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カラマ-ゾフの兄弟
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【この小説が収録されている参考書籍】
カラマ-ゾフの兄弟の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.26pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全554件 181~200 10/28ページ
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三兄弟の中でも、イワンのセリフに注目して読んでいた。スメルジャコフとイワンの関係性は、この小説を読み進めていくうえで肝心な要となるでしょう。 | ||||
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読みやすいし何度も読み直したくなる また次に進みたくなる1巻である | ||||
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※本レビューはネタバレを含みます。ご注意ください。 私の理解力不足のせいですが、解釈に悩み、なんとレビューすれば良いのやらという感じでしばらく放置していました。 がんばって書きます。 スメルジャコフがイワンに向かって真実を伝えるシーンが印象的でした。 「あなたは大旦那さまそっくりだ。ご兄弟の中でいちばん大旦那さまに似てきましたね、心まで同じですよ」 と、何もかも見透かしているスメルジャコフが不気味です。 誰が善人なの?誰が悪人なの?誰が無実で、誰が罪人なの?と混乱させられます。 スメルジャコフが父親殺しの犯人だとわかったのに、その罪は明らかにされずどこかにいってしまって、見当違いの悪をみんなが躍起になって追いかけていて、人間の愚かしさを感じさせるような展開になっていきます。 真犯人がわかったんだからあとはスッキリ事件を解決すればいいじゃないとはたから見ていれば思うのですが、その後イワンのもとには自分の分身である悪魔が現れ、イワンは発狂せんばかりに苦悩する。 そして長い裁判の描写の末、弁護人の説得力ある弁舌にも関わらず、ミーチャは無実の罪で有罪となる。 カーチャはミーチャを裏切ったかと思えば後悔して謝罪し、ミーチャと不思議な絆が生まれてるし、中巻であれほどドラマティックに愛を語り合ったグルーシェニカとミーチャは、そんなカーチャのせいで若干ギスギスしだすし、脱走すると言いつつそのへんは描かれないし、リーザはキャラが豹変しちゃってるし、私にはなんなのこの展開?どう解釈すればいいの?と思えてしまいました。 物語の最後は哀れな少年イリューシェチカのお葬式のシーンで締めくくられますが、ここは胸が締め付けられるように悲しい場面でした。 もしミーチャに真の罪があるとしたら、この美しい心を持ったイリューシャの心を痛く踏みにじり、一家を不幸にしたことではないかと思いました。 物語の唯一の良心であるアリョーシャのスピーチが印象的です。 「これからの人生で僕たちの身に何が起ろうと、僕たちはやはり、一人のかわいそうな少年を葬ったことを、覚えていましょう。少年時代から大切に保たれた、何かそういう美しい神聖な思い出こそ、おそらく、最良の教育にほかならないのです。ああ、子供たち、ああ、愛すべき親友たち、人生を恐れてはいけません!何かしら正しい良いことをすれば、人生は実にすばらしいのです!」 この言葉に深く感動した子供たちが、 「カラマーゾフ万歳!」 と叫んで、ついにこの長編が終わります。 忌まわしい一家カラマーゾフの名が、無垢な子供たちによって「万歳!」と叫んでもらえたことに、大きな救済と希望を感じます。 散々見せつけられてきた人間の醜さが、最後の最後になって全て許されたかのような救いを与えられ、ほっとして本を閉じることができました。 神はいないとイワンは言ったように、世界はどこまでも残酷で醜悪ですが、純粋無垢だった幼少期の美しい善良な感情や思い出は決して消えることはない。そこだけが、生きる上で唯一の希望なのかもしれない。 そんなことを思わせる物語でした。 | ||||
