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カラマ-ゾフの兄弟
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【この小説が収録されている参考書籍】
カラマ-ゾフの兄弟の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.26pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全80件 61~80 4/4ページ
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三十年ぶりに読みたくなり買いました。新訳ということなので、今までの訳とは違った味があるのではと思いました。しかし、5ページ以上は読めませんでした。翻訳の質以前の問題として日本語としておかしいと思いました。結局、焼却ごみに出して、昔よんだ訳本を購入しました。やはり、すばらしい作品ですね。 | ||||
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誤訳問題以前に、日本語としておかしい表現が多々あります。ドストエフスキーの重さというか雰囲気が伝わってこないのもつらい。 確かに読みやすいけど、これを読むよりは、「まんがで読破シリーズ」でも読んだほうがいいのではないでしょうか。920円です。 | ||||
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新潮社の文庫を買った方がいいです。そっちの方が全然いい。 上中下の中あたりで、もう無理だと思ったから、4冊買ってあったけど、 全部売って新潮社のを買いました。だって無理だもん。あんなの。 一時期、新聞にも出て話題になってたので買ってしまいましたが、 まあ感情が入ってこない。つまらない。面白くない。なのに高い。 翻訳者っていうのは、やっぱりその筋のプロだと思う。 これは、大学の教授?かなんかが、普段の業務もしながら? 翻訳をした。という感じだったと思うけど、やっぱダメです。 やっぱ、職業ってなんでも、どんなものでも、その筋のプロって いうのがいるし、あると思うんです。 教授は、教授の仕事をしとけばいいんです。 それだって大変なはずなのに。 間違ってたらごめんなさい。けどそんな感じだったような? 文章に躍動感がなくて、全然面白くありませんでした。 だから読み進められなかったですね。 心にスッと入ってこない文章でした。 いちいちこっちが状況を考えなきゃいけない文章というか。正直もう無理って思いました。 新潮文庫の方は、三冊読み進めらるけど、こっちは無理でしょう?!ちょっと。 正直、読んでる人が信じられないです、、、。すごいパワーがいるというか、疲れる作業に なってしまうと思うんですけど、、、。どうなんでしょう? 普段レビューはしませんが、これはちょっと物申したいと思いまして、投稿させて頂きました。 | ||||
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新訳というので期待して読んだが、あまりにも昔読んだものと印象と異なるので、新潮、岩波文庫のものを再確認してみた。 やはり多くの違いが見られた。訳者は本当に作品の主題を理解しているのだろうかと思ってしまった。 一応現在まで多くの人に読み継がれているものに変更を加えるならそれなりの理由を明らかにすることが 訳者、出版社の責任ではないだろうか。 本書だけを読んで「カラマーゾフ」を読んだと言って、人と話をすると話がかみ合わないかもしれない。 他の訳にも当たられることをお勧めする。 | ||||
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納得いかない誤訳と日本語の使い方。 この先生、もう一度日本語勉強しなおしたほうがよいんじゃないでしょうか。 | ||||
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東大教授たちが新入生に進める本の上位常連というので期待したが、単純に面白くなかった。ひたすら冗長で、残ったのは読みきったという達成感だけであった。 物語としても別段珍しいわけでもなく、人間内面の機微の描き方としても別に驚きはない。また、訳者の妙に高いテンションには辟易させられた。 その時代にそれが描かれた事の意義を楽しむ、と言う意味での古典として読むべき本であるのかもしれない。古典として楽しむのであればよいが、新たな知見を得るための読書には向かない。 | ||||
