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カラマ-ゾフの兄弟
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【この小説が収録されている参考書籍】
カラマ-ゾフの兄弟の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.26pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全80件 41~60 3/4ページ
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半分くらいまで耐えたが、全然楽しくない。全く理解できない。さようなら。 | ||||
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普通の読解力をお持ちの方なら、読んでいて何か違和感のようなものを覚えるだろう。なぜなら、亀山氏は作品を訳すことを目的にしたのではなく、訳すことで得られる様々なステータスを目的に置いたからだ。表面的なストーリーのみを辿りたいのなら映像作品があるのでそちらをオススメする。 | ||||
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知人に勧められ、世上の評判も良いので亀山訳を予め3巻購入し読書を開始。まずは句読点の振り位置に一貫性がなく読みずらさに閉口。我慢しながら読書を継続。しかしながら修道院での神学論争箇所で何度読み返しても理解できず(誤訳?)、読書中止。本屋に行き他の訳本(新潮文庫・原卓也訳)の同一箇所を立読み再読したところ、すんなりと理解。その後は原訳で全巻読了。亀山訳は前記箇所以降放棄未読。当然のことだが翻訳本は訳が命。自身での確認が何よりも大切と思い知らされた。 ついでに述べたいが、亀山氏はショスターコーヴィッチの5番、ビゼーのカルメンに影響されていると発言している。個人で何をを思っても勝手だが、公には言わないほうが賢明である。 | ||||
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Kindle Paper Whiteで読みましたが,訳者解説の中の図は全く読めないぐらい小さい. 拡大しても対して大きさが変わらない. その判別できない図表を本文中では「図を見てもらえばわかるが」みたいなことを言い出す. こういうところを改善してもらえないと,電子版を購入する意味がなくなる. | ||||
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1巻を最後まで読み、まるでライトノベルを読んでいるような感覚に、これがあのロシアの文豪ドストエフスキーの最高傑作か?という疑問を感じ、新潮文庫で読み直した。普段本を読まない人にもわかりやすくというのはわかるが、訳者の解釈を勝手に付け加えるのは行きすぎ。その上、その解釈が正しいのか疑問がある。 巻毎の頁数がバラバラ(部ごとに区切る意味は?)で揃えて並べた時に不格好。その上、最終巻はほとんどが訳者の解説。訳者がこの小説の解釈について高説を振るための本。 | ||||
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ラノベ感覚で読む小説じゃありません。簡単じゃなきゃ読めないってなら漫画版もありますよ。 | ||||
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現代という時代は、マスコミや出版業界の商業主義一直線の姿勢や、似非翻訳者、似非研究家のエゴによる知名度や名誉欲しさに、偉大な作品が捏造され、その価値が貶められている。 亀山郁夫氏のやっていることは、偉大なドストエフスキーを飯の種にしているだけであって、ドストエフスキー文学の理解も解釈もまったく乏しい、むしろ冒涜している、作品の価値を貶めているとしか思えない点が多く存在する。 ネットで公開されているが、なぜこれほど多くのドストエフスキー識者から大々的な痛烈な批判を浴びているのかと言えば、単に誤訳問題だけにとどまらず、最低限必要な翻訳者としての日本語としての文章力、又一番重要なのが、亀山氏の突拍子もない愚劣な作品への解釈であると思う。 亀山氏の翻訳した作品には、氏の自説を押しつけるような長々とした解題がよく書かれているが、このような作品の価値を著しく損なうようなとんでもない解釈、作品への理解にまったく乏しいと思わざるを得ない翻訳者が、良識なドストエフスキー識者達(ドストエフスキー文学の理解を深めるために、無私、無益で活動されているような方々)を納得させうるような翻訳ができるとは到底思われない。 このレビューが参考になるか、ならないかは、私は問題にはしていない。又、誹謗中傷目的でこのレビューを書いているつもりもない。 現代で海外文学を読むにあたって、読者自身が本当に信頼できる翻訳者を選ばなければいけない時代に来ていると感じる。 