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わたしを離さないで
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わたしを離さないでの評価:
| 書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.11pt | ||||||||
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全550件 401~420 21/28ページ
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| ◆小説◆【筋】臓器を提供(DORNATION)する宿命を負うクローン人間の幼少から生を全うする迄を描出。【構成】全3部23章。主人公キャシーH(介護人:CARER)の回想形式。1部はHAILSHAM寄宿学校での幼年から16歳迄(英国の義務教育期間に相当)。2部はCOTTAGEと呼ぶ農場屋敷での共同生活。提供者(DORNARS)として出る準備。3部は約10年後の臓器提供と終焉【主な登場者】キャシーH,ルース♀,トミー♂(ヘイルシャム同級生3人),謎のマダム,エミリとルーシー2人の先生(文中GUARDIANS:保護官),コテージの先輩クローン、クリシー♀とロドニー♂(恋人同士)【特異性】小説が「読者の生、存在の話」に変容していく。感情移入でなく、読み進むうち「自己の幼年からの足跡や現在」が本編と交錯する。気づくと、自分や関わる人々こそある種クローンに外ならない事実に直面、「必ず消えて失くなること」に戦慄し、NEVER LET ME GOと叫びたくなる。【表現】英国INDIPENDENTスクールがベースのヘイルシャムでの生徒の会話、視線、細かい仕草や女子の性格描写が非常に巧み。英国らしい景観、場面ごとの空間、質感、色彩の捉え方が心にくい。土屋政雄の翻訳が絶妙【伏線、展開】6章の音楽テープ、Norfolkというある地域、15章(CROMERは実在の街)、終章、エピローグ。果たして「救い」はあるのか?【感想】近親者を亡くしこの本を選びました。「わたしを離さないで」という声がずっとこだましています。声の主は私かもしれません。◆映画◆小説の特性上、映画化は困難。単に表面的なクローンの悲劇に終始。唖然。伏線のテープや出来事も酷い脚色。ラストに首題説明のテロップが流れた。英国風景、空気や美しい子役の映像、音楽はまあまあ。星ひとつ。読む前に観るべからず! | ||||
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| たまたまNHKの特集を見て、自分の中でのいくつかの発見がリンクし合っていて、これは今の自分には読むしかないと思わされる部分があった。 映画化されるというのは知っていたが、作家のことを何も知らなかった。こんな作家がイギリスにいたのか〜と今更ながら大きな発見をした感じ。 文章がとにかく鮮明な記憶を辿っているようで、事細かな描写が自分の幼い時代の過去の記憶の残り方そのまんまというか、匂いが同じ感じがして奇妙な感じさえした。 「発達、前進ということが大人になることと思われがちだが、大人になるというのは過去と折り合いをつけられることだ。」インタビューで聞いたこの「過去の記憶に折り合いをつける」という一言にはっとした。つけられないで悩み苦しみ、思い出したくないことほど鮮明に思い出してしまう、暗い記憶から何年経っても抜け出せずにいる自分に助け舟を出してもらったように思えた。 人と人との係わり合いも、わずかな一瞬の空気ではっきりとしたものを感じ取れることがある。説明の仕様もないし証拠も無いけど確かな感覚。こういうものをうまくきれいに文章で表現できる力はすごいなぁと羨ましくもなった。読むべくして出会えた本のように感じた。 | ||||
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| 私は村上春樹は響かない カズオ・イシグロは響く 表紙の絵、 最初見たときは何これ? カセットテープ ・・・読んだ後は象徴的でした | ||||
