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(短編集)
ノックス・マシン
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ノックス・マシンの評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.12pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全17件 1~17 1/1ページ
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. 本作は、2013年に刊行され、その年の『このミステリーがすごい!』で第1位に選出された、たいへん評判の良かった作品で、法月綸太郎の代表作の一つだとも言えるだろう。 私も『このミス』の評判をうけて、その年のうちに単行本を買っていたのだが、例によって積ん読の山に埋もれさせてしまい、今頃になってようやく読むことができた。 内容的には、評判になっただけのことはある、じつに凝りに凝った作品集なのだが、アマゾンの読者レビューを見てみると、一般の評判は必ずしも良くないようで、そうとう腹を立てている人もいる。 要は、『このミス』などの結果を受けて、期待をして本作品集を手に取った読者の少なからぬ人が、本作品集の「凝りに凝った」部分についていけなかったようなのだ。ミステリマニアやSFマニアの「マニア心」をくすぐり、「エリート読者」たるの自負を満足させる作りの作品集だったからこそ、エンタメ(大衆娯楽)作品であることを期待した「一般読者」を裏切る結果になってしまったのである。 しかし、法月綸太郎という作家は、もともと「マニア気質」の作家であり「エリート志向」のある作家なのだから、彼に、ごく常識的なエンタメ(大衆娯楽)作品を期待するのは、そもそも無理な話である。 しかしまた、『このミス』の結果を見て、第1位の作品を読んでみようという「一般の読者」が、法月綸太郎という作家がどういう作家なのかを知らないというのもやむを得ないところであるし、『このミス』の投票者が「業界関係者」や「マニア」で占められている以上、こうした齟齬はやむを得ないところなのかもしれない。つまり、無難に面白い「エンタメ」を求める読者は、『このミステリーがすごい!』や『SFが読みたい!』(ましてや『本格ミステリ・ベスト10』)などを参考にすべきではなく、広範な小説作品を対象とした「本屋大賞」などの、「マニア度」の低い「人気投票」を参考にすべきだったのであろう。 ただ私としては、「マニアやエリート読者以外はお断り」的な、法月綸太郎の作風に問題なしとも思わない。 何よりもそれは、プロ作家としての法月綸太郎本人にとっても不本意だろうし、ブームの過ぎてひさしい本格ミステリ業界にとっても、決して喜ばしいことではないからだ。 つまり、プロの作家による商品としての作品であるならば、広く多くの読者に購読され、喜ばれるに越したことはないからで、それは法月個人にとっても同じはずなのである。 じっさい、法月綸太郎はとても器用な作家なので、エンタメを書こうと思えば書けるし、そういう試みも為している。例えば、本作に先んじて2005年に『このミス』第1位に輝いた『怪盗グリフィン、絶体絶命』などは、ジュブナイル作品として書かれたものなので、決して難解な作品ではなく、多くの人が楽しめる作品となっている。 しかしながら、この作品もまた「凝りに凝った作品」であることに変わりはなく、「ジュブナイルの魅力って、こうだよね」といった「マニア心」をくすぐる作品であって、実際に年少の読者に喜ばれ、広く読者を獲得する作品になってはいなかったというのも、偽らざる事実だと言えよう。つまり、法月綸太郎という作家は、根っから「マニア気質」の作家であり「エリート志向」の作家なので、たとえ意識的に「一般受け」をねらった作品を器用に書いたとしても、その器用さを高く評価するのもまた「マニア」や「読書エリート」そうであって、一般的な読者ではないのである。 