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カラマ-ゾフの兄弟
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【この小説が収録されている参考書籍】
カラマ-ゾフの兄弟の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.26pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全554件 261~280 14/28ページ
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とりあえず 読みやすい 最初は 把握しずらいかもでも 流れだしたら面白いよ。とりあえず新潮社は 時代背景や 言葉に 訳注で最低限の解説も書いてくれている。 別に キリスト教徒でなくても ある程度の知識と 哲学を個々にあるなら なんてことないよ。上巻では 後半の プロとコントラが ヤバく面白い とりあえず イワンを好きになるよ。 | ||||
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新訳効果が出ている。値段が手ごろである。できたら5巻全部の商品があるといい。 | ||||
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第2巻に入って間もなく展開してゆく「カテリーナの愛」のゆくえが気になる! 「美女と野獣」の例え言葉を冠したくなるカップル、カラマーゾフの長男ドミートリーとその婚約者カテリーナ。 かつて二人の間には愛憎入り交じる出来ごとが色々とあったのだが、現在では”野獣”ドミートリーが”美女”カテリーナに三行半を突きつけている。 思わせぶりな妖婦アグラフェーナの出現による彼の心変わりがその要因かもしれぬが、ドミートリーのような男にとってカテリーナの自分に対する執着は、忌避すべきものであったようだ。 ドミートリーの父フョードルの、カテリーナへの評価もそれに一致する。(親子やなぁ…) 追えば逃げ、逃げれば追うという恋愛劇の定石にも感じられて楽しめる。 第5編のタイトル「プロとコントラ」(肯定と否定)の意味する背中合わせのことわりは、反発し合っているのか、寄り添っているのか。全編においてこのような対応しあうモチーフをひろい集めるのも楽しみ。 「カテリーナの愛」の美と醜の両面を見せてゆくくだりは大いにメロドラマ的に感じられて、ドラマ好きの主婦(ワタシ)の要求にも応えてくれるものだった。 続いて活躍するのは次男のイワン。 聖職者である弟と向き合い無神論者の立場をとる彼は、ついに肚を割って話すことにしたと前置きし、長い長い混沌とした語りに入ってゆく。 数学的論理、聖書の逸話を語る彼。 中でも特に熱が入るのが伝聞の残虐な話、三面記事的事件。 それらをつらね、仕舞いにむごい仕打ちに晒される子ども達の有り様を語るに至って、人間の愚かさ下劣さに絶望し「愛するに値しない」と読み手に絶叫させるほどの激情をかきたてる。 むろん聞き手を自分の手のうちに引込む手法ではあるのだろうが、この熱い語り口からは、語り手自身の怒りが透けて見えるようでもある。 それを待ちかねていたように同調し、憤り、根かぎり憎しみをつのらせている自分に気付いてギクリとした。 そして「自由」を約束された民衆の幸いとは…を問うてゆく「大審問官」の挿話へとなだれこんでゆく。 宗教的なモチーフが盛りだくさんらしいのでこの挿話を解釈することは私にはできない。 しかし誤読を恐れずに、浅学ないち読者の立場で言わせてもらうなら、実践を伴わない詭弁を弄する青二才の言い草…という印象を受けた。 この後で出てくる「ゾシマ長老の談話と説教」で語られる挿話から、ゾシマは自身の人生でもって己の言説の裏付けをしてきたことが分かる。ここでも「民衆」を見つめるそれぞれの視線は対応しあっている。 1巻の感想でも書いたが、専門知識もなく文字通りに物語を追っていっても、自分の生きる時代、自分の抱える問題に引き寄せて感得できる真理が散りばめられている。 そんな汲めども尽きぬ力を持った作品だと思う。 これらの大きな動きの他にも、貧苦にあえぐスネギリョフのエピソードを筆頭に、地上から天をあおぎ見る人々のその労苦で隙間なく埋め尽くされている感じを受ける。 スネギリョフとその9才の息子のエピソードは、子を持つ親にとっては感に堪えない語り口だ。 恥ずかしながら、私はこの箇所で涙が止まらなくなってしまった。 カテリーナの恋愛劇同様、たいへんベタな語り口なのだが、それがツボにはまってどうしようもなく泣ける! 泣き出すと1巻のグリゴーリーの耐える人生まで遡って泣けてきちゃう。 情感はわかり易く、ドラマチックさは折り紙付き!そして情もドラマも非常にブ厚い! あらゆる立場のあらゆる経験が詰め込まれた物語。 膨大な人数の個人の物語をのせて流れる大河のような作品だと思う。 | ||||