良識のある読者は、マスコミや出版社の金儲けにいたずらに惑わされてはならない。このような商業主義に乗じた、知名度や名誉、権威欲しさの翻訳者による愚劣な駄本を読まされて、読者は虚偽の満足感をただただ押しつけられることになるだけだ。 亀山氏の翻訳したドストエフスキー作品はドストエフスキー作品ではない。 亀山氏一人のみが「世界の最先端」と称している自説を読者に押し売りするために、原典をねじ曲げた翻訳をした単なる読み物小説に等しい。 心底からドストエフスキー作品を愛し、作品の理解を深めたいと思っているのであれば、このような誤訳だらけの、とんでもない解釈を押しつける翻訳者の書いたものなど、目に触れることすら極力避けるべきだ。 私は亀山氏こそ、この言葉をよく理解し、固く心に留めておくべきだと声を大にして言いたい。 『よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。』 亀山郁夫氏の訳業を正当に批判しているサイトを下記にあげておく。 誤訳問題にとどまらず、亀山氏の所業がどれほど愚劣で酷いものか、是非とも眼を通してほしいと切に願う。 <ドストエーフスキイの会> <国際ドストエフスキー学会副会長 木下豊房氏のホームページ> <連絡船 木下和郎氏のホームページ> <こころなきみにも 萩原俊治氏のホームページ> <光文社古典新訳文庫についてのフォーラム> | ||||
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亀山訳「カラマーゾフの兄弟」を読んだ時、何か違和感を覚えた。ややしばらく時を置いて最近、亀山訳「罪と罰」を読んだ。いずれも新訳と呼ばれているが、言われるほどの新しさも明快さもなく、これらの訳を積極的に選択すべき理由はないように思う。しかもずいぶんきつい色眼鏡を通して作品を読んでいる気分になる。その理由を「罪と罰3」の訳者あとがきを読んで理解した。彼のドストエフスキー観は私にはあまりに独自すぎるのかもしれない。しかも、彼はある講演会で「『カラマーゾフの兄弟』の時代は過ぎ、『罪と罰』の時代が来た」と宣言した、のだとか。・・・申し訳ないが意味がわからない。 | ||||
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・・・ではない。 本書は、カラマーゾフの兄弟ではない。 ドストエフスキーの名著を騙った悪書である。 訳者には、本書から有名な台詞を贈りましょう。 (読まれるべきは)『あなたじゃない!』 | ||||
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第5巻は、短いエピローグであとは亀山による伝記と解説で、無理にもう1巻増やしただけの感じで不快。 読了してよくもこんな長々しいのを読み終えたというある程度の満足感があるのみ。亀山の現代風の読みやすい訳文でも疲れるのに、かつての訳文を読み通した人間が信じられない。多分、世界の名作という肩書につられて読んだだけで、感動するところは無かった。ただ、帝政時代のロシアとギリシャ正教への興味が湧いただけ。 かつて大作としては、「ジャンクリストフ」、「夜明け前」、「モンテ・クリスト伯」などを読了したのだが、年のせいで今度はやっとというところ。内容については、とてもコメントできず。 | ||||
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なんでこんなに訳文が下手なのかとおもい、図書館で翻訳者の著書をざっと読んだ エッセイだったが、なるほど、物書きの資質が欠如している、これじゃ原文がよくても無理だ 描写力、情景を喚起する力がない、ものの見方が平凡、人物を描けない、自分本位、動きが出ていない、ダメさ加減をあげればきりがない、つまりはタテをタテ、ヨコをヨコにしか描けない、タテとヨコを混ぜたらどうなる?、三次元であるはずなのに軸の一本が隠れたような絵になり、それでは平面にしか映らない、静物を静物としてしっかり枠におさめる力、研究だけにそれはあるのかもわからない だが小説の翻訳というのは重いカメラを担いで動き回る人物の人間性の底までを巧みに撮りきるだけの機動力と直感の鋭さが必要のはず、研究者の資質とは別のものになる もっとも原文がもともと悪く、翻訳者がそのとばっちりを受けたというだけなのかもしれない、なぜなら、最終巻でドスの記述方法が「口述筆記」と明記されているから それが本当なら、この「カラマゾフ」という作品は自分に言わせれば完成以前の習作の段階でしかない、この程度の作品を地球規模で崇め奉ることの根拠は、単に長いものに巻かれたい、一般大衆の付和雷同精神のタマモノということ 絞っていえば長男が父親のところに金を盗みにやって来て、塀を上って屋敷に近づき、さあ、と凶器を持ち出したところで「…」 肝心の場面を一行飛ばしてある、筆の技術であいまいにしたのなら納得してもいい、だが、一行飛ばしで重要なシーンに目隠しをする作法など聞いたことがない、めくらましを図ったのはドスが初めてだろうし、最後でもあるだろう 