法月綸太郎が、いかに「ぼくは、別にエリートなんかじゃありません。皆さんと同じ、単なる小説好きですよ」などとアピールしてみたところで、そのアピール自体が、いかにも「鼻持ちならないエリート臭」を漂わせていることに、多くの「一般読者」は気づかされてしまうのである。 つまり、法月綸太郎は、それほどのエリート的な「臭み」を持っており、その上、それに見合うだけの力量を持っているからこそ、マニア層には「共感」を得るのだけれど、一般読者層からは必然的に「反発」を買いやすい作家でもあるのだ。 こうした法月綸太郎の「臭み」というのは、例えば、本作品集で扱われる実在のミステリ作家の描き方にも、よく表れている。「所詮は小説の中での描写でしかない」とは言え、逆に「だからこそ」本音が出てしまう。「これはフィクションなんですから」という「アリバイ」があるからこそ、その本音が漏れてしまうのだ。 具体的に言えば、マニアすら含む多くの人の指摘する、本作品収録短編「引き立て役倶楽部の陰謀」での「ヴァン・ダイン」の扱いなどが、その最たるものである。 ミステリマニアには周知のとおり、ヴァン・ダインという作家は「本格ミステリらしい本格ミステリの形式」を整えた、本格ミステリ黄金期における偉大な「本格ミステリ作家」の一人であり、エラリー・クイーンが強く影響を受けた作家である。 したがって、エラリー・クイーンを真似た作家としてデビューし、いまだにそのことを売りにしている法月綸太郎という作家が、ヴァン・ダインという作家に対して敬意を払わないというのは、むしろ不自然なことだと言えるだろう。 もちろん、現在の視点から見れば、ヴァン・ダインの作品は「古い」かもしれないし、何より評論家でもあったヴァン・ダイン(ウィラード・ハンティントン・ライト)は、「引き立て役倶楽部の陰謀」の中でも描かれているとおり、自らの「美意識」や「理想」に固執しすぎるのあまり偏狭狷介に過ぎて、アガサ・クリスティーなどによる新しい試みに対しては、無理解すぎたかもしれない。 しかし、クリエーターが自らの「美意識」や「理想」に固執しすぎることは、いちがいに責められるべきでないというのは、例えば、法月綸太郎という作家が「マニア気質」の作家であり「エリート志向」のある作家という「個性」を持っているのも「仕方がない」というのと、同じことなのではないだろうか。 じっさい、作家というのは、自分の趣味嗜好に対する強固なこだわりを持っていればこそ、非凡な作品をものにすることもできるのであって、「世間ウケ」ばかりをねらって「マーケティング」に勤しんでいるような作家に、ろくな作品など書けるわけがないのである(それで「売り抜ける作品」が書けたとしてもだ)。 したがって、法月綸太郎のような作家が、ヴァン・ダインの「マニア気質」や「エリート志向」を責めるというのは矛盾した話なのだが、人間には「近親憎悪」というものがあり、えてして「似ているからこそ許せない」ということもあり、法月綸太郎におけるヴァン・ダイン嫌悪なども、まさにそれなのではないだろうか。 法月綸太郎は、進んで「日本のエラリー・クイーン」たろうとしている作家だが、その印象は、実のところエラリー・クイーンよりも、ペダンチック(衒学趣味)でエリート趣味の持ち主であるヴァン・ダインにこそ近い、と言えるだろう。だからこそ、法月綸太郎は「一般(大衆)読者」から「鼻持ちならない」作家だと嫌われるのである。 法月論太郎のこうした「エリート意識」は、表題作「ノックス・マシン」とその続編である「論理蒸発一一ノックス・マシン2」に登場する、実在のミステリ作家にしてカトリックの高位司祭であったロナルド・ノックスへの「好意的な扱い」にも表れていよう。 要は、ノックスは「ミステリ作家として非凡であっただけではなく、カトリック教会の高位聖職者にまで上り詰めた、優れた知性と霊性を兼ね備えた人だった」というのが、作中におけるノックス評であり、これはそのまま、実在したノックスに対する法月綸太郎の評価だと見て間違いあるまい。 しかし、ノックスが、ヴァン・ダインに勝るミステリ作家であったかのような評価というのは、ミステリマニアの間でも、必ずしも説得力を持つものではない。