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わたしたちが孤児だったころ
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わたしたちが孤児だったころの評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.99pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全59件 1~20 1/3ページ
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英国の私立探偵による、人生の回想と親探しの物語です。 この作品、おいそれと人には薦められません。ポイントはふたつあります。 ・「信頼できない語り手」というミステリの手法を知らないと、面食らってしまう 本作では、カズオ・イシグロの初期の代表作でも用いられたこの手法が全編を通して使われています。 つまり、主人公が語る内容はあくまで、ひとりの孤児が必死の思いで作り出したフィクションにすぎないということです。 この点を念頭に置いて(あるいは途中で気付いて)読まないと、なにか変なものを読まされているという気になってしまうでしょう。 ・カズオ・イシグロ作品の中では度を越して暗い 中盤くらいまでは楽しく読めたのですが、物語は次第に暗くなっていき、最後はもう絶望のどん底に突き落とされることを理解しながらも「まあここまで読んじゃったしな」と思いつつ読み終えました。 しみじみと人生を振り返り、辛いことも楽しいこともあったね、と穏やかな気持ちになる、そんな作品ではありませんでした。「信頼できない語り手」の手法を活用した、これでもかというほど残酷な物語です。読者は、人生という物語の、劇的な崩壊の場面に立ち会うのです。それでも最後はある程度品よく着地するので、いちおうカズオ・イシグロ作品としての体を成してはいるな、という印象を持つのですが、人によってはショックを受ける内容かも知れません。心が弱っているときには読まないほうがいいでしょう。 内容が衝撃的すぎるという意味で星をひとつ減らしました。作品の質としては星5ですが、Amazonレビューの星には、おすすめ度合いという意味もあるので。 | ||||
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美術でアートとデザインの区別が不明になって久しい。言葉のアートもデザインと区別ができない。コナン・ドイルと『ウォーリーを探せ』を合体させ、漆喰細工か竹細工のような風合いで上海を描く。すべてが(戦争も)そのだまし絵の壁画に埋め込まれ、幾つもの惹句としてのセリフが、長編のあちこちにストーリーと無関係にはめ込まれる。主人公がクリストファー、日本人少年がアキラとあるが、キヨシではなかったか。本書で祝典の舞台とされるジェスフィールド公園には「犬と中国人立ち入り禁止」の立て札があったと武田泰淳が書いている。たぶん英語で。それにしても、原文の装飾性を日本語にするのは容易ではない。 | ||||
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春馬くんが 「わたしを離さないで」 のドラマを演じる前に読もうと思い即注文。 悲しい小説でした。 これを機にカズオイシグロさんの本を数冊読みました。 | ||||
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カズオ・イシグロの文章は本当に美文で、寝る前に読んでいますけど、毎日楽しみです。ディセントというか、節度ある文章でありストーリーだと思います。まだ読み終わっていませんが。 | ||||
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【ネタバレあります】 主人公は優秀な探偵のはずなのだけれど、自分の過去(両親が突然いなくなって、孤児になってしまった)に直面した時に、現実検討能力がすごく歪んでしまうんですよね。冷静に、合理的に判断しているつもりなのに、まったく的外れな判断をして、自己中心的な行動になってしまう。 だから、主人公の奇妙さについていけないし、心情的にも共感しにくい感じがあると思います。 この状況は主人公が「2重の意味で孤児になっている」とも言えるのではないかと思います。つまり、親が(自分を保護してくれる人が)いなくなることによって孤児になる(社会的に)と同時に、その心の傷によって他者との繋がりを作ることが難しくなってしまって(心理的に)孤児になるという意味において、ということです。 作品中、ある女性との関りが描かれますが、この2人は結局情緒的に親密なつながりを持つことができなかったことも、主人公が結局「孤児」であったことを強調するエピソードとして挿入されていたように思います。 そして、主人公が置かれている状況は、(主人公ほど劇的ではないにしても)現代に生きる我々に多かれ少なかれ共通する点があるのでしょうし、そういった意味での、「わたしたちが孤児だったころ」というタイトルなのかと思いました。 このように書くと、本書がとてもペシミスティックな視点から描かれた作品だと感じられるでしょうが、本作品に希望が描かれてない訳ではありません。著者は、淡いながらも人と人との繋がりというものに対する希望も描き込んでいます(と私は思います)。どのような希望なのか、それは是非、読んで確かめていただければと思います。 | ||||
