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わたしたちが孤児だったころ
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わたしたちが孤児だったころの評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.99pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全77件 41~60 3/4ページ
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始まりは青春小説のよう・・・ そして児童小説・・・ サラとの出会いは恋愛小説・・・ アキラとの再会からはシューティングゲームのよう・・・ 不思議な小説です。 最後にぎゅっとまとめますが、少し置いて行かれたような気持になりました。 再読して納得しました。 文体が好きです。 | ||||
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カズオ・イシグロの想像力は現実の枠を超える。そのことは「私を離さないで」を読んでよくわかったのだが、本作でも子供時代の探偵ごっこそのままに探偵になった男が登場する。彼が戦火の上海で20年前に行方不明になった父母を探し始めるに至り、この小説は「私を離さないで」のような妄想を籠めたフィクションなのか、それとも現実の範疇に収まる話なのか、が気になってくる。結果はここには書かないけれども、彼の想像力の巨大さに今回も圧倒されてしまった。その意味で、期待を裏切らない一作だったと言える。 思えば、カズオ・イシグロ自身が子供時代のごっこ遊びをそのまま頭の中に抱えているのかもしれない。子供時代の宝石のような想像力が人生を支えている。人はそうやって生きているのだと思うけど、それを文学作品にしてしまうところが彼の凄さなのだろう。 「ノスタルジックになるっていうのはすごく大事なことだ。人はノスタルジックになるとき、思い出すんだ。子どもの頃に住んでいた今よりもいい世界を。」 (444ページ) | ||||
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人が評価する自分と、自分が思っている自分のギャップには、時々驚かされる。 そんな経験が誰にもあるのではないか。 主人公はかなりうまくやってきたと自負していたが、幼年時代からの想い出の中に小さなささくれの様な違和感を見つけ出す。 その違和感の積み重ねを考察して過去に迫って行く。 推理の手掛かりは、拡大鏡で見つけた煙草の吸殻や足跡ではなく、主人公の記憶なのだ。 面白い。 そして切ない。 また、この小説は3人の女の物語でもある。 母と、恋人と、娘。 特に母という女の物語は激しい。 それぞれの女の信念の結末は、カズオ・イシグロ独特の残酷さでコテンパンに暴かれる。 | ||||
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前半は「静」。主人公(語り手)がゆっくりと現在と過去を往還する。後半は「動」。失踪した父母を探して第二次上海事変のさなかに魔都・上海をさまよい歩く主人公。そしてカタストロフと余韻。リムスキー=コルサコフの交響組曲「シェヘラザード」の第4楽章、船の難破から終曲に至る流れを思い出した。それこそ「難破」ではないけれども、自分の周りの世界(それが家族という小さな世界であれ、文字通りの世界であれ)が崩壊していく時(あるいはもともと崩壊していたことに気づいた時)、人はどうやって生きていくことができるのだろうか。 ミステリ色の強い作品だが、人生の謎を解くという使命を負わされているのが人間であるとすれば、人は皆、探偵なのだろう。 サラやジェニファーとの関係の描き方に不満は残るがぐいぐい引きこまれていった。力業である。 | ||||
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昨今のかまびすしい中国ではない、別の中国。 ノスタルジックで温かく、遠くて近い異国。 上海での少年の思い出は、そのまま我々日本人のよき思い出に重なる。 『わたしを離さないで』ほどのリアリティの欠如(あるいは想像力の発露)も、 『充たされざる者』ほどのめんどうみの悪さもない、カズオイシグロを初めて読むにはちょうどよい作品。 | ||||
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クリストファーは幼いころに行方不明になった両親を探すため私立探偵になるが、両親の行方を追って最後に明らかになった真実は彼の人生を根底から揺るがすものだった。 『日の名残り』のスティーヴンスは、すべてを犠牲にして人生を捧げた仕事がその価値のあるものではなかったことに気づいた時、多いに泣いた。 クリストファーも泣いたのだろう。 しかし本作は、それが全く無価値ではなかったのだと肯定的に過去に向き合い、未来へのささやかな期待を抱く場面で終わる。 切なく滑稽でグロテスクだが、最後はほんのり暖かい。 不思議な作品だ。 | ||||