つまり法月綸太郎のノックス好意的評価は、ノックスの「カトリックの高位聖職者」であったという事実に依存しすぎているのだ。 法月綸太郎は、ノックスの「知性」を持ち上げるのに、その「カトリックの高位聖職者」という「霊性(要は、人間性や人柄)」の部分を強調的に持ち出すが、これは実際のところ、単なる「権威主義」にすぎない。 と言うのも、ノックスの「知性」と言うことを本気で問題にするのであれば、その「信仰」と「理性」の矛盾を問わなければならないはずだからだ。 博識の法月綸太郎なら当然知っているであろうとおり、カトリックの信仰においては「イエスの処刑後3日目の、肉体を持った復活」だとか「マリアの無原罪の御宿り、処女懐胎、肉体を伴った被昇天」などという、非科学的にもほどがある「教義」を、ノックスその人を含むカトリック信者たちが「そのまま信じていると、信仰告白している(神に証言している)」という「決定的事実」を知らないはずがない。 それなのに、そうした矛盾には一言半句「疑問」をさし挟まないでおいて、その「高位聖職者という肩書き」でノックスを持ち上げるというのは、あまりにも「非論理的」であり、論理的に「不正実」ではあるまいか。 しかしまた、法月綸太郎が「マニア気質」や「エリート志向」であるという事実を鑑みれば、彼がそうした「人間的誠実さとしての、論理的一貫性」よりも「カトリックという権威」を選ぶのも、ごく自然なことだと言えるだろう。 じつのところ、法月綸太郎にとっては、「本格ミステリ」や「エラリー・クイーン」も、そうした「自らを飾るための権威」であることに、何の違いもないのである。 「カトリック」とは「公同の」という意味であり、要は「世界のどこに行っても同じである、正統なるキリスト教会」という意味であり、後続新参の「プロテスタント」との差異化をはかるための、權威づけ形容詞に他ならない。 要は「我々こそが唯一正統のキリスト教であり、他のは異端。よく言っても、傍流でしかない」という「エリート意識」に発する、臆面もない自己形容なのだ。 そして、こうした形容のしかたは「本格ミステリ」の「本格」という自己形容に、そっくりなのではないだろうか。 「我々こそが本格であり、他は非本格である。当然、我々の方がその(ミステリとしての)本質において優れている」という意識の表れである。 また、こうした「エリート意識」があるからこそ、在来の「日本推理作家協会」では「本格作品は協会賞を受賞しづらく、我々は損をしている」という「エリート意識の裏返しとしての、被差別意識」をつのらせたあげく、「本格ミステリのための賞である、本格ミステリ大賞」の授与主体である「本格ミステリ作家クラブ」を立ち上げることにもなったのだ。 本格ミステリ作家もまた「人間」であるならば、権威が嫌いなわけはなく、欲得のないわけでもないのは、当然のことだったのである。 (ちなみに最近、本格ミステリ作家クラブが、本格ミステリ大賞20周年ということで『本格ミステリの本流』という評論アンソロジーを刊行した。歴代の本格ミステリ大賞受賞作について、同会に所属する作家たちが作品論を書いた、言うなれば、權威づけのための、わかりやすい「お手盛り」本である) ともあれ、そんな人間的な呼称である「本格ミステリ」の「権威」に魅せられている作家の中でも、自他共に認めるその代表格たる法月綸太郎が、「信仰と理性の矛盾」という「わかりやすい問題」に目をつむってでも、ノックスという「カトリックの高位聖職者」に共感を示したというのは、大変わかりやすい態度と言えるのだ。 いくら偉そうにしてみても、ヴァン・ダインなど所詮は一介の「小説家・批評家」でしかないけれども、ノックスは世間一般的にも権威のある「カトリックの高位聖職者」なのだから、「權威」に強い憧れを感じる者ならば、ヴァン・ダインなどより、ロナルド・ノックスの持ち上げ、「そのようになりたい」と願うのは、自然な人間的感情だと言えるのである。 しかし、「カトリックの高位聖職者」というのは、「形式的」には非凡に高い「權威」ではあろうけれど、その内実が必ずしもそんなものであり得ないというのも、世俗的常識のある者にはわかりやすい事実であろう。 