映画で殺人の場面が近づいて次のシーンを黒く塗りつぶし、その後の逃げる展開を写し出したら観客は怒るだろう、だが人類の最高傑作でドスは見事にやってのけ誰からも不満を表明されたりしない ぼくがこのシーンに不満なもうひとつの理由は、このとき長男は銅の杵を使って爺さんをぶちのめしたことは確かなのに、その後この殺人未遂事件に二度と触れなかったこと、血筋でなければ死んだっていいということなのか、読者のなかからそれに対する不満が聞かれないのも不思議だ(あるいはまったく不思議でない) ドスというのは芸術の世界の祭り上げられた傀儡政権の首領に過ぎないんじゃないか、なんであれ、作家は作品のストーリーを最後まで編み上げるのが最低限の責務、その上でどうなのかと作品の真価を問われることになる 人物造形はところどころ優れている、特にゾシマはいいと思う、ところが(全員に当てはまるが)会話が多すぎ、多すぎる会話がさらに鼠算のように増え、大掛かりに作ったロケの場面が単なる舞台美術に矮小化されてしまう、これを繰り返す 次男の大審問とかいう長台詞には笑えた、いくら何でも長すぎる、次男の造形は最初気に入っていた、なぜなら内省的で得体の知れない人物として描かれていたから、この場面でそれも壊れてしまった、大審問の内容はともかく無口なはずがこんなに喋くるはずがない、舞台の袖でノートを抱えたドスが台詞を棒読みしていた、ということだろう? 有名な評論家(小林秀雄だったか、その対談の相手だったか)によれば三男は「キリスト」だという、ぼくに言わせれば世間知らずの餓鬼、単なるニートが行き場がなくなって寺に入ったという程度、悪さをした子供の家に行って隣の部屋に瀕死の病人がいるのに、科学がどうした、芸術がこうした、ときいたふうなことをまくし立てるののに呆れた、病人がいるなら静かにしてあげればいい、そんな常識もない、それがキリストだというのか、もっとも、ここで三男は操り人形と化しているだけで、またしても創作ノートを引っさげてしゃしゃりでてきたドスのことを、本当は鬱陶しく思っている ヴィトケンシュタインが50回読んで完璧だとほめたという、これもよく聞く逸話だ、彼は芸術家ではない、哲学者(論理学)だ、彼はこの作品が好きだった、というだけのこと、それをなぜ人類史全般のレベルにまで大掛かりに普遍化するための道具に使わなければいけないのか、彼はIQが飛びぬけて高い、だがそれと芸術の価値を見抜く力は必ずしも相関していない、特権階級が思い巡らす血筋と私有財産を保持しようという魂胆、その策略にまんまと引っかかり、のせられた(自分は頭が悪いという)劣等感を死ぬほど抱えた一般庶民による共犯行為が、ひとつの歴史的事件に発展するケースが稀にある、そのひとつが「カラマゾフ」だ | ||||
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前評判が高く、購入してみたが、失敗。普段の生活でおろかな人間ばかり見ていると今更と思う。 | ||||
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前評判が凄かったが、何が面白いのか全くわからない。 一般人向けではないと思った。 人間のおろかさなど、毎日みているので今更だったのかも。 | ||||
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人間の愚かさなど、毎日嫌と言うほど見ている。ので、本から得られるものはなかった。 あえて読まなくてもよかった。 | ||||
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評判が高かったので購入したが、つまらなかった。 世の中はろくでもないことだらけ。今更本で読むこともなかった。 | ||||
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実は高野 史緒作「カラマーゾフの妹」を先に読んでから、それに触発される形で本書を読破した次第です。 これは、文学を愛する正統派の愛好家からするとかなり邪道な読者なのかもしれません。 それはともかくとして、本作が書かれた時代背景や思想的な意義というものを取っ払って、現代の日本に生きる人間が純粋に「物語」としてこれを読んで、果たして面白いと感じるものでしょうか? 以前、「罪と罰」を息も絶え絶えに(苦笑)読み終えたときと全く同じ感慨を、本書に関しても覚えました。 それは、「とにかく、感情移入が全くできない!」ということに尽きます。主人公格の登場人物の誰一人として、その感情の流れに寄り添えるキャラクターがないのです。現代の日本人から見ると、登場人物たちはいずれもエキセントリックで、病的なほど感情の起伏が激しい者ばかりです。この特異性は、100年という時間の懸隔のなせる業なのか、はたまた民族的な相違なのか、全く違う世界の住人を垣間見ている感じで、一片の親愛の情すら抱くことができませんでした。 長大な本書を曲がりなりにも読破するために、自分はある「脳内変換」を試みました。小説世界をリアリティを持って脳内に展開するのでなく、本作の登場人物を全て舞台劇の配役としてステージのスポットライトの下に配置したのです。こうすることによって、ようやく彼らの大げさなセリフや身振りが、演出家によるわざとらしい演出として腑に落ちた感じで読み進めることが可能となりました。 自分には、小説世界の住人達が作者の意図を表現するために、割り当てられた役を舞台上で声高に叫びオーバーアクションに演じている道化芝居を見せつけられているように思われてなりません。 文学を解さない凡夫の謗りを覚悟して問いますが、「これ、本当に面白いですか?」。 | ||||
