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ティファニーで朝食を
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【この小説が収録されている参考書籍】
ティファニーで朝食をの評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.10pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全54件 21~40 2/3ページ
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"ティファニーの店内にいるみたいな気持ちにさせてくれる場所が、この現実の世界のどこかに見つかれば、家具も揃え、猫に名前をつけてやることだってできるのにな。"1958年発刊の本書は、無駄のない文章、イノセンスなヒロインの存在が、映画とはまた違う魅力を伝えてくれています。 個人的には、とはいえ、どうしても大ヒットした映画版のオードリー・ヘップバーンの姿がタイトルを目にした瞬間に浮かんでしまうのですが。そう言えば、ちゃんと原作は読んでないこと、また【安定の村上春樹訳】だったことから本書を手にとりました。 まず感じたのは、後書きで村上春樹も指摘している様に、確かに本書におけるヒロインのホリー・ゴライトリーはオードリー・ヘップバーンとはイメージがちょっと違うかな?という印象【より退廃的で無軌道さが際立つ】感じがしましたので。もちろん良い意味で。 また"空を見上げている方が、空の上で暮らすよりはずっといいのよ。空なんてただからっぽで、だだっ広いだけ、そこは雷鳴がとどろき、ものごとが消え失せていく場所なの"などのサラッとしつつも、随所に散りばめられた【お洒落な言葉運び】にも洗練されたリズム感を感じて、読みながら楽しかったです。(原文と比較はできないのが、もどかしいですが) 映画ファンの誰かに、また第二次大戦下のニューヨークの雰囲気を感じたい誰かにもオススメ。 | ||||
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村上春樹のカポーティのテクストに基づく換骨奪胎を読む位なら原書を読んだ方がいい。 中学生の英語でも読めるからだ。現に私も中学時代に RANDOM HOUSE の SIGNET版で読んだ。 それに村上春樹は「カート・ウェール」をクルト・ヴァイルに直す事は出来ても、彼の DIE DREIGROSCHENOPER の歌手がどんなイギリス映画に出ているかは知らないだろうし、 カポーティが、どの時点でのマリア・オイスペンスカヤを描写しているのか、その彼女の 出演している映画さえ知らないと思う。 極めつけは「花盛りの家」という誤訳だ。これは”House of Flowers”だから、龍口訳の 「わが家は花ざかり」の方が余程打倒だ。村上なら知らない筈は無いと思うが、これに、 あの「虹のかなた」のハロルド・アーレンが曲を付け、ミュージカルとしてブロードウェイ で大ヒットしたのだ。この中の一曲”The sleepin' bee”はスタンダード・ナンバーとして 定着し、多くの歌手に歌われている。 1984年に発売されたCD:WITH A SONG IN MY HEART ではボストン・ポップスをバックに、 ジェシー・ノーマンが歌っている。編曲・指揮は勿論、ジョン・ウィリアムズ。プロデュー サーはジョン・マックルーアだ。 さて龍口直太郎 訳だが、私はこれを文庫版ではなくハードカヴァーの初版で持っている。 田中一光氏の洒落た装丁で Capote の表記も「カポーティー」となっている。下品な話 で申し訳無いのだが、フランス語で capote とはコンドームの事を指す。 初版発行は1960年2月29日。あとがきは僅か3ページで文庫版の昭和四十三年七月三十日 発行に比較すると、龍口さんがニューヨーク周縁の文化関係を如何に緻密に取材なさった かが判る。それは勿論、本文にも反映されているという訳である。 | ||||
