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Tetchy さんのレビュー一覧
Tetchyさんのページへレビュー数1426件
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小野不由美氏による重厚長大と云う名に相応しい超弩級ホラー小説が本書。なんせ文庫版で全5巻。総ページ数は2516ページに上る。
そして本書を以て横溝正史が日本家屋を舞台に密室殺人事件を導入した第一人者であれば小野氏は日本の田舎町に西洋の怪物譚を持ち込んだ第一人者とはっきりと云える。それを今からじっくりと語っていこう。 本書は外場村と云う約1300人の村人が住まうある地方の村で起きた、村が壊滅するに至った惨事を綴った物語だ。 小野氏はその惨事について事の起こりとなった壊滅に至った山火事が起きる1年以上前の7月24日から物語を始める。 本書がスティーヴン・キングの名作『呪われた町』の本歌取りであることはつとに有名で、現に本書の題名に“To ‘Salem’s Lot”と付されている(Salem’s Lotは『呪われた町』の舞台)。私は幸いにしてその作品を読んだ後で本書に当たることができた―本書刊行時はキングなんて私の読書遍歴に加わると露とも思っていなかったから、すごい偶然でタイミングである。これもまた読書が導く偶然の賜物だ―。 丘の上に聳え立つ古い洋館。そこに引っ越してきた住民。それを機に村には怪奇現象が起き、やがて村中を覆い尽くすことになる。 それが『呪われた町』の話であり、そして洋館に住み着く住民とは吸血鬼であり、彼らが村中の人々を襲うことで次々に吸血鬼になっていくという話である。 翻って本書でも丘に聳え立つ洋館というモチーフは一緒で、ただそれは海外から移築された建物であり、かつて町の大地主であった竹村家のお屋敷を取り壊して作られた洋館であることと、完成後なかなか人が越してこないために村中の人々が村にそぐわない洋館についてまことしやかな噂が立てられている。 そしてようやく入居者が現れるのが1巻の300ページを過ぎた辺り。しかも応対するのはその桐敷家の使用人の明朗な青年辰巳という意表を突いた展開である。 夫婦2人と娘1人の桐敷家の妻と娘2人がSLEという先天的な病気を患っており、日中は全身を衣類で覆わないと外出できない体であることから田舎の外場村に越してきたのだった。他に専属の医者の江渕と家政婦1人を合わせた6人で住むようになる。 更にその桐敷家の一行は辰巳からどうも自分たちのことが村中の噂になっていることを聞くと、村に出て村民たちに挨拶回りをする。 家長の桐敷正志郎、千鶴、沙子の3人だ。都会的で洗練された彼らが村に変化をもたらす。 この洋館と云う共通のモチーフ以外はあくまで小野氏は日本のどこかにあるような人口1300人の閉鎖的な社会で村中の人々が親戚であるかのような小さな地域社会でお年寄りが日々誰かの噂話をしては、村唯一の医院が情報交換の集会場となっている、そんなどこにでもありそうな田舎の村を舞台にして、実に土着的に物語を進めているのが印象的である。 それは小野氏がこの外場村という架空の村について、日本のどこかにある村であるかのように丹念に語るからだ。 まず開巻の一行目はいきなり外場村が死によって包囲されている村であると強調される。渓流に沿って拓けた末広がりの三角形の形を成す外場村は周囲を樅の林に囲まれており、村はその樅の木から卒塔婆や棺を作ることを産業として発展してきた。 つまりまず外場村は死によって成り立ってきたのだ。 更に村には未だに土葬の風習が残っており、そして周囲を樅の山に囲まれていて孤立してきたが過疎には合わず、常に1300人前後の人口が保たれている。 元々寺院の領地に木地屋が入って拓かれたのが外場村の起源であることから寺が村の地位の上位にあり、その土地を村人に分配していたのが兼正、その寺と兼正の招聘に応じて村に来た医師が尾崎。従ってこの三家がいまだに村の三役として威光を放っていること。 その村を拓いた木地屋が竹村、田茂、安森、村迫の四家であり、それに広沢を加えた五家の子孫が今なお村に住んでいること。 斎藤実盛という武将が保元・平治の乱において稲の下部に躓いて敵に討たれた恨みから害虫になって稲を食い荒らすのを食い止めるために、実盛の別称である長井斎藤別当に因んでベットという藁人形を供養するために村を練り歩いて祠まで連れてくる虫送りと云う祭りの儀式。 土葬がまだ残る外場村で死者が甦る『起き上がり』を鬼と評する伝統。 上中門前、下外水口と呼ばれる、上外場、中外場、門前、下外場、外場、水口と云った集落の呼称とこれに山入と云う今では2軒のみとなった集落によって外場村が構成されていること。 人が死ぬと葬儀のために近隣住民が相互扶助を行う弔組という制度。 とこのように上に書かれた田舎ならではの村社会独特の風習は都会生活のみを体験している人間にしてみればワンダーランドのような設定に思えるが、一旦田舎生活をすればこのような昔ながらの風習やしきたりが今なお続いているのが常識として腑に落ちてくる。 これは小野氏が恐らく大分という地方出身者であることが大きいだろう。 私も四国に住んでいた時にこのような土着的な風習に参加する機会があり、寧ろまだ日本にこのようなしきたりが根強く残っていることに感心した思い出がある。そしてそれを体験したからこそ本書で書かれている外場村独特の文化が実によく理解できた。 さらにたった1300人の村人で構成される住民それぞれについても小野氏は深く掘り下げる。 物語の中心人物は室井静信と尾崎敏夫の2人だ。 村の旦那寺の副住職で小説家としても活動している室井静信。 その同級生で村唯一の医院を経営している尾崎敏夫。 この2人はそれぞれ父親が病で倒れたことで元々村にあった寺・医院を継いでいる。静信の父親は脳卒中で倒れ、以後寝たきりの生活となっており、母親の美和子が寺と父親の世話をしている。また小説家を兼業しており、学生の頃にリストカットで自殺未遂をした経験がある。 尾崎の父親は膵臓癌で倒れ、そのことがきっかけで大学病院から戻り、医院を継いだが妻の恭子は田舎暮らしを厭い、隣の溝辺町の市街地でアンティークショップを経営し、店の近くのマンションで暮らしては月に2、3度村を訪れては敏夫と生活を共にしている。 この僧侶と医者の2人は日常的に死に接しているがゆえに、彼らは死に対して敏感であり、従って最初に怪異の正体に気付く。 特に本書では静信が作中で綴る屍鬼を扱った小説の執筆と並行して進む。その内容は自分のせいで死に至った弟が屍鬼として蘇る兄と弟の物語だ。 断片的に語られるその小説の内容は次のようなものだ。 皆に慕われていた弟に嫉妬した兄が弟を殺すが、その弟が屍鬼となって甦って兄を追ってくる。兄は弟は自分を殺した兄を憎んでいるはずだと思い込むが、実は弟は兄に対してそんな感情を抱いていなく、ただ彼を追いかける。 そしてそれは旧約聖書の『創世記』に書かれているカインとアベルのテーマであると静信は桐敷沙子に指摘される。静信の過去の作品は全てこのカインとアベルがモチーフになっているとも。神に見放されたカインはアベルを妬んで殺害する。静信の書く物語は疎外された者の話であると。 神に仕える僧侶の静信が神に見放された者をテーマに物語を書き続けている、この非常に違和感を覚える静信の精神性。彼はどこか神に祈りながら、そこに神はいないのでは ないかと心の中で思っている。 彼は学生の頃、出版社に勤める大学の先輩に云われるがままに小説を書き、そしてそれが出版されることで小説家になった。そして大学2年のコンパの後、彼は寮の風呂場でリストカット自殺を図る。ただそれは自殺をしたかったわけではなく、死ぬか試してみたと云うのが正直な心境だった。そして彼が自殺未遂をしたのは村人たちの間では周知の事実だった。 物語の中心はこの2人をメインに進むがそれ以外にも点描のように村の人々の話が描かれる。 尾崎医院のスタッフたち。橋口やすよ、永田清美、国広律子、汐見雪、井崎聡子ら5人の看護婦、レントゲン技師の下山、事務員の武藤と十和田、雑務のパート、関口ミキに高野藤代。 彼ら彼女らは貧血の様相、もしくは夏風邪の兆候のように倦怠感を覚える患者たちから、やがて同様の症状を訴える人々が次々と運ばれてきては、そのいずれもが決して回復することなく3~5日の短期間で多臓器不全によって亡くなっていく様をリアルタイムで、最前線で知る人々だ。 新種の伝染病かもしれないという不安の中にあって決して恐れをなして退散することなく戦うスタッフとして描かれるが、物語が進むにつれて彼らもまた安全地帯にいるわけではないことが解ってくる。 国道に面するドライブイン「ちぐさ」を経営する矢野加奈美とそれを手伝う友人の前田元子。村外で結婚したものの続かず、離婚して村に出戻ってきた矢野と小心者で国道を走る車の勢いに怯え、いつも自分の2人の子供が事故に遭いはしないかと心配ばかりをしている前田元子。 特に前田元子は父親が病気一つせずに頑強な身体を持ち、それがまた性格をも頑固にさせているお陰で彼女は家庭の中でも委縮して肩身の狭い思いをしながら生活している。このドライブインは外場村壊滅の元凶となる桐敷家の引っ越しに最初に接触した場所でもある。 また村にあるクレオールは外場村の女性を奥さんに貰って村外から引っ越して来た長谷川が経営するジャズの流れる昼は喫茶店、夜は酒も出すレストランという店でそこで結城、中学教師の広沢、村唯一の電器屋を経営する加藤実と同じく書店を経営する田代たちの社交場となっている。 結城は1年前に越してきた最も新しい新参者。彼は木を使って家具を作ったり、糸を染めて布を織ったりする工房で生計を立てている。変わっているのは妻小出梓とは夫婦別姓を貫くため、籍は入れずに生活している。子供は高校生の息子夏野がいる。 新参者の彼にそれらの人物が雑談で彼に語ることで外場村の伝統や伝承、情報などが語られる。 その結城は田舎暮らしに憧れて都会から引っ越して来て1年経つが、閉鎖的かつ排他的な村社会に溶け込もうと村祭りの最終日にある虫送りの儀式のユゲ衆に参加したり、土葬の風習が残る外場村でそれらを取り仕切るそれぞれの集落で形成される弔組にも入ったりと積極的に参加するが、どこか壁を感じている。物語中盤では外場村での生活を厭う自分の息子が村の田中姉弟と親しくなっていることで地縁が出来ていることを驚きながらも嫉妬したりもする。 村に溶け込むことを望みながら一方で村人のようになるのに深い嫌悪感を持つ、自己矛盾を内包した彼はつまり自身が都会から「来てやった」、まだこんな田舎者がいたのかという村民たちを高みから見るような感覚があったからではないか。 だから村人とは上手くやるが決して村人のようにはならないと彼の中で線引きがなされており、田中姉弟が息子と仲良くすることで自分の生活圏を、価値観を壊しに来ているような感覚であったのではないか。彼は田舎に憧れながらもその実、暮すには向いていない人種だったのだ。 尾崎医院で事務を務める武藤の家は高校生仲間の溜まり場でもある。同級生の武藤保と姉の葵、そして既に村外に就職している徹が結城夏野の気の置けない友人であり、そこに村迫米穀店の末息子、正雄が加わる。 村迫正雄は結城夏野のクールな佇まいと決して感情的にならずに論理的に物事を見定める話し方、そして何よりも1つ年下でありながらもタメ口を利き、更には自分の方が年下のように思わせる彼の頭の良さに常にイラついている。 逆に竹村タツが経営する村の入口にある雑貨店タケムラは村の年寄達の溜まり場だ。佐藤笈太郎、大塚弥栄子、広沢武子、伊藤郁美が訪れては四方山話に花を咲かせる。村の入口にあるため、村の出入りに詳しく、また口さがない村の老人たちによる情報交換の場である。「おい、知ってるかね?」がいつもの会話の口火だ。 そこにたむろする伊藤郁美は村の中でも変人として見られており、しかもケチで村の立ち飲み屋でもお金を持って行かず、いつも他人の奢りで飲んでいる老人だ。しかし彼女は村の死人続発が起き上がりによるものであり、そしてその元凶が桐敷家であることを素早く見抜いた人物だ。しかし日頃の行いを村人たちは疎んじて見ており、また彼女の性格自体も決して社交的かつ親しみのあるものではないため、話半分でしか聞かれない。 そんな詳細な背景が設定された外場村とその村民たちを襲う、着々と訪れてくる死の翳。死に囚われた人々は何かに遭遇し、その後は表情が一様に虚ろになり、何かを問いかけてもはっきりしない。しかも食欲もなくなり、ぼぉっとしたまま、ひたすら眠りを貪りたくなる。そしてある日突然褥の中で冷たくなっているのを発見される。 それら一連の連続死は新種の疫病の発生かと思われたが、村に伝わる伝説、死者の起き上がりによる屍鬼の仕業であることが解ってくる。それらのプロセスをじっくりと小野氏はかなりの分量を費やして描く。4部に分けて書かれた物語のそれぞれの流れについて以下に少しばかり詳細に書いていこう。 第1部は閉鎖された変化のない村、外場村の村民たちの日常生活の風景と文化が上に書いたように描かれる。いわば村民たちのイントロダクションだ。そして外場村に訪れた新参者の登場とそして例年とは異なる猛暑が続く夏の日々の下、これまた例年ではありえないほどに村人の死が相次ぐことが示される。いわば終末への序章だ。 第2部は更に死者の発生に拍車がかかる。1節ごとに死人が出てくるほど、次から次へと村人が亡くなる。老若男女の区別なく。そして一方でこれら一連の連続怪死に対する探究が医者の尾崎敏夫を中心に。貧血、夏風邪と誰もが経験する猛暑の中で起こる身体への異変。それがこの一連の死に共通する兆候。これを尾崎敏夫は未知の伝染病の仕業ではないかと推測する。 そしてこの病気が具合は悪いが病院にかかるほどでもないという月並みな症状で始まり、ある日を境に急激に多臓器不全を引き起こす。始まりが緩やかに、そしてあまりに普通であるために気付けば手遅れと云う怖さを秘めていることが強調される。 更には夜逃げの如く村から引っ越す人々も出てくる。それも唐突に周囲への挨拶もなく、いきなり引っ越すのだ。しかも夜中に。 それらの家族は例えば例の奇病に罹ったと思しき家族がいる家だったり、また何の脈絡もなく、村から逃れるかのように引っ越す一家がある。しかも家財道具をほとんど残して。例えば典型的な人好きのする村の駐在さんだった高見も突然亡くなると、残された高見の妻と2人の子供は病院から戻るとその夜家を出てそのまま戻ってこなくなる。そして夜中に引っ越し屋が彼の荷物を運び出し、そして彼の後任として独身者の佐々木と云う人間が配属される。 一連の奇妙な引っ越しに共通するのは夜中に引っ越してきた桐敷家と同じく全て高砂運送が行っている。 更には死人の中には突然直前に辞表を出して職場を辞した者も現れる。それも突発的に。しかもそれらの人々は押しなべて辞表を出した後、3日間ぐらいで亡くなっている。それも例の奇病が発症して。 更にそれら引っ越しをする人々と亡くなった人との間に奇妙な符号が見えてくる。 山入と云う村の中でも特に山の奥まったところにある集落にそれぞれが家を持ち、あるいは山を所有していた一家が全ていなくなってしまったこと。更に村人を山から排除するように夏の終わりに降り続いた大雨によって土砂崩れで山入への道が寸断されたこと。 更に唐突に辞職した人たちは外場村の外に働きに出ていた者たちばかりであること。ただ高校教師だったり、NTTに勤めていたり、溝辺町の役所に勤めていたり、と職業の区別はない。 そして唐突に引っ越した人間の中には逆に外場村の外から村に働きに来ていた者たちも含まれていること。外場村の小学校の校長だったり、村の図書館司書だったり。 村の境界に置かれていた道祖神たちが何者かによって壊され、そして村のウチとソトとの結界のような物が無くなり、桐敷家と云う新参一家が入村し、ウチとソトとの境が曖昧になったかと思えば、逆に村内と村外と人の出入りが始まる。それも唐突かつ加速度的に。 私はこの段階でいわゆる動物たちの危機回避行動を想起した。大地震や天災の前触れを動物たちが察知して事が起こる前に行う集団避難だ。 さらに身内に罹患者を持つ家族はレミングの群れを想起した。今ではデマと云われているが、集団行動を行い、そして集団自殺をすると云われていたあのネズミたちを。 そして死ぬ前に唐突に辞職する者たちは象の墓場の逸話を思い出した。象は自分の死期を悟ると群れから外れ、象の墓場と云われる場所に向かい、そこで死を迎えるのだというあの話を。 人も動物である。人が他の動物と一線を画しているのは理性と卓抜した知能を持っているからである。 しかし村で蔓延する奇病がそれら理性と知能を排除し、人を他の動物同様にするものであれば、人もまた上に挙げた動物の習性に従うのではないか。 読者の目の前にはいかにも怪しい要素が眼前に散りばめられているのに、なぜかそれが線となって結ばれない不安感をもたらす。 丘の上の兼正の屋敷が取り壊された跡に移築された洋館と遅れて真夜中に引っ越してきた桐敷一家。 村でまるで伝染病の如く次から次へ村人の命を屠る正体不明の病。 そしてなぜか村で頻発する夜逃げのように夜中に村から引っ越す人々。 駐在員の死と共に速やかに後任として村に来た佐々木と云う巡査。 そして突然勤めを辞めたかと思うと急死する人々。 それが第3部で一気に明らかになっていく。いわば現実的レベルからの飛躍の章だ。 爆発的に増えゆく死者とそしていきなり村からいなくなる失踪者。そこから尾崎敏夫が導くのは村に残る言い伝え、死人が墓から起き上がり、村へ下りてきて祟りをなすと云われている「起き上がり」が起きていると云い放つ。つまり一連の怪事はこの非現実的な、昔話的言い伝えによって全て筋が通るのだと主張する。そしてそれを裏付けるが如く、村人たちの中に人外たちの視線を感じる者が出てきたり、死んだはずの人間を見かけたりする。 つまり第3部は物語の核心への突入だ。外場村では古来甦る死者、即ち「起き上がり」のことを鬼と呼ぶ。そう、起き上がる屍、即ち屍鬼。ようやくタイトルの意味がここで立ち上る。 そして尾崎敏夫と室井静信との会話で一連の奇病による突然死が吸血鬼のキーワードで結びつく。この辺りのロジックは極めて興味深い。医学的専門知識という現代の知識の中でも最上位に位置するであろう医学の見地から吸血鬼による疫病の蔓延を解き明かす、このミスマッチの妙が見事なバランスで絶妙に溶け合っているのだ。 更に静信が話すヨーロッパのヴァンパイア伝説の起源についても現代医学の知識で当時の人々が死人が甦り、生者の生き血を吸って生きていたとしか思えない現象を鮮やかに解き明かす。 つまり小野氏は本書にて現代医学の見地から吸血鬼のメカニズムを語るというこれまでにない吸血鬼怪異譚を生み出したのだ。 さらに安全地帯と思われた尾崎医院にもとうとう犠牲者が出る。 そして屍鬼の侵略は加速する。 そして最後の第4部は戦いの、そして村の終末の部だ。狩られる側の人間が屍鬼の存在を認知し、狩る側に転じる。村が殺戮の場と化し、そして終末へと向かう。 一転村民たちは自分たちの身内が屍鬼に殺されたことを認識する。いやそれまで敢えて目を背けていた事実に向き合うのだ。 最後の部に相応しい心揺さぶられる物語だ。屍鬼対人間の攻防。しかし単純な二項対立ではない。 屍鬼の側には彼らを理解する人間もおり、そして人間の側にも屍鬼を屠るのに躊躇う者もいる。中には戦いもせずに村を離れることを決意する者もいる。 かつては自分の身内だった者を屍鬼だからといって割り切って殺せない村民。村民のほとんどが家族・親戚のように近しい関係であるため、生前の彼・彼女のことを知っているがゆえに躊躇う。 しかしほとんどの村民は最初はそんな忌避感に囚われながらも、自分の身内が殺され、または屍鬼にされたことを思い出し、その怒りと遣る瀬無さをエネルギーに変え、杭を急所に討ち振るう。 また私が読んだのは文庫版で上にも書いたように全5冊から成っている。そして各巻の表紙絵は藤田新策氏によるもので横に並べると両脇に書かれた樅の木の幹を境に繋げるとさながら一枚絵のように見える。 1巻は深夜のトラックが訪れる場面で、即ち村への怪異の訪れを示し、2巻は夜明けのように見える丘に聳える洋館、桐敷邸とそこへ至る坂道を上る1人の女性の姿、そして野犬が2匹描かれた図柄で、怪異との接触と表出を表しているように見える。 3巻は黄昏時の村を丘から眺める高校生と思しき青年の後ろ姿と収穫の終った稲田と農小屋が描かれ、そして4巻ではとうとう村が漆黒の夜に包まれ、その中を屍鬼と思しき村人が所々に佇む姿が描かれる。 最終巻の5巻は炎上する村を背景に立つ少女の姿だ。この少女は桐敷沙子だろう。物語の、外場村の終焉を謳っている。 また芸の細かいことに1巻では青々としている樅の葉が3巻を境に枯葉色に変わっていき、そして4巻でとうとう全てが枯れ果てた色に変わってしまう。樅の葉の色で屍鬼の侵食具合を示しているようだ。 このようにそれぞれの部について語るだけでもこれだけの内容の濃さである。そしてもちろんその物語には様々に考えさせられるテーマを含んでいる。 例えば二極対立による対比構造もまた本書の特徴の1つだ。 上にも書いたが、閉鎖された村である外場村は今、日本中の地方村が抱えている過疎化とは無縁であるが如く、人がいなくなっては外から補充されるように常に一定の人口で保たれている。つまり変化のない村と見なされながら、実はその村の中には新たに介入する転入者によって微小ではあるが、変化はもたらされているのだ。 外場村に先祖代々住み着き、根を張っている地元民と外部から村へ引っ越してきて田舎暮らしを始める新たな村民。昔ながらの村民は村の中心から奥まったところに家を持ち、新しく来た村民たちは山を頂点に上中門前と呼ばれる集落を中心に住んでいるのに対し、扇状に形成される外場村の末広がりの部分、国道にほど近い外部と接した集落、下外水口と呼ばれる場所に家を構える。 下外水口に住む人々は村の人々が昔から旦那寺である檀家ではないことから、ここの風習や寺至上主義の村民の考えに疑問を持っている。 もともと村に地縁のある者は外部から来た者を余所者と呼び、なかなか仲間に引き入れない強い排他性を持つ。それをいわゆる余所者はそういった村社会の妙な結束に嫌悪感を抱く。地元の人々は寺を敬うが余所者は寺を悪し様に云う人もいる。特に村の人々は自分の思ったことを口に出すことに抵抗がない。それが寧ろ隠し事がない点でいい意味であり、他者に対する配慮に欠ける悪い意味でもある。 そして一方で若者と大人という二つの価値観の違いもまた存在する。 変化のない、家と外が地続きのようでちょっと出かけるのに普段着である村人たちに嫌気が差し、鬱屈感を抱えて日々ここではないどこかを望む、都会生活に憧れる若者たち。 村の気兼ねない生活と村民みなが家族のようで、それぞれの家庭に関する噂話に事欠かない大人たちは村に骨を埋め、村から出ることなくそのまま村で死ぬことを望む。 特に大川篤、清水恵、結城夏野の3人が特徴的だ。 大川篤は溝辺町の高校に通い、卒業後就職先もなく、親の酒屋を無給で働かされている。口うるさく頑強な父親に怒鳴られながら使われる毎日を疎ましく思い、昔から素行が悪く、小さい頃に地蔵様の賽銭箱から小銭を盗んでいたことをまるで昨日のことのように云われ、何かが起これば自分の仕業ではないかと後ろ指を指される日々にうんざりしている。給料を払ってもらえないから自由になる金もない、外に出るのに車もないし、高校時代の友達は進学または職を持っているが、自分は親の仕事を否応なく手伝わされているだけと面白くない毎日を送っている。 清水恵は都会の暮しに憧れ、高校を卒業した村の外で暮らすことを夢見ている。そんな中、都会から引っ越してきた結城夏野の、明らかに村の高校生たちとは違う洗練さに魅かれ、彼と手を取って外に出ることを望んでいる。部屋着にサンダル履きで家の中と地続きのように外出する幼馴染の田中かおりとは違い、ちょっとの外出でもいつも身綺麗にして誰に見られてもいいように、自分もまた都会の人々と一緒に行動してもおかしくないようにと振る舞っている。だから1つ下ながらいつまでも幼馴染として親しく近寄ってくるかおりを疎ましく思っている。ダサい田舎暮らしから早く出たいと願っている。しかしそのために外の大学に通うための勉強をやっているというわけでもなく、願望と行動が伴っていない、今どきの女子高生である。 そして結城夏野は両親の田舎暮らしへの憧れに付き合わされた環境の犠牲者だと思っている。都会人特有の他者無関心・無干渉の考えが徹底しており、常にクールに振る舞う。いつも一緒につるんでいた年上の武藤徹が亡くなっても涙一つ流さず、その状況をありのままに受け入れるほど、他者との距離感を保っている。その思考はニュートラルで父親のこうでなければならない、こうであるべきだという正義と良識を盾にした論理に対して、では自分の意思を無視して田舎暮らしを強いた決定はどうなのだという、いわゆる思春期の高校生が抱く正論をいつも胸に抱いて鬱屈している。そして都会の大学に出てこの村を離れるために勉強を頑張っている。 地元民と余所者、村を離れたい若者と村に根差した大人たちといった対比構造は即ち「ウチ」と「ソト」の2つで解釈が出来る。 その「ウチ」と「ソト」の概念は都会と村では定義が異なる。都会では文字通り自分の家の扉・門が「ウチ」と「ソト」とを隔てる境界であり、扉を出た途端、人は外向きの顔になる。 しかし村では余りにその隣人関係が近いがためにいつしか村全体が1つの家族・親戚であるかのように錯覚し、お互いが気兼ねなくお互いの家を訪れ、自分の家のように上がり、振る舞い、世間話をする。村の各所に置かれた道祖神は「ウチ」と「ソト」の境の神であり、外敵から村を護るために祀られたものだが、もはや村の「ウチ」は家の「ウチ」と同義になり、村全体が村民の家の「ウチ」と同化する。