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レビューに関しては他の方にお任せします。 やはり原さん訳の『カラマーゾフ・・・・・・』がわたしは大好きです。 ドストエフスキーは、小品から晩年の大作群まで全作読みましたが、 特に『カラマーゾフ・・・・・・』『悪霊』『罪と罰』に関しては、聖書の通読なしには本当の理解は得られないように思います。 わたしは聖書の通読を終えてから、ドストエフスキーに手を出しました。 わたし自身はクリスチャンですが、 信仰云々と言うより、 世界的に偉大な芸術を理解するための聖書通読なら、キリスト教になじみの浅い日本人にも読んでいだたけるような気がします。 世界最高の古典、それは聖書ですから・・・。 | ||||
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中学生の時に読みましたが、細部までよく覚えています。公共放送が「夜と霧」を煽っていると先日知り、「まったく」と呆れました。復興途上の人間に、勇気、元気を与えるなら間違いなくこちらか、ニーチェと思いますが・。 | ||||
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「カラマーゾフの兄弟」が映画化されたものを見た。 男も女も巻き舌のロシア語でまくしたて、怒鳴り合っていて、なんとま〜騒々しい…と目をパチクリしたが、あけすけで激情型の人物が織り成す、泥臭いドラマにどんどん魅了されていった。 これって吉本新喜劇のノリ(大声とオーバーアクトね)をちょっと思い出す…なんて失礼なことを考えたり。 映像化にあたって随分はしょられている感じはしたので、映画を見終わってから原作の小説を手にとってみた。 ドストエフスキーは初めて読むので、読みやすいと噂のこの光文社版を選んでみた。 ラストまで知っていて読むと、丹念に伏線がはり巡らしてあることが分かって感嘆の嵐! また「教会的社会裁判」の議論のくだりでは、今日まで続く哲学的議論になっていて感動! 集団の統治を考える国家と、個と向き合い人生の普遍性を説く教会の相容れなさ。 他への見せしめとして罪を裁くべきか、罪を招く前にその芽を産まない社会を作るべきか。 理想の国家とはなんであろう。 そして人間のどうしようもなさと、「こんな人がいるから未来を信じられる」という市井の人の描写が織り交ぜられ、宮部みゆき節で流したのと同じ涙が流れる! 「私が尽くしても相手は感謝してくれず、私は不幸である」という身勝手な懺悔も、新聞の人生相談で日常的に見かけるネタだ。それに淡々と返す長老様(聖職者)の返答が胸にズンとこたえる。 とても古い作品であるにもかかわらず、語られているのは今私達が日常的に思い悩む問題なのである。 キャラクターも個性的な人ぞろいで、人物紹介だけでも退屈しない。 ひとりの人物がもつ複雑な側面をあざやかな筆さばきで描き出す。 私が特に注目したのは、父フョードル・カラマーゾフ。 彼のいじましい心情の流れを丹念に描き出す筆致がスゴい! 神父を相手どって、ひるまず己の本分をまっとうする図太さと、向けられる非難を悲しみ恐れる小心さ。 誰にも歓迎されない乱入騒ぎに至っては、ちょっと嬉しくなってくるくらい醜悪で、おもしろくて、ドキドキした。 天に唾する愚かしさ。 予定調和の破壊者。 単なる憎悪を産む装置としての醜悪なキャラクター設定ではない。 ドストセンセイはフョードルを楽しんで書いているような気がする。 (そしてフョードルが敵視しているミウーソフ、たぶん嫌いなんじゃないかなぁ…私もこのひとキライ…) 理想とほど遠いこんな人物像をも見事に描き出す技が、懐の深さが凄すぎる! この後には吉本新喜劇の予定調和とは正反対の、あっと驚く展開も待っている。 ドストセンセイ!次巻も期待してまっせ! | ||||
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以前から読みたいと思っていましたので4冊まとめて購入しました。 値段も手ごろで助かりました。 | ||||
