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Tetchy さんのレビュー一覧
Tetchyさんのページへレビュー数1426件
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2010年代のミステリ界の最大の収穫の1つとして質の高い北欧ミステリが次々と刊行されてきたことが挙げられる。
そして私もとうとうこのジャンルに手を出すこととなった。 しかし本書が他の北欧ミステリと一線を画すのはフィンランドを舞台にしながら作者はアメリカ人であることだ。 ジェイムズ・トンプソン。彼はフィンランドの妻を持つヘルシンキ在住のアメリカ人作家。数ある北欧ミステリの書き手の中でも異色の存在だ。 まず本書の目新しさはなんといってもそれまで日本人には馴染みの薄いフィンランドを舞台にしており、その風土や気候、文化に国民性が詳しく書かれていることだ。 人口は約550万人だが、暴力犯罪は多く、一人当たりの殺人件数はアメリカの大都市とほぼ同じで近親者による犯行が多い。殺人事件の検挙率95%とかなり高く、犯罪は多いのに死刑制度はない。そのくせ100年以上の中で有罪になった連続殺人犯はたった1人しかいない。 隠れ人種差別者で声高に明らさまに差別用語をまくし立てることはせず、暗黙的に差別する。わざと昇進させず、無関心を装い、蔑視する。 そしてアメリカ人ほど政治について語らない割には投票率は80%と関心は高い。 本書の主人公カリ・ヴァーラはフィンランド人で妻のケイトはアメリカ人でスキーリゾートの経営者をしていたが、フィンランドの会社にスカウトされ、<レヴィセンター>の総支配人となった。そしてそこで出会った警察署長カリと結婚したのだ。そして今彼女は双子の赤ん坊を身ごもっている。 翻って作者ジェイムズ・トンプソンはアメリカ人でフィンランド人の妻を持ち、ヘルシンキに住んでいる。つまり本書の主人公夫婦と作者は表裏一体なのだ。 そしてケイトのフィンランドについてのイメージギャップは我々日本人の読者が抱くものと同じだろう。 それはフィンランドという国のイメージは恵まれた美しい自然に囲まれ、秩序ある生活で国民の幸福度は高いというものだが、アメリカ人の彼女が実際に来てみると人々はあまり語らず、沈黙が多く、何を考えているか解らない無表情である。そして12月半ばからクリスマスまで日の光は差さない、極夜が長く続く。 氷点下が当たり前の環境下では人は無口になるという。日本でも東北の人のズーズー弁は寒さゆえに口をあまり開けずに話すからそのような話し方が生まれたという説もあるように、フィンランド人もあまり話さず、沈黙を以って“察する”のだ。 フィンランドは世界一自殺率の高い国のようで10万人に27人が亡くなっているという。それはやはり対話が少ないからではないか。沈黙は能弁ではないのだ。 更にフィンランドでは産休が105日あり、アメリカ人のケイトはそんなライフスタイルに馴染めずにいる。彼女は数週間産休を取ったら子供を保育所に預けて働くようだ。 この辺は日本人の感覚と似ている。つまりケイトの違和感はそのまま我々日本人の違和感となるのだ。 そんなフィンランドの、キッティラという地方都市で起きた殺人事件が本書のテーマだ。それは黒人映画女優が人とも思えぬ惨たらしい状況で殺害されているのが発見される。 全裸でマイナス40度の極寒の雪の中に半ば埋もれたその遺体は首に紐が巻かれ、身体全体が切り刻まれ、腹には“黒い売女”と蔑みの言葉が刻まれており、頭を金槌のような鈍器で殴られた痕跡もあり、割れたビール瓶が膣の中に挿入されている。そして彼女の両目は恐らくその瓶を使って刳り抜かれたようで、右胸の皮膚も一部切り取られ、遺体の傍に置かれている。 しかも彼女の遺体の周りには手足をばたつかせた跡、俗に“雪の天使”と呼ばれる天使の羽根のような痕跡が残っていた。本書の原題“Snow Angels”はここから採られているようだ。 このあまりに屈辱的な遺体の状況から黒人差別殺人の様相も呈してくる。 そしてほどなく容疑者が上がる。 それは彼女を愛人としていたヘルシンキの富豪セッポ・ニエミでしかも彼は主人公ヴァーラの元妻を奪った男だったという因縁の相手。従って元妻から過去の恨みから冤罪を着せようとしていると罵られ、更にはマスコミにリークさせられ、私怨逮捕の疑いを着せられるのだ。 しかも逮捕の決め手はセッポが遺体を捨てに来た車BMWの330iを持っていた事だったが、なんと彼女は複数の相手と性交を持っており、その相手のほとんどが同様の車種を持っていることが判明し、捜査が進むにつれて容疑者が増えていく奇妙な状況に陥るのだ。 BMWの330iは彼女が出演していた映画で使われた車種であり、彼女にとっても特別な、恐らくはセレブを感じさせる車だったのだろう。 更になぜかこの決して広いとは云えないキッティラで次々と人が死ぬ。 衝撃的なことにカリ・ヴァーラの片腕の部下ヴァリテリの息子ヘイッキが自宅で首吊り死体と発見される。しかも“彼(彼女)にやらされた”というスーフィアの事件に関与したかのような書を遺して。 更に彼のパソコンには女性との性交に溺れているかのような内容と黒人を蔑み、殺害するとまで書いた詩が発見され、ますます事件への関与が色濃くなる。 そして止めはヴァーラの元妻ヘリの死。彼女はヴァーラの妹が溺れ死んだ湖の氷の上でガソリンを溜められたタイヤを胴体に巻かれ、身動きできない状態で生きながら焼かれるという眼を覆わんばかりの拷問によって殺されるのだ。 さて黒人映画女優の死を発端にした本書は彼女の死を巡り色んなテーマが立ち上ってくる。 例えば本書メインの事件であるソマリア人の黒人映画女優スーフィア・エルミの目を覆うばかりにひどく拷問された死体はアメリカのエリザベス・ショートという娼婦が惨殺された事件、通称“ブラック・ダリア”事件を擬えていることでフィンランドの“ブラック・ダリア”としてマスコミに報道されることになる。 もしかしたら作者はこのカリ・ヴァーラシリーズをエルロイの「暗黒のLAシリーズ」に擬えて猟奇的殺人事件を扱った「暗黒のフィンランドシリーズ」にしようとしているのではないかと思った。 そしてヨーロッパ特有の移民問題が本書の事件に絡む。 被害者のソマリア人は90年代にフィンランド政府によって受け入れられたソマリア難民の出だった。雪深き白人の国に突如として5千人以上の規模で流入してきた黒人。そして彼らはフィンランド国民同等の社会保障を受けることになり、それが国民たちの反感を生んだ。 更には混沌とした社会情勢の中で彼らはパスポートがないまま入国した者が多く、従って身分を偽ってそのままフィンランドで暮らし、そして一定の社会的地位と保障を得ているといった歪んだ構造になっているのだ。 つまり一つの事件、一人の死によってヨーロッパ社会問題を浮き彫りにする、ヘニング・マンケルのテーマの衣鉢を継ぐシリーズとしているようにも思われるのである。 そんな様々な要素を孕んだ事件の真相は何とも云えない苦いものだった。 気付けば死者が5人も出た陰惨な事件となった。 これほどまで多くの犠牲者を出した事件となかなか太陽が差さない、氷点下の日が続く極夜は決して無関係ではない。 この鬱屈した時期、フィンランドでは家庭内暴力が頻発する。 サイドストーリーとして街でも評判の荒くれ兄弟ヴィルタネンの従順な母親がとうとう酔いどれの暴力夫を刺し殺す事件が起きる。 更にヴァーラもまた自分の元妻がセッポに奪われた時に彼を殺害しようと思っていたことを告白する。 極寒の氷点下の土地では人が凍死するのは珍しくない。つまり彼らにとって死は珍しいものではなく、ありふれたものなのだ。 おまけに日が差さない極夜は人の心を凍てつかせる。話せば吐息が凍り付くので自然沈黙が多くなる。彼らは察することでコミュニケーションをとるが、それでは十分ではなく、話さないからこそ鬱憤も溜まり、そして死も身近であることから暴力が起き、そして人が死ぬ。 本書の悲劇は終わりなき夜、極夜が招いた悲劇なのだ。 そんな鬱屈した町キッティラ、いやフィンランドを舞台にカリ・ヴァーラとケイト夫婦は今後どうなるのか? 早くも冬の陰鬱なフィンランドの気候に、マタニティー・ブルーも相俟ってケイトはアメリカに帰ることを希望している。まずはその足掛かりとして首都ヘルシンキに、かつてヴァーラが住んでいた街に引っ越そうと計画している。 しかし極寒の地フィンランドであることには変わりなく、カリとケイトのヴァーラ夫妻の将来はまだ山あり谷ありだろう。 49歳という若さで夭折したトンプソンの描くヴァーラ・サーガはわずかに4作。この4作でこの夫妻と彼らを取り巻くフィンランドの事件は何を我々に語るのか。 じっくり味わっていこうではないか。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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2018年末の各ランキングで1位を攫った本書は一躍ホロヴィッツの名を有名にした。そしてこの次に刊行された『メインテーマは殺人』もまた同様に2019年末の各ランキングで首位を獲得する快挙を成し遂げた。
