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わたしを離さないで
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わたしを離さないでの評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.10pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全544件 101~120 6/28ページ
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《わたしはなぜか何のためらいもなくルースたちに近づきました。[…]その瞬間、わたしには、これから何が起こるかがわかりました。うっかり水溜りに足を踏み入れてしまう瞬間──足元に水溜りがあることがわかっていても、もう止められないというあの瞬間──のようなものです。》(1) 1 一人称の語り手がもたらす空白 ずいぶん前だけれども、2017年にノーベル文学賞を受賞したカズオ・イシグロの代表作『わたしを離さないで』(2005年)を再読した(2)。たんに感動した初読時とはちがって、思ったことがあった。それは、一人称小説ならではの問題である。 本稿は、一人称の語り手がもたらす問題についてほんのすこしだけ考えてみることにより、ほとんどの読者が気づいていないに違いない──気づけないように仕組まれている──物語的空白を浮かびあがらせ、その空白の解釈を試みるものである。やや突飛な論理展開が待っていることを、あらかじめ申しあげておく。 2 一人称の語り手のちょっとした問題 一人称の語り手を採用することで生じる問題がある。一人称の語り手は基本的に、他人の過去を語れないというのがそれである。いや、これは過言の誤りであるから、こう換言しなければならない。全知視点の三人称の語り手ならまだしも、一人称の語り手が他人の過去を「滔々と」語るわけにはいかない、と。 したがって、周辺の人物描写がどうしても平面的になりがちなのである。それはもちろん、作家の技量が大いに関係しているのだけれども。ここでは、だから、その具体的な作品名をあげるのはよしておこう。 2.1 『わたしを離さないで』の場合 ところが、『わたしを離さないで』に関しては事情が変わってくる。というのも、その問題点を見事なまでにクリアしているからだ(3)。 キャシー・Hという女性が『わたしを離さないで』の主人公であり語り手である。つまり、『わたしを離さないで』はキャシーの語りによる一人称小説である。 それにもかかわらず、イシグロは子供時代を学校という閉鎖的で統制された──それも寄宿学校だから寝食も共にしていることになる──空間に設定することにより、キャシーが他人の過去を語るという違和感を徹底的に解消できている。それが立体的で豊かな人物造形を可能にしたのだろう。 3 キャシーの語りがもたらす空白 しかしながら、僕がつねに持っている一人称の語り手への根本的な疑問は、それだからといって解消されはしない。それは、彼/彼女は何のために/誰に対して語っているのだろうかという疑問だ。 3.1 話している? 書いている? 先に僕は、「キャシーが他人の過去を語る」(第2節1)と書いた。ところが、それは正しくない。正確に言えば、僕たちは『わたしを離さないで』というキャシーが「書いた」手記あるいは日記を読んでいるのだから。 たしかにキャシーは、「お話しましょう」とか「お話すると」という言葉を用いながら語っている。しかしたとえば、メールで「その件について『お伝えします』と……」とか「取り急ぎ『ご報告』まで」などと「書く」ときがある。だから、「お話すると」などもそれに類する言葉として考えることができる。したがって、『わたしを離さないで』という小説テクストを、キャシーが「書いた」手記や日記の類と見做して問題はないだろう。 3.1.1 「私」が語る目的 このことについて、夏目漱石『こころ』(1914年)を例にとって、もうすこし考えてみよう。 『こころ』は一人称小説である。そして『こころ』の場合、その語り手「私(わたくし)」が語る目的と相手とが冒頭第一段落にはっきりと明示されている。具体的に見てみよう。 「私はその人を常に先生と呼んでいた。だから此処でもただ先生と書くだけで本名は打ち明けない。これは世間を憚かる遠慮というよりも、その方が私にとって自然だからである。私はその人の記憶を呼び起すごとに、すぐ「先生」と云いたくなる。