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わたしたちが孤児だったころ
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わたしたちが孤児だったころの評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.99pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全77件 1~20 1/4ページ
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英国の私立探偵による、人生の回想と親探しの物語です。 この作品、おいそれと人には薦められません。ポイントはふたつあります。 ・「信頼できない語り手」というミステリの手法を知らないと、面食らってしまう 本作では、カズオ・イシグロの初期の代表作でも用いられたこの手法が全編を通して使われています。 つまり、主人公が語る内容はあくまで、ひとりの孤児が必死の思いで作り出したフィクションにすぎないということです。 この点を念頭に置いて(あるいは途中で気付いて)読まないと、なにか変なものを読まされているという気になってしまうでしょう。 ・カズオ・イシグロ作品の中では度を越して暗い 中盤くらいまでは楽しく読めたのですが、物語は次第に暗くなっていき、最後はもう絶望のどん底に突き落とされることを理解しながらも「まあここまで読んじゃったしな」と思いつつ読み終えました。 しみじみと人生を振り返り、辛いことも楽しいこともあったね、と穏やかな気持ちになる、そんな作品ではありませんでした。「信頼できない語り手」の手法を活用した、これでもかというほど残酷な物語です。読者は、人生という物語の、劇的な崩壊の場面に立ち会うのです。それでも最後はある程度品よく着地するので、いちおうカズオ・イシグロ作品としての体を成してはいるな、という印象を持つのですが、人によってはショックを受ける内容かも知れません。心が弱っているときには読まないほうがいいでしょう。 内容が衝撃的すぎるという意味で星をひとつ減らしました。作品の質としては星5ですが、Amazonレビューの星には、おすすめ度合いという意味もあるので。 | ||||
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美術でアートとデザインの区別が不明になって久しい。言葉のアートもデザインと区別ができない。コナン・ドイルと『ウォーリーを探せ』を合体させ、漆喰細工か竹細工のような風合いで上海を描く。すべてが(戦争も)そのだまし絵の壁画に埋め込まれ、幾つもの惹句としてのセリフが、長編のあちこちにストーリーと無関係にはめ込まれる。主人公がクリストファー、日本人少年がアキラとあるが、キヨシではなかったか。本書で祝典の舞台とされるジェスフィールド公園には「犬と中国人立ち入り禁止」の立て札があったと武田泰淳が書いている。たぶん英語で。それにしても、原文の装飾性を日本語にするのは容易ではない。 | ||||
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春馬くんが 「わたしを離さないで」 のドラマを演じる前に読もうと思い即注文。 悲しい小説でした。 これを機にカズオイシグロさんの本を数冊読みました。 | ||||
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カズオ・イシグロの文章は本当に美文で、寝る前に読んでいますけど、毎日楽しみです。ディセントというか、節度ある文章でありストーリーだと思います。まだ読み終わっていませんが。 | ||||
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アキラとの子供時代のダラダラ長い思い出は何なのか。 なぜアキラとあんなにタイミング良くあんな場所で再会するのか。さすがに無理があるでしょう。 ジェニファーの盗られたトランクの中身にまつわる話、何かあるのかと思いきや結局無かった。 主人公が突然やたらと傲慢、自分勝手になるのになぜ周りの人間は彼に従うのか。 優秀なはずの探偵なのに、両親がずっと何十年も同じ場所で幽閉されていると信じて疑わない、というのも変。 他の方も書いておられましたが、何故まずフィリップおじさんを探そうとしなかったのか。第一に探すべきだろう。 不思議に思うところや不自然な箇所が多々ありすっきり読めませんでした。 | ||||