つまり、「形式=建て前」としては清廉高潔なはずの「カトリックの高位聖職者」もまた、少なからず「人間」的であったが故に「カトリック司祭による、信者子弟に対する性的虐待事件の多発と隠蔽(スポットライト事件)」だの「バチカン銀行でのマネーロンダリング」だのといった、きわめて「人間的な問題」が噴出表面化したあげく、前ローマ教皇(法王)であったベネディクト16世が異例の生前退位をし、その後を受けたリベラルな現教皇フランシスコが、保守派の強い抵抗に遭いながらも、断固として強力な教会改革に取り組まなければならなかった、というのが、ローマ教皇も認める「カトリック高位聖職者の現実」なのである。(フレデリック・マルテル『ソドム バチカン教皇庁最大の秘密』等参照) つまり、法月綸太郎が憧れる「ノックス的な権威」というのは、基本的には「張子の虎」なのである。 見かけはすごいが、中身まではあてにならない代物でしかないのだが、しかし、法月綸太郎という人は結局ところ、そういう「見かけ」が好きなのだ。 だからこそ、「ノックス・マシン」の作中で、ノックスをことさらに人格者として「描く」その一方で、「引き立て役俱楽部の陰謀」においては、ヴァン・ダインをことさら「嫌な奴」に「描いて」見せたのだ。法月にとって重要なのは、「見かけ」だったのである。 したがって、法月綸太郎という人が「鼻持ちならない奴」だという評価は、まったく正しい。 それは、本格ミステリやハードSFを理解できない「頭の悪い一般読者の妬み」とばかり言えるものではなく、「權威に縁のない一般人」特有の「嗅覚」だったとも言えるのである。 もちろん、そんな「一般人」たちの多くも、法月綸太郎がそうであるように、才能とチャンスさえあれば、「権威」ある人間になりたい、そうした地位につきたいと思うことだろう。その意味では、法月綸太郎と彼らに何ら選ぶところはなく、彼らの「正しい嗅覚」もまた「妬み」に発するものだと言えるのではあるが、原因や動機がどうあれ、彼らの「法月綸太郎評価」が正しいというのは、間違いのない事実だとは言えるのである。 . | ||||
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レビューに様々な意見がありますが、感性が合う人にはたまらない一書ではないかと思います。 グレッグ・イーガンのハードSFに、古典ミステリを掛け合わせたような離れ業を見事に着地させているのでないでしょうか。脇役を集めてこんな陰謀を計らせるなんていう発想に脱帽し、SFの間にこの話が置かれる構成も、とても感じが良いです。 | ||||
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自分はSFの読み手ではないので、表題作シリーズのSF設定の説明は「?」となってしまった。 知識がないのが悪いのかもだが、「ノックスの十戒」がどうして特異点になったのか、その理由が理解できないままだ。もちろん、ユーモアとして読むべき部分もあるだろうから、こんなことをいうこと自体が無粋なのかもしれないが…。 いずれにせよ、SF的な仕かけがあるミステリは斬新でおもしろかった。 | ||||
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これは面白い。表題作とその続編、そして「バベルの牢獄」は円城塔のような才気走ったハードSF。題材が本格ミステリのルールとして名高い「ノックスの十戒」、そしてクリステイやクイーンの書いた本格ミステリで、ミステリマニアならとても看過出来ない? さらにSF仕立てでない「引き立て役倶楽部の陰謀」は、名探偵とその相棒と言う決まりを裏切ろうとしたクリスティを断罪しようとする、楽屋落ちのミステリで、作者の本格ミステリへの偏愛ぶりが伺える作品集である。ミステリマニアのお遊びの極みと評するが、好きな人にはたまらない内容ではあるまいか。 一方ごく普通の読者に受ける内容かと言えば大いに疑問。少なくとも、ノーマルなミステリではないので、「?」と受け取られても仕方ないと思う。確実に読み手を選ぶマニアックな内容。 | ||||