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長い物語を進んでいきますと、時々道が見えなくなって途方に暮れてしまうことがあります。 正直、第2巻でも何度も遭難しかかりました。 そういう時は、やはり元来た道に戻ってみるしかなかったですね。余談ですが。 第1巻で複雑な様相を見せていたカラマーゾフ家ですが、2巻では今度は一人ひとりに深く入りこんでいきます。 さっと読んでいたのでは、後で疑問ばかりが残ってしまいます。 じっくりと読み解いてゆきたい小説です。 また、巻末の読書ガイドを参照されるのもかなり役立つと思います。 この巻で印象に残るのが、後半を構成しているイワンの物語詩「大審問官」とアリョーシャが聞き書きした「ゾシマ長老の一代記」です。 キリスト教世界の普遍的テーマ(と言ってよいのでしょう)、神と人間の関係から哲学的命題が論じられてゆきます。 ハッとするような言葉に次々と出くわします。 一方で、このあたりは読み進めるには嶮しい山脈とも言えそうです。 ようやく2巻を読み終えたところで、いつの間にか深い森の中心部までやってきてしまったことを自覚するのです。 大変な重量感です。 | ||||
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とても有名な作品です。様々な方が、それぞれの意見、感想を述べています。それだけ奥深く、何度も読む必要のある作品と考えます。様々な見方があると思いますが、自分の提案する読み方として、自分自身が、この作品のどの人物に似ているのか、もし自分ならどのような役割を演ずることになるのか、想像しながら読むと、とても楽しめるのではないかと思います。また、どの人物が一番好きか、というテーマについても、この作品が好きな方なら、大いに盛り上がることのできる話題でしょう。個人的な意見を述べさせてもらえるなら、自分は次男イワンが最も共感でき、また好きなキャラクターであると言わざるを得ません。詳細を述べると長くなりすぎますが、無神論者であるが故に、価値基準のよりどころにするべき尺度は一切存在しないと考え、それ故にすべては赦されるという主張をしておきながら、一方で父殺しの罪はそれと気づきながら看過した自分に対して罪を感じ、罪を感じすぎるが故に、良心の呵責を感じすぎ、結果として追い詰められ、ついには発狂して昏睡に至るといった人物像は、ambivalentな自分、また現代人にぴたりと当てはまる人物像です。このように、様々な登場人物が、自分ないし周辺の人々に当てはめられるのではないでしょうか。このような見方も、カラマーゾフの兄弟を少しでも理解し、また楽しむための読み方のひとつであると考えます。光文社の古典新訳で亀山氏も巻末で語っていますが、この作品を、ワイン片手に語り合えるような時代が来てほしい思います。小説の中の人物像から、価値基準、倫理観、矜持、等を逆に学び、現実生活に生かす事もできるはずです。悩みへの光明、また人生の指針として、時には娯楽として、この小説と関わっていければと考えています。 | ||||
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工藤精一郎訳の「罪と罰」を読み、ドストエフスキーは歴史的文学作家なのに、いまいち面白く感じなかったことから本書に挑戦してみた。 平易な言葉に訳されているお陰か、分量が長大ながらも、面白く読み進めることができた。 ただ、叫ぶほどのことでもないのに「○○は叫んだ」という表現が頻発することと、何の説明も無くローマ(ロシア)字表記を頻発することに違和感があり、訳者の表現の手抜きを感じた。 各巻末にある、訳者による「読書ガイド」は親切だと思った。ロシア正教やロシア文化の知識がない人にも読めるように配慮されているので、本文の前に、読書ガイドにサラっと目を通しておくと、本文の理解が早いと思う。 本書の、ストーリーとしての密度は薄い。ただ、そのストーリーを展開するまでの会話劇が非常に濃厚であり、会話劇によって宗教、哲学、心理描写などの思想・思考を展開することに重点が置かれていて、そこが本書の魅力だと思う。 なので、ストーリー展開を楽しみたいという読書家には、不向きな作品だと思う。が、逆に、ストーリー展開が薄くても面白いものに成り得るという気づきになるかもしれない。 また、最終巻にある、訳者の「ガイド」は読者の想像を掻き立てられるものとなっており、本文の読後に読むと非常に面白い。 | ||||
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普通に面白く読めた。いい作品だと思う。 さまざまなテーマがストーリーに織り込まれている。 しかし主要なテーマの一つである神の有無などは、キリスト教徒でない日本人としては実感し難いテーマであった。 ストーリーが長いことと、難解なテーマも含んでいることから 本書の帯にあるように、大学生よりは30前後の人にお推すすめかなという印象を持った。 | ||||
