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わたしを離さないで
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わたしを離さないでの評価:
| 書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.11pt | ||||||||
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全550件 341~360 18/28ページ
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| この本は切ない、本当に切ない。 彼らは「提供者」という宿命に向かって生きているけど、普通の我々と同じように、愛情、友情、怒り、妬み、性欲、所有欲と、人間のあらゆる感情を抱えて生きている。唯一欠けているもの、それは希望。しかし三人は希望を見つける。たとえ希望の行く手に、自分がいないとしても。 その愛と葛藤をドラマチックに描けばそんなドラマになっただろう。しかしカズオ・イシグロは現代イギリスを代表する文学家、そんな安直な真似はしない。あくまで淡々とした語り口で物語を進めながら、いつしか読者は巻き込まれ、クライマックスの高みへと登っていく。細部まで抑制が利いていて、入念に構成されていて、かつ我々を仰天させてくれる小説、という巻末の解説に、もはや付け足す言辞はない。 そして読み終わって思う。普通に生きられる我々は、希望を持って生きているかと。 | ||||
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| 結末を言う訳にいかないのが残念です。 皆読んでください。 一気に、カズオ・イシグロさんが大好きになりました。 | ||||
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| 読後数週間が経ち、「人はそれぞれ事情をかかえ、平然と生きている」という言葉を思い出した。 もし本作品の主人公たちと、現実社会に生きる我々をこの言葉で一括りに出来るとしたら、彼等と僕等との違いは何なのかと考える。 目に見える違いといえば、彼等は子孫を残せない事、必ず誰かに提供する事、決して長生きできない事。 でも、本当の違いはそんな事なのだろうか。 実のところ決定的に違うのは、彼等は必ず誰かの役に立ち死んでゆく、という事ではないだろうか。もし僕等が死に際に一生を振り返った時、実際に誰かの役に立ったなどと、思い起こす事ができるのだろうか。 読了直後から暫くは、作品中の彼等の過酷な運命に対し、哀れみの様な感情を抱いていた。しかし、本当に哀れみを受けなければいけないのは、現実社会に生きる僕等の方ではないかと感じた。 最期の役目を終えて、人知れず息を引き取る彼等の姿を想像してみると、それはとても穏やかな表情だったのではないかと思う。 | ||||
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| ここ最近読んだ外国人作家の小説ではピカイチ! 僕の最近の読書は、本当に面白い小説に恵まれています。 この本は映画を先に観てから、一年ほど経過した2013年に読んでいます。 なぜ一年置いたかというと、映画があまりにも面白かったので、その余韻のまま本書を読みたくなかったのがその理由 そして、、、一年置いたかいがありました! 久しぶりに夢中になって読みふけってしまいました。 抑制の効いた文章。精緻に組まれた構成。伏線や謎がラストで収束していく時のカタルシス。 どれをとっても最高の小説です。 もし本書を読みたいと思っている方はぜひ映画も御覧ください! ストーリーへの没入感がさらに増すこと請け合いです。 本物の小説体験を望んでいる方にぜひ読んでいただきたい小説です。 | ||||
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| 文章の中ではいくらでの表現できるけれども、現実としての再生は・・・・・・ 映画化されているみたい(見てはいない)だけれども、内面をどれだけ描き出せるのか? 言葉の持つ現実感は、リアルを超えることがあると実感させてくれる作品でした。 | ||||
