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フリッカー、あるいは映画の魔



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フリッカー、あるいは映画の魔の評価: 4.80/5点 レビュー 25件。 Dランク
書評・レビュー点数毎のグラフです平均点4.80pt


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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です

※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください

全25件 1~20 1/2ページ
12>>
No.25:
(4pt)

光と闇の闘争

主に映画と宗教においての博覧強記な小説世界が惜しみなく展開されて頭がくらくらする読書体験であった。といっても特段、内容が難しいわけではない。
主人公とクレアの関係も独特なもので物語にスパイスをあたえ、中弛みしそうな折々で小説を引き締めてくれる。
ただ、惜しむらくは、マックス・キャッスルがあくまでも架空の映画監督であり、言わずもがなそのフィルモグラフィーも架空のものであるため、作品の悪魔的な魅力にどれほど文字数を費やそうと、読者はそれを感得できないことである。
マックス・キャッスルの映画に言及する文章を読む限りでは、主人公がなぜこうまで彼に執着するのか理解できないのだ。
では、作品を実際に鑑賞すればわかるはずだと思い至るが、もちろんそのような映画はこの世界のどこにも存在しない。
それを含めて謎を孕むミステリーと捉えることができる読者にとってのみ本作は最高の小説となり得るだろう。
フリッカー、あるいは映画の魔〈上〉 (文春文庫)Amazon書評・レビュー:フリッカー、あるいは映画の魔〈上〉 (文春文庫)より
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No.24:
(5pt)

どうしようもないつかみの悪さの向こうには。。。。

読みたかったけど、長い間品切れ。一時帰国のとき、ブックオフで偶然見つけました。

1998年の「このミス」ベストワンであること以外は全く知らずに読書開始。すぐに、ぶったまげました。
まずは、つかみの悪さ。決して好ましい性格とは言えない登場人物の紹介が延々と続きます。本書は細かい文字で上下巻1000ページを越える大長編。しかも、セリフの中には映画の薀蓄、余計とも言える修辞的表現が続き、結構手強いです。さらには、ストーリーがなかなか進みません。
1時間で投げ出してもおかしくない本ですが、完読して、しかも満足度は★★★★★でした。

1960年代初頭、うらぶれた名画座で主人公はマックス・キャッスルの映画に出会います。キャッスルはB級ホラーの下らない映画がわずかに知られているだけの監督。しかし、彼の作品を見て、主人公はその映画に隠された魔に魅入られてしまいます。
本書は後々UCLA映画学科の教授になる主人公がキャッスルの謎に迫る姿を描きます。
圧倒的なディテールと、オーソン・ウェルズやジョン・ヒューストンなどの実在の人物を登場で、ノンフィクションではないかと錯覚を覚えてしまう上巻。テンペル騎士団やカタリ派が絡み、想像を絶する荒唐無稽なストーリー展開となる下巻。最初の数時間を我慢すれば、読書の楽しさが十分味わえるミステリーです。

ただし、やはり、ある程度の映画ファンでなければ本書はきつい思います。「ローズバッド」という言葉は知っているけど、「二十四時間の情事」は未見という程度の映画ファン(すなわち私)であれば、十分楽しめます。「薔薇の名前」が楽しめた人は必読です。
フリッカー、あるいは映画の魔〈上〉 (文春文庫)Amazon書評・レビュー:フリッカー、あるいは映画の魔〈上〉 (文春文庫)より
416713621X
No.23:
(5pt)

須らく訂正すべし

内容は、星5つのレビューワーが絶賛している通り。一気読み間違いなしの大傑作。

カバーで描かれている南国の楽園風の風景画の意味も、最後で納得、思わず背筋が寒くなります。

内容は星5つでも足りません。けど、訳者はある言葉を誤訳しており、読むのが苦痛。

訳者は「全て」の意味で「すべからく」と訳していますがこれは大間違い。「すべからく」は正しくは「須らく」
で、語尾の「べし」と呼応して「~すべき、であるべき」の意味で使います。決して「全べからく?」ではありません。