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(1~5巻を通してのレビューです) ただ長いだけで満腹にする小説もありますが、これは量だけでなく味も満足です。 クセのある人物が多数登場します。 でも、なんといってもドミートリー・カラマーゾフでしょう。 放蕩にして純粋。 卑怯にして高潔。 傲慢にして心優しい。 この振れ幅。 モークロエでの予審の場面など、滔滔と溢れ出してくる「人間」に圧倒されます。 第5巻は半分以上が訳者による解題。 作品への興味と理解が深まります。 もう一度最初から読み返したくなるほどですが…。 | ||||
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最初はあまりの長さに敬遠してましたが上・中巻をそれぞれ2日、 下巻は徹夜しながら1日で読破しました。 とにかく緻密な心理描写が凄まじくただただ圧倒されるばかりです。 ドストエフスキーはどういう人生を送ったらここまでリアリティの有る人物を産み出せるのかと 思いましたが、彼の正に「事実は小説より奇なり」な壮絶な人生を知ってすぐに納得できました。 特に長男ドミートリイの破天荒ぶりと人間臭さは最高です。 女、酒、ギャンブル、金、暴力・・・殆ど欲望に魂を売った様などうしようもない人間ですが、 あまりに人情味あふれるダメっぷりに思わず笑ってしまいます。 しかし、一方で自分に流れるカラマーゾフ家の血とその運命に真っ向から立ち向かう強い意志と、 深い兄弟愛を持つ一面も有り、共感も出来る最高のキャラクターに仕上がってます。 | ||||
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ドフトエフスキーの長編小説で駄作は無いが、中でも「カラマーゾフの兄弟」はドフトエフスキーの様々な面を見せてくれる最高傑作だと思う。あまり注目されないが、兄弟の父親ヒョードルは小説家が作り出したキャラクターの最高傑作の一つである。イワンをして「子豚チャン」と呼ばれた、まあ、実際には付き合いたくない人間の代表作と言える人間であるが、これぞ人間であると言ったキャラクターである。この父親から、激情家のドミトリー、冷徹なイワン、純真なアリョーシャが分岐して形成される。ドフトエフスキーは、小説と言う宇宙の中の圧倒的な創造者であり、その能力をこの小説の中で遺憾なく見せつけてくれる。 小説は長いが、小説の取り扱っている時間は非常に短い。しかし、その中に人生で自問するほとんど全ての疑問を取り扱っている。「カラマーゾフの兄弟」は、小説の中の最高傑作の一つであり、圧倒的な小宇宙である。 | ||||
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※本レビューはネタバレを含みます。ご注意ください。 冒頭からスメルジャコフが不気味で戦慄させられます。何?何が起こるの?という不吉な予感。物語が大きく動き出す予兆を感じます。 その後ゾシマ長老の自叙伝と葬儀、初恋の男を待つグルーシェニカの描写のあと、いよいよミーチャにスポットが当たります。金策に飛び回り、散々な目に遭い、憔悴しきってついに自宅の屋敷に忍び込むミーチャ。 その展開からもう目が離せません。 ミーチャはそこで何をしたのか、決定的なことにはふれられない描写がまたジリジリさせられます。 事を起こした後、モークロエで再会したグルーシェニカとミーチャ。 中巻ではグルーシェニカが悪女から普通の女の子にたちまち戻って、心からの愛に打ち震える様子がいじらしいです。 二人の愛がまさに燃え上がらんとしたその瞬間、やって来た警察署長と検事達により打ち砕かれる幸せとにかく劇的な展開が続きます。 上巻に比べ一気に物語が急展開していく中巻は、推理小説さながらのスリリングさで、夢中で読み進めました。 最後の方で、ミーチャが見る夢についての描写があります。 私はこの箇所が最も忘れられません。 うら寂しい荒野で焼け出された貧しい人達。ミーチャはそれを馬車から見ながら、馭者に尋ねる。 「教えてくれよ。なぜあの人たちは貧乏なんだ。なぜ童はあんなにかわいそうなんだ」 目を覚ましたミーチャは自分に枕をあてがってくれた誰かに心から感謝し、「みなさん、わたしたちはみんな薄情です、みんな冷血漢ばかりだ、ほかの人たちや母親や乳呑児を泣かしているんです。しかし、その中でも、中でも僕がいちばん卑劣な悪党なんだ」と語ります。 この時初めて、無計画で乱暴者だったミーチャの、魂の美しい部分が現れて、はっとさせられます。 上巻最後のイワンの言葉を彷彿とさせる、無垢な子どもの犠牲に関する描写です。 もしかして私達はみな、無垢な子どもを犠牲にしている罪人なのではないのか。まざまざとそう思わされ、愕然とします。 グルーシェニカとの最後の別れで、グルーシェニカは 「あなたのものといったん言った以上、あたしはいつまでもあなたのものよ。あなたがどこへ流されようと、永久にいっしょについて行くわ」 と涙を流し、 ミーチャは 「赦しておくれ、グルーシェニカ、僕の愛を。僕の愛で君まで破滅させてしまったことを!」 と出て行きます。なんてロマンティック、なんて悲劇的。これまでの二人とは明らかに違う、澄み切った心からの愛情を感じます。それなのに、これを限りに離れ離れにされてしまうという運命のいたずらが悲しい。 息もつかせない展開にドキドキしつつ、荒野の夢のシーンが大きなインパクトを残す、最高に面白い巻でした。 | ||||