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こうして100年前の人物の足跡を追うことで、時代を超え、空間を超え、巨大な奔流に身を委ねる感覚が得られるのは本書の醍醐味かもしれない。 少年時代の描写は子どもの一見無意味、無駄な事柄に夢中になったり、この世の終わりのように恐怖におののく様子が描かれ、普遍的な子ども時代とでも言えるような納得があった。まるで自分の少年時代を眺め、そして当時自分が見ていたものが描かれているような気になった。10歳ぐらいの子どもが陥りそうな対応の過ち、絶望に陥りやすい後悔、意外なほど深掘りできる思慮、かたや他者の気持ち、社会からの視線が分からなくて、究極まで登り詰める独りよがり。 探偵が事件を解決するような探偵物の小説ではなく、やはり時代のうねりをとらえた大河小説だと感じた。戦争で無辜の人々が大勢死にゆく中、クリストファーは事件で殺害された一人の人物の死を徹底的に追求していく。戦争で人の死が当たり前になり倫理観も正義もおざなりになりつつある世で、彼は人としての矜持を保ち、混沌とした奔流の中でも自己を維持している。物凄く勇敢な人物というような感じではないのに、精彩を放つのは世の混乱が加速しているためだろう。自暴自棄な大衆、悪事を悪事と思わなくなった警察、役所、そういう世の恐怖が描かれているようだ。世の中の空気に合わせる、周りの人々に自分を合わせるという、人間の能力は必要なことだが、時には飄々と鄒勢を見つめて立ち位置を判断し、自分一人しかそこに立っていなくても立ち続けなければならないことがある。 アヘン取引を企業活動として行い、莫大な資金を得たイギリスの話だが、現代でも社会を蝕みながらもその活動によって生計を立て、ひいては本書のバンクス家のように上流の暮らしにあずかっている人は多いのではないか。ゲームやスマホは人に楽しみを与えてくれる一方で、欲望の無限ループに陥れるような装置も兼ねている。WHOはついにゲームの依存性を危惧して疾患に格上げして警鐘を鳴らした。そういう行間の何かを見つけ出そうとすることは興ざめだろうか。ストーリーはすでに大河のように流れ、理屈っぽく立ち止まることは許してくれなさそうだが、現代に生きていれば歴史の足跡に反省を思いつつ、同じ足跡を辿ってはいないかと少し振り返ってみたくなる。 上海の喧騒が生々しくて、自分がそこに立っているように感じた時、そこに砲弾を撃ち込む日本軍がまるで外来のもののように感じた。日本人でありながら、そのように感じたのは不思議である。中国人の立場から侵略者を見つめ、また外国租界という特殊な地区のために遠雷を眺めるような感覚である。しかし確かに戦争の空気は上海の街を退廃に陥れ、変化への不安を掻き立てている。『ウースンクリーク』(日比野)は上海付近で行われた激戦を描いた戦記文学で、血の臭い、泥の臭いが立ち込めてくるが、本書は当初そのような激しさとは無縁の当事者感覚の希薄な空気が充満する。しかし戦場から逃れてきた難民は確かに街にいて、当事者ではないと意識的でないにしろ感じている心境を裏切るように、街は混沌として浮き足立っている。その空気感が肌に感じられて、著者の筆力に唸らされる。 日本人がまさに日中戦争の最中のこの話に接した時、激烈な侵略とは少し離れた情景が奇妙で新奇に見えるかもしれない。戦争のすぐ隣ではこうしてnobleな心境を保ち、ゆっくりとたがが外れていきながらも、この上海に長く住みたいとイギリス人に言わしめる何かがある。その雲のようなものが行間から立ち上がってくるのである。 子どもの頃の親の庇護が与えてくれる平穏。それはまるで世の中全てが平和であるかのような錯覚となる。その時代にはその時代の困難が必ずあるが、子どもの視野ではそこまでは見えない。しかしその無垢な勘違いが、大人になった時に見えてくる世の中の混乱を立て直したいという正義の観念を下支えする。あの頃のように平穏にしたいと。子ども時代の生活はそういう意味で重要になる。クリストファーのように孤児でありながらも、周りの大人が手を差しのべて平穏な生活を生み出すのは、その背景に何か理不尽なものがあっても優先されるべきなのかもしれない。『世界は贈与でできている』(近内)は親と子の関係に贈与の考え方で説明を試みている。親が子どもに無数のものを与えようとも子は親にお返ししなくてもよい。ただその背負わされたものはいずれ誰かに別の形で与えていけばいい。その子は親となって新しく生まれてくるものに引き継いでいけばいい。何か困難があろうとも子どもには心豊かな生活を可能な限り与える、というのが大切なのだろう。本書のクリストファーも不都合な背景があるなか、そういう大きいものを背負いつつ彼は逞しく屹立し、次に伝えていく役割を図らずも果たしたのだと思うと、困難な時代を跨いだこの小説にも様々な意味が見えてくる。 大河小説や戦記文学、推理小説の要素を持った重厚な内容であった。恋愛の面もねちっこくなくて個人的にはよかった。言葉を重ねた豊かな表現は心に響いてくるが、暑苦しくない文体ですっきり読めて、そこに軽快な展開も加わるので読書はドンドン進む。この100年前のノスタルジーに浸りたいと思っていても、それを許してくれないのがこの小説の凄さなのだろう。 | ||||