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第8編第6、第8章で、ユダヤ女の楽器はシンバルとヴァイオリンになっているが、前者はツィンバロンだと思う。原文のЦимбалыにはシンバルとツィンバロンの両方の意味があるが、シンバルとヴァイオリンの組合わせが合うとは思われない。ちなみに、「演奏する(叩く)」に当る動詞はигратьが使われている。この楽器に関しては、岩波文庫版も光文社文庫版もシンバル(前者ではヴァイオリンが胡弓で、シンバルも古い単語が使われているが)になっている。 | ||||
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新潮文庫での上巻にあるプロとコントラ(イワンがアリョーシャにきかせる詩、キリストが人間を「みにくる」というもの)。 そこでのキリストが、下巻の中でのアリョーシャと重なってみえた。 つまり、ミーチャにとっては、父親殺しに関して無実の罪を信じてくれる唯一の人間として、 イワンにとっては、実質的な父親殺しは自分だという罪を否定してくれる人間として、 アリョーシャが描かれている。 本作品のところどころに、意思ではなく、無意識的に行動していることがほのめかされる。 たとえば、イワンがスメルジャコフに殺害を指示するような台詞を口にする場面。 アリョーシャがイワンに「あなたは殺してない」と宣言する場面など。 もし、人間の行動が完全に意識的なものでないのだとしたら、 そこに負うべき責任はあるのだろうか。 「すべては赦される」ことになるのだろうか。 もし環境がそうさせたのであって、同じ環境におかれれば誰しもが同じ行動をとってしまうのなら、 そういった環境におかれた人を非難することは何人たりともできないのではないか。 そうだとしたら、なぜ人は「罪」を感じ、「罰」を欲しさえするのか。 本書のテーマはこういうとこにあるように感じられた。 ・下巻で特に個人的に好きな場面について。 下巻のミーチャがアリョーシャをひきとめて、おまえは俺が殺したと信じているのか、と問う場面、 あの描写には言葉通り、心が揺さぶられる思いがした。 人の悲しみと絶望の深淵を突然みせられたときの、あのやるせなさ、無力感を思い出した。 こういった感情を、ドストエフスキーの作品は呼び起こす魔力みたいなものがあると思う きっと彼自身の流刑、銃殺未遂の経験も関係しているのかもしれない そういった痛みを代償として、いろんな物をより感じるようになるのかもしれない それが幸せかどうかは言いたくないけれど、 人の心の深淵をここまでえぐり描いた彼の作品を愛さずにはいられない | ||||
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新潮社に比べて、「筋として」は、面白い。しかし後の伏線となるイワンの「反乱」への懸念が間違ってればすみませんが、欠落してるように思います。またギリシャ正教会の信者でもない日本人が読むと実は難解です。吉本隆明氏が「これは筋としても面白いがそれだけでは読者はもっと ・」すみません不確かなのであえて全部言えませんが、筋以上のものを読み取らなくはならないとおっしゃっておられた事を思い出しどうしても満点はつけられませんでした。しかし作者の頑張りは評価します。 | ||||
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1月12日に始まった『カラマーゾフの兄弟』(フジテレビ)を観ました。日本の舞台に置き換えたシリアスドラマです。黒澤明監督の『白痴』を意識していることはまちがいないようです。 気になったのは、次男のイワンがしきりに左肩に触れる場面です。あれは、亀山訳『カラマーゾフの兄弟』第五巻の解説を踏まえたすばらしい伏線だと感じました。答えは、「悪魔」(メフィストフェレス)の暗示ということになるのでしょう。日本における『カラマーゾフの兄弟』の受容がここまで来たかと感じ、感無量です。亀山訳は、驚くほど躍動感に満ちたもので、とくに足の悪いリーザの悪魔性や、イリューシャの死の場面は入魂の翻訳です。 | ||||
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初めて『カラマーゾフの兄弟』を読み始めました。 この新訳とこれまでの翻訳がどれ程異なるのかはわかりませんが、確かにこの本は読みやすいです。 古典翻訳で味わう「言葉の摩擦」のような抵抗感はなく、すいすいと読み進められました。 抵抗感といっても拒否感ではく、読む速度をおとしめるような抵抗ですね。 その分、意味を考えて反芻したりしますので、濃い味わいがあったりします。 贅沢なことを言えば、薄味のような感じもしないではないですが、何しろ『カラマーゾフの兄弟』です。 読む機会が巡ってきたことに幸運を感じざるを得ません。 それは亀山さんの翻訳のお蔭だと感謝しています。 散文の場合は翻訳の問題は薄れる、と桑原武夫さんがお書きになっていたのを記憶しております。 テクストを理解するように読んで参りたいと心がけています。 巻末に読書ガイドが付されています。最初にお読みになる方が役立つと思います。 | ||||
