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死霊



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死霊の評価: 4.24/5点 レビュー 72件。 Aランク
書評・レビュー点数毎のグラフです平均点4.24pt


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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です

※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください

全72件 41~60 3/4ページ
No.32:
(5pt)

宇宙の彼方を見る埴谷節

第五章「夢魔の世界」で、本格的な主題の展開がなされる。その、どこの世界の話なのか分からなくなる文章は十分衝撃的である。
 おそらく、この作品でなければ自分の目指すところが示されない人がいるのである。そう考えると、人間も捨てたものではないと思われたりする。
 人間は、生まれてからいろいろ学び取る。その一つに、「考えても答えにたどりつかない」というのもあるはずだ。特に学校教育でそのことを不本意にせよ学び取ってしまうのだ。問題を提示されて、何時間も考えて出した答えにバッテンをつけられてしまうからだ。解説で鶴見俊輔が言っているように、埴谷氏は知識人ではあるが日本の教育の線から外れた人間で、エリートではないのだ。そういう、知に関して異端な人間だからこそ、間違っている可能性があるとしても、考え続けることができたのだろう。もっとも、それは合っているか違っているかなど問題ではない、「芸術」として現れたのかもしれないが。
死霊(2) (講談社文芸文庫)Amazon書評・レビュー:死霊(2) (講談社文芸文庫)より
4061983253
No.31:
(5pt)

形而上を語る埴谷節

何というか、一種の抽象小説と言えるかもしれない。抽象と言ってもバロウズとかのように形式自体が抽象的なのではなく、文章の対象が抽象的なのである。
 フランク・ステラやキーファーの絵画を髣髴とさせるような、世界の限界を見つめて言葉にしようというセンス。あるいは意志。それが、内容をはっきりとすみずみまでくまなく理解できない読者にも、形而上の詩情というようなものをかきたててやまないのだ。
 「もし人間をその内部に含んでいた存在が、或るとき、或る窮極の、時間の涯のような瞬間、怖ろしい自己反省をして、そこに嘗て見慣れた存在以外のものを認めたとしたら、永遠に理解しがたいようなものがそこに残っていたとしたら、ばっくり口をあけ虚空の空気が通うほどの巨大な傷がそこに開いているとしたら、そのものは人間からつけ加えられたものだ。それは時期知れぬ、何時の間にかつけ加えられた。それは、それまで見たことも予想したこともなかった、まるで奇妙な、存在が不動の存在である限り決して理解しがたいものの筈です。おお、それこそ・・・その名状しがたいものこそ、虚体です!」
 小説は何かをイメージさせる。それができなければ小説には成りがたいだろう。「死霊」は抽象的で巨大でもあり極少でもあるような理屈をすすめつつ、きちんと読者にそのこの世ならざるようなイメージを喚起させる。だから、多分多くの読者にとって哲学というよりは芸術になるのだと思われる。ちゃんと形而上学をやりたいなら、あるいは数学の問題集でもやった方がつぶしが効くことになるかもしれない。だがこの小説の、理屈言葉を芸術にした世界は、つぶしが効かなくても、時間を費やして読む価値があるのかもしれない。
死霊(1) (講談社文芸文庫)Amazon書評・レビュー:死霊(1) (講談社文芸文庫)より
4061983210
No.30:
(2pt)

忍耐と妥協を要する作品

形而上作品というので期待を込めて全巻購入したのだが、期待した程の壮大さや神秘性は無く、唯ヶ、著者の虚妄と空想からなる観念の戯言と、観念の遊戯が執拗に繰り返される駄作でしかなかった。著者の自己陶酔的で、読んでいて辟易する程の無駄で退屈な情景描写。意味深なようでいて無意味であり、何か足りないのではと思える作中人物達の議論や自論があることを考慮すると、全体としては読み飛ばしてもよい部分が多く、もっと削れば良かったと思う。はっきりいって期待はずれの作品で、全体としては買って損したと思うところだが、その中でも首肯できる思想や、キリストや釈迦への批評場面は読むに値する優れた章であったので、この点顧慮して、まあいいかと妥協した。この作品を傑作とする人は多いのだろうけど、私には虚作であり、駄作に思われた。何度か読み返さないと理解出来ないのかもしれないが、そんなものは傑作ではない。傑作には批評などいらず、只ヶ読めて良かったと素直に感じられる作品こそが傑作なのだから。好みにもよりますが、初めて読まれる方には忍耐と妥協を要する作品に思いました。
死霊(1) (講談社文芸文庫)Amazon書評・レビュー:死霊(1) (講談社文芸文庫)より
4061983210
No.29:
(5pt)