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われわれ大人は子供に大いなる嘘を教える。 世界は優しく美しいものである、という嘘を。 世界は悪や残酷さや暴力に満ち溢れているにもかかわらず。 子供たちは理想郷という虚構の中で、いわば純粋培養される。 いずれは子供たちも真相に気づくわけだが、われわれ大人は その日の到来をなるべく遠ざけようとする。 大いなる嘘で語られるのは、われわれが果たせなかった願いであり、理想である。 子供時代の記憶は、優しく美しく、ノスタルジックだ。おそらく、その記憶こそが 悪や残酷さや暴力を拒む力となりうる。 「虫眼鏡」という、すでに時代錯誤的で、牧歌的な小道具は、子供時代の象徴である。 (あの凄惨な市街戦のさなかでさえ、あいかわらず「虫眼鏡」!) フィリップおじさんの告白を聞くことではじめて、主人公にとっての子供時代は終焉する。 この「純粋培養」というテーマは、次作の 『わたしを離さないで』 で再び主題化される。 | ||||
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なにやら無性に骨太の小説が読みたくなり、本棚を漁ったら、随分前に買ったまま放置していた本書が見つかったので、読んだ。因みに、同時並行的にポール・オースターと村上春樹も。奇しくも全員60歳前後の男性作家で、そして、こんな乱暴な言い方が許されるなら、おおざっぱに言うとテーマは自分探しだ。 ごくあいまいな感想で本当に申し訳ないが、カズオイシグロを読むには体力がいる。別に圧倒的に雄弁な語り口でもなければ、目まぐるしく場面展開が起こるわけでもない。そうではなくて、常に抑え気味のトーンにもかかわらず、そこに留まっていることが難しいというか、能楽で言えば一番動いていないときが一番体力を使っているような、感じ。だから体力のないとき、集中力の保てないときにはカズオイシグロは読めない。でも、一旦そのトーンに波長をあわすことが出来れば、作品世界がすっと広がる。読んで見て、面白かった。満州事変前後の社会をイギリスの視点から描いていて、詳しく話すと面白くなくなるからこれ以上は書かないけど、どしっと腰を据えて読む時間ができたときに読みたい本の選択肢に加えて欲しい。 | ||||
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「私を離さないで」を読んで興味を持った作家だったので二冊目として選んだ。 モノローグで綴られることや、静謐な語り口は同じ。物語は過去と現在を往復しながら、上海とイギリスを行き来するのだが、記憶と現実の行き着く先である上海が中心となる。「租界」という言葉の醸しだす妖しい雰囲気が、作品に登場する阿片の煙のように物語全体を覆っている気がする。主人公の少年時代を除けば「私を・・・」の舞台であるイギリスの印象と同じく、陰鬱な感じの舞台だ。 物語の筋はわかるし過去の事件に対する主人公のこだわりもわかるのだが、その行動が今ひとつ理解できない。しかも物語の進行に執拗に絡んでくる同じ女性やイベントの話など、まるで自分の無力を象徴するように繰り返される悪夢にさえ思える。もしかして、この気分こそが作者の目指すところだったのだろうかと思えてしまった。 上海での子供時代のエピソードで、イギリス人である主人公と日本人の友人とがお互いに自分の中にイギリス人らしさ/日本人らしさが足りないと告白するシーンがある。日本人として生まれながら幼少からイギリスに育った作者の思いがここにありそうだ。 | ||||
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5年くらい前に読んだ『わたしを離さないで』が劇的に面白かった。 『わたしたちが孤児だったころ』は『わたしを〜』の1作前にあたる。 戦前の上海が舞台の探偵モノ、という設定に期待大。 だがしかし、読み始めてすぐ「ああ。イシグロカズオだ」。 なんだろー。 このヒトをダマそうダマそうという控えめな語りは。 「語り手vs読者」という戦いを挑まれる。 文章すべてが主人公の記憶語りであり、客観性ゼロ。 まったく信用できない不安さがイシグロカズオを読む醍醐味なのかもしれない。 主人公が、相手の瞳に感謝の念を「確かに」見た時、相手は本当に感謝しているのか??? 例えば。 子供時代の友人と再会した主人公、クリストファー・バンクス。 我々は「みじめで1人でいるのが好きな2人」だった、という相手のセリフに仰天するが、友人の言葉の方が、真実なんじゃないのか?と思え過ぎる。 そんな感じで、ロンドンで着々と出世してゆく様子を読んでも、本当のことなのかどうか、常に怪しい。 社交界で主人公に向けられる会話がすべて、そのコミュニティー定番のジョークに思えてしまう。 後半の上海で登場する落ちぶれたクン爺さん。 彼が輝かしい過去を語っても、誰一人その内容を信じていない。 それでも、その昔話に対して金を払ったりしているようなのだ。 その図式は主人公にも当てはまらないか? と疑念満載で延々と長文を読み進め、終盤の上海に入ると。 いよいよクレイジーさも、命に関わる問題に。 どうなるんだ?どうなるんだ?と一気読み。 緊迫したアクションシーンで死ぬかもしれない。 「だがしかし全部妄想かもしれないぃ!」とバンクスと一緒に戦場を駆け抜けながら全力で疑う。 もはやストーリーは支離滅裂状態で、この意味不明さのどの部分が真実として、解決編で残るのか? やっと最後9分目に入って、アッという間に、30年近くに渡るモヤモヤが全解説され、バンクスも読者も驚愕である。 この小説、なんだってこんなに長いのか? | ||||