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【ネタバレあります】 主人公は優秀な探偵のはずなのだけれど、自分の過去(両親が突然いなくなって、孤児になってしまった)に直面した時に、現実検討能力がすごく歪んでしまうんですよね。冷静に、合理的に判断しているつもりなのに、まったく的外れな判断をして、自己中心的な行動になってしまう。 だから、主人公の奇妙さについていけないし、心情的にも共感しにくい感じがあると思います。 この状況は主人公が「2重の意味で孤児になっている」とも言えるのではないかと思います。つまり、親が(自分を保護してくれる人が)いなくなることによって孤児になる(社会的に)と同時に、その心の傷によって他者との繋がりを作ることが難しくなってしまって(心理的に)孤児になるという意味において、ということです。 作品中、ある女性との関りが描かれますが、この2人は結局情緒的に親密なつながりを持つことができなかったことも、主人公が結局「孤児」であったことを強調するエピソードとして挿入されていたように思います。 そして、主人公が置かれている状況は、(主人公ほど劇的ではないにしても)現代に生きる我々に多かれ少なかれ共通する点があるのでしょうし、そういった意味での、「わたしたちが孤児だったころ」というタイトルなのかと思いました。 このように書くと、本書がとてもペシミスティックな視点から描かれた作品だと感じられるでしょうが、本作品に希望が描かれてない訳ではありません。著者は、淡いながらも人と人との繋がりというものに対する希望も描き込んでいます(と私は思います)。どのような希望なのか、それは是非、読んで確かめていただければと思います。 | ||||
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こうして100年前の人物の足跡を追うことで、時代を超え、空間を超え、巨大な奔流に身を委ねる感覚が得られるのは本書の醍醐味かもしれない。 少年時代の描写は子どもの一見無意味、無駄な事柄に夢中になったり、この世の終わりのように恐怖におののく様子が描かれ、普遍的な子ども時代とでも言えるような納得があった。まるで自分の少年時代を眺め、そして当時自分が見ていたものが描かれているような気になった。10歳ぐらいの子どもが陥りそうな対応の過ち、絶望に陥りやすい後悔、意外なほど深掘りできる思慮、かたや他者の気持ち、社会からの視線が分からなくて、究極まで登り詰める独りよがり。 探偵が事件を解決するような探偵物の小説ではなく、やはり時代のうねりをとらえた大河小説だと感じた。戦争で無辜の人々が大勢死にゆく中、クリストファーは事件で殺害された一人の人物の死を徹底的に追求していく。戦争で人の死が当たり前になり倫理観も正義もおざなりになりつつある世で、彼は人としての矜持を保ち、混沌とした奔流の中でも自己を維持している。物凄く勇敢な人物というような感じではないのに、精彩を放つのは世の混乱が加速しているためだろう。自暴自棄な大衆、悪事を悪事と思わなくなった警察、役所、そういう世の恐怖が描かれているようだ。世の中の空気に合わせる、周りの人々に自分を合わせるという、人間の能力は必要なことだが、時には飄々と鄒勢を見つめて立ち位置を判断し、自分一人しかそこに立っていなくても立ち続けなければならないことがある。 アヘン取引を企業活動として行い、莫大な資金を得たイギリスの話だが、現代でも社会を蝕みながらもその活動によって生計を立て、ひいては本書のバンクス家のように上流の暮らしにあずかっている人は多いのではないか。ゲームやスマホは人に楽しみを与えてくれる一方で、欲望の無限ループに陥れるような装置も兼ねている。WHOはついにゲームの依存性を危惧して疾患に格上げして警鐘を鳴らした。そういう行間の何かを見つけ出そうとすることは興ざめだろうか。ストーリーはすでに大河のように流れ、理屈っぽく立ち止まることは許してくれなさそうだが、現代に生きていれば歴史の足跡に反省を思いつつ、同じ足跡を辿ってはいないかと少し振り返ってみたくなる。 上海の喧騒が生々しくて、自分がそこに立っているように感じた時、そこに砲弾を撃ち込む日本軍がまるで外来のもののように感じた。日本人でありながら、そのように感じたのは不思議である。