活動家に勧められた本

嘗て少年であった今から三十数年前に、ある活動家から「君はハニャは読まないのかね。」と言われ、
「羽生なんて興味ありません。」と即答しました。
その後、宛先が私書箱の同じ活動家から手紙で「埴谷雄高を読みなさい。」と言われました。
早速、書店に行き、店員に「ウエタニオタカ」の本はどこにありますか。と聞くと店員は暫く考えて「こちらです。」と
埴谷雄高の本が並ぶ書架の前に案内してくれました。
未来社からシリーズ化されていた数冊と講談社から出ていた本書を求めたのが、出会いでした。
今は第一章から第九章まで一気に読めるので、この世界に浸るには良い環境です。
少しもレビューの体を成していないではないかと言われそうなので一言。
「カラマーゾフの兄弟」をお読みになられた方にはお勧めです。
或は本書を全巻お読みになられた後に「カラマーゾフの兄弟」も良いでしょう。

さて、レビューを掲載して一年経ちましたが、未だに本作の独特の世界は脳裏に残ります。
生涯の中で、読んで面白かった「よみもの」の一つであることには間違いないようです。
お勧めします。
死霊(1) (講談社文芸文庫)Amazon書評・レビュー:死霊(1) (講談社文芸文庫)より
4061983210
No.28:
(5pt)

50年間の時代背景

ある評論家は時代背景を考慮して読んではならないと書いていたが、始末の描写は生々しい。学生運動の終末と連合赤軍は無視できないと思います。また気が付くと特定の漢字がぱたりと消え、違う漢字が登場する。相変わらず始末の描写意外は精神現象学か宮沢賢治の童話かで、難読ですが、もう嵌ってしまいます。
死霊(2) (講談社文芸文庫)Amazon書評・レビュー:死霊(2) (講談社文芸文庫)より
4061983253
No.27:
(5pt)

嘗て少年たちの夢想の裡

中学校の卒業間近、人の来ない屋上に通じる階段の踊り場で、宇宙やこの光の反射で見える現実が全てであろうかと友人と語り続けた事がふと懐かしく思い出させられる7章です。
また最も吹き出すシーンが多いです。
昨年、雪深い霧積温泉で何故か養殖されていたテラピア(中東のガリラヤ湖の原産)が、本作中で焼き魚にされて喰われたことを訴えるのには因果さえ、感じてしまいました。
しかし途中で終わってしまっては困ります。
だいたい最後の晩餐にひとり欠けている。
多分私は作者の真意などお構いなしに楽しんでしまったのでしょう。
あらためて、一気に読める環境が好かったです。
死霊(3) (講談社文芸文庫)Amazon書評・レビュー:死霊(3) (講談社文芸文庫)より
4061983288
No.26:
(5pt)

これは童話です

一昨年亡くなった池田晶子さんが、いみじくも言っていたとおり「死霊」は童話です。誤解を招く表現かもしれませんが、多様な感受性を喚起するという点において、この作品はファンタジーだと思います。マルクスとかドストエフキーは、あんまり気にしない方がいいかも。
死霊(1) (講談社文芸文庫)Amazon書評・レビュー:死霊(1) (講談社文芸文庫)より
4061983210
No.25:
(5pt)

人は何をもって、人足りえるのか…

人は生まれたときから人であろうか?
それともその人生の過程で人となるのか?

我々は人間である。では、人間とは何だ。
動物ではなく人を人間たらしめているものは。
未だ動物から脱却できず、人になれぬものには理解できないのがこの本であろう。
もし、この本が理解できぬなら貴方はまだ人ではないのかもしれぬ。
理解できたのならば人でなく人を超えた超人になるかも知れない。

しかし、それこそが人なのであろう。
全てに意味は無い。全てが無意味である。
では、人生とは如何に?
死霊(1) (講談社文芸文庫)Amazon書評・レビュー:死霊(1) (講談社文芸文庫)より
4061983210
No.24:
(5pt)

騙されるな!これはとてもポップな青春小説だ。

これは、「わけがわからないことを考えてしまう」という自然な青春を、ごく素直に表現してある小説。

深夜枠でアニメ化されていないのが不思議だ(私が知らないだけ?)。

例えば、「2001年宇宙の旅」で単純に高揚できる人ならば、このレビューの意味を、読み始めてすぐにわかってくれると思う。
死霊(1) (講談社文芸文庫)Amazon書評・レビュー:死霊(1) (講談社文芸文庫)より
4061983210
No.23:
(4pt)