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本書はカポーティの代表作「ティファニーで朝食を」と3つの短編から構成されています。 訳者の村上氏は、本書がカポーティにとって「カウンターポイント」になったとあとがきで解説しています。 【イノセンス(純真なる心)を巡る短編3作品】 花嫁は魔術的な試みを乗り越えてそれを取り返し、囚人の男は裏切りに出逢って再びそれを失う。 そして少年は追憶のインセンスを封印して、苛酷な社会への第一歩を踏み出します。 3篇とも流れるような語り口で、まるで一息で読ませるような強力な吸引力を放っています。 【ティファニーで朝食を】 第二次大戦下のニューヨークを舞台に、特異なパーソナリティーを抱えた女性像が描かれます。 可憐で大胆、社会やモラルの束縛から自由なホリーを、村上氏は「戦略的自然児」と名付けます。 先の3篇とはがらりと作風が変わり、何らかの新境地の下で生み出された息づかいが伝わってきます。 彼女は長い放蕩の末に安住の地に辿り着くのか、はたまた真のアイデンティティを見出すのか・・・⁉ ホリーのキャラクターには、そんなありがちな予定調和に代わる別の未知なる可能性が漂います。 カポーティの荒れ果てた晩年を思えば、本作には小説の革新性だけでなく、ままならない人生への儚い希望が託されているようにも感じられてきます。 粋な会話と端正な文章、高尚な描写から不道徳まで、すべてがドラマチックな読後感でした。 | ||||
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何故ティファニーか という話題があったことを思い出し中古で購入しました。 きれいな状態で満足です。(昔の田舎の本屋は表紙が日に焼けたような本も売っていた) | ||||
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ホリーのジェットコースターのような性格と窃盗癖が形成された過去が痛ましい……。 英語は直訳風でたまに読み辛い箇所もありましたが、第二次世界大戦下の弊害が秀逸に描かれていたと感じました。 | ||||
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もちろん映画も大好きなのですが、やっぱり原作は読んでおかないと! 時代背景とかいろいろな情感豊かなイメージが湧き上がってくる名作です! | ||||
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名作と呼ばれる作品には、 決まって魅力的な人物が登場する。 本作で言えば、それは間違いなくホリーだろう。 生き様や言動、性格、価値観、所作の一つ一つまで 彼女という存在に活字を通して触れることが、 日常から逸脱した体験になっていく。 「普段の世界では出会うことのできない規格外の存在」こそが 小説や映画、アニメといった創作物に人間を誘う要なのだろう。 今まで言語化できていなかった 「またこの本を読みたい」という感情は、 「またあの人に触れたい」という気持ちの表れなのだと実感した。 本を開いて、またホリーに会いにいこうと思う。 | ||||
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映画を観たあと原作を読んだ私は、ストーリーやキャラクターの違いに最初は面食らった。 オードリー演じるホリーは、車中でストッキングをはこうがシャツ一枚でうろつこうがバレリーナのような美しい動作で、どこまでも上品でキュートだけど 原作のホリーは、もっと生身の、はすっ葉でもろい女の子だ。 切ないほど安住を求めているくせに、それに手が届きそうになると怖がって逃げてしまう。 不安から救ってくれるのは大金持ちの男だと勘違いしている不器用な生き方・・・・この子は一生しあわせにはなれそうにないな~という痛々しさを感じる。 かと思えば、頭が弱そうでいてまっすぐ真髄をみつめているところもあり、とても魅力的なキャラクターだった。 主人公も映画とはまったく違う弱っちいタイプだ。 僕はホリーに恋してると言いつつも、二人の関係は性愛ではなさそうな気がする。 ニューヨークという大都会のすみっこで孤独で不器用な2つの魂が寄り添うような繊細な関係を読むと、映画の恋愛ストーリーをなんだかうすっぺらく感じてしまった。 ともあれ、女優オードリーは自分とは正反対のキャラであるホリーをあそこまで魅力的に作り上げたんだなあ~と改めて感心してしまった。 映画は映画、小説は小説、まったく別物でどちらも名作です。 | ||||
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龍口訳が原作に忠実で良いと色々なネットで評価されていて、どうしても読みたくて探していました。(村上春樹訳しか本屋は置いてなくて)状態も良かったし、表紙がヘプバーンなのもとても気に入りました。 | ||||