中国人の立場から侵略者を見つめ、また外国租界という特殊な地区のために遠雷を眺めるような感覚である。しかし確かに戦争の空気は上海の街を退廃に陥れ、変化への不安を掻き立てている。『ウースンクリーク』(日比野)は上海付近で行われた激戦を描いた戦記文学で、血の臭い、泥の臭いが立ち込めてくるが、本書は当初そのような激しさとは無縁の当事者感覚の希薄な空気が充満する。しかし戦場から逃れてきた難民は確かに街にいて、当事者ではないと意識的でないにしろ感じている心境を裏切るように、街は混沌として浮き足立っている。その空気感が肌に感じられて、著者の筆力に唸らされる。 日本人がまさに日中戦争の最中のこの話に接した時、激烈な侵略とは少し離れた情景が奇妙で新奇に見えるかもしれない。戦争のすぐ隣ではこうしてnobleな心境を保ち、ゆっくりとたがが外れていきながらも、この上海に長く住みたいとイギリス人に言わしめる何かがある。その雲のようなものが行間から立ち上がってくるのである。 子どもの頃の親の庇護が与えてくれる平穏。それはまるで世の中全てが平和であるかのような錯覚となる。その時代にはその時代の困難が必ずあるが、子どもの視野ではそこまでは見えない。しかしその無垢な勘違いが、大人になった時に見えてくる世の中の混乱を立て直したいという正義の観念を下支えする。あの頃のように平穏にしたいと。子ども時代の生活はそういう意味で重要になる。クリストファーのように孤児でありながらも、周りの大人が手を差しのべて平穏な生活を生み出すのは、その背景に何か理不尽なものがあっても優先されるべきなのかもしれない。『世界は贈与でできている』(近内)は親と子の関係に贈与の考え方で説明を試みている。親が子どもに無数のものを与えようとも子は親にお返ししなくてもよい。ただその背負わされたものはいずれ誰かに別の形で与えていけばいい。その子は親となって新しく生まれてくるものに引き継いでいけばいい。何か困難があろうとも子どもには心豊かな生活を可能な限り与える、というのが大切なのだろう。本書のクリストファーも不都合な背景があるなか、そういう大きいものを背負いつつ彼は逞しく屹立し、次に伝えていく役割を図らずも果たしたのだと思うと、困難な時代を跨いだこの小説にも様々な意味が見えてくる。 大河小説や戦記文学、推理小説の要素を持った重厚な内容であった。恋愛の面もねちっこくなくて個人的にはよかった。言葉を重ねた豊かな表現は心に響いてくるが、暑苦しくない文体ですっきり読めて、そこに軽快な展開も加わるので読書はドンドン進む。この100年前のノスタルジーに浸りたいと思っていても、それを許してくれないのがこの小説の凄さなのだろう。 | ||||
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雰囲気は非常にいい。 第二次大戦前の、とりわけ日中戦争前の上海とイギリスを舞台に、夢とも現実ともつかぬ幻想的とすらいえる物語が進んでゆく。 いかに人間の記憶はいい加減か、世界を自分に都合をよく見ているかについて書かれた小説としては良いものだと思う。 しかし主人公が少年時代を過ごしたであろう時期は、計算すると19世紀末ということになり、まだ中国には軍閥といえる存在はいなかったはずで、完全に物語が破綻する。 また軍閥なんて存在は自分の支配地域を離れれば、意外と無力な存在であり、ましてイギリス人に犯罪を働くなどということはリスクがありすぎてしなかったであろう。 いささか現実感に欠けるという点においてあまり高くは評価できない本である。 | ||||
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まるで新刊本のように綺麗で感激しました。 | ||||
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2冊読みましたが途中でリタイアしました、たぶんこの作者が日本人の思いなどを拒否する本だと思う。 イギリス国籍だけど元日本人だからと思い手に取りましたが 甘かった、最初から撥ねつけられるような本でした。 別に本が悪いのではなく私にはまったく受け入れられない。私は海外の本が好きで小さい時から シニアになるまで殆ど翻訳物ばかりでした。インドのおとぎ話もありました。聖書も。 その私でも全く理解できませんでした。 でも好きな海外の作者さんが皆さん亡くなるのでイギリス国籍の方ならと思いましたが 当てが外れました。大人しく時代小説でも読みましょうか。 | ||||
