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わたしを離さないで
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わたしを離さないでの評価:
| 書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.11pt | ||||||||
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全550件 81~100 5/28ページ
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| これはすごいその時代の人に問いかける小説ですね。ミステリータッチで描かれているが内容は読むにしたがって深刻にならざるを得ないものです。単なるSFではない、ある科学的な進歩というか?、人間をも人工的にやろうとすればどうにでも造れる世界に現代はある。この小説は2005年に書かれていて、前・中・後でいうと、前段後編になって、明らかに「臓器移植を目的とした体細胞クローン人間」として作られた存在としての「人間」集団を扱っていることが分かる。おそらく、1997年の驚愕事実、「体細胞クローン羊”ドリー”」が作られ、世界的に議論がされことが、「人間クローン」の可能性が世界中で大きな議論になり、2018年には中国でクローン猿の双子が作り出されて大きな批判が巻き起こった。日本では2001年に研究に厳格な規制をかける法律が出来ている。世界中でその科学者や医師の暴走を止める措置が取られている。で、この本に戻るが、彼らは臓器移植のために作られたクローン人間である。しかも、自分のルーツもわからない、生殖機能を持たないので赤ちゃんはできないが、性欲はある、人間なのか得体のしれない何かなのかも判然としない、突然、召集令状が来る、そして、魂があり生きたいという本能もある。とはいえ、生まれてから特別な隠された施設で育てられるせいか、本人たちはそのことに特別に何かの感情を強く持つような書き方ではないので、私は不思議な理解しがたい気持ちで読んでいったが、彼らはそれが「使命、与えられた存在価値」として淡々と受け入れている生活をしていく、私には理解しがたい創作内容が展開していく。自覚できない何かを感じながらと言ってよいような感じである。そして、クライマックスは、後段の第二十二章から始まる。これは書かない方がよいと思うが、より深い人間の深み、いや、クローン人間としての深みとその子供を育てたある少数の保母さん、先生を担った人の経歴、そして彼ら間の思いのすれ違い、見解の違い、そして別れ、さらには臓器提供者としての限界(死)による愛し合う二人の有無を言わせない別れが必然的に起きる。そのことを承知しながらも、・・・・・。この作者が問いかけていることは、現在では遺伝子操作まで進んでいる。読者一人一人がどう考えるのかが、どう考えるのかを文中にある「ホラー映画そのものだね」という男のクローン人間たる人物が、ちらっと口にしている。後ろに英米文学作家氏が解説を書いているが、全く中身に触れない技巧的な下らん解説をしている。これは単なるミステリー小説でもないしSF小説でもない。そういうタッチで描かれているが、現代文明と言われる神をも恐れぬ人工的、科学的進歩と言われる思考及び行為に対して、強烈な異議申し立て、問いかけの書である。すばらしい作品となっている。 | ||||
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| 型があるのではなく、たんたんと流れていくようで、読み終ったあとに気がつくと美しい形になっている。そんな物語です。是非一度お読みください。 | ||||
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| 希望通りの品を、届けて頂き感謝しています。有難うございました。 | ||||
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| 内容が興味深いもので、自分に置き換えてみたら怖くなってしまった。 | ||||
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| 読み進めるたびに、内容に少しずつ、また少しずつ引き込まれていくようでした。後半にわかる主人公たちの設定もとても意外でした。 | ||||
