■スポンサードリンク
異邦人
新規レビューを書く⇒みなさんの感想をお待ちしております!!
異邦人の評価:
| 書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.42pt | ||||||||
■スポンサードリンク
Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全199件 101~120 6/10ページ
| ||||
| ||||
|---|---|---|---|---|
| この文学作品を読み、少なからず自分という存在を問うた者として、これからこの本を手に取る人に向けて、僭越ながら一言。 具体的に内容を言及致しませんが、ムルソー(主人公)を取り巻く環境や状況は、彼の存在とは関係なしに、そこにあるものです。そうした要素は、決定的に彼のみならず人間では誰もが変えられない存在であり、そこに存在する人間を限定的に制約(実存的制約)します。 その制約下においては、制約された存在(人間)はそこで制約的行動(そこでのマナー、規律、思考等)を求められます。そして、その行動に従わざる者は、そこでは自動的に「異邦人」にならざるおえません。ここに人間の悲しい宿命があります。誰もが「こうなりたい」、「ああなりたい」少なくとも「こうでなければ....」という叶えられない虚無を抱えながら生きている。 しかし、作中の主人公はそうした一切の願望を排除したかのような人物です。彼は一つの理想的でないにしても生き方の方法を読者に提示したとも解釈できます。ただそうした生き方をする者は「異邦人」になるのは必定(その生き方が主流でない社会においては)。 見よう考えようによっては、「異邦人」にならないためには大衆の中にあって、埋没した存在になるのか、はたまた、大衆の中にあっても、「異邦人」であるのを望むか、人間、私たちは、後者を望みながら前者として生きるのを無意識に選択しているのではないのでしょうか。 この作品は、読者に対して、そうした無意識を照射する「気づき」をもたらす、人種、時空を超えられる名著と言って、決して過言ではないでしょう。そして、これを否定する者は「異邦人」でしょう。(笑) | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
|---|---|---|---|---|
| 「きょう、ママンが死んだ」(6頁)の有名な書き出しに始まる、何とも云えない読後感の一作。アルジェ在の主人公ムルソーの思考と一挙手一投足がトラウマ化して未だに脳裡を離れない。読後も様々な解釈や読みを呼び起こす特異な読書体験。 「それは太陽のせいだ」(131頁)って、それなら本来は精神鑑定を受けさせて、責任阻却で無罪か減刑になる事案ではないだろうか。いずれにせよ、裁判に直面してようやくoutlawたるの自覚らしきものに目覚め(例えば、114頁、118頁、123頁、133頁、140頁、143頁など)、生への執着を見せ始めた主人公の姿は、胸に迫る。不条理に直面して初めて、その人の生が人間が覚醒するというとの謂いなのであろうか。 それにしても、「女をホテルに連れ込み《風紀係》を呼び込んでスキャンダルを起こし、女をカードへ載せてしまう」(41頁)って、一体全体どういう意味なのだろうか。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
|---|---|---|---|---|
| なんといっても圧巻は第二部、裁判のシーンである。 ムルソーが法廷で裁かれることとなったのは、アラビア人を殺害したためで、法廷で追求されるべきは 当然そのアラビア人殺害についてであるはずだ。 しかし、論点はいつしかムルソーの不感無覚、つまり母親が死に、その葬式を執り行ったというのに 母の死に顔も見ず、涙も流さず、そそくさと退散し、翌日には、女と遊び、映画を見て笑い転げていたことに対する非難へと移り変わっていく。 裁判の際、検事は陪審員に向かいこう主張する。 「母親の死の翌日、最も恥ずべき情事にふけった、その同じ男が、つまらぬ理由から、 なんとも言いようのない風紀事件のけりをつけようとして、殺人を行ったというわけです。」 