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まるで新刊本のように綺麗で感激しました。 | ||||
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主人公クリストファーは、上海租界での子ども時代、アヘン貿易に関わるイギリス商館に勤務する両親が行方不明となり、孤児となってイギリスに帰国する。成人し探偵として成功を収めた主人公は、失踪した両親を探し出すために再び上海の土を踏む。 全編、壮年期の主人公が回想する形で物語が進む。時系列が前後したり、子供時代の細部の記憶があいまいになり始めていることや、当時の自分の虚栄心なども率直に認める。記憶が断片的に現実とつながり、過去のあやふやな会話が急に思い出されたり、ロンドンに残してきた養子のセリフがふと思い出されたりする。 記憶と現実を行ったり来たりするスリリングな描写が印象に残っており、数年ぶりに再読。最初に読んだときは戦場の場面が印象的だったが、今回は、孤児に限らず、親子関係についての描写で色々と考えさせられた。 | ||||
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こんなラストなら、読まなかった。 残念すぎるし、やはりそうなのかと虚しさが抑えきれない。 でも読まずにはいられないほど、静かに世界観に引き込まれてしまう。 訳が素晴らしいのもあると思います。 一人称で書かれているものは、気をつけないと視点が一点(自分だけ)になるのは当然で、そこを意識して読んでみると作品の深さがより感じられる。 単純に、深さを感じなくても十分読み応えはもちろんあります。 ハタチそこそこで『テレーズ・デスケルウ』が絶望的で最後は読めなかった自分の若さを、久々に思い出しました。 人の欲望、ひがみの醜さ恐ろしさは正直フィクションでも目にしたくはないけど、フィクションだから、所詮本の中の事で良かったと思えるほどに自分も歳を重ねてきたんだなぁと思えました。 それにしても、やはり結末はグロい。 結末直前の惨状の描写もかなりのヘドを催すものがあるも、軽く読み飛ばせます。 しかし。人は誰しも母親から生まれてきており、その母のある姿は、子どもにとって重要だとそんな当たり前の事にも気がつかされる。 ノーベル賞とるだけの作家の作品は一度だけではなく、二度三度読んでいくと毎度違う視点を与えてくれる、多くの人が自らのそれぞれのこれまでの生き方やら考え方に新たな視点を与えてくれる深いものなのだと。 次はまた数年後、数十年後に読んでみたいなと。 グロさが和らいで読めるくらい、人の色んな心を受け止められるくらいに落ち着いていたいものだと思います。 | ||||
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主人公は上海育ちのイギリス人で突然孤児になってしまった10歳の出来事を起点に探偵としての地位を活かして両親に何が起こったのかを探っていくストーリーです。舞台はアヘン戦争中の上海で子供時代の郷愁を感じる記憶と現在の謎を探るパートで主に構成されています。さらにその現在すら郷愁を感じる過去の記憶となる数十年後も併せて描写されており、過去の真実を知ることに執着したことで今の幸福になりえたかもしれない選択肢を捨ててしまうことになります。ですが、主人公は使命に生きており、結果的には必然だったと感じさせる内容でした。 主人公の目的を最優先させ、時には協力者を罵倒する姿勢には正直やり過ぎだと感じましたが、それも率直に生きてきた人生、そして探偵としての職業がそうさせたのかもしれません。 読後は重厚な過去を受け入れたおじいさんのような感覚になりました。一人の人生を味わった感覚です。 | ||||