原文はたぶん、allかeveryでしょう。だから、「すべからく」ではなく「全ての」、「ことごとくの」「どの~も」
と訳すべきです。

訳者は須らく訂正すべし!
フリッカー、あるいは映画の魔〈下〉 (文春文庫)Amazon書評・レビュー:フリッカー、あるいは映画の魔〈下〉 (文春文庫)より
4167136228
No.22:
(5pt)

読者を睡眠不足に陥れる小説の魔

上下巻というなかなかのボリュームということもあって
ちびちびと読んでいこうと思っていたが
当初の目論見に反してずるずるとはまり込んでいき、
気づけば夜を徹してページをめくっていた。

薔薇十字からフリッカーと
著者の幅広い博識ぶりにも圧倒されたが、
それ以上にマックス・キャッスルなる架空の映画監督、
そしてその謎に満ちた人物が手がけた映画作品など
微に入り細を穿った架空世界に酔いしれた。
フリッカー、あるいは映画の魔〈上〉 (文春文庫)Amazon書評・レビュー:フリッカー、あるいは映画の魔〈上〉 (文春文庫)より
416713621X
No.21:
(5pt)

夢魔の標的

UCLA映画学科に在籍する青年ジョナサンは、カタコンベ(地下墓地)を思わせるむさくるしい映画館、クラシック座に入り浸る生活を送っていた。

その後、クラシック座の女経営者、クレアから映画評論と性の手ほどきを受けるようになったジョナサンは、ある日、幻のドイツ人映画監督、故マックス・キャッスルの手になるB級吸血鬼映画を目にし、その不快極まる映像に嫌悪を催しながらも、何故か抗いがたい強い魅力を感じるのであった。

クレアの勧めと助力によって、マックス・キャッスルの再評価を業績としてUCLAの教授職を得るに至ったジョナサンは、マックス作品についてさらなる探求を進める。

いわゆるサブリミナル効果等、悪魔的なまでに巧緻かつ多彩なマックスの映像トリックの背後に、単に人々に不快や嫌悪をもたらすにとどまらない邪悪な意図を察知したジョナサンは、マックスの生い立ち、彼の生涯に関わった人々を次々とリサーチしていく中、遂にマックス作品の鍵を握ると思われる「嵐の孤児」教団の存在に行き当たった…

この小説、何と表現したらよいのだろう? 文庫版にして上下巻、計1000頁を超える、まさに浩瀚たる超大作
帯の惹句や解説によればゴチック・ミステリーとか、悩殺的小説とか、黙示録的スリラーとか…… いずれにせよ、単純なミステリーには収まらない。

虚実皮膜の間という言葉があるが、実在の人物や史実に巧みにこの物語を組み入れることによって、読者は、どこまでが史実で、どこまでが虚構か判然としない不安な気持ちに置かれることになる。また、この手法により、一見(一読?)、荒唐無稽なこの物語にリアリティを感じさせる効果が生じている。

はっきり言って読みやすい代物ではない。終始、ジョナサンの一人称で語られるのだが、映画をめぐる(虚実ない交ぜの)トリヴィアがてんこ盛り状態なだけでなく、マックスの映画が微に入り、細に入り描写される(この小説の売り物とも言えるが)こともあり、かなりな映画好きでないと、面白いというより、わずらわしく感じてしまうのではないか。

しかし、上巻の後半辺り、漸くマックスの映画の謎に焦点が当たりだした頃から、未曾有の陰謀が少しずつ姿を現し出し、一気に頁をめくる手が早まる。
全体としては、稀有壮大な悪夢を見たような印象。「嵐の孤児」教団に話が及んできた辺りから、キリスト教の教義や異端審問、二元論等の問題が中心に躍り出てきて日本人にはやや取っつきにくい感じもするが、「謎解き」のくだりで、歪で邪な世界観が次第に露わになるプロセスには鬼気迫るものがある。

決して万人にお薦めできる小説ではないが、ミステリー好きかつ映画好きには応えられない重厚かつ一級のエンターテインメントだろう。
フリッカー、あるいは映画の魔〈下〉 (文春文庫)Amazon書評・レビュー:フリッカー、あるいは映画の魔〈下〉 (文春文庫)より
4167136228
No.20:
(4pt)

読み応え有り。

ホラーチックなミステリーが好き、古い映画談議が好きという方は勿論、エンターテイメントも読みたい文学好きにも進められる。ただしメジャーなエンタメ作品のようには読み易くはないので、文学作品をあまり読んだことのない人は、途中でだれるかもしれません。
フリッカー、あるいは映画の魔Amazon書評・レビュー:フリッカー、あるいは映画の魔より
4163177701
No.19:
(5pt)

不思議な吸引力を持つ映画伝奇小説の傑作!