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難解と言われれば、そうには違いない。この難解さは、まるで、漱石の三部作のよう。 けれど、普遍的で、深い洞察に溢れていて、実は、やはり、難解でもないのです。 難解とされる主な理由は、漱石もドストも、その時代をそのままをストレートに書いているからだ。 つまり、その時代の、世に溢れる苦しみ、社会矛盾、自己確立の困難さなどは、どうしたって、その時代を生きた人にしか、共感できない。 折しも時代は、科学の到来した時代。 その激動する時代の中で、前近代的な因習、民俗学的な縛りに苦しむ魂の圧迫感、空気感などは、ましてや、経験した人にしか分からないでしょう。 だから、私たちは、ドストや漱石が描く人々を通し、因習や社会の重しに苦しめられる自己の魂の窒息感や閉塞感、絶望、そして、希望を想像し、そのまま感じるしかない。 思いやることはできても、そもそも理解できると考えるものではないはずだから。 まず、そう割り切るのが、楽しみ方のコツだと思う。 漱石もドストも、書き手と読み手の間に横たわる、この垣根を敢えて越えようとはしていないのだから。 両作家共に、その時代を生きた人間として、そのまま感じたまま、観たままを書いていることこそが脱帽なのです。 そうすると、スイスイ読めてくる。入ってくることがある。 漱石もドストも、その時代を懸命に生きた一人の人として、人間、人間愛、魂の解放、救済(自我と愛との確執の側面からなど)・・近世以降の人が抱えるであろう、これらテーゼについて、痛ましいほど苦悩し、深く探求している。 そして、希望や安らぎを希求し、当時の人々や、後世の人々に遺してくれている。 この魂の探求?と言おうか、それは凄まじく、私たちをグイグイと引き込んでいくのだと思う。 漱石、ドストの魅力は、作者の意図に沿って、登場人物によってご都合よくストーリーを展開させるという事がまずないこと。 物語の構成は、タテヨコ、そして、天地何層にも、物語や神話が織り込まれている、それこそ世界唯一の素晴らしさ。 そして、その枠組みの中で、登場人物それぞれが、激動する時代の中にあっても、自己の心や魂の中になおも生き、自分の行動を規定し、突き動かしているものを活き活きと語る。 ただ、そこにあるのは、その人の心や魂の中で生きているリアリティ。 引き込まれないはずはない。 漱石もドストも、その時代を描き出し、私たちの人間としてのコアな部分に入り込み、栄養を与えてくれる。 やがて、近世以降を生きる私たちにとって、自己を自己で探求できるようになるための素地が創られている。 自己啓発書、宗教書や、哲学書に負けず、自己で自己を確立しようというコアが育っていると思う。 そして、読後には、ほのかな安らぎと自信も感じている。 宇宙観や、世界観を形成する上での視点のみならず、心も培養してくれるように思う。 漱石もドストも、思想の探求は、ほどほどで、構わない。 大切なのは、確かな実践(生活)であり、そのための愛や思いやり(キリスト社会的には、隣人愛)の重要性を、苦悩者として、自己の反省と共に、科学と資本が支配しそうな後進の現代人のために、独自の視点で伝えている。 | ||||
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中巻もさほど手こずることなく読めた。 色々なテーマが内包されているが、最後にむけてどう収斂されていくのか? いまのところは難しくも読みににくくもなく読めている。 | ||||
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たまにはロシア文学もいいかなと思い、読んだらとても面白い小説でした。 新訳なのでとても読みやすく、文学少年少女にもおすすめです。 人間の本質を考えてみるときに、おすすめの一冊です。 | ||||
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『カラマーゾフの兄弟』を再読した直後の先週土曜日、NHK教育テレビ「こころの時代」に出演した訳者の亀山郁夫の語りに接し、理解が深まりました。ドストエフスキー文学における最大のテーマを「黙過」に見る訳者の世界観に強い共感を覚えました。 番組のなかでの、とてもわかりやすい、淡々とした語り口は、『カラマーゾフの兄弟』の新訳の精神そのものを体現しているように思えました。 最後まで読みとおすことができたことに対し、改めて、訳者に感謝したい思いです。 | ||||
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