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主人公クリストファーは1900年前後の上海租界に生まれた。 父はアヘン貿易によって財をなしたイギリス人だが、同じイギリス人である母は英領インドから流れ込むアヘンによって心身を蝕まれていた中国人に対して、イギリス人として自責の念を感じ、現地中国のナショナリストたちと手を組んで反アヘン・キャンペーンに関わっていた。 その両親が何らかの事件に巻き込まれて行方不明となり、孤児となったクリストファーは本国イギリスに住む親戚に引き取られることになる。 やがて本国イギリスで探偵として身を立てた彼は失踪した両親の行方を探しに上海に舞い戻ることを決意する。 しかし、そこで彼が目にしたものは中国ナショナリズムの台頭と日本の侵略によって行き場を失ってゆく租界のイギリス人たちの斜陽化する社会だった。 今後われわれ日本人が日本の旧植民地を舞台に小説を書く上で、この小説はお手本ともなれば乗り越える対象ともなるだろう。 そもそも「わたしたちが孤児だったころ」というタイトルが意味する「わたしたち」とは誰のことだろうか? | ||||
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カズオ・イシグロがイギリスのいわゆる正統系の作家だというのは、納得できる気がする。 この「私たちが孤児だったころ」や、「私を離さないで」などのイシグロ氏の長編小説を読んでいて一番感じるのは、 なんというべきか、「主人公が基本的に、世界に対するもっともな信頼感を抱いている」のである。 この「私たちが孤児だった頃」にしても、主人公のバンクスは両親の人生にただただ翻弄される形で 唐突に孤児になってしまうが、全てが明らかになって母親と再開を果たした後もその両親の過去の選択を受け入れ、 (それは自分ではどうしようもできない大きな政治や社会の流れを受け入れるということでもある) 探偵としての自分がどう生きるべきかという選択を考慮した末に孤児の新しい女の子を引き受けることにする。 彼は、自分自身の悲劇は置いておいて、新しく受け入れる養子に彼なりに手を差し伸べる。それはほぼ無償の愛に近い。 物語の最後には、探偵として生きてきたバンクスの最後の心の揺らぎが示される。 ロンドンで今までのように事件を調査しつつ、ここで残りの人生の時間を過ごすのか、それとも、 養子にしたジェニファーと田舎で暮らすかどうか.... という老年期に差し掛かった探偵の穏やかな迷いの独白での幕引きはなかなか味わい深いものがある。 私がカズオ・イシグロの小説を定期的に手にとり、その世界に触れたいと思うのは、 イシグロの小説の人々(主に主人公)が感じる、 「自分を取り巻く世界に対する信頼感」を彼らの目線を通じて同じように感じたいからなのかもしれないと時に思う。 過去の様々な物事を語る時に、それが曖昧になる(いわゆる信頼できない語り手になる)というのは、 自分の都合の良いように過去を改変して再構築しているのだと言える。けれどもそれは言い方を変えれば、 複雑で、捉えどころのなく、バラバラになってしまっている現実を、もう一度信頼のできる形に捉え直そうとする ある意味で誰しもがする普遍的で重要な試みだとも言えるのではないか。 そのような重要な試みを、カズオ・イシグロは描いているのではないかと時に感じる。 | ||||
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久しぶりに“身が入る”読書を楽しんだ。カズオ・イシグロはもう一冊、世界的なベストセラーになった『わたしを離さないで』を読んだだけだが、あれも面白かった。そのほかの作品のあらすじに目を通してみると、多彩な作風を持つ作家らしいので、一概には言えないかもしれないが、わたしが読んだ2作は間違いなく圧倒的な物語が展開する小説だった。 本書には、意外な作家の影響も見受けられる。本当に本当に意外なのだが、それはアガサ・クリスティーである。このことをわたしが知ったのは、しばらく前に読んだ平井杏子という人が書いた紀行エッセイ『アガサ・クリスティを訪ねる旅』(大修館書店)のあとがきでだった。以下、それを少し引用してみよう。 “じつは打ち明けると、この旅に私を誘ってくれたのは、カズオ・イシグロというひとりの作家でした。(中略)人間心理の奥底に深く分け入るイシグロ文学に魅せられ、著書やさまざまな資料に目を通していた私は、長編第五作目の『私たちが孤児だったころ』(原文ママ)のことを、イシグロ自身が「アガサ・クリスティのパスティーシュ」と語ったインタビュー記事に行き当たりました。……” パスティーシュとは模倣のことである。あらためて思い巡らすまでもなく本書の主人公は探偵だし、過去と向き合い、ケリをつけようとする物語は確かにクリスティー的だ。もちろんクリスティーとイシグロの作風はまったく異なるが、イギリスにはディケンズの『エドウィン・ドルードの謎』のように文豪がミステリを手がける伝統があり、本書もその系譜に連ねてよいのではないか。もっと言えば、イシグロのストーリーテラーぶりはディケンズ的でもあると思う。 | ||||
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英国の著名な探偵、クリストファー・バンクス。 彼の回想という形で、本書は構成されている。 どこまでが真実で、どこからが虚構と感じるかは読み手に委ねられるだろう。 独特の世界観を楽しみたい一冊。 | ||||