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『罪と罰』の新訳の方でも書いたが、やはり問題は訳に「心」がまったく感じられないことだろう。 訳者は本当にドストエフスキーが好きなのだろうか。そんなことさえ勘繰ってしまう。訳者の経歴にはまるで興味が無いのでどうでもいいが、私にはロシア語が堪能なだけの訳者にしか思えない。 酒を酌み交わしながら互いに作品の良さを語り合いながら読んだのが旧訳ならば、新訳では不慣れな高級レストランに連れて来られて大して美味しくもない高価なワインを無理に美味しいと言わなければならない雰囲気を作られているような気になる。 | ||||
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新潮社の『ドスエフスキー全集』を持っているので、原卓也訳で読んでいたのだが、寝るとき、寝室を暗くして、Kindle Whitepaperで、「続き」が読みたかったので、本書を購入してみた。訳語の細かな部分には拘らず、だいたいの物語を追えればいいと思っていたが、どうも、本書の訳で読むと、ドストエフスキーの深みがなく、違ったものを読んでいるような気持ちになった。大筋は、たぶん、原訳を参考にしていると思われる。しかし、日本語に疑問を持つような表現が多く、一部マスコミでは評判になったように記憶しているが、はっきりいって、私にはどこがいいかわからない。やはり、ちゃんとした本で読みたいと思う。 ***** レビューを投稿してから、ほかのレビュアーの方の記事を読み、やはり、訳に疑問を感じている方々がおおぜいいたのに納得した。「1」だけしか買ってなかったのは正解でした(笑)。 | ||||
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他のロシア文学者や読者から誤訳・悪訳や解題のでたらめさが多数指摘されており、週刊新潮の記事にもなった。 検証された100カ所以上の指摘を受けて訳者と出版社は第一巻の40カ所程を20・22刷で訂正したが、その事実はどこにも記載も公表もされていない。週刊新潮上で訳者は「ケアレスミスが10カ所程度で、あとは解釈の違い」と誤訳を否定。現在まで増刷が続けられている。 「ドストエフスキーの会」による検証が詳しいが、それを見ると誤訳云々以前に訳者が作品の内容を正しく理解しているのかすら怪しい。 私はロシア語が全くわからない。しかし読んでいて、ただ対応する単語を訳して当て嵌めただけの様な、日本語として非常に不自然で読みにくい個所が多々あるし、ドストエフスキーの醍醐味である動的な、ドラマチックな文章と文体が損ねられていることはわかる。 亀山訳を買って読んだ方は、ぜひ原訳や米川訳も読んでみてください。別の物語を読んでいるかのように違いが分かると思います。 | ||||
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古今の著名人や東大の先生が絶賛しているという本作。いま読み終えましたが、正直苦痛で苦痛で何度も投げ出したくなりました。 改行のない、いちいち考えないと意味が分らない長い文章。私のなかの基準では悪文の典型。 物語の進行上、どうでもいいような冗長な会話が延々と続き、過剰な表現の羅列に、もううんざりしました。 いろんな題材がごちゃまぜになっていますが、主たるテーマであるキリスト教や教会の意義などは、19世紀のロシアにおいては重要だったのかもしれませんが、普通の日本人が共感できるテーマではありません。 有名な大審問官にしても、ピュアな信仰や教義は大衆向きではないという主張で、まあ、日本人的には大乗仏教からみた小乗仏教批判みたいなものかと。 それはそれで面白いとも言えますが、そんなに絶賛するようなことか? 歴史的にも大変評価が高い本作なので、これが出版された社会や時代においては素晴らしい内容だったのかもしれませんが、現代の日本人が読んで面白いかどうかは話が別です。キリスト教やロシア文学の専門家向けかと。 魂が震えたとか、涙が止まらないとか、まじすか。おそらくは本書の価値は別なところ(学術的にとか)にあるのでしょう。 自己研鑽のためでなく、単に読書を趣味として楽しみたい人にはお勧めできませんね。 | ||||
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