筆を執っても心持は同じ事である。余所々々しい頭文字などはとても使う気にならない。」(4) 語り手の「私」はどうやら、語っているのではなくて書いているらしい(「書くだけで」、「筆を執っても」とあるのだから)。そして、書き終わったら「先生の遺書」と共に世間に公表するらしい(「世間を憚かる遠慮というよりも」とあるのだから)。つまり、『こころ』の「私」は「先生の遺書」を世間に公表するためにこれを書いているのだ。(5) したがって、『こころ』は一人称小説だけれど、その語り手が何のために/誰に対して書いているのだろうかという疑問は生じえない。そこに生じうるのは、なぜ世間に公表するために書いているのだろうかという、より高級な疑問であろう。 3.2 キャシーが語る目的と相手と理由 このように語る(以下では、「書く」が適している場合でもその多くを「語る」と書く)目的が明示されていることもある。『わたしを離さないで』では、しかしながら、明示されていない。明示されていない場合は自分で考えるしかない。キャシーは何のために/誰に対して語っているのだろうかを。 3.2.1 語る目的 キャシーが語る目的は、キャシー・Hという人間がこの世にたしかに存在したということを示すためである。たぶん。では、キャシーは誰に対して語っているのだろうか。そして、なぜ語っているのだろうか。 3.2.2 語る相手 もしかしたら、キャシーはトミーとの間に子供(あるいは、子供たち)がいるのではないだろうか。その自分の子供のために語っているのではないだろうか。実際、キャシーはトミーと性的な関係にあると語っている(6)のだから、キャシーとトミーとの間に子供がいるという可能性は否定できないだろう。 3.2.3 語る理由 では、なぜキャシーは自分の子供の存在を語らないのだろうか。それは、キャシーが子供のためにこれ──僕たちにとってはカズオ・イシグロの『わたしを離さないで』という小説にすぎないこれ──を書いているからだろう。つまり、キャシーは読者として自分の子供をしか想定していないのだ。自分に子供がいることを語らないのは、読者が自分の子供だけだからだ。自分の子供だけが読者なのだから、「実は私には子供がいます」と書くのは滑稽でしかない。 3.2.3.1 隠し子である あるいは、こういう事情も考えられる。 その子供は隠し子なのだ。たぶん。キャシーとトミーは、自分たちの子供には提供者として人生を「完了」してほしくないと思っているはずだ。それが親心というものだろう。だから、我が子が提供者になることを望んでいない。したがって、隠し子として育てざるを得なかった。 しかしもし、キャシーが『わたしを離さないで』という一連の文章の中に「子供がいます」と書いてしまったならば、そしてもし、そのことを誰かが知ってしまったならば、キャシーの子供にはどんな未来が用意されることになるだろうか──。それは、明るい未来では決してないだろうし、明るい未来には決してなり得ないだろう。 3.2.3.2 親として むろん、我が子を守りたいと思っているであろうキャシーがそんな危険を犯すはずがない。子供の存在を語らないのは、そういう事情があるに違いない。 3.2.3.3 手紙/遺書 『わたしを離さないで』という小説は、たんなる小説ではない。こう言ってよければ、キャシーが我が子に宛てた長い長い手紙なのだ。そして、遺書でもある。『わたしを離さないで』という手紙、『わたしを離さないで』という遺書──。 3.2.3.4 タイトルの意味 そうであれば、『わたしを離さないで』というタイトルは我が子に捧げられているということになる。 先に僕は、キャシーが語るのは「キャシー・Hという人間がこの世にたしかに存在したということを示すため」(第3節2.1)と書いた。それは、我が子に「あなたの両親はたしかに存在していたのです」と伝えるために違いない。ポシブル探しをしなくても良いように。たぶん。 3.3 渡す役目は誰に? では、『わたしを離さないで』という手紙/遺書を彼らの子供に渡すのは誰なのだろうか。 キャシーとトミーが一緒になって(たった二人で)訪ねた場所に限定して考えると、マダム(マリ・クロード)以外には思いつかない。マダムを訪ねたとき、そこにはエミリ先生もいた。そのとき、キャシーとトミーは子供の存在を知らせ、マダムとエミリ先生から手紙を渡す約束を取り付けたのだろう。 キャシーが「他の提供者に計画(注:マダムを訪ねるという計画)を知られたら何が起こるか、それを恐れてさえいたのかもしれません」(7)と語るけれど、こうした事情があったからこそ「恐れてさえいた」のだろう。 