こんな不謹慎な奴なら、殺人をして当然だ!とでも言わんばかりである。 そして、結果的にムルソーは死刑を下され、処刑の日に大勢の見物人が憎悪の叫びをあげて迎えてくれることだけを望み、物語は幕を閉じる。 集団は、その集団に迎合しない人間、つまりは「異邦人」を徹底的に排斥しようとする。 「みんなと同じ」である必要など本当はありはしないのだが、集団はそれを求め多くの人間はそれに応える。応えることが出来る。 しかし、応えられない人間も少なからずいるし、いていいはずだ。 たしかに肉親の死を悼むのは当然(ムルソーも悲しまなかったというわけではないが)だとしても、それに対して 偽りの涙を搾り出し、数週間にわたり憂鬱を演じ、娯楽を慎むふりをする意味が果たしてどこにあるだろうか。 また、ムルソーが神を信じていないことも、周りの人間に少なからず不信感を与えているが、信仰は作り出すものでは決して無い。 己が自然に信じることの出来ないものを、あたかも信じているかのように演じることは愚の骨頂である。 従ってムルソーは、ただ嘘をつくことを好まず、自分に対して正直に(正直過ぎるほどに)生きただけなのである。 ところが、集団はそれを許さない。故に彼は「異邦人」として断頭台に登ったのである。 「母親の葬儀で涙を流さない人間はこの社会で死刑を宣告されるおそれがある、という意味は、お芝居をしないと、彼が暮す社会では、 異邦人として扱われるよりほかはない、ということである。ムルソーはなぜ演技をしなかったか、それは彼が嘘をつくことを拒否したからだ。」 これは、本書解説にて引用されている、作者カミュ自身がこの作品について語った言葉の一部である。 筆者はまた、ムルソーについてこう語っている。「彼は絶対と真理に対する情熱に燃え、影を残さぬ太陽を愛する人間である。」 裁判中、ムルソーは犯行の動機を「太陽のせい」と言っている。「太陽」は、作中ことさら強調して描かれている。 この作品における「太陽」というのは、即ち「真理」であると解釈できる。ムルソーは「太陽」を愛していたが故に、 「太陽」の前では正直にならざるを得なかったのである。 「真理はたいまつである。しかも巨大なたいまつである。 だから私たちはみんな目を細めてそのそばを通りすぎようとするのだ。やけどする事を恐れて。」 とはゲーテの言葉だ。けだし、真理というのはそういうものなのだ。 従ってムルソーは、消極的・受け身な人間などではなく、実は誰よりも積極性を持ち、やけどすることを恐れずに、 真理に対して正面からぶつかった熱い男だったといえるだろう。 「集団の人間」は大なり小なり「お芝居」をしている。よくよく考えて見れば、これは物凄くこっけいなことではないだろうか? 私たちが生きるこの「社会」というものは、あえて言うならばどうしようもない「茶番劇」のようなものだと思わざるを得ない。 欺瞞に満ちた人間社会の不条理をありありと描き出したこの作品は、まさに名作と呼ぶに相応しい。 この作品を読んで、「お芝居」を拒否し「異邦人」となるか、「お芝居」をし集団に迎合するかは読者の自由である。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
|---|---|---|---|---|
| 高校時代の夏休みの課題として初めて読みました。 冒頭から作品半ば以降までは、ムルソーの気持ちの変遷を追っていて、あまり記憶に残っていませんでした。 けれど、それと対照的な最後の彼の本当の気持ちの告白。頭をガーン!と殴られたような作品でした。 今また読み返してみて、この作品のテーマがはっきりとしました。 ムルソーは大勢に対するマイノリティ。 彼は、他の人と”違う”から、無宗教だから、母親の葬儀の際に泣かなかったから、「死刑判決」を受けたのです。 だから、彼は最後に多くの人が自分の死刑執行を見に来てくれることを望んだ。 大勢に従っている人たちは、自分の本当の感情を押し殺して、従っている部分があるのだろうと思います。 けれど、自分はその”大勢”に従わず、自分自身に正直に生きている。それが、なぜ悪いのでしょうか? 殺人は当然のごとく罰せられるべき問題。けれど、自分の信念や考え方まで判決の対象となるのでしょうか? まぁ、大勢と言っても、日本などは過去2回ほど(明治維新のときと戦後)、180度考え方の方向転換を強いられましたけど。たいへんあっさりと。(のように見えますけれど) 人生のうち、この作品ほど感銘を受け、また勇気をもらった作品は、今のところないです。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