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ヨーロッパの白人が、中国という広大な植民地の未開の地で失踪していくヨーロッパにはよくありそうなテーマな気がします。 シャーロックホームズのイギリスで、元々戦中の不安から探偵小で説というジャンルは盛り上がったと解説にあります。 喪失した植民地で探偵小説=支配は成り立たなかったという。 探偵小説の否定、理性の支配の否定か。 誰の証言もアテにならないという、混乱、喪失読書体験になるようです。 長いし、実利を求める人には向きません。 この本がどうのとかではなくて、私はカズオイシグロ自体に向かなかったようです。 カズオイシグロとしては、安定のクオリティではないでしょうか。 | ||||
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非常にいいレビューが出尽くしているので、ちょっとした意見だけ。 結末、特に母親の扱いと「フィリップおじさん」の自白の生々しさが、 あまりに扇情的にすぎるような気がする。 「私を離さないで」の時もそのように感じたのだが、それまでの 筆致が抑制されているので、余計にそう思うのだが、どうだろう。 あとは、養子のジェニファーの扱いが、どうしてもとってつけた印象 を受ける。どうしても配置しなければいけない人物であるのは、わかる のだけど。 ※ちなみにこの作品は映画化されてませんが、イシグロ脚本で上海租界 を舞台にした「上海の伯爵夫人」という映画があります。同映画で、上海 租界の猥雑で混沌とした雰囲気がよく分かりますよ。あと、スピルバーグ の「太陽の帝国」も上海租界のイギリス人少年が主人公です。 | ||||
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翻訳の方が素晴らしいのでしょうが、文体が英国らしく、皮肉な笑いがたくさんです。 1930年代の上海とロンドンが舞台というだけで、わたしのようなものはもうお腹いっぱいになってしまうわけですが、 そういう舞台に興味がなくても、楽しめる作品だと思います。 ミステリーは好きではないので、最初ミステリーかと思ってギョッとしましたが、別にミステリーではなかったです。 主人公の職業がそれっぽいだけでした。 | ||||
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普通(なのかな?)ある作家に惚れこむと処女作から時系列で読んでいく傾向があるが、僕はカズオ・イシグロ氏の作品を逆順に読んでいる。本作は『わたしを離さないで』の前作に当たるが、まず著者の小説作りの巧さが冴えている。本作はエンタテイメント寄りの作品に仕上がっているが、イシグロ氏のストーリテラーとしての巧みさと文章の洗練度は相当なものだ。個人的な嗜好として、ヨーロッパを中心とした上流階級を設定にした端正さよりもアップデイトなモチーフで書かれた小説が好みなのだが、著者の腕にかかるとそういった趣味を超えて小説の面白さを十二分に堪能できる。超絶的名作『わたしを離さないで』の次に読んだためやや食い足りない読後感があるが、著者の懐の広さを堪能できる作品だ。 | ||||
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正直、主人公の思いつくままの回想に付き合わされているようで、3分の2くらい読み進むまであまり面白いとは思わなかった。探偵もの、ミステリーとしても面白さがあるわけでもなく、謎の真相も何やら通俗的な感じがするし、幼なじみアキラとの関係や探偵として世界の混沌の責任を負っているかのような主人公の気負いも奇妙に思えて違和感があった。はっきり言うと理解できないというべきか。ただ、エピローグ的な香港でのエピソードの最後の言葉に、どっと涙が出てしまった。太平洋戦争前の不穏な上海を舞台にしていますが、あくまでも物語の背景にすぎず、作者は子供の頃の記憶、母親への思慕を描きたかったのかなと思いました。自分もふっと思い出す子供の頃の母親の姿や彼女はどんなことを思っていたのか、なんていうような一瞬の回想が切り取られたかのような・・・読後感が残る本でした。 なんとなくですが、ロシアのアンドレイ・タルコフスキー監督が母親についての記憶を抽象的に描いた「鏡」という映画を思い出しました。なんとなくですが・・・。 | ||||
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この前の日中戦争の直前・戦中そして戦後における父と母そして彼らと「私」を取り巻く人々の記憶の断片を辿る「孤児」日記。 でも何か物足りない。 何かすっきりしない。 イシグロの作品の中でもレヴェルの低い作品かな、と思う。 ただ単に長いだけで、最後までぐいぐいと読ませる力量は認めるとしても、やはり物足りない。 途中で「なんでやねん!」「???」と突っ込みたい箇所が多々、多々ある。 「英米で非常に高く評価され、ベストセラーになった」と文庫のカバーにはあるが、この作品はなんらかの文学賞を受賞してないんだな、何かおかしいんだ、これ以外の作品とは違うんだ・・・・・ | ||||