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| …カズオ・イシグロ、「日の名残り」と並ぶ代表作。何度も読んで深く考えたくなる作品です。そういう本との出会いはめったにありません。 クローン人間が主人公だったりするので、設定を考えたらSF的とも捉えられるけど、いくつかの要素がまったくSFとは違う作品に仕立て上げています。 まず、この回想型ともいえる小説のかたちです。カズオ・イシグロは「記憶」というモチーフをとても大事にします。まるで記憶を持っていることが存在証明であり、生きてきた価値そのものであるかのように、主人公は過去を語ります。その語り口に引き込まれます。 もうひとつは、物語の流れそのものが読者を深い思索にいざなうようになっていることです。主人公たちの体験を追体験しているような感覚になっていきます。 彼らは臓器提供されるためだけに生み出されたクローンであることを隠されて、思いやりのある教師たちに囲まれて育ちました。果たしてヘールシャムでの日々は、彼らにとっては意味があったのでしょうか。 彼らは徐々に教師たちの不自然な態度に気づいていき、自分たちで謎を突き止めようとします。その過程は、前に進むというより、どんどん奥に奥にと進んでいくような印象です。存在の意味を知るために、果てしのない井戸に潜っていくような、そんな感じでしょうか。読んでいて自分自身も同じような体験をしているような気持ちになってくるのです。 わたしが思ったことは、ぼくらも彼らと大差はないのだというと。生まれた意味は誰も教えてくれないし、せめてもの慰めとして、さまざまな娯楽や芸術があるだけです。制限のなかで生きている、という意味では、ヘールシャムで過ごした彼らと変わらないのです。 実は映画版の最後の台詞は、「私たちと、私たちが救った人たちに違いがあったのだろうか」「生を理解することなく命は尽きる」という主人公キャシーの思索で終わります。 ぜひ映画と合わせてどうぞ。どちらが先でも楽しめると思います。 | ||||
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| 生きるとは何か、生命とは何かについて考えさせられる。洋画もある。映画と小説の両方を読んでみるのは初めて。全然内容が異なってくるんだな。 人は誰かのために生かされている。何も考えずにただ生きる。生かされることもできるけど、それではつまらないのかもしれない。自分で何かを選択できることに感謝して、日々を生きていこうと思った。 | ||||
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| この小説を異端な境遇で生きる人間のSF、サスペンスと捉えると大失敗です。起承転結も無い時間を只々無駄にする駄作です。 しかし、これは人生の凝縮で、置かれた状況で精一杯生きる人々が、もがきながら過去の楽しかった事、故郷の思い出、甘い追憶を糧に、現実と折り合いながら生きてゆく人間の物語と捉えた瞬間、180度変わります。 誰しもが経験する過去の甘酸っぱい瞬間や辛い出来事が、限り無い短い文章でこの小説に必ずあると思います。でも、その余韻に浸る事は一切なく只々、抑制し冷静に自分と向き合います。 答えはありません。 それでも前に進む 私見として思いました。 最後の文章がそうです。 物凄く辛い経験をしたけど、前向いていかないといけない。 性格が控え目で何事も分析する傾向の人には向いている作品と思います。 こんな感じの文章が淡々と続きます。 | ||||
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| 最初から最後まで、誰ひとりとして決められた運命から逃げようとしない。それがとてつもなく悲しい。 | ||||
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| 「日の名残り」を読んで30年ぐらいたつ。今回は作者が亡くなってしまったということで、一番面白そうな本を手に取ってみた。読んで正解。心象風景、私小説に世界に一気に引き込まれる。ここまで人間の生死、性、やりきれなさを描ききる純文学を久しぶりに読んだ満足感で一杯になった | ||||
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| 心に残る作品だった。 途中までは主人公のとりとめのない幼少時代を描いているが、あるところから、要所要所で違和感を感じる節があり、気になって読み進めると…… 真実が解ったとき、現在の主人公の心境と読み手の複雑な気持ちがなんとも言えなくて、とても心に残る。 ひとことでは言い表すことのできない、生きることの壮絶なテーマも含まれているように思う作品でした。 | ||||
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| すごい作品としか言えない。 ヘールシャムがどこか日本の小学校に似ていた。 教師の苦悩は、クローン人間じゃなくても同じではなかろうか。 | ||||
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| それを許さないのは社会だと思う。 この本が絵空事とは私は思わない。一般社会と共存していても明らかに一線を引かれ除け者にされてる存在は未来どころかフィクションどころか現実に存在している。 それが何者か言う必要も無い。 自分が読むべき本はこういうものだと(読まなくていいのはこういうものでない本だと)悟った。 | ||||