3.3.1 マダムとエミリ先生しかいない 思えば、エミリ先生とマダムこそは、提供者も「普通の人間と同じように、感受性豊かで理知的な人間」であることを示し、「当時の臓器提供計画のありかたに反省を促」すための「活発な運動を展開し」(8)たのであった。 だからこそ、キャシーとトミーは、この二人にすべてを託すことにしたのだろう。この二人をおいて、キャシーとトミーが子供の存在を打ち明けるのに適した人物が他にいるだろうか。この時をおいて、子供の存在を打ち明けるタイミングが他にあっただろうか。 3.3.2 なぜ断らなかったのか エミリ先生とマダムは、キャシーとトミーによる猶予申請については、そもそも猶予が存在していないのだから断らざるを得なかったが、『わたしを離さないで』という手紙/遺書を渡すことは断らなかった──それはマダムとエミリ先生がキャシーとトミーの子供の存在を秘匿しつづけることをも意味する──に違いない。なぜ断らなかったと言えるのだろうか。 3.3.2.1 エミリ先生の場合:「魂が──心が──ある」 先に僕は、「キャシーとトミーは、自分たちの子供には提供者として人生を『完了』してほしくないと思っているはずだ。それが親心というものだろう」(第3節2.3.1)と書いた。そしてエミリ先生は、「あなた方[注:キャシーとトミーを含めた提供者]にも魂が──心が──ある」(9)と信じていた人物である。 エミリ先生は子供の存在を打ち明けられたとき、提供者としての二人に「親『心』」がやはり存在していたことを知ったはずである。だから、断らなかったし、断れなかったに違いない。 3.3.2.2 マダムの場合:「あなた方の味方」 マダムはなぜ断らなかったのだろうか。 エミリ先生がマダムに関してこう言っていたのを思い出そう。「マリ・クロードは、[…]あなた方の味方です。これからもずっとそうでしょう」(10)と。だから、断らなかったのだ。 3.4 キャシーにとっての「わたしを離さないで」 そういえばマダムは、ジュディ・ブリッジウォーター『夜に聞く歌』というカセットの三曲目に入っている「わたしを離さないで」を、幼いキャシーが「ネバーレットミーゴー……オー、ベイビー、ベイビー……わたしを離さないで……」(11)と歌い踊っている姿を見て、泣いていたのだった。 3.4.1 言葉の宛て先 そのときのキャシーは、何を考えながら「わたしを離さないで」を聴いていたのだろうか。キャシーの言葉に耳を傾けてみよう。 「この歌のどこがよかったのでしょうか。ほんとうを言うと、歌全体を聞いていたわけではありません。聞きたかったのは、「ベイビー、ベイビー、わたしを離さないで」というリフレーンだけです。聞きながら、いつも一人の女性を思い浮かべました。死ぬほど赤ちゃんが欲しいのに、産めないと言われています。でも、あるとき奇蹟が起こり、赤ちゃんが生まれます。その人は赤ちゃんを胸に抱き締め、部屋の中を歩きながら、「オー、ベイビー、ベイビー、私を離さないで」と歌うのです。もちろん、幸せで胸がいっぱいだったからですが、どこかに一抹の不安があります。何かが起こりはしないか。赤ちゃんが病気になるとか、自分から引き離されるとか……。歌の解釈としては、歌詞のほかの部分とちぐはぐで、どうも違うようだ、とは当時のわたしにもわかっていました。でも、気にしませんでした。これは母親と赤ちゃんの歌です。わたしは暇さえあれば、飽きずに何度でもこの歌を聞いていました。」(12) これらの言葉──「一人の女性」、「死ぬほど赤ちゃんが欲しいのに、産めないと言われています」、「あるとき奇蹟が起こり、赤ちゃんが生まれます」、「赤ちゃんを胸に抱き締め」、「どこかに一抹の不安があります。何かが起こりはしないか。[…]自分から引き離されるとか」、「母親と赤ちゃん」──の宛て先はひとりしかいない。キャシーである。これらの言葉はすべて、我が子のために『わたしを離さないで』という手紙/遺書を書いている現在のキャシー自身に起きた(あるいは、起きる)ことだったのだ。 提供者としてのキャシーは子供を「産めない」と理解していた。ところが「奇蹟が起こり」、トミーとの間に「赤ちゃんが生まれ」た。キャシーはいつも精いっぱいに「赤ちゃんを胸に抱き締め」ている。これは幼いキャシーが「わたしを離さないで」を聴いているとき、「赤ちゃんに見立てた枕を抱いてい」(13)たのを思い出させる。ところがやはり、時とは残酷なもので、キャシーは「自分から引き離される」その瞬間が目先まで迫ってきていることを悟っている──。 3.4.2 覚悟:あるいは、たんなる強がりとして それにしてもなぜ、マダムは泣いていたのか。