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主人公クリストファーは、上海租界での子ども時代、アヘン貿易に関わるイギリス商館に勤務する両親が行方不明となり、孤児となってイギリスに帰国する。成人し探偵として成功を収めた主人公は、失踪した両親を探し出すために再び上海の土を踏む。 全編、壮年期の主人公が回想する形で物語が進む。時系列が前後したり、子供時代の細部の記憶があいまいになり始めていることや、当時の自分の虚栄心なども率直に認める。記憶が断片的に現実とつながり、過去のあやふやな会話が急に思い出されたり、ロンドンに残してきた養子のセリフがふと思い出されたりする。 記憶と現実を行ったり来たりするスリリングな描写が印象に残っており、数年ぶりに再読。最初に読んだときは戦場の場面が印象的だったが、今回は、孤児に限らず、親子関係についての描写で色々と考えさせられた。 | ||||
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こんなラストなら、読まなかった。 残念すぎるし、やはりそうなのかと虚しさが抑えきれない。 でも読まずにはいられないほど、静かに世界観に引き込まれてしまう。 訳が素晴らしいのもあると思います。 一人称で書かれているものは、気をつけないと視点が一点(自分だけ)になるのは当然で、そこを意識して読んでみると作品の深さがより感じられる。 単純に、深さを感じなくても十分読み応えはもちろんあります。 ハタチそこそこで『テレーズ・デスケルウ』が絶望的で最後は読めなかった自分の若さを、久々に思い出しました。 人の欲望、ひがみの醜さ恐ろしさは正直フィクションでも目にしたくはないけど、フィクションだから、所詮本の中の事で良かったと思えるほどに自分も歳を重ねてきたんだなぁと思えました。 それにしても、やはり結末はグロい。 結末直前の惨状の描写もかなりのヘドを催すものがあるも、軽く読み飛ばせます。 しかし。人は誰しも母親から生まれてきており、その母のある姿は、子どもにとって重要だとそんな当たり前の事にも気がつかされる。 ノーベル賞とるだけの作家の作品は一度だけではなく、二度三度読んでいくと毎度違う視点を与えてくれる、多くの人が自らのそれぞれのこれまでの生き方やら考え方に新たな視点を与えてくれる深いものなのだと。 次はまた数年後、数十年後に読んでみたいなと。 グロさが和らいで読めるくらい、人の色んな心を受け止められるくらいに落ち着いていたいものだと思います。 | ||||
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主人公は上海育ちのイギリス人で突然孤児になってしまった10歳の出来事を起点に探偵としての地位を活かして両親に何が起こったのかを探っていくストーリーです。舞台はアヘン戦争中の上海で子供時代の郷愁を感じる記憶と現在の謎を探るパートで主に構成されています。さらにその現在すら郷愁を感じる過去の記憶となる数十年後も併せて描写されており、過去の真実を知ることに執着したことで今の幸福になりえたかもしれない選択肢を捨ててしまうことになります。ですが、主人公は使命に生きており、結果的には必然だったと感じさせる内容でした。 主人公の目的を最優先させ、時には協力者を罵倒する姿勢には正直やり過ぎだと感じましたが、それも率直に生きてきた人生、そして探偵としての職業がそうさせたのかもしれません。 読後は重厚な過去を受け入れたおじいさんのような感覚になりました。一人の人生を味わった感覚です。 | ||||
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一体何なんでしょうね。内容に時代性がなく、増して時代を超えた普遍性もない小説とは。表題の「わたしたち」「孤児」「だったころ」も、様々な意味で勘違いを起こさせる表現になっています。先ずは「わたしたち」、物語は凡そ主人公の一人称で描かれ進みながら、最後近くなって唐突に二人称に、それも主人公の単なる推測により拡張されているに過ぎません。また「孤児」、主人公は男親には捨てられたのかも知れないが、女親は愛する主人公への経済支援の見返りに自らを押し殺して囚われの身となり続けたのでしたし、そして「だったころ」、主人公と彼に係わる枢要な人物は全て、最後まで過去に引き摺られ続けて、結局は新たなステージに立てないで終わっています。要の主人公の心理・心象さえはっきりしていません。これを文学といえるのでしょうか。何を読み取ればよいのか、掴めないまゝの「冒険譚」です。いっそ表題を『20世紀初頭中国上海で起こった決して特異でもないある英国人夫婦の失踪と両親を探し求める息子の顛末』とでも題してくれれば、読まずに済んだものを、なまじの表題であるがために、人を惑わし誘い込む、罪な小説とでも、評したくなります。 | ||||