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| ■「使命」を背負わされた「提供者」と呼ばれる若者たち。 最初は、「なぜ逃げないのだろうか?」と、不自然に思いました。 しかし、読み進めていくうちに、これは、ささやかな思い込みの希望にすがり、 経済のために与えられた「使命」をこなし、これまでの習慣や体験や記憶にすがる 自分自身の姿だと思えるようになりました。 ■人には寿命があり、自分では決められません。 尺は違いますが、これは、私も含む、私たち個人個人の物語ではないのか? 以前通った学校や、勤めた会社を「ヘールシャム」に置き換えたり、 「保護者」を、自分の親、会社、上司、先生に置き換えたら、 私たちの日々の葛藤や、記憶をめぐる多幸感、愁傷感は、 「提供者」や、語り手である「介護人」の心の動きに重なるのではないでしょうか? ■この小説を読みきるために、瀬戸内の島を選びました。 その島の名前は「豊島(てしま)」と言います。 瀬戸内アートと産業廃棄物で有名になった島ですが、少子化に伴って廃校になった 小学校の前のがらんとした広場の、錆びて朽ち果てた遊具の前で、読み終えました。 「ヘールシャム」という場所は、瀬戸内の離島にもあるでしょうし、 私たちの心の、記憶のある場所に、息づいているものだと思いました。 ■私たちが、本当に凍りつくのは、この小説の設定にあるのではなく、 この物語は、限られた生を、ささやかな希望と疑念の中に、 他人、自分自身に翻弄されながらも生きていこうとする自分自身の物語だと気づいた時だと思います。 かわいそうな若者たちの寓話ではなく、私たち自身の死に際に再現されるであろう自分自身の物語。 そう考えると、この小説には、悲しみだけではなく、切ない希望も感じられます。 ■では、わたしたちは、なぜ逃げないのか? わたしたちは、何から逃げるというのか? わたしたちは、逃げて、どうなりたいのか? なるべきなのか? そもそも、逃げる必要はあるのか? そもそも逃げることは可能なのか? このような問いを、選択肢を、死に際ではない今、著者に作品を通していただけたことに感謝します。 ■ルースとトミーの運命、キャシーの思い、この物語自身の記憶を無駄にしないために、 彼らの記憶を、自分の中に、受け入れていきたいと思います。 もっと深く、日々の物事を感じながら、これからの人生を過ごせるような気がしています。 この作品と、その出会いに、作者に、感謝します。 | ||||
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| 何気ない会話、丁寧な過去そして現在の日常の描写。一見するとただのモノローグ小説のよう。が、それこそがこの小説の凄さだ。 主人公そして友人たちの置かれた状況と環境はこの世界にありえない。凄まじい悲劇だ。 それなのに、それを何気ない日常に組み込み、ぼんやりとした感傷のように仕上げてしまうカズオ・イシグロの凄さを感じる。 凄まじい悲劇の真っ只中にありながら、淡々と役割をこなし、その役割から逃げようとしない彼ら。その淡々さこそが、彼らの「普通ではない」事の証明なのか。 また、細かな感情描写。こんなに「僅かな会話がもたらす友人間の空気の変化」を全編で追い続ける小説も非常に珍しいと思う。 久しぶりに、フィクションの可能性をひしひしと感じた作品であった。 読み終わって見ると、本の装丁すらも選び抜かれたものだと感じ、隙の無い作品だと思った。 | ||||
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| 長崎で幼少期を過ごした筆者。メタファーになり得るほどのIDENTEITYには小説内には過不足はあるようだが、静観は出来ないイライラ感虚無感絶望感希望的観測自己満足感を痛切に投入されてしまった瞬間、あまりスペイサイドよりは島云々のアイランド系のモルトで感慨したい欲情にかられました。 | ||||
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| カズオ イシグロの作品は以前から気になっていましたが中々手をつける機会がなく先日NHKの特集で読む決心をしました。ストーリーはそれゆえに何んとなく把握済みでした。文章の読みやすさもあり一気に読み終えました。主人公のゆっくりとした間を置いたような語り口で彼女たちの取り巻く環境が特殊でありながら全くそれを感じさせず、3人の登場人物に起きるちょっとした事件や、やりとりに自分を投影させながら読んでいきました。何気なく語られるエピソードや感情が特別なようで特別はなく、しかもそれは彼女たちにとってとても大切なものであるということが自分の生活においてもいろんなものを見過ごして本当は大切なものであることを適当にしているんではないかと感じさせられました。ただストーリーを追って読んで行くだけでも面白い作品ではありますが、空気感が素晴らしく、最後のシーンは小説の中で吹く風を自分自身も感じることができました。言葉の力をつくづく思い知らされた作品です。 | ||||