マダムは「とても共感を誘う踊りでしたよ。それにあの音楽、あの歌……。歌詞にも胸に響くものがありました。悲しみで一杯のよう」(14)だったからだと説明している。 3.4.2.1 「少し悲しくなってきました」 そう言うマダムに対してキャシーは、「あのとき、マダムはわたしの心を読んで、だから悲しい歌だと思ったのではありませんか。わたし自身に悲しみはありませんでしたけど、いま振り返ると、確かに少し悲しくなってきました」(15)と言う。 「いま振り返ると、確かに少し悲しくなってき」たのは、マダムの言葉に影響を受けたからのみならず、幼いときの夢想が現実になったことの感慨に浸っているから、つまりは、今のキャシーに子供がいるからだろう。 3.4.2.2 「少し」の力強さ しかし、たんに「悲しくなってき」たのではなくて、「少し悲しくなってき」たとある。「少し」と語るところに、提供者ではなく「人間としての」キャシーの強さが現れていはしないだろうか。「少し」という言葉によって、エミリ先生の言葉を借りて言えば、キャシーにも「魂が──心が──ある」(16)ことが裏打ちされるのだから。我が子と離れ離れになる覚悟をすでに決めているキャシーの「魂」あるいは「心」の力強さが。と同時に、しかしそれは、たんなる強がりでもあるのだろうけれども。 4 悄然な語り ここまでに述べてきたことから、こう言うことができる。僕たちはたんなる読者ではない、こう言ってよければ、キャシーの語りにおける空白に隠されていた子供と同じ位置から『わたしを離さないで』という小説──僕たちにとっては、手紙/遺書にはなり得ない──を読んでいるのである、と。 そんなところに、語りにおける悄然──湿気、陰気、陰鬱、沈鬱、靉靆(あいたい)、暗澹──を感じさせる秘密があったのだ。その悄然は文体からだけもたらされるわけではなかったのだ。『わたしを離さないで』が、キャシーが我が子に宛てた手紙/遺書だったからこそ、僕たちは彼女の語りに悄然としたものを感じるのである。 5 おわりに さて、もう書きたいことは書き尽くした感がある。それに分量を考えて、いい加減よさなければという気持ちもある。その前に、しかし、触れておくべき問題がある。 5.1 空白を「ラフに」読むという危うさ ここに書いた解釈はもちろん、僕の想像でしかなくて──先行研究にあたっていないことを意味する──、それに勢いにまかせて強引に書き進めたところがほとんどだから、細かいところを詰めれば矛盾するところがたくさん出てくるだろう。英語原文を参照した場合には、このような解釈がそもそも成立しなくなる可能性があることだってじゅうぶんに予想される。そこが問題なのである。(17) 5.2 あるいはしかし、信頼できない語り手である しかし最後に、このことは付け加えておこう。イシグロが「信頼できない語り手」を得意とする作家であり、登場人物に「語らせない」ということに長けているということを。 註 1 カズオ・イシグロ『わたしを離さないで』土屋政雄訳、ハヤカワepi文庫、2008年、86頁。なお、本稿は本書を分析の対象とした。 2 初読は2016年8月1日、再読は2018年7月24日。 3 イシグロがすぐれた作家であると言いたいわけではないことに注意を願う。 4 夏目漱石『こころ』新潮文庫、2004年、7頁。 5 『こころ』冒頭部の分析については、石原千秋『『こころ』で読みなおす漱石文学──大人になれなかった先生』(朝日文庫、2013年)にすべてを負っている。 6 キャシーは「提供の猶予を申請するつもりなら、セックスをしていないことが大きなマイナスになりはしないでしょうか」(『わたしを離さないで』、364頁)と考え、トミーと「普通のセックスをするようになり」、トミーとの「セックスに耽りました」(同上、365頁)と語っている。 7 『わたしを離さないで』、369頁。 8 同上、399頁。 9 同上、397頁。 10 同上、411頁。 11 同上、110頁。 12 同上、111頁。 13 同上、112頁。 14 同上、414頁。 15 同上、415頁。 16 同上、397頁。 17 したがって、たとえば、このまま大学のレポートとして提出しても通用しないのは当たり前である。『わたしを離さないで』の先行研究を一本(あるいは、一冊)もあたっていないのだし、僕が今回採用した文体からしてそもそも、レポートとして不適切であるのは言うまでもないだろう。「たぶん」なんて使っているのだから。あるいは、僕が使用した人称は「僕」であるけれども、ありもしない客観性を「装う」必要のある文学系のレポートでは、できるだけ一人称代名詞の使用は避けるべきであるのだから。 | ||||