だからこそ村民たちは老若男女問わず、外出するのにも普段着どころか部屋着の類でつっかけ履きで歩くのが当然となっているし、外出するのに戸締りもしない。なぜなら村が家だからだ。 更に物語が進むに至り、その「ウチ」と「ソト」は即ち「生者」と「死者」、いや「屍鬼」とに分かれる。 本書に出てくる屍鬼はそれぞれが生前の姿を保ち、そして生前の記憶を持ったまま起き上がる。異なるのは既に生命活動がなされていないことと、人の生き血を吸わないとその状態を保てないこと、そして日光に弱く、皮膚が焼け爛れてしまうことだ。 従って彼らは夜のみ行動する。夜はさながら一般人が日中普通に生活しているかのように彼らが村中を跋扈する。 外場村というコミュニティの中で昼と夜の世界が生まれ、そして生者と死者とに分かれる。更に屍鬼はその家の者に招かれないとウチに入れない。 更に静信はその生者と屍鬼とを自分の小説のテーマとしているカインとアベルの関係に桐敷沙子によって擬えさせられる。2人の兄弟の父母であるアダムとイヴは禁断の実を食べることで楽園であるエデンを追放された。彼らが住む外界を流刑地と呼ぶならば、弟殺しの罪でその流刑地を追放されたカインは即ち楽園へ戻ったことになる。 アダムとイヴは人間の起源である。即ち我々生者は流刑地に住んでおり、その世界から逸脱した屍鬼たちの住む世界は即ち楽園ではないかと静信は諭される。 「ウチ」と思われた人間界こそが「ソト」であり、「ソト」と思われた屍鬼の世界こそが静信が信仰する神の世界、即ち「ウチ」となるという価値観の反転がなされる。 本書は外場村という閉鎖的な村を舞台にしながら、二極分離された世界、その中でもとりわけこの「ウチ」と「ソト」についてあらゆる側面から描いた作品だと認識した。 村の中に「外」という言葉を持ちながらも村全体をウチとして捉えるどこにでもあるような田舎村。しかしその名前が示すように実はウチではなく「外の場」だったのだ。 カインとアベルの物語に擬えられるならば、生者が住む村は屍鬼が蔓延ることによって流刑地、即ち「外の場」となり生者村本来の姿に戻ったのだ。 そして最後に行き着く二極は生者と屍鬼。 生き残った村人たちはいつしかそれとなく起き上がった鬼たちの存在を知覚し、夜に出歩くことをしなくなる。一方増え続ける屍鬼たちは次第に山入だけに留まらず、下山し、空き家となった民家に大胆にも住むようになる。引っ越したように思われた屍鬼たちは恰もまた村に出戻ったかのように振る舞い、明らかに人であった頃の氏素性とは異なるのに、名前を偽り、さも以前からその名前で村にいたかのように振る舞う。そして彼ら彼女らは夜を行脚し、もはや羊と呼ぶ生者たちの生き血を吸うために活動する。 生者と屍鬼は即ち昼の種族と夜の種族とも云い換えられる。 そしてこの2つの種族の対立は物語の最後で主客転倒する。 今までは人間が屍鬼の食糧にされ、単にモノ扱いされているのに嫌悪を覚えていたところに、尾崎敏夫をリーダーとして屍鬼狩りが始まると、逆にその人間が屍鬼に対して行う処刑がより陰惨になるのが皮肉だ。 屍鬼が人間を襲うときは皆がよく知っているように吸血鬼同様、人間の皮膚を嚙み、生き血を吸ってその意識を支配する。 しかし屍鬼はどんな劇薬も効かず、どんな傷を与えてもたちまち再生してしまうため、心臓を杭で打ち抜くか首を飛ばすか頭を潰すしか方法がない。その有様は実に異様である。傍目には人と変わらぬ屍鬼を村民たちが次から次へと杭を身体に打ち込み、大漁の血液を流させ、または首を切り飛ばし、あるいは頭を槌で潰していく光景はまさに地獄絵図だ。 作中でも一番怖いのは人間だと誰かが述べる。しかし人は自分を護るためならば残酷にもなれるのだ。この屍鬼狩りの陰惨さは結局人間の生への執着の凄さをまざまざと見せつけられるシーンだ。 どれもこれもが怪しいのに村にカタストロフィをもたらす怪異の正体像を結ぶにはそれぞれの要素の位相が異なる、妙な歪みを持つがため、読者は終始答えの解らない不安感を持って読み進むことになる。 そして不安と云えば村から人が次々といなくなるのもそうだ。 毎日のように葬式があり、村の外から通っていた図書館司書や小学校の校長先生、駐在所のお巡りさん、昔からある米穀店の家族も亡くなり、シャッターが閉められたまま。村で唯一のガソリンスタンドもまた引き払って引っ越す。そして「外場は怖い」とふと呟く。 更に学校に行けばただでさえ少ない生徒が日を追うごとに少なくなっていく。亡くなった者もいれば、突然村外に引っ越した者がその大半を占める。しかも唐突に引っ越すことになったとだけ告げられ、必要な手続きをせずに学校を去る生徒たち。 村唯一の医院では次々と来る奇病に罹った患者が致死率100%で亡くなるのを目の当たりにし、やがて医院で働く者の中の家族に犠牲者が出ると、村外から来ていたレントゲン医師、事務員、パートのおばさんが次々と辞める。 昨日まで一緒に遊んでいた友達が亡くなったり、急にいなくなったりする。 これは喪失感と云うより変わらないと思っていた日常がどんどんおかしくなっていく不安感、そして世界が終っていくような焦燥感に他ならない。 外場村壊滅という結末から始まっている本書は悲劇が約束された物語である。 しかし尾崎敏夫、室井静信、そして伊藤郁美が元凶の真相に肉迫していく様は結末は解っていながらも、どうにか救われるのではないかと思わされ、しかしそれでもあと一歩のところで屍鬼たちに出し抜かれるため、常に絶望感が漂う。 日本のどこかにある山奥の村の、核家族夫婦、母子家庭夫婦、親子三代が同居する、嫁姑の関係が良好な家族もあれば、そのまた逆の家族もあり、村外で結婚したものの、夫婦生活が上手くいかずに離婚して親元に戻ってきた親子家庭とどこにでもいながらも多種多様な村人たちの日々の暮らしが屍鬼の侵略によって脅かされる様を、ただただ読者はその破滅への道のりを全5巻かけてじっくりと読むしかない。 しかし読書の奇縁と云うものを今回も感じてしまった。 先にも書いたがこの1998年に書かれた作品を20年後の今、本家キングの『呪われた町』を読んだ後に手にしたことが本当に良かったと思う。小野氏は『呪われた町』の本歌取りを公言しながらも、吸血鬼に侵略される閉鎖的社会の恐怖をより学術的に、よりミステリアスに、そしてより日本的に掘り下げて書き上げ、見事に成功したからだ。 もし本書を読んだ後で『呪われた町』を読んだならば、本家キングには申し訳ないがより浅薄に感じられたことだろう。まさに本歌あっての本書だった。 そして最も驚いたのは屍鬼が脳生の死者であることだ。本書の前に読んだ東野氏の『人魚の眠る家』が心臓が動いているのに脳が死んだ状態である脳死を人間の死として受け入れるか否かを扱ったテーマであったのに対し、翻って本書に出てくる屍鬼は人の生き血を吸って活気を取り戻す血液を注入された人間であること、それは心臓は死んでいながらも脳は生前と同じ生きている、脳生心臓死の人間であることが明かされる。それもまた生ではないかと議論がなされる。 まさに裏表のテーマを扱った2つの作品を全く同時期に読んだこの奇妙な偶然に私は戦慄を覚えざるを得なかった。 吸血鬼という西洋のモンスターを象徴するモチーフを日本の、しかも高層ビルやマンション、レストランといった西洋の建物らしきものがない、日本家屋が並び立つ山奥の田舎村を舞台にあくまで日本人特有の風景と文化、風習に則って土着的に描くことに成功した本書は和製吸血鬼譚、純和風吸血鬼譚と呼ぶにふさわしい傑作だ。 吸血鬼、即ちヴァンパイアが既知の物であるとした上で、誰もが知る吸血鬼の特色を科学的、論理的にアプローチしているのが斬新だ。 吸血鬼が血を吸うことで仲間が増えゆく状況をまずは村人たちに次々と死をもたらす原因不明の疫病という形で表す。その疫病についての詳細な記述を施す。貧血ないし軽い風邪のような症状から始まり、3~5日以内に急激な多臓器不全を巻き起こすこの奇病について作者は医者尾崎によって医学的専門知識を用いてその不可解性を詳細に述べる。そして感染症や伝染病における行政の対応の違いなども語り、我々に現在の日本の新病対処法の手間と遅さ、そして冷徹さを説く。 そこから村の外へ情報が漏洩することに対して楔を打ち、更に尾崎が屍鬼になった妻を実験台にして吸血鬼のシステムを解き明かす。人の血を吸うことで活性化する異常な血液の病気だというアプローチの仕方。そして杭を打つか、首を刎ねるか、頭を潰すしかしないと死なないと気付かせる実験の数々。 それだけではない。 例えば断片的に語られる桐敷家と地元民たちの交流のエピソード。使用人の辰巳も含め、村人たちの誰かが彼らと接触し、言葉を交わす。そして社交辞令のように「今度遊びにいらっしゃってください」と声を掛ける。 確か映画『ロストボーイ』だったか、吸血鬼を扱った映画に吸血鬼がその家を訪れる条件としてその家の人に招待されることで吸血鬼はその家を出入りできるという話があった。私はこの桐敷家と村人たちが話す場面と上のように交わされる会話でそのことをふと思い出した。 このありきたりな社交辞令こそが彼らが跋扈するトリガーであり、そして村人にとって禁忌を自ら破る行為なのだ。 つまりこれは起き上がりを作る吸血鬼たちにとって道祖神やお払いの儀式などの呪術が有効であることを指しており、従って西洋のヴァンパイアたちへの武器となる十字架や仏具もまた彼らにとっても具合の悪いものであることが解ってくる。 更にそれについて小野氏は突っ込んだ解釈を室井静信の口から語らせる。それは屍鬼が元々人間であることを記憶しているがために屍鬼になることで世界の調和から外されることを意識して、そこに介入するのに許可が必要なのだと。 つまり彼らは十字架や仏が怖いのではなく、その背後にある人間の存在を意識させられるがゆえにその調和から締め出された自分の孤立を悟り、恐怖するのだ、と。 実に観念的な話ではあるが、やはり屍鬼が人間とは似て非なる存在と云うのが大きいだろう。 我々が牛や豚、鳥や魚、野菜に果物といった様々な生ある物を食べて生きつつ、罪悪感を覚えないのはそれらが人間の言葉を解さないからだ。そして直接意思疎通を行わないからというのは大きな理由の1つだろう。 従って犬や猫といった愛玩動物は人の言葉は話さないにせよ、人間と近しい存在であり、意思疎通を図れるからこそそれを食べようとは思わない。 私は畜産業を経験したことがないので、牛や豚などの家畜を育てている人が、ではそれらの肉を食べないかと云われれば決してそうではないだろうが、少なくとも自分たちが育てた牛や豚は食べないかもしれない。 そう考えると屍鬼が人を襲うことの罪深さ、そして人が屍鬼を駆逐することの罪悪感も理解できる。お互い意思疎通ができ、つい最近まで一緒に話をし、同じ村で暮らしていた人々を自分たちが生き残るためにという理由で捕食し、または虐殺しなければならないという業が本書には横溢している。 襲う側の屍鬼も辛いというのが本書に深みを与えている。人の血を吸わないと死ぬほどに苦しいから吸わざるを得ない。 それぞれのドラマが非常に濃い。そしてそんなドラマを吸血鬼譚にもたらした小野氏の着想が素晴らしい。 そして桐敷沙子。 彼女は自分もまた犠牲者だと訴える。お腹がすくからそれを満たすために人間を襲っただけ。それが何が悪いのかと何度も訴える。 そして自分がその存在を隠しながら数百年も生きてきたこと。家族愛に飢えていること。常に逃げて生きてきたこと。安住の地を外場村に求めたこと。 彼女が望んだのは誰もが願う幸福の形だ。しかし彼女は屍鬼と云うだけで、人間を襲わないと生きられない化け物というだけで忌み嫌われる。 そして仲間が増えることで食糧となる人間が減るがゆえに必然的にマイノリティにならざるを得ない存在。 つまり屍鬼もまた環境の犠牲者であるのだと。 そしてこの物語を語るには最後のジョーカーとなる室井静信について語るざるを得ないだろう。 正直この室井静信と云う男、読者の共感を得にくい人物である。 仏に仕える身でありながら神の存在に疑問を持ち、また自身の命に執着がなく、学生時代に自殺を図った男。 しかし屍鬼が村に連続する怪死現象だと解ってくると屍鬼もまた生きる権利があるとし、人が生き残るための屍鬼の殺戮を厭い、結局何の手立てもしない。 実に矛盾に満ちた人物だ。 彼自身が最も罪深い。こんなに腹立たしい登場人物もなかなかいないのではないか。 ただこの変容こそが、矛盾こそがまた人間なのだと思う。 最初に意識していた小野不由美版『呪われた町』などという思いは最後には吹き飛んでしまった。この濃密度は本家を遥かに上回る。 単純に長いというわけではない。 上に書いたように本書が孕むテーマやドラマがとにかく濃く、実際これほどの感想を書いても全く以て書き足らない思いがするのだ。 マイノリティに向ける小野氏の眼差しはそれが人間にとっても害であってもその存在を認めるべきだという包容力を感じさせる。 一方で怪異が起きているのに今は常識が邪魔をしてそれを正視しない大人たちばかりになってしまった世の中を批判している。だからこそのあの結末だろう。 ゆめゆめ油断なさるな。21世紀の、平成になった世にもまだ怪異は潜んでいる。 それを信じる大人になってほしい。それがために物語はあるのだから。 まさに入魂の大著と呼ぶに相応しい傑作だ。そしてこんな物語が読める自分は日本人でよかったと心底思うのである。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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東野圭吾氏が今回選んだのは脳死をテーマにした人の死について。以前『変身』では他者の脳が移植された男の実存性について語ったが、今回は脳死とは本当に死なのかについて語られる。
実に、実に解釈の難しい物語だ。人の生死について読者それぞれに厳しく問いかけるような内容だ。 物語は娘瑞穂が突然の水難事故で心拍停止状態に陥り、回復したが脳の機能が停止した植物人間状態になった播磨夫妻の、娘の回復に一縷の望みを掛けた苦闘の日々が語られる。 まず脳死とは脳死判定を行った上で脳死であると判定された時点で見なされる状態。その時心臓はまだ動いていても、即ち臓器が生きて活動していても脳が機能していなければ脳死、即ち死人と見なされる。改正された臓器移植法ではドナーカードを持っていれば即ち患者の意志と見なされて臓器移植へのドナーとなり、一方ドナーカードを持っていなくても患者の家族が脳死判定をすることに同意し、脳死の判定が下されればドナーとなる。 また一方で脳死判定に同意しなければ当然判定は行われず、従って死亡したとみなされることはない。臓器移植法とは実に奇妙な法律である。本書では人工呼吸器に繋がれて生かされていたとしても脳死と判定されればそれが抜かれることで文字通り息の根を止められるような思いがすると当事者家族の思いが生々しく語られる。 播磨夫妻は一旦それを受け入れるが、お別れの際に握っていた瑞穂の指がピクリと動いたと感じたことからそれを翻し、娘の回復に望みをかける。 つまり本書における瑞穂の状態は正確には脳死ではないのだが、便宜上ここでは彼女の症状、状態について敢えて脳死という言葉を使わせていただく。 物語の中心であるこの播磨夫妻のパートを読めば、本書は脳死と云う不完全死に挑む夫婦の物語として読める。そして別居中の夫が脳と機械を信号によって繋ぐことで人間の、障害者の生活を改善する技術を開発している会社の社長とであることから、最先端の技術を駆使して脳死状態の人間を徐々に健常者へ近づけるよう努力をするのだ。 これを本書の第一の視点としよう。 つまり本書における脳死患者と家族の戦いは播磨夫妻のような富裕層でないとできない戦いなのだ。 私はこれについて金をつぎ込まないと奇跡は起きないと云っていると解釈しない。東野氏のミステリのテーマとして常にある、最新技術を駆使したミステリを描くこと、即ち最先端の技術で人はどのように脳死を乗り越えることが出来るのかを語った物語として読んだ。 しかし上に書いたように本書はそんなたゆまぬ夫婦の努力を描きながら、どこか歪な雰囲気が全体に纏われている。 それは瑞穂の母親である播磨薫子の造形だ。通訳の仕事をしているだけあって彼女は通常の主婦以上に理知的だが、一方で頑として譲れないところがある女性だ。自身そんな自分を陰険だと評している。 そして自分の目的のためには周囲をとことん利用しようと考える女性でもある。 夫の浮気に気付き、解消した後もその後の人生でその悪しき出来事を思い出すのが嫌なために別居だけでなく別れることにしながらも植物人間状態となった娘の生存維持のため、多額なお金をかけて生かすために敢えて離婚を選択せず、しかし一方で別居はそのままとしたところ。 また夫の会社の社員星野が植物状態となった娘の身体を磁気による刺激によって人為的に動かす装置を発明したことで、その後も娘を少しでも健常者に近づけるために、彼が自分へ好意を持っていることを知りながら利用し、そして囲い込もうと企みもする。 但し、そんなことを企みつつも悪女でないという実に不思議な魅力を持った女性である。 それは何よりも全てが娘の回復という奇跡のためにささげられているからだ。 つまり彼女は娘の回復を願うあまりに自分が魅力的であることを自覚しながらそれを最大限活用してとことん他者を利用し尽くす、一つの目的に対して貪欲なまでの執念を持った女性であることが見えてくる。 それは彼女の母千鶴子もまたそうだろう。 自分の不注意で瑞穂を預かっている最中にプールで溺れさせ、植物人間状態にしてしまった負い目を一生背負うことを覚悟し、その後娘の子供を預かることがトラウマになりながら、孫の介護の協力を娘から申し出られると、そのことにその身を捧げることを決意し、それが自分に与えた罰への唯一の償いとして身を擲つ。 しかし彼女の場合はもし同じような境遇にあった場合、それしか選択肢はないようにも思える。 そしてまずは横隔膜ペースメーカー、即ち気管切開せずに横隔膜に電気刺激を与えることで見た目普通の人と変わらぬように呼吸ができる技術AIBSから始まり、先に述べた磁気刺激装置で筋肉を刺激して動かす人工神経接続技術、即ちANCを導入し、さらにそれを発展させ顔面の表情筋をも動かすまでに至る。 しかし一方でこの播磨夫妻が物云えぬ人形のような瑞穂を機械の力で動かすところを見て戦慄を覚え、神への冒瀆だとまで云う人々もまた現れる。 これが本書の第二の視点だ。 脳死状態で本来なら手足も動かせない我が子に電機や磁気で刺激を与え、動かすその行為そのものに親の愛情に狂気を見出し、悲鳴を挙げて逃げ出す、その技術を施したハリマテクスの社員星野祐也の恋人川嶋真緒。 電気仕掛けで動く孫に衝撃を覚え、そうすることを選んだ嫁の行為に嫌悪感を抱く播磨和昌の父多津朗。 脳死と云われているのに大金を投じて手足を動かす薫子を異常だと評する薫子の妹の夫。 それだけではなく、瑞穂の弟生人は小学校の入学式で母親が瑞穂を連れてきたおかげで周囲からいじめを受け、瑞穂が死んだと云わざるを得なくなり、それによって生人の中で瑞穂への見方が変わってしまう。 さらに先天性の病気で臓器移植を待つ幼い娘を持つ家庭のことも描かれる。 これが第三の視点だ。 もし脳死判定によって死亡が確定し、ドナーが現れれば助かったかもしれない命。それを待つ側の夫婦の話が描かれる。 このように植物人間となった少女1人を通じて物語はそれぞれの取り巻く状況を深く抉るように描かれる。 そして瑞穂のところに特別支援学級から定期的に派遣される特別支援教育士の2人。 最初の米川先生はどうにか瑞穂に意識を戻らせようと音楽を聞かせたり、話しかけたり、楽器を演奏してみたりと積極的に関わる。 一方その代わりに来た新章房子はひたすら本を読み聞かせ、薫子が席を外している時はそれさえも止めてじっと娘を見つめる無表情な女性。 この2人の対照的な教育士の話は実に興味深い。 こういう端役にも厚みを持たせるエピソードを持たせる東野氏は実に上手いと唸らされる。それが登場人物の造形を深くする。 上に挙げた以外にもまだあるので少し述べよう。 まず思わず目頭が熱くなったのは播磨夫妻の娘瑞穂の四つ葉のクローバーのエピソードだ。 そしてアメリカでの娘の臓器移植手術に一縷の望みを託す江藤夫妻の話もそうだ。 上にも書いた瑞穂の許に派遣される特別支援教育士新章房子が瑞穂に話す童話の話。この何気ない物語に隠された新章房子の真意とそして薫子が生んだ誤解。 随所に挟まれるこれらのエピソードが登場人物に厚みを持たせ、そしてそれぞれの行動原理に意味を持たせ、物語全体を補強する。物語巧者として匠の域に達した感がある。 それだけではなく、臓器移植法について単に法律を紹介するだけでなく、それに向き合う医師の言葉で解釈を据えるのもまた物語を補強する要素となっている。 上に書いたように脳死判定で脳死と判定されれば患者は死んだとみなされ臓器移植が成される。しかし一方で心臓は生きているため、完全死ではない。そこにこの法律のジレンマがあるが、その基準となる竹内基準を人の死を定義づけるものではなく、臓器提供に踏み切れるかどうかを見極める境界を決めたものだという解釈だ。 ポイント・オブ・ノー・リターン。つまりそこに至れば今後脳が蘇生する可能性はゼロである。 つまり正式には「回復不能」、「臨終待機状態」と称するのが相応しいが、役人たちは「死」にこだわったため、脳死という言葉が出来たようだ。 この話は私の中でようやく脳死判定に対する解釈が腑に落ちた感がした。 心臓が生きているから死んでないと解釈するからややこしいのであってそこからは回復が望めないと判断される境界であると実に解りやすく解釈すれば、受け取る側も理解しやすい。 やはりこういうデリケートな内容は医師を中心に法律を決めさせたらいいのではないかと思う。 介護をされながらも生きることは介護をする側に負担を強いることだ。それは介護する側の精神をすり減らし、いつ終わるかもしれぬ無間地獄を強いることでもある。 どんな形でも生きてほしいと望みながら、いつこの苦しみは終わるのだろうといつしかその死を望むようになる。それが現代介護の厳しい現実なのだ。 そうやってまで生きること、生かされることに価値があるのか? 寧ろ上にあるようにもはやそこからは回復できないと判断された時は自分を「生かす」のではなくせめて他人のために「活かし」てほしい。そのための臓器移植法だと我々は解釈せねばなるまい。 本書の最大の謎とは播磨薫子と云う女性そのものだったと読み終わってしみじみ思う。 子供の愛情が強く、少しでも可能性があるのならばいつか回復するものと信じて娘が脳死と見なされることを拒否し、生かそうとする。 ここまでは普通の母親の姿だが、そこから更に彼女は夫の会社の技術と財力を利用して娘に最新技術による人工呼吸法、磁気で刺激して手足を動かし、更には顔の表情まで作ろうとする。そしてそれを介護の成果として周囲に見せるが、そんな状態を見てただの親のエゴによる自己満足に過ぎず、子供を玩具にしているものだと嫌悪される。 一方で幼き娘に臓器移植の手術をアメリカで受けさせるために寄付を募るボランティアに参加し、脳死判定と云う曖昧な基準で幼児の臓器移植が一向に進まない日本の現状について議論を吹っかけ、更に臓器を待つ両親にその気持ちを問い質す。 更に娘を完璧に近づけようとするが、やがて周囲の目が娘を死人とみていることにショックを受け、警察を呼び、自ら包丁を持って、娘を今目の前で刺したら殺人になるのかと問う。 その有様はほとんど狂える母親にしか見えないのだが、云っていることは論理的で矛盾がない。その圧倒的な迫力に気圧される。 しかしその一件で何か憑き物が落ちたかのように一転して今度は自分一人で娘の世話を見ることを決意する。もはや周囲に娘が生きていると納得させることも放棄したかのように。 その姿はしかし世捨て人や隠遁者と云った雰囲気ではなく、悟りを開いた、そう菩薩のように見える。 娘の死を受け入れた以降は娘の葬儀の準備に奮闘する。 彼女がふと漏らすのは母親は子供のためには狂えるのだという言葉だ。それを本当に実行したのが彼女であり、そのことだけが彼女の謎への解答となっている。 しかし播磨薫子は周囲を気にせず、全て自分の意志で行い、そしてそれを貫いた。 彼女はただ納得したかったのだ。周囲の雑音に囚われず、娘がまだ生きていることを信じ、そのために出来ることを全てした上で結論を出そうとしていただけなのだ。 それは飽くなき戦いであり、それを全うしただけなのだ。 これだけは云える。彼女は信念の女性だったのだと。 倫理観と愛情、人の生死に対する解釈、それによって生まれる臓器移植が日本で進まない現状。 子を思う母親の気持ちの度合い。 難病に立ち向かう夫婦と現代医学の行き着く先。 そんな全てを播磨薫子と瑞穂の2人に託して語られた物語。色々考えさせられながらも人と人との繋がりの温かさを改めて感じさせられる物語でもある。 情理のバランスを絶妙に保ち、そして我々に未知の問題と、それに直面した時にどうするのかと読者に突き付けるその創作姿勢に改めて感じ入った。 子を持つ親として私はどこまでのことをするのだろう。読中終始自分の娘の面影が瞼に過ぎったことを正直に告白しよう。我が娘が眠れる人魚にならないことを今はひたすら祈るばかりだ。 こういう物語を読むと遠い異国の地で家族と離れて暮らす我が身に忸怩たる思いがする。これもまた東野マジック。またも私は彼のマジックに魅せられたようだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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【ネタバレかも!?】
(1件の連絡あり)[?]