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2013年に出た単行本の文庫化。 「ノックス・マシン」「引き立て役倶楽部の陰謀」「バベルの牢獄」「論理蒸発-ノックス・マシン2」の4篇が収められている。 単行本発刊時は『このミス』で1位となるなど話題となった作品だが、棟費用に際しては「いちおう挙げておかなければならない一冊」的な位置づけだったのではないか。 メタっぽくミステリを楽しむ分にはいいが、ストーリーやミステリ的仕掛けとしては、もうひとつ不満が残るように思う。 | ||||
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電子書籍版で読了。三篇の短編作品が収録されている。ノックスの十戒として知られる中国人について、発想を物理学や数学の問題へと飛ばし、一応読者を納得させる結論にたどり着く。ひとつの文章の背景に隠れているものが多く、ミステリー小説の初心者はよく意味が分からない展開だと思うかもしれない。私はそれほどミステリーに詳しくないが、たまたま登場する作品を少し読んだことがあるので、この言い回しはあの作品を意識しているのかなどが少し分かった。ミステリー好き(マニア)だったら、もっと深く味わえると思う。数年後に読み返したら、何か新発見があるかもしれない。そんなミステリーの検定試験のような作品でもある。 | ||||
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内容の7割がた理解不能でした。が、面白いんです。雰囲気だけで楽しむための筋はキチンと入ってくる。作者の筆力を感じます。万人向けではないですが、すすめてみたくなる1冊です。 | ||||
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面白かったんですが、「このミス1位」を売り文句にしてるのはマイナス要因かも。 帯に小さく「(一応このミス1位です)」にしといた方が良かったんじゃないか? さておき、「十戒第五項目がなんでタイムトラベルに結びつくんだ?」で手にしました。 なぜ”あの日”が特異点になっているかが焦点になると思われるのですが それに対する回答はないですね。 恐らく、その日にタイムトラベラーの中国人がノックスの眼前に現れる必要があり 歴史的整合性のために特異点になっているのではなかろうか。 (故に、双方向で行き交えるのはその日だけ) そして第五項目は、後の人物の呼び水として機能すべく存在していると。 以下短評 ・引き立て役~ メタな感じでええですね。「アクロイド殺し」の本歌取りみたいなカラクリもあったり。 ただ解説に”原書知らなくても楽しめる”的なことがあったと思うのですが、 他の人のレビューを見る限り、知らないから置いてけぼり感の方が多い印象? あと法月氏は、ヴァン・ダインよりノックスの方が好きなんだろうな~と。 ・バベルの牢獄 これ好き。書籍という媒体ならではの仕掛けも楽しい。 ただ、私が最初にこの技食らったのは、バカミス作品だったりするのですが……。 ・論理蒸発 遠い未来では、こんなことも起こりうるのかも知れません。 そう言えば、野崎まどの「know」も”知”の密度を高めて、 脳内にブラックホールを作る話だったなぁ・・・。 さておき、ユアン・チンルウは元の時空に戻れたのか、その答えが分かる作品です。 最初のノックス・マシン以上に物理・量子力学の専門用語が飛び交い また、引用される過去のミステリー作品の数も多く、筋を踏まえていくだけでも難儀ですが このラストシーンは買いたいです。実に良い。 | ||||