|---|---|---|---|---|
| 異邦人を読んだけど良く分からなかった。 というのが僕の感想だけど、僕なりに面白かった点は、マリイに「あなたは私を愛している?」と聞かれたムルソーは「それには何の意味もないが、たぶん、愛してないだろう」と言うところ。彼は愛することは無意味という事を彼女に偽りなく話している。その後も彼の姿勢は、一貫して自分に正直だった。第二部で予審判事に「神は信じるか?」と聞かれてムルソーは「信じない」と答える。後半に入り状況がますます絶望的になってきても彼は嘘を吐かない。彼にとって特赦請願をし、嘘を吐くことは生きる事よりも辛いことだったのかもしれない。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
|---|---|---|---|---|
| 一筋縄ではいかない人間の真相心理をたっぷり味あわせてくれる本。 安価でこんなにたのしませてくれて、ありがたいです。 2014.2.28らんこ | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
|---|---|---|---|---|
| 現代の文学作者の中でも、このカミュは「文学者」と評価するに値する。 自分1人が他人と違う考えや感情を抱き、それが変だと思わず、周りの人間はどうなってるんだ?というような描写が、まさしくタイトルの「異邦人」。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
|---|---|---|---|---|
| 読んだ直後の感想は、なんでこの本がこんなに有名になったのだろう?だった。 しかし、5日、6日、するごとに あの不思議な、あたかも自分のことを他人のことのように語る文体の良さがジワジワと染みてきて 自分のなかの評価がぐんぐんと急上昇した。 私のなかで、この本は、不思議な本、であり、心地良い人物(主人公)に触れられる本。 カミュは、ペストの方が、万人が評価できる傑作だが、異邦人、も不思議な魅力を放っている本に他ならない。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
|---|---|---|---|---|
| 「昨日、ママンが死んだ。」 この大変有名な冒頭だけを私は知っていた。 そしてなんとなくこの話を読んだことがある気がしていた。 超がつくほど有名な名作短編にはよくある現象だろう。国境のトンネルを越えると雪国だったあと、夜の底が白くなるところまでしか多くの人は知らない。しかし皆なんとなく知っている気がしている。 さて、その何となく知っている気がしていた名作をこのたびはじめて熟読してみた。 そして感動した。 感動というより強烈な眩暈のようなものを感じた。 私が今さら褒めるまでもないがこの話は凄い。 本当にものすごく凄い。 裏表紙のダイジェストによれば、主人公ムルソーは「母の死の翌日海水浴に行き、女と関係を結び、映画を見て笑いころげ、友人の女出入りに関係して人を殺害し、動機について「太陽のせい」と答える、通常の論理的な一貫性が失われている男」である。 実際に読む前、私はこの主人公を動物的な人間だと予測していた。過去もなく、未来もなく、追想も希望も論理的思考ももたない、ひたすら刹那の感覚のみに支配される人間。その予想は大きく外れてはいなかった。 しかし、彼は恐ろしく人間的だった。 刹那の感覚のみをつねに意識するムルソーは極度に理性的なのだ。獣は五感を意識はしない。ただ肉で感じるだけだ。ムルソーは頭で感覚を意識している。そして無意識の感情を知覚できない。 感情は媒体だ――詩的かつ陳腐に言い換えれば、人間の多くに共通する心の底の水のようなものだ。理性とは別の部分で湧き上がる単純な情動、悲しみや歓びや怒りや愛を私たちは共有している。 