ある青年が名画座で観た映画に惹きつけられ・・・というお話。
世界に映画史の裏面とキリスト教の異端カタリ派の歴史を絡めた伝奇小説。その映画史に関する知識の量や見識は並大抵のものではなく、よくここまで書いたなと感心してしまいます。カタリ派の方の叙述もかなり奥深くここに書かれていることが全て事実かどうかは判りませんが、事実と受け取っても語弊はないとさえ思いました。この小説の虚実皮膜ぶりは半端じゃない超弩級のメタ・ムーヴィー・ミステリともいうべき大作。特に、映画の技術的な部分で微に入り細を穿つような部分が数多くでてきますが、これはよっぽど知っているか、研究しないととても書けないタイプのもので著者の映画に対する入れ込みように脱帽してしまいました。ただ、かなりマニアックな作品なので、これが年末のベストテンで一位になったのは些か驚きましたが。
私の場合、若い頃映画が好きで盛んに観ましたが本書のような観方はしないで単純に娯楽として観ていましたが映画の歴史にはかくも壮大な歴史と暗喩が潜んでいたのかと驚嘆してしまいました。尤もここに書かれていることの殆どは著者による想像でしょうが・・・。
奇想に満ちた映画伝奇小説の大作。是非ご一読を。
フリッカー、あるいは映画の魔〈上〉 (文春文庫)Amazon書評・レビュー:フリッカー、あるいは映画の魔〈上〉 (文春文庫)より
416713621X
No.18:
(5pt)

映画に熱狂したことがあるひとは必ず楽しめる。芸術映画もゲテモノ映画も。

映画最新作をDVDで見るだけのファンではなく、名画座に通ったり、昔の映画、白黒、サイレント映画も好きだったり、映画をみたくてやきもきしたり、足をつかって頑張ったことがある人(笑)には超絶胸に迫る。おびただしい固有名詞やうっとりするような映画のウンチク、映画評論用語の洪水でニヤニヤすること間違いなし。
何よりまず年上のインテリジェンスな女性に性の手ほどきをうけつつ映画の知識を与えられたり、酔いどれジャンキーのアニキがいたり、得体の知れぬカルト宗教の狂人がいたり、幼年期のあこがれの女優と官能的な出会いだったり、あらゆる映画のシーンを喚起させる!

特に映画(文学でも漫画でも音楽でも)に狂ったことがある若い時、その作品の何がよかったか?に対して、いろんなバイアスをかけてみたでしょ?ストーリーに惹かれた?役者?美術?心情を共にする友人がほめてた?あるいは感銘をうけてる批評家や教授の見方に感化された、あるいは自分の人生や立場を相対化してみたり、個別の学問や思想哲学でみてみたり。その作品のウンチクやゴシップ、背景の歴史や思想を枝葉に分けて研究して知識をため込み、さあじゃあこの作品の何に惹かれるのか?そういうものの見方を形成するために躍起になる時期というのがあると思う。
そしてそれは高校、大学と爆発的にいろんな人に出会う時期だ。つまりこれは青春ストーリーにもなっている。そういうところに一番惹かれた。
もちろん、長大なオカルト陰謀ストーリー、幻想ミステリー小説、悪魔的ビジョンを活字でみせるのが白眉であるのだが。

ただし、ラストは最上のノワール的終わり方で、幻想ミステリーとしてよく練られた構造になっているんだけど、ある意味映画で人生ダメにしたオタクを象徴しているともとれてしまった。怖いし、悲しかった。作者の、何かに熱狂しすぎる人たちへの警鐘ともとれたのだ。(それはもちろんクレアの警鐘に託されているけど)
魔に魅入り過ぎたらヒドイ目に遭うぞ!
フリッカー、あるいは映画の魔〈上〉 (文春文庫)Amazon書評・レビュー:フリッカー、あるいは映画の魔〈上〉 (文春文庫)より
416713621X
No.17:
(5pt)