私が私である不快。

「大きくなったら何になりたい?」「あなたの夢は何ですか?」誰もが一度は投げかけられたことがある問いだろう。だが社会で権威を与えられている何かに自らをなぞらえ、或いは純粋な憧れから「〜になりたい。」と答えてしまった瞬間に奇妙な不一致が自己の内部をよぎった経験はないだろうか。例えば「私は医者になりたい。」このように言い切ったときに生じてくる自らへの問いかけ、・・・じゃあ、私から医者を引いたなら私はゼロになってしまうのだろうか?何か残っているよな。はたして私は医者になりきれるのだろうか?・・・自己実現(自己をあるべき自己に一致させてゆく過程)と呼ばれる言葉が社会に氾濫し始めてから暫くたつが、自らをある対象に同一化させる動作は本質的な欺瞞を含みこんでいるのではないだろうか。作者が死霊の中で一貫してこだわり続ける主題はこの私が私であると言い切ることから生じる不快感である。一方人間が特定の場所で特定の役割を果たさなければ(人が何かにならなければ)社会は維持できないという事実も厳然として存在している。それでもなお、私が私であることに対して居心地の悪さを感じるならば、一度死霊を紐解かれてみるのもよいかもしれない。
死霊(1) (講談社文芸文庫)Amazon書評・レビュー:死霊(1) (講談社文芸文庫)より
4061983210
No.22:
(4pt)

考えに考えてそれでもなお考えて、ぷふぃそしてあっは。

1巻は探偵小説なので面白い。

それ以後の巻は、思考を強制する呪文、そしてその思考の継続を受け継げさせるための遺言のような感じ。

そんな書が文庫になってしまうのは、悲しいというか社会の終焉さえ感じさせる。

存在というものに、秩序や整合性や必然性を感じるか、意味の無意味性を追求するか、問い自体の空虚を感じるか、いずれにしても、人間の感覚に根ざしている点で、哲学小説ではなく、おそらくもっと単純で深遠である。
死霊(1) (講談社文芸文庫)Amazon書評・レビュー:死霊(1) (講談社文芸文庫)より
4061983210
No.21:
(3pt)

最高級の贅沢

今まであるはずのない「虚体」という概念を追い求めて、
壮大な形而上学を展開した思想小説。
それぞれの人物が何か一つの概念の小宇宙を体現している感じ。
そういった小宇宙がどのように関係をもつか、
とてつもない思想実験をしている様子を描写しているように思う。
そういう意味で仮構に徹している作品であり
現実味という生々しさは全くない。
ドストエフスキーのカラマーゾフの兄弟なんかには
それでも人物の人間味みたいなものも付与されていたが
これは全くそういったものを取り払った、純化した感じ。
でもだからこそ最高級の仮構であり、現実とはまったく
かけ離れている。現実とかけ離れたものこそが
現実を照らすという弁証法も成り立つかもしれないが。
神に対して挑戦を挑んだ作者が
「創造」に関してどこまで考え抜くことができるか
そういった人間の可能性について教えてくれる。
しかし、これは現実ではなく、ある種
最高級の贅沢なのではなかろうか。
死霊(1) (講談社文芸文庫)Amazon書評・レビュー:死霊(1) (講談社文芸文庫)より
4061983210
No.20:
(5pt)

日本文学の最高傑作

と書けば、ホントウは他の批評は必要がありません ;)
 とはいえ、わたくしも、十年以上も前から「読まねば・・」と思っていながら躊躇していた本なので、この度の文芸文庫からの出版については踏ん切りをつけてくれたという意味でも感謝しています。「評論集」も併せて、黒ずくめの装丁として、明らかに他の著者と区別するのはちょっとやり過ぎの観もありますが、「死霊」の装丁としてあの色は正解だったでしょう。
 内容についてあまり触れたくはないのは、先入観を持たずにこの作品に入った方がよいと思うからです。すでにこの作品については多くのことが語られてきています。そして、その中には読者を震え上がらせるような内容のもの、逆にこの作品の価値を貶めるようなものも少なくありません。そういった「前評判」や予備知識にとらわれずに読み進めることを強くお勧めしておきます。
 個人的には、仏教を下敷きにしているのであろう「食物連鎖」の項、そして目立たないが実は学生運動の時代の話である、というような箇所が印象に残っています。
死霊(1) (講談社文芸文庫)Amazon書評・レビュー:死霊(1) (講談社文芸文庫)より
4061983210
No.19:
(5pt)