思考を忘れ、思考する自分を意識することを忘れてその水に浸るとき、人間の多くは孤独を忘れる。生の無目的さがもたらす虚無感も忘れる。 ムルソーはそこに浸れない人間だ。だからこそ、自分を「世間の人と同じだ」と必死で主張する。世間一般の人間が抱くだろう感情をつねに想像し、「こういうときにはこうするべきなのだろう」とつねに考えている。 とはいえ、彼に感情が無いわけではない。つねにあまりにも意識的なムルソーの知覚する世界は、ある意味では彼の内的世界と完全に一致している。彼の世界にはつねに陽が照り、優しい夜の無意識が訪れることはない。 その息詰まるような意識的世界に、彼の感情は名づけられないまままき散らされている。乾いた浜にきらきらと輝く貝の欠片や、白壁を照らす光や、シーツの上に残ったマリイの髪の塩の味という形で、たしかに燦めいている。 彼はそれらの感情の欠片を捕えようとしている。だが決して捕えられない。無意識に属する煌めきは、意識して手を伸ばした瞬間に逃げ水のように消える。そうして彼の世界は果てしなく乾いてゆく。 物語の後半、私は彼に胸倉を掴まれる神父と同じ心地で泣いた。「そんな風でいて、一体この大地をあなたは愛しているのですか?」――ムルソーはこの問いには答えられない。 ともあれ、最後の最後に彼にも夜が来る。 夜の優しい無意識に身を委ねて、彼ははじめてこの世の外に他者があることを知る――おそらく知るのだろう。断頭台に立つ前に、私は彼に平凡な後悔を知ってもらいたいと思った。彼が眩暈と共に殺した「アラビア人の男」が自分ではない誰かであったことを、彼の殺した相手にも愛しいマリイがあり、場合によっては養老院にママンがあったかもしれないことを、平凡に想像して悔いてもらいたい。それはおそらく神を信じなくてもできるはずのことだ。 非常に長い感想だが、ともかくもこの話は凄い。冒頭の一文しか知らない昨日までの私のような方々、読まないと人生損します! | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
|---|---|---|---|---|
| カミュの「不条理な論証」(新潮文庫「シーシュポスの神話」清水徹訳に収録されています)と参考に友人たちとムルソーの隠喩を解釈して楽しんでいます。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
|---|---|---|---|---|
| 私は、文学を読むことは、自分の心の中に言葉では語ることができない何かを刻み付けることだと思う。 それは名作であるほどより確固としたものを刻み付けることができると思う。 このカミュの「異邦人」もまたそういった名作の類であると思う。 私としては正直、解説にあるような「不条理」という言葉が、この作品にぴったり当てはまるとは思えない。 本書の中で数多く出てくる「太陽」とそれから発せられる「光」の描写に、私は大きな印象を持った。 そこに何か本当の世界性というか真なるものを感じた。 私はカミュの本を読むのは初めてで専門家でも何でもなく、ただなんとなしに興味を持ち本書を読んだ一読者に過ぎないが、この本は私の心にはっきりと言葉では説明しきれない何かを刻み付けた。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
|---|---|---|---|---|
| やや風変わりとはいえ普通の一般市民である主人公が、自身でも何がなんだかワケが分からぬうちに犯罪者となり、あれよあれよという間に判決が下される・・・ 「不条理」をテーマにしながらも、そのあまりの迫真性のため、運命のいたずらによっては誰にでもこういう事が起こりうるという錯覚に陥らされる戦慄的な作品。 前半は主人公・ムルソーの日常生活の描写が中心で、母親の葬儀に涙一つ流さず翌日に女と海水浴に行き関係をさえ結ぶといった行状は、確かに世間的には不謹慎のそしりを免れないだろうが、だからといってこういう人間が全て犯罪を犯すというわけではなく、ましてやこれが重刑を下される一大要因になろうとは通常は考えられないのだが、ムルソーのギラつく太陽のような馬鹿正直ぶりに、検事の追及に終始シドロモドロの拙い弁護が重なってしまい、遂には理不尽ともいえる判決が下される・・・ 憐れみに来た御用司祭への罵倒シーンは、文庫本からムルソーの唾が飛び出してくる程の凄まじさだが、最後まで素のままを貫き通した彼の意地・矜持が発露され、清々しい描写となっております。 