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| 沖縄にある放送局のインターネットラジオに、映画に関する優良な番組があり、そこに取り上げられ、この作品を知った。 静かなサイエンスフィクション、と。 読んでみると、静かながら読後に腹の深いところから大声を出して泣きたくなるような、特異なものを描きながら普遍なジレンマとして読み手の深いところを揺さぶられる。 ブレードランナーの最後、鳩が空へ羽ばたく光景が思い浮かぶ。 あの鳩が本当に飛び立ったのか、鳩など本当はこの世界にいやしないのではないかと、そんなことを思った。海辺の鉄線に引っかかったビニールゴミのはためく音が、鳩の羽音と重なったからかもしれない。 そんな音はとこにも書いていないけれど。 | ||||
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| 明日は高校の卒業式。というのに読み始めたら気になって止まらなくなりました。渡部昇一氏が本の中で絶賛していたので購入。小説なんてめったに読まない私です。最初と最後をさっと読んで、それほどでもないな、きっと渡部昇一氏は原文で読んだから面白かったに違いない。訳本では無理があったのかと思いつつも残りを読み始めたら凄いこと!!マンガ『宇宙兄弟』の伏線の上手さには恐れ入りますが、これも凄い。実際にはあり得ない話とは分かっていてもいろんなことを考えさせてくれる問題作であることは間違いありません。最近のマンガでもありましたよね。アインシュタインやベートーベンのクローン人間を集めた学校のマンガ。このマンガの作者もイシグロの本読んでらっしゃるのでしょうか。今日、DVDと『日の名残り』も注文しちゃいました。 | ||||
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| まず翻訳の文体がデリケートで良い。人間の本質をテーマにしている作品で、懐かしく、また悲しい。 | ||||
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| お腹や、胸や、背中をさすりながら読みました。 すごく抑制がきいてて、淡々と、怖く、痛く、切なく、読後、様々なものが残ります。 地名など現実世界なのでしょうが、主人公達はほとんど一般の人々と交流がないのでフワッとしてて、でも悲しみは共有できて、読後数日経ってもいろんなものが残って、それをあれこれ考えている自分に気付き、そういう小説は良い小説ですよね。これが意図的にできる作家ですから、現代英国最高の作家なのでしょうね。こういう作家が、ノーベル賞に選ばれて欲しいですね。 | ||||
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| 淡々と日常的な感じで、主人公たちのエピソードが語られていきます。 でもよく考えると全く非日常的というか、パラレルワールドのような違和感を感じます。 そして、さくっと読み終わった後に背筋がゾクゾクしました。 決して血しぶきが飛んだり亡霊が襲ってきたりはしませんが、 ふと振り向くと、何かがひたひたと迫ってくるのに気づくような恐怖を覚える小説です。 余談ですが、『ロアルド・ダールの幽霊物語』に『後にならないと』というイーディス・ウォートンの短編、 随分昔に読んだ、この短いけれどやはり読後にゾクッとする小説のことをふと思い出しました。 | ||||
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| The remain of the day で大好きになった作家です。 そのイメージで本作品を読み始めました。 本当に手探りに。途中からは恐る恐るですが。 あえて内容には触れたくありません。 余韻の残る逸品です。 でも、何故?...と尋ねてみたい。 | ||||
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| 舞台はSF。 ですが、描写は、とても一般的、普遍的な日常。 学校生活、噂、友達の輪だったり、恋愛だったり。 しかし常につきまとう、抗えぬ運命。ある目的の為に、生まれたことを意識して その中での日常。一見すると僕達と同じ日常ですが、受ける印象は全く違います。 僕らの日常を考え、見直す気持ちにさせます。 登場人部たちが、突拍子ないこをするわけではないです。 わかっている運命を否定していないですが、なんとなく現実味なく、回避できる希望も持っています。 まるで僕らが漠然と将来に不安をいだきつつも、なんとなく期待するように。 そこが重苦しく、惹かれたところだと思います。 その彼女、彼らの結末に惹かれて、最後まで読んでしまいました。 良い本だと思います。 その本が心に届くかは、人により、またタイミングだと思います。 特にこのような本は、万人には薦めないですが、ぜひご一読を。 | ||||