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とにかくホリー・ゴライトリーが魅力的。彼女は奔放で野性的、そしてなによりも非常に不安定な女性だ。現実で身近にいたら関わり合いになりたくないと思いつつも魅かれてしまうんだろうなと思う。 訳者あとがきにもあったが、彼女が「嫌ったらしいアカ」から解放されて安寧を手に入れることはないような気がする。彼女は一生不安定なままで、いつか決定的に転落してしまうのだろう。なんて儚い女性だろう、そしてそれゆえに美しい。 主人公が安易にホリーと恋愛関係にならないところがいい。主人公は明らかにホリーに魅かれているのだが、あくまでも友人関係で終わる。それだからこそ主人公はホリーという人間の核のようなところを垣間見ることができたのではないかと思う。 また、本書では「ティファニーで朝食を」以外にも三篇の作品が収録されていて、そちらも面白い。特に「花盛りの家」は結末が好きだ。著者は野性的で奔放な野兎のような女性を描くのが上手いなと思った。 | ||||
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村上春樹の訳もいい。ところどころ原文と比べてみたが、とてもじゃないがこんな日本語には訳せないと思った。 | ||||
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村上春樹という最高の訳者を得て、生まれ変わった本作。 子どものころ先に映画を見てしまい、そのイメージが鮮烈だったので、原作である本作を読み「えっ」とびっくり、そして、「ローマの休日」と比べてティファニー映画はあまり好きでなかったので、ああ、諦めずに原作を読んでよかったと得心しました。 はっきり言って、映画のティファニーは、ヘプバーンのプロモーションビデオにしてしまっていたと思います。 孤独で、危なっかしくて、彼女なりの価値観で行動するため世間からはおよそ「身持ちの悪い女」としか扱われないはすっぱな主人公。これは、清楚でエレガントなヘプバーンのイメージとは全く違うと思います。そして、多分に無理があった映画バージョンより、原作のほうがよほど格好よく素敵ですし、彼女に翻弄される作家志望の内気な青年の内面もよくわかります。 なんでこれがへプバーン主演なんだ! アイドル映画にするつもりだったんでしょうね。キューポラの吉永小百合と同じ。原作では不良で、野性的で、そこが魅力的な少女を、当代の清純派アイドルが演じるとすごく変な気がします。 清純派とファムファタルはどうしても両立しない。とまれ、映画見て読んだ気になっている方は(私もそうでしたが)、すごくもったいないです。一緒にホリーに翻弄されましょう! 切ないのは村上春樹の解説。作品だけでなくカポーティの生涯に触れているのはさすが。カポーティというのは、「年上のはすっぱな女性に翻弄される少年」しか描けなかった人で、また「草の竪琴」といい、本作といい、初期作品がすごく成功してしまったから、少年という柄でもなくなった中年以降、小説が一行も書けなくなった。何が彼を殺したのか、じっくりと問い詰めていく春樹解説、悲しい。 | ||||
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古本屋のワゴンから拾ってきたやつで、評判の村上訳はとりあえず無視。 オードリー・ヘプバーンの映画はわずかしか観てなくて、なんとこれは未見です。 きらいじゃないけど数世代前の女優さんだと思うから。 自由奔放、きまぐれ、現実的な処世、既成価値観の無視など型やぶりな淫婦ホリーの言動を追い、 ちょっとアタマおかしいんじゃないの、と危ぶむ。反面、破天荒な生きざまにあこがれてしまう。 彼女は実兄フレッド以外、何者も愛さないし、他者からの愛情も求めず、愛や結婚を手段に自由を満喫し、 各地・各国を転々とする。 ヒロインの個性が強烈すぎて、他の作中人物がかすんだ感は否めないが、軽妙ながら奇怪な印象を受ける。 ※ 写真・自己紹介は無視して下さい | ||||
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同じアパートメントに住む、美しくて自由で奔放なホリーに作家の僕は夢中になっていきます。 ホリーの話は交友関係の話題がひきこまれるし、持論もかわいらしいです。 作家の僕もホリーの行動をくまなく語ってくれるので、きっと読んでいるうちにホリーに興味がわいてくることでしょう。 闇の部分を持ちつつも、光を求めて必死に生きているホリーに慰められ、勇気をもらえます。 | ||||