著者・カミュの解説に、この社会ではお芝居をしないと異邦人として扱われ下手をするとムルソーのような憂き目に会う怖れがある、といったくだりがあるがこれは言い得て妙だと思う。 実社会も嘘まみれ、演技まみれ。 政治家も保身のために平気で嘘をつき変節さえもする。会社では嘘や演技は当たり前。社内では仏頂面した陰気な営業マンが客先では満面の笑みを浮かべて嘘吐きまくりのうえ大量受注、挙句の果てにはトップセールスに君臨し裕福な生活を送るなんて光景は今や珍しい事ではない。そして家庭でも、不倫をごまかし円満な生活を維持するためには俳優顔負けの演技さえ必要なこともある・・・道義的には不正とさえいえるこれらの行為も、実社会では立派な処世術であり出来ない正直者はおいおい社会から爪弾きにされるという現実が、この作品となぜかオーバーラップしました。 何度も読み返したくなる小説の最右翼といってもいい作品ですが、哲学的な要素をはらんだやや取っつき辛い、初読時は「???」で終わってしまう本かも知れません。 しかし噛むほどに味わいが増すスルメのような魅力が潜んでいるのもまた事実で、例えば「ペシミスティックで暗いだけの小説」というよくある第一印象が、再読時には一転して「爽快感さえ覚えた生涯忘れ得ぬ小説」へと変貌する可能性を秘めた不思議な本でもあります。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
|---|---|---|---|---|
| なんとなく見覚えがある作家名と作品名(おそらく受験勉強で機械的に暗記していた「有名作家・作品名」の組み合わせ記憶の断片)だったので、暇つぶしにでもと思い手を取ったこの本。大学での無味乾燥な講義に飽き飽きし、かといってバイトやサークルに精を出すわけでもなく、ひそかに心寄せる人がいるわけでもなく、ただただ毎日をルーティーンワークのように無機質にこなしていた僕にとって、この主人公ムルソーというどうしようもない人間が嫌でも自分に重なってしまった。 あらゆる事柄に付随する”価値”や”意味”や”理由”といったもの。それは余りにも自然に僕たちの日常生活に溶け込んでいる。例えば、母親が死ぬことは悲しいこと、悲しいことがあったら涙を流すもの、というような事柄。ムルソーはそういったことに一切関知しようとしない。それも意識的に関知しないようにしているのではなく、彼にとって当たり前の事柄がたまたま一般的に当たり前とされている事柄とまったく合致していないのだ。当たり前であるから、彼は自分のことを至って普通の人だと思っている。しかし、そんな思いとは裏腹に彼は社会から阻害されていく。自分の信念から紡ぎ出す論理をどういうわけか社会は認めてくれないのである。太陽が眩しかった、だから銃の引き金を引いた。それが彼の論理だった。 そしてその論理故に彼は異邦人であった。と、同時にその論理ゆえに彼は「世界の優しい無関心」に心を開ける唯一の人でもあった。そんな風に思いました。 この本を読んでからどういうわけか「世界の優しい無関心」という言葉が頭の隅にこびりつきました・・・ | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
|---|---|---|---|---|
初めてこの本を読んだのは高校1年の時だったと思う。 形式的な倫理観を盾に「世間」から弾劾される「誠実な」主人公ムルソーに同情と共感した記憶がある。 「世間ってのは不条理なんだなー」と思いつつ本棚へ――― それから数年経った今、社会人として成長したのであろうか 自身をムルソーに置き換えることが困難になってしまった。かといって、「世間」に身を置くのも居心地が悪い。 ムルソーとは私であり、世間とは私であるからだ。 裁判所の場面でこんな記述がある 『もはや彼の知恵も、善意もつき果てたかのようにセレストは、私の方を振り返った。その眼はきらきら輝きその唇は震えているように見えた。これ以上何か私にできることはないか、そう私に問いかけるようだった。』 人生という証人台で「誠実さ」と「世間」の板挟みに為す術もなく立ち尽くす無力な証人こそ私たち自身なのではなかろうか? | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