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| ジャンルの歴史に残るであろう一作。 古典的な題材を、とても丁寧なよみ味のある作品に仕上げた。 Kindleで購入したが、ふと読み返したくなる。 ある意味、電子書籍と相性がいい作品かもしれない。 そんな名作。 | ||||
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| 『私を離さないで(Never Let Me Go)』という題名の意味は、この物語世界の奥に、何層にもなって積み重なっている。 その言葉の最も直接的な意味は、第六章でキャシー自身が明らかにしている。 これは少女時代のキャシーが大好きだった曲の題名で、本来は恋人との別れを悲しむ歌のようだが、これを彼女は「死ぬほど赤ちゃんが欲しいのに産めないと言われていた女性が、あるとき奇蹟的に授かった赤ちゃんを抱き締め、なぜか別離の不安にさいなまれて、『ベイビー、私を離さないで』と歌っている」と解釈していた。そしてその想像上の情景に強く惹きつけられて、この曲を秘かに繰り返し聴いていたのである。 ここで、この題名の翻訳が少し問題になってくる。母親が自分の赤ん坊との別離を怖れるあまり、「私を離さないで」と、(本来は自分が保護すべき)赤ん坊に向かって哀願をするというのは、やや不自然である。この不自然さの由来は、"Never Let Me Go"とは本来は「私を行かせないで」という意味なのに、「離さないで」と訳したところにある。私が「行く」にしても相手が「離す」にしても、結果は同じ別離であるし、『私を行かせないで』では、本の題名としてはいかにもぎこちないから、この翻訳自体は無理もないと言える。しかし、この言葉の意味を考える際には、やはり「私を行かせないで」という原義に従っておく必要がある。 そうすると、母親が自分の赤ん坊を抱いて「私を行かせないで」とその懇願を向ける先は、このいたいけない赤ん坊ではなくて、なぜかそのような悲しい別離を強いようとしている何らかの「事情」に対して向けられているのだと、明らかになる。 それではなぜ、キャシーはこの歌を何度も聴かずにおれないのか。 それは表面的には、自分が「提供者」として生まれ、子供を産めない身体だということがわかっているので、知らず知らずのうちにこの母親に感情移入をするようになったからだろう。 しかしもう少し考えると、実はキャシーがより深く同一化しているのは、母親ではなくて赤ん坊の方であることがわかる。「提供者」であるキャシーは、物心ついた時から母親の顔も知らず、孤独な運命のもとに生まれてきた。なぜ自分の母親は、自分を置いて「行ってしまった」のか。その時母親はどんな表情で、何を思っていたのか。母親は、一度でも私を抱き締めてくれたのか。 そのような、自分の誕生にまつわる永遠の謎を、この歌は一つの「誕生の神話」として満たしてくれる。はるか昔に私にも優しい母親がいて、私との別れを悲しんで私を抱き締め、歌ってくれたのではないか、と。 このようにして、『私を離さないで』という題名の最も直接的な意味は、キャシーたちがその出生から運命的に抱えている孤独と、架空の母親を恋い慕う気持ちにある。 物語中で、ヘールシャムの子供たちが自分の「親」を話題にするところは皆無であり、それは自分たちに「親」など存在しないということを、いつしか知らされていたからだろう。しかしいくら情報として知っていても、どの子供も内奥には埋めようのない深い孤独感を抱えていたはずであるが、ヘールシャムにおいてそれが直接的に表現されることはない。コテージに移ってから、「ポシブル探し」という形に姿を変えて、一度実行に移されただけである。 このようなところからも、ヘールシャムの子供たちがいかに自分の感情を厳しく抑制するように育てられてきたかということが、うかがい知れる。 その後のキャシーには、言葉には出さずとも、その心の中にはおそらく「私を行かせないで(Never Let Me Go)」という思いを強く抱えながらそこから立ち去ったであろう場面が、少なくとも二つある。 一つの場面は、コテージでの生活の最後の頃に、トミー、ルースとの間での行き違いが続き、キャシーがついにコテージを出る決心をして、「介護人」となる道に踏み出すところだ。 モラトリアムは、遅かれ早かれ終わる定めにあった。しかし3人にとって不幸な形で終わらざるをえなかったのは、まだ若い3人はそれぞれの前に迫る運命の重圧を受けとめるのに精一杯で、お互い相手のことまで考える余裕がなかったからである。 