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| ノーベル賞受賞作品ということでもう一回気をとりなして挑戦しましたが、やぱり、、、暗い、、、どうしようもなく暗くて、寒くて、じめじめしてて、このあと主人公たちが遭遇する、避けられない不幸の影が幽霊のように、主人公の周りの風景に映りこんだり、他の登場人物に憑依して現れたりしている感じ。 もう、ほんっとうに救いのないお話ですが、圧巻でした 文学って本当にすばらしい。 | ||||
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| もし、あなたが、この小説を読み始めようとするのであれば、その前に、少し幾つかのことに注意した方がよい のかもしれない。もちろん、あくまでも、私の勝手な思いであり、余計なお世話なのかもしれない。当たり前の 話だが、無視していただいたところで、何ら問題のあることではない。どうぞ、この小説を読み始めて下さい。 もし、あなたが、この小説を読んで、何かしらのカタルシスを求めているのなら、読み始めるのを止めた方がよい、 と私は思う。この小説はそうしたものではない。何かしらのカタルシスを求めているのであれば、他の小説を選び 読んだ方がよいと思う。そうしたことに適した素晴らしい小説は、この世界には数え切れないほど沢山ある。 あるいは、もし、あなたが、この小説を読んで、歓喜なり、悲しみなり、哀感なりの感情を味わいたいと思うなら、 それも、読み始めることを止めた方がよいかもしれない。確実なことは、この小説は「普通の長編小説」ではない ということだ。(そこには、「普通の近未来ディストピア小説」ではないという意味も含まれている。) この小説を読み終えた人に、もたらされるものは、もっと、別のものだ。 それは、「痛み」だ。 それも、耐え難いほどの鋭く激しい「痛み」だ。 あなたのこころは、完膚無きまでに、粉々に砕け散り、破壊し尽される。 あなたのこころは、完膚無きまでに、燃えさかる炎を浴び、焼き尽くされる。 あなたは、粉々に砕け散り、焼け尽くされた、こころの荒地で立ち尽くすことになる。 あなたの周囲、三百六十度、見渡す限りの地平線の彼方まで続く、黒い荒地の中に、一人、取り残されることに なる。 そして、あなたは、その後に、思いがけない驚くべき体験をし、想像もしなかったものを与えられることになる。 そこに至るまでは、少し、時間が必要だ。人によっては、場合によっては、「少しの時間」ではないのかもしれな い。「多くの時間」が必要なのかもしれない。さらに言えば、人によっては、その「砕け散り、焼け尽くされた、 こころの荒地」の中で迷子となり、「それ」がやって来ることを見失い、「それ」と擦れ違い、「それ」に出会えな い人もいる。残念ながら、この小説を読み終えた全ての人に、「それ」が与えられるという訳ではない。 しかし、この小説の力を信じ、注意深く、待ってほしいと、私は思う。 この小説を読み終えた人に、何が、どのような形で、与えられるのかは、もう少し、後に、話したいと思う。 そのことについて語るために、その前に、幾つかのことを、語らなければならない。 (1)完全無欠の絶対小説、あるいは、長編小説の形をした〈記憶〉 この「わたしを離さないで」を形容するとしたら、それは、「完全無欠の絶対小説」となる。 削除と追加の言葉が、何一つない(あるいは、それを拒否する)、完全無欠の絶対小説。 センテンスの変更も、その順序の変更も、全体の構成の変更も、何一つ、不可能な、完全無欠の絶対小説。 全ての言葉を一旦、解体し、再び、組み合わせたとしても、完全に元の姿に戻る、完全無欠の絶対小説。 「そんなものが存在するのか?」と思う人もいるのかもしれない。 しかも、長編小説において。純粋と夾雑のない交ぜによって成立する長編小説。その長編小説が完全無欠である ことなど、「原理的に不可能だ」と。普通に考えるのであれば、そうなのであろう。 五・七・五の十七文字の俳句という形式のおいては、完全無欠ということが成り立つのかもしれない。十七文字 の中の一文字を変更することも不可能な俳句。ひとつの言語の極点のような俳句。一文字を動かすことも、削除 することも、追加することも不可能な俳句。俳句というものが、推敲を重ね、言語の極点を目指し、完成形とし て着地する。完全無欠の絶対俳句。俳句という形式は、それを可能とし、そうした絶対的言語のシステムとして、 五・七・五の十七文字という仕組みが生み出されたのであろう。それは、言葉によって、ひとつの音色、ひとつ の光景、ひとつの色合い、ひとつの情感を寸分違わず切り取る技法として生み出され洗練されていったものかも しれない。完全無欠の絶対言語としての俳句。 しかし、小説は、そうした俳句のような定型詩の形式では描き切れない世界を、形作る言語として生み出された。 反(あるいは、非)・絶対言語としての小説。どれほど推敲を重ね完成度を上げ、どれほど厳密に言葉を連ねても、 余白と余剰を拭い去ることが不可能な反(あるいは、非)・絶対言語としての長編小説。