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日蝕
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日蝕の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.11pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全90件 41~60 3/5ページ
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完璧な・・・多様な意味で・・・完璧な物語を読ませていただいた・・・と思う・・・ これほど完璧に構築された物語を他に知らない・・・ 二元論の真の終焉:精神と肉体、西洋と東洋、資本主義と共産主義・・・現実と非現実・・・宗教と非宗教・・・ヒトと非ヒト・・・諸々の相克を一つに溶かし、存在の真実(真実の存在)に至ろうとする地平を提示している良書に出会えた! まずは御一読を!! | ||||
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兎に角難しい漢字が多用されていて、読みづらさに面食らってしまった。こういった文章、昔の日本語の小説の様な言葉使いの文章を擬古文と言うらしい。もう一度言うが兎に角難しく読み難かったが、だがストーリーはそれほど難解ではなかった。 パリの学僧ニコラは自分の探究心の為に欲しい本があった。それを求めてフィレンツェに行く道すがらついでに怪しい錬金術師のいる村を訪れる。そして、人間とも天使とも悪魔ともつかない両性具有者を目撃する。だがその両性具有者は魔女だと勝手に決め付けられ異端審問にかけられ焚刑に処される。その時日蝕が起きるのだが、タイトルにもある日蝕だが、これは聖職者の腐敗の象徴として表現されているように思えた。他にも巨人など少し意味不明な所もあるが、やっとこすっとこ読破出来た。 これは極端な考え方なのだが、これは小説だがストーリーはさして重要ではないのでは?とも思える。それは現代文の小説ばかりのこの時代に、かつての日本語の素晴しき文学の表現方法を再度日本人に知らしめる。そういった作者の思想が、思想そのものがこの作品に練りこまれていて、その現代文学に単独で戦いを挑む様に選評者が感銘を受け芥川賞受賞に至り、更にその孤独な戦いの様に三島由紀夫の片鱗をみて、三島由紀夫の再来と言わしめたのではないだろうか。私にはそう思えてならない。 なおこの作品は 【第120回(1998年下半期)芥川龍之介賞】受賞作。 | ||||
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擬古文調の文体、前半にこれでもかと出てくる中世ヨーロッパの知識、茶髪にピアスという風貌など全て作家としてデビューするため狙ってやったものでしょう。はったりが効き過ぎたのか出版社の一儲けしたいという意向なのか(近年ではKAGEROUのポプラ社)みごとに芥川賞を最年少(ここも出版社の興味を引いたに違いない)で受賞されています。擬古文はもうやめてしまっているようなので、やはり本人の本当の作風ではないのでしょう。 「鏡の影」の影響に関しては[...] に詳しいです。自分としては「鏡の影」に出てくる魔女焚刑、処女懐胎のモチーフを、魔女焚刑→神との合一(錬金術における黒化、白化、赤化)に変えただけのように感じます。個々のプロットの類似はむしろ消そうと努力している跡が窺われるのですが、小手先だけなのでうまくいかなかったのでしょう。 ただ、はったりに見合うだけの努力と、短期間で物にできる頭の良さを買って☆2つにしました。 (皮肉ではありません。かなり頭のよい人だとは思います) | ||||
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若手ながら実力派の名前を欲しいままにしている平野啓一郎のデビュー作。 ドミニコ会士の学僧であるニコラは、研究のための書物を探し求めていた。そんなニコラに司祭はとある村にいる錬金術師を訪ねるように助言する。半信半疑でその村を訪れたニコラ。だが、その錬金術師の生き様にニコラは打たれるものを感じ。 とにかく筆達者だなぁというのが最初の印象でした。 まるで大正か昭和初期の文豪の作品を読んでいるかのような文章は、とても若者が書いたとは思えないほどの出来です。 また、神の存在に対してどうしても疑問を抱いてしまう主人公の心情を丹念に描いているのも、とても興味深かったです。 小難しくてわからない部分もないわけではないのですが、それを差し置いても読んで損のない小説だと思いました。 現代文学の傑作のひとつです。 | ||||
