■スポンサードリンク
終りし道の標べに
新規レビューを書く⇒みなさんの感想をお待ちしております!!
【この小説が収録されている参考書籍】
終りし道の標べにの評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.89pt |
■スポンサードリンク
Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全3件 1~3 1/1ページ
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
安倍公房氏の『終りし道の標べに』は、ヨシモト先生(吉本隆明氏)の『固有時との対話』『転位のために十篇』と類似する、瑞々しい青春の情感が流れているように感じられる処がある。どちらも、初期の作品だから、当然かもしれない。 磯田光一氏の『パトスの神話』の「安倍公房論――無国籍者の視点」に、『終りし道の導べに』の一節が引用されている。 <そう言った動作を見ながらふとまた故郷への路しるべを見たように思った。(中略)もしかしてその標には《故郷の無い真理はない》と書いてあったかもしれぬ。何故か胸がしめつけられるようにうずいた。そうだ、恐らく故郷の外に真理はないのだろう。勿論一般に真理という時、我々はもっと別なものを考えているのかも知れぬ。例えばもっと大きな、唯一的なもの・・・素直に我々の手に身を委ねようとはせず、遠くから我々を支配しようとするもの。(中略) 悩み、笑い、そして生活する為に、人間は故郷を必要とする。故郷は崇高な忘却だ。> 上記の一節の「悩み、笑い、そして生活する為に、人間は故郷を必要とする。故郷は崇高な忘却だ」という言葉を私はいたく気に入って、本書『終りし道の標べに』を購入した。 ところが、本書の中で、上記の一節と同じ箇所が見つからない。 それもそのはず、著者は上記の一節を書き換えており、次のようになっている(PP22, 23): < そう言った動作を見ながら、またぞろ故郷への道しるべをのぞいたように思つた。そのうんざりするほど常識的な行為から、自分自身にもうんざりしてしまう。しかし、とつさに、私は二つの故郷を見極めていたように思う。ひとつは、われわれの誕生を用意してくれた故郷であり、今ひとつは、いわば《かく在る》ことの拠り処のようなものだ。今の陳の行為も、その疑いをさしはさむ余地のない単純さによって、ある郷愁をそそるのだ。もしかすると、その標識には《故郷の無い真理はない》と書いてあつたのかも知れぬ。なぜか胸がしめつけられるようにうずいた。そうだ、恐らく故郷の外に真理はないのだろう。真理・・・素直にわれわれの手に身を委ねようとはせず、遠くからひたすら支配しようとするだけのもの。べつだん有難いとも思わない。やはり人間の倫理がわれわれの手の長さ、人間の行動半径と、内容対素材の関係に立つのと、同様の現象にすぎないのではなかろうか。 人間は生れ故郷を去ることは出来る。しかし無関係になることはできない。存在の故郷についても同じことだ。だからこそ私は、逃げ水のように、無限に去り続けようとしたのである。> 始めに挙げた文よりは、現実感覚に近い表現になっている。 私は、やはり、「悩み、笑い、そして生活する為に、人間は故郷を必要とする。故郷は崇高な忘却だ」という妄想的な表現が好きだ。 どうして私は「故郷は崇高な忘却だ」に魅かれるのだろうか? それは、ウイリアム・サローヤンの 『ディア・ベイビー』の「はるかな夜」の中の、私の心を揺さぶる、次の一節と重なるからである: <ひとには歩いて行く道があり、他の人々はみな、それとはちがう道をゆき、彼らもそれぞれが別の道へ別れてゆき、そして若いひとの何人かがいつも死んでゆく。 世間は狭いというけれども、再び会うことがなければ、その人たちは死んでいるのである。もし出会った場所へ戻って、ひとりひとりを捜し、見つけ出したとしても、彼らは死んでいるだろう。なぜなら、誰がどの道を行こうと、それは、人を殺す道なのである。> ところで、著者は、本書の「あとがき」次のように書いている: <私の処女作である。この作品を書きはじめてから、20年になった。初版は、昭和23年の秋だったが、ながいあいだ手もとに本がなく、内容についても、ほとんど忘れかけていた。(中略) しかし、あらためて読み返してみて、私に出発点として認めざるをえないという気持ちになった。(中略)さすがに表現のまどろつこしさは争えず、多少手を加えはしたが、あくまでも原意をより明確にする範囲内にとどめることにした。20年間行方をくらましていた、私の最初の分身を、いまは心よく迎え入れてやりたいと思う。> 著者は「多少手を加えはしたが、あくまでも原意をより明確にする範囲内にとどめることにした」と説明しているが、残念だが私の妄想は薄められてしまった、と愚痴をこぼしたい。 お終い | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
主人公は、満州の地に流れ着いたひとりの日本人青年。故郷とのつながりを断ち、家族を捨て、恋人を捨て、戦争から逃れた彼の手元には、ただ鬱々と自らの思想をつづった一冊のノートだけ。ひょんなことから彼を拾った盗賊団の大物に目をかけられ、ノートの秘密をいつか明かすことを担保に、日々は過ぎていくのだったが…。 執拗に繰り返される青臭い観念と、閉じた空間にこだまするモノローグは、現在の読者にとって特に目新しいものではない。それはちょっとばかり自意識過剰で、それでいて自分が何者でもないことをどこかで意識しつづける、いつの時代にもいる若者のひとりごとに過ぎないからだ。 しかし、だからこそ、主人公の痛々しいモノローグはある種の読者の心にダイレクトに突き刺さる。 太宰『人間失格』しかり、サリンジャー『ナイン・ストーリーズ』しかり。ある種の小説は、特定の時期を過ぎると途端に色あせ読むに値しない駄作に感じられてくる。だが幸運にも「特定の時期」に出会った読者にとっては、その小説はなにものにも代えがたい珠玉の一冊となるだろう。 読者の大半は、時には壁にぶつかって悩み、やがて人並みの幸福の恩恵にもあずかり、世間を生き抜く知恵をつけつつ、やがて老いぼれていくだろう。残念ながら、それは事実だ。 対してこの小説の主人公は身体を壊し、阿片の深みにはまり、生きる屍となって汚濁の中に朽ち果てていく。その姿は美しい。それはもう、涙が出るほどに美しい。 自分にはなにもない、それでもなにかできるにちがいない、でもそれがなにかわからない。 これはそんなあなたのための小説だ。これを読み終えたとき、あなたは何も成長していないだろう。でも、きっとこの小説を好きになる。 だから、老いてしまう前に、早く。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
昭和23年に刊行された真善美社版「終りし道の標に」を昭和44年に全面改稿したもので、真善美社版よりも、ずっと分かりやすく、意図も明確に示されたものです。真の処女作である真善美社版の解説書として、また、一般・初心者むけの「終りし道の標に」として、こちらのほうが、なじみやすいと思います。安部の作品を一貫する「アイデンティティの問題」の原点を分かりやすく知る事のできる一冊です。 | ||||
| ||||
|
■スポンサードリンク
|
|
新規レビューを書く⇒みなさんの感想をお待ちしております!!