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物語の舞台は主に、1930年代のイギリスと上海である。 上海生まれのイギリス人である本書の主人公は、ある日突然孤児となる。イギリスで成人して探偵となった後は、やらなければならないことがあるという使命感から、上海に行く。 自分の使命が常に優先されており、他人の苦悩や痛みには思いを及ぼさない。ところどころ、読んでいて驚かされるほど、あまりに自己中心的な発言もする。そして、自分の恵まれた地位や特権が、多くの人の犠牲の上に成り立ってきたことにも気づかず、また、気づいた後も、自分を正当化し続ける。 作者はさらに物語の中に隠喩として、先進国で裕福に暮らす人々への批判も含めているように思う。 主人公と相似の関係にあるものとして、列強各国の富裕層がある。その中でも特に、中心的存在である大英帝国に対して、作者の厳しい目が向けられているように感じる。使命感を持って帝国主義の行動を起こし、自分たちの恵まれた社会や国が他国民の犠牲の上に成り立っていることに気づかずに(あるいは故意に無視して)人生を謳歌している。この国民みんなが、タイトルの「わたしたち」に含まれるのではないだろうか。 そしてこの「わたしたち」は、昔だけの話ではなく、現代の先進国に生きる私たちの問題でもある。 | ||||
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今でこそ有名なカズオ・イシグロですが、なかなか良い本を書いていました。 | ||||
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不思議な、内容だった。イギリスで実際にあったことなのか作者の完全なフィクションなのか? 内容に付いていくのに時間がかかった。 結末が、不思議! | ||||
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突然の両親の失踪にも動じなかった主人公は、心はずっと孤児のまま、大人になってもずっと、両親に会えると信じ、探し続けていた。 その間、世界は激変し、幼友達や恋人が過酷な運命に巻き込まれていく。 そして、彼が夢から覚めた時に見たものは…, 後半の、戦火に踏みにじられた人々の生活の凄惨さ、愛犬を守ろうとする少女の運命に思いをはせ、涙が出そうになった。 | ||||
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1930年代の上海が舞台と言うことに惹かれて読み出した。 主人公の少年は英国人だが英国に住んだことがない。 上海の租界地で生まれ育った。日本人の少年とも対等な友達として楽しくくらしていたが、戦争の暗雲は、彼らを包み込んで行く。 自国が列強の国々に租界地にされて行く中国の悲惨さ。東洋のパリと称された華やかさは、裏にとんでもない暮らしが横たわっていた。 両親が、突然行方不明になった英国人の少年には帰るべき故郷は無かった。 日本軍が刻々と迫ってくる恐怖の中必死に生きる少年。 叔母に引き取られ英国で大人になり、仕事も順調だが、両親の失踪の理由と結末がわからない。 両親を何とかして探し出そうとする。 背景の社会はアヘンを利用した国は英国だけでは無かった。 中国国内の国民党と共産党の争い、実に混沌とした時代は、個人の生活を翻弄してしまう。 最後までドキドキワクワクしながら読んだ。 | ||||
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カズオ・イシグロの作品を読むと、いつも迷宮に入ったような気持ちになる。 一人称で語られる日常、些細で詳細な、ごく身近な人物や風景の描写、それに伴う主人公の感情。 そこが、どこかの段階で少しづつ歯車を狂わせ、「何故?」と思わせるような言動へと移行していく。 思い出は、思い出すたびに少しづつ色を変え、思い出の人物に再会するたびに更にその色は変化する。 タイトルの通り、カズオ・イシグロの小説は全て仕掛け尽くしで作品数も少ないので、本当はあらすじすら読まず、全読みして欲しい。が、一応、自分なりの感想を言いたい欲望が抑えきれないので、簡単に書く。 今作は、私が初期の2作が未読の為、彼の書いた「東洋」に初めて触れた作品であったが、この作品は、人物の内面のみならず、『日の名残り』と同様の第一次世界大戦と第二次世界大戦の間に起きた出来事が話の中心であり、英国内の知識層が第一次世界大戦後、第二次世界大戦を食い止めるべく義侠心を持って議論・行動していた半面、別の英国人は植民地搾取も行っていたというアンビバレントな状態や、それが、中国・日本内でもあったという世界状況も充分伝えてくれる。 後半の激しい展開に驚いたが、まさに、カズオ・イシグロの真骨頂と言える作品であると思う。 | ||||
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