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前作でロス市警に復帰し、未解決事件班に配属されたボッシュは本書でもそのままキズミン・ライダーとコンビを組んで過去の未解決事件に当たる。それは折に触れ独自で再捜査を重ねていたマリー・ゲスト失踪事件。それは1993年に当時ジュリー・エドガーと共に担当し、衣類まで見つかりながら彼女自身が見つからずに今に至っている事件だ。それが思わぬ方向から犯人と思しき男が浮上し、ボッシュは否応なくその捜査に加わることになる。
たまたま深夜に職質されたことで車内にあったゴミ袋に2人の女性のバラバラ死体が入っていたことで捕まったレイナード・ウェイツが2件の未解決事件の犯人であることとまだ表出していない9件の殺人事件の犯人であることを供述する代わりに死刑を免れるよう司法取引を申し出る。そのうちの1つがマリー・ゲスト殺害だったというもの。 つまりボッシュは13年間追ってきた事件の犯人を思いも寄らぬことで知ることになるのだが、それは彼に正統なる法の裁きを与えないことで解決するという、皮肉なものだった。 さて前作から恐らく作品世界内では1年くらいしか経っていないと思われるものの、色んな変化が見られるのが特徴だ。 まず未解決事件班の頼れる班長であるエーベル・プラットはなんと4週間後に25年間の警察勤務から引退し、カリブ諸島のカジノの警備関係の職を得て第2の人生について思いを馳せているところ。従って前作よりも警察の仕事にあまり身が入っていない印象を受ける。 そして前作でロス市警からの退職を余儀なくされたアーヴィン・アーヴィングはなんと市議会選挙に立候補し、恨みを晴らさんとロス市警の改革を選挙公約として掲げている。 また本書を前に刊行されたリンカーン弁護士ことミッキー・ハラーも本書の事件の最有力容疑者であるレイナード・ウェイツの過去の事件の担当弁護士として名のみだが登場する。 またリンカーン弁護士がらみで云えば、ハラーが弁護を請け負うことになったルーレイの顧問弁護士セシル・ダブスもボッシュがマリー・ゲスト殺しの容疑者と睨んでいるアンソニー・ガーラントの父親、石油王トマス・レックス・ガーラントの顧問弁護士事務所として登場する。 更に最も忘れてはならないのは『天使と罪の街』でボッシュとコンビを組んだFBI捜査官のレイチェル・ウォリングが登場し、ボッシュの捜査をサポートすることだ。 件の作品で干されていたレイチェルがFBIのロス支局へと栄転したが、その事件でお互い分かち合えた2人は一旦物別れする。しかしボッシュはレイナード・ウェイツと面会するに当たり、彼の為人を知るためにプロファイラーであったレイチェルの助けを借りるのが再会のきっかけとなる。 一旦ボッシュからウェイツの資料を預かり、概要的なプロファイルを行ってその夜ボッシュの家を訪れ、資料の返却と彼女のプロファイリング結果を話した後、なんと2人は寄りを戻してベッドインするのだ。 前回はレイチェルが意図的に仕組んだあることで自らボッシュの前を去った彼女はやはりボッシュへの好意は尽きていなかったのだ。この2人は似た者同士で魂で引き合っている人間なのだ。 さてそのボッシュとレイチェルが対峙するのは絶対的な悪である。レイナード・ウェイツは良心の呵責など一切感じない、人を殺すことが自分をより高みに上げると信じる、正真正銘の悪人だ。しかも深夜にたまたま職質されるまで、それまで行ってきた9人もの女性の殺人が発覚しなかった慎重かつ狡猾なシリアルキラーだ。 このレイナード・ウェイツは本書の前に書かれた『リンカーン弁護士』に登場するルイス・ロス・ルーレイに通ずるものがある。 そして捜査を進めるうちにボッシュはその絶対的悪人こそがもう1人の自分であったことに気付かされるのだ。 ボッシュはレイナードをもう1人の自分であると悟る。YES/NOの分岐点で分かれることになったもう1つの人生こそがレイナード・ウェイツだったのだと。 闇の深淵を覗き込む者はいつしか向こうから自分が覗かれていることに気付く。 これはこのシリーズで一貫したテーマだが、まさに今ボッシュは自分の人生で抱えた闇を覗き込んで向こうから自分を見る存在と出逢ったのだ。 ハリー・ボッシュという男を彼が担当する事件を通じて彼が決して逃れない闇を背負い込んでいる、業を担った存在として描くのは12作目にしても変わらぬ、寧ろまだこのような手札を用意していることに驚きを禁じ得ない。コナリーのハリー・ボッシュシリーズに包含するテーマは終始一貫してぶれなく、それがまたシリーズをより深いものにしている。 さて今回の題名『エコー・パーク』はロサンゼルスに実在する街の名だ。このエコー・パークはかつて貧困地区であり、再開発によって中公所得者層が住まう、カフェや古着屋や食料雑貨店や魚介料理屋がひしめく、おしゃれな街へと変貌していった場所で、かつての主であった労働者階級とギャングたちが追いやられた街だ。 なぜこの街の名を本書のタイトルに冠したのか、私はずっと考えていた。確かにその場所は長らくシリアル・キラーとして女性を殺害していたサイコパスの連続強姦魔レイナード・ウェイツが初めて警察に捕まるミスを犯した場所である。 深夜自身の経営する清掃会社の名前を付けた車でエコー・パークを通りかかったために不審に思った警官が職務質問をし、その際に車内を調べた後、そこに2人の女性のバラバラ死体の入ったゴミ袋が見つかったことが彼の逮捕に至った。 しかし彼はそこから更に9件の、警察の知らない殺人事件を犯していると云っていることから、今まで巧みに警察に知られぬように暗躍していた狡知に長けた殺人鬼だったとみなされていた。 また彼の生い立ちを調べていくうちに孤児だった彼を引き取った里親のうち、最も長くいたのが、彼が偽名として使っていたサクスン夫妻の家で、その家があるのがエコー・パークだった。そして彼が殺害した数多の女性死体を隠匿していたのがそのサクスン夫妻の家のガレージの奥に作ったトンネルだった。 狡猾な連続殺人犯が偶然ながら捕まった場所であること、孤児の時に最も長く住んだところ、そして彼が殺害した女性を埋め、また装飾したトンネル、つまり彼の王国があったところ。エコー・パークこそウェイツが辿り着いた園(パーク)だったのだ。 そして一方で単なる地名でありながら、本シリーズ第1作で作家コナリーのデビュー作である『ナイトホークス』の原題 “Black Echo”と同様に“Echo”という単語を使用した題名でもある。 “Black Echo”とは即ちボッシュがヴェトナム戦争時代にトンネル兵士だった頃に経験した地下に張り巡るトンネルの暗闇の中で反響する自分たちの息遣いのことを指す。 そしてボッシュは逃亡したウェイツと対峙するために彼が拵えた死体を隠し、埋め、また装飾した隠れ家兼王国であるトンネルに入る。ヴェトナム戦争でヴェトコンと対峙したのと同じように今度は連続殺人犯と対峙し、そこに捕らわれているまだ息のある女性を取り戻すために。 この類似性は敢えて意図的にしたものか。私は本作でFBI捜査官レイチェルがサポートして捜査するボッシュの構造と同じくFBI捜査官だったエレノア・ウィッシュと共同で捜査する第1作がダブって見えて仕方がなかった。 やはり同じ“Echo”という名を冠したことにコナリーは意図的であった、そう私は思いたい。 また本書ではボッシュの相棒キズミン・ライダーが瀕死の重傷を負うショッキングな展開がある。現場検証の際にオリーヴァスの銃を奪って逃走したウェイツに彼女は撃たれて頸動脈に傷を負い、一時は生死の境をさまよう危ない状況に陥る。 意識を取り戻した彼女がボッシュに告白するのは思いもかけない内容だった。 ボッシュが自分の復職の条件として自分の相棒となるよう要請したほど刑事としての資質を認めていた彼女の弱さを思い知らされたシーンだ。これはシリーズ読者にとっても驚きの告白だった。 そして事件の真相はまたも衝撃的だった。 未解決事件、いわゆる“コールドケース”と呼ばれる事件の関係者たちは何年経っても事件の記憶は消えず、その中に家族が当事者である人々にとっては犯人が見つかるまでは終わらないもので、ボッシュも13年間追い続け、その都度事件の捜査経過を家族に連絡していることが描かれている。 失踪したマリーの母親アイリーンはその連絡の後、ボッシュに「幸運を」と投げ掛ける。それはボッシュが無事犯人を見つけられるようにでもあるし、自分たちの娘が無事、もしくは最悪の形であれ見つかることを祈念してのメッセージだろう。 FBI捜査官という緊張を強いられる仕事で安らぎを与えてくれる存在を求めていた彼女は同じ魂の匂いを感じるボッシュにそれを見出すが、彼が逃亡したウェイツの居所を発見して応援要請を待たずに犯人の待つ暗いトンネルへと突き進むのを見て、レイチェルは彼が現場でやっていることを目の当たりにする。それは彼女にとっては安らぎを得られるものではなく、寧ろその帰りをいつも心配して待たねばならない姿だったからだ。まさに似ているからこそ一緒になれない存在だ。 コナリーの作品を読むと人と人の間には絶対はないと思わされる。特にボッシュの場合、その執念とまで云える悪に対する憎悪が周囲の人を慄かせるから、彼が真剣に取り組めば取り組むほど人が離れていってしまうという皮肉を生み出している。 シリーズはまだ続く。毎回思うが、次作への興味が本当に尽きないシリーズだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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3分冊で刊行された作品集『スケルトン・クルー』の第2弾。
まずは珍しくキングの手による詩「パラノイドの唄」から始まる。 これはその題名が示すように、強迫観念の強い男の妄想で綴られた詩だ。常に誰かに見られていると思い込み、窓の外にはトレンチコートの男がいて、街を歩けばタクシー運転手も新聞を見ている風に装って見張っている。 食事をすれば塩だと云ってそれが自分を殺すために持ってきた砒素だと思い、電話は誰かに盗聴されていると信じ、決して使わない。 さて次の表題作はなんと書いた文章が現実となるワープロの話。 打った文章が現実となるワード・プロセッサ。それはもはや我々日本人にしてみればドラえもんのひみつ道具のようなお話である。 この子供向けアニメのような題材をキングが書くと実に素晴らしい内容になるから不思議だ。 子供の頃から自分を支配し、屈服させてきた暴力的な兄。しかもその妻ベリンダは元々自分が最初に付き合った彼女でそれを兄が横取りして結婚したのだった。更にそんな粗暴な兄から生まれたジョナサンは機械いじりが大好きで、自分がワード・プロセッサを欲しいと云ったことを覚えており、僅か15歳にして手製のそれを作るほど聡明。しかしそんな家族3人は飲んだくれ兄の飲酒運転による交通事故で亡くなってしまっている。 一方自分の家族を振り返れば作家志望の高校教師である自分をはずれ籤を引いたとばかりに愛想を尽かし、日々太り醜くなっていく妻と勉強せず下手くそなギターの練習に明け暮れ、成績はどうにか落第するかしないかの辺りで留まっている愚息が1人いるのみ。 そんな現状を変えたいと願う彼の許に書いた文章を現実のものとするワード・プロセッサが現れる。 ドラえもんならばそれを使うことでエスカレートするのび太に天罰が下るが如く、痛烈なオチが待ち受けているが、キングはそうした報われないリチャードの決断を叶えて終わる。 これはワード・プロセッサで書いた文章によって変化をもたらされると世界そのものも変わるのがミソで、何かを消し去ればそれ自体が元々なかった世界に置き換えられ、何かが手に入れば同様にそれが最初からそこにあった世界へと切り替わる。 この結末には是非があろうが、今の人生、やり直せるならやり直したいという願望を叶える読者の願望を形にした作品だ。 意志持つ機械というのはキングの恐怖のテーマの1つだが、「オットー伯父さんのトラック」もその系譜に連なる作品だ。 共に事業を大きくしていったパートナーと経営方針の違いから仲たがいするようになり、それが殺意にまで発展して、事業拡大の鍵となった1台のトラックで殺害したことで、そのトラックが自分を殺しに近づいてきていると考えるようになる。 一見パラノイドの狂言のように思える話だが、それは現実となる。ただ彼を殺しに近づいたのはトラックそのものではなく、その幻影のような存在。 機械や雑貨などに霊的な物が宿り、人を殺すというのはキングの作品でたびたび描かれるが、そこではいつも理由はなく、ただそれが起こり、エスカレートしていく様が描かれる。 しかし本作では因果関係も描かれるものの、逆に被害に遭うオットー伯父さんの真意はそれとなく仄めかされる。 次の「ジョウント」はキングにしては珍しいSFホラーだ。 アルフレッド・べスターの『虎よ、虎よ!』に登場するテレポーテーションの名前からそのまま借用されたテレポーテーションシステム、ジョウント。扉を開けるとすぐさま遠方へ移動できる、いわばどこでもドアのような装置だと解釈できる。 ただ発明者のカルーンが無生物では何ら支障なく転送できるのに、なぜか生命体は移動するとすぐさま亡くなってしまうという問題に対して、色々試行錯誤する様が描かれる。 それは覚醒状態であればジョウントをくぐると永い時間を過ごすことになり、一気に老化現象が進んで死に至るのに対し、昏睡状態であればその悠久の時間を経験することなく、通常の状態で移動できるというものだった。 逆にその老化現象を利用して犯罪者の処刑に使われていたという都市伝説めいた逸話があることも紹介される。 ついつい余計なことまで話してしまう父親の性分。 ダメだと云われると逆にやりたくなる、少年の反抗心。 どこにでもいる家族の日常がこんな悲劇を生み出す、キングならではの味付けがなされた作品だ。 「しなやかな銃弾のバラード」は処女作がヒットする幸運に恵まれた若い小説家夫婦の許に集まったエイジェントの夫妻と編集者の間で交わされる、ある若い作家が狂気に至って死に至った物語だ。 「狂気はしなやかな銃弾なのだよ」 このあまりに魅力的で蠱惑的な風合いを讃える一文。この一文のためにこの作品は書かれた、そう思わせる作品だ。 この表現はマリアンヌ・ムーアがしばしば自動車か何かを描写するのに使った言葉だと本作の中で語られている。調べてみるとマリアン・ムーアなる詩人が実在したことは解ったが彼女がこのような表現を使っていたかは解らなかった。 ともあれ、このしなやかな銃弾とは作中で登場する狂気に駆られた作家レグ・ソープ自身が放った弾丸のことだ。 私はこの作品はある意味創作に携わる小説家にとっては真実の物語なのだと思う。たった一度きりの人生しかないのに、その手から生み出されるのは他者の人生であり、また見知らぬ世界の物語だ。そんな物語を日々生み出すのは頭の中のアイデア以外の、人智を超えた何かがあると思っているのではないか。 さて本書の最後を飾るのは原書の表紙に描かれているシンバルを持った猿の人形の話「猿とシンバル」だ。 シンバルを持ち、ゼンマイを巻くとコミカルな動きで音楽に合わせて両手のシンバルを叩く、子供の玩具として知らぬ者もいない猿の人形。しかしそんな愛らしい人形もキングの手に掛かれば恐怖の人形へと化す。通常は壊れているかのようにゼンマイを巻いても動かないこの猿の人形が、まるで意志を持っているかのように突然動き、シンバルを叩くと身の回りの誰かが亡くなるのだ。つまりこの猿の人形は死の宣告者なのだ。そしてそれは猿の意志ではなく、ゼンマイを巻き、シンバルを鳴らすことを持ち主にも強いる。アットランダムに殺人が行われるデスノートのような代物だ。 とはいえ、これはある意味今まで数多書かれたホラーの典型である。この猿の人形が捨てても捨ててもなぜか主人公の近くに戻ってくる怪奇現象もまた同じくホラーの典型で、敢えてキングは典型的なホラーを描くことを選んでいるかのようだ。 それは物語の舞台の1つにクリスタル・レイクを選んでいることからも推測できる―クリスタル・レイクは映画『十三日の金曜日』の舞台―。 ただ最後のオチは予想外だった。 本書は前巻『骸骨乗組員』と次の『ミルクマン』の三冊で構成される原書『スケルトン・クルー』の中の1冊なのだが、共通したテーマを備えた短編集だと感じた。 それは狂気。 本書の各編に登場する人物はなにがしかの狂気を抱いていることだ。 まず最初のキングにしては実に珍しい詩の内容からして狂気が横溢している。何しろ「パラノイドの唄」、つまり被害妄想者の妄想を綴った詩であり、狂気ど真ん中だ。 続く表題作は神々のワード・プロセッサなる夢のような道具によって報われない人生を変えるハッピーエンディングの話でありながら、主人公が取る自身の家族を削除し、自分のお気に入りの甥と義姉を手に入れる、これは願いを叶える道具が未完成ゆえに使用限度があるという設定ゆえに狂気の一歩手前で成り立っているのだ。もしこれが何年も使えるようであれば、主人公は万能な機械を手に入れた狂気の独裁者のような行動を取るだろう。 「オットー伯父さんのトラック」も普通人としての生活を捨て、トラックが自分を殺しに来ると思い、日がな一日家の中の同じ場所に座って待っている妄想者の話だ。これもその妄想が現実化することで一般人にとって狂人に見えるオットー伯父さんがそうならなかっただけの話だ。この作品に収められているオットー伯父さんの所業の数々から人々は次第に「変わっている」から始まり、「奇妙な」、「おっそろしく奇態」、「トチ狂っている」、そして「危険性がある」と彼への評価をどんどん吊り上げていく。つまり他者にとって彼は狂人にしか見えないのだ。 「ジョウント」は細やかな誰にでもある、狂気だ。 云わなくてもいいことをどうしても云ってしまう父親とダメだと云われると逆にやりたくなる好奇心旺盛な少年が辿る不幸な結末だ。 これは性(さが)なのだ。やってはいけないと頭ではわかっているがそれを抑えきれないのだ。 「しなやかな銃弾のバラード」は純粋に狂人の物語だ。狂人と付き合ううちに自らも狂気の渕に立ち、そして陥りながらも一歩手前で死を免れた人が目の当たりにした狂人の末路の物語だ。 最後の物語もまた狂気、いや凶器の物語か。動くとそのたびに人が死ぬ、恐ろしい猿の人形。しかもその人形に魅入られるとその人は自らゼンマイを回して猿を動かし、誰かを殺さずにはいられない。狂気を呼びこむ凶器の物語だ。 ただこれらの狂気は誰しもが抱えている狂気のように思える。決して特別な狂気ではない。ストレス社会と云える現代ではこれら登場人物が囚われる狂気は我々もまた持ちうるのだ。 常に誰かに見られているのではないか? こんな現状を誰か変えてほしい! 他者にとってはおかしいと思われようが自分の過ちを報わなければならない。 どうしても喋らずにいられない。 ダメだと云われたら余計したくなる。 自分の才能以外の不思議な何かが今の自分を支えているのではないか? 俺の周りに不幸が訪れるのはあのせいだ! そんな我々が抱く不平不満やエゴを肥大化させたのが本書の登場人物であり、彼らが抱いている負の感情は実はほとんど大差ないのだ。 またキングの作品にはキング自身が色濃く反映されているといつも思う。 例えば表題作ではゆくゆくは作家として生計を立てたいと考えながらヒットに恵まれず、高校教師を続けているリチャードと云う人物が出てくるが、これはベストセラー作家にならなかったキングを反映したものだろう。彼はチャンスを手にし、そしてそれを物にしたことで今の人生があるのだが、それが出来なかった場合の人生をリチャードに投影しているように思える。 また「しなやかな銃弾のバラード」ではデビュー作が大ベストセラーになった作家の狂気が描かれているが、これはまさにキング本人そのものではないか。もしそれが起こったら?という創作者自身が常に抱いているスランプへの恐怖を色濃く表しているように思えた。 それを裏付けるのが最後の結びの部分だ。 小説家は、<言葉>というものが本当はどこから生まれるのだろう、といぶかることが時々―いや、しばしば―あったのだが、きっぱり言ってのけた。「(妖精なんて)絶対にいないよ」 創作に携わる者はどこか自身の理解を超えた別の場所からアイデアが降ってきて、それを自分と云うフィルターを介して書かされているのだ、それはどこから来るのか、そんな葛藤が垣間見れる一文である。 また本書でも例に漏れず、他作品とのリンクがある。 もはやキング作品ではお馴染みとなった町キャッスル・ロックが「オットー伯父さんのトラック」では物語の舞台となっている。おまけにあの『デッド・ゾーン』で登場した連続殺人鬼フランク・ドッドも名のみ登場する。本書ではその父親ビリー・ドッドがオットー伯父さんと親しいレッカー業者として登場するが、語り手は「いかれたフランク」とフランク・ドッドを評している。後の事件に繋がるさりげないが見過ごせない一文だ。 随所にキング本人とそしてキングがこれまで紡いできた「キング・ワールド」の断片が覗けた短編集だった。 そして私もまたこうやって感想を書いているわけだが、後日読むと、まるで別人が書いた文章のように感じられることがままある。それは自分がその作品を読んで抱いた感想が思いも寄らなかった内容だったり、もしくは自分の才能以上のことを書いていたりすることに気付かされる時があるのだが、もしかしたら私のパソコンにも本の感想を書く手助けをしてくれる妖精が潜んでいるのかもしれない。 そう考えるとあながち本書に収められている狂気の物語は単に作り話として通り過ぎるのが出来ないほど、心に留まり続ける、そんな風に思えてならない。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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井上夢人氏第2長編となる本書は登場人物の手記もしくは証言をもとにした文書をコンピュータで作った文書ファイルとして構成されたミステリ。
それはかつて井上氏がウェブ上で展開していた『99人の最終列車』を彷彿とさせる群像劇のようだ。 それは東京のマンションで起きるある若夫婦の殺人事件を発端にした、男女5人の事件を巡るそれぞれの奇妙な道行を描いた内容となっている。 5人の男女、即ち向井洵子、高幡英世、奥村恭輔、若尾茉莉子、藤本幹也の手記もしくは供述で構築されていく物語はそれら登場人物たちの話によって逆に事態が収束していくわけではなく、謎が謎を呼び、そしてそれぞれのアンデンティティがどんどん歪みを増していく。 まず向井洵子の手記ではもう1人別の自分がいることが示唆され、そして自分自身が殺害されるという新聞記事に出くわす。 そして出張から帰ってきた主人の裕介にはいきなり突飛ばされ、昏倒した後、目が覚めると自分のマンションの目の前の部屋の住人本多初美の部屋にいることが判明する。その後どうにか自分の部屋に戻るとそこには半ば腐乱した夫裕介の死体が転がっているのに遭遇する。 奥村恭輔は向井洵子と同じマンションの同じフロアの住民で小説家。しかし彼はドアポストに入れられていたフロッピーの中に保存されていた向井洵子の手記を読んだことで向井洵子の事件を単独で追うようになる。 そして手記の向井洵子がやがて偽物であることに気付き、やがてその手記で語られている隣人の本多初美の部屋を無断で侵入したことで若尾茉莉子なる人物の履歴書と彼女の高校の卒業アルバムを拝借し、彼女たちの足取りを辿っていく。 やがて2人の同級生から若尾茉莉子が本多初美とのドライブ中に高校卒業後間もなく大事故に遭って亡くなったことを知り、更に本多初美は藤本鋭二という、暴力夫と結婚し、毎日暴力を受けていたこと、そしてその夫も一緒にドライブに行った際に、酔っ払い運転で河に落ちた車から初美だけが助かり、鋭二が死んでしまったことを知る。そして本多初美は若尾茉莉子が成りすました人物ではないかと推理を巡らせていく。 そして若尾茉莉子は本多初美と一緒の部屋に住んでいる彼女と同郷の元同級生だ。彼女はしかし同級生の本多初美との生活をどうにか解消したいと思っている。 北海道から上京したものの、その容姿は男性の興味を惹きつけるようで、事あるごとに転居を繰り返しており、今のマンションは3番目の引っ越し先だった。そして勤めていた喫茶店を自分に云い寄る店長の誘いを頑なに拒んだがために反感を買い、馘首になり、そしてまたお客の1人に見つかったことから彼女はマンションを出て故郷の札幌に戻る。しかしそこには高校卒業後に間もなく遭った交通事故で自分を助けてくれた桑名雅貴にばったり出遭い、強引な誘いを受ける。 藤本幹也はいわゆるごろつきで若尾茉莉子と共生関係にある。彼は茉莉子に惚れてはいるものの結婚しようとは思っていないが彼女のピンチになると助けに来る男で、これまで彼女の犯罪の片棒を担いでいた男だ。彼女の障壁となる人物は悉く葬り去ってきた。 これら4人の手記や供述により、この4人に話に出てくる本多初美も加えた5人の関係性が次第に浮かび上がってくる。 そして唯一上で語っていない語り手、高幡英世は彼女彼らの観察者であり、この4人の手記を、いや読み手を導くガイドの役割を果たしている。 本書は小説家自身を描いたミステリと考えることが出来るだろう。 岡島二人のコンビを解消し、作家井上夢人として世に問うた作品『ダレカガナカニイル…』では女性の人格が主人公に入り込み、その女性を殺害した事件の真相を探る物語だったが、本書はさらにそれを発展させ、複数の人格によって語られる相矛盾する話を統合していく話だった。 つまり井上氏は人格とは何なのか、人一人に唯一無二の人格でなく2つ以上の人格が宿ることで生まれる、アイデンティティそのものがミステリという作品を描くことに興味があったようだ。 前作ではいささかファンタジー的な設定だったが、本書では現実的に起こりうる話として我々に問いかける。 本書の題名プラスティックの意味は最後に出てくる。 可塑的。つまり自由自在に形を形成できること。 つまり現代社会においてそれぞれ相手の性格や地位によって応対方法を使い分ける我々もまた可塑的な存在だ。 ただ感情の振れ幅と生まれた境遇が少しばかり普通だっただけで、我々もまたこの小説の登場人物の1人なのだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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【ネタバレかも!?】
(1件の連絡あり)[?]
ネタバレを表示する
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ジョー・ヒル4作目の長編は竜の鱗状の模様が浮かび上がり、突如身体が燃え上がって死に至るという竜鱗病という奇病が発生し、世界中にパンデミックを巻き起こすディストピア小説である。