その根源に不定形さと不 完全さと不安定さを持ち、その不定形さと不完全さと不安定さを、引き換えにもたらされる小説の言語の多面性と 多義性と面妖性。純粋と不純と聖なるものと俗なるものと高貴なるものと賤なるものを、同時に、共存させること を可能とする長編小説という言語の形式。この世界の、この宇宙の混沌を混沌のままに刳り貫く技法としての 長編小説。 であるならば、「長編小説にして、完全無欠の絶対小説」など、存在しえるはずはない。原理的に。 しかし、このカズオ・イシグロの「わたしを離さないで」(「Never Let Me Go」)においては、 その「長編小説の原理」が原理として保たれつつ、尚且つ、「完全無欠の絶対的言語」となる。 この小説は、そうとしか呼びようがないのである。 つまり、これは、「普通の長編小説」ではないのである。 読み始めて暫くは、そのゆったりした緩慢な展開に、もしかしたら、「少々、退屈な思い」をする人がいるのかも しれない。そこに描かれているのは、思春期の少年少女たちの淡々とした日常である。幾つかの些細な諍いもある のだが、決して特別な出来事ではない。ここには、劇的なものなど何もない、劇的なことなど何も起こらない。 そう、「ここには、何も無い」のである。しかし、この小説を読み進んで行くと、ある時点において、「ここには、 全てがある」ということ気が付くのである。彼ら彼女らの日常とその記憶こそが、この世界の全てであるという ことに気が付くのである。 この「完全無欠の絶対小説」である「わたしを離さないで」は、その最初の一行目のセンテンスから、最後の 一行のセンテンスまで、何一つ、無駄なセンテンスは存在しない。何一つ、無駄なワードさえ存在しない。 彼ら彼女らの記憶に何一つ、無駄なものなどないように、この小説には何一つ、無駄な言葉は存在しない。 つまり、この小説「わたしを離さないで」は、「長編小説の形をした〈記憶〉」なのである。 それが、長編小説にして、同時に、完全無欠の絶対小説であることの意味であり、それが、存在しえることの 意味である。 (2)閉じることができない本、あるいは、その本を読み終えてから、その本が始まるという本 彼ら彼女らに救済はあるのだろうか? 小説の中の登場人物の運命など、行く末など、どうでもいいことなのかもしれない。小説など結局のところフィ クションではないか、作り話の中の架空の人物がどうなったところで、「私に関わる現実」が変わるわけではない ではないかと。そこにどれほどの過酷で悲惨な出来事を小説の中の登場人物が待ち受けているとしても、「この 小説を読んでいる間だけ辛抱すれば、その後、小説を読み終え、その本を閉じてしまえば、全部、終わりだ」と。 「さあ、次の新しい小説を読もう。何しろ、私は凄い読書家なのだから。私を待っている小説は山のように積み 上がっている。早く、その山を片づけなければいけない。」全く、その通りであろう、何ら反論するつもりはない。 少なくとも、「小説の中の言葉を読むこと」と「小説の中の文字を追い駆けること」の区別が出来ない、また、 その違いを理解できない人にとっては、そうなのであろう。小説の中の最初の文字から最後の文字まで追い駆けて しまえば、その小説を読み終えたと思う人にとっては、そうなのであろう。読むという行為が、大量の小説の中 の文字を追い駆け、その大量の文字を追跡し、その細部を執拗に確認し、一文字、一文字をチェックする行為と 同じことになってしまっている人にとっては、そうなのであろう。 しかし、「読むこと」と「文字を追い駆ける」、その二つは似ているようでいて、全く、別のものだ。 文字を追い駆け終われば、小説を読み終えたと思うのは、大きな錯誤である。 小説を読むということは、決して、小説の中の文字を追い駆けることではない。断じて、絶対に。 小説を読むとは、そのフィクションで作られた容器の中に存在する人の思いと交わることだ。 小説というフィクションの中の人の思いを受け取ることだ。 小説を読み終えた後、「私の現実」は、読み始める前と異なったものになっている。 小説の中に宿っていた「人の思い」を「受け取った私」が、それを「受け取る前の私」と同じであろうはずが ない。 「読むこと」は、「交わること」であり、「受け取ること」だ。それは、「文字を追い駆けること」ではない。 だから、小説を読むという行為は、場合によって、困難なことであり、ひとつの試練であり、極めて、危険を伴 うことでもある。それは、読む人を不可逆的に変更してしまう。しかも、抗いようもなく、逆らいようもなく、 「蹂躙するかのように」、それは読む人を変えてしまう。あるいは、それは、その本を「読み終えること」を 不可能にする。読み終えたはずなのに、読み終えることができない小説。それは、その本を読み終えたところから、 その本が始まることを意味している。 ここに、「読むこと」と「文字を追い駆けること」の根源的な相違がある。 そこに、小説を「次々と読むこと」が根源的に不可能である理由の秘密が隠されている。 この世界の中に存在する幾つかの小説は、「その本を閉じることができない本」がある。 