、なんていう純文の先達が再三再四取り上げてきた、“日常の中の突如の意味の喪失なんて”のも手触りとしては懐かしい感じだ。この人、見かけの演出とは相反して、意外にオーソドックスな文学感覚の持ち主なんじゃないだろうか。 そうそう、現代の一葉って世評に対して、作品の中で五千円札の肖像に触れたくだりにはかなり笑わせてもらいました(ベタに返しとこ、みたいな)。この人、ちょっとユーモアあるじゃん。まだまだ埋蔵量ありそうだね。 | ||||
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読点で文章をつなぐだけで、一文がやたら長くて読みにくい文体。 それも関西弁がベースになっているから、 言葉を理解しきれない読者もいるかもしれません。 でも、我慢して読んでいるうちに、この文体が心地よく感じられるようになり、 目が離せなくなったりして。 ストーリーは、豊胸手術をしようとする母と コミュニケーション・ブレイクダウンに陥った小学生の娘が、 東京の妹(娘にとっては叔母)を訪ねた先で言葉を取り戻すというもの。 このあたりの話は、30代男性の僕には最も縁遠いことなので、 ほとんど共感できませんでした。 ただ、ストーリーはこの際重要ではなく、 ディテールに現代を生きる人の見えない叫びが翻訳されています。 その意味では、文学として成功していると言えるのでしょう。 芥川賞選考会でも賛否両論で、絶賛する人もいれば、 石原慎太郎氏なんかはメッタ斬りにしたとか。 ひとつ言えるのは、文学には正解などないということでしょう。 | ||||
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「ああ、いかにも芥川賞選考委員が好きそうな作品だ」 、というのが読みはじめてすぐに感じたこと。 もう今や若手作家に使い古された(パクられた)感のある 句読点の少ない文章とテンポには今更新鮮味はないけど、 この人の言葉選びのセンスは結構好きかも。 2作とも女として生きることの生き苦しさを感じさせる。 母であること、娘であること、姉であること、妹であること。 そして女であること・・・。 豊胸・初潮・メイク・・・などのキーワードから 女らしくあることに対する恐怖、嫌悪、 逆に女らしくなりたい願望までも描き出し、 文体のややこしさと言葉の選び方で仮面をかぶってるけど、 実は言いたいことはシンプルな作品なのではないでしょうか。 「あななたちの恋愛は瀕死」は 文学なのか、哲学なのか、モード系っぽさなのか、 とにかく何かを狙ってるっぽい空気がプンプンして作為的。 でも「乳と卵」のクライマックスの卵のシーンは迫力がある! 卵を割るたびにこの場面を思い出しそうで、ちょっとしたトラウマ(苦笑) 鼻につく点もある作家だけど、 こんなインパクトのあるシーンを描ける新人ってやっぱり凄いのかもしれない。 | ||||
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文体が力強い。句読点の打ち方が独特で・・・というのはやはり計算された上での書き方だからだろう。 豊胸手術を受けに上京する姉とその子。やりとりされる関西弁。何を表現したいのかは全く分からない。関西文化を安売りしている感すらある。 次の作品はもっと鋭いものなのかな。 | ||||
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今回だけはゆるしましょう。 二回この手を使ったらダメよん。 石原慎太郎は大嫌いだけど、ちょっぴり芥川賞の選評に 納得するところもある。 関西弁のいいとこが、関西弁ばっかりだと生かされません。 落語や漫談じゃないのだし。 それでも、瑞々しい魅力はある。違う手法で書いてほしいでだけ。 | ||||
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疲れたけど、あたたかい、という感じ。 それにしても、一文が長すぎやしないですか・・? そうでなくても関西弁は活字にすると、非常に読みづらいのに、マルがなくて、え、まだ続くの? という感じでで、だらだら続いていると、疲れる。 だけど、あたたかい雰囲気もすごく伝わってきた。 | ||||
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一言で言えば豊胸手術を決意した姉とその娘との関わりを通して、女という肉体を再発見する女性の物語、だろうか。 同じ「女」という「入れ物」に閉じ込められた魂同士であっても、その「入れ物」(やその変化)に対する嫌悪感や愛着や不安や不快を共有し共感し合えるわけではない。巻子にとっての緑子も、緑子にとっての巻子も、夏子にとっての二人も、不可解だ。同時にどこかでお互いのその感覚を、知ってもいる。知ってはいるけどそこに共感はない。 恐る恐る距離を取っていた三人が急速にぎゅっと近づくクライマックスは滑稽でありながら切実で、強烈だ。 話は変わるが、巻子、緑子は『たけくらべ』の大巻、美登利の姉妹から取ったのだろうし、夏子、は確か一葉の本名のはず。華やかな「性の世界」を背景にして「こどもの世界」の終末を繊細に描いた『たけくらべ』を読み合わせると、なお面白く読める。 | ||||
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文章が長くて読みにくいのか、だからこそ面白いのか、賛否が分かれているようですが、一つ一つの文が長いのだがシンプルでわかりやすい表現、ごちゃまぜな独特のリズム、一つか三つが妥当なのにあえて二つの視点。これを私は面白いと思い、むしろ読む力が伸びたとも思います。 ストーリーは、女なら誰にでもある体の悩みとの葛藤と、「どうしていいかわからない」親子関係を娘とおばさんという視点から描いてあり、クライマックスのシーンはそれまでの煮え切らない流れを一気に洗い流してくれる爽快さがありました。 ページ数も少なく展開も大きくないので物足りない感はありますが、「なぜかわからないけどよかった」感じがして、「おまけ」の短編もありチョットお得な本でした。 | ||||
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今まで読んだことのない独特の長々と続く文章にははっとさせられたが、実際に中身がある作品かと言われたらちょっと疑問。 最近の芥川賞は話題性や作家の経歴重視で、文学の質とはもはや違う気がする。 しかし不思議とこの方の次回作もぜひ読んでみたいとは思った。 | ||||
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