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著者の作品を読んだのはこれが初めてで、 擬古文というものにも慣れていなかったため、 はじめのうちは何と読み辛い本だと思いましたが、 作品の「神聖」な内容と擬古文が相まって、 徐々にその世界観に呑まれていきました。 作中の歴史的な背景や、 哲学的なテーマが伝えんとすることは よく分かりませんが、 「日蝕」と「一月物語」に 共通して語られる主人公の鮮烈な「体験」の描写が、 個人的には大変印象的でした。 著者の言葉を借りて表現すれば、 世界を見ている私自身が、同時にその一部であるような感覚 を、私も人生で一度体験した記憶がありますが、 いまだにあれはなんだったのかと思い返すことがあります。 この2作品の特殊な世界観を通して、 真っ先に思い出したのはその時のことで、 主人公たちの奇妙な世界を追体験するような感覚で両作を読み進みました。 個人的に難解な部分はありましたが、 それ以上に非常に印象に残る作品で、 著者の他の作品にも手を出してみようと思えました。 | ||||
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平野氏の『日蝕』が開示する世界に、哲学的で文学的なそれは全くもって見出だせなかった。 難解な言葉、擬古文、氏のペダンチックな趣向で構築されただけの形骸的な作品であり、表現力が欠落していて、しかも、洗練されてないレトリックが余りに目立ち、読むに堪えない。 一頁ずつ丹念に解いていった時間が無駄になった。 最早、文学などではない。 氏は雑学王にでも、なっていれば良い! | ||||
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昔、色々話題性豊富な作品だったようですが、私は「中世の神聖と異端について書かれた本」という点で読んでみました。 何か得るものはあったかと思うと、ちょっと思いつきません。 悪いですけど。 でも、頭は良さげな方なので、芥川賞作家という汚名?をすすぐほどの名作を書かれること期待します。 (堀田善衞レベルまで行ってくれればうれしいな) | ||||
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読み始めからびっくりする絢爛な文章。 日本語の表現。 酷評もありますが私は単純にすごいと思ったし、 この時代にこれだけの作家はなかなか現れないと感じました。 確かに難しいです。 両性具有についても理解に時間がかかった。 「文学」としての芸術品です。 他の人のレビューにあるように 思想から入っていますね。 頭のいい人だなという印象があります。 テレビで見てても 知的な顔つきをしてる。 読んでおいて損はない作品です。 | ||||
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著者のことが気になり出したのは、梅田望夫氏との対論であるウェブ人間論を読んで以来である。あくまで肯定的にインターネット・テクノロジーがもたらす社会の展望を語る梅田氏に対して、テクノロジーの恩恵を認めつつ、どうもそれに警戒感を捨てきれないらしい著者が、葛藤しながら言葉を紡ぐ様が妙に人間臭く印象に残っていたのだ。 で、そのウェブ人間論から遡ること約8年前に上梓された著者のデビュー作である。高潔な文体と筆運びの巧みさに打ちのめされると同時に、はぁなるほど、と変に納得させられた。すなわち、テーマはまるで異なるこの「日蝕」と先の「ウェブ人間論」が、自分の中で明確な一線で繋がったような気がしたからである。 やや独断になることを恐れずに言えば、著者の関心は一貫して、合理的な秩序を超えた世界にある。ただしこれは単純なオカルト志向とは趣が異なる。おそらく著者が拘っているのは、人間が合理化を徹底することによって、逆に非合理の世界を際立たせてしまうという過程なのではないか。だからこそ著者は、「合理的」な自然科学者のピェェルが両性具有者と交わる様を描くのであり、また世界の全てを「合理的」にデータベース化して検索可能にするgoogleのやり方に、薄気味の悪さを覚えてしまうのだ。 この小説に何か人生訓的なテーマを読み取ろうとするのはナンセンスだ。著者は単に彼の想うところの「非合理的な世界」の存在を、彼独自の美意識において提示したかっただけなのだ。擬古文の使用や、錬金術や魔女狩りといったモチーフは全てそのための手段と考えて良いと思う。然して、その印象は鮮烈なもので、その試みは大いに成功していると思う。 | ||||
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暗号みたいな表現だらけの文体に苦労しながらラストまで読んでみたら、 「射精」こそが霊肉一致の瞬間!みたいな〆方に「開いた口が塞がらない」状態だった覚えあり。 平野氏の宗教に対する考え方が高度過ぎて理解が及ばなかったのかもしれないが、自分は「中世ヨーロッパについての薀蓄本」、ないしは「性を至高の存在として称え祭った『擬似』宗教文学」という印象しか持てなかった。 もし平野氏と酒を酌み交わす機会があれば、この作品に篭められたテーマについて納得行くまで質問攻めにしたいと思う。 | ||||