オチまで読んだら、ブックカバーのデザインの意味がやっとわかった。

最新作をDVDで見るだけのファン、ではなく、70年代以前、白黒、サイレント映画も好きだったり、映画をみたくて足をつかって頑張ったことがある人(笑)には超絶おもしろい。おびただしい固有名詞や魅惑的な学術用語でひきつける。
特に学歴高めの人って若い時、その作品の何がおもしろかったか?に対して、いろんなバイアスをかけてみたでしょ?ストーリーに惹かれた?役者?美術?好きな漫画に通じる?あるいは批評家や教授の見方に感化され自分の感性を騙し、あるいは自分の人生や立場を相対化してみたり、個別の学問や思想哲学でみてみたり。そういうものの見方を、形成する時期の青春ストーリーにもなっている。

ただし、最後のオチは最上のノワール的終わり方で、ある意味映画で人生ダメにしたオタクたちを象徴しているともとれて怖いし、悲しかった。

読みながら、この関係なさすぎるカバーデザインはなんなんだよ!と思っていたが最後にわかりヤラレタ。

魔に魅入り過ぎたらヒドイ目に遭うぞ!
フリッカー、あるいは映画の魔〈下〉 (文春文庫)Amazon書評・レビュー:フリッカー、あるいは映画の魔〈下〉 (文春文庫)より
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No.16:
(5pt)

読了するのに骨は折れるが、満足度は絶大

週刊文春 1998年 海外第5位
このミス 1999年 海外第1位

950年代。UCLAの学生ジョニー・ゲイツは、みすぼらしいクラシック上映館でマックス・キャッスル監督の映画を目にする。それはジョニーの一生を左右する映像体験だった。マックス・キャッスルの探求をつづけるジョニー。ジョニーは、やがて、映画に隠された魔物に身も心も絡め取られていくのだった・・・

上下巻1,000ページに及ぶ大著は、読み込むのに相当骨が折れる。ストーリーは、ひとりの青年の数奇な運命を描いている至極単純なものだ。しかし、それに肉付けされる哲学的とも、宗教的ともいえる虚実織り交ぜた巧緻な描写に、翻弄されることしきりである。

本作品は、まず、めくるめくコトバの奔流に幻惑されてしまうだろう。マックス・キャッスル監督作「われら万人のユダ」を評した箇所を引用してみよう。

「独自のキャメラワークと矛盾するように、画面は深い心理学的な洞察にみたされ、精緻な建築のように積みあげた悪夢が大いなる背信を犯したのち、罪の意識に狂乱するユダの内面にぼくたちをいざなうのだ。」

もちろん、マックス・キャッスルが架空の人物であるから、「われら万人のユダ」も存在しないのだが、ジョニーがマックス・キャッスルの映画を評するとき、まさに実在するかの錯覚を覚えてしまう。私は、見たことも聞いたこともない映像作品に激しく心を動かされてしまうのだ。

実在する映像作品を含めたジョニーや、ジョニーの師となるクレア・スワンらの評論の応酬も見所である。キャラクターたちが、あるときは同調し、あるときは反駁するという、それぞれの性向を見事に表出した評論になっているのだ。とても、ひとりの作家の頭から捻り出てきたと思えない。いわゆる名画をボロクソに評しているシーンが多々あるのだが、映画や映画監督、映像テクニックについて造詣が深ければ、より一層、楽しめるのではないか。あの名シーン、あの名セリフを取り上げた作者の遊び心は、おそらく私の知識ではほとんど見逃しているだろう。かなりの映画ツウ度を試される。

B級ホラー映画を作りつづけたマックス・キャッスルは、世界を揺るがす大いなる陰謀の一端だったことが判明していく。これが驚天動地のスケールのでかさ。荒唐無稽として切って捨てることができないところが、この作品の力強さだ。

上巻の前半ぐらいはどこに連れていかれるか分からないので、読了を断念してしまう可能性が大だが、手に取ったなら、是非、最後まで読み通して欲しい。満足感は絶大である。
フリッカー、あるいは映画の魔〈下〉 (文春文庫)Amazon書評・レビュー:フリッカー、あるいは映画の魔〈下〉 (文春文庫)より
4167136228
No.15:
(5pt)