さてこの設定、やはり父親のキングの『ザ・スタンド』を想起させられずにはいられない。 軍の研究所から流出した殺人インフルエンザ<キャプテン・トリップス>によって大多数のアメリカ人が死に絶えたアメリカを舞台にしたあの大長編はロシア人が開発した胞子をイスラム過激派組織が散布したことで世界中に蔓延した竜鱗病によって世界中が炎に包まれていく様を描いた本書に大きな影響を与えていることは想像に難くない。 さらにそんな伝染病で生き残った人々が、いや竜鱗病患者であるにも関わらず全焼せずに済んでいる罹患者たちがトム・ストーリーなる人物が運営するキャンプ・ウィンダムなるコミュニティに集まっていくのも、<キャプテン・トリップス>に罹らず、生き残った人々たちが訪れるマザー・アバゲイルが管理する<フリーゾーン>なるコミュニティに集まっていくのと似ている。ちなみにマザー・アバゲイルに対してトム・ストーリーはファーザー・ストーリーと呼ばれているのも意図したことだろう。 また妻が竜鱗病に罹患したことで狂ってしまった夫ジェイコブが家のドアからチェーンのついたまま隙間から覗いて話しかけるシーンは父親原作の映画『シャイニング』も想起させる。 そして本書のメインとなる竜鱗病。皮膚に竜の鱗のような模様が出来、人間が発火して死に至る不死の病だが、その炎を自由に操るファイアマンことジョン・ルックウッドが現れるとこれまたキングの名作『ファイアスターター』の炎の少女チャーリーを思い浮かべてしまった。 さてこれらはジョー・ヒルがキングの息子であるという事実ゆえにもたらされる単なる先入観に過ぎないのだろうか。 いや私はヒルは敢えてそれを意識して本書を著しているように思える。 それが最も如実に伺えるのがハロルド・クロスという登場人物を眼にしたときだった。このハロルド・クロス。主人公ハーパーがキャンプに着いた時には既にいない。かつてキャンプに所属していたが、他のメンバーとは距離を置き、共同作業をさぼり、仲間の目を盗んで外出し、外部との連絡を取ろうとしていたために、キャンプの保安担当であるベン・パチェットによって射殺された人物だ。 所謂集団の中の爪弾き者で、常に他者を見下して斜に構えている、いけ好かない野郎だが、私は彼を出会った時にすぐに『ザ・スタンド』のハロルド・ローダーを思い出した。 このファースト・ネームが同じキャラクターは、優秀で美人な姉と比べられることで劣等感を抱え、それを克服するために知識を蓄えることに固執したため、尊大になり、周囲を見下すようになった少年だ。彼は誰かに認めてもらいたかった彼はそれが叶わない鬱屈した日々を手記に憎悪をぶつけて復讐の炎を滾らせる。 そして彼が最後に行動を共にするのが元教師のナディーン・クロス。そう、この性格と云い、手記を残す設定と云い、ハロルド・クロスはこの『ザ・スタンド』のハロルド・ローダーとナディーン・クロスから名前を取られた人物とみて間違いないだろう。 ただ『ザ・スタンド』と異なるのはコミュニティを形成する主人公たちが幸運にも<キャプテン・トリップス>の被害に遭わなかった人々、つまり健常者であるのに対し、こちらは逆に竜鱗病という未知の病に罹った人々であることだ。そして竜鱗病患者たちは健常者たちによって行われている焼滅クルーによる竜鱗病患者狩り、それは竜鱗病患者を見つけては虐殺するというまさに現代の魔女狩りの手から逃れて生きることを余儀なくされているところだ。 またヒルはキングが<キャプテン・トリップス>に罹患しなかった者の根拠を曖昧にしたのに対し、竜鱗病に感染するメカニズムについてきちんと述べている。 その詳細については作品に当たってもらいたいが、いやはやよくもこうしっかりと考えたものだ。この竜鱗病のメカニズムがしっかりしているがゆえに物語も無理が生じない。 またこの竜鱗病は何かの暗喩のようにも思える。 怒りや恐怖、ストレスなど心が乱された時に人は己の内から発する業火によって焼かれてしまうこの奇病。それは我々日常生活における感情に任せてしまうがゆえに生じるトラブルを指しているようにも思える。つまり発火の症状を抑えるのが竜鱗病の菌と同調し、対話をすることで逆に竜鱗病を炎を操る術としてプラスに転じることになるということは、我々日常においてもまず感情的にならずに一旦気を休ませ、自問自答することでなぜそれが起こったのかを理解し、そしてそれを相手に還元することで相乗効果を生み出す、つまりアンガーマネジメントを促す警句のようにも読み取れる。 一方、竜鱗病患者たちが身を寄せ合うキャンプ・ウィンダムが安住の地かと云えばそうではない。やはり閉鎖されたコミュニティの中で生まれる軋轢が存在し、ハーパーはルールを破って長く外出したことを咎められ、やがて孤立するようになる。ルールを破ったハーパーの行動は、たとえ足りなくなった薬や医療品を補充するために家に戻り、また重傷を負ったファイアマンの様子を見るためとは云え、大幅に約束の時間を逸脱しているので確かに褒められたものではないが、そのことに対して罰を優先させて秩序を守ろうとするキャンプの面々とそれを頑なに受け入れようとしないハーパーとの間の関係性が歪みだし、やがてハーパーこそ悪だと決めつけてリンチさながらの好意に発展していく様はどこかの宗教集団、もしくは共同体における集団心理の暴走を想起させる。 ただハーパーがこのコミュニティに全面的に身を委ねることに忌避感を覚えていることで、今まで秩序と理解の上で成立していた集団生活を乱す行為を、まさか自分のような大人を小学生のように罰したりしないだろうと高を括って、平気で約束を破る彼女自身の行動も認められるべきではないため、一概にこの集団がハーパーに対して行おうとしている処置は悪いわけではない。集団のために良かれと思って取った行動が結果的に身勝手なそれになってしまった個と頑なに秩序を守ることに固執する集団の価値観が乖離によって物事がエスカレートしていく様をヒルはじっくりと描いていく。 そして豊かな父性を以て住民たちを指導してきたファーザーに対して全ての人物が心酔していたのではなく、最もそれに反発をしていたのが実の娘キャロルだった。 両者は共通しているのはコミュニティの住民を愛していたことだったが、父トムが住民がどんな行いをしても赦すことから始め、決して厳罰を与えない対応を取るのに対して娘キャロルはその寛容さを甘すぎると考え、ルールに従わない者は時に罰を与え、繰り返すようならば追放も辞さない、いや情報漏洩を恐れて粛清することも必要だと考える。 コミュニティに対する愛情が強すぎるがゆえに、誰もが自分に従うことを強要するようになった、支配者たちが陥る強迫観念を伴う独裁心の増長。それがキャロルが陥った罠だった。もはやそこにはまともな思考が出来る彼女の姿はなく、全てを自分に従わない者たちを罰するために利用するエゴの化け物と成り果てた狂信者の姿である。 そして頑なに周囲からの罰の強要を拒んでいたハーパーもやがて度重なる虐めとリンチに屈して罰を受け入れる。母親となりつつあることでその強さを手に入れたハーパーもまたその母性ゆえに大切な者に対する愛情が強すぎて自らを犠牲にし、また屈することを受け入れる、弱さを兼ね備えた女性なのだ。 そう、忘れてはならないのはハーパーと元夫ジェイコブの関係だ。妻をこよなく愛し、君こそ人生の宝だと妻ハーパーを褒めそやしていたジェイコブ。しかし彼は妻が竜鱗病患者になったことを知ると一転して、汚らわしい物でも見るかのように彼女を罵倒する。そして別居を選んだ後、家に舞い戻り潔く死を選ぶことを強要するのだ。 その表情は怒りでも狂気でもなく、どんな感情さえもない無だ。つまり彼はあまりに針が振り切ってしまったためにそれが当然だと思うことになったのだ。 キング作品もそうだが、アメリカ作家の作品には感情の起伏の激しい人物、特に男性が登場する作品が多い。そしてその激昂する父親こそが恐怖の根源となっている作品も多く、キングは特にその傾向がある。それは彼の生い立ちに由来しているようだが、その息子ヒルでさえも同様に狂える夫というテーマを描く辺り、やはりこの親子にもキングが送ってきたような父と息子の諍いがあったのだろうか。 そして自分を愛してくれる夫こそが全てと思っていたハーパーも彼の許を離れることで今まで結婚生活で夫が正しいと思っていたことが単に彼のエゴを押し付けられていたことに気付かされるのだ。結婚生活とは病気の一つに過ぎないことに感染してから気付いたとまで云い放つ。 しかしそれでも恋をするのが男女だ。 ジョン・ルックウッドは愛したセーラのことが忘れられないが新たに仲間に加わったハーパーに惚れてしまい、セーラから彼女に心が移ることを恐れて距離を置く。 ハーパーもこのカッコつけしのジョンを鼻白みながらも魅かれていく自分に気付かされる。そしてやはり2人は恋に落ちる。もう一度人生をやり直す伴侶としてお互いを選ぶのだ。 結婚生活が一種の病気だと悟りながらも人は一人では生きていけない、どうしても誰かを恋し、愛してしまうものなのだ。 やはり本書はヒル版『ザ・スタンド』と云っても過言ではないだろう。但し彼はその衣鉢を継ぎながら自分なりのパンデミック&デストピア小説を紡いだのだ。キングが書かなければならなかった『ザ・スタンド』同様、本書はヒルにとって書かなければならなかった物語なのだ。 但し彼が書いたのは『ザ・スタンド』とは表裏一体の物語だ。『ザ・スタンド』では生存者たちの集落が<フリーゾーン>であったのに対し、キャンプ・ウィンダムは竜鱗病患者たち感染者たちのコミュニティだ。 先にも書いたがコミュニティの指導者が母性を象徴する“マザー”アバゲイルに対し、本書は父性を象徴する“ファーザー”ストーリーだ。 そして『ザ・スタンド』が生存者たちでマザー・アバゲイルを中心とした善側の人々と“闇の男”と呼ばれるランドル・フラッグ率いる悪側の人々との戦いと、同じ生存者という立場で善と悪に別れた集団との争いだったのに対し、本書は竜鱗病という正体不明の不治の病の感染者対それらの脅威から逃れ、焼滅クルーなる殲滅部隊にて健康と安全を守ろうとする健常者の生き残りを掛けた戦いで、本来恐ろしい存在となる感染者の立場から描いている。 また『ザ・スタンド』で爪弾き者だったハロルド・ローダーは最後に皆への復讐心から爆弾を仕掛けて複数の死傷者を出してコミュニティを後にする、いわば最後まで憎まれる役回りだったのに対し、本書では同様の役回りであるハロルド・クロスは逆にキャンプのある人物の策略によって射殺されざるを得ない状況に追い込まれた人物で、しかも主人公のハーパーは彼の書いた竜鱗病に関する医学的な考察に読み耽り、彼の研究を高く評価する。 つまり本書のハロルドは孤独に研究をし、ある程度病気の仕組みを解き明かすところまで来ており、更に新たな生き方を始めようとした矢先に殺された道半ばでその命を奪われた犠牲者として描かれている。 しかし何といっても最も『ザ・スタンド』と顕著に表裏一体であることを示しているのは主人公の設定だ。 『ザ・スタンド』は群像劇の様相を呈しており、各登場人物のドラマの比重が等しく語られるが、ほとんどが男性中心の物語である。闇の男との戦いに挑むのは選ばれし4人の男たちであり、最後に生き残るスチュー・レッドマンがその作品の最たる中心人物と云えるだろう。 そして彼は<フリーゾーン>への道行で合流するフラニー・ゴールドスミスと恋仲になり、そしてフラニーはスチューの子供を妊娠する。 一方本書のハーパー・ウィロウズもまた妊婦であり、しかも主人公なのだ。彼女は竜鱗病に罹った後に狂ってしまう夫ジェイコブの許を離れ、ファイアマンこと竜鱗病患者でありながら炎を操ることのできるジョン・ルックウッドと恋に落ちる。 ジョー・ヒルはこの身重の女性を妊婦には到底厳しいと思える環境に置き、ハーパーに困難を与える。しかし彼女はそれらに耐え、次第にシンパを作っていく。 それは看護婦と云う死と向き合う職業から来る、人の生死に対して冷静さを保てる心の強さもあるが、やはり子供を宿した母親としての強さが彼女を掻き立てるのだろう。つまり母性の強さを本書では強調する。 母性の象徴である<フリーゾーン>という安住の地で男性性を強調し、男たちの戦いとした『ザ・スタンド』と一方で豊かな父性でコミュニティの住民たちを温かく包み込むキャンプ・ウィンダムを舞台にそこで集団心理が巻き起こす狂気の中でやがて生まれてくる赤ちゃんのために何が何でも生き抜こうと上を向く母性を強調した本書。 この見事なまでの対比構造はやはりこれがジョー・ヒルが父親に向けた自分なりの『ザ・スタンド』に対する返信なのだと解釈せずにはいられない。 逆に云えば、彼はもう開き直ったのではないか? 自分の思いついた物語が既に父キングによって書かれていることに気付き、寧ろ自分がキングの息子であることから逃れられないことを悟り、敢えて父親と比べられることを覚悟の上で「俺の○○」として書くことを選択したのではないだろうか。 今まで息子ジョー・ヒルの本書と父親キングの『ザ・スタンド』との類似性を強調してきたが、私が件の『ザ・スタンド』を読んだのは約1年半前になる2017年の1月から2月に掛けてだった。その時に抱いた感想は壮大な世紀末叙事詩という感慨だけが残った。 しかし本書を今読み終わった時、この竜鱗病患者が世界中にパンデミックを引き起こし、世界が健常者と感染者とに二分され、そして健常者によって焼滅クルーによる集団虐殺や迫害され、行き場を失い、世間の人々の目を逃れ、隠遁生活を強いられるこの光景は今の日本の風景と重なり、単なる絵空事ではないように思えた。 昨今日本では東日本大震災を皮切りに毎年どこかで震度5を超える大地震が起き、集中豪雨に晒され、そして大型台風被害に見舞われている。以前ならばそれは一過性のものとして、「その後」には普通の生活がまた始まっていたが、今の日本ではそれらの災害で土砂災害、浸水、液状化などが相次ぎ、インフラがストップし、生活困難者が続出し、仮設住宅での避難生活を強いられる人々が増えている。つまり今までの「その後」ではない、以前送っていた普通の生活が「その後」続けることができない人々が増えてきているのだ。 そして今年訪れたコロナ禍の世界。 本書は竜鱗病という作者が想像した感染症から普通の生活を護ろうとする健常者とそんな健常者たちの迫害から身を隠すように生活を強いられる感染者たちの、二分化された世界を描いたディストピア小説であるが、この二分化された世界は別の形で既に日本に訪れているのだと痛感した。 そして連続する天災が地球温暖化に起因することであるとすれば、既に手遅れになっているとは思わず、我々が地球に対してすべきことは何なのかを今まで以上に考えなければならないだろう。 ファイアマンの世界は実はもうそこまで来ているのかもしれない。本書とは違う形で。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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ハリー・ボッシュシリーズを主軸としたコナリーのもう1つのシリーズ作品であり、今なお作品が発表されている刑事弁護士ミック・ハラーの、いやリンカーンを事務所にした一風変わった弁護士、「リンカーン弁護士」シリーズ。本書はその幕開けの第1作である。
さてこのミッキー・ハラーことマイクル・ハラー。実はこれまでボッシュシリーズで名前が登場したことがある人物だ。 まずこのマイクル・ハラーという名前だが、ボッシュの実の父親の名前でもある。彼が売春婦だったマージョリー・ドウとの間に作った子供がハリー・ボッシュ。そして本作の主人公ミッキー・ハラーは彼が再婚したラテン系のB級映画女優との間に作った子供で、父と同じ名前を持つ弁護士。つまりボッシュとミッキーは異母兄弟に当たるのだ。 犯罪者を捕まえ、刑務所に送る刑事と容疑者の無実を信じるようが信じまいが、無罪を、もしくは刑の軽減を勝ち取ろうと手練手管を尽くす刑事弁護士。お互い水と油の関係である2人が奇しくも血の繋がりのある兄弟という設定にコナリーの着想の冴えを感じさせる。 父親は伝説的名弁護士としてその名を遺しているが、このミッキー・ハラーは貧乏暇なしとばかりに複数の案件を請け負い、法廷から法廷へ走り回る。 マリファナ栽培で挙げられた密売人ハロルド・ケーシーの事件を扱ったかと思えば、その足で今回のメインの事件となる不動産会社経営のルイス・ロス・ルーレイの婦女暴行容疑事件の法廷に出廷し、保釈金を払って保釈することに成功し、そして更に無償で弁護を行っている売春婦のグロリア・デイトンの麻薬所持による起訴を検察と交渉して、取り下げさせる。コンプトン裁判所に行って麻薬密売人ダリウス・マッギンリーの代理人として判決の言い渡しに立ち会ったかと思えば、刑事裁判所ビルに向かってインターネットでクレジットカード番号と識別データを収集してそれを売り渡す常習詐欺犯サム・スケールズに有罪答弁を促す。さらに麻薬常習者のメリッサ・メンコフの捜査に不手際があったとして証拠の排除を申し立てる。 まさに東奔西走を地で行く走る弁護士だ。そして彼の最大の特徴は上にも書いたが事務所を持たず、高級車リンカーンを事務所にしているところだ。 いや100万ドルのローンが残っているハリウッドの100万ドルの夜景が眺められる自宅をホームオフィスにしているが、彼の秘書は自宅のコンドミニアムを仕事場としており、そして彼の仕事のファイルが収められている倉庫は過去に弁護を担当した依頼人の父親が経営している貸倉庫で、弁護料を賃貸料代わりにして借りている。しかも4台のリンカーンを所有し、走行距離10万キロに達するまで使った後は空港送迎用のリムジン・サービスに払い下げようと考えている。ちなみに今は2台目を乗りつぶそうとしている。そんな根無し草的なライフスタイルの弁護士だ。 そして彼の有能な調査員ラウル・レヴンは元警官でそのコネを利用して素早く警察から事件に関する資料を手に入れることが出来る。 そしてこのミッキー・ハラー、仕事も速いが私生活も速い。既に2回の離婚を経験している。1人目はヴァンナイス裁判所に配属されている地区検事補。彼女との間には8歳になる娘ヘイリーがいる。2人は時に一緒に食事をし、そして週末には娘に逢うことを許せる仲だ。 2番目に別れた妻はローナ・テイラーでハラーの秘書をやっている。彼女との間には子供はいない。 かつて生活を共にしながらも別れた相手と仕事を一緒にし、また裁判所で逢っても気まずくない関係を築けるハラーは女性から見て魅力のある男なのだろう。 しかしこれら2つの結婚が破綻してしまった彼はどこか生き急いでいるような感じがする。 また本書ではハラーの一人称叙述を通じて、裁判を有利に運ぶ、いわゆる法廷術とも云うべきノウハウが語られる。 まずは陪審員の選出で聖書を携えた人物がいることに気付き、売春婦という職業に嫌悪を抱くはずだと選出されるように便宜を図ったり、とにかくメモを取る記録係と称する人物に印象付けるよう話したり、自分の言葉を心に浸透させるための間の取り方や効果的な証拠の出すタイミングなど、いわゆるメンタリストが得意とする人心操作術が開陳される。それらを駆使するハラーはまさにプロフェッショナルだ。 上に書いたように登場するや否や複数の事件を抱え、リンカーンでロサンジェルス中を走り回り、依頼人に有利な判決を勝ち取ることに専念するハラーは、作中で述べているように自分の依頼人が有罪か無罪かには頓着せず、むしろ誰もが有罪であると考え、検察が掲げた証拠の山の中に潜むひび割れを見つけ、いかに覆すか、もしくは依頼人への刑をいかに軽減できるかに腐心する、いわばやり手のビジネスライクな弁護士のように最初は映る。 自分が豊かな生活を送るために半ば売名行為のように依頼を受け、成功すればその名を犯罪者に知らせてほしいとばかりに宣伝する。 しかしそんな彼も変わってくる。 かつて担当した婦女暴行殺人事件で有罪となったジーザス・メレンデスが無実であることを確信し、そして真犯人が依頼人である可能性が高まった時、彼は初めて自分が依頼人を見ずに状況証拠と検察からの書類だけを見ていただけだったこと、そしてそれが無実の人間を刑務所に追いやったことを悟るのだ。 弁護士が主人公であるリーガル・サスペンスは通常自分が担当する裁判において依頼人の身元や事件を調べていくうちに意外な事実・真実が浮かび上がり、真相が二転三転するのと、圧倒的不利と思われた裁判を巧みな弁護術で無罪を勝ち取る構造であるのに、主人公に多大なる負荷を掛け、ピンチに陥れるのが常のコナリーは弁護士ミッキー・ハラー自身にも刑事ハリー・ボッシュ同様に危難に見舞われる。 以前の彼ならばそれを仕事と割り切って平然とやり遂げただろうが、冤罪者が彼の依頼人の1人であり、そして友人とも云える調査員を亡くした今では自分の職業が呪わしく思えて仕方がない。彼は初めてルーレイという邪悪な者を前にして、正義を意識したのだ。 悪を撲滅するには法を逸脱した捜査を厭わないボッシュに対し、悪人であろうが無罪を勝ち取る、もしくは少しでも刑を軽減することを信条に法を盾に正義をかざしてきたハラー。悪を食いぶちにしてきたハラーはルーレイの事件で目が覚めるのである。 「無実の人間ほど恐ろしい依頼人はない」 これはハラーの父親が遺した言葉である。弁護士にとって理解しがたい言葉がこの瞬間ハラーに重くのしかかる。彼はジーザス・メネンデスという無実の人間を冤罪で刑務所に送り、人生を台無しにした重しを課せられたことを悟るのだ。 さてもう1つのコナリーの新シリーズの幕開けとなった本書だが、ふと気づいたことがある。それは2つのシリーズに共通して娼婦に焦点が当てられていることだ。 ボッシュが花形のLA市警から警察の下水と呼ばれるハリウッド署へ左遷させられる原因となったのが娼婦殺しのドール・メイカー事件であり、また彼の母親も娼婦であり、4作目で母親が殺害された事件を探ることになるが、このミッキー・ハラーシリーズの幕開けが娼婦殺害未遂事件、そして過去に娼婦殺しの罪で服役した依頼人が冤罪であったことなど、コナリーは娼婦に纏わる事件を多く扱っているのが特徴だ。ノンシリーズにも同様に娼婦を扱った『チェイシング・リリー』という作品もある。 元ジャーナリストであったコナリーがボッシュの人物設定に作家ジェイムズ・エルロイの母親である娼婦が殺害された「ブラック・ダリア事件」を材に採っているのは有名な話だが、それ以後の作品においてこれほど娼婦を事件に絡ませているのは何か別の要素があるのではないか。 身体を売ることで生活の糧を得ている彼女たちはしかし、女優を夢見てハリウッドに出て、夢破れた美しき女性も多いはずで、押しなべてコナリー作品に出る娼婦はそんな美貌を持った者たちである。 単に現代アメリカの犯罪、社会問題をテーマにするのに社会の底辺に生きる彼女たちが題材に適しているだけなのか、それとも彼がジャーナリスト時代に娼婦たちを取材することがあり、そこで彼の心に作品を通じて訴える何かが植え付けられたのかは不明だが、裁判を担当する検察官テッド・ミントンの口を通じて、こう語られる。 「売春婦も被害者になりうるんだ」 私はアメリカ社会において売春婦がどのような扱いを受けているのかを知らないが、自分の身を売る、よほど蔑まされた存在としてかなり見下されているようだ。そんな人間でも裁判を受ける権利があり、相手は法の下で裁かれるべきだと謳っているように思える。 今まで一連の作品を加え、今後コナリー作品を読むに当たり、これは新たな視座が得られるポイントなのかもしれない。 またコナリー作品の主人公の特徴に彼らが一生抱えていく業を持っていることだ。 ボッシュは自身の生い立ち、ベトナム戦争に従軍した経験から心に暗い闇を持ち、自分が悪という闇を見つめながらも、いつか自分がその闇の中から覗いている自分を見る側に堕ちてしまうことを畏れている。 そしてミッキー・ハラーは今まで全ての人は有罪であるとみなし、彼は彼らを色んな法的手段を駆使して無罪にし、もしくは刑を軽減することを信条としてきた。しかし彼はルーレイという弁護を請け負う自分にも危害を及ぼす真の邪悪の存在に遭遇したことで自分がやっている弁護士という仕事の意義に揺らぎを覚え、そしてルーレイの代わりに無実のジーザス・メネンデスを有罪にして刑務所に収容したことを今後自分が一生抱えていく罪、業として再び弁護士の仕事に臨むことを決意する。 そこにいるのはかつてのミッキー・ハラーではなく、社会的弱者を救う正義の弁護士になった彼だ。それはつまり今まで超えられない壁として彼の前に立ち塞がっていた偉大なる父親であり、伝説の弁護士とされたマイクル・ハラーをミッキー・ハラーが超えるための第一歩の始まりとなるのかもしれない。 彼の卓越した弁護技術がこの後、真に救われるべき被告人に対してどのように披露されるのか。 息もつかせぬ一進一退の法廷劇のコンゲーム的面白さと、そして犯罪者の疑いのある人々を弁護することの意味と恐ろしさをももたらす、コナリーの新たなエンタテインメントシリーズ。 またも読み逃せないシリーズをコナリーは提供してくれたことを喜ぼう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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2005年に亡くなった覆面作家トレヴェニアン。これは彼の遺作となる、2005年に発表された小説。
ニューヨーク州オールバニーの、貧民層が暮すパールストリート238番地を舞台とした、主人公の少年ジャン=リュック・ラポアントの一人称で語られる、彼の少年時代の回想記。 しかしその内容からジャン=トレヴェニアン本人と推察される。つまりこれは彼自身の回想記とも云える自伝的小説だ。 私がまず驚いたのは主人公の少年のラストネームがラポアントだということだ。そう、私がトレヴェニアンの中でも傑作と思っている『夢果つる街』の主人公の警官クロード・ラポアントと同じ苗字なのである(厳密に云えば『夢果つる街』の主人公は「ラポワント」だが、原書の綴りは一緒であろう)。 珍しい名前なので私はてっきり『夢果つる街』が関係しているかと思ったが、単に苗字が同じだけのようだ。寧ろ最後にこの苗字を作者が自伝的小説の主人公のラストネームとして選んだのは、やはり『夢果つる街』が作者にとっても特別な作品だったのかもしれない。 恐らく作者自身が死期を悟り、最期に残す作品として自身の生い立ちを綴りたかったのではないかと思われる。 ただ、その内容は思いつくままに語られ、小説としてのいわゆるストーリーがなく、ジャンが人生で出くわした出来事や人々たちの思い出をその時に思い出したかのように語っている形式となっている。従って本書の内容について概要をまとめると非常に取り留めのないものになり、いや正直に云えば、概要をまとめることができないほど、その内容は縦横無尽だ。 まず題名となっているパールストリートのクレイジー女たちとは主人公ジャンの母親ルビー・ルシルも含めたとりわけ個性的な女性たちのことだ。 パールストリートというスラム街に住みながら、まるで掃きだめの中の鶴のように、他の母親たちとは一線を画す美しさと活発さ、そしてフランス人とインディアンの混血という特殊な血筋の荒々しさで街でも目を惹いた母親ルビー・ルシル。しかしその荒々しく、頑なな性格は周囲の人々との軋轢を繰り返し生み、ジャンと妹のアン=マリーはそれに苦労させられる。 近所に住むミーハン家のミセス・ミーハンはミーハン一族の中で唯一血の繋がりのない女性で知的障害者の施設から連れられて、そのまま一族たちの家事をすることになった女性。彼女は時々物から手が離せなくなるという奇妙な問題が発生する。 戦地に行った夫を待つミセス・マクギヴニィ。彼女は街の雑貨屋ケーンの店に行く以外、ほとんど外出せず窓から街を眺めて一日を過ごす。その彼女とジャンはひと時交流を持つ。クッキーとココアを用意してジャンと取り留めのない話をするのが彼女の人生に少しばかりの彩りを与えることになるが、幼いジャンはそれが次第に憂鬱に感じ、ある日彼女の呼びかけを完全無視してしまう。それが彼女との交流の幕切れだった。 そんな“普通じゃない”パールストリートでジャンを中心に物語は進む。 チビなジャンがスラムに生き抜くために知恵を絞り、一目置かれるようになったこと、女性への目覚めやラポアント家の生い立ちのこと―インディアンとの混血であることから差別意識が激しかった当時、彼の祖母がそんな祖父と結婚したことで街の人々から避けられていたことやそれを解決するために祖父が行った殴り込みのエピソードは心に残る―、アパートの最上階に住み着いた流れ者のベンと母との馴れ初め―性格はいいのに、酒を飲むと暴力的になることで数々の失敗をやらかすベンは物語後半の主要人物だ―、やがて訪れる第2次大戦とベンの出兵、そして彼の帰還と母との結婚を機に生まれ育ったパールストリートを離れ、新天地カリフォルニアでの新生活の幕開け、そして挫折と新たな旅立ち。 そんな中、ところどころに挿入される、少年ジャンの視点でのノスタルジックな描写はどことなく心をくすぐる。 女の子のする縄跳びには暗黙の性的タブーによって男の子たちは加われないとか、ラジオは部屋を暗くしてダイヤルだけが琥珀色に光る中で聴くのが最高だとか、プチ家出を繰り返している最中に気付く、自分が将来漂流者になるであろうという悟り、一人空想ごっこに耽る日々、そしてある日目覚める幼年期からの目覚め、等々。 とにかく自分の生きている間に少しでも多くのことを語り、そして記録しようとしているのか、改行が非常に少なく、見開き2ぺージに亘って文字がぎっしりと埋め尽くされている。1ページを1分以上掛けて読む小説に出逢ったのは久々だ。 読むのにかなり手こずったことを正直に告白しよう。そして読んでいる最中はあまりに書き込まれたディテールとあちこちに飛ぶジャン=リュックの話に気疲れがしたことも。 しかし読み終わった後に振り返ると、トレヴェニアンの生い立ちと重ねることで興味深いエッセンスが散りばめられていることに気付かされる。 まず先に挙げた『夢果つる街』の舞台となる街「ザ・メイン」。これは主人公ラポワントの名前も含めてパールストリートがモデルになっているのは想像に難くない。、これは読んでいる間、ずっと思っていた。 また物語の途中で起きる第2次大戦。 最初はドイツの猛攻が語られていたが、この時はまだアメリカは参戦しておらず、対岸の火事のようだったが、日本軍が真珠湾攻撃をしたことでアメリカは参戦するため、従って本書の中で日本人は当時使われていた差別用語であるジャップ呼ばわりされ、またジャン=リュックもまた日本人を敵とみなし、軽蔑している。更にカリフォルニアへの移動の車中で新聞でヒロシマとナガサキに原爆が落とされ、多数の犠牲者が出たことを知り、居合わせた帰還兵と共に驚喜する。 そんな彼が後に日本人の禅の精神とわび・さびをテーマにした『シブミ』を著す。彼にとってこの第2次大戦における日本人への感情は決していいものではなかっただけにこの日本人独特の精神性を敬い、そして深い造詣を示すこの作品を書くようになった心境の変化はいかがなものだったのだろうか。それが語られていないだけに実に興味深い。 それらを含めてなぜこのような取り留めのない自伝的小説をトレヴェニアンは書こうとしたのか。正直云って私にとってこの内容はそれまでの彼の作品に比べても出来が良いとは云えず、散文的で纏まりを感じない。この纏まりの無さは上に書いたように、どうにか生きている間により多くの、自分の人生を語り尽くしたいという思いからだろうが、この分量は異様だ。 私はトレヴェニアンが―ほとんどその正体は知られていたとはいえ―覆面作家だったことが主要因ではないかと考える。このラストネームだけのペンネームでスパイ・冒険小説、幻想小説、詩情溢れるハードボイルド系警察小説、ウェスタン小説など、その都度思いもかけないジャンルを選択し、物語を紡いでいた彼が最後に残そうとしたのは自分の人生の証、痕跡だったことは想像に難くない。母のこと、父のこと、母の再婚相手のこと、妹のこと、そして彼の家族を取り巻く人々のことも含めて。 作品は知られているが、その実態を知られていない彼が、最期にトレヴェニアン自身を作品にしたのだ。 トレヴェニアン。本名ロドニー・ウィリアム・ウィテカー。覆面作家の厚いヴェールの下にはこんな人生が隠されていた。 正直万人に勧められるほど、物語として面白いわけでは無いが、彼の作品に親しんだ一読者としてけじめをつけるために読むべき作品だったと読み終わった今、そう思う。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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【ネタバレかも!?】
(1件の連絡あり)[?]