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| 映画を観にいく前の予習として購入。コシマキは出演者が印刷されたものでした。 映画のほうは、原作のエピソードを大幅に端折ってあるので、映像だけを記憶に残し、ゆっくり読み返すとよろしいかと。 | ||||
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| 自分の感受性では、最後まで本書を理解することができなかった。 他のレビューにあるようなリアリティについては気にならず、文章の良さもあってすんなり入り込むことができた。内容が退屈だということもなく、400ページ以上にわたってぎっしりと文字がつまっているが、割と短時間で読めた。 しかし、本書をどのように受け止め、どう表現していいのかがわからない。 確かに読了後、何かが心の中に残っている。しかし僕の感受性、表現力、語彙では、これが何かを表現できないばかりか、自分自身でもよくわからない。何だか、モヤモヤしている。 本書は極力ネタばれはない方がいいと思うので気をつけたいが、 しかし、以下、ちょっとだけネタばれになるかもしれない。 本書の中心となる3人は、運命を受け止め、抗うことなく生きているように見える。あるとき、ひとつの希望が見えた。その時の彼女らの反応はどうか。著者のまさに抑制のきいた文章のごとく、彼女達は自分達を抑制しながら行動する。 その心の動きは理解できる。どうしようもならないと運命を受け止めているとき、人はそのように行動するのかもしれない。でも、本心は、望んでいるのは、きっと違うのだろう。 次のセリフが、頭に残っている。 「よく川の中の二人を考える。どこかにある川で、すごく流れが速いんだ。で、その水の中に二人がいる。互いに相手にしがみついている。必至でしがみついているんだけど、結局、流れが強すぎて、かなわん。最後は手を離して、別々に流される・・・」 そこで、本書のタイトルを思い浮かべる。そう、あのカセットテープの。Never Let Me Go・・・わたしを離さないで。わたしを行かせないで。そんなことをしないで。 そして、彼女たちの出来事と、想いとを想像するのだけれど、その想像が最後まで辿り着けない。 まだ、僕には本書を理解することができない。 何か重要そうなことだと思うのだけれど。 | ||||
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| これは「失われてゆくものの物語」。 この物語が描く「失われるもの」とは何か。 本当に様々な解釈で読む事ができるのです。 私たちが人生で触れるものは、観念的事柄であれ、具体的事物であれ、 全て、ひとつ残らず、失われてゆきます。 それだからこそ美しい、と思う人もいるでしょう。 愛おしさ、あるいはやりきれないほどの切なさを感じる人も、 失われるものそのものによっては、不安や恐怖を抱く人も…。 それがそのまま、この本の読後感となります。 それはつまり、読み手によって、また、人生の折々で読み返す度にも、 まるで違う物語となり得る、素晴しい小説。 緻密な筆致、隙のない構成も見事です。 まるでその世界を手に触れることができるような、緻密な描写。 誰しもが子供だった頃、ティーンエイジャーだった頃、 経験したような事ばかりではないでしょうか? 抑制のきいた文体で語られてゆく、想い出のエピソードの数々は 本当に些末な出来事がほとんどです。(しかし物語にとっては重要な…) それと対照的に、この物語世界に終始して横たわる、非常にヘビーな「現実」。 そのコントラストが、 キャシー達をより「私たち側」のリアルな存在として感じさせ、 その世界の異様さを、あくまで叙情的に受け入れる事に成功させている、ような。 何にしろ、私にとっては非常に思い入れの深い一冊であり、 この先、一生にわたり幾度も読み返してゆくだろうことを予感させるのです。 この本を幾度失おうとも、その度に、取り戻すのです。なんちゃって。 (実際、一度なくして買い直しました) | ||||