映画好きに贈られた「魔」の書

映画学科の学生、ジョナサン(ジョニー)の1人称で静かに始まり(あたかもフィルム・ノワール作品のボイス・オーバーのように!)、緩やかに、しかし着実にジョニー(と、そして読者も)をマックス・キャッスルと彼の作品の持つ「魔力」のブラック・ホールへと突き落とすローザックの圧倒的筆力は見事というほかない(叙景的というか、映画そのもののような可視的な文章だ)。映画の持つ夢の力を描いた小説はあるが、映画の持つ悪魔的力とその深淵を題材にこれだけ極上のエンターテインメントに仕上げた小説はないだろう。500ページを超える大書だが、まったくだれるということがない。緩やかに進む章が、映画の魔へと続く「地獄への道」だということを半ばわかっているのに(そう、フィルム・ノワールの作品の主人公を待っているのは、つまるところ破滅しかないじゃないか!)、ジョニーと運命を共にすべく、悪の魅力を妖しく放つページを繰ってしまうのだ。

恐ろしいまでの想像(妄想?)力を駆使して映画というメディアの誕生と機能の秘密が語られていくが、それらも映画史的事実と映画のメカニズム(光と影の間歇運動)をキチンと踏まえた上でのものなので説得力も十分。いつしか、虚と実が混じり合い、壮大な物語世界にひき込まれる。

とにかく、ローザックの映画の知識が生半可ではない。「嵐の孤児」、オーソン・ウェルズ…このあたりは正直ありがちなのだが、作中、キャッスルが、「悲しい目」をした女優の目だけを撮るという場面に驚いた。その女優がシルヴィア・シドニーだという点に。まさにシドニーこそ「悲しくも慈愛に溢れた目」を持った女優にふさわしく、こういった人選は本当に映画が好きでなければできないセンスのものだ。個人的にはシルヴィア・シドニーの名が出てきた時点で、この作家に全幅の信頼を寄せてしまったほど。こういった納得できるディテール描写(ローザックの広範な映画知識に裏打ちされた)が、この小説をフィクションとノンフィクションの垣根を飛び越えさせ、強固な世界を形作る大きな原動力となっている。

キャッスルのモデルを「呪われた監督」エドガー・G・ウルマーかと思わせといて、ジップ・リプスキーに「エドガー・"能無し"・ウルマー」と言わせたり、クラリッサのモデルをポーリン・ケイルかと思わせといて、すぐにライバルとしてケイルの名を挙げたり…、という具合に、読者の安易な推測をあっさりと斥け煙に巻くあたりもニクイ。ローザックは実に用意周到だ。

ミステリー・ベストに選ばれたりして(ジェームズ・ケイン的構成でもある)、多くのミステリー読者を獲得したようだが、やはりこの小説は映画好きでなければ、実はその凄さを半分も堪能できないのではないかと思う。さらに言えば、映画館の暗闇の中で、スクリーンに映し出される光と影の戯れを観ることの愉悦を知っている人だけが、この小説の本当の楽しさ―いや、恐ろしさだ!―を身をもって味わうことができるのだと思う。そういった意味では、この小説は、映画好きに贈られた、まさしく「魔」の書なのである。
フリッカー、あるいは映画の魔Amazon書評・レビュー:フリッカー、あるいは映画の魔より
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No.14:
(5pt)

凄い物語

セオドア・ローザックの「フリッカー、あるいは映画の魔」の下巻を読了。壮絶な物語を読了した。
ミステリーの範疇なのであろうが、その範疇には留まらない、壮絶で壮大な物語であった。映画だけでなく、歴史、宗教などの要素を含んだ物語が上下巻にぎっしり詰っている。そしてその物語は驚愕のラストに繋がっていく。いやー凄い物語でした。こういった「大きな物語」は読んでいて気分が良いのです。
切れ味のいい短編の面白さもありますが、こういった壮大な物語の中に自分が漂うのも、読書の醍醐味なのです。
2012年4月現在、絶版なのが惜しい作品です。
フリッカー、あるいは映画の魔〈下〉 (文春文庫)Amazon書評・レビュー:フリッカー、あるいは映画の魔〈下〉 (文春文庫)より
4167136228
No.13:
(5pt)