文学の宇宙、人間と宇宙の小説

「死霊」をはじめて読んだのはいつの頃だっただろうか。
十代の終わり、まだ多感な時代。身近にあることよりも、どこにもない場所が身近に感じられる感覚に、素直に酔いしれることのできた時間。
埴谷雄高の「死霊」が文庫になった時、はたして今の時代にどのぐらいの人が買うのだろうかとも、心配になったりもした。
どなたかも書いていたが、あまり身構えずにこの本を楽しんだ方が良いと思う。正確には忘れたが、作家自身もこの小説は探偵小説の姿を借りているといっていたのだし。
ようするに、文学とは、読んだひとがそれぞれの感性や想いでそこに描かれた物語の宇宙を探索するものだろうから。
そこに、文学の哲学とは異なる醍醐味がある。
そして究極の読書とは、作家の想像力と読者の想像力との戦いでもある。
「死霊」にはそういう意味で“文学の宇宙”が確かにある。
さて、埴谷さんが亡くなられたあと「死霊」を継ぐ文学者や小説家は出現しただろうか。存在することの不快さを感じる人間はいなくはならないだろうが(ますます増えているかも知れないが)、「虚体」というような思いもよらぬテーマをそこに打ちあてる作家は、まだいないかも知れない。
目線を横や斜め下方に向けて見てしまいがちな現代、全く異なった、どこにもない場所の宇宙へと想像力を向けさせる埴谷雄高を、ぜひ誰かに奨めてみたい。
死霊(1) (講談社文芸文庫)Amazon書評・レビュー:死霊(1) (講談社文芸文庫)より
4061983210
No.18:
(5pt)

宇宙観

死霊を読んで、初めて、自分がどんなに本を好きになれるか自覚した。この本は危険だし怖いが、読む人に現実を忘れさせ、至福の時間を与えてくれる。ふつうは世界という言葉を使うけれども、この作品の場合は「宇宙観」であり、いわば虚数の世界なのだ。否定肯定、自然人工、そのすべてを超え、生命力というよりももっと重力的な、強いエネルギーを持っている。
 本来なら、こんな小説はあり得ない。全三巻だが未完であり(ちなみに埴谷氏いわく「未完で終わったら誰かにのりうつって書かせる」)、どの登場人物も魅力的で、非常に長い台詞の間は、共感や感嘆と同時に、胸の裏側で何かがグルグルと渦巻くのを感じる。展開も、(時には笑ってしまうほど)テンションが高いまま、たたみかけられる。
 ドストエフスキーの影響を受けているのは明らかだが、私にはもっと日本的で、「具が大きい」ように感じられた。文学がすっきりとした形に収まる必要は全然無い。「死霊」の宇宙は、自分を押さえられないではみ出している!
 この圧倒的な小説は、小説としての醍醐味にあふれていて、かつ、小説を超越している。出会えて本当によかった。
死霊(1) (講談社文芸文庫)Amazon書評・レビュー:死霊(1) (講談社文芸文庫)より
4061983210
No.17:
(5pt)

『死霊』に対してかまえすぎてはいけない

『死霊』は日本ではじめて書かれた「形而上小説」であるといわれる。それについて、どういうものが「形而上小説」であるのかという疑問が残るけれども、この『死霊』という小説がおもしろいことに変わりはない。
この小説が難解で、テーマが重いと思うのはこの『死霊』をおもしろがっていないからだろう。ユーモアに満ち溢れていて、さまざまな場面に笑うところがあるのに笑わない人は、この『死霊』という小説を高いところに上げているからだと思う。『死霊』を前にして、かまえすぎなのだ。もっとリラックスして読むべき小説だ。「あつは」も「ぷふい」も笑うところだろう。学校で習った「読解」という方法で読むと最後までつまらないものとなり、まして作者の主張をすぐに読み取ろうとするのはもっとも的外れな読みといえよう。日本語が難しいからといって、そのテーマが、簡単な言葉で書かれた小説よりも重要と考えるのも、間違った読みと思われる。私にとっては、星新一と『死霊』とは同じくらいの重要なテーマを持っている。多くの小説は、自分のためにあって、研究や論文のためにあるのではないだろう。『死霊』は何度も何度も読むうちにようやくぼんやりと何かがわかってくるものだ。
『死霊』は、最初にその笑いを楽しむこと、そしてそれに満足したあと、はじめて難解さを求めればいいと思う。
死霊(1) (講談社文芸文庫)Amazon書評・レビュー:死霊(1) (講談社文芸文庫)より
4061983210
No.16:
(4pt)