今やホロヴィッツは海外本格ミステリの旗手と呼ぶに相応しい作家と云えよう。 そんな鳴り物入りの本書を期待せずに読むなというのが無理だろう。そしてその期待に本書は見事に応えてくれた。 開巻して数行読むなり、これは傑作だと直感する作品があるが、本書はまさにそれだった。 まず開巻して作中作『カササギ殺人事件』について編集者が賛辞している前書きが載せられているが、これが今思えば日本のミステリ界における本書の高評価を予見しているように読めるのだ。 曰く、“この本は、わたしの人生を変えた” まさにこの一文は作家ホロヴィッツ自身に当て嵌るだろう。 さらにその後に創元推理文庫の装丁を模したアラン・コンウェイという架空のミステリ作家の『カササギ殺人事件』の扉が挟まれ、実に心憎い演出がなされており、それを開けばそこには海外小説特有の、作品を称賛するあらゆるメディアや作家たちの賛辞が載せられている。しかもそれらは全て実在する新聞紙や作家―イアン・ランキン!―によるものなのだ。 そんな読書通の胸を躍らせる遊び心に満ちた本書は云うなれば“ミステリ小説をミステリするミステリ小説だ”。 この謎めいた評価も本書を読めば実に腑に落ちることだろう。とにかくとことんミステリに淫しているのだ。これについては後ほど詳しく語ろう。 本書は実に面白い構成になっている。 まず前半部分はアラン・コンウェイなるミステリ作家が書いた名探偵アティカス・ピュントシリーズの最新作『カササギ殺人事件』というミステリ小説がまるまる入っている。 そして後半はその原稿を読んだ出版社≪クローヴァーリーフ・ブックス≫の編集者スーザン・ライランドの『カササギ殺人事件』とその作者アラン・コンウェイを巡る物語が繰り広げられる。 これがそれぞれ上巻と下巻を成しており、この配分が絶妙に読者の読書欲をそそらせる、実に心憎い演出となっているのだ。 さらにそれに加え、読書通を、ミステリ読者を身悶えさせつつも先へ先へと気になる展開が待ち受けている。 まず前半部の作中作『カササギ殺人事件』はイギリスはバースの片田舎サクスビー・オン・エイヴォンで起きた2つの殺人事件を脳腫瘍によって蝕まれ、残り3ヶ月の命となった名探偵アティカス・ピュントが解き明かすミステリで、これが実に読ませる。 1955年のイギリスの、何かが起こればすぐに村中のみんなに知れ渡る閉鎖的な片田舎を舞台にした見事なコージー・ミステリとなっているのだ。 本書に当たる前に否が応でも目に入っていた雑誌やWEBでの書評や感想に散見されたのはクリスティのパスティーシュという言葉だ。私はクリスティを読んだことがないが、この作中作の雰囲気はクリスティのミステリを想起させるらしい。 まずこの手のコージー・ミステリには登場人物たちの魅力がきちんと描かれているかが必要不可欠な要素として挙げられるが、これは見事にクリアしている。 まず事件の起きる片田舎サクスビー・オン・エイヴォンにあるパイ屋敷なる豪壮な住宅に住むのはマグナス・パイ准男爵で彼は傲慢で不遜な、村中の皆から嫌われている人物だ。その妻フランシス・パイもまた上流階級であることを鼻にかけ、村民たちを常に下に見ており、また年上のマグナスには愛想を尽かして投資家のジャック・ダートフォードという愛人に逢いにロンドンに通っている。 そしてその屋敷の家政婦として住み込みで働いているメアリ・ブラキストンはいわば村の事情通とも云うべき人物で、なぜかいてほしくない時にそこにいる存在で、他の人が知らない村民たちの側面を知っている女性だ。 この、どちらかと云えば村民たちにとっても好ましくない2人、メアリ・ブラキストンとマグナス・パイが死ぬことで村に波紋が広がる。 葬儀を預かる町の牧師ロビン・オズボーンはメアリがある日勝手に教会のキッチンにいるのを発見して、見られてはいけないある品を見られたのではないかと危惧しており、更に昔から愛していた森をマグナスが新興住宅地に開発しようとしているのを聞いて激怒する。 町の医師エミリア・レッドウィングはメアリとは懇意にしており、時に患者のプライベートにギリギリ触れるか触れないかの相談をしたり、または困りごとを相談をしている仲で、メアリに自分の診療所から紛失した毒の壜の捜索を依頼していた。 その夫でアマチュア画家のアーサーは誕生日にと頼まれたマグナスの妻の肖像画がズタズタに切裂かれ、焚火にくべられていたのを発見して意気消沈している。 メアリの遺体の第一発見者のネヴィル・ブレントは父親の代からパイ家に仕える庭園管理人だが、人遣いが荒い上に、給金が一向に上がらない雇い主に不満を抱いていた。 ロンドンで空巣稼業を行い、刑期を務めた後に逃げるようにサクスビー・オン・エイヴォンに流れて骨董商を営んでいるホワイトヘッド夫妻はメアリの死の直前に確たる証拠を握られていた。 死ぬ直前に罵倒を浴びせたことでメアリ殺害の嫌疑を村中の皆から掛けられ、恋人のジョイがピュントに助け舟を求めるきっかけとなったメアリの息子ロバート・ブラキストンは重い過去を背負った人物だ。幼少期に弟を亡くし、そのことで父親が家を出て孤独な少年期を過ごし、マグナス・パイの取り計らいで整備工場で働くようになり、ある日事故で担ぎ込まれたレッドウィング医師の診療所で働く事務員のジョイ・サンダーリングと出逢い、付き合うようになる。しかしその母親はジョイのことを気に入らず、結婚を妨害しようとしていた。 更にマグナス・パイの双子の妹でたった12分出生が遅れたことでイギリスの独特な限嗣相続制度でパイ家の正統な相続人になれなかったクラリッサ・パイは教師として周囲に認められながらも名家の出とは思えないほど侘しい住まいで独身生活を続けている。更には死の直前にマグナスから亡くなったメアリの代わりに家政婦として住み込みで働かないかという屈辱的なオファーを受けていた。 そして彼女は後にマグナス兄妹を取り上げたレッドウィング医師の父レナードから死の間際に衝撃の事実を明かされる。 とこんな風にそれぞれのキャラが立っており、しかもそれぞれに被害者に対して何らかの動機を持っているといった古典ミステリの王道を行く設定なのだ。 そしてそれらの事件に挑む探偵役のアティカス・ピュントの造形もまた見事だ。ギリシャ人とドイツ人との間に生まれ、警察官となった後、ユダヤ系であったため、戦争中に収容所に入れられながら、イギリスに渡って探偵業を始め、数々の事件を解決し、イギリス中に名探偵の名を広めるまでになっている。 そしてシリーズ9作目の『カササギ殺人事件』では頭蓋内腫瘍で残り3ヶ月の命とされている。 そして物語はこれら誰もが何らかの不平不満、憤りを故人に抱いていた、もしくは弱みや秘密を握られていた村人たちそれぞれが不審な行動や不可解な状況、意外な人物による意外な行動、秘めていた過去への悔恨などが積み重なり、表向きは平凡で牧歌的だった田舎の村に潜む悪意がピュントによって暴かれていく。 そして上巻ではマシュー・ブラキストンが妻メアリを殺したのだとピュントが呟いて閉じられる。 作中作の『カササギ殺人事件』でも十分に面白いのに下巻から始まる作家アラン・コンウェイを巡る物語は更にページを繰る手を休ませなくさせる。 スーザンの許に飛び込んできたのはなんと作者アラン・コンウェイ死亡のニュースなのだから。 それまで連れ添った妻と息子に別れを告げた後に購入した、“恋人”のジェイムズ・テイラーという役者崩れの若者と一緒に住んでいたアビー荘園と呼んでいる屋敷にある塔から落ちて亡くなったのだ。その死の直前に出版社CEOの許に届けられた手紙には自分が癌で余命幾許もないことが書かれており、先短い自分の人生を儚んで自殺したと思われていた。 担当編集者のスーザン・ライランドはこのアラン・コンウェイの遺作となった『カササギ殺人事件』をなんとしても刊行すべく、原稿探しに乗り出す。 社運を賭けた『カササギ殺人事件』の原稿探しと同時にスーザンは恋人のギリシャ人アンドレアス・パタキスからクレタ島でホテルを買ったので結婚して一緒にホテル経営をしてほしいと頼まれる。 更には社のCEOのチャールズ・クローヴァーからは自分が引退した後は社長になってほしいと頼まれ、彼女は結婚を採るかキャリアアップを採るかにも悩まされることになる。 そして彼女の遺稿を巡る探偵行は『カササギ殺人事件』の世界と同化していく。 恐らく下巻に書かれている作品のモデルとなった作家アラン・コンウェイの取り巻く世界は実際の作家でよくあることなのだろう。 私がいつも不思議に思うのは、なぜ作家というのは1つの人生しかないのに、これほどまでに色んな登場人物の人生を、まるで見てきてかのように、経験したかのように書けるのかということだ。 頭で描く他人の人生はどうしても想像の域を出なく、嘘っぽく感じるが、プロの作家は恰もそういう人がいたとでもいう風に写実的に描くところに感心させられる。 本書はその答えの1つを見つけることになった。 実際作中作の『カササギ殺人事件』は典型的なクリスティの作風を模したコージー・ミステリであるが、上に書いたようにそれぞれの登場人物の背景が詳細に描かれており、1人として無駄な登場人物は存在しない。 それほどまでに実在感を伴った人物が描けるのは作者の周辺にモデルとなる人物がいたからだ。 そう、スーザンの失われた原稿の捜索はいつしかアランの自殺が他殺ではないかという独自の捜査の色合いを濃くしていく。 つまり文書の捜索が人の死の真相の捜査へと変わっていくのだ。 