別の言い方をすれば、「その本を閉じた時から、その本が始まる本」がある。 閉じることができない本。 その谺が消えることのない本。 その本を読み終えてから、その本が始まるという本 「わたしを離さないで」も、そうした本の一つだ。 この小説には、「難解な部分」は、何処にも無い。 しかし、この小説は「読み終えることが、非常に困難な、あるいは、不可能な」小説だ。 (3)救済は何処にあるのか? あるいは、カズオ・イシグロが行わなかったことと、村上春樹が行ったこと そして、再び、問い掛ける、「彼ら彼女らに救済はあるのだろうか?」 あるいは、別の問い掛けをする、「彼ら彼女らに逃げ道はあるのだろうか? 脱出口は何処にあるのか?」 全て無い。 救済は無い。 逃げ道も無い。 脱出口も無い。 全く、完全に無い。 完璧に閉ざされた世界。正しくは「壁さえも無い、閉ざされた世界」だ。 壁も塀も柵も境界線も無い。外側と内側の境界はない。いや、そもそも、ここには、「外」など無いのだ。 「外」の無いこの世界に、脱出口など存在する訳もない。この世界には脱出口は、原理的に存在し得ないのだ。 ここは、「外側の無い内側だけの、完璧に閉ざされた世界」なのだ。 カズオ・イシグロはこの「わたしを離さないで」をそのような世界として作り出した。 ここに、カズオ・イシグロと村上春樹の決定的な違いを読み取る人がいるのかもしれない。 非情さと無慈悲さを背負いながらもこの現実の世界の実相から目を背けないことを選び、彼ら彼女らに脱出口を 最後まで与えなかったカズオ・イシグロと、多くの取り戻すことの出来ない犠牲を払い、試練と戦いを生き延び た者たちを、脱出口へ導く村上春樹。 カズオ・イシグロのその高度な文学的小説的な技術を用いれば、その小説の世界に「脱出口」を設けることは可 能なことだと、私は思う。(「充たされざる者」を読めば、その小説の世界に「異次元の通路(原理的には不可能 であるはずの通路を通路として成り立たせる通路)」を形作ることなど、カズオ・イシグロにとって、造作も無い ことではないかと推察される。)また、それとは、逆に、村上春樹がその意志を明確に持てば、その小説の世界を 「外側の無い内側だけの、完璧に閉ざされた世界」として作り出すことは「比較的容易な」ことではないかと、 私は思う。(「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」の「世界の終わり」のパートを思い起して見れ ば、村上春樹が既にそうした世界の構築をしていたことに気が付く。「世界の終わり」には壁が存在していたので はあるが) しかし、カズオ・イシグロも村上春樹も、そうはしなかった。 そこに、カズオ・イシグロのわたしたちが生きている現実に対する姿勢として「誠実さ、誤魔化しの無さ、ある いは、反・御都合主義」を見る人、あるいは、それに反動する形で、村上春樹に対して、わたしたちが生きてい る現実に対する姿勢として「不誠実さ、誤魔化し(欺瞞)、あるいは、御都合主義」を見る人。 そして、そうした構図に対極するように配置される救済の存在。カズオ・イシグロの救済の無さに対して「非情さと無慈悲さと残酷さ」を見る人、あるいは、村上春樹の救済に対して「優しさと癒しと希望」を見る人。 このカズオ・イシグロの救済の無さに対して「非情さと無慈悲さと残酷さ」を見る人の中には、この小説を読み 終えて、その「救済の無さ」に対して憎悪に似た感情を抱く人もいるのかもしれない。この小説を読み終えた後、 激しく怒り、この本を地面に叩き付け、破り捨て、投げ捨てた人もいるのではないだろうか。 その見え方は読む人によって、大きく分かれるところかもしれない。その見え方によって、カズオ・イシグロと 村上春樹の小説の様相は相当に変わってくる。結果として、残念なことに、読む人は互いにその作品を遠ざけて しまうかもしれない。 私は思う。明らかなことは三つあると。 一つ目のこと。 それは、カズオ・イシグロと村上春樹は、それぞれの力の限りを尽くして彼ら彼女らを描き出したということ。 そこに「見かけ上の救済」が有ろうが無かろうが関係なく、作者として、彼ら彼女らの生と死から目を背けるこ とをしなかったこと。二人とも、自ら作り出した人々に最後まで敬意を持って接したこと。 カズオ・イシグロはカズオ・イシグロの方法で。 村上春樹は村上春樹の方法で。 二つ目のこと。 それは、カズオ・イシグロと村上春樹、二人とも、「小説を信じている」ということ。「小説の力、物語の力を信 じている」ということ。古い物語が壊れ、物語が否定され、壊れた物語の残骸の断片を寄せ集め繋ぎ合わせ、継ぎ 接ぎだらけの物語の再生産で辛うじて生き延びているこの世界の中で、迷うことなく小説を信じ、小説を作り出し ているということ。そこには、小説に対する揺るぎ無い信頼がある。 三つ目のこと。 改めて言うことでもないが、カズオ・イシグロと村上春樹の作品、そのスタイルも方向も異なっている。 しかし、どちらもが、現代最高の小説家であり、その作品は読まれるべき価値のあるものであるということ。 私は夢を見るように、想像してみる。