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国も時代も信仰も超えて読み継がれる小説の1つだと思います。 シェイクスピア同様、エンターテイメントとしての物語の面白さを自在に操りながら(特に下巻は四大悲劇に通じる気がする)、人間にとって普遍的で最も大切な問題を次々に、そして強烈にドストエフスキーは読み手に問いかけてきます。 愛読書なので星20です。 新潮の原さん訳が断然良いですね。 | ||||
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前半のハイライトが例の大審問官の件なら、後半のハイライトは本書収録のイワンと悪魔の対話になるだろう。しかしだ・・・、その対話の内容たるや・・・、あまりにもマニアックなネタがポロポロと出て来て、これでは一般の読者どころか、プロの文学評論家でもその方面の知識や洞察のないような御仁は気付きもしないままで通り過ぎてしまうのではないだろうか。現に小林秀雄など幾人かの評論集や多数のレビューに目を通したものの、その点に触れたものはついぞなかったように思う。 ので、すべてのポイントを記す事などとうてい出来ないが、いくつかそのサワリだけでも記しておこうと思う。本書をより興味深く味わいたいという人にはその助けになるかもしれない。まず①作中でイワンが悪魔を「馬鹿」と連呼する悪魔学的な背景について,②十億回も繰り返される地球の話とそのオカルト的な背景について、③この世界が僕[悪魔]の発散物、自我の連続的発展でしかないという悪魔の奇妙な説について。 まずは①については、トマス・モアの悪魔論つまり「悪魔は誇り高い霊で・・・嘲笑を聞き過ごす事が出来ない」やルターの悪魔論「悪魔の一番良い撃退法は嗤ってやる事、軽蔑する事だ。悪魔は馬鹿にされると平気ではいられない。」という歴史的な説を踏襲していると言える。作中の対話でもその辺は露骨な位に反復されていると思う、悪魔「ねえ、君、僕はやっぱりジェントルマンでありたいし、そう扱ってもらいたいな」「僕は随分色々と中傷されてきたからね!」「時には愚痴をこぼさずにはいられないからね。僕はさんざん中傷された人間だからな。現に君だってのべつ僕の事を馬鹿よばわりするしさ。」「いったいどういうわけで、世界中のあらゆる存在の中で僕一人だけが、立派な人達すべてに呪われて長靴で蹴られさえするような運命にあるんだろう。」「たとえ相手が僕でもほんの少しだけ丁寧な口を利くほうがいいんじゃないかな。でないと、馬鹿野郎だの下男だのって、ちょいと言葉が過ぎるんじゃないか。」 イワン「馬鹿野郎。(イワンはたたきつけるように言った)」「あいつはひどく馬鹿だぜアリョーシャ、ひどく馬鹿だよ」アリョーシャ「誰が馬鹿なんです?誰の事を言っているの、兄さん?」「あいつはひどく馬鹿だよ。でもそれがあいつの強みなのさ。」etc・・・>馬鹿・中傷・悪魔の誇り高さなどのポイントについて意図的に何度も強調されている事がよくわかるとおもう。そして、あとの②と③は・・・ちょい長くなってもう無理だな~~。一応、②は宇宙的輪廻、永劫回帰、ヴラヴァツキーのオカルト宇宙論などと関係が強く、③はヘラクレイトスなどに始まる西洋の歴史的な汎神論、その真の本質に関わるとだけいっておくことにする・・・。さわりだけでも膨大すぎて要約しきれんかった。ごめんなさい。 | ||||
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もしグルーシェニカがフョードルと結婚すると、グルーシェニカは財産をすべて自分名義にしてしまうだろう、しかし、フョードルが死ねば兄弟みんなに金が入る・・・とスメルジャコフはイワンに吹き込む。 一方、修道院のゾシマ長老が死んだとき何の奇蹟も起こらず、その死体が腐臭を立てたことに、アレクセイはがっかりしている。修道院の同僚のラキーチンが失意のアレクセイをグルーシェニカのところに連れて行くと、グルーシェニカは喜び、アレクセイの膝に乗る。グルーシェニカは心からアレクセイを愛しているという。かつてグルーシェニカを捨てたポーランド将校が帰ってくるらしい。