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心をえぐられる素晴らしい作品でした。 この作者の他の本も読みたいと思いました。 | ||||
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皆さんは知らされているようで、何も知らない。といったような表現が本書の中にありましたが、この本自体描いているのは世界のほんの一部です。主人公キャシーの視点から、キャシーに見える範囲の世界だけが描かれています。だからこそ、読み終わったあとに描かれていない部分が気になって、想像することが止まりませんでした。 かれらの生殖能力はどのように奪われたのか?そのようなことができる技術のある時代に臓器移植をするものだろうか?学校に入る前の生活は?クローンとなっているけど、本当は普通に生まれたこどもたちが何らかの事情でこのようなことになっているのではないだろうか?他の施設とはどのようなところなのか?彼らはなぜ逃げ出さないのか?自分がもし同じような立場になったなら…。 読後すぐは聞いていたあらすじがそのまま描かれていただけの小説、というのが率直な感想でした。でもいつまでも心に残りだんだんと自分の中で存在が大きくなっていきます。角田光代の「ひそやかな花園」にどこか通じるものも感じました。 | ||||
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決まってしまっている人生を、生きる物語でした。 決まっているけれど、途中をどう生きるかは、その人次第で、状況は臓器移植を使命にする内容だけれど、普遍的に感じました。 また、社会人になる前までの過ごし方が、幸福感に包まれた、暖かいものであるのは、理想的だとも思いました。 自分の子供に対する接し方に影響しました。保護者にできることは、そういうことなのかと腑に落ちる所もありました。 タイトルについては、直訳すると、それは無理なことなのだというような無常観も伴って、胸が締め付けられるような気持ちになりました。 生まれたら、死ぬのだし、行くしか、離れるしかないのがこの世の定めというような。 | ||||
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本書の解説で訳者が触れているのですが 著者自身は本書の紹介時のネタバレはOKと言ってるそうです。 とはいえ 私自身も前知識なしで読めたことを良かったと思ってますし 訳者もそのように考えているので 本書は、「前知識なしで読みたい本」として勧めたいです。 なので、あらすじやレビューなども極力、事前には読まずに 本作に取り掛かったほうが良いかと思います。 もちろん、このレビューを読んでいる人は 「読もうかどうか迷っているので、判断したい」 ということかと思うので、 ”前知識なしの方がいい”と言われたところで はいそうですか、とはならないと思います。 ただ、 本作品は、レビューの星の数も多いですし 著者のノーベル賞の受賞にも貢献した代表作なので その評判を信じてもらって、 「前知識なし」で楽しむのが良いかと思います。 | ||||
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読み終えるのはつらかったです。現実にありうると思うことを題材にして書いてあります。 世の中で起こること、「おかしい」と思うことは声をあげていかなければ恐ろしいことが 起こる可能性があると思うようになりました。 | ||||
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昔にドラマでもやっていたようですね。知らずに読みました。風景や一人一人の個性を想像しながらじっくり読まれることをオススメします。 | ||||
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何が待ち受けているか、自分は何者か、ちゃんと教えたほうが良い、という先生と ある面で隠したりだましたりしても、子供時代を保護しこどもの幸せを実現する先生。 どちらの先生も、子供のことを考え続けた行動。 どちらが正しい?どちらが当人たちのためか? 当人の一人であるトミーが、大人になってこの判断を下す。 「ルーシー先生が正しいと思う。エミリ先生じゃない。」 しかしそれは消化しきれない、心が荒れ狂うこと。 全体を通してトミーがはっきりいうので、先に読んだ「日の名残り」より、読了後あっさり腹落ちしました。 決まった運命を知ったからといって子供の生きる力はそこでしぼんでしまうものではない。 | ||||