はまりました

セオドア・ローザックの「フリッカー、あるいは映画の魔」の上巻を読了。1998年のミステリーベスト1との帯もそのままに、ずっと本棚に積まれたままでした。数回チャレンジしたのですが、入り口から物語の世界に入るには道が遠く、挫折すること数回、今回やっと物語の世界に入ることができました。そしてその世界はまばゆいばかりの世界でした。すごい作品です。どんどん物語の世界にのめりこんで生きます。感想は下巻を読んでからにしますが、まるで「闇の奥」のとおりなジャングルの中を彷徨っているような錯覚を覚えます。いやー凄い作品です。次は下巻読了後に。。。
フリッカー、あるいは映画の魔〈上〉 (文春文庫)Amazon書評・レビュー:フリッカー、あるいは映画の魔〈上〉 (文春文庫)より
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No.12:
(3pt)

この名作を絶版にしたのは誰だ!と言いたくて・・・・。

本書は文庫で購入して10年も積本だった。タイトルそのままなんだけど、そう言いたい!この名作になにしやがる!と埋もれてしまった傑作を褒めあげたくて10年経って本書を手にした。(余談だが、僕はそういう事がAMAZONさんにレビューを書いているモチベーションの一つでもあります)で、本作なのだが、確かにしっかり書けている。構成もしっかりしているし、ディテールも緻密だ。しかし、全然スリリングなストーリ・テリングがなされていない。かつ、緻密で重層的な細部も古典的芸術映画や中世のキリスト教神学に興味のない方には衒学的な重たさを感じさせて興ざめなだけだろう。その上-書きませんが-これ、読んで行くうちにオチが見えませんか?僕は上巻から嫌な予感がしていたのだが、下巻になると「もうそこしか落とし所は無いだろう・・・」という確信に近いものに代わってしまい、やっぱりそうだった・・・。ダ・ヴィンチ・コード(上) (角川文庫)より遙かに先を行く着想で著された本書だが、ミステリアスだったりスリリングさをまったく欠いている。大力作なんだけどな〜。残念。
フリッカー、あるいは映画の魔〈上〉 (文春文庫)Amazon書評・レビュー:フリッカー、あるいは映画の魔〈上〉 (文春文庫)より
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No.11:
(5pt)

名著とはそういうものなのだと理解した

これをいまさらレビューする必要などあるのだろうか?

1998年に出版された本書が世界でどのように迎えられたのかをくどくど述べないし、
(ものすごい熱狂を与えたようである)
どのように面白いのかをもうわざわざ述べる必要もないだろう。
(面白すぎて困ってしまう作品である)

かくいう私は最近読んだ(2010年9月)。だから今これを読むことにどれほどの意味があって、
なぜ今わざわざレビューする必要があるのかを中心に述べたい。

もし私がもうちょっとひよっこの小僧であったら、これほど堪能することができただろうか?
と問うてみよう。(むろんいまも十分ひよっこである)
おそらくその展開に圧倒されて「すごく面白かった」という感想を述べるにとどまるだろう。

私は、何故人は映像を見るのかについてあれこれ思索してきた。
私のその足跡をなぞるように、作品の中に記号論的解釈が登場するのである。
だから一種学問的水準で私は自分の理解と哲学者(作者の本業はこっち)の見解を付き合わせていく興奮に恵まれたのである。
(だからその先の展望が読めてしまうということになるが、それはいささかも興を削ぐことはない、むしろ哲学書なんかをぐいぐい読んで、その論点を自分のものとし、ある時は納得し、またある時は反発しといった興奮と同種である)

何を言いたいのかさっぱりな人もいるだろう。
つまり
A 本書が読み手の成熟や知識に応じて快楽を返してくるのである。
(叩けば響くというやつなのだ)
B だから読む時、読む人、読み方を選ばず、いつ、なんどきでもこれは読むに値する。
ということである。
しかしAとBは相反する言明である。
Aは「読み手を選ぶ」であり
Bは「読み手を選ばない」だからである
(こんなとこにもパラドキシカルなトリックが仕掛けられてるし!)
つまり本書はアイデアの宝庫なのだ。
何故いままでこれに出会わずに来てしまったのだろうと不運を嘆きもしたが、
いま読めたことを幸運に思う。

