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砂の器
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【この小説が収録されている参考書籍】
砂の器の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.05pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全21件 1~20 1/2ページ
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映画がものすごくおもしろかったので読んでみました。上下巻の読後感です。読み進めるうちに感じたのが、推理小説としては、ご都合的な展開が多すぎることです。中央本線の布切れさがし、新劇事務員の転居先などなど、例示するのがおっくうになるくらいです。でも、まあ、それらをどうでも良いと読ませてしまう迫力のある筆致は流石なのだけれど、違和感が募る一方です。さらに、今西刑事の推理にいたっては、それが「推理」なのかと思えるくらいご都合の連続でした。彼の見当違いな努力が延々と描かれた後に、それらは無駄になったけれど違う視点を発見しましたと言うように描かれるので、説得力を感じてしまうのだけど、新たな視点もご都合の域を出ておらず、論理的な帰結ではありません。極めつけは、”超音波” 云々の項です。これは酷い。映画でオミットされるはずです。改めて感じるけど映画版(1974年)の脚本家さんは良い仕事をしていましたね。素晴らしい。 | ||||
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映画を先に見ていて、原作が松本清張である事は知っていましたが、読む事が有りませんでした。しかし映画では原作のかなりの部分が削られていると聞き、原作を読んでみました。原作の複数の人物を1人に統合していたり、ある謎が明かされる経過が省略されていましたが、それは原作でも必要とはいえない部分のように思いました。また、原作では、現在では、科学的にみてあり得ないようなオカルト的な展開などがあり、興醒めでした。また、映画のクライマックスと言えるあるシーンが原作では無かったどころか、その人物の生死まで違いました。原作を読んで脚本の優秀さを認識させられる結果でしたが、2人の脚本家の1人は男はつらいよシリーズなどで有名な山田洋次監督でした。原作が決して悪いわけではないのですが、原作を換骨奪胎して、素晴らしい映画に仕上げた映画版の制作陣をむしろ褒め称えるべきではないかと思います。 | ||||
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1961年に刊行された松本清張の代表作で、既に何度も映画化されたもの。 国鉄の操車場で惨殺された遺体が遺棄された事件の手がかりは、男が残した東北なまりと「カメダ」という言葉のみ。執念の捜査にあたる今西刑事は「カメダ」をたどって、秋田では、被害者と一見接点がなさそうな若手文化人の集まり「ヌーボー・グループ」の和賀と関川たちとすれ違い、島根では被害者の三木元警察官が立派な篤志家だったことを知ります。偶然を積み重ねて、今西がたどり着く関係者はなぜか不自然に事故死。プロットされた点が収斂していく下巻の展開に期待です。 「カメダ」は秋田の「羽後亀田(羽越本線)」であり、島根の「亀嵩(かめだけ。木次線)」であると方言の資料を根拠に迫っていくところに、時刻表に親しんだ一人としてニヤリとするものを覚えました。 | ||||
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問題なく受け取りました、、 | ||||
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現代の視点で読むと、1960年代の日本への旅行記です。当時の日本人の意識、地方ごとの暮らしぶりを垣間見ることができます。それから鉄道事情も。推理小説としては、コツコツ歩く刑事の執念はよく描けているのですが、最後は音波殺人とか結構笑えます。7歳の時に短期間一緒にいただけの少年の30歳の写真を見て、彼だと気付きますかね、普通。それを「人相の記憶に特異質」の一言で納得しろと言われてもなぁという感じはします。自分の暗い過去を知る男が現れたからといって突然、殺意を抱くかなと本質的な部分にも疑問を持ちます。被害者がゆすりたかりをしたならともかく。この本に限らず清張作品は人が死にすぎですよね。そんなに次から次に殺しますかね。リアリティの議論は意味ないかもしれませんが。 | ||||