死霊…

私が、かつて、小学生だった頃に思考(妄想?)していた内容が、全てではないが、ある程度、書かれている。(何故ある程度かという理由は、この作品が未完で終わってしまったから。)
ただ、私と埴谷雄高の大きな違いは、私がそれを文章に、物語にしなかったのに対して、埴谷雄高はそれを自身の想像力を大変に駆使して、一つの世界を築き上げたところにある。
一見、小難しいことを議論しているように思えるが、答えは、意外と、簡単で身近である。
<3>で「無出現の思索者」が現れたときなどには、やはり彼も同じことを考えていたのだなぁと、思わず、微笑んでしまった。
余談だが、講談社文芸文庫の装丁に関して。この装丁は無限ループ(<1>の黄色が<2>の「講談社文芸文庫」のシンボルマーク「鯨」の色に、そして<2>の紫が<3>の「鯨」の色に、<3>の緑が<1>の「鯨」の色に)というふうになっており、この物語が未完であるが故になされた装丁なのだろう。そう考えると何度も読み返せる作品だと言うことが出来るだろう。

追記:後日、私の思考は、「無出現の思索者」を出て「憎悪のソウゾウに潜む亡霊」に到った。
死霊(1) (講談社文芸文庫)Amazon書評・レビュー:死霊(1) (講談社文芸文庫)より
4061983210
No.15:
(5pt)

山場にさしかかりました

黙狂の矢場徹吾と異母兄弟の首猛夫がこの『死霊』のテーマを語り始めました。3巻で愁いの王の三輪与志が加わってそれをまとめあげるんですがここまで来る布石の長いこと。時間の経過をみると数日の間の出来事なんですがね。私は一巻の必要性を疑っています。しかし読みではあります。
この著者の問題点は1センテンスが妙に長いこと、著者のイメージによる造語の適切不適切によって話の流れが所々阻害されている点です。他の本にも言えることなんですけどね。それを我慢できれば十分楽しめる内容です。面白いです。
死霊(2) (講談社文芸文庫)Amazon書評・レビュー:死霊(2) (講談社文芸文庫)より
4061983253
No.14:
(5pt)

日本文学最高の幽霊塔

埴谷雄高の韜晦癖に包まれた文章は、文学史の表舞台に登場することはない様に思う。だが、かつてのサドやバタイユなどの作品はけっして表舞台を闊歩することがなかったが、脈々と読み継ぎられてきたことに親和性を憶える。小説「死霊」は壮大なる構想力をもって書かれた物語で、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」に対峙するかのごとく政治・思想・宗教などまさに世界観・人間観そのものが刻々と描かれている。未完に終わった本書が文庫で読める日が来るとは、著者自身想像だにしなかったのではなかろうか。しかし、文庫を寝転がって、「死霊」を読みうる構図に、神は細部に宿り給うのだと思わずにはいられない。
死霊(1) (講談社文芸文庫)Amazon書評・レビュー:死霊(1) (講談社文芸文庫)より
4061983210
No.13:
(3pt)

思想と真実の言葉

多くの人びとが論じ,また高く評価しているらしいこの哲学小説のなかの議論の内容を,自分は理解することができなかった。使われている用語にも同感できなかった。たとえば,「自分が好きになれない」,「自分を受け入れられない」,というならばわかるが,なぜ「自動律の不快」(わたし=わたし,であることの不快)という言い方をしなければならないのか。「いまあるものとはちがった生き方や世の中」を考えるのに,なぜ「虚体論」をもちださなければならないのか。『死霊』を好む人にはピンとくるのだろうが,自分にはまったくこなかった。
ろくに理解できなかったにもかかわらず,それほどすごい小説なのだろうかとの疑問は残った。人格ににおける思考の,あるいは人生における思想の占めるバランスが,極端に肥大化しすぎるとき,たとえ思想の内容がどれほど高度であったとしても,それは滑稽かつ奇形なものにみえて,まじめに受け取りがたいのである。
言葉が人を動かすのは,それが真実の言葉であるときであろう。真実の言葉とは,その言葉を語る人の人格と一致し,その人によって生きられた言葉であるときではないか。大切なのは,真実の言葉であるかどうかであって,思想の難易ではないと思う。
著者をテレビでみたとき,とても魅力的な人に思えた。周囲に人が集まるのもうなずける気がした。こうした著者の人格と,かれが活字に残した思想との間には,どうも断裂があるように感じてならない。たとえば著者の人格には愛を感じたが,かれの思想からは感じられなかった。
『死霊』で語られる思想は,著者にとってほんとうに真実の言葉だったのだろうか。本書を理解できる人にたずねてみたい。
死霊(1) (講談社文芸文庫)Amazon書評・レビュー:死霊(1) (講談社文芸文庫)より
4061983210

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