あとマックス・キャッスルをwikiで検索しないこと
(この現実と仮想の境界線を崩すテクニックを堪能したい方はダン・ブラウンもお読みください)

フリッカー、あるいは映画の魔〈上〉 (文春文庫)Amazon書評・レビュー:フリッカー、あるいは映画の魔〈上〉 (文春文庫)より
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No.10:
(5pt)

ミステリ&映画好きならば、是非!

フリッカーとは、蛍光灯などが明滅するときに、
チカチカと明かりと闇が交互に出現する現象で、
この作品の主題である「映画」を
上映するときの状態を象徴的に示しています。
そこに潜む「映画の魔」とは?

1950年代半ば、ロサンジェルスにある裏びれた名画座、
クラシック座に入り浸っていた<ぼく>、
ジョニー・ゲイツは、UCLAの学生。
彼はクラシック座の女経営者クレア・スワンと知り合い、
ベッドで性の手ほどきを受けつつ、映画について学ぶことに。
やがて1920年代から活躍し、40年代に忽然と姿を消した
マックス・キャッスルという映画監督(架空の人物ですが)の作品を
目にすることになります。
それは、B級作品でありながら、妖しい魅力に満ちており、
一度見たら忘れられない映像美に彩られたものでした…。
物語は、このマックス・キャッスルの映画に関する「謎」を解いていく、
70年代までの軌跡を描いています。

この作品、上・下2巻の構成で改行がとても少なく、
活字がびっしり詰まっていますが、
そこには映画への思い入れが感じられる文章が綴られていて、
読むことがこれほど楽しい作業だと思ったことはありません。
キャッスル監督の撮った映像がどんなものか、
その描写がとても素晴らしく、
本当に観てみたいと感じさせるものばかり。
また、70年代までの映画の題名や俳優名がめじろ押しですが、
そうした事実を巧く織り交ぜて、
キャッスル監督が実在するかのように
感じさせることにも成功しているのです。

物語については、その後、
キリスト教の異端、カタリ派の教団が登場してきて、
中世ヨーロッパの歴史に話が及び、
だんだんとスケールが大きくなっていくのですが、
終盤に来て、意外なところに着地したという感じ。

虚実を見事に混ぜながら、
不思議な「映像体験」をさせてくれる、
ミステリと映画が好きな方にオススメの作品です。

フリッカー、あるいは映画の魔〈上〉 (文春文庫)Amazon書評・レビュー:フリッカー、あるいは映画の魔〈上〉 (文春文庫)より
416713621X
No.9:
(5pt)

二晩徹夜した

私は、面白い文章に出会うと、睡眠をしないで、仕事もサボって
続けて読んでしまうと言う悪癖を持っているが、この作ばかりは
そうはいかなかった.一晩では読み切れなかったし、
先に進むのが惜しくて、時間をかけて読んだ。
二晩かかった。

かの国の本は、厚いのがひとつの値打ちだそうだが
(暇つぶしになるかならないかは本の価値を左右するらしい)
この本には、無駄に衒学的なところもなく、きちんとストーリー
に沿ってわくわくする謎が展開していくのである。
翻訳の読みにくさもない。お薦めである。
フリッカー、あるいは映画の魔〈上〉 (文春文庫)Amazon書評・レビュー:フリッカー、あるいは映画の魔〈上〉 (文春文庫)より
416713621X
No.8:
(5pt)

夢魔の標的

UCLA映画学科に在籍する青年ジョナサンは、カタコンベ(地下墓地)を思わせるむさくるしい映画館、クラシック座に入り浸る生活を送っていた。

その後、クラシック座の女経営者、クレアから映画評論と性の手ほどきを受けるようになったジョナサンは、ある日、幻のドイツ人映画監督、故マックス・キャッスルの手になるB級吸血鬼映画を目にし、その不快極まる映像に嫌悪を催しながらも、何故か抗いがたい強い魅力を感じるのであった。