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| KAZUO ISHIGUROの名前を知ったのは数年前のことだが、数冊の本を出していて、それぞれの本がせいぜい200〜300ページくらいの厚さしかないと言うことにちょっと感心しただけだった。今回この本を手に取ったのは映画化されたのがきっかけだったが、彼の作品の短さだけでなく寡作であることにも驚かされた。デビュー作の「A PALE VIEW OF HILLS」が出版されたのが1982年で、最新作で七作目の短編集「NOCTURNES」が2009年に出されているから、およそ4年に1作と言うところだろうか。4年と言えば、STEPHEN KING氏だったら数百ページの長編を毎年出すことができるだろうし、村上春樹でももっと短い間隔で作品を発表できるだろう。それなのにISHIGUROはその道を辿らなかった。 この本を読み始めて感じたのが、恐ろしく愛想の無い小説だと言うことだった。なかなか心の中に染み通ってこない。英語も、単語はそれほど難しいものは使われていないのだが、構文は平易でないし、近づきがたいものがある。しかし読み進むうちに漸く分かった。わざとこんな書き方をしているのだ。一つ一つの作品が短いと言うことは、各作品が決して雑に仕上げられたと言うことではないのはすぐに理解できる。それどころか彼の場合、一つ一つの文章に掛ける時間が恐らく長いのだろう。ありきたりの言い方だが、彫琢の限りを尽くして創造したと言って良いかもしれない。 主人公であり語り手でもあるKATHYが、友だちと幼少年期過ごしたHAILSHAMと言う学園は最初のうちはなんでもない雰囲気で、物語の展開も単なる学園小説だと勘違いしてしまうほどだ。ところがある雨の日、Miss LUCYと言う女性が生徒たちに語った言葉でやっとこの小説の重さが理解できた。ある目的で作り上げられた生命と言うのは、何かしら家畜や農作物を想像させてしまう。こう言ったテーマの小説は、他の作家も書けるかもしれない。星新一だったらきっと、さらっとショート・ショートを仕上げててしまうだろう。筒井康隆だったら、批判されそうな小説を書き上げてしまうかもしれない。もちろん二人とも奥底に持っている考えは深いことは言うまでもないだろうが……。 この小説は長編小説だが、ペーパーバックで300ページくらいの手ごろな小説だ。長編に慣れている読者だったら、面白いかどうか分からないうちに読み終えることができるだろう。ぜひMiss LUCYが生徒に向かって発言するところまで読み進んでほしい。そうすれば、この小説の重みが理解できるのではないだろうか。 | ||||
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| 若い女性が語る形式で物語りはすすみ、最初のページで施設育ちの介護士の話かと思ったが、すぐに提供者、保護官などの言葉が出てくるのでこれは違うのだと思うようになった。一部、二部、三部とだいたい時間に合わせて物語はすすむし、日本語にも違和感はなくとても読みやすい。性格表現もすばらしく、語り手の友人トミーとルースには読み進むうちに実在の人物のように思えるようになるから不思議である。登場人物がいかにも語り手のように行動しそうに思うようになる。語り手の疑問も、最後には登場人物により語られる。が、読者には正直、疑問な点もあるだろう。だから、星5と言いたいが、読者の疑問、たとえば作品の科学的背景や社会的背景が少し現実離れしている気がするので、星4。余談だが、解説者が遺伝子工学云々されるが、逆に関係ないとした方がいいと思う。つまり、チェスの駒の動きの規則に疑問を挟んでもしょうがない、ナイトは何でこんな動きなの?、これに答えろと言われても。ところで、あのジュール・ベルヌも大砲で月旅行に行き、宇宙空間で窓を開けて物を捨てて閉める物語をまことしやかに書いて、読者、つまり小学生は信じた。いまはなぜできないかわかるが、このことが進歩とは思えないし、ベルヌはいまだに好きだ。カズオ・イシグロのファンも同じと思う。 | ||||
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| 幼い頃から手厚く「保護」され、 親のエゴの被害も受けず、純粋培養される提供者たち。 彼らは自分たちの使命を、幼い頃からたたき込まれる。 提供に相応しい身体を作るために若年同士の「セックス」も奨励される。 自分自身の「完了」に対する恐怖は、ない。 一定の年齢になると「提供」が始まり 介護人としての道も選べる。 芸術作品の創造により、提供を猶予されるかもしれないという希望が打ち砕かれても、 一瞬の絶望の後、穏やかにそれを受け入れる。 戦慄のストーリー?それは違う。 私たちは、むしろへールシャムの生徒たちに羨望を覚えるだろう。 彼らの,意義ある短い人生の何と輝いていることか。 目標もなく,寿命が終わるまで漂い続ける「普通の人生」のなんと残酷なことか。 私は断言する。 ヘールシャムの彼らは、この上なく「幸福」なのだと。 この世の誰もが決してたどり着けない 「生の意義」を達成して逝けるのだから。 読後感は、萩尾望都氏の「トーマの心臓」を読んだときに似ている。 出来れば萩尾氏に漫画化してほしいけれど、映画にもなっているし無理な話か。 | ||||