少しの間、ほんの一瞬の間。 「わたしを離さないで」の作者が、仮に、村上春樹であったならばと、想像してみる。 あるいは、「1Q84」の作者が、仮に、カズオ・イシグロであったならばと、想像してみる。 村上春樹版「わたしを離さないで」の中のキャシー、ルース、トミー、彼ら彼女らは、どのようにして、脱出口 を見つけ出し、どのようにして、「外」へ、「もう一つのノーフォーク」へ、辿り着くのか。 カズオ・イシグロ版「1Q84」の中の青豆と天吾、彼ら彼女らは、どのようにして、出会い、擦れ違い、その 出入口は、どのようにして塞がれ、彼ら彼女らは行き場を見失うのか、彼ら彼女らはその危機にどのように立ち 向かうのか。 村上春樹版「わたしを離さないで」と、カズオ・イシグロ版「1Q84」 まるで、それは、「水の中を泳ぐ鳥」のようでもあり、 まるで、それは、「空を飛び交う魚」のようでもあり、 まるで、それは、存在し得ないものの象徴のようでもあり、 それは、「想像してはいけない美しい夢のようなもの」なのかもしれない。 (何だろう。この不穏な胸騒ぎは。夢の中にしか存在しない、この二つのありえない改変版の中に、「未来の小説」 の姿が垣間見えるような気が、私にはするのだ。) (4)なぜ、彼ら彼女らは抗わないのか? あるいは、欺瞞と無知と無邪気さと傲慢にまみれた私 なぜ、彼ら彼女らは、自らの宿命を粛々と、そのまま受け入れるのか? なぜ、彼ら彼女らは、家畜のように従順なのか? なぜ、彼ら彼女らは、屠られるまま、屠られるのか? なぜ、彼ら彼女らは、彼ら彼女らを閉じ込めているこの世界に対抗しようとはしないのか? なぜ、彼ら彼女らは、彼ら彼女らを閉じ込めているこの世界から脱出しようとはしないのか? なぜ、彼ら彼女らは、この世界を変えようとしないのか? この小説「わたしを離さないで」を読み終えた多くの人が、そうした疑問を抱くだろう。 私も同じだった。(過去形である。そう、今ではそれは疑問ではない。) そこには、不可解なほどの「彼ら彼女らの従順さ」が存在する。そのことに対してのやり場の無い苛立ちと戸惑い。 捌け口を求め渦巻く憤り。仮に、結果として、彼ら彼女らの存在している世界が「出口の無い世界」であったと しても、彼ら彼女らなりの戦いがあってしかるべきではないかと、私はそう思ったのだ。(そう、無邪気にも) まだ、その時、私は彼ら彼女らのことを「ほとんど、何一つ」、理解していなかった。 また、私は自分が「何者」であり、「どこにいる」のかさえ、理解していなかった。 信じられないことに、この本を読み終わっても、それでもまだ、私は、そのことを正確には理解していなかった のだ。 彼ら彼女らが「何者」であり、「どこにいるのか」、そして、私が「何者」であり、「どこにいるのか」、 そのことを示唆する出来事が、この小説の中で、微かな不吉な兆候として幾つかほのめかされる。 「ヘールシャム」(彼ら彼女らが集団生活をして教育を受けている施設)に訪れる「マダム」の彼ら彼女らへ向け る眼差しと、その振る舞い。あるいは、一定の年齢を過ぎた者たちが「ヘールシャム」を出た後、生活するコテ ージの管理人に彼ら彼女らの一人が「挨拶」をした際の管理人の対応。 そこに、「屠る側」と「屠られる側」の間の目に見えないが、しかし克明な断絶が顕わになっている。しかし、私 はその出来事の本当の意味を、その時には、正確には理解してはいなかった。頭の中の理屈としては理解しても、 そのことを十分に受け入れることができなかった。(その真の意味を理解したのは、ずっと後になってからだ。) 「なぜ、彼ら彼女らは抗わないのか?」 その疑問が「屠る側」から、あるいは、「屠る側の安全地帯」から、生まれているものであることに、私が気が付 くためには、少し時間が必要だった。それが「屠る側」の欺瞞と無知と無邪気さと傲慢であることに、私が気が付 くためには、少し(いや、正直に告白するならば、多くの)時間が必要だった。 「私は彼ら彼女らに、何をしたのか?」(この小説を読みながら、あるいは、読み終わった後、私の想像の中で) 私は彼ら彼女らに、微笑み優しく抱きしめる。そして、彼ら彼女らに言う「大丈夫。何も不安がることはない」 彼ら彼女らを屠る準備を私がしていることを悟られることなく、後ろ手に彼ら彼女らを屠るための手斧を隠し持 ちながら。 私は彼ら彼女らに、「抗い、戦い、逃げろ」と叫ぶ。 この世界が「外側の無い内側だけの、完璧に閉ざされた世界」なのだということを知らないふりをして。 欺瞞と無知と無邪気さと傲慢 彼ら彼女らは、自分たちが「何者」であり、「どこにいる」のか、十分に知っていたのである。 この世界がどのようにして成り立ち、自分たちのその世界の中での意味も、十分に知っていたのである。 私が欺瞞と無知と無邪気さと傲慢にまみれて、自分が彼ら彼女らの味方であると信じ、それを演じている間も。 確かめてみてほしい。 そこに描かれている世界を。 そして、気が付くはずだ、「この世界は、わたしたちの世界そのものだ」ということに。 これは、「小説の中で作られた架空の近未来のディストピア」の姿などではないということに。 