クレアの勧めと助力によって、マックス・キャッスルの再評価を業績としてUCLAの教授職を得るに至ったジョナサンは、マックス作品についてさらなる探求を進める。

いわゆるサブリミナル効果等、悪魔的なまでに巧緻かつ多彩なマックスの映像トリックの背後に、単に人々に不快や嫌悪をもたらすにとどまらない邪悪な意図を察知したジョナサンは、マックスの生い立ち、彼の生涯に関わった人々を次々とリサーチしていく中、遂にマックス作品の鍵を握ると思われる「嵐の孤児」教団の存在に行き当たった…

この小説、何と表現したらよいのだろう? 文庫版にして上下巻、計1000頁を超える、まさに浩瀚たる超大作
帯の惹句や解説によればゴチック・ミステリーとか、悩殺的小説とか、黙示録的スリラーとか…… いずれにせよ、単純なミステリーには収まらない。

虚実皮膜の間という言葉があるが、実在の人物や史実に巧みにこの物語を組み入れることによって、読者は、どこまでが史実で、どこまでが虚構か判然としない不安な気持ちに置かれることになる。また、この手法により、一見(一読?)、荒唐無稽なこの物語にリアリティを感じさせる効果が生じている。

はっきり言って読みやすい代物ではない。終始、ジョナサンの一人称で語られるのだが、映画をめぐる(虚実ない交ぜの)トリヴィアがてんこ盛り状態なだけでなく、マックスの映画が微に入り、細に入り描写される(この小説の売り物とも言えるが)こともあり、かなりな映画好きでないと、面白いというより、わずらわしく感じてしまうのではないか。

しかし、上巻の後半辺り、漸くマックスの映画の謎に焦点が当たりだした頃から、未曾有の陰謀が少しずつ姿を現し出し、一気に頁をめくる手が早まる。
全体としては、稀有壮大な悪夢を見たような印象。「嵐の孤児」教団に話が及んできた辺りから、キリスト教の教義や異端審問、二元論等の問題が中心に躍り出てきて日本人にはやや取っつきにくい感じもするが、「謎解き」のくだりで、歪で邪な世界観が次第に露わになるプロセスには鬼気迫るものがある。

決して万人にお薦めできる小説ではないが、ミステリー好きかつ映画好きには応えられない重厚かつ一級のエンターテインメントだろう。
フリッカー、あるいは映画の魔〈上〉 (文春文庫)Amazon書評・レビュー:フリッカー、あるいは映画の魔〈上〉 (文春文庫)より
416713621X
No.7:
(4pt)

キャッスルのとりこになった ‘ぼく’の悲劇

’98年、「このミステリーがすごい!」海外編堂々第1位に輝いた大巨編。なにしろ会話文が少なく、ほとんどぎっしりの内容なのである。

読者は、主人公の‘ぼく’ことジョナサン・ゲイツと一緒に伝説の映画監督マックス・キャッスルのB級映画と出会う。そして観る者の心へ扇情的に訴えかける彼の映画に魅せられる。才能の絶頂期に忽然と姿を消したキャッスルの謎に取り憑かれ、そしてそれを調べるうちに、ある宗教団体と遭遇する。

ストーリーの進行はきわめてゆっくりだが、キャッスルの謎とあわせて、めくるめく映画のトリビアが読むものを圧倒する。

本書は、キャッスルのとりこになった‘ぼく’の悲劇の物語であると共に、ミステリーというよりは映画ファンを充分悩殺させる文学作品のおもむきを持っている。

フリッカー、あるいは映画の魔Amazon書評・レビュー:フリッカー、あるいは映画の魔より
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No.6:
(5pt)

映画が歴史となるとき

正直この本に出てくる実在の人物はほとんど知らない。
でも伝奇物と思えば、作中でのリアリティさえ失っていなければいいじゃん。
マックス・キャッスルに近づいていく時はテンション上がってページを繰る手が速くなる。
最後まで非予定調和で妖しい気配のまま終わってくれた。
翻訳物の醍醐味を味わえた。
この小説がマックスの映画みたいな存在になるかも。
フリッカー、あるいは映画の魔〈上〉 (文春文庫)Amazon書評・レビュー:フリッカー、あるいは映画の魔〈上〉 (文春文庫)より
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