そしてその捜査の道行でスーザンは『カササギ殺人事件』のモデルとなった人物や建物に遭遇し、そしてアラン・コンウェイの死によって作者自身の過去へも調査が及ぶに至り、恰も自身がアティカス・ピュントになったかのような錯覚を覚える。物語の舞台となった村は作者の住む村がモデルであり、作中に登場する教会や店、酒場もまた同じだ。 更には登場人物たちは作者を取り巻く人物たちが投影されているどころか、作者自身の過去、そして名前さえも似通っており、作中であまり読者の共感を得られない人物は私生活でも仲の良くなかった人物であることが判明するなど、作者が日常の鬱憤を作中の人物で晴らしているような節が見られる。 従ってスーザンはそれらモデルになった人物たちを『カササギ殺人事件』で自らが推理した犯人のように疑い、訊問するようになる。それはさながら創作物の舞台が現実世界を侵食していくかのような錯覚を及ぼすのだ。 しかしアンソニー・ホロヴィッツ、またもや同じ台詞で評さざるを得ない。 本当に器用な作家だ。 ドイル財団から依頼され、シャーロック・ホームズの正典の続編を、見事なドイル作品の高い再現率で著し、その後『モリアーティ』という異色のホームズ譚を発表した後、次はイアン・フレミング財団から007シリーズの“新作”を依頼され、現代ではなく、興盛時の1950年代を舞台にして忠実に007を再現した。 そのどちらにも共通するのはマニアであればあるほど琴線に触れるであろう、本家ネタの多種多様な引用で、それらはまさに“解る人なら解る。解る人のみ解る”ような一般的な内容とディープな内容がほどよくブレンドされている。 しかし本書を読むとそれらパスティーシュの習作は本書を書くための大いなる準備に過ぎなかったのではないかとまで思わされるほど、それまでのホロヴィッツ作品を凌駕した出来栄えである。 それまでの作品は本家の表現や雰囲気を忠実に再現し、尚且つ正典の登場人物や事件などのネタをふんだんに盛り込んだファン及び読書通を唸らす作品であった。 それだけでも本来ならば十分なのだが、本書はそれに加え、クリスティの作風の雰囲気と思考までをも上手く再現した作品をまるまる1つ作中に盛り込み、尚且つその作品を俯瞰する、もう1つの創作者、出版社、読者の側でのミステリを加味した多重構造になっているからだ。 つまり読者は作中作である『カササギ殺人事件』という名探偵アティカス・ピュントが登場するミステリと、作者アラン・コンウェイの死の謎を追う編集者スーザン・ライランドの物語という2つのミステリを愉しむことができるのだ。 まさに一粒で二度美味しいミステリなのである。 そしてその2つのミステリの同化は物語が進むにつれてどんどん加速していく。 それはつまりミステリという創作物の中の世界は実は作者を取り巻く環境をヒントにしており、つまり現実世界とは地続きであるのだということを悟らされるかのようだ。 更には『カササギ殺人事件』のみならず、アラン・コンウェイが著した未発表作品の純文学『滑降』やアティカス・ピュント物の別の作品『羅紗の幕が上がるとき』に加え、更に自分のアイデアを盗作したと主張するウェイター、ドナルド・リーの書いた小説『死の踊る舞台』まで盛り込まれている。 それらそれぞれがきちんと文体を書き分けて特徴づけている。 『カササギ殺人事件』はじめアティカス・ピュント物は古き良きコージー・ミステリのテイストで読み手の興味をぐいぐいと惹きつければ、純文学の『滑降』はまどろっこしい、勿体ぶった文章で退屈を誘えば、素人作家の文章はいかにも小説勉強中のアマチュア作家にありがちな凝った文章であるなど、類稀なる器用さを感じる。まさに職人作家だ。 一方後半部では出版業界の裏話もふんだんに盛り込まれている。 例えば編集者のスーザンは『カササギ殺人事件』の犯人を推理するがそれが読者視点と編集者目線の二方向で語られるのが面白い。 原稿の中に散りばめられた齟齬を挙げ、論理的に推理して特定する犯人もあれば、物語を盛り上げるならこの人物が犯人に相応しいだろう、私ならこいつを犯人に選ぶなどと宣う。 また人気作家ともなれば名うての作家たちからの、例えば本書ではアラン・コンウェイはP・D・ジェイムズから新作出版を祝す手紙が送られ、それを額に入れていたり、J・K・ローリングやはたまたチャールズ皇太子と一緒に撮った写真が飾られたり、一番驚いたのはアティカス・ピュント物のモデルとされているアガサ・クリスティの孫マシュー・プリチャードまで登場させ、しかも祖母の作品から色んなモチーフを散りばめているのも知っている、新作が出るたびに読むのが楽しみなんだと作中で賛美している始末だ。 このようにホロヴィッツは実在の人物を物語に絡めて恰もアラン・コンウェイが実在するかのような演出をどんどん放り込む。 その他ミステリに纏わる現代社会のエピソードもまた面白い。 例えば英国ミステリでは田舎の村が殺人事件の舞台になることが多いが、それは小さな村の住民はそれぞれの村人、特に新参者に対して過干渉であるかららしい。 始終監視されているような錯覚を覚えるほど、色々注文を付けてくるとのこと。つまり些細なことが揉め事になりやすいからこそ、殺人事件が起きてもおかしくないというわけだ。 そして昨今の刑事ドラマの多さについても何度か登場人物たちの口から語られる。特に私が面白いと思ったのはあまりに供給過多になって米国の平均的な子供は小学校を出るまでに約8000件の殺人事件を観ることになるとのこと。 このようにいわゆる出版業界並びに小説そのものの魅力がふんだんに盛り込まれた本書はやがて作家だけのみが知るミステリへと展開していく。 それはアラン・コンウェイというミステリ作家そのものの謎だ。 彼はなぜ好評を以て迎えられたアティカス・ピュントシリーズを9作で終えることに拘ったのか? それは彼の作家性が孕む心の闇にあった。 人気シリーズを持つミステリ作家の中には寧ろそのシリーズキャラクターに嫌悪を、憎悪を抱く作家もいるという。 コナン・ドイルがシャーロック・ホームズシリーズを終わらせたくてホームズを死なせようとしたのは有名な話だし、ジェイムズ・ボンドシリーズで有名なイアン・フレミングもまたそうらしい。 またルース・レンデルもウェクスフォード警部シリーズは書きたくないが商業的に成功しているので書いているに過ぎないと公言している。 これら作家の抱く感情は人気シリーズの役を務めることでイメージが固定されることを嫌った俳優―ジェイムズ・ボンドを演じたショーン・コネリーが特に有名だ―が抱く心情と同じなのだろう。 また作中作の『カササギ殺人事件』も真相に至るまでに散りばめられた村の人々の隠された秘密や不審な行動、不可解な事実を全てここに記すにはかなりの紙幅を費やすので止めるが、とにかくそれら全てにきちんと説明が着き、全てが収まるべく所に収まる、まさに古き良き黄金時代のミステリの風格を備えた作品となっている。 久々に良質な本格ミステリを読んだ気がした。 そして私が本書を素晴らしいと思うのは通常本書のように小説が現実を侵食していく、つまり虚構と現実の境が曖昧になっていく作品はホラーや幻想小説のような展開を見せるが、本書はミステリに徹しているところだ。 きちんとどちらも結末が描かれ、そして腑に落ちる。 これぞミステリの醍醐味だろう。 とにかく感想がいくらでも書ける作品だ。読んだ人と色んな話をして感想を分かち合いたくなる作品だ。 作中作である『カササギ殺人事件』はきちんと結末が着けられ、その内容は黄金期の本格ミステリ、即ちクリスティが生きていた時代のミステリとしても内容・質ともに遜色ない。 しかしこの作品をいつものようにアティカス・ピュントをポワロにしてポワロシリーズの続編として書いたなら、いつものホロヴィッツの巧みな仕事として終わっただろう。 しかし本書はクリスティの意匠を借りつつ、架空のアティカス・ピュントシリーズを創作し、そこで水準以上の本格ミステリを紡ぎながら、更にそのミステリ小説をミステリの題材として別のミステリを著し、有機的に密接に繋いだことでそれまでのホロヴィッツ作品よりも一段高いレベルの作品を生み出すことに成功したのだ。 つまりホロヴィッツは確実に本書で一皮剥けた、所謂“化けた”のだ。 いくつか疑問は残るものの、そんな疑問が吹き飛ぶほどのミステリを読む醍醐味を本書はもたらせてくれた。 21世紀も20年が経とうとしている中、こんなミステリマインドに溢れた本格ミステリど真ん中の、いやそれらを土台にした新しい本格ミステリが読めること自体が幸せだ。 歴史は繰り返す。 もしかしたらこれからは21世紀の本格ミステリの黄金期が始まるのかもしれない。ホロヴィッツの本書はそんな楽しい予感さえも彷彿させる極上のミステリであった。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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スカイ・クロラシリーズ第5作目にして最終巻の本書は飛ばないキルドレの話だ。
