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水死
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水死の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.50pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全6件 1~6 1/1ページ
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夏目漱石先生が、こころというタイトルに結構悩んで心にしたと。そうかもしれない、性別抜きにして、時折自分の姿を見る他人の目が、私にはこころだか、相手はきっと心で見てるんだと思う時がある。嫉妬心と性的欲望、あわよくば油断するとめんどくさい暴力になるような。この本の主人公はある意味、何とか生き延びるためにた私が殺した、水死した私なのであり、人間のもってる暴力性に無頓着で純粋なまま生きてる、それがどんな結果を生んでも、生きていけるこの主人公はいつもどこか、死と隣合わせなのだろうと思う。ものすごく私的な感想だけど。この年までなんとか生き延びて、逃げ切れてよかったとは思えないけど、水死したもうひとりの私に弔いの気持ちを込めて。おやすみなさい。また、あちらに戻る日まで。 | ||||
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「『赤革のトランク』の材料で『水死小説』の続きを書けるかもしれない」―― 母の死から10年、「『赤革のトランク』を兄さんに渡す約束の年」、小説家・長江古義人は 自身の「晩年の仕事」と位置づける「水死小説」に挑むべく、郷里の「森の家」を訪ねる。 「水死小説」、すなわち「戦争にこの国が敗れる夏の、森に嵐が吹き荒れて川が増水した、 ついには洪水になった夜に、……短艇で乗り出して水死してしまった」父をめぐる最後の記憶。 その舞台化を企てる劇団「穴居人the cave man」とともに、その構想を固めるべく、 長江はひたすらに彼らとの共同生活と対話に臨むこととなる。 「水死小説」ってつまり天皇制と戦争責任をめぐる寓意でしょ? なんて読者のツッコミを 待つまでもなく、あまつさえ「日本軍中枢を相手にした叛乱の一味どころか、自分の計画が 恐くなって逃げ出した田舎オヤジですよ」とまで宣う傍ら、「自分もついて来て舵をとれと いわれたのにノロノロして」結果として生き延びた自己批判も籠めてみせる。 とりわけ前半は、インタヴューを主軸に、過去作を振り返るとの構成を取っているため、 物語の組み立て方なども含めて、ある面では大江健三郎の簡潔な自作解説としての性質を もった作品となっている。 天皇と国民、父と古義人、古義人と息子――そんな幾重にも織り込まれたパターナリズム 表現が巧みに構成されていることは明らか。 その上で、私が生理的に合わなかったのは、『食堂かたつむり』的な無菌空間として 作品世界が貫かれてしまっている点。思想的に相容れない人々が、もはやご都合主義とすら 呼べないほどに、支離滅裂で悪質なキャラクターとしてのみ描き出され、実のところ、 向き合うべき他者を欠いたセカイ、向き合うにも値しない他者を外に置いたセカイとしてしか 全体が機能していない。 無論、知的障害を抱えた息子・アカリという絶対的な他者といかにして交わるか、というのが 主題のひとつでもあるわけだが、思わず口走ったたかが「きみは、バカだ」程度の一言が、 両者の決裂の契機となってしまうような親子関係に何らのリアリティをも見出せないのは、 私のこころが荒んでいるからなのだろうか。 私には民主主義の比喩としか見えない「死んだ犬を投げる」芝居というギミックが終始、 肯定的に語られる点も疑問。 論理は絶えず数の前に敗れ去る。無名、無数の思考を欠いた群衆による祝祭空間としての この世界を見事に告発してみせた世紀の傑作『万延元年のフットボール』の作者が、 大衆の暴力性の発露としての「死んだ犬を投げる」行為を賛美してしまうのか、と 私としてはただただ愕然とさせられるばかり。 クライマックスにしてもフィクショナルに過ぎて、まるで完結していないとの 印象が否めない。 大江自身の手による小説の形を借りた創作ノートとして読めば、かなりの収穫が 期待できるだろう一冊。 ただし、歴史的名小説家の「晩年の仕事late work」としては、氏へのリスペクトが あればこそ、残念と評する他ない出来。 | ||||
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近年の流行作家ばかりでなく、本格的な、日本を代表する作家の作品を読んでみよう!と意気込んで、初の大江健三郎さんでした。 が、正直とてもとても難しかったです。結果から言えば、読み解けなかったです。そして読み疲れてしまいました。 完敗です。←我ながら意味不明…。 そこに並べられている言葉は日本語で、難解な語彙も特にない。文章の意味もわかる。登場人物もわかる。起きている出来事もわかる。 それなのに自分の中でうまく繋がらなくて、それでも読み進んでゆく物語に巻き込まれ、最後の強烈な結末。 もつれた糸が最後までほどけなかった感じです。 | ||||
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帯には「小説としての面白さを平易な文章で達成した」とある。新聞の書評などを読んでも一様に「平易な文章」と評されている。 かつての作品に比べれば確かにセンテンスは短く、難解な語彙は少ない。しかし、立石に水が流れるようにさらっと読めるのか、といえばそれは大間違い。この作家の作品に内在しているようにも感じられる独特の粘っこさは健在だった。 作者本人と重なる作家と障害を持つ息子との葛藤、四国の山間の舞台という大江作品にはおなじみの登場人物、場面設定でストーリーは展開する。中盤やや冗長な印象は否めないが、終盤はある程度のエンターテインメント性も備えている。しかし、どうも初期や中期のような迫力が感じられない。それは「円熟」と呼ぶこともできるのだろうし、こちらの読解力不足の可能性も高いのだが、「水死」より素晴らしい大江作品はたくさんあるような気がする。 | ||||
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個人的な興味として日本文学は死んでしまっているのか、必要なものなのかを確認してみたいという気持があり今回大江さんの水死をテキストに読んでみた。答えとして小説とはかくも自由なものなのかとしか言えなかったが。ラストに近づくにつれ近作のさらばわたしの本よのようにどんでん返しというかとんでもない結末が出てくる そこで私自身意識が固まってしまったがオチをぬかしてもなぜか悪意的なものを本の途中から感じてしまいダラダラした気持ちで読んでしまいまった。私は大江さんの良い読者では今回無かったと思うけど文学のひとつとして受け入れるしかないのだろう。しかし長い時代を経験した高齢の作家の筆による小説であるという点 また内容がアクティブである事は救いである。私には誤解を恐れずに言えば本人の憂鬱 高齢者の憂鬱は決して悪いものではないと感じられたが他の方の意見も聞いてみたい小説でした。 | ||||
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「自分はいまにも現に崩壊に瀕しているんだ」という主人公長江古義人の姿は悲惨である。長江は不用意な言葉から長男と決裂し、妻は癌に病み入院し、実父の水死の実相に苦しみ続けている。作中に「霧社事件」「ギュンターグラス」といった言葉が注釈もなく埋め込まれ、文章は重層的化して異化効果を発揮している。 読み始めると本を置くことができなかった。古義人の苦悩の果てに、想像外の結末が訪れる。物語としての面白さは十分だ。しかし、その先に救いがあるのだろうか。「森に上がる」ことが救いなのだろうが、その道筋がみえてこない。余命が少ないものにとっては、救いをテーマにした次作を待ちたい。 | ||||
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