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夏目漱石でいうと、「それから」「彼岸過迄」「こころ」みたいに、ミステリ、推理小説の構造になってる。 出生のなぞがふくらんでいって、最後に訳知りの叔父さんがすべてを解き明かすっていう。 「わたしを離さないで」と同じですね。 けど、技巧が冴え渡ってる。こんな複雑な筋と多数の登場人物をよく処理できたなと。 最後知らんでよかったことまで解き明かされてもうて、スッカラカンになるわけだけど、それでも生きていくんや、酸いも甘いも噛んでいくしかないやろ的なアティテュードが落ち着いていて、読後感は悪くない。 まあ、とくに感動はしなかったけど、非常に面白い作品であることは確か。 姪との関係性、距離感もなんかええかんじ。 あ、アヘン戦争を扱っていて、イギリスにおいてはわりと勇敢な行為だったのではないかなと思いました。 麻薬で他国民をダメにしたっていう史上最悪の犯罪行為ですからね。 それを批判するでもなく淡々と描写する方法が良かったと思います。 っていうかあんま言うことないな。他の作品が良すぎるんで | ||||
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カズオ・イシグロの作品は数冊読んだ程度ですが、不思議と主人公に魅力を感じず、読後他の登場人物のことばかりを考えていることがあります。主人公は他の人を際立たせるための存在なのかと思えるほど。この作品もそうでした。主人公は設定では優秀で名声のある探偵ということになっているのですが、描写からはとても平凡で鈍い印象すらあります。それよりも、自ら思う正義のために戦い敗れた人、耐え難い屈辱を生きた人、時代に愛に翻弄された周囲の人々が実に人間くさく、印象に残るのです。さまざまな詳細を秘めたままにしてしまうイシグロ氏の作品ですから、周囲の人物の心についてあまり紙幅は割かれていません。読後に考えるという楽しみを残してくれます。書かれていなかったあれやこれやについて他の人はどう思ったのだろう、と感想を交換したくなる作品でした。 | ||||
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何年も前に誘拐された両親を探しだす、しかも間には戦争が勃発。 ただでさえ、混沌とした当時の上海で、見つけ出すなんて、何を非常識な。と思いながら読んでいたのだが、ましてや、スラムと化した戦地の空き家に今も両親が拉致されているって考える、主人公。登場人物もそれに疑問をもつことなく、捜査をはじめるので、感覚がおかしいのは自分の方かと思った。ここでかなりの困惑を読者に持たせることが狙い? そしてあんなに見つけ出すことに執着して、責任を持って命を救うとアキラに約束したのに、あっさり、引渡し、何もなかったように、アキラについてその後言及しない。 読み終わった後は、不思議な余韻に包まれた、そもそも本当にアキラだったのか怪しい。極限状態の二人には正常な判断ができない? ましてや、なんだかそもそも本当にそんな危ない地域を二人で進んだとういうそんなシーン事体、あったのか?幻覚をみせられたのは、読者である私の方だったのか? なんとも不思議な感覚を読書後に覚えました。 | ||||
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英語圏で最高の権威を誇る文学賞「ブッカー賞」を『日の名残り』で’89年度に受賞した、現代英国文学界を代表するカズオ・イシグロの’00年発表の第5長編。 おもな舞台は不安定な中国情勢・国際情勢の中での上海の外国人特別区“租界”。‘わたし’ ことクリストファー・バンクスは10才の時、父母が共に謎の失踪を遂げて孤児になった。長じて父母を捜すために探偵となり、数々の難事件に関って名を成し、社交界にデビューする。 本書は、全部で7つの章から成り立っていて、それぞれ1930年、1931年、1937年、1958年と、異なる時点から過去を振り返る‘わたし’の「追想」小説である。少年時代の父母の思い出、隣家の日本人少年アキラとのいたずらなどの遊びの思い出、名を成してからのサラ・ヘミングスとの淡い恋、養女ジェニファーとの関係などが抒情的・自省的に綴られてゆくが、常に‘わたし’の心にあったのは父母を探し出し、救出することだった。第6章の1937年時の追想は日本軍と中国共産軍、蒋介石の国民軍が入り乱れる上海の戦闘区域で、負傷した日本軍兵士であるアキラと再会して父母を救出するべく執念の探索行が描かれている。このくだりは圧巻であり、リーダビリティーにあふれている。そしてついに明かされる衝撃の真相と、それを知ったのちの‘わたし’のなんとも名状しがたい心の動き。 本書を探偵小説と見るむきもあるが、私は‘わたし’の記憶と過去をめぐる切ない青春小説であり、「追想」の冒険譚であるように思った。 ところでタイトルの『わたしたちが孤児だったころ』であるが、なぜ「わたしが・・」ではなく、「わたしたちが・・」なのだろうか。ここに、読者を物語に巻き込むイシグロの意図がうかがえるような気がする。 | ||||
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