ネタバレを表示する
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結論から云うと時間の無駄だった。
あまりに広げすぎた内容は収束しないまま終わる。むしろ物語の決着をつけるのを作者が放棄したようだ。 突如悪魔の姿が見えるようになった26歳の若者、牧本祥平が同様の能力を持つ者たちを集め、悪魔の侵略に立ち向かうといった内容だが、作者はその単純なプロットに、一捻りも二捻りも加えることで複雑化し、先の読めないストーリー展開を拵えようとしているが、逆にそのために収集がつかなくなってしまったようだ。 悪魔が見える者たち、本来の姿を隠して人間の姿になり、各界の著名人に成りすまして日本を、いや世界を征服しようと企む悪魔たち。 この二局分離した設定が二転三転、四転五転と立ち替わる。 大企業、自然農法団体、右翼団体、新興政党、新興宗教団体ら、次々と現れる企業、団体があるときは悪魔の巣窟として、または悪魔の対抗組織として主人公の前に現れる。 祥平の話を聞いて賛同し、悪魔と立ち向かう決意をしたかと思えば、彼を精神病者とみなして警察に連絡を入れる者。いつの間にか悪魔となり、祥平を捕まえようとする者。 今日の味方は明日の敵。誰もが信じられない世界へと変わっていく。 これは恐らく何冊か書き続けられる伝奇サスペンス小説として書かれれば、また違った読み応えとなったかもしれない。先の読めない展開に次第に強まっていく悪魔の勢力。侵略物の小説としては定番ながら世界が広がる要素を備えている。 しかし脚本のようにあくまでシンプルで紋切り型な文体に展開が早く、また登場人物もじっくり描写されることもなく、物語を進めるためのキャラクターとして書かれているかのように鯨氏の扱いは実に淡泊だ。 ただ言葉に拘る鯨氏のエッセンスもないわけでない。鯨ミステリの仕掛けも随所に挟まれている。 作者としては自分なりのミステリの特色も出し、依頼の仕事はそれなりに果たしたと思っているかもしれないが、読み手側としては編集者に催促されてささっと書き上げた作品という印象だけが残ってしまう。 書き方によってはもっと面白く書けたと思えるだけに、この結末はまるで某有名少年誌の不人気で連載打切りを云われたマンガのように、唐突で投げやりだ。 最後に語られる読んではいけない悪魔の本の定義。鯨氏のこと、ある実際の本を指して皮肉っていることが推測されるのが、どの本を指しているのか、今のところ思い至らない。 ただし本書もその条件を十分に満たした作品である。 本書の冒頭には作者からのメッセージでこう書かれている。 「あなたにはこの本を読まない権利があります」 実際その通りで、この本は読まないでいい本だった。 本書は書き下ろし作品である。この原稿を受け取った担当者はどのような感慨を抱いたことだろうか。私はある意味冒険だったのではないかと思う。作者の意図が読者に通じるかを試すための。 しかしもしそうだとしてもそんな作者の意図は別にして小説として問題の作品だ。 これを手に取る人は作者の云う権利を行使することを強くお勧めする。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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2014年第60回江戸川乱歩賞を受賞した下村敦史氏の『闇に香る嘘』は全盲者を主人公にした斬新なミステリとして選考委員の満場一致で決定した作品だが、それに遡ること約20年前に香納諒一氏によって全盲者を主人公にした作品があった。それが本書『梟の拳』である。
但し下村作品の主人公村上和久はいわゆる一般市民であったのに対し、本書の主人公桐山拓郎は元ミドル級のボクシングチャンピオンで、網膜剥離によって全盲を余儀なくされた人物。勝負の世界に生きてきた彼は勝ち気で短気な性格であり、まだ若い彼は言葉遣いもぞんざいである。桐山は引退後その経歴を活かして妻をマネージャーにしてタレント生活を送っている。 そんな彼が巻き込まれる事件は明らかに日本テレビの『24時間テレビ 愛は地球を救う』をモデルにしたチャリティー番組に出演した折に出くわす、久岡昌樹の死に端を発した、原子力業界に絡む政治と金の、そして過去日本が行ってきた非道徳的な行為に纏わる、日本の暗い闇だ。 こう書いただけでも一介の引退した盲目のタレントボクサーが巻き込まる事件としては実にスケールが大きいことが解るだろう。 2人だけの面会を頼まれた相手、久岡昌樹という人物が≪原子力エネルギー推進公団≫の重役でありながら、もう1つ≪日本原子力平和研究センター≫の専務理事という半官半民の組織の上役、即ち日本原発界の中心的人物であり、桐山は彼の死に不運にも立ち会ったこと、そして現役時代のマネージャー永井康介が原発建設に絡む利権問題を追っていたことで否応なく複数の組織の思惑が絡む暗闘に巻き込まれてしまう。 関わる組織は永井がかつて所属していた右翼団体≪愛魂連合≫、その総裁と組長が兄弟分の関係にある暴力団≪戸川組≫、前掲の原子力がらみの組織に、原発建設を計画しているI県の県知事争いをしている≪民自党≫の現県知事、保科武一とその対抗馬、蒲生善之に蒲生を推すI県出身の代議士、通称≪寝業の馬場≫こと馬場啓志。更に桐山が出演した24時間のチャリティー番組を企画している≪平和テレビ≫のプロデューサー亀山にその会場となった、一度大火災で廃業したホテルを買い取り、近日営業開始予定の≪ホテル・ビューポイント≫のオーナー≪須藤グループ≫といったきな臭い連中が絡んでくる。 そして桐山をしつこくつけ狙うのは正体不明の組織に属する巨漢の男、それとは別の組織に属する柴山なる人物、更には亡くなった久岡の娘静香。そしてかつて永井の友人であった≪呼び屋の金≫こと金円友が桐山夫妻と行動を共にする。更にはかつて桐山が障害者の両親と共に過ごしていた横須賀の施設≪あけぼの荘≫まで絡んでくる。 とにかく次から次へと出てくる、利権を貪ることを一義とした団体、組織が次から次へと出てくることで、最初はかなり目まぐるしく変わるストーリー展開に戸惑いを覚えた。 やがて調査するうちにチャリティー番組に隠された不穏な金の動きが発覚する。毎年3千万ものお金が寄付金に水増しされ、そのお金が≪日本原子力平和研究センター≫から出てきており、そして≪朝日荘≫、≪ひなげし学園≫、≪あけぼの荘≫といったいずれも障害者の面倒を見る福祉施設に寄付されている。 チャリティーのお金が福祉施設に寄付されていること自体は何もおかしな話ではない。しかしこのうちの1つ≪あけぼの荘≫が桐山の両親が入れられ、そして彼が生まれた施設であることが更に彼の事件への関わりを強める。 桐山の両親が障害者同士だった。この事実は何とも私には辛い。私も障害者の子供を抱える身であるからとても他人事とは思えなかった。 しかも桐山はいわゆる人並みの行動が出来ない両親を嫌っていた。勿論人付き合いなどは出来ず、終始人前ではおどおどしている両親、社会的弱者である2人から切り離されるように桐山は会津の父親の兄夫婦に引き取られ、そこでは決して毛嫌いされていたわけではないが、余所余所しさが常に伴い、従って桐山は体が大きかったこともあって喧嘩が強く、荒れた生活を送るようになる。 しかし私は両親が社会的弱者であったことが桐山を喧嘩好き、不良にしたのではないかと思う。社会に対して怯えながら暮らしていた両親とは違う自分、力こそ全て、強い者こそが正しい、周囲には決して舐められない、誰も俺をバカにできない、そんな絶対的な強さを求めた結果がケンカの毎日となり、プロボクサーの道に進むようになった、そんな風に思える。 つまり元チャンピオンという矜持で上から目線で他者に振る舞っていた桐山が初めて見せる彼の弱点、これがこの≪あけぼの荘≫であり、両親なのだ。 その桐山の弱点が最高潮に達するのが病院で入院中の父親を見舞った時だ。目の見えない桐山でさえ想像できる、何とも云えない無力な父親の姿。病院のベッドに暴れないよう両手を柵に縛られ、点滴を受けながら、オムツをされて寝ている父親。もはや息をしているだけの存在。そんな無力な存在が強くなった自分の原点、しかもそれを妻に見られることの羞恥心が最高潮に達する。 幸いにして私はまだ両親が寝たきりになっていないし、入院生活を続けているわけでもない。だからこの気持ちはよく解らない。子供の頃、絶対的存在だった親が、誰かの助けがないと生きてもいられない無力な存在と成り果てた時、私も桐山のような惨めな気持ちに苛まれるのだろうか。 やがてチャリティー番組の製作会社である≪平和テレビ≫のプロデューサー亀山から久岡、そして永井の周辺を探っていた組織たちが探していたのがあるデータの入ったフロッピーだった事が判明する。 何ともおぞましい事実。 いきなり宇宙の彼方へと飛ばされたかのような真相である。 しかし私も齢40も半ばを過ぎて世間に擦れてしまったのだろうか、この手の話にリアリティを感じなくなってしまった。 主人公は一介の元プロボクサー、その妻は元雑誌記者。男は勝ち気で短気でチャンピオンにもなったことから腕に覚えがあり、網膜剥離で盲目ながらも相手と拳で事を構える度胸を持つ。 妻は記者時代の人脈を活かしてあの手この手で一連の謎を探りつつ、昔取った杵柄で上手く相手から話を聞き出す術を持っている。 しかしとはいえ、彼らの相手に立ち塞がるのは巨漢の男や剣呑な雰囲気を湛えた謎めいた人物、大物政治家にテレビ局のプロデューサー、右翼団体に暴力団と、一般人にとって出来れば関わりたくない人物ばかりだ。 しかも彼らが謎を追ううちに、関わっていた人物が事故死していたり、そんな怪しい輩たちが手を下したと思われる死体が現れたりする。しかもいつもどこで調べたかも解らず、知らない人物から携帯電話にかかってきては脅迫の言葉が残される。 正直、普通の感覚を持っていれば寧ろ知らない方が身のためと思ってこんなヤバい仕事からは手を引くのが普通だろう。 彼ら、特に主人公の桐山拓郎の行動原理は自分が逢うことになっていた久岡なる人物がホテルの部屋で亡くなっていたことと、かつて自分のマネージャーだった友人の永井康介が突然交通事故死したことである。 この明らかに何かきな臭い事情が隠されている一連の事故の真相を知りたいというのが最初の動機であった。 そして次第に物事が桐山自身が育った施設≪あけぼの荘≫が絡んでいることが解ってくるのだが、それでも私だったら早々に手を引き、元の平穏な生活に戻るのが普通だろう。 作中妻の和子が3,4日の約束で、危険だと自分が判断したら調査は辞めると云ったのに、それを聞かないこと、そして行く先々で人が縛られたり、暴力沙汰が起き、終いには自分の夫も瑕を負って見つかること、得体のしれない大男と対峙したことが恐ろしくて堪らないと述べる。 これこそ真実だろう。 しかしそれでもなおこの夫婦は友人の死の背後に潜む陰謀を暴こうとするのである。 もはや市井の人々が関わる範囲を超えてしまっている。上に書いた理由があるとはいえ、なぜここまで彼らがしなければならないのか、終始疑問に思いながら読んでいた。 巨大企業、右翼団体、政治家、暴力団と蓋を開けてみれば実に危ない世界の面々が絡んだ事件だったことが明かされる。 そんな組織に盲目のボクサーが挑むとは何とも無謀な物語だったことか。 しかし本書で一番解せなかったのが桐山の妻和子という女性だ。 結婚前はある総合雑誌の編集記者をやっており、桐山とは彼への取材で知り合い、そして結婚に至った。当時チャンピオンとして、自分に云い寄ってくる女性は選り取り見取り、相手もその気で来るせいか、ちょっと誘えばすぐベッドインが出来る、つまり世界が自分の思いのままになっている無敵感を備えていた桐山の誘いを素っ気なく断った、度胸ある性格。 桐山が盲目になり、ボクサーを引退してからはタレント業に移行した彼をマネージャーとして支え、不具者特有の傲慢さを桐山が出してもグッと押し黙って耐え、桐山の意向に沿うように行動する献身な妻となっている。 正直主人公の桐山は上に書いたようにまだ若く、ボクサー時代の勝ち気で短気な性格が抜けきれず、敬語は使わず、しかも考えるより先に口が出る性格で、情報を極力与えずに相手の話を聞き出し、自分の切り札は最後まで取っておくのが定石の調査活動には全く不向きな男。盲目になっても自分一人でもどうにかなることを見せたがり、勝負の世界に生きてきただけに勝ち負けにこだわり、更には自分が障害者の両親の子であることを恥じて隠し、そんな過去を忘れたいがために親のことを何十年も顧みないという、読者の共感を得られるような人物ではない。 そんな自分勝手で大人になりきれない男にどうして才色兼備の和子が夫唱婦随の関係で桐山に連れ添っているのかが解らなかった。 前述したように、桐山が、自分の友人が亡くなり、また逢おうとした人物が何者かに殺されていたというだけの理由で命をも奪われそうになる危険な橋を渡り、事件の関係者たちから、貴方は関係ないからこの件から手を引くようにと何度も念押しされているにも関わらず、知らないでいること、門外漢に晒されることに我慢がならず、首を突っ込むのを止めないがために、和子自身も人の死にも遭遇し、また夫が暴力を受け、傷つくのを目の当たりにし、それに恐怖する。勿論そのことを夫に告げて止めるように促すが、結局は付いていく。 ここまでするほど、桐山という男に魅力があるとは思えない。 確かに世の中にはなぜこんな女性があんな男と付き合っているのか、結婚しているのかという組み合わせはある。この桐山夫妻もそのうちの1つであり、それは女でないと解らないからだろうか。つまり、放っておけない、私がいないとあの人は駄目だから、そんな理由なのかもしれない。 もしそうだとしても雑誌記者という、いわば理詰めで仕事を進める女性が、理屈でなく感情で桐山に献身的に連れ添う理由が不明で、読んでいる最中どうしても割り切れなかった。 桐山に連れ添うと云えば、親友の永井の妹留美もそうである。突然兄を亡くした彼女は桐山が姿を見せるなり、飛び込むように抱き着く。そして和子は留美の態度から彼女が桐山のことを好きなのではないかと推察する。つまりどこか桐山には母性本能をくすぐる魅力があるのかもしれないが、同性の私には彼がそれほど魅力的とは思えなかった。 タイトルに示す『梟の拳』は盲目のボクサー桐山が幾度となく彼らの前に立ち塞がった≪須藤グループ≫が放った刺客、名もない大男との決戦で、絶対不利の中、留美の機転で照明が消された中で見事にノックダウンしたその拳を指していることと思われる。 梟は夜目が利くが盲目の彼は目が見えない、しかし目以外の耳、その他五感で見て、拳を放つ。過去の栄光に縋って、失うことばかり恐れていた彼。勝つことのみに固執しながら、暗くなかったら俺の方が勝っていたと相手に云われ、それを認めたその時、桐山は変わったのだ。彼が得たのは盲目でも勝てるという矜持ではなく、勝ち負けなどはいらないという境地だったのだろう。 1995年に発表された本書。読み始めは盲目になった元ボクシングチャンピオンが徒手空拳で個人が組織と戦う、ハードボイルド小説を想像していたが、最後に明かされるのは原発建設に隠された国家的陰謀という実に重たい内容だった。 舞台となる24時間のチャリティー番組について例えば恰も寄付に駆け付けたかのように見える芸能人たちが企画の段階でスケジュールに織り込まれていること、寄付で集まる金額と同じくらい番組制作費にお金がかかっており、単に売名行為に過ぎないこと、など作者はあくまでフィクションであると断っているが、案外信憑性の高い話かもしれないと思わされる。 そして現在その安全性と存在意義が問われている原発とこちらもまた23年経った今もまだタイムリーな話題で、しかも内容はかなりセンシティブだ。 今読んだからこそ、響くものがある。またも私は読書の不思議な繋がりに導かれたようだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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ボッシュシリーズ新章の開幕である。何度この言葉を書いたことだろうか。
刑事を辞し、私立探偵を営んでいたボッシュはロス市警が新設した復職制度を利用し、刑事に復帰する。配属先はロス市警未解決事件班。ドラマにもなっているいわゆる「コールド・ケース」と呼ばれる未解決事件を取り扱う部署で過去の事件に取り組むことになる―因みに当時既にCBSで放映されていたドラマ『コールドケース』について登場人物がその番組を担当しており、ボッシュに取材を申し出るのはコナリーなりのサーヴィスか。それともこの番組を観て着想を得たコナリーが読者から何かを云われる前に敢えてこの番組に触れたのだろうか―。 相棒は元部下のキズミン・ライダーで、班長は年下ながらボッシュに深い理解を示しながら、チームを掌握し、団結心を鼓舞するリーダーシップを持つエーベル・プラット。更に班内は署の精鋭ばかりが集まっている。 つまりボッシュはこれまでに比べて恵まれたチームで働くことが出来、そして捜査も自然チームワークが主体となる。一匹狼として独断捜査をしていたそれまでのボッシュとは異なっている。 しかし未解決事件を扱う班に配せられたというのは皮肉なことだ。なぜならこのボッシュシリーズは過去の闘いの物語だからだ。 彼は常に過去に向かい、そして新たな光を当てることに腐心している。失われた光をそこに見出そうと過去という闇の深淵を覗く。そしていつも闇からも自身が覗かれていることに気付き、取り込まれそうになるところを一歩手前で踏みとどまる。 自身が抱える闇と対峙し、そして事件そのものが放つ闇に向き合う。何年も前に埋められた骨が出てきても諦めずその過去に挑む。それがこのハリー・ボッシュという男の物語だ。 そしてボッシュはこの部署に配属されたことで自分が最初に手掛けた事件が未解決となっている両手首を犬用の革紐で縛られ、飼い犬と一緒に浴槽で殺されていた老女殺害事件も再捜査しようと考えている。 そしてこのシリーズの特徴の1つに確実にそれぞれの人物に時間が、歳月が訪れていること、そしてそれが各々の登場人物に深みを与えている。 ボッシュは勿論ながら、彼に関わった登場人物、例えば当初彼の相棒だったジェリー・エドガーはまだハリウッド署の強盗殺人課におり、後から来たキズミンに追い抜かされた形で、彼女との関係は上手くいっていない。 キズミンはハリウッド署からLA市警の強盗殺人課に、そして本部長室付を経た後、ボッシュの復帰を機に強盗殺人課の未解決事件班に異動となり、かつてのボスだったボッシュとまた組むようになる。 ボッシュの宿敵アーヴィン・アーヴィングは戦略的計画室という閑職に異動されたが、必ずボッシュがミスを犯すと信じ、虎視眈々とそのミスに付け込んで復活の機会を窺っている。 またボッシュの妻エレノアは娘マデリンを連れて香港に1年間の契約で行っているようだ。 また一方でノンシリーズの『バッドラック・ムーン』に登場したキャシー・ブラックの仮釈放監察官セルマ・キブルが、銃で撃たれる重傷から復帰した姿を見せる。そして当時はふくよかだったのが事件の後ではすっかり痩せてしまい、おまけにボーイフレンドまでいるようだ。 そしてそこでまたボッシュはキャシー・ブラックの姿を写真で見るのである。ボッシュがどこか運命的な物を感じている女性としてキャシーは今後も登場するのかもしれない。 そんな時の流れの中、刑事復帰後早々の事件の捜査において自分の捜査のテクニック、スキルが3年ものブランクで錆び付いたことを痛感する。 相手の事情聴取で踏み込み過ぎ、相手を揺さぶるためのテクニックを看過され、ガードを固くさせてしまったり、夜中に尾行をして相手の家の周辺にいる時に携帯電話を切るのを忘れて受信してしまったりと以前の自分なら信じられないポカミスに自己嫌悪に陥るのだ。 ボッシュは本書で1972年に警官になったとあるから、本書の中の時間が原書刊行時と同様であれば32、3年のキャリアだ。未解決事件班のボス、エーベル・プラットが50手前でボッシュより2,3歳下と書かれているので、つまり51、2歳ぐらいか。しかもパソコンも使えず、事件の調書はタイプライターで作成するアナログ刑事。前時代的な刑事になりつつある。 1988年の事件の調書を読んで当時の担当者であるガルシアとグリーンが当初家出と見なした初動捜査のミスに憤りを感じる反面、自身すら単純なミスを犯してしまう情けなさ。 そしてこのボッシュの衰えぶりは最近の自分と照らし合わせても痛感させられる。実にしょうもないミスが多くなり、そしてよく忘れてしまうのだ。私もずいぶん歳を取ったと思わされる昨今。ボッシュに共感する部分が多々あった。 もう1つ忘れてならないのはアメリカに根深い人種差別問題がテーマになっていることだ。 1988年の事件を掘り起こし、証拠の1つだった押収された凶器の銃の中に残されていた皮膚片をDNA検索を掛けたところ、ローランド・マッキーなる容疑者が浮上する。そして彼が身体に入れている刺青が白人至上主義者である特徴を十分に備えていることから、事件に新たな光が当てられる。 コナリーは黒人に暴行を加えた白人警官が無実となったことで勃発したロス暴動を扱った『エンジェル・フライト』以降、同じくロスを舞台に刑事として働くボッシュの活躍を通じて人種差別根強いロスを描いてきた。そしてそのネガティヴなイメージを払拭させようと躍起になっているロス市警を舞台に1988年というまだ差別の風潮が根強いロスを描くことで、コナリーは人種差別によって引き起こした事件を深堀している。 それは浄化という名の下で、不名誉をリセットしようとしているロス市警、いやロサンジェルスと巨大都市自体を風刺しているかのようだ。根本的に変わらないと悲劇はまた起きると痛烈に警告するかのように。 偶然と云うにはあまりにも多すぎる手掛かりが事件の本当の姿を目くらませ、そして未解決のまま17年もの歳月を眠らせることになったのだ。 未解決の殺人事件が当事者に及ぼす影響とはいかなものだろう。ボッシュとライダーが当時の関係者に事情聴取のために訪ねると、一様に彼ら彼女らはまだレベッカの事件のことを覚えており、開口一番に犯人が見つかったのかと尋ねる。つまりそれは皆の中で事件が終っていないことを示しているわけだが、それがまたそれぞれの人生の転機となっていることが見えてくる。 例えばレベッカの友人の1人ベイリー・コスターは教師となって母校に戻り、二度と同じような目に遭う生徒を出さないよう気をつけながら、事件解決の朗報を待っている。 自分の盗まれた銃が犯行に使われたサム・ワイスはそのことがずっと頭に残り、警察から電話が掛かってきただけで、すぐにその事件を連想する。 本書の原題“The Closers”とはクローザー、つまり野球で勝敗が掛かっている時に投入される、あのクローザーを意味している。 つまり未解決事件、即ち今なお終わっていない事件に決着を着ける刑事たち、彼らこそが終決者たちなのだ。 そのタイトルに相応しいこれまでのシリーズにおいてボッシュの枷となってきた者たちが粛清されていき、まさに一旦幕引きされるかのようだ。 しかし上に書いたようにいくら犯人が捕まろうがその事件の当事者たちには終わりはないのだ。 区切りはつくだろう。 しかし彼ら彼女らはその人の理不尽な死を抱えて生きていかなくてはならない。 罪を憎んで人を憎まずというが、本当に愛する者を奪われた人たちがそんな理屈では割り切れない感情を抱えて生きていけるわけがないと大声で訴えかけてくるが如く、結末は苦い。 ボッシュとライダーはその事実を知らされ、自分たちの成果に水を刺され、虚しさを覚える。未解決事件を解決することは関係者に復讐相手を特定するだけではないか、そんな虚しさを。 読んでいる最中は今回は純然たる警察小説として終わるかと思っていたが、流石はコナリー、そんな簡単に物語を終わらせない。 今までのシリーズ作は常に過去に対峙するボッシュシリーズの特徴を踏襲しており、ボッシュ自身の過去から今に至る因果が描かれていた。 ボッシュに関わった人物たちが過去に犯した罪や過ちが現代に影響を及ぼし、それがボッシュ自身にも関わってくる、もしくはボッシュの生い立ちに起因する様々な事柄が事件に思わぬ作用をもたらす、そこにこのシリーズの妙味と醍醐味があると思っていた。 しかし本書の読みどころは過去の事件に縛られた人たちの生き様だ。そしてそれ自体がそれまでのシリーズ同様の読み応えをもたらしている。 ボッシュ自身の過去に固執することなくボッシュが事件を通じて出遭う人たちを軸に濃厚な人間ドラマが繰り広げられることをコナリーは本書で証明したのだ。 但しシリーズを通じて一貫しているテーマがある。それは今なお根強い人種差別問題、警察の汚職と横暴、法の目をかいくぐる悪への制裁だ。 悪はすべからく罰せなければならない、そうしないとまた悪が野に放たれるだけだ。それこそがボッシュの信条であり、それはコナリー自身の信条なのだろう。だからこそ過去に埋もれて忘れ去られようとしている悪をも掘り返すのだ。 しかしこれだけの巻を重ねながら毎度私にため息をつかせ、物思いに浸らせてくれるコナリーの筆とストーリーの素晴らしさ。 物語の最後、容疑者の殺害に意気消沈するボッシュにライダーが次のように云う。 「あなたがなにをするつもりであろうと」(中略)「わたしはあなたについていくわ」 私もコナリーが何を書こうともずっと付いていこう。そう、決めた。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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本書はキングが1985年に発表した短編集。しかし例によってその分量が多いため、3分冊で日本では刊行された。本書はその第1冊目に当たる。そしてこの奇妙な題名はこの短編集を総じて表されたもので、この題名の作品があるわけではない。序文にあるようにキングが案内人となり、死に纏わる話を見せる旅に出る読者そのものを指しているように解釈できる。
まずその口火を切る「握手をしない男」はなんと『恐怖の四季』シリーズで最後を飾った「マンハッタンの奇譚クラブ」で登場した紳士クラブが舞台。しかもその時の鮮烈な妊婦の話があった後の話だ。但し前者ではマキャロンとなっていた語り手の名はマッカロンと表記されてはいるが。 握手を徹底的に拒む男。なんと魅力的な謎だろう。握手どころか他人と触れることすら拒む男。重度の潔癖症のように思えるこの不思議な男に隠された謎がまた実にキングらしい奇想に満ちている。 今回も実に不思議なお話だった。前作同様、今回も冬の夜に語られる物語。不思議な、そしてどこか忘れ難い物語を語り、聞くには寒い日の煖炉の前がよく似合う。 そしてこの紳士クラブを取り仕切るスティーブンスもまた時空を超えた存在であることを仄めかす終わり方が味わい深い。名前からして作者の分身を指しているのではないだろうか。 このマンハッタンの紳士クラブの奇譚、シリーズとして1冊に纏めてくれるといいのだが。 続く「ウェディング・ギグ」は1927年のイリノイ州はモーガンのジャズバンドの物語。 古き良きアメリカの物語。田舎で評判のバンドの許に妹の結婚式での演奏を頼む男。しかし彼はシカゴのやくざで妹はデブでブス。しかしこの兄は妹をこの上なく愛し、妹も兄を慕った。 1920年代のアメリカにはそんな伝説がゴマンとあったことだろう。これはキングによる、そんなゴマンとあっただろう物語の1つ。 何だろうなぁ、この何とも云えない余韻は。こういうのが書けるからキングは只者ではないのだろうな。 次の「カインの末裔」はなんとも云えない読後感を残す。 キングは決して彼の動機については語らない。 題名の示すカインとは旧約聖書に登場するアダムとイブの間に生まれた兄弟の、兄の方の名。神ヤハウェに供物に関心を持たれた弟アベルを憎み、殺害した兄の名だ。 今なお問題を抱えるアメリカ銃社会が引き起こす、未成年の衝動的な銃発砲事件が30年以上も前に理不尽な殺戮シーンとして描かれている。 次の「死神」は本書に付せられた序文によれば18歳の時に書かれた短編らしい。 鏡はホラーやオカルト話によく使われる小道具で単に物を映すというその道具が放つ蠱惑的な魅力は古今東西の創作者の興味を抱いて止まないモチーフのようだ。 そしてキングが鏡を使って書いたのは死神が見える鏡という物。但し、キングが上手いのは不思議な余韻を残す形で終わっていることだ しかしこの話を書いた時、キングは18歳である。18歳と云えば思春期で、大人たちがはっきりと答えを出さないこと、また正しいことをするのが決して正解ではないという大人の世界を知り出す時期。そんな白黒はっきりさせたい青年期にこのような不思議な余韻を残す、その才能にひたすら感心してしまった。 次の「ほら、虎がいる」も奇妙な話だ。 この主人公は学級の中ではいわゆるスクールカーストの中では下の方に位置する生徒として描かれている。従って他の生徒だけでなく、悪意ある先生にもバカにされている。 突然学校のトイレに現れた虎はそんな鬱屈した毎日に嫌気が差した彼の願望が生み出した産物なのだろうか? 潜在意識下で彼が望んだ、自分の天敵を抹殺するために生み出した妄想の動物なのか? この不条理さゆえに色々と考えさせられる作品である。 最後を飾るのは本書において最長の中編「霧」。 映画にもなった本作は霧という自然現象を得体のしれない不定形の生命体の如く描き、見えない何かに襲われる恐怖として描いている。何よりも舞台をショッピングセンターの店内という不特定多数の人間が訪れる限られた空間にしているところが面白い。 次第に霧の中に蠢く物が正体を現してくる。 そしてこの得体のしれない霧と異形の生物の謎を裏付けるものとして政府保有地でアローヘッド計画なる、正体不明の実験が行われていることが示唆されている。 未曽有の嵐が訪れた土地の翌日に現れた霧はその謎めいた施設で生み出された新型兵器なのか、それとも全く新しい生命体なのか。もしくは核を使った実験中に異次元に通じる穴を開けてしまったのか。 80年代当時、今もそうかもしれないが、アメリカでは政府による隠密裏に行わている実験施設が各所にあると噂されており、特に宇宙人、グレイを捕獲しているという話は有名だ。1985年と云えば私は中学1年生。小学生の高学年時にはそういった陰謀物が流行っており、私も図書館でそういった類の本をたくさん読んだ覚えがある。 そんな背景を盛り込ませた上で、嵐から一夜明けて倒木や断線の被害に遭った街をこの得体のしれない霧が迫ってくるという着想が素晴らしい。普段の生活ができない不自由な時と場所において、それまで見たことのない脅威が襲ってきたときに人はどのように振る舞い、またどうやって立ち向かうのか。それが群像劇として生々しく描かれている。 いや群像劇というよりも閉鎖された空間で起きる人々の変容を描いていると云った方が正確か。ショッピングセンターを囲む異形の物たちの存在を信じず、家に帰ろうとする者また外の異常に対して慎重に振る舞い、どうにか生還する方法を模索する人々―主人公のデイヴィッド・ドレイトンもこのうちの1人―、一方非現実的な事態に目を背け、ただひたすらビールを飲み、現実から逃避する者など様々だ。 その中でも常日頃終末論を唱えているがために変人扱いされていたミセス・カーモディは、ここぞとばかりに神の裁きを唱え、徐々に信者を増やしてく様は狂信的な信者を増やす怪しげな新興宗教が蔓延していく様を観ているようだ。 そう、このショッピングセンターの中で、一種のコミュニティ社会が形成されていく様が描かれているのも本書の特徴の1つである。 ただ決してキングは新しいことをやっているわけではない。ショッピングセンターに閉じ込められた人々が異形の物たちの脅威に晒されるという設定は70年代後半に一世を風靡したジョージ・A・ロメロ監督作『ゾンビ』と設定が酷似している。 キングが自身の恐怖、そして影響を受けた映画などを存分に語ったエッセイ『死の舞踏』でもこの作品については触れられており、明らかにその影響が見られる。 しかし私はもう1つの作品を想起した。それは楳図かずお氏が1970年代前半に発表した『漂流教室』だ。突然の大地震でどこか次元の異なる世界へと学校丸ごと移動してしまった生徒と教師たちが、外の世界で蠢く地獄絵図のような異形の怪物たちに囲まれる中、困難に立ち向かう者、自己保身に奔る者、狂気に陥る者などを描いたこの作品が常に頭をよぎっていた。 今でこそ日本のマンガ・アニメは海外にも普及し、広く知られているが、この80年代当時は勿論そんな状況ではなく、全くキングにはこの作品の存在は知られていなかっただろう。 あとがきによればキングがこの作品を発表したのは1980年。10年未満のスパンで東西それぞれの恐怖作品の作り手が類似した作品を書いているシンクロニシティに不思議なものを感じる。 シンプルな設定な物語なのにいくつもの要素が入った小説である。モンスター物、パニック物、そしてディストピア小説。最後の読み応えはかの大長編『ザ・スタンド』から派生した物語のように感じられた。 キング自身による序文によれば本書に収められている短編の書かれた時期は様々で18歳の頃に書かれた物もあれば、本書刊行の2年前に書かれた作品もあったりとその時間軸は実に長い。 勢いだけで書かれたようなものもあれば、じっくりと読ませる味わい深い作品もあったりと様々だ。 そして今でもその傾向は更に拍車がかかっているが、アメリカでは特に短編に対しては作者にとっては非常にコストパフォーマンスが低い仕事となっており、そのことについてキングは序文で自身言及している。周囲の友人からはなぜこんなに割の悪い仕事をするのか、と。 その割の悪さを具体的にこの短編集に収められた「神々のワードプロセッサー」の原稿料を実例として詳らかに語られている。既にビッグネームとなったキングでさえ、短編1作で得られる実質的な収入はエージェントやビジネス・マネージャーの手数料、所得税などを差っ引くと同じ期間で仕事をした配管工の手当と変わらないらしい―その後、友人がバカにしていた短編のおかげで1冊の本に纏められることでどれだけの収入が得られたかをキングは書き、その友人に仕返しをしている―。 しかしキングは短編を書くことは自分の文章練習のようだと述べている。年々長編を書くごとにストーリーが肥大化してきていることから、その悪い傾向をリセットするために短編の創作は必要なのだという―しかしそういっておきながら、この短編集の次に発表した長編はキング長編の中でも大部を誇る作品の1つである『IT』である。全然リセットされていないところが可笑しく、またキングらしい―。 さてそんなキングのリセットすべくために書かれた短編だが、そのことを裏付けるかの如く、本書に収められた6編のうち、5編は短いものでは8~12ページのショートショートと云えるものや、20~30ページの短編の中でも短いものが収録されている。しかし最後の1編「霧」は220ぺージを超える中編であり、やはりどうしても抑えきれない物語への衝動が感じさせられる―しかしこの作品も含めて残り3冊を1冊の短編集として刊行するアメリカ出版界の短編集不振が根深いことが想像させられる―。 しかしこの6編、実に多彩である。 まずはマンハッタンのとあるクラブで話される各メンバーが語る奇妙なお話「握手しない男」。冒頭にも書いたように中編集『恐怖の四季』の最後に収録された『マンハッタンの奇譚クラブ』と舞台を同じにする、キング版現代百物語。 握手を頑なに拒む男の奇妙なまでの振る舞い、そしてその隠された理由の恐ろしさ―これは先に読んだ『瘦せゆく男』を想起させる―は荒木飛呂彦氏が大いに影響を受けていることを想わされる。読んでいて荒木氏が描く奇妙な短編を読まされている気がした。 そして最後の一節が示唆する不思議な味わい。まさにこれは奇妙な味とも云うべき作品で、繰り返しになるが、ぜひともこれはシリーズ化して1冊の本に纏めてほしいものだ。 そして古き良きアメリカの、ある田舎バンドが遭遇した事件とその後を伝聞風に描いた「ウェディング・ギグ」。とても最高のカップルとは云えない醜男と並外れたデブでブスの女の結婚式とその後の物語は無法の時代のアメリカの、無数ある伝説を語ったウェスタン風の作品。 学校生活を扱ったものが「カインの末裔」と「ほら、虎がいる」の2編だが、そのどちらもが実に驚く展開を見せる。 前者は優等生と思しき生徒がいきなり寄宿学校の寮の自室に帰るや否や部屋の窓から銃で次々と人を殺しまくる。 後者は授業中に小便を我慢しきれなくなった生徒がトイレに行くとそこに大きな虎がいたという話だ。 どちらもあまりに唐突な展開に面食らう内容だ。 前者はまったく唐突に人を撃ちまくり、後者は彼が立ち往生しているところに同じクラスの生徒と先生が現れて、虎がいるトイレの中に入ってしまう。 これらに共通するのは自分のいる世界を壊してしまいたいという思春期特有の暴走を示しているかのようだ。 普段は大人しい彼らも、心の中で貯め込んだ鬱屈はある日突如爆発して、ある者は殺戮の衝動に駆られ、自ら手を下し、またある者はあるべきところでないところに虎という異質な存在を生み出し、邪魔者を消そうとする。 この不条理さが10代の若者が抱える暴動のエネルギーを具現化しているように思える。 そして収録作品中最も古い「死神」は十代に書かれたとは思えないほどの余韻を残す。それを覗いたものは押しなべて神隠しに遭ったかのように消え失せてしまうという逸話を持つ鏡を骨董美術の専門家が見た後の、あの余韻はもはやヴェテラン作家の域だろう。 そして最後の「霧」。三分冊されたこの短編集で大部を成す本作はまさにキングの独壇場だ。 奇妙な実験をしている施設が近くにあることを仄めかし、嵐の明けた翌朝に突如現れた奇妙な霧。そこからその得体のしれない、まるでそれ自体が一個の生命体のように徐々に町全体を包み込む霧によってショッピングセンターに閉じ込められる人々。そしてその霧の中には異形のモンスターたちが跋扈している。 この辺りはまさに作者自身のB級ホラー趣味を存分に盛り込んでいるのだが、それだけではなく、ショッピングセンター内で起こる人間ドラマも濃密だ。 閉鎖空間で生まれる人同士の軋轢、異常な状況で首をもたげてくる人々の狂気を描いたパニック小説の様相を成し、やがて最後は決して安息をもたらさない霧から逃げきれないままの主人公たちを描いたディストピア小説として終わる。まさに力作である。 特にその中で徐々に権力を持って行くミセス・カーモディなる老婆。骨董品店を営む彼女は普段は何でも神に擬えて物事を語る、いわゆるちょっと頭のおかしなおばあさんなのだが、この異常な状況が彼女を教祖のように仕立てていく。 主人公は普段は誰も歯牙にもかけない頭のおかしな老婆が斯くもカリスマのように巧みな弁舌を振るう力を与え、彼女を神格化しようとしているのはこの霧なのだという。これはまさに当時冷戦下にあったアメリカの先行き不透明な不安な空気をそのまま語っているようだ。即ち霧とは当時のアメリカの見えない将来そのものだったのではないか。 このように全く以て1つに括って語れないキングならではの短編集。 本書に収められた「カインの末裔」の如く、思わぬ不意打ちを食らい、「死神」のように見てはいけない物を覗き、そして「ほら、虎がいる」のようにページを捲った先には虎に遭遇するかもしれない。それはまさに「霧」のように、残された2冊の内容も全く先が読めないようだ。 キングの云うことに従って彼の手を離さぬよう、次作も彼の案内されるまま、奇妙で不思議な、そして恐ろしい世界へと足を踏み入れよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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キルドレという永遠の子供たちの戦闘機乗りたちが主役を務める『スカイ・クロラシリーズ』の第2作。
本作の主人公は前作の主人公カンナミ・ユーヒチが配属された基地の教官だったクサナギこと草薙水素が主人公。彼女がまだ戦闘機乗りだった頃の話。つまり前作から時代が遡った物語となっている。 この『スカイ・クロラシリーズ』、前作同様、端的な描写と独特の浮遊感を湛えた文章で紡がれる。それはクサナギの一人称を通じた戦闘機乗りの、そしてキルドレという特殊な人間の思いだ。その思いは断片的で、実に恣意的だ。つまりこのシリーズはミステリではなく、ジャンル的には純文学に近い。 それらは戦闘シーンと同僚たちとの交流と云った日常的な出来事が淡々と流れるように語られる。 町へ繰り出し、上手いものを食べ、女を抱く同僚たちの日常に、笹倉のバイクを初めて運転させてもらうクサナギの様子など青春グラフィティさながらだ。 その中でもやはり中心となって描かれるのはクサナギが任務に就いている時の戦闘シーン。 短文と改行を多用し、極力無駄を配したリズミカルな文章で紡がれるそれは、数ページに亘り、ページの上部のみに文字が集約され、そして短文であるがために下部が白紙であることで、さながら文章自体が空の雲と空を飛ぶ様子を表しているような感覚を与え、読者が実際に空を飛び、そしてクサナギの感じるGすらも体感するように思える。 また戦闘機乗りの独特の死生観も実に興味深い。 前作では寿命がないために、事故や殺人に遭わなければ永遠に死ぬことのないキルドレの、厭世観や虚無感が全面的に押し出されていた感じがあり、彼らは死ぬことに対して抵抗感がなく、むしろ死ぬ唯一の方法が撃墜されることなのだと云わんばかりに空を飛び、そして敵を戦っていた。また死地である空を飛んでいる時にだけ、彼らは生への充実感を覚え、いつまでも飛んでいたいという矛盾を抱えていた。 本書に登場するクサナギはまだそれほど自分がキルドレであるという運命に対して悲観していない。彼女は純粋に飛行機に乗るのが楽しく、また戦闘機乗りとして空で死ぬのが本望だと思っている。つまりまだ人間の戦闘機乗りの持つ人生観と同じなのだ。 彼らは相手と戦うために飛ぶ。そして実際に相手を撃墜して還ってくる。そのまた逆も然り。 しかしそれが彼らの仕事であり、人生であると悟っている。 命を賭けた仕事という重い職責を負いながらも死と生とは切り離し、純粋に飛行機に乗って戦うことをゲームのように楽しんでいる。ゲームに敗れて死ぬことは任務を、与えられた人生を全うしたことであり、だから飛行機に乗らない人たちになぜ死ぬかもしれないのに戦闘機に乗るのか、怖くないのか、なぜ戦うのか、相手を撃墜することに躊躇いはないのかと、いわゆる一般的な生殺与奪の観点で職務について問い質されること、そして撃墜した死んだことに対して可哀想だと同情されることを嫌う。 自分たちはやるべきことをやって死んだのだからこれほど幸せなことはないと誇りを持っているのだ。唯一残る悔いは相手よりも自分が未熟であったという事実を突きつけられること。 命を賭けた勝負の世界に生きる戦闘機乗りの心情とは本当にこのような物なのだろう。 しかし本書においての草薙水素は飛行機に乗ることが大好きな戦闘機乗りだ。今日も空へと飛び立ち、敵と戦い、帰ってくる。そのために生きているかのように、彼女はその瞬間を愉しむ。 前作の感想では第1作はシリーズの序章と云ったところだろうと私は書いたが、時間軸で云えば2作目の本書は過去へと向かっている。 ミステリが既に起きてしまった事柄の謎を探る、つまり過去に遡る物語であることを考えれば、確かに第1作は序章だ。 しかし今回2作目を読んでこのシリーズは人物を覚えていることが重要であることに気付いた。備忘録のために今回出てきた人物を挙げておくのが肝要だろう。 草薙と同時期に配属されたメカニックの笹倉は前作にも登場。 チームのエースでティーチャはかつての綽名がチータ。 チームの上司合田。既に撃墜された同僚薬田、辻間。キルドレの比嘉澤に栗田。栗田は1作に出てくるクリタ・ジンロウのことだろう。 そうそう娼婦頭と思しき女性フーコもまた前作に登場していたのではないか。 草薙の元同僚赤座に指揮官の毛利、本部の人間甲斐に草薙が不時着した基地にいたのが本田。そして草薙の知り合いの医者が相良。 これらの登場人物は前作から引き続いて登場した者もいる。今後のシリーズでどのように関わってくるのか、そのためにここへ刻んでおこう。 このシリーズは過去へと向かうシリーズだと聞いた。つまりカンナミ・ユーヒチのその後の物語ではなく、第1作目に至るまでの物語だ。特にカンナミという名は重要かもしれない。 このシリーズは基本的に主人公の一人称で物語が進む。従ってクサナギと親しくしていた笹倉が彼女のことをどのように思っていたかは解らない。もしかしたら今前作を読むと何か読み取れるものがあるかもしれない。 私は文庫版で読んだがその橙一色に染め上げられた表紙は黄昏時の空を示しているのかもしれない。草薙水素が絶望に暮れる夜に至る前の物語だという意味が込められての色なのか。 夕暮れ時はどこか切なく哀しい思いにさせられるが、本書の中の草薙水素はまだ元気だ。 None but Air。空以外何もない。 今日も草薙水素は空を飛ぶ。絶望に明け暮れるその日が来るまで。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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【ネタバレかも!?】
(2件の連絡あり)[?]