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ドイル、チェスタトン、クリスティ、ヴァン・ダイン、クイーン等の大御所の作品はほとんど読破しているのみならず、ノックス、バークリー、セイヤーズなんかも最低限フォローしており、一時取り沙汰された「後期クイーン」を巡るゲーデル的問題にも多少の興味があったりもする、そんな海外(古典)ミステリ・ファンであり、かつ、イーガンや小林泰三あたりの量子論ネタのSFが好きで、理系じゃないけどSF好きが高じてブルーバックス等で最新宇宙論や素粒子論の入門書を時たま読み、パリティ対称性の破れとかブラックホールの蒸発なども概念としてちょっとは知っていて、事のついでに倉阪鬼一郎みたいなバカミスも妙に好きだったりする。 そんな希有な読書家にとっては、本書はそうした大量のガジェットが(すこぶる表層的に)詰まった玉手箱であり、これをパロディ、パスティーシュ、オマージュ、メタフィクションといった大風呂敷でもってえいや~!とぶちまけた本書は、にににやしたり、ふふふとほくそ笑んだりして楽しみながら読める快著であろう。 一方、普段は東野圭吾やビブリオ古書堂なんかを読むが、「このミス」第1位の本だからよっぽど面白いミステリなのだろうと思って買ったごく一般の読者は、間違いなく「なにこれ?」で終わるだろう。 辛辣な読者なら、この本は○○大ミステリ研あたりのマニアが矜持を満足させて喜ぶ内輪ネタ本だと裁断するかもしれない。 そんなわけで、わたくし的には5つ星だが、一般向けではないという点で4つ星とさせていただく。 | ||||
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他の方が述べているように、「海外ミステリの知識」が全くなく、 「このミス1位」に煽られて買ってしまうと、痛い目に遭うかと思います。 この作品集は、今は希少生物となった「ミステリ好き・SF好き」に捧げたオマージュなんでしょう。 作者からのご褒美として。 内容もプロットなんかより悪のり全開?で飛ばしているのがわかります。 ですから、前述の知識、もしくはその辺りに興味がない方は買わない方がbetter ノックス・クリスティ・エラリィあたりの固有名詞にピンとくる方には購買義務でしょう。 ノックスの十戒から展開する話にぞっこんになります。 | ||||
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本格ミステリをネタにしたSFやらパロディやらの中短編集であります。 ミステリファンなら誰でも一度は考えるネタをSFに仕立ててしまった表題作が素敵。ほとんど一発芸的なお笑いSFだと思いきや、同設定を受けて展開する「2」では荘重(?)な人間ドラマに昇華されていて唖然茫然とさせられます。 古典本格ミステリのワトソン役勢揃い「引き立て役倶楽部の陰謀」は、収録作品中では唯一SFにはあらず、パロディの体裁で展開する古典本格推理小説論とでもいえる内容。ヴァン・ダインの扱いがひどくて泣けるやら笑えるやら。 楽しめることは確かなんですが、ミステリ業界的に、本作品集がミステリランキングのトップ争いに堂々と入ってしまうのはいかがなものでしょうか。けっこう読者を選びます。 | ||||
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普段ミステリを読まないので、法月氏の作品を読むのは『一の悲劇』『頼子のために』に続いてこれで三作目。 まずはじめに抱いた印象は、ボルヘスを読んでいるみたい。これが日本の作家のものではなく、翻訳小説だと紹介されてもなんの違和感もなく読めるような世界観と文体に驚いた。 謎解きを楽しむミステリというよりも、ミステリを題材にしたSF、奇想小説集といったほうがしっくりくる。著者の古典ミステリに対する深い愛情が心に沁みる一冊。 タイムマシンやブラックホール、その他量子力学の用語など見慣れない単語が沢山出てくるので、一読して理解できなかった部分も多い。私は古典ミステリの著者や作品名などの知識に乏しいので、この小説を十分に味わえたとは思えない。けれども古典ミステリの美しさを多くの人に知ってほしい、世代を超えて未来へ届けたい、という叫び声のようなものをこの本から強く感じ、そのメッセージの哀切な響きが読んでいて気持ちよかった。 SF色の強い表題作より、ワトスンをはじめとする探偵小説の登場人物たちが秘密結社を作ってアガサ・クリスティを亡きものにしようとたくらむ短編「引立て役倶楽部の陰謀」が個人的にはツボだった。この本はぶっ飛んだホラ話であると同時に『そして誰もいなくなった』や、クイーンの<国名シリーズ>の親切なガイドブックでもあると思う。 | ||||