主人公僕の第一人称で語られる本書は病院から脱け出した僕の逃避行が主に語られ、本書の専売特許である空中戦はなかなか出てこない。 さて主人公の僕は薬の影響で記憶を喪い、ぼやっとした印象で覚えのある人物を頼る。 最初に頼るのはフーコだ。病院を抜け出したクリタは前作でも親しい仲であった彼女を頼って匿ってもらう。そして彼女の提案で旅に出るのだが、彼が記憶を思い出して連絡を取る相手は相良亜緒衣。キルドレの秘密を研究する医者だ。 しかし主人公の僕は薬の影響下にあり、自分の名前を思い出せないでいる。そして薬の効果が薄れるにしたがって、記憶が断片的に戻り、自分を取り巻く人々の名前を徐々に思い出す一方で、時折フラッシュバックのように幻覚が現れる。 それは脱走した彼を追ってきた草薙水素の姿であり、彼は幻の草薙に撃たれたり、もしくは逆に幻の彼女に撃ってほしいと頼まれたりする。主人公の僕が望んでいるのは死。 そして幻覚の中では彼はカンナミ・ユーヒチだったりと一向に存在が定まらない。 本書の最たる特徴は上にも述べたように空中戦のシーンがなかなか出てこないことだ。逃亡中の彼の夢想の中で空を飛ぶシーン、ティーチャと戦うシーンが断片的に語られるが、実際に主人公の僕が操縦桿を握って空へ飛び立ち、敵機と戦うのは2回。 まずは相良亜緒衣の家を急襲してきた追手たちから逃れるために彼女の持っていた飛行機で逃げ、追手のヘリコプタを振り切るシーン。これが何と239ページで登場する。 次は相良亜緒衣の同志たちのアジトを追ってきた会社の戦闘機と戦うために彼らが所有していた散香を操縦して迎え撃つシーン。これが293ページ目だ。 つまりキルドレという永遠の子供である飛行機乗りを主人公に据えたシリーズの最終巻が最も飛行シーンが、空中戦が少ない作品となったのである。 また相良亜緒衣はキルドレ達が属する会社にとっては危険人物であることが本書では強調される。彼女は初めてキルドレの謎を解き明かした科学者であるとされており、永遠に子供であるキルドレ達から呪縛を解き放して普通の人間にしてあげようと思っているのだ。その彼女の考えに同調する人物たちがいたことが本書では判明する。 さて今までこのシリーズの文庫版の表紙は単色で飾られており、その色を実際の空の色に擬えてそれぞれの作品への思いを馳せてきたが、本書の表紙の色は黄土色だ。 これは即ち空ではなく、土の色だ。 上に書いたように本書は空ではなく、大地を駆けるキルドレがずっと描かれている。つまり飛ばない、いや飛べないキルドレの物語だった。従って本書は今まで空を飛んできたキルドレが長く移動してきた大地の色に擬えているのだろうと思う。 そして題名の“Cradle the sky”。ここで使われるCradleは通常ならば「ゆりかご」という名詞として使われるが、skyという目的語があるため、動詞扱いになる。従って直訳すれば「空をあやす」となろうか。 しかしそれは何ともおかしい。やはり「空のゆりかご」と訳す方が正しいのだろう。 薬によって記憶が曖昧になった主人公の僕は散香に乗って空に飛び立ち、再び戦闘機乗りとなって復活する。つまり空に飛び立つことで彼はまた生まれ変わったのだ。本来の戦闘機乗りのキルドレとして。つまり空こそ彼が生まれ変わるゆりかごであった、そう捉えるのが妥当だろう。 そしてこの永遠の子供であるキルドレという設定をなぜ作者が盛り込んだのか。その理由を垣間見えるエピソードがある。 早く大人になりなさいと云われる常識は即ち大人こそが人間の完成形のように云われているが、それは大人にとって子供が目障りな存在だからだ。子供は大人の大事にしている原則を覆すからだという件だ。 これは恐らく今なお趣味に没頭する子供のような作者自身の思いを反映したエピソードだろう。なぜ子供っぽくてはいけないのだと抗議しているように思える。 また興味深かったのが年を取るにつれて忘れっぽくなることについて述べられた部分だ。それは単純に脳が退化しているのではなく、同じルーチンが増え、無意識に処理するようになり、脳を介さずに短絡的に処理しているから記憶に残らないのだ、と。つまり朝を起きたら顔を洗う、ご飯を食べる、歯を磨くなどが無意識で行っていることで記憶されず、時にあれ、顔洗ったっけ、ご飯食べたっけと思い出せなくなるというのだ。 これはかなり納得した。正直このように思うことが多々あるからだ。次のことや他の事を考えて行動するから、寧ろそのことを意識せずに他のことを考えながらルーチンが出来るからこそ忘れてしまうのだ。 いやあ、この考えは面白い。いつかどこかで使いたい論理である。 さて本書はスカイ・クロラシリーズの最終巻であるが、1冊だけ実は残されている。短編集の『スカイ・イクリプス』だ。それは恐らく外伝的な内容かと思われるが、そのような短編集は本編では語られなかったエピソードである傾向が強く、従って本編を補完する内容であると思われる。 本書で抱いた謎について補完されることを期待して、正真正銘の最後の1冊に臨むことにしよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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村野ミロ2作目の本書は失踪したAV女優の行方を追う物。それはレイプ同然に犯される様を撮影された一色リナという女優を探し出し、告発することを目的としたフェミニスト運動家の依頼を受けての物で、その後内容はディープでマニアックなAV業界へと踏み込んでいく。
最近でもAVに騙されて出演させられるレイプ被害が問題になっているが、本書はなんと30年前にその問題を扱った作品である。それほども前に既に問題視されていたのは寡聞にして知らなかった。 作者の江戸川乱歩賞受賞作にして村野ミロ第1作の『顔に降りかかる雨』でも失踪したフリーライターの行方を追う依頼であったが、その捜査の過程でミロはネクロフィリアや性倒錯の世界をモチーフにしたアングラパフォーマンスへと踏み込み、かなりディープでダークな世界を我々に見せてくれたが、本書も同じくこのレイプ被害と思われる理不尽な撮影と自傷行為の様子を淡々と映すといったAV業界の闇を浮き彫りにする。 AVも多々あり、普通AV女優が出ているものから、素人ナンパ物、そして特殊な趣味嗜好に特化した企画ものまで様々だ。その裾野は幅広く、全てを網羅するのは困難だろう。従って星の数だけAVがあれば星の数ほどAV女優もおり、そして1作のみで終わる女優未満のモデルもゴマンといる。本書に登場する一色リナもそんな泡沫モデルの1人である。 さて本書を一言で表すならばそれは“今を生きようと足掻く女たちの物語”だったことだ。 本書に出てくる女性たちは様々で主人公の村野ミロはじめ、依頼人の渡辺房江、彼女がレイプ被害を訴えるための神輿としようと考えているAVモデルの一色リナ。そして渡辺の活動を陰ながら支援するセレブの料理研究家八田牧子。 四者四様の女性たちの生き様がミロの捜査で語られる。そして彼女たちの印象はミロの捜査の成り行きでガラリと変わってくる。 まず依頼人の渡辺房江。最初彼女の印象は猪突猛進の、自分の目的のためには利用できるものは何でも利用する旺盛な活動家という印象で現れる。 彼女は己の正義、つまりAV撮影と称してレイプ被害に遭っている女性たちを救おうと奮闘し、何が何でもその生き証人として一色リナを探し出して訴訟を起こしたいと考えている。それは自身と経営する弱小出版社の名を高らしめることも想定してのことだ。つまり半ば売名行為でもある。 そしてその熱心さはミロの捜査の妨げになる。 しかし次第に彼女の行為は熱意が裏目に出ただけのことだと解る。強かな女性だと思っていた渡辺は、ミロが単に一色リナという女性を捜し出すことが依頼内容であり、そこから一色リナを担ぎ上げて渡辺の活動の協力をする気はないと断言すると態度を軟化させてミロの捜査を支援するようになる。 彼女の支援者八田牧子はテレビにも出演している有名な料理研究家であり、大手ゼネコン社長の妻であり、名門中学に通う2児の子供の母でもあり、全てを手に入れた、多くの女性の理想像とも云われている女性だ。彼女は一色リナが自分の子供だと云って付きまとわれており、自分が出演したAVのビデオテープを送りつけられるなど、半ば脅迫行為を受けており、彼女を探そうとしている渡辺房江に協力してスポンサーとなっているのだ。 一色リナを捜し出すという目的は同じだが、渡辺が一色リナを悲劇のヒロインに仕立て上げようとしているのに対し、八田は彼女を脅迫被害で訴えようとしている。まさに呉越同舟と云った状態であることが判ってくる。 そして彼女たちの依頼を受けて捜査をする村野ミロ。彼女の女性像について語るには後ほどにしよう。 最後の1人は渡辺、八田、ミロ3人の女性が足取りを追う一色リナだ。彼女ほど変幻自在に印象が変わっていく女性も珍しい。 依頼人を反故にして男と寝る女性探偵に自身の身体を傷つけることでしか金を稼げない女性からサイコパスへと転ずる失踪人。これは今までになかった新しい女性探偵小説かもしれない。 しかしこれらの設定からは主人公含め一切共感を生まないことも凄いが。 一方で本書に登場する男たちの印象はどこか薄い。 その中で最も存在感を示すのはミロのアパートの隣人の友部秋彦と一色リナのAVの販売会社クリエイト映像の社長、矢代亘の2人だ。 友部はバツイチのゲイで新宿二丁目でバーを経営している。彼はミロに紹介された弁護士に友人のニューハーフ礼矢の窮地を救ってもらったことが縁で彼女の捜査に協力するようになる。 ミロは友部の男の色っぽさと繊細さに惚れているが、彼とは寝ることすらできない。彼らは隣人愛で繋がっている同志という関係だ。 一方矢代亘はそのカリスマ性で色んな女性を魅了する会社社長で家族を持ちながら六本木の億ションを持ち、そこで気に入った女性と寝たり、自身もAVに出演したりする。