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野村芳太郎の映画とはかなり印象が違った。原作には動機に強い時代表現が感じられ、「道徳的である」とはどういうことか考えさせられた。とにかく繰り返し語られるのは、最初の被害者・三木謙一がいかに誰から見ても善い人であり、道徳のお手本のような人物であるかということである。そこに作者の書きたかったテーマがあるような気がした。 父・千代吉を職務に従い癩病者強制隔離病棟へ送り、子を養子縁組させ別姓にし育てるという、三木謙一の判断は当時の社会の法律・因襲・差別からすれば「最善」の措置であったといえる。しかし、そもそもこの父と子は社会の間違った法律・因襲・差別という環境を抜きにすれば健全な親子関係であった。三木にとって常に「環境」は変えようのない存在だから、それが最善なのである。父と子を別離させるという判断には、社会に対して個人が無力であるという戦前の空気を感じざるを得ない。三木の善行は常に自己犠牲によってなされる。村のお巡りさんという真面目な「戦前的道徳」の代表的存在に設定されていることからも、それは強調されているように感じられる。 本浦秀夫はこの時、この国の現実、因襲と社会の差別を受け入れその中で生きていく厳しさ、覚悟を”三木謙一によって教えられた”といってよい。その最良の選択肢が別人になるということだったはずである。本浦秀夫が選んだのはその手段の”より完全な形”にすぎない。そして別人和賀英良となって不断の努力で成功を手にする。そこに、今度は雑貨商の隠居の身となった三木が現れ、和賀英良に本浦秀夫を蘇らせる。まるで人として当然の優しさであるかのように。あまりにも素朴で想像力を欠いた、ゆるい「戦後的道徳」を持って。 戦前、社会がアレはソレは危険思想だ非国民だ不可触民だと価値を掲げればそれに従って村八分にし、同じ口で戦後は真逆の自由平等人権民主主義を人として当然の権利と謳い、という戦前から戦後を通底する真面目で素朴で善良だが、環境に対しては従順で凡庸な日本人そのものの姿を「この男」は映し出している。生活道徳として善良であるかどうか、という事でいえば「東条英機」だって善良で真面目な人物だっただろう。そういう「善良な死神」だって存在するのだ。 素朴すぎる善意は、むしろ罪悪感もためらいもない”凶器”といえる。和賀英良は決然たる殺意を抱き冷静な判断で轢断を選択したに違いない。そして殺人の泥沼の中へ…これは映画のように、恩人までも殺さざるを得なかった悲しい事情といった浪花節物語ではなかった。 日本は戦前から戦後へ、道の時代・精神主義から器の時代・物質主義へ。そして本浦秀夫は和賀英良へ、土から砂へその器を変え完全に環境の要請に沿って生きている。松本清張はそんな戦後という時代にも懐疑的な目を向けていた。それはたぶん杞憂ではないだろう。 文体は無いに等しい。「発想の良さ」に文章がまったく追い付いていない。とっ散らかった闇鍋みたい。 締め切りに追われて書いたのかな?★3。 そういった意味では「ゼロの焦点」の方がまとまっていて出来が良いと感じた | ||||
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私も松本清張作品を愛読してきた一人です。カッパ・ノベルス、単行本、文春の全集版、文庫など合わせておそらく200冊以上読んできたと思います。 そこで、昔から思っていたことを書いてみます。清張ファン(というより松竹映画化作品ファンですかね?)には怒声を浴びせられそうですが、ちょっと言わせて下さい。 その1 松竹映画化作品のせいでこの小説は実体以上の評価をされているのではないか?「ハンセン氏病差別への怒り」みたいなことがよくレビューに書かれていますが、小説ではその部分は本当にさらっと書かれているだけ。本作の大テーマとはとても思えません。著者がそれほど意図していないことで賞賛されても、清張さんも困るのではないかと思います。不当な差別が許し難いのは言うまでもありません。でも、ファンの方、冷静に考えて下さい。そのテーマは映画の話ではないんですか? その2 (ネタバレあります)電子音楽による殺人は、不可能ではないらしいが、一般読者にはいかにもリアリティが感じられない。 その3 秋田県の羽後亀田あたりをウロウロしていたのは結局何者?小説のどこかに書いてありましたか?正体不明の人物のままで済ませていいんでしょうか? その4 血の着いたシャツを衆人環視の電車の中で車窓から紙吹雪のようにばらまく?処分の方法など掃いて捨てるほどあると思いますがねぇ。 以上、まあいかにも大人げないことですが、映画を見てから小説を読んで40年。ずっと思ってきたことを書きました。 | ||||