もう一つの場面は最終章で、トミーの最後の提供を目前に、二人の間には感情の行き違いが増え、トミーから介護人の変更希望を告げられた後のことだ。「ルースならわかってくれたろう」とトミーに言われた時、キャシーは「聞いたとたん、わたしは背を向けて、立ち去りました」。 クローンとして生まれた者同士が、ある時期までは「介護人」として「提供者」のケアをし、その後に役割を代えて「提供者」となっていくという、この物語で採用されているシステムは、とてもよく考えられている。そこでは、他の「一般人」とは異なった運命を共有する者だからこそわかりあえる一体感が、一種の「自助グループ」のように、ピア・カウンセリングのように、作用するだろう。 もちろん背後には、「一般人」がわざわざそのような存在に対してケアを提供する必要などないという差別や、あるいは実際に「一般人」が関わってしまうとそこに感情移入が起こってしまい、このようなクローンによる臓器提供システムそのものへの懐疑が生まれかねないということで、引き離しの必要性もあるのだろうが。 しかし、物語の最終盤では、このような同じ運命を生きる者同士の当事者性にも、一方が死を前にした時に、亀裂が入ってくる。作者には、あくまでトミーの最期までキャシーを介護人でいさせるという選択肢もあっただろうが、結局キャシーはトミーから離れて「行かされて」しまった。「人間は、生まれるのも一人、死ぬのも一人」という、埋めようのない孤独感が、よりきわだつラストとも言える。 全篇を通じて印象深いのは、ヘールシャムの子供たちが自分の運命を黙って受け入れ、それに伴う様々な意見や感情を表出することは一種のタブーとして、厳しく抑制していることである。しかも、規律正しく道徳的なヘールシャムの雰囲気にもかかわらず、宗教的なモチーフは慎重に排除されている。「人間ではない」存在である彼らは、神の救済からも見放されているということだろうか。 物語が閉じた後、キャシーは「提供者」となり、間もなく「使命」を終えることになる。もしも最後に、「私を行かせないで」という言葉をそこに配置すれば、これは物語中では表明されなかった、クローンによる臓器提供システムそのものへの抗議ということになるが、作者の意図はどうだったのだろうか。 | ||||
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| 素晴らしい作品でした。 作者の日本人らしさなのでしょうか、 独特の抑制された静かで淡々とした語り口・・ それらが織りあわされていって、ラストには慟哭の事実が・・ 残酷な世界を描いているのに、イメージは透明感ある白 そして限りなく哀しくて、深く考えさせられる。 | ||||
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| ヒトは自分の尊厳とプライドによって、 自分のアイデンティティーを持ち、 それを大事に、生きてるような気がします。 わたしたちを救う命と、わたしたち自身の命、 その違いってなんだろう・・・ そもそもこの本を手にとったのは、 福岡伸一ハカセの著書「生命と記憶のパラドクス」の、 「小説の力」で紹介されていたからです。 まったくそれまで知らなかったのですが、 著者のイシグロ氏が、日本生まれ英国育ち。 英語で小説を書くということ。 ネタバレになってしまうのですが、 臓器提供を運命づけられたクローン人間の、 SFでも、ミステリーでもない小説。 ということで手にしました。 SFもミステリーもいろいろ読んできましたが、 その両方のトーンを持っていながら、深層心理を、 淡々と、事細かに描いていくのです。 福岡ハカセの言葉がすべていい得ています。 「言葉の解像度と想像力の射程距離」 まさに、これしかいい表しようないのです。 そしてこの本は、2010年に映画化されたとのこと。 是非そちらで「画像の解像度とイメージの射程距離」を、 味わってみたいと思います。 | ||||
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| 最後まで一気に読み終えました。 とにかく引き込まれます。感情が大きく揺さぶられると同時に、倫理的問題について深く考えさせられます。 通勤通学途中に読むにはちょっと分厚いし、内容的に向いてないかもしれません。 寝る前にゆっくり落ち着いて読みました。 忘れられない一冊になりそうです。 | ||||
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| なんだか無力感に包まれるような、でも面白かったです。 主人公の女の子の気持ち、わかるなあ。 | ||||