肉体美を誇示し、その彼の魅力に敵ながらミロも抗えないでいる。 また他にはミロの父親村野善三がミロの依頼で北海道から上京して捜査に協力するのが新機軸だ。レイバンのサングラスを掛け、ツイードのジャケットに上下黒のシャツとパンツを履き、柄物のシルクベストを着こなすダンディだが、元探偵とはいえ、堅気には見えない風貌で登場する。 逆に探偵がこんなに羽振りのよさそうな格好をしていていい物かと首を傾げてしまうのだが。 そしてもう1人、事件の鍵を握る男性が富永洋平。彼はかつて一世を風靡したロックバンドのボーカリストでソングライターであったが、その後凋落して忘れ去られたアーティストである。 彼は自分の車の中で首を絞められて殺害されたことでニュースに取り上げられ、再び話題に上る。なお本書のタイトル『天使に見捨てられた夜』は彼の往年のヒットソングのタイトルでもある。 この元ロックスターと一色リナが繋がるのが『雨の化石』と呼ばれる謎の土の玉だ。 一色リナの足取りを掴むこの謎めいた土の玉『雨の化石』がミロを真相へと導く。 一色リナは自分の境遇をこの『雨の化石』に擬える。自分も灰に降った雨が固まってできたようなものだと。 そんな女と男の因果が絡み合った事件を地道に紐解いていく村野ミロ。 しかし12年ぶりに再会した彼女に対して、私は当時抱いていた主人公ミロに対する嫌悪感は結局変わらなかった。 女性探偵という物に私がか弱き女性が魑魅魍魎の社会の暗部で孤軍奮闘する姿を先入観として持っているのかもしれないが、この村野ミロは男に対する警戒心が弱いのがどうしても腑に落ちないのだ。 1作目も協力者でありながら敵役であった成瀬に平気で捜査情報をばらす軽率さが目に付いたが、本書でもミロは依頼を受けて探している失踪したAV女優の撮影をした制作会社の代表の矢代亘の放つフェロモンに抗えなくなり、二度も寝るのだ。 心では矢代のことを嫌いながらも彼の屈強な肉体と人を寄せ付けるカリスマ性に魅了され、身体が反応し、自分から求めてしまうのだ。そして仕事は軽蔑しているが貴方のことは好きとまで言葉に出す始末。 この、例え敵であっても女は相手が魅力的であれば寝る、それが女という生き物なの、という村野ミロの倫理観、もしくは作者のメッセージが私には気に食わない。 大人の女の不思議さを演出しているようだが、逆に村野ミロという女性の安っぽさを感じてしまうのだ。 私ならば強がっていても女性は男には弱いことを出すならば、生理的には嫌だが、ミロが求めるのではなく、レイプされる方を選ぶ。そしてレイプされて心が折れそうになっても、それが男の世界で生きていくことを選んだリスクであると立ち直る、そういう女性探偵の方がよほど共感できるのだが。 その嫌悪感はその後物語に大きく作用する。 私は女性探偵物をあまり読んだことないのだが、こんなひどい探偵はいないのではないか? これではただの男日照りの淫乱女である。そしてその事実を警察と実の父親にも知られ、ミロは更に深い自己嫌悪に陥るのだ。 さてそんなミロが屈辱にまみれながらも―自業自得も云えるが―辿り着いた真相は実に意外なものだった。 冒頭述べたように最後に判明するのは今を生きようと足掻いている女性たちの物語だった。 しかし唯一今を足掻いて生きていない女が主人公の村野ミロだ。 隣人のゲイの男に恋をし、叶わぬ恋だと一人で嘆くと、次は依頼人の敵であるAV制作会社の社長と寝る。 自分の本能のみに生きる女で彼女には軸がない。本来自分の規律で生きる探偵が意外なことに本書では最も信念を持っていないのだ。 一方でそんな状況を作ったのがエンタテインメントの世界の住民である事だ。 ロックスターだった富永が当時14歳の鳴滝牧子に手を出したために山川雪江の不幸と八田牧子の忌まわしき過去は始まった。 それは矢代亘が作っているAVが望まれない妊娠をしてしまった女性たちを生んでいる温床となっているとも云える。 登場人物の1人、レンタルビデオの店主がこんなことを云う。 アダルトビデオとは人の不幸を笑う物なんだと。 つまり本書は男たちの欲望で女たちの人生が蹂躙されていると暗に訴えているように思える。 “天使に見捨てられた夜”とは即ち男たちの欲望に蹂躙された女たちの夜だ。 西洋では赤ん坊は天使によって連れられるイメージが描かれているが、なるほど望まぬして得た赤ん坊はまさに天使に見捨てられた存在なのかもしれない。 本書に登場するAV制作会社社長矢代亘の姿はそんな男たちの欲望の権化なのだろう。そしてそんな彼に惹きつけられる村野ミロの姿は過ちを犯そうとしている女性の権化か。 いやはや桐野夏生氏は自ら生み出した探偵にそこまでの咎を負わせるとは何とも手厳しい。そして本書の内容は男性にとっても手厳しい作者からの忠告だ。 しかし男と女がいる限り、この“天使に見捨てられた夜”は必ずある。 判っちゃいるけど、止められないのよ。それが男と女なのだから。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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東野圭吾氏の季節の行事を絡めた4編と異色のミステリ短編5編が収録されている。
1年の始まりは正月だが、本書も「正月の決意」という作品で幕を開ける。 早くも東野氏の技巧の冴えが光る1編。正月の老夫婦のいつも通りの穏やかな風景から一転して神社で人が倒れているのを発見し、非日常が訪れる。 しかし正月早々に呼び出された警察官たちは昨夜の酒も残っており、士気が一様に低い。おまけに早く事件を解決して新年会に出席したいばかりに第一目撃者の主人公に嘘の証言を頼む始末だ。 そんな事件の真相は実にコミカルな物。 人生のおかしさを上手く描いた好編だ。 「十年目のバレンタインデー」はその題名通り、女性が愛を告白する日を扱っているが、その日は主人公峰岸にとっていつもと違う忘れらないバレンタインデーになった。 かつて愛した女性から10年ぶりに連絡がある。 男性にしてみればなんとも男冥利に尽きる話だ。再会してみれば当時と変わらず綺麗で、いや大人の落ち着きが出ただけに当時よりも洗練されている。しかも相手はまだ結婚してないと云う。更に再会のタイミングをバレンタインデーに合わせてきた。 ここまで来ればどんな男性も恋の再燃を期待するだろう。しかしそうはいかない。 しかしこの話、東野氏はある意味メタフィクションを意識して作ったのではないか。 というのもその作風の多様性と作品によって賛否両論が事あるごとにウェブで取り沙汰され、東野圭吾がファミリーネームで実は他に複数のライターがいて創作しているという都市伝説まで生まれているくらいなのだ。従ってこの峰岸はある意味、ある特定の読者が抱いている東野像を反映したものだろう。いやあ、何とも図太い作家だ、東野圭吾氏は。 「今夜は一人で雛祭り」は打って変わって子を持つ親の心配を描いた作品。 リアルな物語だ。手塩にかけて育てた娘は玉の輿に乗るのは嬉しいだろうが、果たして実の親としては本当に嬉しいのだろうか? 相手が地方の名家、いわゆるセレブであり、しかも相手の母親、つまり将来の姑は何かと手厳しそう。そんなところに1人の愛娘を嫁にやることの心配が濃く書かれている。 特に父親自身も妻が自分の実の母親から手厳しく躾けられていた経験を持ち、それを見ていただけに娘に対して同じ思いをしてほしくないと思う。この辺の設定は実に上手い。 しかし女は強い。姑に厳しく当たられながらも妻は上手にやり過ごしていたことを雛人形の飾りで三郎は知るのである。 京都女の強かさを思い知らされる内容だ。 しかし正直その内容は例えば星新一氏のショートショートに見られるような辛辣なものではなく、結末は実にハートウォーミング。 ところで主人公たちが試食会に行ったホテルはもしかしたらホテル・コルテシア東京なのかもしれない。そして三郎の雛人形の質問に対応したのは山岸尚美ではないかと思うのだが、どうだろうか? 「君の瞳に乾杯」は私もかつて若かりし頃に経験した合コンがテーマ。 いやあ、実にトリッキーな話である。30前でギャンブルにのめり込み、アニオタという冴えない男性像だった主人公が一転する。まさにツイスト感に溢れた作品だ。 次も上手さを見せられた。「レンタルベビー」は近未来の、タイトルが示す通り、赤ちゃんのレンタル業の話だ。 今、日本では少子化と未婚率の上昇が問題となり、毎年の出生率はどんどん下がり、2019年は政府予想よりも2年早くとうとう90万人を割ってしまった。それに加え、児童虐待問題も多々あり、折角生まれた子供も無事先人になれずに亡くなってしまうケースも増えている。 それはいわゆる日本の子育てにお金がかかる事と一方で経済格差が広がって、結婚したくても出来ない、子供を育てることができない家庭が増えていること、更には精神的に未成熟な夫婦が云うことを聞かない子供に暴力を振るうことなどが主な原因に挙げられている。 そんな中、本作に登場するレンタルベビーはまさに結婚、そして子育てのシミュレーションとしては実に有効だろう。人間と見まがうかの如き精巧さとなんと臭いや質感を再現したウンチまでし、夜泣きもすれば駄々もこねる。そして一方で言葉も覚えて「ママ」と呼び掛けたり、微笑んだりもし、子育ての大変さと愉しさをリアルに体験できるのだ。 