グルーシェニカはいっときはドミートリイを愛したけど、その将校のもとに行くとも伝えている。グルーシェニカは躁鬱的というか支離滅裂なところがある。アレクセイはゾシマ長老のかつてのアドバイスにしたがい修道院を出る。 ドミートリイは、グルーシェニカについて自分かフョードルかの二択しか考えておらず、ポーランド将校の存在は考慮外。グルーシェニカの訪れを待っているフョードルのところに乗り込む。ドミートリイはフョードルの顔を見たとき、憎しみに襲われ、銅の杵を取り出す。ドミートリイはフョードルを殺したのか・・・のかどうかはよくわからない描写になっている。ともかくドミートリイは逃げる。追いすがってきた老僕のグレゴーリイを殴って逃げ切る。 そのあと、ドミートリイはグルーシェニカのところへ行く。ポーランド将校もいる。ドミートリイはポーランド将校と大げんかになり、このときにグルーシェニカはポーランド将校を軽蔑するようになる。そして、グルーシェニカはやっぱりドミートリイを愛していることに気づく。すっかりよりを戻したとき、警察署長が乗り込んできて、フョードル殺人事件の容疑者としてドミートリイは逮捕される。死にかけたグレゴーリイが警察に訴えたらしい。 ドミートリイは、グレゴーリイを死ぬほど殴ったことは認めるが父殺しは断固否認する。グルーシェニカもドミートリイを必死にかばう(とはいえ、グルーシェニカはドミートリイが犯人だと思っている)。ドミートリイは寸前のところで父殺しを思いとどまりそのまま逃げたという。グルーシェニカがやってくると思っていたフョードルの部屋にはいるための合図を知っていたのはドミートリイのほかはスメルジャコフしかいない。 ドミートリイは、スメルジャコフにはそんな勇気はないと思っているが、フョードルの部屋から金がなくなっていることを聞き、やはりスメルジャコフが犯人なのではないかと疑う。ドミートリイは、グレゴーリイが倒れている間に、スメルジャコフがフョードルを殺したのではないかと推理する。 | ||||
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第1巻を文庫、2巻以降をKindleで買いました。非常に読みやすい訳で、外国文学にありがちな独特の「ぎこちなさ」がうまく解消され、長大なこの作品もすらすら読めます。 もし現代風のちゃらちゃらした感じ(例えばこの表紙とか)がいやで、重厚な訳をじっくり読んでいきたい、という人には旧訳の新潮社、岩波あたりをお勧めします。(僕は十年くらい前に原卓也訳でも読みましたが、半分くらいで挫折) しかしストーリーをテンポよく、かつ現代に住む私たちにもわかりやすい形で、この世紀の名作に触れてみたい、という人にはこちらが断然お勧めです。巷で言われているようにこの訳が「雰囲気、作品の本質を損なう」とは全く感じませんでした。 光文社古典新訳シリーズはKindleで入手可能なのも大変ありがたいです。今後「戦争と平和」と「アンナ・カレーニナ」が出版されれば言うことなしです。 私も多くの海外文学を読むので、翻訳には敏感なほうだと自覚しています。訳が合わないと、物語に入っていけないですし、そうなると読む意味もあまりないですよね。なのでこの新訳に対する一連の議論・騒動にはすごく興味がありました。 騒動の発端になった例の検証サイトも一通り読みましたが、正直「いいがかり」だろ、といった感じでした。僕は少しだけロシア語を読めるのですが、そんな僕でも発見できる「原文」のロシア語のスペル・ミスも多く、検証文としてはかなり稚拙な印象を受けました。こんなものがこれだけの議論を展開することができることに対し、正直ショックでした。 英語圏などではいわゆる読みやすい「新訳」はどんどん登場し、多少の批判はありつつも受け入れられています。翻訳にはどうしても時代によって賞味期限のようなものがあり、絶対は存在しないと思います。この訳も、数十年、または数年で「古くさい」「読みにくい」と言われる日が来るでしょう。 | ||||
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これ以上の文学書は無い。その後「戦争と平和」を読んだが人間の複雑な心理描写に関してはトルストイはドストエフスキー以下であり物足らない。 | ||||
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上巻を持っているので、続きで・・・と思い購入しました。登場人物が長い横文字ばかりのため、息抜きではなく、結構しっかりと読む体制で読みました。 内容的には・・・まぁ、好きです。が、読むのに時間がかかるのと、結構頭使います。・・・それは私だけ?笑 | ||||