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ホリーは、少女をみそめて結婚した変態おじさんの犠牲者だった。子供の将来や子供の最善を考えないで、自らのニーズのために子供を犠牲する大人たち。ホリーがまともな女になれるわけない。この作品は、大人に蝕まれ健全な少女時代を奪われた子供たちが、どういう大人になってしまうかを描いた悲劇だ。 | ||||
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ホリーは、少女をみそめて結婚した変態おじさんの犠牲者だった。子供の将来や子供の最善を考えないで、自らのニーズのために子供を犠牲する大人たち。ホリーがまともな女になれるわけない。この作品は、大人に蝕まれ健全な少女時代を奪われ子供たちが、どういう大人になってしまうかを描いた悲劇だ。 | ||||
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ホリーは、少女をみそめて結婚した変態おじさんの犠牲者だった。子供の将来や子供の最善を考えないで、自らのニーズのために子供を犠牲する大人たち。ホリーがまともな女になれるわけない。この作品は、大人に蝕まれ健全な少女時代を奪われた子供たちが、どういう大人になってしまうかを描いた悲劇だ。 | ||||
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イノセンス。 それは清らかな、たましい。 「ティファニーで朝食を」「花盛りの家」「ダイアモンドのギター」「クリスマスの思い出」の4つで編まれたこのアンソロジーには、そのイノセンスのきらめきと、そして避けえないその消滅が描かれている。 訳者によればこの小説はトルーマンカポーティの「第二期」に苦難の末に生み出された作品なのだという。 恐るべき子どもと呼ばれた早熟な「第一期」、彼は自らの内側からあふれ出るようにやってくる物語たちをそのペンで受けとめ、時代の寵児となった。 やがてその天然の栄光は去り、小説を書くという苦行を引き受けながらしかし彼は、このような永遠の輝きと、それにひとしい重みのある陰を持った作品を上梓することとなる。 この短編集は、不思議な後ろ髪を引く力に充ちている。 通読する間、なぜこれが現代の古典となりうるのかが良く分からなかった。例えば同時代を生きたアーウィン・ショー(夏服の女たち)やサリンジャー(ナインストーリーズ)と比べると、こころを動かす力が弱いように思えた。それは自分とこの小説のチューニング(同調)が取れていないのかもしれないな、と思いながら読んでいった。ページを手繰るスピードも、さほど上がらなかった。 しかし一つ目の中編小説(ティファニー)を読み終えてから、不思議と胸に響くものを感じ始め、後の3編はすらりと読みとおすことになった。 本を閉じて、登場人物たちが心の中に居残る。 ニューヨークの社交界の妖精でありまた、あばずれ仔猫である、ホリー・ゴライトリーは、小さな竜巻のように周囲に迷惑をかけながらも、その天性のイノセンスですべての人々を魅了し、虜にする。 ハイチの娼館のオティリーはどんな境遇にいても夢見ることをやめず、生涯を囚人として過ごすミスタ・シェーファーは遠い目をして気まぐれな若い友だち(失った彼自身のイノセンスそのもの)を思い出し、そしてクリスマスを心待ちにする老婆は、世間や親族からどんなにないがしろにされても、自らのこころの中の純潔を捨てることだけはしない。 やがてくる、人生との別れ、イノセンスとの離別の時まで―――。 その影があるからこそ、輝きはよりいっそう美しさを増し、そして切なさとともに読み手のこころに刻まれる。 我々は、あらかじめ失われることを決められている美しさを持って、この世にやってくるのだ、ということを。 それはすなわち、カポーティ自身が苦難の末にたどり着いた持論なのだろうと思う。だからこそ、そのメッセージは重く、また同時に、クラッシック(古典)として永遠の輝きを得た。 美しい短編集だ。 | ||||
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「ティファニーで朝食を」も勿論よかったのですが、最後の「クリスマスの思い出」は、静かな夜に読んで思わず涙させられた静謐な佳品です。 表題作目当てで読んだ一本でしたが、期待していなかった分本当に衝撃でした。表題作よりも、私は今でもこちらの方が印象に残っています。 若かりし時の思い出です。 | ||||
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すぐに届き、満足でした。 映画、訳者のファンなので楽しみです。 | ||||
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