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ある翻訳者は、そのあとがき(本書では解説となっています)でこのように書いています。 「この邦訳は、原本を底本として、きわめて忠実に、できるだけ(作者)の文体、格調を生かしながら訳すことに努めたつもりである。」 ・原本名、作者名は省略しました。 翻訳とは、本来このようにあるべきではないでしょうか。 | ||||
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まず通常の人間ならば新潮のほうを買ってるはずです。 こんな翻訳のを買ってる人間は流行りに流されて本を選ぶ しかも本が本だけにタチの悪いスノッブです。 この本は聖書をよく読み耽り社会とは?国家とは?キリストとは?幸せとは?人生とは?人間とは?神とは? そういうことを日常から追求している人じゃないと絶対に理解できない 今の日本の漫画ばかりみたり文字を追うことを読書だと勘違いしてるこの本を購入した皆さんは 典型的なエセ読書家ですね | ||||
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読み終わる頃になって、ようやく気がついた。この作品も、あるいは「罪と罰」も、文学における「ニーベルングの指環」のような存在なのだ。あるテーマ(ひとつとは限らないが)を極限まで引き伸ばす。結果恐ろしい長さで人を圧倒する。ところどころにハッとするようなことも書かれてはあるものの、それが全体の中に埋没していきやがて忘れられていく。作者は、現代人のような忙しい日々を送っている人に読んでもらうために本書を著したのではあるまい。このような長編が書かれ、また読まれる時代は疾うに過ぎた、と私は思う。 | ||||
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恐らく本作のレビューは殆どが高評価であろう。なぜならこの『カラマーゾフ』を4巻まで読むのは余程ハマッタ人達だからだ。 私は本来なら2巻あたりで挫折していた読者だが、義侠心と半ば意地で4巻まで何とか通読し、このレビューを書いている。 よく『カラマーゾフ』は前半退屈、後半ワクワクとゆう評価がされるが、それはハマッテ通読出来た人達の評価。その裏には何倍もの途中挫折組が居ると考えられる。私も本来ならその挫折組みの一人である筈だが、今回このレビューに書きたいがために、頑張ってこの4巻まで何とか読み終わった。以下断言できる事。 1)本『カラマーゾフ』はハッキリ言って、ダラダラ長いだけの失敗作です。よっぽどドストエフスキーにハマッったマニア以外は読む時間が無駄でしょう。一気に全巻購入は止めて、第1巻(の)冒頭)だけ読んで、通読するかどうか判断して下さい。後半にもそれを凌ぐ場面はありません。 2)これは訳者の力量ではありません。原作が失敗作なのです。岩波文庫でも私は第1巻で挫折しました。 第5巻も意地で読みます。 | ||||
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出版社は、画期的な新訳と宣伝しますが、翻訳臭のする文体で書かれたふつうの訳文です。昔出版された本をお持ちの方は、わざわざこの本を買ってまで読む必要はないでしょう。「昔、途中で挫折したが、今回は読めた!」という方は、年齢を重ねてこの小説の面白さがわかるようになったということであり、この本のおかげではないでしょう。 | ||||
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週刊新潮5月22日号で取り上げられているとおり、この訳書にはおびただしい誤訳がある。指摘した「ドストエーフスキイの会」のHPによると、誤訳・不適切訳は、検証された第1巻だけで100以上。全巻では数百箇所に上るという。しかも、その多くが初歩的誤りであり、仕事の杜撰さは否みようがない。実際、誤訳のほとんどは先行訳では正しく訳されているのである。 それだけではない。その後の対応に不信が募る。1月末以降、訳者・出版社は、指摘をなぞり、脱落も含めて第1巻の40数箇所を第20刷と22刷で訂正している。ところが、このことは明記も公表もされていない。しかも、上記週刊新潮で誤訳訂正について質された訳者は、「ケアレスミスが10箇所程度。その他は解釈の違い」と弁明しているのである。残念ながら、これは事実に反する。現に40箇所余りを訂正しているのがその証拠であり、また、その大半は上述のように「解釈」以前のレベルの誤訳だからである。 問題は更にある。訳者は、先の弁明の如く大量誤訳の事実を認めていない。