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上巻・中巻を読み終えた段階での印象は<ロシア人の因縁的狂気>という感じでした。 女性がヒステリックになる、カラマーゾフだけではないその他の百姓・貴族連中にも同様の異常さ・狂気が存在する、脱俗に対する世間の羨望と蔑み。 かねてからロシア人とはどういった民族・思想を持つ人々なのか興味があり本作を手にとったが、現在のウクライナ危機などを理解するに十分な資料と判断。 日本人から見て、これは普通に考えてこうでしょ?という所をなぜか予想を超えた行動を取ることをしばしばニュースを見ていて不思議に思っていましたが、 ロシア人には<狂気>が備わっているのだと改めて実感しました。 ミーチャはフョードルを軽蔑し、フョードルもミーチャを軽蔑する。イワンも同じであるが、二人を客観視することでなんとか自己に内在する血としてのカラマーゾフ的狂気を抑制しようとしている。彼らと同化しないように哲学・理論を磨き上げ、徹底対抗する姿勢。 しかし部屋に現れた幻覚の悪魔(自分の中の抑制された意識が別人格として独立しようとしている)を自分の外に見ることによって、改めて自分がカラマーゾフであると認識し、絶対に認めたくないがために、徐々に精神崩壊していく。 こうした純粋な<カラマーゾフ的血統>を一切憎むこと無くアリョーシャは、こころの弱い・寂しい人はその反動から道化に走るものだと、深く理解している。 しかし自身も全くもってカラマーゾフであることも理解している。欲に翻弄された父・兄達はそれぞれうまく行かない結果に走っていったが、アリョーシャはそうはならかなった。単純に精神力の強さやゾシマ長老と過ごしたことだけが彼を救ったわけではなく、最大の恩恵は、アリョーシャ自身が<末っ子>だったことにあるように思える。(スメルジャコフは除く。なぜなら同じ血があるかどうかというよりも、彼は屋敷での単なる貧しい召使であり兄弟として生活していたわけではなかった為) アリョーシャは自己に狂気を感じることがあっても、一切その狂気・欲にブレーキをかけることが出来ない父・ミーチャを見て、またはその狂気を克服するために哲学・理論で武装したイワンを見ることによって、それらが一切無意味と感じることが出来た。戦うことよりも愛を持ってそれらを抱擁することのみが唯一の手段だと理解することが出来たのである。無くそう、無くそうと戦うことよりも逃げずに狂気そのものを真正面から見て、受け入れたことが彼を堕落させなかったことが救いだったのだと思う。そう、彼には生まれながらにして優秀な反面教師がいたのである。 しかし、フョードル・ミーチャ・イワン、彼らはただ苦しみ無意味な存在だったわけではない。あとに生まれてくる人間に、つまりアリョーシャに、<人間がもとある純粋さ故に、そのままで欲に従順になるとどうなるか>を体を張って証明した勇気ある殉教者と言える。 当時のロシア人の全てが酒、名誉欲、肉欲に溺れていたわけではなく、やはりそれぞれが自分の人生を崩壊させないようにほどほどのブレーキをかけて生活していたわけで、そういう人々から見てカラマーゾフの系譜・一連の事件というのは、自分たちが出来なかった、欲に純粋なロシア人の一生というものを自己犠牲を持って体現してくれた、<聖者>のような存在であったのである。それがなければ当時度々あったありふれた殺人事件としてではなく、<欲の体現者>としてロシア人全体に認識されたからこそ、全国規模で新聞や噂で<有名>になったのである。その証拠が、裁判に押しかけたペテルブルグやその他遠方からの貴族連中の熱狂さである。 下巻の最後辺りまで終始頭のなかにあるイメージとして、フョードル・ミーチャなどは雑な、汚らしい俗物でその対比として長老・アリョーシャがあると感じていた為、アリョーシャが登場するととても嬉しくなったのを覚えている。しかしエピローグを読み終えて、それらの認識は間違いで、汚らしい俗物も聖者も全て元は同じ人間で、<いい人>に出会ったかそうでなかったかの、それだけの差で歩く道が違ったということであった。 個として人間が自分自身の窮極の目標、<欲>を達成するためには必ず他人の犠牲が必要であり、全体として人間全体が目標を目指すなら、パンの為に生きる必要もなく、石をパンに変える奇跡も必要なく、死者を生き返らせる奇跡の聖者も必要ないのである。 なかなかボリュームのある内容で時折周りくどい言い回しが疲れましたが、その疲れすらも全て伏線として存在していたことがあっぱれでありました。 読んでいて、なんとなく、(ロシア人の無神論と日本人の無神論って違うようで似てるなぁ)と思ってしまいました。もちろん性質は全く異なりますが、神を、偶像崇拝を排除し、現実に人間の幸せを願うその気持が、深い部分でつながっているように思えました。 ロシア人が好きになりそうな作品でした。とても良い作品です。 | ||||