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| 読了した後、”切ない”という感情が胸にあふれてくるような小説。 最近”泣ける”というキャッチコピーが大流行りだが、泣くという単純で直接的で幼稚な感情に うったえる安易な小説に辟易している人にこそおすすめ。 切ないという感情は泣けるよりもずっとはかなくて、もっと優しくて、より深く心にしみいるものだと思う。 こんな小説はめったに出会えるものではない。 いくつかのレビューを読むと、この小説の特異な世界設定や、物語における謎にとらわれている人が多いようだが、 この小説は決してSFでもミステリーでもなく、純粋な青春小説である。 SF的な要素やミステリー的な要素があったとしても、それは子どもから大人になるという青春時代にだれもが感じる切なさを 表現するために必要な設定にすぎない。 フィクションとしての設定を最大限に活用することにより、現実よりもリアルな感情を読者の心に 生み出すことに成功しているこの小説こそ、まさに本当の小説というものだろう。 | ||||
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| 飛ばし読みしたけど、ラストらへんで心がプルプルふるえました。けど涙は出ない。ふしぎな読後感でした。 個人的に、トミーが「キャス、おれは介護人を替えようと思う」と言い出したところがシビレました。これぞデリカシーじゃないかと。 あと、トミーが「(フランクな)ルーシー先生が正しいと思う。(厳格な)エミリ先生じゃない」というとこは、非常に悩ましかった。そんな単純じゃないだろうというか。 ちなみに映画版は超駄作でした。製作費50億円で、興行収入が2億円というのが超納得。観客の女の子たちからはすすり泣きがきこえてきましたが、泣いてる意味がわかりませんでした。これは、僕の心がこわれてるせいかもしれません。というか途中で居眠りしたせいかもしれません。 主人公たちが生体移植用のクローンという設定は、すべてが経済原理で格付けされてしまう民衆のメタファーになっているようで、魂の自由の問題をあつかっているのかもな〜。 | ||||
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| 読みながら背筋が寒くなるほどの戦慄を覚えた。本書のタイトルが示す情感と、カズオイシグロの代表作『日の名残り』のレトロロマンな読後感から、同様の期待を持って読み始めたのだが、まるで違った現代版ホラーだった。SFといえば近未来を扱ったものがほとんどだが、この小説の舞台は1990年代という同時代である 臓器移植を扱った小説や映画には、テオ・アンゲロプロス監督の『一日と永遠』や日本にも梁石日の『闇の子供達』といった秀作が存在するが、臓器提供者は他者化されており、彼等を巡る人物たちのヒューマニティーが課題だった。これらとは違って、この物語は提供者の一人称の語りで展開される。主人公のキャシー・Hの他人を思いやる優しさに感情移入すればするほど、我々の常識はひっくり返って、この世界の狂いようが剥きだしになる。 もちろん現実にこんなことが起きているはずはない。作者の度を超した妄想と笑い飛ばすことは可能である。だが人間が人間以下の人間を作り出してきた歴史は否定しようがない。古代ギリシャでは奴隷は人間ではなく「労働する動物」(ハンナ・アレント)だったし、コロンブスが新大陸を「発見」した時、先住民のインディオたちが人間かどうかで困惑し、彼等はキリスト教徒でないから人間ではないと結論した(ツベタン・トドロフ)。近世に至ってもアメリカでは黒人が人間以下であることを「科学的」に証明しようとして躍起になっていた(S・J・グールド)。 奴隷と黒人が人間に「昇格」した後、苦役労働をロボットに肩代わりさせようとの期待が始まったが、何万もの精巧な部品を組み合わせて知能を有するアンドロイドを組み立てるより、クローンを作る方が易しいという風に技術開発の方向が変わって来ている。クローンにはこれに加えて人間に臓器を提供するという新しい役割が担わせられ得る。現在のところは人間のクローンを作ることは人道にもとるとして禁じられているが、増加する臓器需要を満たすことは緊急の課題でもあり、古典的な倫理観がどこまでこれに耐えられるかどうかは甚だ心許ないのである.こう考えると、カズオイシグロの想像力は豊かであっても荒唐無稽ではない。 アシモフが唱えるロボットの3原則−人間に危害を加えない、人間の命令に服従する、自分の身体を守る−にクローン人間がぴったり当てはまってしまうのにも驚く。