そしてレンタル会社も急に発熱させたり、買い物に行けばどこかへいなくなったりといわゆる子育てあるあるトラブルを巧みに用意しており、利用者の心理を揺さぶり、ロボットに愛着を抱かせるようにしている。 しかしどちらかと云えばロボットとの共同生活という、藤子不二雄の『ドラえもん』から連なるオーソドックスなストーリーであるため、結末も予想できるのだが、流石は東野圭吾氏。私の、いや読者の想像の斜め上を行くのだ。 この結末には久々に星新一氏の切れ味鋭いショートショートを読んだほどの爽快感を味わった。 次の「壊れた時計」は打って変わって倒叙型のクライム小説。 依頼人のアリバイ工作のために犯罪を請け負う周旋屋という都市伝説的な話だが、ミステリの設定としてはオーソドックス。但し本書の主人公は周旋屋から仕事を斡旋される男がつまらぬミスで犯行が露見する話。 昨今の刑事ドラマも寧ろ防犯カメラに映ることを前提にしている内容が多い。東野氏の防犯カメラに対する認識の甘さが出た作品だ。 次の「サファイアの奇跡」は希少種の猫に纏わるお話。 不思議な猫の恩返しとも云うべき寓話か。青色の猫というのは青色の薔薇同様、非常に珍しい物らしく、ブリーダーの夢でもあるらしい。貧しい母子家庭で育った女性が小学校の頃に出遭った猫と、意外な形で再会し、そして青色の猫をどんどん生み出すブリーダーとなって裕福になるというお話だ。 しかしこれは今までの東野作品の中のヴァリエーションの1つとも云える作品だろう。従って本作に関してはそれまでの題材をミックスしてテクニックで書いた作品と思ってしまった。 さて4編目の季節の行事をテーマにしたミステリはありきたりだがクリスマス。その名も「クリスマスミステリ」と題名もど真ん中だ。 よくある男女の恋の縺れが殺人動機である本作はしかし東野氏らしいツイストを仕掛けてくる。てっきり毒殺したと思った相手が息を吹き返してパーティーに現れる。 この驚愕の展開に主人公は慄くが、相手は自分の不首尾を詫び、そして挙句の果てに自ら別れ話を告げる。男に取ってこれ以上願ったり叶ったりのことはないのだが、翌日彼女が遺体で見つかる。まさに上へ下へと読者を振り回す、ジェットコースターのような展開を見せる。 しかし本書はここまでだった。ただどうもアンバランス感が否めない。 また各登場人物の名前が黒須、鹿野、椛木、三田(さんた)とクリスマスに関連する名詞に擬えれていることから本作は東野作品にしては軽めのミステリの部類に入ると思われる。クリスマスを題材にしたミステリは傑作が多いが、本作は例外的にそれには属さなかった。 しかし次の「水晶の数珠」は最後を飾るに相応しい作品だ。 東野作品には色んなヴァリエーションがあるが、SF要素が入った作品も一大ジャンルを形成している。『時生』や『秘密』、『ナミヤ雑貨店の奇蹟』などがそれにあたるが、それらの作品から類推できるように東野氏のSF的要素を兼ね備えた作品はハートウォーミングな内容が多いことが特徴だ。そして本書もまたその系譜に連なる作品である。 度会家に代々伝わる水晶の数珠の秘密を語る話。 子どもを可愛がらない親はいない。表面では憎んでいるように思えても心の底では愛しているものなのだ。 2020年、東野氏は作家キャリア35年目を迎えた。 本書は2017年に刊行された短編集だが、雑誌掲載された短編を集めた物。最も古い収録作は1作目の「正月の決意」で2011年の作品で最も新しいのは「壊れた時計」で2016年の作品。 この事実を知って驚かされるのはそれぞれの作品のレベルが水準もしくはそれ以上の出来栄えであることだ。このことについてはまた後ほど語ることにしよう。 本書の背表紙の紹介文では季節の行事をテーマにした短編が収められていると書かれている。この季節の行事を扱った作品は「正月の決意」、「十年目のバレンタインデー」、「今夜は一人で雛祭り」、「クリスマスミステリ」の4編。 これらのうち前の3作はそれぞれ1月、2月、3月の行事をテーマにしていることから当初は各月の行事を扱ったミステリを書こうとしたのではないだろうか。 しかしさほどアイデアも固まらず、その後一気に12月の行事クリスマスをテーマにしたことからも察せられるように途中から行事に固執しない自由なテーマを扱った内容にスイッチしたのかもしれない。 その自由なテーマとは合コン、疑似家族、闇サイト、猫のブリーダー、俳優志願の男と様々でまたジャンルもミステリに特化せず、日常の謎系、倒叙物、SFからハートウォーミングと様々だ。 そしてそれぞれの作品には小技が効いており、話の内容に無理を感じさせない―いや中には感じるものもあるが―。 例えば「正月の決意」の正月早々に事件で呼び出された警察官たちの迷惑振りとコンパニオンが多数参加する新年会に参加するためにどうにか早く事件を解決しようと第一発見者に偽証を迫ったりするいい加減さに人間臭さを感じさせられる。そしてこの作品ではこの警察のいい加減さが見事なオチに繋がるのである。 一番驚いたのは「十年目のバレンタインデー」の露骨さだ。 主人公の作家は東野氏が日ごろネットなどで揶揄されている、いわゆる東野圭吾はハウスネームで複数の作家によって書かれているといった都市伝説を具現化したようなベストセラー作家であり、それらを逆手に取った、ある意味東野氏からの痛烈な仕返しとも取れる作品である。 「今夜は一人で雛祭り」は有名な童謡「うれしいひなまつり」に纏わる齟齬を上手く嫁姑の確執話へとつなげた手腕が光る。 恐らくそういえば雛祭りの歌って結構間違って雛飾りが解釈されているんですよねとどこかの担当編集者が語ったことが本作へと繋がったのではないだろうか。 「レンタルベビー」も精巧に造った赤ん坊ベビーに翻弄される女性の話だが、そんなに迷惑ならばすぐに返却すればいいのにという読者の思惑をきちんと想定して、早期返却には罰則金が掛かると設定しているのには唸らされた。こういう卒の無さに作家としての技術の高さが光る。 さてそんな中、本書のベストを挙げるとなると、「レンタルベビー」と最後の収録された「水晶の数珠」になるか。 前者は未来の育児のための予行練習として精巧な赤ん坊ロボットをレンタルするビジネスがあり、それを利用するカップルの子育て奮闘ぶりが描かれるが、これ自体はさほど目新しさを感じない設定である。独身女性が一人の赤ん坊に翻弄されるというのはよくある話なのだが、東野氏が優れているのはそんなありきたりな設定に二重三重にサプライズを仕掛けていることだ。上にも書いたがこれは星新一氏の切れ味鋭いショートショートに似た読みごたえを感じた。 後者は東野氏お得意のハートウォーミングSFだ。名家の長男が代々引き継ぐ水晶の数珠の秘密は今ではよくある秘密であるが、そこに“いつ父親がその力を使ったのか”という謎を見事親子の愛に繋げる東野氏の憎らしいまでのテクニックに唸らされるのだ。まさに本書のタイトル“素敵な日本人”のお話なのだ。 やはり東野氏は短編も上手いと改めて感じた。ウェブ上では東野作品は短編よりも長編が好きという感想が多く見られるが決してそんなことはない。短い中にも予定調和に終わらないツイストが盛り込まれており、最後にアッと云わされた。 通常ならば作家のキャリアも30年を過ぎればアイデアが枯渇し、いわゆる物語や結末に切れ味が無くなっていく。いや一流のベテラン作家ともなると凡百のアイデアをそれまで培った小説技法で上手く料理し、水準作ぐらいには仕上げるだろう。 しかし東野氏はどうだ。本書に収められた作品の数々はいまだに読者の想定を超えたサプライズに満ちている。 作家キャリア26年目から31年目の5年間という発表年月の幅があるが、そのどれもが水準作もしくはそれ以上の出来栄えである事に驚かされる―個人的に本書の中で一番内容的に劣ると思われた「壊れた時計」が2016年発表と本書の中で最も新しい短編であるのが気になるが―。 例えば私が読書を始めるきっかけとなった星新一氏は1,000編を超えるショートショートを書いたとして有名だが、それでも後期の作品は全盛期と比べるとやはり内容、質ともに劣化しているのは否めなかった。大作家という看板だけで収録されたのではないかと勘繰るような出来栄えの作品も複数見られた。 例えば私が星作品で衰えを感じたのは『どこかの事件』あたりだが、この時の星氏は作家キャリア28年目である。確かにそれまでのショートショート作品数と短編や長編の作品数を一概に比べることはフェアではないかもしれないが、それでも作家キャリア35年になろうとしている作家がこれほどクオリティの高い作品を提供していることに驚きを感じざるを得ないのだ。 つまり今、日本のベストセラー作品を35年目の作家が叩き出していることが凄いのである。 我々は本当に幸せな時代に生れたと感謝すべきだろう。なぜなら私たちには東野圭吾氏がいるからだ。 少年少女たちに読書の入口となってきた星新一氏、筒井康隆氏、赤川次郎氏、西村京太郎氏、内田康夫氏と連綿と続く国民的作家たち。東野氏は既にこの系譜に連なる国民的作家となった。さてこの東野氏に続く作家は誰なのか? それはまだまだ先の話になりそうである。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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上中下巻全1,411ページ。