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本書はまだ真保氏が、自身が傾倒するディック・フランシスの作品に倣って、二文字タイトルの、そしてどこかの公的機関に所属する人物を主人公にしたいわゆる「小役人シリーズ」の3作目に当たる。主人公を務めるのは気象庁の研究官、江坂慎一だ。
そして本書はそのタイトルに示すように地震をテーマにしているのだが、それはまだ物語の冒頭に描かれるプロローグのエピソードのみで、本編に入ってからは門倉司郎という男が水面下で動いている国家的規模の機密計画の準備と、主人公江坂が海洋科学技術センターの無人潜水調査船「ドルフィン」を使用しての吐噶喇列島と薩摩硫黄島周辺海域の鬼界カルデラの海上保安庁との合同観測で鹿児島を訪れるも、海上保安庁の一方的な回答による測量船の不備による度重なる順延とその空いた時間を利用したプロローグで描かれる津波地震観測ミスによって転勤になった元同僚の森本の捜索に専ら話は費やされる。 しかし気象庁と地震とは真保氏はまたもや何とも地味な主人公の職業とテーマを選んだものだ。こんな地味な題材を用いながらしかし、真保氏はエンタテインメントを紡ぐことに成功している。 とにかく話が進むうちに新たな謎が次から次へと出てくるため、全く先が読めない。 さて上にも書いたように物語は大きく2つに分かれる。 1つは主人公江坂慎一が登場するメインストーリーのパートと警視庁から出向し、内閣情報調査室調査官を務める門倉司郎のパートである。 江坂のパートでは以下のように謎が彼が調べていくうちにどんどん謎が深まっていく。 鹿児島へ現地入りした江坂達の調査を測量船の故障という理由以外詳しいことを説明しようとしない海上保安庁は何を隠しているのか? 更に元同僚の森本は何故辞職したのか? その答えは彼によって直接答えが出される。明日の見えない仕事に嫌気が差したと。そして新たな会社を興したのだが、その手掛けている仕事は一体何なのか? 彼の会社に出資ししているスポンサーとはどこなのか? また彼の来訪をきっかけに休職願を出し、姿を消した南九州工業大学の佐伯教授は森本の事業と何か関係しているのか? それも森本の電話から彼も現在の大学、しかも一地方のさほど権威があるわけでもない大学では出来ることに限界を感じ、森本と志が一致したことによる。 しかし森本が現れてから大学の最新鋭の地震計が壊され、観測データが全て消去されたのか? 福岡大学の物理学教室の日下部修と名乗る男の正体が不明なこと。 そして何者かによって江坂の荷物が物色されていたこと。 更に森本が自動車事故で焼死し、その際警察関係が警護についていたこと。しかもなぜ彼はVIP扱いだったのか? そして森本が調査していた奄美大島西の沖合で多くの海上保安庁の船が行っている演習とは一体何なのか? もう1つの門倉司郎のパートはこの門倉という男の計画、思惑や真意自体が謎となっている。彼は大学の同級生の伝手を使って色んなものを調達する。 石油公団からは信頼ある採掘業者を。 防衛庁技術研究本部からは武器装備の最新技術を。 特に特殊塗料と各種光電波欺瞞システム、いわゆるステルス技術に関する技術提供を。 そして内閣総理大臣にはアメリカ諜報機関への情報漏洩を防ぐ、ある計画について実施の意向を取り付ける。 更にかつての部下の1人を警護役に雇い、低レベル放射能参拝物を乗せて失踪した海上保安庁の巡視船を追って鹿児島へと飛ぶ。 そして彼は森本の娘のマークを福岡県警の公安課に依頼する。 とにかくやること全てが謎めいている。 江坂が秘密を探る側ならば、門倉は秘密を持つ側。この2つの側面が交互に語られ、やがて東シナ海沖の奄美大島西の沖縄トラフで交差する。 さて真保作品の特徴の1つに綿密な取材に裏付けられたきめの細かい描写が挙げられるが、それは本書でも健在だ。本書では気象庁の人間と火山活動を研究している大学がメインとなって登場するが、これが実に現実的に描かれている。 例えば冒頭の福岡管区気象台のシーン1つにおいても当直する人員配置から津波予報の迅速な発令へのプロセスやその判断基準に至るまで専門性が高い内容で事細かに説明がされる。もうこのプロローグだけで一気に読者は気象庁の人間たちの住む世界へと引きずり込まれるのだ。 それからも随所に気象庁に勤める人間ならではの描写が続く。各所に配備された地震計による地震観測網による震源地の特定方法、地震計のデータを使った震央分布や深度別の震源分布図の作成のプロセスなど、それらを読者は江坂の作業を通じて専門的な解析作業のみならず、それが謎解きのアプローチにも同時になっているという愉悦に浸れるのである。 それだけではなく、先に述べた火山活動を研究している大学の研究室を訪ねた時に応対する人間の指先が震源分布図を作成中で色分け作業しているため、迷彩色になっているといったディテールに唸らされた。 こういったディテールを疎かにせず、積み重ねることでそれぞれの登場人物がリアルに感じられるのである。 また無論の事ながら随所に挟まれる豆知識もまた興味をそそられる。日本海溝に沿って阿蘇や桜島などが綺麗な直線で結ばれることを火山フロントと呼称していることや九州が阿蘇山、雲仙岳、霧島、桜島など含め、8つもの活火山を有する島であることなど、改めて九州が火の国であることを思い知らされた。先だってハワイ島が噴火したこともあり、早速それに因んだ雑談で使わせてもらった。 しかし本書は1993年発表の作品。25年も前の作品だ。従って描かれるツールがパソコン通信だったり、フロッピーディスクだったりと一昔感があるのは否めない。従ってここに描かれている観測技術は四半世紀前のものであることは仕方ないだろう。 技術を扱う小説の内容が古びていくのは時の流れに抗えない宿命であるが、それでもなお門外漢である業界の内容を知ることは知的好奇心がくすぐられ、実に面白い。 ただその道の人にここに描かれている内容をさも知っているかのように開陳して恥をかかないように気を付けなければならないのだが。 またそれらの謎に加えて多数の登場人物たちへの掘り下げが濃厚であるのも特徴だ。 主人公江坂は父親の事業を継ぐことに反発して気象庁へ就職した男だ。そして大学時代に付き合っていた女性と結婚するつもりで就職したが、あっさりと彼女が自分の許を去っていった過去、そしてそのことを見事に父親に云い当てられていたことがあり、そのことで父親に対して蟠りがまだ残っている。地方の気象台に勤務することを望んだのも父親のいる東京に行きたくないという頑なな思いからだ。 また彼が探す森本俊雄は50にして愛人が出来、それが元で仕事にミスが多くなり、それが原因で鹿児島に飛ばされた男だ。 監視業務一筋で生きてきながら、鹿児島へ左遷されるや2ヶ月で辞職し、自分の会社を興してもっと専門的なことに専念するようになる。しかしどこか投げやりな態度はかつての森本ではないと江坂は思っている。明日を信じて一歩一歩足元を見ながら実直に仕事をしてきた男が、自分の歩みがいかに遅く、そして到達すべき距離が到底間に合いそうにないことから仕事に嫌気が差し、逃げ出した男と変り果てていた。 その娘靖子も紹介した結婚相手を拒否され、そして父親が黙って興信所で相手の身元調査をしていたことで婚約が破綻した過去を持つ。しかし親子の確執は深く、自分もまた興信所を雇って父親の愛人の存在を調べ、そして暴き、一家崩壊へと導いてしまったことを後悔している。 もう1人の主人公とも云える門倉は大学時代から人と群れるのを嫌う、一匹狼的性格で感情を表に出さずに振る舞える男だが、交通事故で息子を一生杖が必要な身体にしてしまい、夫人とも離婚。おまけに出世コースだった警視庁外事課の課長の職を更迭され、内閣府へ出向した身である。 その他の登場人物にもそれぞれ苦い過去があり、それを抱えて今の姿があることが描かれる。 そしてそれは主要登場人物にとどまらず、登場人物表に記載されていない一シーンだけの端役たちについてもそれぞれの抱える背景が書かれており、1人として駒だけの人間として描かれていない。 家を留守がちな主人に愛想を尽かし、家を出た妻、会話の無くなった夫婦、プライドが高くて周りと打ち解けられないベテランの漁師、等々。 「人間を描けていない」とこの当時数多発表されていた新本格ミステリ作品に対して書評家たちは口を揃えるように評していたが、それを意識してのことか、真保氏は1人1人の人生を語ることでそんな評価を出させないようにしていると思えるほど、徹底している。 しかしどこかそれらのエピソードにはもう一歩踏み込められていない浅さを感じたのもまた事実だ。 まず江坂の行動原理に対して設定の甘さを覚えてしまう。 一介の気象庁の人間である彼が森本を執拗に追うのは、彼がかつては気象研究所への席を争った相手であり、愛人問題で仕事のミスが多かったことで当直しないように忠告しながら、それをさせてしまったことが、彼をその椅子から蹴落とすことになったことで責任を感じている思いからである。 しかしそれは森本も云うように彼自身の自己責任の問題であり、江坂には全く非がない。それにも関わらず自身にも責任の一端はあるとしてそれに固執して森本の世話を焼くのは単に自分に酔っているとしか思えない。 江坂は自分が納得したいから行動するというが、それも自分の辞職を掛けてまで行うことかと首肯せざるを得なかった。江坂がここまで執心する性格付けとして火山の観測業務は地味な作業の積み重ねで手間暇かけて調べることに慣れているからだとなされているが、この執念はちょっと異常だ。 更に森本のプライヴェートに介入し過ぎである。 元仕事仲間が家庭崩壊の原因となった愛人問題について別れた家族に訊くという不躾さに、更にその愛人の居所をその家族から訊くという厚顔さ。また森本の娘靖子に、頑なな心を少しでも柔らかくするためとは云え、やたらと自分の過去を話すところは、下心も透かして見えるほどである。 しかも亡くなった森本の身元確認を行った翌朝にも自分と父親とのことを持ち出して話をするところによほどこの男は靖子に好かれていると自信があるのだなと思ったくらいだ。 また上に書いたように35にもなって独身で父親への反抗心が残っている彼はどこか幼い感じを覚えてしまう。特に上に書いたように辞職を決意してまで、納得したいからと云って人の苦い過去を掘り起こしてまで、プライヴェートに介入するやり方はちょっと度が過ぎる。しかも彼が自身の好奇心を満たせば満たすほど、当事者は傷ついていく。 さらに後半は奄美大島の西の東シナ海沖で海上保安庁と海上自衛隊が合同で行っている秘密の演習の謎を探るために気象庁へ辞表を提出してまでそれを取材している雑誌記者と行動を共にして、かつて趣味でやっていた登山の経験を活かして、怪しいと思われる硫黄鳥島に潜入しようとまでする。 もはや一介の気象庁の職員というレベルを超えた行動力と活躍を見せる。正直ここまで人生を賭けてまで調査する江坂の行動は度が過ぎると思った。 しかしそんなことを云っていると本書の物語自体が成り立たないのだが。 また物語の渦中にある森本俊雄が50にもなって愛人を作った理由が明かされなかったのも心残りだ。 家庭のある身でありながら、なぜこの歳で若い女性に溺れたのか。実直な仕事ぶりを見せていた彼なりの理由が知りたかった。それが十分語られず、自らの過ちで家族が取り返しのつかないことになり、離婚するまでに至った彼の行動の真意が知りたかった。 さて釣瓶打ちの如く連発する謎の真相はなんとも不思議な読後感を残すものだった。 この物語の終盤、2人の主人公、江坂慎一と門倉司郎が対面し、それぞれの主義主張をぶつけ合う。 江坂の、組織に属する身でありながら自分が納得したいという理由だけで行動し、そして上司の制止も聞かず、辞表を出してまで、己の欲するところを突き進む愚直さ。そして国益のためという大義名分を振りかざしてまで隣国を欺いてまで事を成そうとする国に対して示す純粋な正義感。 こういった江坂の言動はかつての私ならば手放しで愉しんだだろう。 しかし私も40半ばになってみると江坂の考えが実に甘く、子供じみたように思える。 誰も好き好んで悪い事をしようと思ってなどなく、それが必要だからこそ自らが手を黒く染めることを選んだ門倉の方を私は指示してしまう。彼は日本という国を護るために自ら計画し、敢えて悪役になることを選んだのだ。 どちらに正義があるかと云えば正直明確な答えは出ないだろうが、少なくとも私は門倉の方に正義を感じる。 中国や韓国が独自の論法で、主義主張で東シナ海の領有権を振りかざしていることを考えると、純粋な者ほど、真面目な者ほどバカを見る、そんな世の中に、国際社会になってきている。 気象庁という閉じられた世界で過ごしてきた江坂は生のデータを解析し、地震の予測や火山活動の予測を立ててきた人間だ。つまり彼には嘘をつかないデータ、つまり事実を相手に、自らの考えを構築してきた男だ。そして自分なりの答えを出すためにとことん調べることを止めないできた男だ。 しかし門倉は警視庁の外事一課から出発し、諜報活動という騙すか騙されるかの世界で生きてきた男だ。そこで素直に人を信じることは即ち死を意味してきた。しかしだからこそ唯一信じられる仲間への信頼が強かった。鉄面皮と呼ばれていた男は実は熱い心を持った人間だったことが最後に解るのだ。 江坂のエピソードをプロローグにした物語は最後門倉の話で終わる。 海外のことわざにこのような言葉がある。 「1回目は騙す方が悪い。2回目は騙される方が悪い」 世界は複雑化してきている。 読み終えた今、感じるのは実に複雑な構成の物語だったということだ。 脇役に至るまで細かな背景を描き、1人の行方知れずの人物を捜すために福岡と鹿児島を往復し、人から人へと訪ね歩いて、細い一本の糸を辿るような私立探偵小説の様相を呈しながら、一転して東シナ海沖で隠密裏に動いている海上保安庁、海上自衛隊の演習の謎を探るためにセスナを使っての調査、そして夜間の硫黄鳥島への潜入行と冒険小説へと転身させる。 目まぐるしく変わる小説のテイストに戸惑いを隠せない。 そして何よりも一抹の割り切れなさを抱えて終わることが実に勿体ないと感じる。 1人の男の辞職の真意を自分が納得したいからという理由で追い求めた男が始めた行動によって失われた代償はあまりに大きかったと思うのは私だけだろうか。 少なくとも日本の隠されたもう1つの貌を知った江坂の明日は今までのそれとは違うはずだ。 それを彼が本当に望んだことなのか、それを考えると彼は知り過ぎてしまったのかもしれない。知ることの恐ろしさと虚しさを感じた作品だった。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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ボッシュシリーズ記念すべき10作目はこれまでコナリーが発表してきたノンシリーズが、本流であるボッシュシリーズと交わる、いわばボッシュ・サーガの要をなす作品となった。恐らく作者も10作目という節目を迎え、意図的にこのようなオールスターキャスト勢揃いの作品を用意したのだろう。
ノンシリーズで登場した連続殺人鬼“詩人(ポエット)”が復活し、その捜査を担当したFBI捜査官レイチェル・ウォリングが再登場し、また『わが心臓の痛み』で登場して以来、『夜より暗き闇』で共演した元FBI心理分析官テリー・マッケイレブが交わる。しかしなんとそのテリー・マッケイレブは既に亡く、ボッシュが彼の死の真相を探る。 とにかく全てが極上である。 味のある登場人物たち、物語の面白さ、謎解きの妙味。 ミステリとしての謎解きの味わいを備えながら、シリーズ、いやコナリー作品全般を読んできた読者のみ分かち合えるそれぞれの登場人物の人生の片鱗、そして先の読めない、ページを繰る手を止められない物語自体の面白さ、それらが三位一体となって溶け合い、この『天使と罪の街』という物語を形成しているのだ。 まず触れておきたいのは自作の映画化についてのことだ。 テリー・マッケイレブと云えばクリント・イーストウッド監督・主演で映画化された『わが心臓の痛み』(映画題名『ブラッド・ワーク』)が想起され、今までコナリー自身が作中登場人物にその映画について再三触れているシーンがあったが、本書では更にそれが加速し、随所に、なんとそれぞれ映画で配役された登場人物がこの映画について触れている。 また本書は前作に引き続き、ボッシュの一人称叙述が採られているが―レイチェル・ウォリングのパートは三人称叙述とそれぞれの章で使い分けがされている―、その中でも映画がさほどヒットしなかったこと、イーストウッドとテリー・マッケイレブの歳が離れすぎていたことなどが吐露されている。これは作者自身の不満であると思え、なかなか面白い。 私は幸いにして『わが心臓の痛み』読了後、BSで放送のあったこの映画を観ていたのでこれらのエピソードを実に楽しく読めた。 ボッシュ(=コナリー)が云うように、私自身大きな賛辞を贈った原作が映画になると何とも淡白な印象になるものだなと残念に思っていたからだ。 更にFBI捜査官側のモハーヴェ砂漠で見つかった大量死体の謎にテリー・マッケイレブが絡んでいることが発覚すると、しきりに「あの映画を観ていたら解るのだが」といった映画での引用が所々出てくる(さすがにマッケイレブの葬式にクリント・イーストウッドが出席していたという件はやり過ぎかと思ったが)。 もう1つ加えるならば砂漠に埋められた遺体の1つから発見されたガムの噛み跡があの稀代のシリアルキラー、テッド・バンディの物と発覚し、更にロバート・バッカスとレイチェル・ウォリングが彼の聴取をしていたという件も登場する。 この自作が映画化された事実、さらに実在のシリアルキラーと自作の登場人物を絡ませてメタフィクショナルな作りになっているのが本書の大きな特徴の1つと云えるだろう。 上に書いたように本書はレイチェル・ウォリングと新聞記者のジャック・マカヴォイが挑んだシリアルキラー“詩人”に、レイチェル・ウォリングが再戦し、そこにテリー・マッケイレブとハリー・ボッシュが挑むという実にサーヴィス精神旺盛な作品となっている。 例えるならば東野作品で稀代の悪女が登場する『白夜行』、『幻夜』の犯人に加賀恭一郎と湯川学の2人が挑む、それくらいのサーヴィスに匹敵する内容だ。 更にボッシュがラスヴェガスに長期間滞在しているモーテルの隣人ジェーン・デイヴィスはその様子から『バッドラック・ムーン』の主人公キャシー・ブラックだと思われ、繰り返しになるが、これまで以上にオールスターキャスト登場の趣を見せる。 そしてそれがサーヴィスに留まらず、物語の、いや本書の謎解きの主軸となっているところがまた凄いのである。 詩人に敗れ、命を落としたマッケイレブの遺品と遺したメモを手掛かりにボッシュは犯人の足取りを辿るのだが、それらは断片的に遺された、ほとんど暗号に近い内容だ。 それをじっくりと読み解いていくプロセスはまさにミステリにおける謎解きの醍醐味に満ちている。物語の中盤、上巻から下巻にかけて詩人がどのように被害者たちを狩っていたのか、その足取りを辿る件は久しぶりに胸躍る思いがした。 そうそう、忘れてはならないのが、テリーの相棒バディ・ロックリッジ。彼もまた例によって例の如く、自身が好むミステリの登場人物たちのようなヒーロー願望を前面に押し出し、ボッシュの捜査に絡んでいく。 しかしこのバディ・ロックリッジが、ボッシュにとっても面倒な男だと思われているのは思わず苦笑いしてしまった。彼はやっぱり誰にとってもうざい存在のようだ。 また気になるのはボッシュとエレノアのその後の関係だ。 前作では長く別居生活を送っていたエレノアとの再会し、更には実の娘がいたという、実に晴れやかなラストを迎え、本書ではてっきり幸せな結婚生活が再開されているものと思われた。 それを裏付けるかのようにボッシュはとにかく愛娘にぞっこんで、彼女と電話して話をしたり、また寝顔を見るためだけにエレノアの家を訪れる。 そう、彼は娘と逢いにエレノアの家に通っているのだ。つまり再び別居生活を送っているのだ。 前作では警察を辞め、LAに留まる理由が無くなり、エレノアへの渇望感、愛情再燃の様相さえあったボッシュ。実際彼が自身をLAに留めているのが単に再会することで失うものを恐れていたのだが、LAを捨て、エレノアのいるラスヴェガスに向かい、同居生活を試みたものの、上手くいかなかった。 それはエレノアがもはやラスヴェガスで名うてのギャンブラーとして生計を立てているため、そこを離れられないのだが、ボッシュはこのギャンブルとエンタテインメントを生業にする町は娘を育てるのにいい環境だとは思わなかったため、そのことでエレノアとは衝突を繰り返し、関係がぎくしゃくしていたのだった。 男と女。その考えは常に異なる。それは古来から伝わる世の常である。 世の夫婦はお互い、それぞれの価値観との相違によって生じる衝突を繰り返し、時にはぶつかり、そして時には妥協し、折り合いを付けて共に人生を歩んでいく。それが夫婦なのだ。 しかしボッシュとエレノアはそれが出来ない。彼らはお互いに愛し合いながらもそれぞれの主張が、主義が強すぎ、折り合いを付けられてないのだ。 愛し合いながらも離れていた方がいい男女の関係と云うのは確かにある。それは時には強い斥力で以ってお互いを突き放すが、時間が来るとお互いどうしようも抗えない引力によって引き合う、磁石のような存在となる。 元刑事のボッシュと元FBI捜査官のエレノア。それぞれ強くなくてはいけない世界で生きていたことで、相手に譲歩することが出来なくなってしまっているのだ。 そのボッシュとタッグを組むレイチェル・ウォリング。『ザ・ポエット』では活躍した彼女はしかし、8年前のその事件を解決した後のFBIでの道のりは決していいものではなかった。 その事件の後、ノースダコタのマイノットという捜査官1人、つまりレイチェル唯一人の部署に異動させられ、その後も、いわゆるお荷物捜査官の巣窟へと異動させられた、出世街道の梯子を外された存在である。 彼女がそのような左遷を繰り返される閑職に追いやられたのは詩人の事件がきっかけだった。自分の上司が連続殺人鬼でそれを取り逃がしたことも一因だが、それよりも彼女はその事件の捜査の最中でFBIの天敵である新聞記者ジャック・マカヴォイと寝たことが知れ、FBIの厄介者になってしまったのだった。 この似た者同士の2人が手を組み、お互いを認め合う。背中を預けられる存在として。特にボッシュは無意識のうちに彼女をエレノアと呼び間違えるまでになる。 バッカスの仕掛けた爆弾で危うく吹き飛びそうになった2人は、恐怖を共有した者同士が生き長らえたことで共通の生存意識が芽生え、お互いを求め合う。 死を乗り越えた人間は生きている歓びとそして死んだかもしれない恐怖を分かち合い、性にしがみつくために将来の生を残そうとするかのように躰を求め合うのだ。レイチェルはエレノアとの関係が上手くいかないボッシュの新たなパートナーとなりそうな雰囲気を醸し出して物語は進む。 邦題の『天使と罪の街』はボッシュが住むLAとエレノアと最愛の娘マデリンが住むラスヴェガスを指している。前者が天使の街で後者が罪の街とボッシュは語る。 いやそうではないのかもしれない。天使と罪の街とは即ちLAとラスヴェガス両方を指すのかもしれない。 ボッシュが罪の街と呼ぶギャンブルが主な収入源となっているラスヴェガスはしかし彼にとっての天使マデリンが住んでいる。一方その名に天使を宿すLAは文字通り天使の街だが、長年そこで刑事をやってきたボッシュにとっては彼が捕らえるべき犯罪者が巣食う街だ。 罪を犯す者が住む天使の街、そして天使が住む罪の街。その両方を行き来するボッシュは再び刑事としてLAへ還っていく。 一方原題の“The Narrows”は「狭い川」を指す。普段は小川だが、暴風雨が降るとたちまちそれは濁流と化し、人を飲み込む大蛇へと変貌する。このナローズこそは普段はFBI捜査官の長として振る舞いながらも実は連続殺人鬼だったバッカスそのものを指し示しているのだ。 彼に対峙する直前ボッシュは母が頻りに云っていた「狭い川には気を付けなさい」の言葉を思い出す。 相変わらずコナリーは含みのある題名を付けるのが上手い。 なおコナリーは2003年から2004年に掛けてMWA、即ちアメリカ探偵作家クラブの会長を務めていた。本書は前作『暗く聖なる夜』と本書がまさに会長職にあった頃の作品だが、ウィキペディアによれば前作がMWAが主催するエドガー賞にノミネートされたものの、会長職にあるとのことで辞退している。 また本書ではイアン・ランキン、クーンツのサイン会が書店で開かれたことや、初期のジョージ・P・ペレケーノスの作品は手に入れにくい、などとミステリに関するネタが盛り込まれている。これはやはり当時会長としてアメリカ・ミステリ普及のために、細やかな宣伝行為を兼ねていたのではないだろうか。 そういえば前作ではロバート・クレイス作品の探偵エルヴィス・コールが―その名が出ていないにしても―カメオ出演していた。こういったことまで行うコナリーは、自分の与えられた仕事や役割を、個性的なアイデアで遂行する、几帳面な性格のように見える。 物語の冒頭、ボッシュの語りでこう述べられている。 真実が人を解放しない。 その真実とはマッケイレブの死の真相のことだろう。 そのことに気付いていたレイチェルはマッケイレブの遺族のために隠すことにしたのだが、それをボッシュに悟られたことでレイチェルは敢えてボッシュと決別する。 その直前まで彼女はボッシュが移り住んだLAの自宅を訪れ、自分の異動先をLAに希望するとまで云っていたくらい、彼女はボッシュが気に入っていたのだった。しかし似た者同士はあまりに似ているため、同族憎悪をも引き起こす。相手に自分の嫌な部分まで見てしまうがゆえに、一度嫌悪を抱くとそれは過剰なまでに肥大する。 似ているがゆえに共になれない。ボッシュとレイチェルはボッシュとエレノアの関係によく似ている。 読み終えて思うのは本書はハリー・ボッシュ、レイチェル・ウォリング、テリー・マッケイレブ、そしてロバート・バッカス4人の物語だったということだ。そして彼らは人生に訪れた困難・苦難を乗り越えて生きてきた人たちでもあった。 ボッシュはそのアウトローな独断的な捜査方法ゆえに検挙率はトップでありながら常に辞職の危機に晒されてきた。その都度ギリギリのところで踏み留まり、困難をチャンスに変えてきた男だ。 レイチェル・ウォリングは8年もの長きに亘って島流しに晒されたFBI捜査官だったが、彼女はいつかの再起を信じ、決して腐ることはなかった。以前よりも生気が失われたと思われた目にはまだ野心が残っており、そして部外者扱いされながらも捜査の中心に我が身を置いて、8年前に自分を閑職に追いやった因縁の相手に決着をつけた。 テリー・マッケイレブはFBI引退後も過去の事件に向き合い、未解決の事件の犯人逮捕に執念を燃やし続けた。彼は心臓病という大きな病を抱えながらもそれを続けた。 そしてロバート・バッカス。彼の苦難は幼少時代に途轍もない暴力を父親から振るわれ、それを母親が助けてくれなかった過酷な境遇だ。 しかし彼はそれを乗り越える、最悪な方法で。 彼は父親からの暴力の鬱憤を小動物を殺すことで晴らし、やがてその行為が父親に及んで事故死に見せかけることに成功する。その歪な成功体験が彼を稀代の殺人鬼へと変えた。FBIの行動分析課の長として捜査に携わりながら、その地位を利用して自分に捜査の手が及ばないように犯行を重ねた。 彼も困難をバネに生きてきた男だ。ただ彼はダークサイドに陥ってしまったのだが。 ボッシュとレイチェル、そしてマッケイレブ。彼らは人間の闇の深淵を覗いてきた人々だ。しかし彼らはバッカスにならなかった。ただそれは、今はまだ、というだけの差しかないのかもしれない。 悪の側と善の側を隔てる線。その線引きを自ら行えるうちは大丈夫だろう。しかしその一線を超えたら、彼ら彼女らもまたバッカスになり得るのだ。 今回もコナリーは期待を裏切らなかった。 ただ惜しむらくは本書はあまりに『ザ・ポエット』の続編の色を濃く出しているため、作者が明らさまに『ザ・ポエット』の内容と真相、真犯人を語っている。従って『ザ・ポエット』の内容を知りたくないならば本書を読む前に是非とも読んでおきたい。 まあ、実に入手が難しい作品であるのだが。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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Vシリーズ最終作。このシリーズは今までの森作品同様、密室殺人が多いのだが、本書は一風変わった連続殺人事件が描かれる。色を含んだ名前の被害者がその色一色に塗りたくられて死ぬという実に奇怪な事件である。