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ページが終わりに近づくに連れ「ああ、読み終わっちゃうよ」と悲しい気持ちになりながらの読書体験でした。 こういう作品はやっぱり電子より実本に限ります。素晴らしい作品に出会えたことに感謝。 もう一つ思ったのは、もしハリウッド映画やアメリカンドラマだったら、主人公たちがこの状況から抜け出ようと武器を取って戦ったり、オリジナルを暗殺するとか入れ替わろうとしたりするんだろうなと。 つくづく毒されている自分に嫌気が差しました。 | ||||
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TBSドラマでは、水川あさみ(ルース)が綾瀬はるか(キャシー)に向かって、「わたしを離さないで」と叫んだが、原作にはなかった。原作では、キャシーが持っていたカセットテープの中にある人の歌の歌詞に、Never let me go という歌詞があるということだった。クローン人間として、臓器提供の運命にある人たちは、反乱を起こさないのか? | ||||
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読みながら小川洋子さんの『密やかな結晶』を思い出しました。 どちらも、国家によってある冷酷な施策が執り行われているという共通点があります。 主人公は少しづつその秘密を知っていくのですが、その理不尽な施策に対して、抗議するでもなく、絶望するでもなく、日々の生活をおくっています。 そのニュートラルさのために、かえって感情移入してしまうのだと思います。 理性的で思慮深い主人公は、この世界の「不自然さ」に気づいて、無意識のうちにそれを解き明かそうとします。謎を解き明かそうという感じではなく、ふと気づくとそのことを考えている、といった感じです。 | ||||
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素晴らしい作品でした。故にここで多くを語ることは憚られます。読むべき作品です。 | ||||
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久しぶりに、心が締め付けられるような、胸がいろいろな感情でいっぱいになる読書体験をした。 淡々としながらも、圧倒的なリアリティを持って登場人物たちの心情を描いているため、次第に明かされる、あまりに残酷な運命に、フィクションとわかっていても、なんとか彼らに救いが、どこかにないのかと苦しくなりました。 と同時に、こんな世界もありえてしまうのではないかと、ものすごくぞっとする物語でもあります。非常に繊細に、丁寧に描写されているため、物語の世界に深く入っていき、キャスの視点で彼女の人生を追体験している感覚に襲われます。そのため登場人物が、本当にいるように思えてしまい、読後、登場人物たちが哀れで、現実ではないのだからとホッとすることができませんでした。 イギリスの田舎の町をキャスたちと歩き、あのだだっ広い草原とどんよりした空が浮かんでくる。 繊細で、丁寧で、胸が締め付けられる。 確かに、なぜ彼らは逃げることができそうなのに、そうしなかったのか?過酷な運命を従順に受け入れてしまったのか、という疑問は湧きます。 もう一度、時間を置いて読んでみると、自分なりの答えを見つけられるかもしれません。 それほどの強さがある作品だと思います。 読んだあとカタルシスを得られるとか、気持ちが高揚するような作品とは違いますが、ずっと心に残る、素晴らしい作品です。 自分は、たまたま映画もドラマも知らず、全く予備知識なしで読み始めたのですがそれが良かったです。 できるなら何も予備知識なしの状態で読むことをおすすめします。 | ||||