見方を変えれば、この原則はロボットのみならず人間にも当てはまり、上層階級が下層階級に望む、偏見剥きだしの勝手な理想像に過ぎない。この原則を、将来クローンは「人間でない」とする解釈に役立たせてはならないのである。 クローン人間を人間以下とすることは、原理上古代奴隷を、アメリカ先住民を、黒人を人間以下とした発想と変わるところがない。作中のクローン人間の「細部まで抑制が利いた」(柴田元幸)悲しみからあぶり出されているのは、ヘイルシャムの「進歩的」な教育者が証明しようとしたクローン人間に魂があるかないかではなく、人間の側に魂が有るか無いかという問題なのである。2011年の現在に、これを馬鹿馬鹿しい小説だと言って顔をしかめることは出来ても、2025年に同じように顔をしかめることが出来るかどうか、筆者には全く自信がない | ||||
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| 1ページ目から抵抗なく作品の世界に入れて一気に読了。作者と翻訳者の文章にとても魅力があった。 話の設定は突飛ではなかったと思うが、最初に大きい秘密を知るところまでは読むのを急いた。途中、幾度か(漫画で)数作品を思い浮かべる。 主人公の一見冷静な語り口は感情の起伏を感じさせないようでいて、登場人物の置かれた状況に思い入れが入って読めると訴求力が強く在るだろう、不思議な雰囲気をもった大変素敵な作品でした。 | ||||
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| 衝撃的な内容であるにも関わらず その出来事を越える人間の心の動きを描いている。 素晴らしい小説にめぐり合った喜びがこみ上げてきます。 彼のインタビューで世界中にいる過酷な運命に従うしかない 人たちに心を寄せて書いている・・ 初めから漂っているザワザワした不安感はそのまま へールシャムの子供たちの気持ちをより身近に味わって ほしいから・・ともありました。 人間の気持ちの真実に近づくために何重にも練られていて 驚きと同時に静かで深い感動を味わえました。 | ||||
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| 旋律と戦慄がフーガのように放射される作品です。何気ない日常の中に忍びよる切ない未来。重く・深いテーマをKazuo Ishiguroはさりげなく私たちの前に提示しています。2010年日本でもロードショウされた映画を見忘れました。英語版も日本語版も公式サイトがあり、予告編もyoutubeで見られます。レビューにはなりませんが、早くDVD化される日を一日千秋の思いで待っています。 | ||||
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| 過酷な運命を予め定められた若者たちの話なのだが、末期癌を患い、余命があと半年から数年という自分にとっては、本書はSFともミステリーとは読めなかった。 末期癌で、近い将来に死を予定された人が自分の運命をいかに受容し、その過酷さと妥協し、最後は思い出を唯一の糧として死んでいくのか、というメタファーとして読んだ。いわば、数年後に死ぬことが決められており、それを変えられない事実として予め知らされているという状況。自分では運命を変えることはできず(新しい癌の特効薬が出来ない限り。そして、それは絶望的だ)、抗癌剤によって(極めて苦しい副作用を伴うのに、完治されない)余命を数ヶ月、数年引き延ばしているという人生。自分の死を意味する「提供」が数年猶予される僅かな可能性に、主人公たちは心を揺さぶられるが、それは効かないかもしれない新たな抗癌剤の登場に期待をかける末期癌患者(癌難民)に良く似ている。 私のような読み方は邪道で、著者は運命の過酷さと、それにいかに折り合うべきかという主題についてを、臓器提供のためにだけ生まれてきたクローン人間という想像を絶する設定を用いて、淡々と語っているのだろう。しかし、目前に死を控え、抵抗してもしようがないという意味で、本書の主人公たちと似たような人生を送っている私にとっては、全くの絵空事とは思えず、かえって感情移入が難しく(余りにも自分に身近だと、白けてしまうのか)、没頭できなかった。 何故、彼らは自分の運命を変えようとしないのだろうか。 死を目の前にして、私は、自分の人生の意味を考え、無駄な人生でなかったと思いたいのだが、私にとってのヘールシャムは、宝物とはなんだったんだろう、としばし感慨に浸った。 | ||||
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