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| 不思議な雰囲気のする物語。主人公のキャッシーは優秀な介護人。使命が終わりかけている「提供者」の介護をしながら、子ども時代を過ごした謎の施設ヘールシャムでの生活を振り返る。同世代の少年少女が保護官の監督の下に生活するヘールシャム。不安・恐れ・好奇心・冒険・反抗・からかい・いじめ等々。子どもたちが集団の中で当然経験するであろうごく有りふれた日常を淡々と描く。 しかし、何かが違う。抑制された文体の中に少しずつ醸し出されていく、微妙な違和感。「提供」とは、「回復」とはそして彼らは何のためにここにいるのか。少しずつ明らかになる彼らの「使命」とは。静かに、感情を極力廃し淡々した描写が続く。決して変えることのできない未来(それが「未来」という言葉に値するかは別だが)に向かって静かに生きる彼らの深い悲しみを効果的に演出する。 「生きる」「生きている」「生命」の意味、価値を改めて考えさせられる。 折しも、京都大山中教授のIPS細胞研究に世の話題は集中しているが、IPSで病気治療の為に臓器を作るのは倫理的に許されるとしたら、片腕や片足は良いのか、更に、ヒトを丸ごと一人作るのは許されるのだろうか。 これ以上はネタバレになるので止める。 | ||||
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| (本レビューはネタバレ含みます。ご注意ください) あっという間に読み終えました。 主人公キャシーの独白という形で、異常なことをも淡々と語られるのが怖くて、目が離せません。 でも「面白い!ドキドキハラハラ」という感じじゃなく、ジワジワと引き寄せられ、時折顔をしかめつつ静かに集中して読み耽ってしまう感じです。 終盤は今まで読んだどんな本でも経験したことのない種類の戦慄にぞぞぞっとしました。 恐ろしい運命を知りつつ助けてはくれない保護官達、癇癪持ちだけど真っ直ぐな心を持つトミー、虚栄心や嫉妬心の強いルース、自分の利益を考え猜疑心に駆られているクリシーとロドニー、などのそれぞれの人物の言動や心理を表現するキャシーの語り口が、どこか冷めていて非情緒的で、読んでいて混乱する気持ちでした。 キャシーそうじゃないでしょう、もっと運命に抵抗してもいいでしょう、一体どうしてそんなにその世界の調和を崩すことを恐れるの? と思いながら読んでいました。 しかし、読んでしばらく経ってみると、もしかしたら私も、キャシーのようにただ運命のままに生きている人間の一人なのではないか、とも思うようにもなりました。 私達は多かれ少なかれ、ぞっとするような運命も諦めつつ受け入れ、わずかな希望にすがるように時折夢想したりしながら、ただ淡々と生きているだけの存在なのかもしれない。。。 そして、この作品で描かれる奇妙で恐ろしい世界で、落とし物が全て集められるロストコーナーがどのような意味を持つのかについても、色々と考えさせられました。生きていく上で色々なものを失っていく人々の、遺失物保管所であるロストコーナー。 ロストコーナーであるノーフォークで、失くしたカセットテープを見つけたキャシーが、大喜びするかと思ったら、何かの間違いであって欲しいと思うくらい、全然喜べないという描写がとても印象的でした。探し物を追い求めていた時間はあんなに明るくて楽しそうだったのに、見つかった途端に空虚な思いになる。 またラストシーンでは、トミーを失ったキャシーが、同じくノーフォークで、海岸線に打ち上げられたごみのように、子供の頃から失い続けてきたすべてがここにあると感じ取り、涙します。でも、打ちひしがれることなく、車にエンジンをかけ、出発していく。このラストシーンも、とても深い余韻を残しました。 奇妙で、印象深くて、せつない気持ちになるこのロストコーナーにまつわる二つのシーンが、この作品中特に際立って素晴らしい部分ではないかと思っています。 特に文学に親しんでいなくてもグイグイ読ませ、「この話、なんかすごい」と思わせる力があるところがまたすごい。 変えることのできない運命、生きるうえで避けられない喪失、もがけどももがけども、それらを受け入れざるを得ないとやがて知ってしまった人間の哀しさ。 そういったものを、斬新なメタファーで物語にした、解釈しきれないとにかくなんかすごい作品、という印象を持ちました。 | ||||
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