それまでの白川作品で最長を誇る本書は過去を追いかけ、そして過去に追いかけられる男の物語。白川版『砂の器』とも云うべき大作だ。 これだけのページが割かれるのはそれぞれの登場人物が語るからだ。そう、白川作品の登場人物は語る、饒舌なまでに語る。 時に他者と自分の人生とを重ね合わせてその為人を語る。 または溜めていた思いを一気に吐き出すように語る。 自分の勘と感受性を信じて感じたことを知らせたいと思いに駆られて語る。 刑事は能弁なほどに捜査の過程で自分の直感によって感じた関係者の人物像と心の移り変わり様を説教師のように語る。 命を捧げるとまで部下は社長に心酔し、社長はその思いに応えるためにお互いの小指を傷つけて血の指切りを交わし、来世でも共に歩むことを誓う。 それらは我々の日常生活では少し気恥ずかしさを覚えるほどロマンティックであり、そしてセンチメンタルだ。 それでもこれだけの長さを誇りながらも全く無駄を感じさせない物語の密度の濃さ。 復讐物語であり、かつての恋が再燃する恋愛物語でもあり、そして緻密な捜査に尽力する警察物語でもある。私は本書を読む最中、至福の時を味わった。 まず展開するのは青年時代に恋人と父の牧場を奪われた男柏木圭一の復讐への道のりだ。 共に親が牧場主である柏木圭一と寺島亜木子は常に一緒にいた仲で将来結婚して牧場を支えていくのが当然だと思っていたが、経営難に陥った牧場は寺島牧場が東京の実業家である江成氏の息子達也と娘亜木子を半ば柏木との仲を裂くように政略結婚させ、事業拡大に成功したのに対し、柏木牧場はその寺島牧場に買収され、父親は片隅に追いやられ、やがて亡くなり、柏木は全てを失ってしまう。 柏木は亜木子を奪った江成達也への復讐のために成り上がり、彼の全てを奪おうと画策する。同じ貸しビル業を営む江成興産と自分も政界に同じ選挙区から立候補して議員としての地位の両方を。 やがて物語が進むにつれ、それぞれの登場人物たちの過去が立ち上る。そして誰も彼もが過去に囚われ、今を悔やんでいることが判ってくる。 そして復讐を企てる柏木自身もまた復讐のターゲットになっているのが解ってくる。 彼を復讐の的にしているのは本橋一馬。柏木の会社に入った新人で運転手を務める若者だ。 さて本書のキーワードを挙げると夜と飲み屋、自然、星、そして馬だ。それらは全て作者本人が好きなものなのだろう。 夜が好きなのは後に挙げた飲み屋と星を作者が好むからだ。相場師としての経験がある作者は色んな業界の人間と接し、そして人脈を築いていったことだろう。それには会食、いわば接待というのは必要不可欠だろうし、自身も嫌いではなかったはずだ。 星が好きなのは作者が天文学に興味があるのかは解らない。ただ星に纏わる描写やエピソードが本書にはよく出てくる。これについては後で述べよう。 自然は事あるごとに柏木と亜木子が思いを馳せる故郷北海道の大自然と見習いカメラマンの江成未央が自然の中で生きる動物たちを活写する写真家を夢見ていることが挙げられる。この大いなる自然に対する想いは作者が北京生まれ、即ち大陸生まれである事が関係しているのかもしれない。 そして馬。本書は競馬シーンで幕を開ける。 恐らく作者がギャンブル、とりわけ競馬が好きなことから来ていると思う。短編でも競馬を扱った作品があるくらいだ。 今回の登場人物たちの運命はどれも夜作られている。 特に夜の飲み屋はそれぞれの思いを丸裸にし、そして秘めたる何かが開かれる。 江成未央は自分が出版社に破格のオファーを受けたことを母の亜木子に相談するのは一緒に夕食を食べに行った後に行ったホテルのバーであり、母亜木子もまたそこで逆にその後自分が過去に好きだった男にした仕打ちを打ち明け、そのことを今でも後悔していることを打ち明ける。そしてそこで母娘は父が浮気相手と一緒にいるところに出くわす。 そして夜の飲み屋はそれぞれの運命が切り拓かれる場でもある。 中でも柏木と及川の運命の起点は後に及川の妻となる加代の経営していた「バー花」だ。加代を中心に彼女を慕って集まったホステス達。そこで及川と柏木はある意味その後の人生の岐路に出くわす。 出所した及川が唯一通っていたのが大森のかつて「バー花」のホステスの1人だった織江が切り盛りする一杯飲み屋だった。仕事の終わりに独り酒を飲みに行っていたお店がそこで彼にとって唯一の憩いの場だった。 また先述のように白川作品には星が象徴的に登場する。デビュー作『流星たちの宴』がそのタイトルに星を謳っていること、そして主人公の相場師梨田が再起をかけて立ち上げた会社の名が「群星」だった。 本書では柏木とかつて将来を誓いあいながらも別れることになった亜木子の二人が思いを馳せるのが故郷北海道浦河の牧場の大自然と満天の星空だ。 亜木子は都会の星空が薄いのは地上との繋がりが薄いからよと娘に説き、柏木もまた部下の児玉に浦河の星の光は我々に降り注ぎ静寂をもたらすと呟く。 また本書のキーを握る登場人物の1人、本橋一馬は育て親の及川の置手紙に彼が強い星の下に生れてきた人間だと書かれている。 そして及川と柏木との繋がりを桑田と清水の刑事コンビに気付かせるのも北海道の星だ。及川が弁護士に漏らした北海道の星の美しさに思いを馳せることが捜査の糸口の1つとなっている。 そして柏木と亜木子が将来を誓い合ったのは絵笛の星空だ。 二人であの星の許へ旅立とう、それが二人の天国への階段だと云い、レッド・ツェッペリンの「天国への階段」のLPを買って歌詞の意味に想像を巡らす。二人育った絵笛で一緒に天国への階段を上ろうと亜木子は誓う。それは亜木子が圭一と一緒になってずっと絵笛で牧場を経営して骨を埋めようと告白した、ある意味プロポーズなのかもしれない。 これだけ夜が象徴的に描かれるのはやはり作者白川氏が夜に生きてきた男だからだろう。そしてそれは即ちビジネスの表と裏をも知り尽くした男でもある。会社経営にも携わってきた作者はビジネスの昼の顔と夜の顔を知っているからこそ書けるのだろう。 例えば本書の主人公柏木圭一を筆頭に、牧場のオーナーも含め、数々の経営者が出てくるが、彼らは決してクリーンな身ではない。酸いも甘いも噛み分けてきた歴戦の強者たちだ。 そんな彼らの成功は一種道理から外れた過去、深い業を背負ってきたことで成り立っているように思える。それらの業が深ければ深いほど成功もまた大きくなる。恰も振り子のように。 また柏木圭一が成り上がっていったのも彼が人脈に恵まれたからだ。 政界の事情通である横矢にW大学時代に偶々同じ食堂にいたことで知り合い、『カシワギ・コーポレーション』の礎となるゲームソフト会社を作った中条、そしてやさぐれていたところを拾った児玉は柏木に絶対の服従を誓う。 つまり白川氏もかつてはそういう人脈に恵まれたからではないか。ビジネスを成すには資金だけでなく、人の繋がりが重要である。だからこそこういう仲間を子細に語ったのだろう。 一方敵役となる刑事の桑田規夫もまた強烈なキャラクターだ。 若かりし頃に及川が犯した強盗殺人事件を担当したことが縁で彼の殺害事件の捜査に自ら志願し、足で稼ぐ地道な捜査で一歩一歩及川の過去の人間関係を露わにし、やがて柏木圭一に辿り着く。銭湯の息子として生まれたが、親が早々と家業を畳んだこともあって警察官になり、捜査畑一筋の定年間近のベテラン刑事だが、一人息子を事故で亡くした暗い過去もある。そしてもしその息子が生きていれば本橋一馬と同い年だということもあり、彼を息子同然に慕う人情派でもある。 この彼の人間に対する眼差しが本書を濃い人間ドラマにしている。 及川が出所後に出した手紙に書かれた「傷ついた葦」という表現に及川が誰かを庇っていると推察する。その誰かこそが及川殺しの鍵を握っているとして執念の捜査を続ける。 彼には犯罪が心の病という信条があり、どんなに科学捜査が発達しても人間の心こそ犯罪を解き明かすカギだと信じて疑わない。従って彼は何度も本橋一馬の許に赴く。赤ちゃんの時に及川の妻加代に抱かれた一馬は彼の中では変わらぬ子であり、そして亡くなった我が子を見るかのように、彼の行く末を按ずる。 そしてその桑田が信じるように本書の物語は人が人によって動かされた悲劇でもあった。 その中でも最たる者は本橋一馬だろう。 この本橋一馬の境遇は何ともやりきれない。 過去を捨て去る人もいれば、過去を懐かしむ人もいる。いや過去を捨て去った人も過去を懐かしむ時がある。 捨て去った過去を懐かしむ時、それは心惑わすことが起きた時だ。 全てを捨てたはずの者が過去に還るのは原点を見つめ、そして新たな気力を奮い立たせるためだ。 一方で人が忘れていた過去を懐かしむ時は、いわば後悔の産物だ。 あの頃は良かったと感慨に耽ると同時にどうしてこうなったんだろうと今を儚む。 それは私もそうだ。 登場人物たちが過去を懐かしむ時、私もまた同様だった。そしてあの時のあの人は今どうしているのかと思いを馳せ、胸に少し痛みを感じた。 そして過去を知ることで憎悪を燃やす者もいる。 本橋一馬の復讐の情念は未央という存在が介在することになると一層燃え上がっていく。 一馬は未央に魅かれていく。そして柏木と逢うときに未央が実に愉しそうにしているのを見て嫉妬に駆られる。 また自身が人生の苦汁を舐めてきただけに白川道氏の小説には復讐譚が多い。 しかしそれらは情念とか怨念といったどす黒い感情をむき出しにした獣のようなそれではなく、やられたからやり返す、いわば筋を通すといった類の芯の通ったそれだ。仁義を通すとでも云おうか。 