|---|---|---|---|---|
| 高校の頃「太陽が黄色いから」という箇所ばかりに目がいき、読んで意味不明だったのを覚えています。 しかし、大人になって読み返してみたら、若いころには気づかなかった何かが伝わってきた感がありました。 モラトリアムを抜けて社会の大きな流れの中で小さな歯車になったとき、どこかで感じた事のある「あれ…?」っていう感覚が作品内に出ている感じがします。 なんかわかる。でも うまく説明できない。そんな気持ちになります。 だから 薄いからという理由を先行させて読書感想文に使おうとすると痛い目に遭いそうですw。 あと邦訳に直訳感が強くて 受験英語の和訳解答のような 読みにくさを感じました。 固い文章で無駄に敷居を上げないで、「ライ麦畑で捕まえて」の邦訳論争みたいに もう少し違う邦訳も読んでみたいと感じました。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
|---|---|---|---|---|
| 母親の葬式で淡白な態度を示していたことが、裁判で不利な要素となり、 断頭台に送られる破目になった殺人者:ムルソーの物語である。 物語は二部構成となっており、 第一部にはアルジェリアで気だるくも平穏な日々を送っていたムルソーがふとした弾みで殺人を犯すに至るまでの経緯が描かれ、 第二部には法廷劇および独房におけるムルソーの心境の変化が綴られている。 個人的には、平穏な日々を送っていた頃には妙に恬淡で没主体的であったムルソーが、 断頭台への時間を過ごすようになってから主体性を回復し、司祭の欺瞞に突っかかる下りに迫力を感じた。 そして、キリスト教の価値観に見合った人間性を示せねば被告をマトモな人間扱いしない法律関係者に戦慄を覚えた。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
|---|---|---|---|---|
| 高齢者施設に暮らす母が亡くなったという知らせを受けたムルソーは、その死に対して涙を流すことなく、翌日には海水浴に行き、マリーと関係を結び、喜劇映画を見ていた。 友人を通して関わったアラビア人を銃殺して逮捕され、裁判ではその動機を「太陽のせいだ」と答える。果たして彼には罪への償いの心はないのか…。 今も<新潮文庫の100冊>に選ばれているこの『異邦人』を最初に読んだのはいつのことでしょうか。おそらく高校2年くらいのことでしょうから、今から30年以上も昔のことです。「きのうママンが死んだ」、「太陽のせい」といった断片的な言葉ばかりが記憶に残るばかりで、主人公ムルソーの殺害動機に一貫した何かがあったのかどうかも覚えていませんでした。 今回再読しても、ムルソーの心模様を掴みかねる気持ちに変わりはありません。 巻末の解説によれば、カミュ自身は自らを実存主義者ではないと明確に否定していたとありますが、それでもなお私は、この30年で学んだ実存主義思想の知識に照らして読んだほうがこの『異邦人』は理解しやすいように感じます。 ムルソーの行動に理解ができない判事や検察、御用司祭の心に、「人間かくあるべし」とする気持ちが存在することに気づきます。その「かくあるべし」とするイデア的考えがアプリオリに存在することを否定することから出発する、そう考えているであろうムルソー。 しかし一方で、この小説の最終場面のわずか後には彼が処刑台の露と消えてしまうことに、心むなしさを覚えないではありません。彼にはそこから出発して歩んでいくだけの十分かつ充実した時間があるとは到底思えません。出発しようとする意志だけが儚(はかな)く輝くだけです。 この小説を読むことによって、読者に要求される「あるべき姿勢」とは何なのでしょうか。ムルソー的出発への意志を受け継ぎ、なおかつ処刑台への道のりを少しでも遠いものにすべく努めることでしょうか。 人間に「あるべき姿勢」を求めることを否定するこの小説から、人間の「あるべき姿勢」を読みとるということの自己撞着に、私は今慄(おのの)き、震えるばかりです。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