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主人公クリストファーは1900年前後の上海租界に生まれた。 父はアヘン貿易によって財をなしたイギリス人だが、同じイギリス人である母は英領インドから流れ込むアヘンによって心身を蝕まれていた中国人に対して、イギリス人として自責の念を感じ、現地中国のナショナリストたちと手を組んで反アヘン・キャンペーンに関わっていた。 その両親が何らかの事件に巻き込まれて行方不明となり、孤児となったクリストファーは本国イギリスに住む親戚に引き取られることになる。 やがて本国イギリスで探偵として身を立てた彼は失踪した両親の行方を探しに上海に舞い戻ることを決意する。 しかし、そこで彼が目にしたものは中国ナショナリズムの台頭と日本の侵略によって行き場を失ってゆく租界のイギリス人たちの斜陽化する社会だった。 今後われわれ日本人が日本の旧植民地を舞台に小説を書く上で、この小説はお手本ともなれば乗り越える対象ともなるだろう。 そもそも「わたしたちが孤児だったころ」というタイトルが意味する「わたしたち」とは誰のことだろうか? | ||||
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描写が実に大雑把。主人公は有名な名探偵なのだが、解決した事件の内容や解決方法については、ほとんど語られない。 しかし多くの人から尊敬を集めている。主人公の両親の失踪理由も子どもが考えそうなもので、筋に全く深みがない。子どもの頃の友人のアキラは一体どうなったんだ? ただ、訳の文体がよいのか、読みやすかったことが唯一の良いところ。 | ||||
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母のこの人生の行く末は何? えぐいドロドロ歴史物漫画お書きのおつもりじゃないんでしょう?彼女がきっぱりと命を絶って、無一文の主人公がイギリスで普通に人生を極められたらどんなに良かったか。それじゃお書きになりたいと思っているお話にはならないけれど、でもそのお書きになりたかったものを、このはなはだ気分の悪くなる展開に託す必要がおありでした?人間の色々な面を各登場人物に代表させようとしているのはわかるし、数多くの個所に実に鋭い人間の描写があるにはあるのですが。言おうとしているテーマはバラバラだし一つの長編にぶち込むには相性が合わないものばかり。ミステリーでなければ読み進めるのに難がある。主幹のテーマも最後のページに出てきますが、申し訳ございませんが、しっくりこないし、百歩譲っても舌足らず。それと、冷徹な主人公が突然人が違った様にイライラと前線地帯に突進しまるでそれまでと別の小説が始まるみたい。そこにはもう両親がいそうにないという客観的合理的判断をまさに下せるはずの主人公が、浮足立ったようになり猛進し、ここでアキラが出てくるだろうなと予測できても、その出会いの嘘みたいな偶然の様は流石に期待外れもは甚だしい。戦場の悲惨さを見せたかったお気持ちだけはわかりますが。稀に見る素晴らしい筆致で深淵とした世界を描かれるのに追随を許さないイシグロさんが一体どうなされたのか。 主人公のよって立つ英雄正義本望と、それを冷笑せざるを得ないような結果になってしまう全くのどんでん返しも、少々稚拙で、何よりとても残酷な物語です。 | ||||
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カズオ・イシグロがイギリスのいわゆる正統系の作家だというのは、納得できる気がする。 この「私たちが孤児だったころ」や、「私を離さないで」などのイシグロ氏の長編小説を読んでいて一番感じるのは、 なんというべきか、「主人公が基本的に、世界に対するもっともな信頼感を抱いている」のである。 この「私たちが孤児だった頃」にしても、主人公のバンクスは両親の人生にただただ翻弄される形で 唐突に孤児になってしまうが、全てが明らかになって母親と再開を果たした後もその両親の過去の選択を受け入れ、 (それは自分ではどうしようもできない大きな政治や社会の流れを受け入れるということでもある) 探偵としての自分がどう生きるべきかという選択を考慮した末に孤児の新しい女の子を引き受けることにする。 