さてS&Mシリーズでもシリーズ1作目の犯人が最終作で再登場したように、このVシリーズでも同様の趣向が採られている。 保呂草潤平に成りすました殺人鬼、秋野秀和が拘置所の中で瀬在丸紅子と面談するのだ。この辺は『羊たちの沈黙』のレクター博士とクラリスの面会シーンを思わせる。 S&Mシリーズでの犯人真賀田四季が警察に捕まらず、自由の身であることの違いはあれど、犀川創平と邂逅し、議論を戦わせているという点で、犯人と名探偵の再会という同じようなシチュエーションを使っているのが面白い。 これだけのミステリアスな道具立てをしながら、その動機やトリックが実に呆気ないのが森作品の特徴。むしろ動機なんて犯人しか解らないとばかりに端折る傾向さえあるドライさが見られる。 本書でも犯行のトリックはさほど詳しく語られない。 第1~3の殺人に関してはその方法についてはほとんど語られないから、普通に彼らの前に現れ、普通に殺したようだ。 問題は第4の殺人。そのトリックは何ともしょうもない。 このトリックが明確に書かれないところが、森ミステリの甘いところで私はいつも欲求不満を持ってしまう。 この犯行動機、この現代社会においては実に多い動機だ。 昨今の犯罪の動機は稚拙の動機がいかに多い事か。何度もこのような理不尽な理由で殺人が行われている報道を耳にする。 ストレス社会と云われる現代社会の闇。逆にこのドライさ、単純さ、無邪気さを森作品ではミステリに敢えて取り込んでいるように思う。 ミステリのようにいつも理由があって、意外な動機があって人を殺すわけでなく、案外人を殺すのは至極単純な理由でしょ? そんな風に森氏が片目をつぶってニヤリとする顔が目に浮かぶようである。 それもあってかこのシリーズにはS&Mシリーズにはない不穏な空気がある。 表向きは私立探偵兼便利屋稼業の保呂草が実態は泥棒と云う犯罪者の空気を纏っていることが更にミステリアスかつ危険な香りを感じさせているのだが、それにも増して瀬在丸紅子と云う探偵が次第に自身も殺人者としての素養が、資質があること、そしてその衝動を実は紅子自身が押さえていることが明かされる。 常に犯人を突き止める名探偵こそが、犯罪者、とりわけ殺人者の心理を理解している、即ち名探偵も殺人者の心の持ち主である、つまり悪は悪を持って制される、そんな不穏さを感じさせる。 さらに瀬在丸紅子と祖父江七夏の林を巡る女の闘い。ドライな森作品には珍しく嫉妬や愛情への渇望感など、ウェットな部分が書かれているのがS&Mシリーズの、どこか新本格ミステリの流れを継承した、パズルに徹した作風と異なり、大人の読み物としての色合いを濃くしたように感じていたが、本書では既にそれらは薄まり、むしろ紅子が七夏に歩み寄るような姿勢を見せているのが驚きだった。 しかしそんな冷戦も犯人との最終決戦で破られる。林の捜査に協力した紅子が犯人と対峙する時に明らかに七夏は嫌悪感を示し、さらに真犯人との対面に対してははっきりと拒絶する。 これは民間人が犯行現場に土足に立ち入ることへの窘めでもあるが、女性として同じ男性を愛する相手に対する女の意地である。この2人の女の感情的な行動もまた本シリーズの特徴だ。 そう、犯行の動機も含めてこのシリーズの登場人物は実に感情的で衝動的、いや本能に忠実なのだ。保呂草の美術品盗みもまた彼の美しいものが好きという衝動によるものだ。 本書でも保呂草による関根朔太の初期の作品≪幼い友人≫の盗難事件がサイドストーリーとして出てくる。その方法はサイドストーリーというほどには勿体ないくらい凝っており、むしろメインの殺人事件よりも緻密である。 この犯行方法は瀬在丸紅子によって見破られ、未遂に終わるのだが、この盗みを働いた保呂草の動機もただ単純に関根朔太が書いた≪幼い友人≫の裏に書いた絵がどんなものなのか見たかったからだけである。 過去にも保呂草はそれがあるべきところに収まるべきだと盗んだ物を無償で誰かに渡したり、美しいから手元に置いておきたいという理由で盗んだりと至極単純な動機で犯行を行っている。美術品を盗んで大金を稼ぐことは二の次なのがほとんどだ。 我々が罪を犯さないとはこの欲望とか衝動を理性で抑えているからだ。そして罪を犯した後で生じることの重大さを想像することで踏み留まらせている。 つまりこの理性と云う壁が破れ、後先の想像をしない時に本能的に人は犯罪を起こすのだ。 作中保呂草は云う。例えば殺人はドライに云えば排除なのだと。自分を確立するために障害となるものを排除する、それが人間だ。 戦争も然り、政治的画策も然り。権力もない人間が邪魔者を排除するために取る方法が犯罪であり、その1つが殺人なのだ。 その排除はまた1つの木から彫刻を作ることにも似ている。余分な部分を削ぎ落し、形を作る。その余分な部分が人ならば殺人であり、そして犯罪は出来上がった作品とも云える。犯罪者の中には犯罪行為にそんな美しさを見出して敢えてする者もいる。 更に保呂草は云う。カラースプレーを手にして色を塗ると実に楽しく、すっきりすることを感じる。 しかし通常しないのはそうすることで後片付けが大変、勿体ない、という倫理、経済的な観念が一般人にあるからそうしないだけで、それを考慮しなければ誰でもできるはずだ。 自分なりの作品を作りたい、人を殺したい。そんな実に無邪気な動機が一連の犯罪の動機である。しかしただの子供ではないかと歯牙にもかけない人はいるだろうが、私は非常に現代的だと感じた。 他にも練無が紫子に語る生贄の話なども興味深い。 命を粗末にしたくないから、死者への感謝の気持ちになり、それが逆に天に命を捧げて天災やら幸せを願うと云う生贄の発想へと繋がったというものだ。これも小さな排除で大きな幸運を得るという行為。 本書は人を殺す、罪を犯すことについてそれぞれの人物が深い考えを述べているのもまた興味深かった。 さて哀しいかな、瀬在丸紅子、保呂草潤平、小鳥遊練無、香具山紫子ら楽しい面々ともこれでお別れである。 S&Mシリーズでもそうだったがシリーズの幕切れとは思えないほどただの延長線上に過ぎないような締め括りであるが、一応それぞれの関係に終わりはある。 そして練無と紫子の関係にもなんだか微妙な空気が流れていた。この2人の関係の今後は明らかになるのだろうか。 新たな謎を残してVシリーズ、これにて閉幕。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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日常の謎系ミステリ、即ち日常生活における些細な違和感の裏に隠された謎を解き明かすミステリを生み出した北村薫氏。それは「人の死なないミステリ」とも呼ばれていたこの「円紫師匠と私」シリーズだが、シリーズ初の長編にして3作目の本書で初めて人の死が扱われた。それも女子高生という若い命が喪われる事件。文化祭の準備の最中に起きた屋上からの墜落死に潜む謎に私と円紫師匠が関わるミステリだ。
人の死というのは押しなべて非常にショッキングな印象を与えるが、特に若い命が喪われるそれは殊更に人の心に響く。 本書では3つも年が違い、中学、高校時代には一緒の学校にいることのなかった後輩の死が扱われるわけだが、それでも「私」にとって小学生時代に同じ登校班にいた記憶がいまだに鮮明であり、そして何よりも自分より若い子の死が心に響いてくる。 幸いにして私は高校生の頃に友人の死に直面したことがない。大学生の時にも経験がないわけだが、就職して2年目の頃に私は友人の死をニュースで知った。 大学を卒業して就職の道を選んだ私と違い、成績優秀で実直かつ努力家の彼は当然の如く大学院に進んだ。皆が認める勤勉家だった彼が、卒業旅行先の台湾で落石事故に遭遇し、朝のニュースで報道されたのだ。私は当時同姓同名の人物かと思ったが彼のことだった。 その時初めて同世代の近い死を知り、そして世の無情さを思い知ったのだ。何か偉業を成し遂げるほどの才能を持った人物が、いつも勉強ばかりしていた友人がほとんどしない旅行、しかも卒業旅行でそんな目に遭う、この世の不条理さに茫然とした覚えがある。 本書の津田真理子の死も主人公の私にとって同じように思ったことだろう。特に人格者である津田真理子の造形が私のその亡くなった友人とダブらせるかのようだった。 更に誰もが経験したであろう高校生活。だからこそ事件が起きた高校の描写は私を含めて読者をその時代へと引き戻してくれることだろう。特にテーマが文化祭と云うのが憎らしい。あの特別な時間は今なお記憶に鮮明に残っている。 進学校に進んだ私は高校時代は登下校に1時間以上費やしたため、敢えて部活動をすることを選ばなかった。従っていわゆる帰宅部の一員だったわけで、その日の就業が終れば友人たちと家路に帰っていた。 しかし私の通っていた高校は文化祭やら体育祭などのイベントに力を入れる校風であり、帰宅部であった私もその頃になると必然的に学校に居残って皆と一緒に準備に明け暮れていた。その時のもうすでに暗くなっているのに、各教室にはまだ明りが点いて、一生懸命に何かを作っている、もしくは息抜きに歓談している、あの独特の風景を未だに思い出す。あの雰囲気は何ものにも代え難い思い出だ。 本書はそんな雰囲気を纏って私の心に飛び込んでくるから、なんとも云えないノスタルジイに浸ってしまうのである。 本書に描かれる高校生活は何とも瑞々しく、読んでいる最中に何度も自身の思い出に浸らせられた。それは良き思い出もあれば、後悔を強いる悪い思い出もある。読中、何度自分のやらかしたことを思い出し、読む目を止めたことか。 高校時代に大学時代、それぞれの時代が本書を読むことでシンクロし、とても冷静に読めなかった。理系の工業大学に進んだ私は主人公の「私」ほど本を読んでたわけではないが、専攻した学問を突き詰めるという意味ではやはり似ている何かを感じた。 そんな「私」を通じて得られる色んな含蓄はもはや北村作品の定番と云っていいだろう。 子供の頃の読書のいかに楽しかったことか。知識がない時代に読む本はいつも発見の毎日だったこと。 誰かの話を聞いてさも自分が体験したかのように錯覚し、誰かの評判を鵜呑みにしてそれを食べ、その通りだと盲目的に信じることを耳食ということ。これは何とも頭の痛い話だった。 そして文学部専攻の彼女の毎日はいつも本があり、いつも彼女は本を読む。 確かに普通に生活して日々を過ごすのもまた生き方の1つだろう。しかし本書の主人公の「私」のように自分の興味の赴くまま、文学の世界に身を委ね、そして時に喜び、感心し、そして時に思いもよらなかった価値観に怯えるのもまた生き方だ。 同じ時間を過ごすのにこの差は非常に大きいと思う。そんな読書生活の日々で得られる日常のきらめきが詰まっているのも本書の最たる特徴だ。 さて日常の謎系のミステリにおいて初めて人の死が扱われたわけだが、だからと云ってそのスタンスはいつもと変わらない。 探偵役を務めながらも「私」はごく普通の女子大学生だ。だから探偵や警察のように事故の起きた現場、つまり津田真理子が墜落した場所へは怖くて行きたいと思わないし、身分を偽って学校を訪れ、ずかずかと人の心のテリトリーに分け入るわけでなく、あくまで自然体に接する。彼女は昔から知っている子の先輩として憔悴する和泉利恵を助けたいがために行動しているに過ぎないのだ。 そんな本書の焦点となる津田真理子の死。 いきなり彼女の死で始まる本書は死後彼女を知る人物から彼女の為人を聴くことで彼女のキャラクターが形成される。それは包容力を持ちながらも芯の強さを持った女子高生の姿だった。 まだセカイが狭い高校生活の中で、自分が生きている時間が長い人生の中の一片に過ぎないことを自覚し、その時その時を生きること、そしてどんなに辛いことに直面してもそれは月日が経てば思い出として「いつかきっと」消化されること、そんな達観した視座の持ち主、それが津田真理子の肖像だ。 しかし運命はそんな彼女にいつか来る将来をもたらさなかった。彼女が信じた「いつかきっと」は来なかった。 高校生は忙しい。勉強に部活、そして友達関係。小学校、中学校に比べて断トツに生徒数が多く、従って人間関係も広がる世界である。 だから彼ら彼女らはその日を、そして目前にある中間・期末試験を乗り切るのに精一杯だ。少なくとも私はそうだった。 進学校に進んだ私はきたる試験で絶対に取りこぼさないよう、更に上に、最低でも現状維持を目指して常に勉強をしていた。最もきつかったのが高校生活であったが、同時に最も楽しく、印象に残っているのもまた高校時代である。なぜなら彼ら彼女たちはそんな見えない明日を生きる同志だったからだ。 そんな近視眼的な高校生においてこの津田真理子の視座は特殊と云えよう。 彼女はいつか来る遠い未来を信じたが、それ以外の高校生は今を、そして明日をどうするかのみに生きた人々だ。そんな時間軸の違いがこの悲劇を生み、そして彼女はその犠牲者となったのだ。 秋は夏に青く茂った葉が色褪せ、散り行く季節である。そして木々たちは厳しい冬を迎える。 しかしそんな秋にも咲く花はある。秋桜しかり、そして秋海棠もまた。 本書の題名となっている秋の花とは秋海棠を指す。その別名は断腸花と何とも通俗的な感じだが、人を思って泣く涙が落ちて咲く花と最後に円紫師匠から教えられる。 津田家の秋海棠は親友の和泉理恵の涙を糧にして美しく咲くことだろう。それが既にこの世を絶った津田真理子の意志であるかのように。 秋海棠の花言葉を調べてみた。 片想い、親切、丁寧、可憐な人、繊細、恋の悩みと色々並ぶ中、最後にこうあった。 未熟。 高校生とは身体は大人に変化しながらも心はまだ大人と子供の狭間を行き交う頃だ。大人びた考えと仕草を備えながら、一方で大人になることを拒絶している、そんな不安定で未熟な人々。 津田真理子と和泉利恵。 亡くなった津田真理子はいつか来る明日を信じて、今の苦しみを乗り越えられる強い女子高生だった。そしてその力を和泉理恵にも分け与え、彼女たちの直面する困難を、先が見えない未来を一緒に克服しようとする、女神のような子。 一方和泉利恵は明るい性格だが、脆さを持ち、誰かの支えを必要としている子。彼女にとって津田真理子は親友であり、そして心の大きな支えだった。 ただ彼女たちはまだあまりにも若すぎた。若すぎるゆえに先生たちに怯え、そして若すぎるゆえにまだ子供だった。そんな幼さが起こした過ちは取り返しのつかない物になってしまった。 若くして親友を亡くす、和泉利恵の将来は「その日」の前とこれからとは異なるだろう。 我々は大人になる過程で色んなことを味わう。 楽しい事、辛い事、孤独、哀しみ。 日常の謎を扱いながらもそんな日常に潜む些細な齟齬から生じる悪意を浮かび上がらせ、あくまで優しさのみで終わらないこのシリーズの、人生に対する冷ややかな視線を感じた。 例えば思わず「私」が出くわす中学の時の同級生のバイクの後ろに乗ったことを正ちゃんに話した際に、正ちゃんがその無防備さを非難し、どこまでも悪い解釈をして無邪気な私を問い詰めるシーン。普通に見れば中学の頃の同級生の成長と、既に大人の男と女になった2人がぎこちないながらも交流する温かなシーンでさえ、疑ってみれば実に冷ややかな物へと変貌することを示唆している、印象的なシーンだ。 そんなことが本当に起きないとは限らない世の中になってしまったことの作者の嘆きとも取れるこのシーンは単純にこの世は優しさだけでは成り立たないことを突き付けているかのようにも思える。 そんな人の心の脆さを嘆きながらも、やはり最後は人の善意を信じて、いつか会う良き人が自分の生まれた場所を実に素敵で美しいと褒めてくれることを信じて生きていいのだと円紫師匠は私に伝える。 最後に和泉利恵が眠りに就いたことを津田真理子の母から告げられて物語は終わる。少女はようやく苦しみから解放され、眠りに就いたのだ。 彼女にどんな将来が待っているかは解らないが、目が覚めた後の世界は、決してあの頃には戻れない世界だろうけれどもきっとその前よりもいいはずだ。津田真理子ならばそう云うに違いない。 この作品は是非とも高校生に読んでほしい。貴方たちの世界はまだまだ小さく、そして未来は無限に広がっていること、そして「生きる」とはどういうことかを知ってほしい。 若くして亡くなった津田真理子は明日を無くしただけだったのか?彼女が生きた証はあるのか?という問いに対する答えがここに書いてある。 ただ生きると云うだけでその人の言葉や表情、仕草が心に残るのだ、と。 そしてそれは真実だ。私には前述の夭折した友人のことが今でも記憶に鮮明に残っている。 だから精一杯生きて青春を、人生を謳歌してほしい。苦いけれど哀しいけれど、本書は高校生たちに贈るこれからの人生への餞の物語だ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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ハリー・ボッシュシリーズ9作目はボッシュがハリウッド署を、刑事を辞めて私立探偵になった初めての事件。
ボッシュ自身の過去の事件に決着をつけた後の『トランク・ミュージック』がシリーズ第2期とすれば、本書はボッシュシリーズ第3期の始まりの巻だと云えるだろう。 そして本書はボッシュの一人称叙述で語られる。つまりこれはボッシュが私立探偵となったことでこのシリーズが今までの警察小説ではなく、私立探偵小説となったことを宣言するために意図的にコナリーが選択したことだろう。 さて登場人物紹介を見て思ったのは、やたらと「元~」と付く人物が多いことだ。 まず主人公のボッシュからして元ハリウッド署刑事だし、キズミン・ライダーは元相棒、エレノア・ウィッシュは元妻であり、さらにボッシュが捜査を始めた自身の関わったお蔵入り事件の1つ、アンジェラ・ベントン殺害事件の当時の捜査官ロートン・クロスも強盗事件に遭って全身不随の車椅子生活を強いられている元刑事である。 かつて北村次郎氏が述べたように、ボッシュの物語とは過去と対峙する物語である。デビュー作の『ナイトホークス』でヴェトナム戦争時代の過去と対峙し、その後もハリウッド署へ左遷させられることになったドールメイカー事件、そして自身の母親を殺害した事件と過去へ過去へと突き進む。 その後『トランク・ミュージック』から始まる第2期では現在進行形の事件を扱うが、刑事を辞職する『シティ・オブ・ボーンズ』では20年前に起きた虐待を受けた少年の死の真相を探り、そして第3期の始まりとなる本書では再び自分の刑事時代の未解決事件という過去の事件と対峙する。 その過去の事件とは4年前の1999年に起きた映画会社女性社員アンジェラ・ベントン殺害事件。この僅か3日後に映画の撮影現場に持ち込まれた200万ドル強奪事件が起き、お蔵入りした事件を別の観点から調べようとこの事件についても調べていくうちに3年前のFBI女性捜査官失踪事件に行き当たる。 しかしなぜかお蔵入りしたアンジェラの事件は現在積極的に捜査中であると元部下のキズミン・ライダーから警告を受け、そしてまたFBI女性捜査官事件にも厳重な戒厳令が敷かれているようで、刑事を辞め、一介の私立探偵となったボッシュはロス市警、FBIから圧力を掛けられ、捜査を幾度となく妨害される。 ハリウッド署の刑事という鎧を自ら剥いだボッシュはその鎧が自分にとって拠り所であり、いかに護られていたかを痛感する。そしてかつては部下であり、チームの一員だったキズミンはボッシュの異動する予定となっていたロス市警強盗殺人課から異動し、市警本部長室とキャリアの道を歩んでいる。そしてかつてのアーヴィングのように彼に圧力を掛ける立場にいる。 そして刑事を辞めたボッシュの物語であるせいか、今までのシリーズとは異なり、様々な引退した警官・刑事の生き様が描かれる。 まずはボッシュにアンジェラ・ベントン事件の協力をするロートン・クロスのその後の生活が最も色濃い。 仕事中に見舞われた強盗事件で負った傷が元で全身不随の身となり一生車椅子の生活を強いられることになった彼は、テレビを見ることだけが日常となり、もはやこれは生きているとは云えないと折に触れ、ボッシュに零す。そして自分は妻から虐待を受けていると嘆き、その妻ダニーは献身的に夫に尽くしながらも日々の介護で疲弊し、しかも夫の被害妄想に更に苦労を募らせている。かつての美貌を残しながら訪れるボッシュを訝しげに睨む彼女の笑顔をボッシュは見たことがない。 またボッシュが再捜査を始めたアンジェラ・ベントン殺害事件は担当していた刑事2人を1人は死亡し、1人は全身不随の車椅子生活を強いられるという事態になったことから他の刑事たちが関わりの持ちたくない事件になる。それは刑事たちが縁起を担ぐ傾向にあるからだ。 またロス市警の警官は引退後は大半がロスを去り、アイダホ州で田舎暮らしを愉しみ、もしくはラスヴェガスでカジノのパートタイムの警備仕事をする者や年金でメキシコで家を買い、悠々自適の生活を送り、引退後に留まるにはロスは逆にかつての刑事時代の苦い思い出が多すぎる場所であることが綴られる。 また一方で引退してからも刑事時代のヒリヒリした日常が忘れられない者もいる。ボッシュはそんな縁故を伝手にして自分の捜査を続けていく。 また何よりも本書では刑事を辞職したボッシュが殊更にエレノア・ウィッシュのことを想うシーンが多いことに気付かされる。彼の生涯の“一発の銃弾”、つまり心に刻まれ、そして傷を残した銃弾こそがエレノアであることを自覚しながらも、未だ離婚届を出していない、法的には夫婦である2人なのに、本書では既にウィッシュのことをボッシュは元妻と呼び、エレノアとは呼ばず、「かつて妻とは」とか「元妻」といった呼称が多くなる。そして彼女を1月前にラスヴェガスで見かけたことをFBI捜査官のロイ・リンデルから知らされる。 もはや刑事でもないボッシュは自由の身でいつでも彼女の許へと飛んでいけるのに、拒まれる恐怖に怯え、それが出来ないでいる。 一方でボッシュは往年のジャズの名プレイヤー、クェンティン・マッキンジーがいる老人ホームに週二回通ってはサックスの演奏のレッスンと話し相手をするようになっているのだが、同じくそこに母親を入居させているバツイチ40代の女性と食事をする機会を設けて、何か思わせぶりな素振りを見せたりもする。 更には夜中にクロス宅を訪れたボッシュを妻ダニーが思わせぶりに誘ったりする素振りがあったりとボッシュは本書でも女性に対して何かと縁がある。52歳にしてなお女性を惹きつける魅力がボッシュにはあるようだ。 そしてとうとうボッシュはエレノアと再会する。彼はFBIのマークを外すため、エレノアの許を訪れ、彼のカードをわざと使わせ、ラスヴェガスにいるように仕向けるよう協力を求める。その時のボッシュはエレノアの仕草や笑顔1つ1つにときめいたり、変えた髪型に惚れ直したりとまるで初々しい恋人のように述懐する。 しかし一方でどうも彼女には他の誰かがいることを察する。読者の側にもエレノアにとってボッシュはかつての夫であり、今では友達以上恋人未満の存在であると片を付けているように思え、一方のボッシュは一発の銃弾である彼女に踏ん切りが付けられず、彼女の乗っている車のナンバープレートの所有者を、目的を明かさずにリンデルに調査を依頼したりとなんとも未練たらたらのどうしようもなさを見せるのである。 本書の冒頭は次の一節で始まる。 心に刻まれたものは決して消えない。 これはエレノア・ウィッシュがボッシュに呟いた言葉である。彼の生涯の“一発の銃弾”がエレノアだったように、他にも“一発の銃弾”を抱える人物が登場する。 それはFBIの囮捜査官ロイ・リンデルだ。彼こそは当時失踪した女性捜査官マーサ・ゲスラーの捜査の担当者であり、恋人でもあったのだ。彼の心に刻まれたものとはゲスラーその人だった。つまり本書は2人の男が消えない“一発の銃弾”を再度得ようとする物語でもある。 上で本書はボッシュシリーズ第3期の幕開けと書いたが、それぞれのシリーズの幕開けには常にこのエレノア・ウィッシュが登場する。デビュー作は無論のこと、『トランク・ミュージック』はエレノア再会の作品で、結婚を決意する物語。そして本書は別れた妻と再会する物語だ。 つまりボッシュの人生の節目にエレノアは綱に現れる。いやボッシュがエレノアを見つけ出すと云った方が正確か。何にせよエレノア・ウィッシュはこのシリーズの“運命の女”だ。 今回の原題“Lost Light”は前作『シティ・オブ・ボーンズ』で登場した言葉だ。“迷い光―個人的には“迷い灯”の方がしっくりくると思うのだが―”と訳されたその言葉はボッシュがヴェトナム戦争でトンネル兵士として暗いトンネルの中にずっと潜んでいた時に見た光のことを指す。つまりそれは埋もれた過去の未解決事件という暗闇に新たな光が指すことを意味しているのだろうが、今回は邦題の方に軍配を挙げたい。 ルイ・アームストロングのあまりに有名な曲“What A Wonderful World”の一節“Dark And Sacred Night”から採られているが、この曲が本書では実に有効的に、いやそんな渇いた表現はよそう、実に胸を打つシーンで使われているからだ。 ボッシュの捜査がFBIの妨害に遭い、その協力者として情報提供者の元警官で捜査中に遭った銃撃事件によって全身不随の車椅子生活を強いられているロートン・クロスのところにFBI捜査官が押し入り、その高圧的で半ば拷問に似た捜査によって元刑事の尊厳を傷つけられ、涙に暮れるシーンがある。元刑事の彼は流す涙を誰にも見られたくないが全身不随のため、拭うことすらできず、部屋に入ってきた妻が彼の姿を見て、バスローブの前をはだけ、乳房を彼の顔に引き寄せ、ひたすら抱きしめながら、この有名な歌を口ずさむのだ。 動けぬ身体と医者から止められた大好きな酒を止められ、日がな一日テレビを観て過ごすしかない毎日を悲嘆する夫ロートンと、献身的な介護をしながらも夫の非難を浴び、それに耐えつつも、時折殺意めいたものを抱く妻ダニー。 2人が抱える明日をも解らぬ絶望的な毎日がお互いを反目させているように見せながらも、その実、心の底では2人は支え合い、そして求め合っていることを示す、実に胸を打つシーンだ。私は思わず涙を浮かべてしまった。 絶望の中にも聖なる夜はある。暗いながらもそこには希望がある。そんなことを想わせる、実にいい邦題である。 さて紆余曲折を経てボッシュはようやく犯人へと辿り着く。 余りに安く軽んじられた若い女性の死。そして反目しながらもお互いを必要としている愛情の深さを見せたクロス夫妻の絆の美しさも夫ロートンの愚かな過ちで一転してしまう。 夫婦の絆に隠された醜さを見せつけられながらもこの物語が実に心地よい読後感を得られるのはやはりエレノアとボッシュの関係の回復が最後に見られるからだ。 やはり本書は堂々たる新しいボッシュシリーズの幕開けだった。 原題“Lost Light”は前述したように暗いトンネルの中で見える“迷い光”という意味だが、ボッシュが見つけた“迷い光”は刑事を辞めたボッシュが明日をも知れぬ暗闇の中で見出した光を指すのだろう。 しかし毎度のことながらこのシリーズのストーリーの緻密さには恐れ入る。物語に散りばめられたエピソードが有機的に真相に至るピースとなって当て嵌まっていくのだ。 刑事の使用する車が特殊仕様の大型の燃料タンクが備え付けられている件など、単なる蘊蓄かと思っていたら、これがある些細な違和感を解き明かすカギとなるのだから畏れ入る。 いつもながら勝手気まま、傍若無人ぶりな捜査で周囲を傷つけ、そして仲間を得ては失っていくボッシュが愛し、護るべき存在を新たに得たことでどんな変化が訪れるのか。 私の心には既にボッシュシリーズが深く刻まれている。そしてそれは当分消えそうにない、エレノアが云ったように。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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キングが初めて共作した作品が本書『タリスマン』。キングとストラウヴがその豊富なアイデアを惜しみもなく注ぎ込んだファンタジーとロードノヴェルとを見事に融合させた1000ページを超える大著だ。