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芥川賞受賞作でありながら異様なまでに酷評されているので気になって読んでみました。はっきり言って微妙な気が 書き出しや舞台設定は非常に魅力的で引き込まれるのですが、読中、読後なんの感銘も感動も受けることはありませんでした。 僕の場合、読み進むにつれ、「描写の巧みさ、視点の鋭さのない作品だな」という印象が頭に浮かび、所々で必然性なく登場する用語に苛立ちを覚えるようになりました。 で、最後まで読んでみたら凡庸なストーリー。作家のデビュー作としては並なのかもしれませんが、これで芥川賞は酷過ぎる。そもそも純文学に該当するのかも微妙。 でも、中世を舞台にしたお話として捉えれば並の作品ですので、そういうのがお好きな方にはオススメ出来ます。 | ||||
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15世紀のフランスを舞台にある一人のカトリックの僧がフィレンツェを目指す途中で立ち寄った村で錬金術師と出会うのですが...という滑り出しなのですが、古い漢字か、当て字なのか分かりませんが全編古い字を使ったことで情緒は出ていますが、読みにくい。時代感溢れる演出ですが、もう少し上手く出来ないものか?とも思います、読みにくいことだけが良くないのではなく、読みにくさがあったとしても得られる何かの方が大きければ何の問題もないのですが、私にはデメリットの方が多く感じました。また、どうしても「薔薇の名前」が頭をよぎる構成といいますか、展開でして、「なんかどこかでみた」とか「似たような展開を何かで憶えてる」とかを感じさせます。意図したものではないかも知れませんが、そんなちょっとした違和感や演出がどうしても「読ませたい物語」よりも「びっくりしてくれた?けっこう上手いでしょ、私」的なる自己顕示欲に見えてしまう(もちろん私にとって、です)のです。これは技術的問題で、最初から上手い人はいないのでしょうけれど、その加減が私には鼻につく作家さんである、という傾向を感じ取れたので、しばらくはもう良いかと。でも、誰かからススメられると読んでしまいそうではあります。特別毛嫌いする程、耐えられない程ではありませんが、私の中の平野さんについてはおなかいっぱいな感じです。 特にオススメではないのですが、「薔薇の名前」の世界が(映画でも、本でも)お好きな方にヤヤ、オススメします。 | ||||
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文学会に切り込む気負いと硬さは感じるが、読み方によっては堀田善衛を連想させるような非常に美しい文体であり、近代純文学に対する作者の親しみと愛情を感じる。 読み始めは純文学へのオマージュ的なものかと思ったのだが、読み進めるうちに徐々にそういう穿った見方は蒸留されてゆき、美しいものだけが残った。 初期の習作としての要素も強いが、ひとつの到達点としても屹立している。 これ以降の平野作品もすぐれたものが多いが、日蝕のインパクトは忘れがたい。 | ||||
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作家本人はこの呼び名も、それが読者の障壁となることも気に入らないようだが「擬古文体」とでも言うような文体が読みにくく、最初はなかなか入っていけないかった。 物語そのものは、精神と肉体それぞれの宗教的な昇華の瞬間の目撃譚というような内容である。時代設定や場所、さらには宗教にも馴染みがないので、いつまでも違和感が残る。 しかしそんなことよりも、何がこの若い作家にこのような作品を、このような形で書かせたのかという点に惹かれた。しばらく作品を追いかけてみないと判断はできないと思えたが、作家は物語が要求するスタイルであって、作家個人のスタイルではないと言っている。やはり気にしてみて、そのうちに自分の評価を下したい作家だと思う。 | ||||
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評価の難しい本だ。 まず気に入った点。擬古文という「日本語」の美しさは大いに認めたい。これは勿論平野自身が作り上げた文章ではないので 独創性はないが この時代復活させた点は功績である。この文章を読んでいると 言葉が生き物であることが実によく分かる。それほど 今の日本語とかけはなれた文章だ。 気になった点。文章に幻惑されている一方 この本のテーマが最後まで見えなかった。やはりテーマが見えないものに 感情移入も出来ないし そもそも「読み耽る」ことも難しい。 非常に乱暴に言うと アンティークの店で 無類に美しいアンティークを見つけたような印象だ。美しいが その美しさだけが存在理由であって それ以外の用途は何もない。そんな印象を受ける。 もちろん文学という芸術の一つとして「美の追求」は常にある。但し 本書は それを擬古文という 作者自身の独創ではないものに 求めてしまっているような気がしてならない。それが 本書の弱みであり 毀誉褒貶ともいうべき評価なのだと思う。 | ||||