従って、第1巻の残り、そして、巻を追って増すという第2巻以降の膨大な誤訳はいまだ手つかずのまま増刷され続けているのである。 苦しいことではあろうが、訳者・出版社は、誤訳の実態を率直に認め、もう一度原文に立ち返って全巻を徹底的にチェックし直すべきである。そして、できるだけ早く改訂版を出してほしい。それが、読者、また、作品に心血を注いだ原作者に対して果たすべき道義的責務ではないか。なお、誤訳の大半は文脈の誤読に由来するものだが、中には、恣意的誤訳も散見する。これらも是非正して頂きたい。 ドストエフスキーの魅力を広く世に伝えた訳者の功績は大であり、読みやすさを目指した新訳の意図に異論はない。問題は、翻訳の基礎がおろそかだったことである。これでは、作品の読みを深めることは出来ない。新訳が信頼できる翻訳に生まれ変わることを願いたい。 (削除につき、再投稿しました。事態は今も基本的に変わっていません。2011/6/30) | ||||
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すぐれた訳者が必ずしもすぐれた解説者であるとは限らない。本書解題におけるバフチンのポリフォニーへの言及は全くの出鱈目。 本書では「登場人物の多様性による視点の相対化」というくらいの意味ですがポリフォニーとはそのような意味ではありません。 亀山の知ったか振りは、本当にバフチンを読んでいるのかさえ怪しい程で、ただお茶を濁すだけで殆ど何も説明していない。 そればかりかバフチンがポリフォニーの「非常に際立った対話」として詳しく考察している箇所(『詩学』p534-539)を事もあろうに 「ポリフォニーの原理にさからうセリフ」(『本書』p281)等と頓珍漢なことを(しかもなぜか自慢げに)書くトホホな始末。 何も知らないと思って読者を馬鹿にしているとしか思えない。 参考 「イワンの言葉と悪魔の応答とを差異づけているのは、内容ではなく、ただその調子、ただそのアクセントだけである。 しかしそうしたアクセントの移行は、イワンの言葉と悪魔の応答の最終的な意味の全体を変化させている」(『詩学』p454-455) 「悪魔はイワンの内的対話の中に、愚弄嘲笑と絶望的な断罪のアクセントを持ち込む」。悪魔は「イワンのアクセントを悪意的に誇張し、 歪めてしまう」。「アリョーシャもまたイワンの内的対話の中に他者のアクセントを持ち込むが、しかしその方向性は正反対」の「愛と和解 の調子を持ち込む」。悪魔とアリョーシャは「双方とも同じようにイワンの言葉を反復しながらも、その言葉にまったく正反対のアクセント を付与」する。「対話において衝突し、論争しているのは」絡み合った「闘争する声たち、内部で分裂した声たちのポリフォニー」である。 (同p537-538、p522から再構成) キーワード アクセントの移動(変化)/言葉の対話的分裂/意識の対話的分裂/言葉の他者性/私的言語の否定 多声=対話=複声/対話と対話の対話/対話の未完結性=永遠性 『ドストエフスキーの詩学』ミハイル・バフチン(ちくま学芸文庫)特に「ドストエフスキーの対話」p527-562参照。 | ||||
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エピローグは60ページ程度しかありません。 あとは延々訳者の解説。 正直ひとりよがりの自己満足が延々続く感じです。 自分にとってはこの解説は不要でした。 エピローグだけの薄い本でいいので値段下げて欲しかったです。 はっきり言ってお金を損した気分になりました。 | ||||
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近代文学の古典の翻訳で、これほど酷い翻訳ははじめて。こういうトンデモ翻訳を褒めるロシア文学者、毎日出版文化賞の選考委員に憤りを感じます。 小生の感想がウソかホントか、まず、この巻を精読してみて下さい。それから、続巻を購入すべきか否か、判断すべきだと思います。 この訳が分かりやすい、というのは、理解できません。意味があいまいなところが少なくありません。言葉の流れが不自然なところがあります。一番気持ちの悪いのは、会話のトーンが、登場人物の年齢・性別・職業・階級・教養と齟齬しているところです。 分かりやすい、とっつきやすい、翻訳を希望することは理解できます。しかし、小林秀雄、埴谷雄高、ジッド、ジラールなどが本気で論じている小説がそんなに簡単なものでしょうか。 | ||||