解説によればキングとストラウヴがそれぞれ交互に話を書く、リレー方式で書かれたらしい。それぞれがそれぞれの文体とは解らぬように意識的に文体を真似て書いたようだ。 2人が初めて共作した作品はいわば典型的なファンタジー小説と云えるだろう。女王の命を狙う敵から守るためにタリスマンを手に入れる旅に少年が旅立つ。 ただ異世界だけを舞台にしているのではなく、我々の住む現実世界とテリトリーと呼ばれる異世界とを行き来しながら冒険するところが特徴だ。そしてテリトリーに分身者と呼ばれる第二の存在を持つ人間が10万人に1人の割合でこの世には存在し、ジャックの父親フィリップ・ソーヤーと母親リリーが共に分身者を持つ存在であること、そしてフィリップがリリーに遺した会社の半分の持株を狙い、そして親子の命まで狙う父親の会社の共同経営者モーガン・スロートもまた分身者を持つ者であること、ジャックが移転先で知り合った放浪の黒人ミュージシャン、スピーディ・パーカーもまた分身を持つ存在であり、ジャックは唯一2つの世界を自由に行き来できる存在であるという設定だ。 しかしこの設定も2018年現在では全く新しいものではない。むしろ現実世界と異世界を行き来する話は既にいくらでもあり、例えば現実世界とは地続きであるが、世界的大ベストセラーとなった『ハリー・ポッター』シリーズもまたその系譜に繋がるだろう。 またこの現実世界と異世界という設定は我々が日常で利用しているウェブ社会と考えれば親近性を持った設定である。分身者は即ち、今でいうアバターである。 ただ本書は1985年に書かれた作品である。当時はインターネットすらなく、パソコン通信の創成期といった時代である。キングとストラウヴ両者がこの新しい技術を当時知っていたかは不明だが、そんな時代にこのような二世界間を行き来する作品を描いていたことは実に興味深いし、先見性があると云えるだろう。 ただ現実世界から異世界へ現実世界の人間が紛れ込むという設定は今では田中芳樹氏の『西風の戦記』が1987年、小野不由美氏の『十二国記』シリーズが1991年からで、海外のSF、ファンタジーに疎いため、そちらは不明ながらもいずれも後発作品であることを考えると、当時としても斬新な設定だったのではないかと思われる。 読み進むにつれて次第にこれは2人が紡いだ新たな『指輪物語』だと云うことが解ってくる。 最初にジャックがテリトリーで襲われるのはエント。これは『指輪物語』に出てくる木の巨人だ。そして作中何度でも『指輪物語』が主人公ジャックから語られる。 ジャックが母、即ちテリトリーを統べる女王の命を救うために手に入れるのがタリスマン。『指輪物語』は諸悪の根源、冥王サウロンを滅ぼすため、ホビットのフロドたちが彼の持つ「一つの指輪」を破壊する物語。更にその指輪を破壊するために「滅びの山」へと向かう。 一方本書ではタリスマンを手に入れるため、世にも恐ろしい土地「焦土(ブラステッド・ランド)」へと向かう。どちらも灼熱の土地でそこに行くのでさえ苦難を伴う。そして本書では「焦土」は火の玉が飛んできては転がり、その日の弾に近づけば髪が抜け、皮膚が爛れ、吐き気をもよおし、内臓もやられ、死に至るという過酷な場所。 ジャックはその話を聞いて当時アメリカ西部で行われていた核実験のことだと気付く。一方『指輪物語』の「一つの指輪」も原子爆弾を象徴していると云われている。斯くも共通項が多いこの2つの物語だが、『指輪物語』がホビット、エルフ、ドワーフ、人間といった異種族の代表チームで旅を続けるのに対し、本書は若干12歳のジャックが孤独に旅を続けることが違う。また現実世界と異世界テリトリーを行き来できるところもまた異なっている。つまりこれは『指輪物語』と現実とを結びつけて語るファンタジーなのだ。 そんなキングとストラウヴが創った異世界テリトリー。それは科学の代わりに魔術が使われる農業王国だ。 テリトリーと現実世界を魔法のジュースで行き来することが出来るジャック。他方で危機に陥ればジュースを飲んで別の世界に逃れることが出来る、もはや万能の能力のように思えるが、移動のたびにジャックは頼みの綱の魔法のジュースを零してしまい、そのため自由自在に行き来できなくなっている。 従ってジャックは現実世界ではヒッチハイクをして移動し、荒くれたちの住む町オートリ―では酒場のバイトをして金を稼ごうとするが、ずる賢い主人に給料の半分を天引きされたり、ちょっとしたミスで殴られたりと、酷い仕打ちを受ける。 そのうちテリトリーと現実世界との境界が曖昧になってくる。 例えばジャックを旅から戻らせようと執拗に酒場には電話が掛かってくるし、人の姿をした黄色い眼の山羊男エルロイがジャックに襲い掛かる。 ジャックの父フィリップと共同経営者モーガンはテリトリーを自分たちの商売に利用して成功してきた。しかし慎重派のフィリップはあくまで大きな変化を与えることを望まぬ一方、会社を一刻も早くもっと大きくしたいモーガンはテリトリーにない電気や近代兵器、いわば現代科学という魔術を持ち込んで、荒稼ぎをしようと企む。 しかしテリトリーと現実世界は相互に作用しあい、片方で起こった出来事が他方に何らかの形で影響する。 例えば国王の暗殺がきっかけで起きた3週間の戦争がテリトリーで起きたその日は現実世界では第2次大戦が勃発した日。それは6年間も続いた。そして他方で人が死ねば片方でも人が死ぬ。つまり大きな変化をもたらせばそれは更に大きな形で現実世界に作用するのだ。 その片鱗が恐らく山羊男の現実世界への侵略だろう。既に双方の世界の境が壊れつつあるのが物語の状況だ。 その後も旅は続く。テリトリーでは市場町に向かって、そこで初めてその世界の通貨の使い方を―詐欺に遭いながらも―学び、西方街道を行く途中では塔に上ってそこから羽を広げて宙を優雅に羽ばたく人たちの姿を見て、そこに人生の喜びを見出す。 エージェントの父と女優の母親を持つジャック・ソーヤーはいわばサラブレッドといった普通の子とは異なる洗練された家庭の生まれである。彼はいつの間にか、母親の女優の血を受け継いだかの如く、現実世界とテリトリーとの間を行き来しながら、出逢う人々を持ち前の想像力と演技力で引き込みながらアメリカ横断の旅を続ける。 しかしジャックに協力する人たちはジャックが嘘をついていることに薄々気づいている。つまり世間の大人もそう馬鹿ではないということだ。しかし嘘をつかれながらもジャックに協力したくなる魅力が彼には備わっている。 ヒッチハイクをしているジャックを拾ったあるバディー・パーキンズはジャックの笑顔を見て美しいとさえ思う。彼の内面から輝き出すものが、経験を積み重ねた者が見せる苦難に打ち克ってきた者の強さを垣間見たのだ。 一方で彼の風貌ゆえに小児愛者の、男児性愛者の興奮を掻き立てることもあり、ジャックを拾ったドライヴァーの中には故意に性的行為を求める人物も少なからず出てくる。そんな輩に対しても上手く対処する方法をジャックは身に着けるようになる。 しかし少年の旅を描くのに、現代アメリカの暗部をきちんと描く辺り、実にキングらしい。もしくはストラウヴによる演出なのかもしれないが。 可愛い子には旅させよ。 12歳のジャックの旅はまさに彼の成長の物語である。この旅でジャックは色んな人々と出逢い、年齢以上の人生経験を積むことになる。 何度も挫け、何度も泣き言を云いながらもジャックは母親を救いたい一心で旅を続ける。しかしテリトリーと現実世界を行き来することが影響して奇妙な地震が起き、アンゴラで7名もの死者が出る建設中のビル倒壊事故に責任を感じ、自分の旅で数多くの関係のない人が亡くなるのではないか、母親1人の命を救うために多くの犠牲者が出るのではないかと絶望する。 そんな時に出遭ったのが彼の支援者である放浪の黒人ミュージシャン、スピーディの分身とも思えるスノーボールという盲目の黒人ギタリスト。彼があるメッセージをジャックに告げる。 誰かが何かをしたために人が死ぬこともある、だけど何かをしなかったからもっとずっと大勢の人が死んだかもしれない。 つまりやって後悔する方がやらずに後悔するよりもはるかにましだと諭す。 そして物語の中盤、テリトリーで父親のことを知るウォーウルフのウルフと出逢い、彼とジャックは旅を共にする。ウォーウルフでありながら、山羊たち家畜の世話をする、実にミスマッチな役割を宛がわれたウルフの設定が実に面白い。 しかしウルフと知り合うや否や、ジャックの旅を食い止めようとするモーガンがようやく彼の居所を突き止め、彼を殺害しようとするが、その時、モーガンの魔の手から逃れようとウルフと共に現実世界へと舞い戻る。狼男のウルフが未知なる現実世界でジャックと行動を共にする辺りは本書の読みどころの1つである。 彼が狼男で満月の夜3日間は狼になり、その本性を剥き出しのまま、ジャックすらをも獲物として食らおうとする、この信用ならぬ共存関係のスリルはまさにこの2人の巨匠の独壇場とも云うべき、特殊な設定だ。 ウルフが守る『良き農耕の書』というテリトリーに伝わる農業の指南書には満月の日には家畜を襲ってはいけないと書かれ、それを一身に守ろうとする。獣の本性を剥き出しにしながらもウルフはジャックを家畜として扱い、そしてこの鉄則を守ろうと努力する。 やがて彼らはケイユガという町で不審者として逮捕され、そこにあるサンライト・ホームという更生施設に入れられる。そこはなんとテリトリーでモーガンの腹心の部下であるオズモンドの分身者サンライト・ガードナーが経営する、悪しき更生施設だった。 ここは本書における最初の山場だ。 ジャックがヒッチハイクを再開して目指す場所は、宿敵モーガン・スロートの息子でありながら大の親友であるリチャード・スロートがいるセア・スクール。そこで昔と変わらぬ親友と出逢ったジャックはリチャードにこれまでのことを打ち明ける。全てを信じないながらも一応リチャードが理解を示した頃、学校では奇妙なことが起きる。いつの間にかクラスメイト達は消え失せ、代わりに上級生によく似た半獣の人間がジャックを突き出せとリチャードを脅す。リチャードは幼い頃、父親がいなくなった時に体験したあるトラウマからそれは現実ではなく悪夢であると思い込もうとする。しかしジャックへの魔の手はどんどん迫り、やがてセア・スクール校長のミスター・ダフリーまでもが人狼と化して2人に襲い掛かる。 間一髪、とうとうジャックはリチャードと共にテリトリーへ跳躍し、そこから西へと向かう。昔列車の停車場だったセア・スクールはテリトリーでは汽車の乗り場であり、そこの番人アンダースから世にも恐ろしい土地「焦土(ブラステッド・ランド)」が広がる西に向けて走り、モーガンの依頼で彼の荷物を黒い館(ブラック・ホテル)まで翌朝運ぶことになっていたことをジャック達に教える。ジャックはそこにタリスマンがあると確信し、モーガンたちを一歩出し抜いて彼の列車を借りて黒い館へと向かう。 この焦土の風景は楳図かずお氏のマンガ『漂流教室』を想起させる、醜悪な生き物たちの巣窟だ。放射能を帯びていると思われる火の玉が終始飛び交い、足が退化したミュータントの犬、それらを食らう巨大な地虫、猿のような革製の翼をもった小鳥、悪いウォーウルフ、半人半蛇、半人半鰐の異形の者たちやらが次々と登場する。 とこのように次から次へとジャックの旅は不思議な出来事と人たちと出逢い、あるいは巻き起こしていく。 この1985年に書かれた物語は上に書いたように今でも続く現実世界と異世界とを舞台にしたファンタジーに影響を与えたと思われる節が見られる。 なんといってもまずは宿敵モーガンと主人公ジャックの父親フィリップとの関係だろう。ジャック親子の前に立ち塞がる敵モーガンは太って髪の薄くなった冴えない風貌である。彼はエール大学在籍時にジャックの父親フィリップと知り合うが、その冴えない風貌から常に彼を見下し、小バカにしているように見えた。これがモーガンの心中に澱のように溜まる劣等感による殺意を募らせることになる。 この2人の関係性は『ハリー・ポッター』シリーズのセブルスとハリーの父親ジェームズとの関係によく似ている。この2人の関係性は本書に原形があるのではないだろうか。 テリトリーと現実世界とを自由に行き来できるジャックは自分こそがただ1つの存在であることに気付く。かつてテリトリーを発見し、行き来していた彼の父親フィリップはテリトリーの他にも別のテリトリーがあることを感じていた。 その通り、無数のテリトリーが存在し、その全てが自分の世界のブラック・ホテルに入り、そしてタリスマンを手にしなければ得られない。そんなことは不可能だが、ただ1つの存在であるジャックのみがそれを可能となる。なぜならジャックは唯一無二の存在だからだ。 毒にも薬にもなる存在、タリスマン。私は核爆弾を象徴していると思った。 癌に侵され、死にかけた母親を救うためにジャックが求めたのはこのタリスマン。強大な力を持つこの球体が核爆弾を象徴しているというのは荒唐無稽に思われるが、自分なりの解釈を以下に述べたい。 本書が書かれた1985年は各国が競って核爆弾を所有し、アメリカでは頻繁に核実験が行われていた頃だ。 他国が持っているから自国も所有して他国からの侵略に対して備え、安心しようとする。それは国にとっては防御力ともなるが、暴発すれば自国をも滅ぼす死の兵器である。 そしてそれを各国が手放すことで真の平和が訪れる。そして黒い館に至る道のりにある焦土は火の玉が飛び交い、それに触れると放射能に侵されたような症状になることもまたそれを裏付けている。 ちょうど非核化対策が注目された米朝首脳による初会談の行われた時にこの作品を読んだからそう思ったのかもしれないが、いやそれだけではないだろう。私はまたも本に引き寄せられたのだ。 最後のむすびの文章が実に憎い演出だ。主人公の名前から私の中にはある物語の主人公のことが浮かんでいたのだが、それはこの2人の作家が意図したことらしい。 最後にあの有名な作品―マーク・トウェインの『トム・ソーヤーの冒険』―のむすびをそのまま使い、またそれが実にこの物語を結ぶのに似合っている。 2人の稀代のホラー作家が紡いだファンタジー・アドヴェンチャー・ノヴェルは彼らによる新たな『指輪物語』でありながら、少年少女文学不朽の名作へのオマージュだったのだ。 読み終えて冒頭を見てみるとそこには『ハックルベリイ・フィンの冒険』からの抜粋があることに気付かされる。キングとストラウヴによるトムとハックの物語。しかしそれにしてはちょっぴり、いやかなり辛口の味付けだったのはご愛嬌か。 しかしマーク・トウェインが後にハックを主人公にした『ハックルベリイ・フィンの冒険』を書いたように、2人がリチャード・スロートを主人公にした物語を紡ぐかと云えばそれはないだろう。 なぜならジャックとリチャードには決定的な違いがある。それは異世界を知る喜びを持つジャックに対し、リチャードは異世界に恐怖を抱き、目を背け現実のみを頑なに信じようとしたからだ。幼い頃に消えた父親を追ってテリトリーに迷い込んだリチャードはそこで異形の者に遭遇し、命からがら逃げだし、それがトラウマとなって、一切の物語を遮断することにし、超常現象全てに現実的な答えを見出すようになる。 物語の面白さを愉しむジャックと物語を愉しめないリチャードという2人の差は本を読む人、読まない人の心の豊かさの違いを示唆しているようにも思える。 はてさてこの感想を挙げるにあたり、思いつくままに本書から想起される物語を挙げてきた。 『ハリー・ポッター』、『十二国記』、『西風の戦記』、『指輪物語』、『漂流教室』、そして『トム・ソーヤーの冒険』。 古今東西の小説やマンガのエッセンスが本書にはそこここに詰まっている。さらにブラック・ホテルでの対決でモーガンが見せる、両手の拇指を耳の奥深く突っ込んで残りの指をひらひらさせて「アッカンベー」をし、その後で舌を噛み切る、滑稽ながらも恐ろしい仕草や彼の腹心の部下ガードナーが呂律の回らない状態で狂い叫んでジャックに襲い掛かるところなどはまんま『ジョジョの奇妙な冒険』に出てくる個性的な悪党そのものだ。 2人のホラーの大家がタッグを組んだ本書には物語を愛し、その力を信じる2人の情熱が込められている。 色々書いたが、本書は愉しむが勝ち。それだけのアイデアが、多彩なイマジネーションが溢れている。 そう、本書そのものがタリスマン―本を読む者へのお守りであり、読者を飽きさせない不思議な力を持っている。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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Vシリーズもとうとう9作目。シリーズのセミファイナルとなる本書では7作目に登場した土井超音波研究所が再び物語の舞台となる。従って付された平面図は『六人の超音波科学者』同様、土井超音波研究所のそれとなっている。
2作で同じ平面図を使うミステリは私にとっては初めての経験だ。 そして今回の謎は飛び切りである。 まず研究所の地下室に二重に施錠された部屋から死体が見つかる。どちらも船室で使われる密閉性の高い中央にハンドルのついた重厚な鉄扉で、最初の扉は内側からフックのついた鎖で止められ、外側からは解錠できないようになっている。次の扉は床にあり、開けると昇降設備がなく、梯子か何か上り下りできるものがないと降りられず、更に入る部屋からしか閉めることが出来ない。その床下の部屋に白骨化した死体が横たわり、その死体は何か強い衝撃で叩きのめされたかのように周囲には血が飛び散っている。 さらに1年4ヶ月前にNASAの人工衛星の中で男女4人が殺される密室殺人が起きる。男3人は小型の矢のような物で無数に刺され、女性は絞殺されていた。 しかもこの人工衛星の密室殺人事件と研究所の地下の密室事件には関係があるという、島田荘司氏ばりの奇想が繰り広げられる。 更に今回土井超音波研究所の地下室に潜入することを依頼した藤井苑子こと纐纈苑子も物語の背後で暗躍する。 テロリストの藤井徳郎の妻であった彼女がN大学の周防教授の部屋に忍び込み、なぜ教授の友人が送ったNASAの資料を盗んだのか? また今回はNASAの事件に関係した国際的なテロリストが絡んでいることもあり、他国の国際機関が事件に介入し、偶然当事者と間違えられた瀬在丸紅子たちが危害に遭うというスリリングな展開を見せる。レスラーを思わせる体格の中国系アメリカ人リィ・ジェンと小鳥遊練無の緊張感ある格闘シーンと、小鳥遊練無の少林寺拳法の師匠で紅子の世話役である根来機千英の達人ぶりを目の当たりにできる。格の違いを見せつけながらも紅子への忠誠を失わないその姿勢は根来の信念の深さを思い知らされるワンシーンだ。 彼が紅子の元妻林とその部下で恋人の祖父江七夏に対して嫌悪感を露わにするのを大人気ないと感じていたが、このシーンは彼こそが男であり、林が実に芯のない男であるかという格下げせざるを得なくなるほどの日本男児ぶりである。 祖父江七夏と瀬在丸紅子の潜在意識での格闘は続くが、その大いなる原因は2人の女性に手を出した林なのだから、彼が読者から嫌われて当然なのは今に始まったことではないのだが。 更にこの件で紅子の息子へっ君の誘拐騒動が起き、紅子のへっ君への溺愛ぶり、愛情の深さを読者は思い知らされる。七夏が云うようにかつては林のためなら息子も殺すことをできると云う冷淡なまでの林への執念を見せた彼女はその実、本当に息子に危難が訪れると普段の冷静さが吹き飛んでしまうほどの母性愛の持ち主だったことが解る。 そんな起伏が激しく、そして謎めいた物語。それぞれの謎はある意味解かれ、ある意味解かれないままに終わる。 この辺が森ミステリの味気なさなのだが。 更に私が感嘆したのは前々作『六人の超音波科学者』の舞台となった土井超音波研究所が本書のトリックに実に有効に働いていることだ。 いやはや同じ館で異なる事件を扱うなんて、森氏の発想は我々の斜め上を行っている。 そしてシリーズの過去作に纏わると云えば小鳥遊練無が初登場したVシリーズ幕開け前の短編「気さくなお人形、19歳」でのエピソードを忘れてはならない。『六人の超音波科学者』も纐纈老人との交流が元でパーティに小鳥遊練無は招待されたが、本書では更に纐纈老人との交流が物語の背景として密接に絡んでくる。 読んだ当時はただの典型的な人生の皮肉のような話のように思えたが、練無が代役を務めた纐纈苑子、即ち藤井苑子が本書でテロリストのシンパで妻となって登場することで全くこの短編の帯びる色合いが変わってくる。もう一度読むと当時は気付かなかった不穏さに気付くかもしれない。 そしてこの纐纈苑子が小鳥遊練無にそっくり、いや小鳥遊練無が纐纈苑子にそっくりなことが最後の最後まで実に効果的に活きてくるのである。 ところで本書のタイトルは朽ちる、散る、落ちると3つの動詞で構成されており、これまでの森作品の中でも非常に素っ気ないものだが、各章の章題は「かける」で統一されながら、それぞれ「欠ける」、「架ける」、「掛ける」、「賭ける」、「駆ける」、「懸ける」、「翔る」と7つの同音異句動詞で構成されており、まさに動詞尽くしの作品である。 ただあまりそれまでの森作品と比べて題名の意味はよく解らない。 朽ちるとはまさに死のこと。肉体は朽ちても残るものがある。 落ちるとは藤井徳郎の行った犯罪とその死を指すのか。 しかし散るとは? もしかしたら藤井のテログループが散開したことを示しているのだろうか。 このシリーズは保呂草の手記によって書かれていることがあらかじめプロローグに提示されているのが特徴だ。そして物語を読み終えた時、このプロローグを読むと浮かび上がってくるものがある。 本書では奇跡的な偶然が示唆されている。それはやはり小鳥遊練無が纐纈苑子に酷似していたことだ。 彼女と彼が似ていたからこそ、全ては始まったのだ。シリーズが始まる前のエピソードから全てが始まったのだ。 さてとうとうVシリーズも残り1作となった。S&Mシリーズの時には全く感じなかったのだが、このシリーズに登場する面々は実に愛らしく、別れ難い。もっと続いてほしいくらいだ。 西之園萌絵がお嬢様然とした世間知らずな学生であるのに対し、瀬在丸紅子もまたかつてお嬢様で常識を超越した存在であるのだが、彼女は祖父江七夏と元夫である林を取り合う、人間としての嫉妬や女としてのプライドと云った人間らしさを感じるからだ。 特に祖父江七夏と逢うのは嫌いではない、なぜならその間彼女は林と一緒にはいられないからだ、という凄い考え方の持ち主だ。 そして何よりも物語を引き立てるコメディエンヌ(?)小鳥遊練無と香具山紫子の2人の存在、そして危うい香りを放つ食えない探偵保呂草といったキャラが立った面々が前シリーズの登場人物たちよりも親近感を覚えさせる。森氏の文章力、キャラクター造形の力が進歩したこともあろうが、やはりこのキャラクターたちは実に愛すべき存在だ。 本書でとうとう紅子の息子のへっ君のイニシャルがS.S.であることも判明し、最後の最後で明かされるサプライズへ助走の状態であるーいや本音を云えば何も知らないで最終作まで読みたかったが、世間一般の森ファンはどうも作品間のリンクを吹聴したがる傾向があり、ネタバレを逃れるのは至難の業なのだ—。 さて心して次作を待つこととしよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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