|---|---|---|---|---|
| 【あらすじ】 母親の死を前にしても、ムルソーは涙を流さなかった。埋葬日の翌日には海水浴へ出かけ、 そこで偶然再会したマリイとの情事に及んだ。そして女衒のレエモンの問題に関わった ムルソーは、殺人を犯してしまう。 独房での生活を余儀なくされたムルソーは、それでも自分は幸福だと言い切る。母親の死 に際して涙を流さなかったことで、人間の情を持たないと非難されようと彼の考えは揺ら ぐことはない―― 【感想】 一見何に対しても無関心に見えるムルソーですが、彼ほど世界を真っ向から見つめている 人はいないのかもしれません。彼はこれまでに悔恨の念を覚えたことがなく、彼にとって は何一つ無駄なことはありません。彼はたった一日の想い出だけでも、刑務所の中で優に 百年は過ごせるとさえ言っています。 哲学抜きには語れない難しい本ではありますが、そういうことを抜きにしても、自分の 生活と照らし合わせて、人生を考えさせられる本だと思います。 『異邦人』という至ってシンプルなタイトルが付けられていますが、読み終えてみると、 この一言にこの本の全てが凝縮されていると感じました。 ここでカミュの言葉を引用します―― 『母親の葬儀で涙を流さない人間は、すべての社会で死刑を宣告される恐れがある、という 意味は、お芝居をしないと、彼が暮す社会では異邦人として扱われる他はないということで ある』(P.138 解説より) 世の中の常から外れた人は、この世界ではみんな異邦人だと言うのです。人の決めた道理 に支配された世の中だから、不条理が存在する……本当にその通りだと思いました。 そしてこの物語の中には、太陽の描写が数多く登場します。その描写のされ方が一つ一つ 違っているのも面白いです。その時、その時で見え方の違う太陽と同じように、『異邦人』 という本も読む度に違ったものが見えてくると感じました。 何度も読み返したい本です。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
|---|---|---|---|---|
| 異邦人。同名の歌も非常にいいですが、こちらは本です。 一度読んだら、年齢が変わった頃に、読み返しましょう。 薄い文庫本、大した読書時間ではありません。刹那です。 不条理、と本書内容を端的に表すのは簡単です。しかし。 読後の乾いた己の心情に怯え、また読み返すことになる。 読むべき本、とかリスト化することは大嫌いだけれども。 年に一度、カミュの異邦人を読む日を定めたらどうかな。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
|---|---|---|---|---|
| 若い頃に読んで大きく揺さぶられました。二十年経ってふたたび読んでみたが、当時と同じ感じは受けない。より直接的に接している感がある。物語自体は変わっていないので、私が変わったことが明らかになった。 人間の社会や文化の滑稽さ。私たちの日々の営みはゲームであり、意味はとくにない。ただそうした事態に耐えられないからこそなにがしかの意味を付与しているだけの話なのだ。主人公はあえてその意味付けを行わない。虚無という深淵に浸っているのだ。そのため他者にとって彼は異端であり、脅威であり、認めたくない存在なのだ。抹殺されるのも至極当然のことなのだ。看護婦が言うように、ゆっくり過ぎず早すぎずにいるが、存在する上で大事だというわけだ。ただ、別の生き方も可能ではあろう。創造を行うアーティストとして、真理を探求する哲学者としての道などだ。自身がどういう立場にいるのかを把握することができたならば、そうした選択も主人公には可能だったろう。そうすれば彼が好んだ、あの炎天下の太陽の光をより多く浴びて、知らなかった境地を見出せたかもしれないから。 | ||||
| ||||
|
■スポンサードリンク
|
|
|
新規レビューを書く⇒みなさんの感想をお待ちしております!!