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人間の時間は「有限」です。特に年を重ねるごとに その思いは強まっていきます。 言い換えると、どんなに読書好き、あるいは音楽好き な人でも「この世のすべての作品を読みつくし、聴きつくす」 のは不可能です。 であるならば、何を読み、何を聴くか、その取捨選択は 非常に重要となります。我々には「ガラクタ」に関わっている 時間などありません。できる限り上質の作品に触れて 死んでいきたい、自分はそう思うのです。 この「カラマーゾフの兄弟」は、まさに読まずに死んだら死にきれないと 言える、おそらく小説というジャンルにおける世界最高峰の作品だ、 と自分は断言できます。 ちなみに自分はもう4、5回は読んでいますが、読めばよむほど 新しい発見があり、また考えさせられてしまいます。 あらすじやその思想的な側面は多くの方がレビューに 書いていらっしゃるので自分は敢えて差し控えますが、 とにかく時間がかかってもいいので一度読んでいただきたい のです。 だって、人生はあっという間に「黄昏ていく」のですから。 | ||||
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人間の時間は「有限」です。特に年を重ねるごとに その思いは強まっていきます。 言い換えると、どんなに読書好き、あるいは音楽好き な人でも「この世のすべての作品を読みつくし、聴きつくす」 のは不可能です。 であるならば、何を読み、何を聴くか、その取捨選択は 非常に重要となります。我々には「ガラクタ」に関わっている 時間などありません。できる限り上質の作品に触れて 死んでいきたい、自分はそう思うのです。 この「カラマーゾフの兄弟」は、まさに読まずに死んだら死にきれないと 言える、おそらく小説というジャンルにおける世界最高峰の作品だ、 と自分は断言できます。 ちなみに自分はもう4、5回は読んでいますが、読めばよむほど 新しい発見があり、また考えさせられてしまいます。 あらすじやその思想的な側面は多くの方がレビューに 書いていらっしゃるので自分は敢えて差し控えますが、 とにかく時間がかかってもいいので一度読んでいただきたい のです。 だって、人生はあっという間に「黄昏ていく」のですから。 | ||||
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人間の時間は「有限」です。特に年を重ねるごとに その思いは強まっていきます。 言い換えると、どんなに読書好き、あるいは音楽好き な人でも「この世のすべての作品を読みつくし、聴きつくす」 のは不可能です。 であるならば、何を読み、何を聴くか、その取捨選択は 非常に重要となります。我々には「ガラクタ」に関わっている 時間などありません。できる限り上質の作品に触れて 死んでいきたい、自分はそう思うのです。 この「カラマーゾフの兄弟」は、まさに読まずに死んだら死にきれないと 言える、おそらく小説というジャンルにおける世界最高峰の作品だ、 と自分は断言できます。 ちなみに自分はもう4、5回は読んでいますが、読めばよむほど 新しい発見があり、また考えさせられてしまいます。 あらすじやその思想的な側面は多くの方がレビューに 書いていらっしゃるので自分は敢えて差し控えますが、 とにかく時間がかかってもいいので一度読んでいただきたい のです。 だって、人生はあっという間に「黄昏ていく」のですから。 | ||||
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二巻で挫折しかけたけど、読み終えてある種の不思議な満足感でした。 フルマラソン完走した如く | ||||
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こう繋がるのか、と感心しました。 2巻頑張る価値ありありです。 | ||||
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先の話が読めないのが切ないです。 惜しまれるドストエフスキーです。 | ||||
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