「臓器移植のための家畜としての人間」という仕掛けのおぞましさに攪乱され、そこで何がなされているのか 見失ってはいけない。そこで行われているのは、人が人を奪い取るということだ。これが、わたしたちの生きて いる世界の現実の日常であることは、もはや言い逃れすることなどできはしない。(この世界のほんの上水の澄ん だ部分だけを目をしているだけであれば、「家畜としての人間」などありえないのかもしれないが、その上水の遥 か下で泥と混濁し氾濫する闇の部分に、目を凝らせば、見えて来るものがある。そこにある、現実の姿が。) 人が人を奪い取り、非情で無慈悲で救済も逃げ道も脱出口も無い世界こそ、わたしたちの世界の真の姿だと。 カズオ・イシグロは、「わたしたちの世界の実相」を描いたのだ。 カズオ・イシグロは、「わたしたちの欺瞞と無知と無邪気さと傲慢」を描いたのだ。 私が彼ら彼女らにできる唯一のことは、この小説の最後の一行のセンテンスまで読み終え、その結末を見届ける ことだけだ。私はその凄まじい結末に体の震えを抑えるこができなかった。耐え難いほどの痛みに私は貫かれて、 私のこころは完全に破壊された。 (5)あなた(この小説を読み終えた人)に、もたらされる、ありふれた名前で呼ばれるもの あなたは、荒地に茫然として立ち尽くす。 あなたは、壊れたこころの破片を一つ一つ、拾い上げ、それが、かつて、自分のこころの一部であったことを、 不思議そうに眺める。 「これは、何だろう?」と。 私は、これまで、何を感じ、何を思い、何を考えていたのか。 私は、これまで、何を見て、何を聴いて、何に触れていたのか。 「わたしを離さないで」を読む前と、読んだ後。あなたに起きる「決定的な、不可逆的な」変更。 それは、不意に訪れる。 予期しなかった方角から、予期しなかった時に、それは訪れる。 その訪れ方は一人一人みな違ったものかもしれない。 あなたは、風が湧き起るのを感じるかもしれない。 あるいは、かすかな声がするのを耳にするかもしれない。 それは、何一ついきものの痕跡のない荒地の黒い地面に小さく芽吹くものとして現れるかもしれない。 あるいは、灰色の雲の敷き詰められた空から静かに舞い降りる小さな雪の結晶として現れるかもしれない。 それが何なのか最初は、あなたにはわからない。 あなたは、地面にひざまずきその小さな芽吹くものを手で掬い取ろうとする。 あるいは、手のひらを上に向け、舞い降りる小さなものを受け止めようと両手を広げる。 そして、あなたは、感じる。その小さきものがもたらす光を。 あなたは目を閉じる。 その小さきものがもたらす光が逃げないようにと。 それは、あなたのこころの中心にそっと来る。 粉々に砕け散った焼き尽くされた荒地のような、あなたのこころの中心に。 そして、ゆっくりと鼓動を始める。一回一回、その響きを確認するかのように。 光が満ち溢れる。混じり気のない怖ろしいほどの純度の高い透明な光が。荒地のようなあなたのこころに。 その眩しさとその明晰さとその強靭さとそのあたたかさに、あなたは、驚かされる。 それは、今までに、体験したことのないほど確固とした強さを持ったものだ。 そして、あなたのこころは、再び、組み立てられ始める。 ひかりかがやく鼓動するものを抱えて。 そして、そのひかりかがやく鼓動するものが、何かということを知る。 それを言葉にすれば、ありふれた名前しかないことに、困惑しながらも。 ありふれた名前として、それを呼ぶならば、それは、「優しさと強さと勇気」。 この「わたしを離さないで」は、あなたに、「優しさと強さと勇気」を、もたらしてくれる。それは、耐え難い ほどの痛みの後に、ひかりかがやく鼓動するものとして、「優しさと強さと勇気」を人に与えてくれる。 それが、ありふれた名前で呼ばれるものであったとしても、決して、それは、ありふれたものではない。それは、 他のものでは得ることができない特別なものだ。「わたしを離さないで」が人に与えるそれは、朽ち果てる事の 無いかけがいの無いものとして、あなたに、もたらされる。それは、あなたを守り、あなたが行くべき場所を教え てくれる。 そして、それが、キャシーとルースとトミーから、あなたへ贈り届けられたものであることを、あなたは知る。 | ||||
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| 主人公キャシーの語りで物語は進んでいく。 キャシーはヘールシャムと呼ばれる施設で育ち、 今は提供者の介護人をしている、という。 提供者とは? 介護人とは? 徐々に謎は明らかにされていく。 やがて、ヘールシャムは人間のエゴによって 建てられた施設であることが分かる。 落ち着いた語り口で物語が進むので、 不気味さがどんどん増幅されていく。 運命を享受して終わるのか。 抗うのか。 共存共栄の道はあるのか。 全く別の道があるのか。 気になって、本書に夢中になった。 本書はクリエーターの多くに読まれる本だろう。 本書をベースに、いかようにも発展・展開させる 余地が残されている。 本書は平易な言葉で書かれており、分かりやすく、 そして何よりも深い。 本書は今後の多くの作品の原点となる、 古典と呼ばれるようになる作品だろう。 影響は小説のみならず、 演劇、アニメ、ドラマ、映画にとどまらず、 絵画、歌にまで及ぶだろう。 今後の作品を理解するために 必読の書だ。 | ||||