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先日日本海側に行くことがありました。 なぜか砂の器のことが頭に浮かんで来たのです。 何時だったかテレビドラマでやっていましたよね。 数回横目で眺めた程度だったので、あんまり覚えていませんが。 確かに日本海側の地方が良く出てきます。 推理小説はあまり読まないので、レビューにならないかもしれませんが、 構成は良くできているんだと思います。 超音波とか若干理系的な要素も出てきます。 大筋は面白く読めました。 ただ、ちょっとだらだらとした部分が多く感じてしまいます。 説明的文章が非常に多いためでしょうか。 推理小説とはだいたいそんなものなのでしょうか。 なんともいえません。 | ||||
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どういう作品なのか…は、多くの方が知っているので、今更語る必要もないでしょう。上巻は結末へ至る助走です。 登場人物の紹介と*1)深堀り、舞台背景の説明(当時の社会の雰囲気をも伝える)、複数の伏線…と。 *1)例:今西刑事の刑事としての喜びとそれに対する矛盾した感情。「ヌーヴォー・グループ」の各メンバーに 対する屈折した感情(これって現代社会の縮図だと思うのだが)。 上記を巧みな&絵が浮かぶような筆致で描く、著者の筆力は流石だと感じた次第(偉そうな書き方ですが、上手い 語彙が浮かばないのでご容赦のほど)。 400p弱ありますが、次が気になる気になる…で、どんどんページをめくらせるのは、それだけ読者を惹き付ける力を 持っている証左でしょう。 下巻でどのように着地するのか、今から楽しみです。 | ||||
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少ない情報に逆に翻弄されながらも僅かずつ真相に近づいていく展開に、 いつもながらの日本各地を巡りながらの旅情溢れる描写と、前半は悪くない だが後半になるとそんな勢いもなくなり、ひたすら同じ位置を停滞するような展開になり 読んでいてどうしてもだれてしまう トリックも清張作品いたまにある無茶なもので、正直これならトリックなんて要らなかったと いえる代物なのが困りどころ さすがにこの地味な展開で800ページは長い 映画の方は素晴らしい出来らしいので、興味があるならそちらを見た方がいいだろう | ||||
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たまたま、昨年上梓された「東西ミステリ−ベスト100」のランクイン作品で、これまで未読であった2作を続けざまに読むことになった。 いずれも昭和30年代後半の作(ただし、飢餓海峡の時代設定はもう少し早くからスタートする)で、確かに小説としては面白く、「社会派ミステリーの二大傑作」としてもてはやされ、当時の読者が熱狂したのもわからないではないが、「飢餓海峡」の書評でも書いたとおり、やはり現代的な視点で見るとミステリーとしてはいずれの作品もかなり弱いとはいえよう。(ただし、「飢餓海峡」との違いとして、本作ではこの書評におけるの星の状況からもわかるように特に「映画との落差」と映画には出てこないトンデモ物理トリックなどにブチ切れたという読者が多いのも大いに頷ける。) ただその他の点でも時期的・量的な側面を含めこの2作品は双子のように似ている点が多い。 最たるものは「黒い過去の隠蔽」を動機としているところだが、一方大きな違いは作者の主人公(犯人)キャラへの思い入れの差であり、「飢餓海峡」の犯人に対しては作者は過大なほどの思い入れを抱いているのに対し、本作ではそういうシンパシーは皆無である分、読む側からしての違和感はほとんど感じず読める点である。 その他映画では描かれていないシーンも多く、個人的には「裏切られた」という思いよりは「へえ、そうだったんだ」といった新たな発見もあり、楽しんで読むことができた。 それでもなんでもかんでも偶然頼みの捜査陣といい、「ああいったものは人様が見ている前でおおっぴらに捨てるものではないよなwwwww」というようななんともいえぬアバウトさ等が、優れた現代ミステリーとの大きな違いであろう。 そういう意味でも勉強にはなったと思う。 それでも清張を続けて読むか、というと「いや、どうか」というところだが・・・・ | ||||
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松本人志が『遺書』で推薦していたので読んだ。犯人を空想させる意外性のあるストーリー展開、残虐な殺人描写、時折みせる文学性、わが国の方言に対する執着心などは確かにかゆかった。ただ、太宰治のような、生きるか死ぬかのような緊張感が全体的な文筆に感じられない。正直なところ、お金を出してまで、下巻を買いたいとは思わなかった。 | ||||