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高校時代の同級生が昔、「『カラマーゾフ』なんか、最後の方は早く続きが読みたくて仕方なくなった」と言ってたし、ある女流作家(金城ひとみだったかな?)も、「1〜2巻は数ヶ月、3巻以降は数日で読めた」みたいなことを書いていたもんだから、1〜2巻で相当退屈したにも関わらず、半ば意地で、でも少し期待しながら、3巻も数ヶ月かけ、とぎれとぎれでやっと読了した。 正直な感想=愛読者の皆さん、『カラマーゾフ』ってどこがそんなにいいの? ミーチャの大時代的で、芝居じみた長ったらしい台詞なんてシラケッパナシ。単に女と酒に溺れやすい激情型人間にしか見えない。父親殺しというモチーフも現代の日本では極々日常的に報道されているし、別に新鮮味もないしなあ。3巻ではアリョーシャやイワンは全く登場せず、ミーチャの一人舞台だが、私にとってはあまり興味深いキャラではない。カラマーゾフも『罪と罰』位の長さ(文庫2巻)で、丁度良い話ではなかろうか。どう考えても、物語としてはダラダラし過ぎた失敗作だと思う。 4〜5巻どうしようかなあ。こうなりゃ、意地でも読むしかないか。 | ||||
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この新訳ではじめて読んだのだが(ドストエフスキーは『悪霊』『未成年』を既読)どうにも物足りなく、図書館で江川卓の訳を借りてきて比較してみて驚いた。 江川訳のほうがはるかに文意が伝わりやすい。亀山訳は一文ごとに細切れになっていて、文章の接続がわかりにくい。「本よみうり堂」の記事によれば、 「ドストエフスキーの原文は逆接の接続詞や関係代名詞が多く難解だが、亀山訳はすいすいと頭に入る日本語に置き換え」たとのこと。 つまり文章の接続をいじってしまった(カットした?)わけで、つながりが分かりにくくなるのは当然である。これでは「すいすいと頭に入る」というより 文が頭の中を上滑りしていくだけだ。ストーリーを把握するだけならこれでもいいのだろうが、ドストエフスキーのおもしろさがストーリーだけにあるはずもない。 | ||||
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1巻→2巻は、発刊まで2ヶ月待ち。 2巻→3巻は、発刊まで3ヶ月待ち。 3巻から4巻(完結)は? すでに3ヶ月以上も経つのにまだ発刊されていない。 予定もわからないし、本当に4巻は出るの? 続きものはやっぱり全部そろっているものを買うべきだった・・・ しかもごく最近、 訳者は違うけれど『地下室の手記』(ドストエフスキー) が発刊されているし・・・ 光文社のHPを見ると6月の刊行予定にも入っていないし。 光文社さん、どーなってるのですか? 4巻出ないんですか? | ||||
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ゾシマ長老の長い遺文を書いた後、俗世界に入ったアリョーシャ。二枚目の青年である、元僧侶の彼は、女性への恋愛に浸っていくというタブーを犯す。中編の見所だろう。ここから、小説の中で生き生きと行動する。 ミーチャのアリョーシャへの接吻は、兄弟愛によるものだろう。純粋な青年である彼は、父殺しの嫌疑にかけられた兄を信用するのだった。父親を殴るドミートリイの気性の荒さ、三千ルーブルを女性から非公式に借りる(パトロン)という父譲りの奔放さ。これは、イワンも含めて三人がまるでひとつの息子であるようだ(ドストエフスキーはアリョーシャを主人公にしたいようだ)。 「白痴」に共通する彼の性格は純粋さを強調している。物欲にまみれた精神状態ではあのような綺麗なゾシマ長老の遺文は書けないだろう。 ミーチャは獄中で弟の人生観に惹かれた。禁欲は、人間にとって必要なものなのだろうか。 | ||||
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この本の購入を検討なさっているのであれば、きちんとした読書をなさっている方だと思います。ドストエフスキーは偉大だったのでしょう。ええ、そうにちがいありません。しかし、それは決して、彼の"作品"が現代において(あるいは100年先の未来において)偉大であるということを意味しません。したがって、もし、あなたにとって読みたい「名作」が他にもあるのであれば、この本を読むのはまだきっと時間の無駄だろうと思います。この小説に展開されているテーマを、あえてこの冗長な小説の中に見出すことはありません。もし、あなたがあえてロシア文学を読みたいのであれば、カラマーゾフを読まないわけにはいきません。もちろん。わたしとしてはそれでも「王様は裸だ!」と叫びたい気分です。 | ||||
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