彼は、自分自身の悲劇は置いておいて、新しく受け入れる養子に彼なりに手を差し伸べる。それはほぼ無償の愛に近い。 物語の最後には、探偵として生きてきたバンクスの最後の心の揺らぎが示される。 ロンドンで今までのように事件を調査しつつ、ここで残りの人生の時間を過ごすのか、それとも、 養子にしたジェニファーと田舎で暮らすかどうか.... という老年期に差し掛かった探偵の穏やかな迷いの独白での幕引きはなかなか味わい深いものがある。 私がカズオ・イシグロの小説を定期的に手にとり、その世界に触れたいと思うのは、 イシグロの小説の人々(主に主人公)が感じる、 「自分を取り巻く世界に対する信頼感」を彼らの目線を通じて同じように感じたいからなのかもしれないと時に思う。 過去の様々な物事を語る時に、それが曖昧になる(いわゆる信頼できない語り手になる)というのは、 自分の都合の良いように過去を改変して再構築しているのだと言える。けれどもそれは言い方を変えれば、 複雑で、捉えどころのなく、バラバラになってしまっている現実を、もう一度信頼のできる形に捉え直そうとする ある意味で誰しもがする普遍的で重要な試みだとも言えるのではないか。 そのような重要な試みを、カズオ・イシグロは描いているのではないかと時に感じる。 | ||||
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この小説の結末にはとても興味があった。しかし終盤での、駆け落ちを決定したことの唐突さや、両親の拉致されているであろう家に推測だけで命がけで向かおうとする不自然さや、親友アキラとの再会の非現実性など、前作「充たされざる者」の世界であれば許容できた展開も、今回は許容できなかった。しかし、大どんでん返しの結末は楽しめ、サラの死も、もの悲しさの余韻が残り、しみじみ感じられた点は良かった。総合評価は3.5としたいが、3とした。 | ||||
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とにかく物語として非常に拙く、特に前半はダラダラとしてエピソードをつないでいるだけなのでかなり退屈でした。 ほぼ半分にあたる257頁あたりからそれまでの記述スタイルとは明らかに異なる語りにテンポの良さのようなものが出てきますが、作者であるイシグロ氏にもこの木に竹を接いだような不自然な変化についてちゃんとした説明が出来ていないことからも、おそらく作者のミスなのだろうということが感じだれて、この点も本作の出来の悪さに一役買っています。 いちばん不味いのは、本作の物語の中心である「両親誘拐事件(?)」を主人公のクリストファーが私立探偵になってまで解決しようとしているのに、明らかにこの事件に深く関わっている「フィリップおじさん」なる人物を最後まで全く捜そうとしない点です。 幸いにも本書のラストで別の件でむしろフィリップおじさんの方から再会してくれるわけですが、高名な名探偵という立場になっているクリストファーがそんな当たり前にことすら出来ないということにはただただ呆れてしまいます。 そもそも探偵というわりに探偵らしい活躍が一切書かれていないというのも奇妙ですが、これはイシグロ氏の作家として力量と才能に大きな問題があるからだと私は思います。 本作でも残りわずかになってからバタバタと事件の真相が書かれていきますが、その記述がいかにも取ってつけたように不自然でそれまでの文章から乖離しているという問題点は、本作の後に書かれた『わたしを離さないで』『忘れられた巨人』でも共通する欠点です。 さらに欠点を指摘すると、ダラダラとした意味のないエピソードを細かくつないでイシグロ作品は出来ていて、それらからなる全体の物語には「メタ」が全く存在しない単一の意味しかないということでしょう。 本作においても表層的で単純なストーリーしか存在せず、批評家が無理筋に強引な評価をしてような「孤児」というワードへの複雑な含蓄などじつは本作には全く存在してはいません。 評価については個人的には最低評価が妥当ですが、こうして意図的に作られたノーベル文学賞作家という意味を提議するためにもあえて普通という評価にさせていただきます。 | ||||
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