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1974年に公開された映画「砂の器」に感動して、原作を読みました。 ゲバラの「モーターサイクルダイアリー」でも映画より原作のほうが ハンセン氏病に関する記述が濃密なので期待したところです。 「おら、そんなやつはしらん。」というセリフが、原作ではどう表現されるかを 楽しみに読み進めました。しかしながらその期待は見事に裏切られました。 映画を見ず、こちらを先に読めば、推理小説として楽しめたのかもしれません。 それにしても終末の息切れは残念です。 発表当時は「業病」というだけで殺意が成立し、読者を納得させたのかもしれませんが 現在では難しいでしょう。 ひとつ好かったのが、7歳の少年が彷徨した時代が 北条民雄の創作期と重なることぐらいでしょうか。 映画「砂の器」の凄さを知るために本作を読むことには十分価値があります。 文章は平易で読むのが遅い私でも上下巻千頁を5日間の通勤電車で読めます。 繰り返しになりますが、原作を超えた映画の製作者に拍手喝采です。 | ||||
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野村芳太郎の映画の出来栄えがよすぎでしょう。 どうしても、映画と比べてしまう、原作の宿命。 映画館にかよって、行き先を変えた被害者のくだり は、結構強引だと思いますし、ヌーボーグループの 存在も、不自然な感じ。映画では、こういう集団は登場しません。 また、超音波で・・の行(くだり)も、結構、科学的なのですが、 話のクライマックスに、水を指す感じで余計かも。 とにかく、犯人の過去に焦点をあてて、刑事コンビが執念で終盤 に至り、コンサートで迎えるクライマックスに比べて、どうにも 迫力不足な原作のエンディングは、比べると、原作は見劣りします。 それほど、橋本忍、山田洋次の脚本とその才能は松本清張をも 凌駕したといえます。 いづれにしても、映画、TVドラマ化は数回という名作なので、原作を 読んでおく価値はあります。 | ||||
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松本清張がすごい小説家ということは、誰もが認めることで、しかし、ときどき外れと言うか、手抜きに等しいゴミ小説もあるのがふしぎなのだけれど。 どこが不思議かというと、そのゴミ小説がかわいく思えるところだ。 さて、砂の器。何度も映画/ドラマ化された、有名な小説だ。 「かめだ」と言う訛りをおって、今西刑事が東北から岡山まで旅するし、なぜか、不発に終わった秋田・亀田地方でキーパーソンと遭遇する。 汽車から紙吹雪をまいた女性の話を聞くと、犯人の衣服を切り裂いて捨てたのだと直感し、3カ月後にも関わらず、その切片を拾ってしまう。 こんなラッキーマンなのだから、途方に暮れて散歩していたら、ある男とぶつかって、そいつに絡まれている内に、そいつが真犯人だった。 という結末でも不思議はないんじゃないかと思うのだが。 それでも松本清張は、すごい小説家なのだとつくづく思う。 こんな展開なのに、ちっとも読む気を失させないのだ。 いったい、どうやって、この状態から大団円に持って行くのだろう! 気になってしょうがない。 これが、松本清張の筆力なのだ。 | ||||
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作者自身が「原作を越えた」と述べたと伝えられる映画に比べ、小説自体は清張推理小説群の中ではB級品である。トリックの未熟さとヒントの出し渋りを二、三挙げてみてもも、例えば伊勢の旅館の女中が直ぐ思い出す程の三木謙一のズーズー弁を同居の養子彰吉が言下に否定したり、死亡した二人の女性の住居が今西刑事の極く近くだったり、実妹のアパートだったり、血の付いたシャツをわざわざ列車の窓から撒き散らしながら、血の付いたはずのズボンやコートへの言及がなかったり、桐原老人からの手紙を隠したまま、今西のノートに突然伏せ字で「ある人物」の本籍・現住所が現れたり、果ては超音波殺人など、読んでいて苦笑を禁じ得ない。 映画で喧伝されたハンセン氏病患者に対する世間の無理解への抗議という点でも、原作では病名も書かれず、和賀英良の悲惨な生い立ちを述べる以上の社会的主張は感じられない。 その代わりに、本書で印象深く思われるのは語り手の現代芸術に対する嫌悪感である。ヌーボーグループに集う若手芸術家・評論家たちには「既成芸術の破壊」という動機以上の芸術的創造力はなく、世間を驚かすことだけで世に出ようとし、その実マスコミや富裕層からの愛顧を願い、仲間内ではひがみと足の引っ張り合い、といった具合で攻撃は休むところがない。和賀英良の前衛音楽も外国からの借りものに過ぎないと手厳しい。特に和賀と関川には彼等より低階層の女性を配し、自己保全ために、同年配の女性たちの無垢の愛を利用したり、死に追いやったりする様子を書き込んで、読者の彼等への同情を執拗なまでに抑圧していると感じられる。 本書が新聞に掲載されたのは1970〜71年にかけてで、学生運動の無様な終焉期に当たる。それと共に前衛芸術もその戦闘性を失って風俗化した。オールド・リアリストの清張は、足が地に着いていない「前衛」への嫌悪感を、結果を見てから物を言う愚昧さに気づきつつも、敢えて書きたかったに違いない。 | ||||