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全編はじめて見るような難解な言葉のオンパレード(といってもちょっと本好きの日本人なら問題ありません)です。 どうでもいいことまで小難しい言い方にして何の意味があるんだろ? この小説を平易な文章に変換すると、神秘の霧がはれて、“で?”っていう駄小説が姿をあらわします。 読了時の感想は中学生の時に書いた自分の日記を10年後に発見して読んだあとみたい。 一言で言うと“恥ずかし〜!” 真理とか、自分の存在理由ってなんだろうか?とか中学くらいに皆考えるでしょ? そんな感じの小説です。 読んでもなんの感動もないっすよ。 中世ヨーロッパを舞台にした神秘小説ですが、我々現代の日本人に通じるテーマなどまったくありません。 | ||||
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特異な設定と文体が当時話題になった記憶がありますが、その文体というか、語の選び方についに馴染めずに読了してしまったという印象が残りました。 肩肘を張って、その文体に合わせて物語を作っていくような佇まいが僕には空回りと映りました。 尊大に聞こえることを承知で書きますが、その「文体」という語すらそぐわないような、初歩的な問題のような気もするのですが。 | ||||
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正直何故この作品が芥川賞に選ばれたのかが分からない(大抵分からないけど) 浅田彰とかなんかが指摘しているように単なる復古趣味にしか思えないのだが いかがだろうか? | ||||
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三島との共通点が一体どこにあるというのか。耽美というにはどこか即物的であり、身を恥じ入るような背徳も読み取れない。平野氏に特徴的な古典的な文体は確かにひとつの世界を作ってはいるが、物語内容や描写、詳細に読めば文体さえ、若く現代日本的的な感性の横溢を感じる。それ故、古典的な文体はわざとらしく、逆に何かを隠蔽しているのではないかとさえ思えてしまう。 平野氏は何者かとの一体感や成就感、そして一瞬ではあるが永遠の幸福感に憧れていると思わせる。「日蝕」では『究極の至福と統一感』について感情移入できなかったが、「一月物語」を読んで、これこそ彼の根底に流れる情念であり、小説を書かせる源泉のひとつなのかもしれないと思った。それを表立って表出することを憚るがために、回りくどい表現になっているのだろうか。 | ||||
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この作品は著者のデビュー作であり、また芥川賞受賞作でもあります。読了後、最初に感じたことは、大学在学中にかかれたにしては随分と良くできているということでした。作品が生まれるまでの経緯だけでも異色作と言えるかもしれませんが、内容は重厚なテーマから丁寧な文章まで、新人っぽさをほとんど感じさせません。他にもだんだんと語り手の気分が高まっていくところでいきなり見開き真っ白のページを用意した事は、今までに類を見ない視覚を重視した技法で感心してしまいました。語り手を通してのキリスト教や教会、信仰の腐敗に関する著者の哲学的な考察にも頷かされます。よく調べて書いているという事も文章全体からくみ取れます。 しかし、他のレビューアーの方の意見を見て頂くと分かるように、激賞している人と酷評している人とで随分と差があるようです。読んでみると、これらの原因はたぶん作品内の硬質な文体にあると思います。三島由紀夫に似た、擬古文調の文体は難読文字や常用範囲外の漢字が頻出してなれていなければかなり読みにくいです。激賞か酷評かというのはこの文体を単なる著者の知識の披露ととらえるか、作品の設定上必要な物と考えるかで変わってくるのでしょう。文体を抜きにすればなかなか良くできた作品という感じがするのですが、そういった意見もうなずけない訳ではありません。学問的な物は御免だという方にはあまり向かないかな、とそう思います。 | ||||
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