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誰かの為の命なんてありえない。 人はエゴの為、誰かを犠牲にする事を選択する。病気を治す為の臓器生産…そこには感情が産まれる、人間であるのだ。 人間であるのに、夢を持つ事を許されず、食事や思考を管理される。 どうして彼女たちは性欲に溺れるのか‥ (正直どうしてこの描写が多いのか、と感じたが)それは、閉ざされた人生だけれども、人としての本能‥生を意味する本能だから… 語り手が介護人であり、のちの提供者でもあるキャッシーである。 ストーリーもはっきりした言葉を示さず、いや、望まず、囲われた施設の独特な価値観が漂う。 たとえ命を与えられても、夢を持つ事を許されなかったら…?考える為の情報を遮断されたら…? 医療や技術の発展している現代に、人間だからこそ開発してならない領域を知る必要がある。この作品がノーベル賞を受賞する 世の中であってよかった。 多くの人がこの作品に触れ、自分本位に誰かを傷つける事を思い留まりますように。 | ||||
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医療目的の臓器提供のため作成されたクローンの若者たちの青春群像劇。 このように言葉に表すと陳腐なものにならざるを得ず、本書の魅力を文章で伝えることはほんとうに難しい。 近い将来起こる可能性のある未来における、「普通の世界」から隔絶された、生殖能力のないクローンの若者たちという設定で描かれる物語であるが、この物語において、圧倒されるのは、その心理描写の細やかさである。 ベイビー、ベイビー、わたしを離さないで。 子供を作ることができず、短命であることが予め定められている女性がその歌を心の拠り所として、親友の彼氏に恋焦がれ、悩みもがく姿を描く恋愛小説の傑作。 物語は淡々と描かれ、劇的な結末等を求める種類の小説ではないが、世界最高の文学賞にふさわしい圧倒的な文章力であると思う。これからもカズオイシグロの本を読んでいきたいと強く思わせる、素晴らしい文章であった。 | ||||
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情報が封殺され空想が暴走する世界でシビアに生きていく様を日記調に書かれていた。 | ||||
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英検の面接官に、この小説を知ってるか聞かれた。当時は知らず、それをキッカケに読んだ。 ミステリータッチだか、ミステリー自体はあまり重要ではない。ただ、その前提があるからこそ、読んでいて、魂が揺さぶられる。愛とか人権、医療、お金、思い出、子供時代、ガラクタなどなど、そういったものがごちゃごちゃになって、読者の心を侵食していく。 いつまでも余韻の残る小説。 | ||||
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去年2月に読んで不安感をもって読み進んだ本 構成が素晴らしく ノーベル賞取ったら娘が興味もって 貸し出し 賞の日の名残りも少し年齢重ねたら勧めようと思っています。 | ||||
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登場人物の気持ちになって考えると、さまざまな思いが出てきます。この本は手元において何度か繰り返して読みたいと思う本です。本の装丁にカセットテープが写っていて、何を意味しているかわからなかったですが、読み進めるうちに理由がわかってきます。 私の場合は、ノーベル文学賞受賞を知り、興味を持ちました。私は普段あまり熱心に小説を読みませんが、それでも最後まで読めたのはカズオ・イシグロの文章が良かったからだと思います。 提供者と呼ばれる人々の限られた人生を通して、自分自身の人生を考えることができる点が素晴らしいと思います。 時は20世紀後半、臓器提供を目的としたクローン人間が合法とされるイギリスでの物語です。ヘールシャムという外の世界から隔絶した施設で育ったキャシーと同級生のルースとトミーを中心に話は進んでいきます。 臓器提供を宿命とした提供者も紛れもなく人間です。自分がそのような宿命を背負った時、精神的に耐えられないではないかと思いますが、与えられた環境の中で自分なりに精一杯生きていくことが大事なのではないかと感じました。 | ||||
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臓器移植・・・にまつわるお話です。もしも将来、この本のようなことが現実になっていってしまったとしたら・・・ 移植をされる側と 臓器を提供するために生まれてきてそのように育てられる側と。後者の人権とは?重苦しい気持ちで読み終わりました。 | ||||
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