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作者自身が「原作を越えた」と述べたと伝えられる映画に比べ、小説自体は清張推理小説群の中ではB級品である。トリックの未熟さとヒントの出し渋りを二、三挙げてみてもも、例えば伊勢の旅館の女中が直ぐ思い出す程の三木謙一のズーズー弁を同居の養子彰吉が言下に否定したり、死亡した二人の女性の住居が今西刑事の極く近くだったり、実妹のアパートだったり、血の付いたシャツをわざわざ列車の窓から撒き散らしながら、血の付いたはずのズボンやコートへの言及がなかったり、桐原老人からの手紙を隠したまま、今西のノートに突然伏せ字で「ある人物」の本籍・現住所が現れたり、果ては超音波殺人など、読んでいて苦笑を禁じ得ない。 映画で喧伝されたハンセン氏病患者に対する世間の無理解への抗議という点でも、原作では病名も書かれず、和賀英良の悲惨な生い立ちを述べる以上の社会的主張は感じられない。 その代わりに、本書で印象深く思われるのは語り手の現代芸術に対する嫌悪感である。ヌーボーグループに集う若手芸術家・評論家たちには「既成芸術の破壊」という動機以上の芸術的創造力はなく、世間を驚かすことだけで世に出ようとし、その実マスコミや富裕層からの愛顧を願い、仲間内ではひがみと足の引っ張り合い、といった具合で攻撃は休むところがない。和賀英良の前衛音楽も外国からの借りものに過ぎないと手厳しい。特に和賀と関川には彼等より低階層の女性を配し、自己保全ために、同年配の女性たちの無垢の愛を利用したり、死に追いやったりする様子を書き込んで、読者の彼等への同情を執拗なまでに抑圧していると感じられる。 本書が新聞に掲載されたのは1970〜71年にかけてで、学生運動の無様な終焉期に当たる。それと共に前衛芸術もその戦闘性を失って風俗化した。オールド・リアリストの清張は、足が地に着いていない「前衛」への嫌悪感を、結果を見てから物を言う愚昧さに気づきつつも、敢えて書きたかったに違いない。 | ||||
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不自然な偶然があまりにも多く、推理小説としてリアリティを求めると 正直つらい部分があります。 ただ、当時としては社会背景を絡めた動機を持った推理小説自体が 活気的だったとのことですので、当時を知る文学小説と思って読めば 楽しめると思いました。 | ||||
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かなり読みやすい文体。そしてわかりやすい設定とわかりやすい展開。 推理要素というよりコントのような立ち回りの捜査劇をひたすら追っていく疲れない文章。 イメージ程固くもないし事件の背景などを2時間ドラマのように回りくどくわかりやすく説明してるトコはさすが現代でもリメイクされる作品書く人だなと。 ただ良くも悪くも戦後10〜20年程度の作品なんですね。正直あんまり面白いとは思えなかった。 例えば被害者の意味不明の行動(仏と呼ばれる人の行動には思えないんだが)や音波への認識の異常な弱さ、前衛志向の時代性やら所々理解不能な点があった。まーしょうがないんだけど。 映像版は実は見てなかったりするが小説版のいい点は淡々と、抑揚を徹底的に抑えた描写な事。 まー読みやすいけど特別書く事の無い作品って事です・・(笑 今の時代でこの人が作品書いたとしてもあんま面白くはならなそうかな。 | ||||
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清張の文壇登場の頃からの愛読者だが、没後はすっかり読まなくなっていたから、久しぶりに清張に親しめて嬉しくなって本。 だが、『或る「小倉日記」伝』の解説で、主人公がKMなる作家から激励されたことを、即、清張と木々高太郎のことだとするのは、清張自身の経歴と混同した誤りである。KMとは明らかに木下杢太郎のことで、それは本文を読めばすぐ分かることだ。他に校正ミスもありやや雑な本である。 | ||||
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