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| カズオイシグロは綿密な仮想世界の構成を通して、子供時代から思春期にかけて生じる人間関係の葛藤、心のひだというような部分までを細部にわたって描き出した。 少女同士の敵愾心と友情を、会話と感情の移り変わりを通して見事に表現している。 ところで近く訪れる若者たちの死というテーマを扱っているが、死はいずれ万人に訪れる現象である。その意味で、主人公たちを完全に外側から眺めることは許されない。 | ||||
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| 最初の方ではたわいも無いティーンの些細な出来事が大袈裟に話されているだけと多少退屈感はあったが、後半にかけて色んな事実が見えてくると、徐々に話に引き込まれていった。 終わる頃になってまさか涙が出るとは思わなかった。 こんな事がひょっとしたら近い未来に行われるか、若しくは既に何処かで行われているか…と思うと、胸が苦しくなる。 | ||||
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| 女性の独白形式で、二人の友人と過ごした日々の回想が淡々と、まさに淡々と綴られています。 本人にとっては大事だけれど、他人は興味を示さないような、あまりに瑣末な感情の起伏やすれ違いが延々と綴られるので、読みながら少々辟易としてきます。なんというか、見知らぬ女子学生の日記を読むような感じでしょうか。 なんだこれはと思いながらも読み進めていくと、彼女らは臓器提供者であること、クローン人間であることなどの背景が、これまた起伏の無いままに見えてきます。そして、彼らの使命は自らの生命が維持できなくなるまで臓器提供を続けなければいけない、、というショッキングな事実も判るのですが…、それもあくまで独白の一節として、彼女の目線で静かに語られるだけ。 周囲には、臓器提供者たちにより良く生きてもらうための教育や、環境整備に注力する人たちも登場し、その取り組み活動の盛衰などの社会的背景もおぼろげながら判ります。 しかし、当の彼女たち提供者側は、友人とのどうでもいいやりとりに対しては悩みをもっても、自らの置かれた立場には疑問も持たずに、運命を受け入れるだけです。 物語終盤では、愛し合う二人として認められれば臓器提供を猶予され、二人で暮らす数年の時間が与えられるという制度の真偽が注目され、希望の光が見えてきます。物語展開的にも盛り上がるエピソードとなりうるポイントですが、そのような制度はない旨があっさりと判るのみ。死に行く前に数年の幸せな時を過ごしました的な、救いの展開すら用意されずに、ただそのまま死別を迎えます。 家族を持たずに生み出され、将来の展望も無く、自らの身体の一部を失い、友人を失い、最後は自らの命を失う(臓器提供をしなくても、30歳過ぎで寿命を迎えるらしいことが暗示されます)。ただ失い続けるだけの人生、そしてそれを受け入れるしかない現実。 世界や社会がどうであれ、所詮は身近な人間関係に揺さぶられ、それこそが個人の幸福感に影響を及ぼすということなのでしょうか…、作者が物語に託したメッセージについては、いろいろ解釈があると思います。静謐な諦観に満たされた本書を読み終えると、ちょっと考えさせられます。 なお、読みながら気になったのですが、話し言葉の訳がちょっと旧い表現になっています。10代から20代の若い男性の言葉遣いとしては違和感を覚える箇所が多くありました。 | ||||
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| "そうすれば、眠れない夜、薬と痛みと疲労で朦朧とした瞬間に、わたしの記憶と自分の記憶の境がぼやけ、一つに混じり合うかもしれないではありませんか。"昨年にノーベル文学賞を受賞した著者によるこの本は、臓器提供のためのクローンが主人公ではあるが、ブレードランナーやアイランドといった映画とは違って、その運命を自然な事として受け入れているのが、なんとも【不自然で】かえって【抑圧される中での生】の描写が鮮やかに伝わってくる。 そして個人的には、どこか人間的な感覚が欠落したかのような主人公の語り口から、急速に発展している【AIから見たにんげん】を見せられている様な居住まいの悪さを感じ、街中で見かけるのが当たり前になった某ペッパーたちが【もし会話していたら】とか想像してしまったり。 既に映画やドラマ、演劇になったりしているようですが、総合的に受容するというより、本だけと静かに向き合ってイメージしたい作品。 クローンSF好きや医療関係者、あるいは変化球的に人間失格好きにオススメ。 | ||||
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