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4篇中3篇は、ミステリ小説を「舞台」とした、ミステリに関する小説。 表題作「ノックス・マシン」「論理蒸発ーノックス・マシン2」は、量子力学を中心とした物理学をガジェットに、小説世界の情報空間と、現実世界の物理空間を往還するSF仕立ての話。「ノックスの十戒」や「読者への挑戦状」といった、古典ミステリの遺産が、情報インフラが爆発的に進歩した西暦2050〜2060年代の世界に影を落とす。どこからこんな話を思いつくのだろう、と驚きながら読み進め、読み終えると、作者がどこから話を作りはじめたかについては、かなり明確になる。中核にあるのは、ミステリへの愛着だ。 「引き立て役倶楽部の陰謀」は、ワトソンをはじめとするシリーズ名探偵の「引き立て役」が集まるクラブを舞台とした一幕劇。あるミステリ作家が、斬新な構成のミステリ小説を発表しようとしていると聞きつけた「引き立て役倶楽部」の面々が、自らの立場を脅かすこの作品ひいては作者に復讐を企てるという話で、虚構と現実が境界線なくまじりあう点で「ノックス・マシン」2篇に通じるものがある。 「バベルの牢獄」は4篇の中では異色な作品で、異星人に囚われた地球人エージェントの脱獄譚なのだが、筒井康隆的仕掛けでかなりオフビート。終盤、やはり虚構と現実が錯綜する仕掛けになっているが、本作が指す「現実」は、他の3篇とは違う場所にある。読み終えて全部のページを読み返して、灯りに透かしてみたりして、最近の印刷技術の精度に唸らされた。 通読して思い浮かんだのは、レムの中篇集「虚数」だった。「虚数」の収録作にも「ビット文学」という、コンピュータの産みだした文学作品とその解題という主題が顔を出す。「ノックス・マシン」の衒学的な趣向は「ゴーレムXIV」を想起させる。中篇集の最後に収録された作品に、その他の作品がゆるやかにリンクして、中篇集全体として収束していく感覚も、両者に共通している。一方、両者の主題は、通じるところはあるが、明確に異なる。「虚数」でレムが拘ったのは、知性の本性だったとぼくは勝手に思っているが、本書に収録された4つの中篇に共通しているのは、文学あるいは書物という「空間」だ。この「文学空間」と現実の「物理空間」との往還が、収録作品に通底する奇想だ。 ただ「ノックス・マシン」2篇の物理学の小道具たちは、かなり未消化な印象だった。現代の物理学に基づく現実の科学知識と、作者の空想科学の落差が激しすぎるし、そもそも、大雑把なイメージすら理解が及ばない(文章の論理を追いかけることが、ぼくにはできない)記述が多すぎる(エントロピー保存とか、そもそも単なる間違いでは、という部分もある)。作者が「何だか凄そうだ」という雰囲気で読者を煙に巻こうとしているならこんなところかもしれないが、法月綸太郎に限ってそんなことはないだろうと思うので、その点は残念。 | ||||
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収録作品 「ノックス・マシン」 「引き立て役倶楽部の陰謀」 「バベルの牢獄」 「論理蒸発〜ノックスマシン 2」 著者が後書きでことわっている通り、本書に収められた作品はあくまで[本格ミステリ]SFであり、量子力学やブラックホール理論に暗くとも大丈夫だが、「バベルの牢獄」を除いては1920〜40年代の欧米の黄金期のパズラーの知識が無いと愉しめない事は断っておきたい。 表題作と「論理蒸発」は英国の聖職者並びに探偵作家であるロナルド・ノックス(代表作に長編『陸橋殺人事件』短編「密室の行者」)が1928年に発表した所謂[ノックスの十戒]の中の本格探偵小説に[中国人を登場させてはならない]とした条項をモチーフに展開する。 黄渦論の横行した世相を背景に書かれたナンセンスな規則と量子力学理論を強引に結びつけた奇想作品。後者などエラリー・クイーンに興味がないSFプロパーの読者が読んでも意味不明だろう。裏を返せばマニアックな翻訳ミステリファンには作者のクイーンに対する愛情を感じて感涙ものだ。 その意味では本書のハイライトは「引き立て役倶楽部の陰謀」に他ならない。ヘイスティングスを語り手に語られる、ワトソン役たちの秘密組織(もちろん会長はワトソン博士)が企てる陰謀とは何か・・・様々なキャラクターが登場して愉しい限りだが、ヴァン・ダインに振られた役回りはいささか苛烈に過ぎると思う(笑) 探偵小説における叙述トリックのフェアプレイ問題をめぐる見事な論考としても傑作。 | ||||
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一般的には受け付けない層もあるのだろう。 しかし、自分にしてみれば、こんな楽しい小説もない。 古典的なミステリ好きなら、泣いて喜ぶ仕掛けが随所に見受けられるし、根っからのSFファンにもたまらない作品である。 タイトルを見てピンときた方なら、まず間違いはない、買いである。 ただ、やや書店によって、扱いが雑になっている事が非常に不満だ。 | ||||
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表題に「ノックス」とあるのである意味当然かもしれませんが、それなりのミステリへの知識が求められますし、ミステリファンでない純粋SFファンでは本質的に楽しめないと思います(そんな人がいてもこの本のタイトルには惹かれないと思いますが)。 色々なミステリ読書の積み上げなくこの作品から読んでしまうとポカーン( ゚д゚)となってしまうでしょう。すなわち古典的なミステリの系譜、とりわけA・クリスティの代表作(そして誰もいなくなった・アクロイド殺し・カーテン等)やノックス、ヴァン・ダイン、のことを知らないと殆ど盛り上げれないと思います。 逆にそれらをきちんと読んできた人や古典ミステリファンにとっては、本書は単なるミステリSFにとどまらずとても素敵なオマージュになっており、さらに「ノックス・マシン2」はGoogleとブラッドベリを固めたようなサゲで、本好きとしても琴線に触れる作品になっており、ハードカバーで買った価値があったと思います。 ちなみに、「バベルの牢獄」、だけが異色で、これは結構SF色と実験色が強いので、ちょっとこの作品集からは浮いてしまっていますね。途中のインターミッションとしてはよいですが、それでも読みながらちょっと苦しかったです。 | ||||
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この作品を大森望氏が絶賛しているというのは確かによくわかる。 大森望という書評家が誰でもが素直に楽しめるようなまともな作品を絶賛するなどということが ありえないことは皆さんご周知のとおりである。 この作品を読みこなそうと思ったらミステリの古典に慣れ親しんでいるだけでは足らず、 SFのみならず最低限の物理法則くらいはわきまえている必要はあるのではないか? 例えて言えば、TVのガリレオシリーズで福山雅治扮する湯川准教授が突然書き散らしはじめる数式を いきなり読まされるくらいの覚悟で臨んだほうがよいだろうw (おそらくは作者もノリで適当なことを書きまくっている可能性も割と高いのではと思うが・・・) あとフレドリック・ブラウンとか好きな人は結構ハマるのではないかと思う。 また4篇の中でも特に異色作と言える「バベルの牢獄」はバカミス界の巨匠○○○○郎に 挑戦した作品としても読めるだろう。 全体として作者自身が相当悪ノリして、楽しんで書いたことが伺われる作品集だと思う。 | ||||
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