それは恐らく作者自身の人生経験に裏打ちされた一種の美学から来ているのかもしれない。 しかしその美学はあまりに身勝手だ。それが顕著に本書の主人公柏木圭一に現れている。 この柏木圭一という男はどこか私の肌に合わない感じがした。 裸一貫で会社を立ち上げ、新進気鋭の実業家とまで評され、背が高くて40を超えても若い女性からも魅力を感じ、あまつさえ恋愛感情をも抱かせるその肖像はあまりに理想を描き過ぎだろう。私は佐藤浩市あたりを頭に思い描きながら読んだのだが、それにしても柏木本人も筋が通っているようで女々しさを感じさせるところがどうも他者から見た姿との違和感が拭えなかった。 例えば彼の腹心の児玉は命を擲ってでも柏木を護る、そのためには自らの手を汚すことを厭わないとまで誓い、そして物語の終盤実際に自分が犯した警備員殺人事件が露見しそうになると迷わず夜の海へダイヴし、命を落とすくらいの男なのだが、柏木自身がそれほどの男には見えない。 後はかつて愛した女性亜木子の娘未央との関係だ。 最初は積年の仇である江成達也を破滅させるために、彼女の縁談を破談させるために裏工作をしていたのだが、やがてその芯のある性格と亜木子に似た風貌に興味を抱き、しばしば食事に誘うようになるが、それはもう未央に若い頃の亜木子と同様の恋心を抱いているのと同義だ。 そして母親の亜木子には自分のことを知られたくないのにも関わらず、未央と逢瀬を重ねる矛盾。そして娘の口から母の亜木子が今でも柏木を慕っていることを知り、彼の復讐心は揺れ動く。 正直この柏木の行動は余分だ。 過去の苦汁から「今に見ておれ」と自らを奮い立たせてきたのが、昔の恋人の自分への思いを知ることで揺らぐなどとは企業の経営者としてはあってはならぬことだ。つまり柏木圭一という男はそれまで孤独な境遇に晒されてきただけに自分に関心を持つ人に弱いのだろう。そしてその孤独ゆえに愛に飢えているのだ。 だから情にほだされてしまう。人は論理では割り切れないことを知り、だから彼は人を見て融資するか、もしくは自分の仲間に引き入れるか判断してきた。そしてそれが人を見る目を養ってきたのだが、惚れた女性にかくも弱さを見せる。そして未央に心惹かれていくうちに復讐のためにかつて奪われた牧場を奪い返すことで彼女が哀しむことを悟り、その信念も揺らいでいく。また隠してきた殺人事件を知られることですぐに動揺する。 海千山千の修羅場をくぐってきた肝の据わった男だと思われた柏木もその胆力は実は薄皮一枚だけにしか過ぎなかったことが次第に解ってくる。 そして特に柏木に対して嫌悪感を強くしたのは未央と逢瀬を重ねるところだ。 柏木は未央がかつて結婚を誓い合った女性亜木子の娘であることを知っており、興味本位、いや亜木子への未練から未央に逢いたいと願い、偶然を装って近づく。柏木は未央にかつて愛した若かりし頃の亜木子を見出し、魅かれていく。 更に一馬も未央に魅かれていく。そして柏木から未央を守ろうと決意する。一馬は未央を女性として見つめる。 この何とも云えない恋愛沙汰に私は嫌悪感しか覚えなかった。 さらに未央と逢瀬を重ねることで柏木の復讐への信念に揺るぎが出てくる。彼は牧場を江成から奪うことで彼女と亜木子が哀しむことに今更ながら気付く。そしてそれがやがてかつて父から牧場を奪った寺島浩一郎の自殺を招くに至り、自分のやってきたことの愚かさに気付くのだ。 そう、結局彼は私怨のために周りを利用し、生きてきただけの男だと知る。 そのためにかつて愛した亜木子を捨て、そして東京で知り合った及川を捨て、新開英子と彼女の身体の中に宿した子を捨てた。そして出世のために政治ゴロの横矢と知り合い、彼の娘奈緒子と結婚するが、子供は邪魔だとみなして避妊手術までしながらもその事実を明かさず、単に体裁だけの結婚生活を送る男。 一方で未央を知るに至り、彼女が自分の娘であったら自分はこんな復讐に生きた男にならなかっただろうと零す。 何とも煮え切らない、筋の通らない男だ。 色んな人を、特に女性をないがしろにして今の地位を築いた柏木圭一像が浮かび上がってくるうちに彼に同情できない自分がいた。それが私には残念でならなかった。 一方で英子と及川夫婦の関係の美しさはどうだろうか。 英子は出産が元で自分の命が亡くなることを悟って、加代に一馬を託す。加代もまた死の間際に及川に真実を語って亡くなる。そして及川もまた自分が手紙に一馬の出生の秘密を託して柏木に殺される。 一馬という男をそれぞれが愛おしく思い、重荷を背負わせないように大切に育ててきた、親子愛の伝言ゲーム。 自らの死を悟る時にそれぞれが一馬の真実を託すバトンリレーに真の親としての深い愛情を感じた。 そう、結局愛しかないんだろうな、最後に残るのは。 どんなに相手を憎もうと、復讐の炎を滾らせようと、最終的に残ったのは親子の愛だ。 子供は自分の復讐には足手まといになる存在だと女を捨てた柏木圭一は自分にいないと思っていた子供がいることに気付き、彼らのために犠牲になろうとする。 紆余曲折の末に辿り着くのは愛だけだった。 それは全てを奪った憎き仇、江成達也に対してもそうだった。 柏木はあることを知ると、寧ろそれほどまでに亜木子から愛されてなかった江成に憐れみを覚えてしまう。江成もまた独りぼっちなのだと。 結末も自己陶酔型だ。 柏木圭一、寺島亜木子は確かに悲劇のヒーロー、ヒロインかもしれないが、刑事の桑田が云うように過去事件で色んな人を見てきた彼にとって柏木の舐めた苦渋など取るに足らないものだ。なぜなら彼は成功することができたからだ。 才能も有り、行動力もありながらも成功できない人間はゴマンといる。彼が受けた仕打ちは確かに酷ではあるが、それでも新進気鋭の青年実業家とまで持て囃されるほどになった。 結果良ければ全てよしと云うが、良しとしなかったのが柏木だった。 彼は自分の将来を誓い合った恋人を奪った江成に復讐することを忘れずにその成功を復讐の道具にした。その結果、多くの死が彼の周りに起きた。 最初の死は新開英子だ。彼女は一馬を産んで亡くなった。 次は及川広美だ。 結局過去は過去だと流せずにいた柏木圭一というエゴによって周囲の人間が振り回され、そして死んでいった物語なのだ。 これが白川流ロマンチシズムとでもいうのだろうか。確かに濃密な読書体験だった。 しかしこの自己陶酔振りにやりきれなさが残ってしまった。 自らの信ずる道を進んだ時、そのエゴのために色んなことや人が犠牲になる。本書はかつての自分を柏木圭一に重ねた作者の悔恨の書なのかもしれない。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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東京都にある星城大学に所属する文学好きが集まり、文芸部を立ち上げ、かつて名声を馳せた同人誌『あすなろの詩』復活を目指す学生たちの青春群像劇。集まった6人の若者たちの間で同人誌復活に至る道のりには文学談義のみならず、恋あり、自分の文才を信じた鍔迫り合いありといった文芸青春グラフィティが繰り広げられる。
但し鯨氏のこと、そこには平成のトレンディドラマを彷彿させるような華やかさはなく、どちらかと云えば昭和臭が漂う。 主人公の甲斐京四郎はミステリに傾倒する作家志望の大学1年生。しかしミステリに特化した読書のため、文学に関する造詣は深くない。 彼と大学受験時に邂逅し、文芸部「星城文学」立ち上げの中心人物となる玉岡千春はその若さとは裏腹に文学的知識が豊富な青年で部員たちもその造詣の深さには一目置く。 天間留美子は玉岡と高校時代の同級生でその時に文芸部の部長副部長の仲であり、また付き合ってもいた。しかし彼女も将来小説家の夢があるが、父親の厳しい躾がトラウマとなり、天真爛漫ながらも複数の男と寝ることで父親への復讐をしている、少し歪んだ性格の女性。 大牟田敦生は柔道部員のような体格をしているが、小説好きで色んな作家の本を読んでおり、読書をしているところを玉岡に見られ、甲斐に勧誘される。一旦は断るものの、天間留美子に一目惚れして入部する。彼は小説家志望ではない。 虎尾剛志は他の部員と異なる2年生だが、1年の時にプレアデス文学賞に作品が佳作入選した経験の持ち主で、その実力を買われてスカウトされる。玉岡と留美子の文学の知識の豊富さと鑑識眼の確かさに興味を持ち、入部し、部内では玉岡と互角かそれ以上の造詣の深さを誇る。 最後の入部したのが奥中かおりで、彼女は詩人志望で既にいくつか詩を書いている。江川文太郎を尊敬しており、その流れで「星城文学」に入部する この5人の男女は上に書いたように単に文学に対する鑑識眼の優劣を競い合うのではなく、男女の恋の縺れも発生する。 高校時代から天間と付き合っている玉岡は情事を重ねながらも彼女が自分から心が離れていることを感じている。 大牟田は天間留美子に一目惚れし、勇気を出して告白すると、いわゆる“サセ子”であった天間はその日のうちに大牟田とセックスをする。そして天間は彼の子を孕む。 主人公の甲斐と虎尾は奥中かおりを取り合う仲になる。最初に誘ったのは虎尾の方だが、文学的知識はあり、そして1年年長という大人な態度にかおりも魅かれるが、その武骨な風貌がどうしても受け入れられず、結局かおりはハンサムでスタイルもいい甲斐と付き合うようになる。 この男女6人が週に1回集まっては既存作品の合評会を行ったり、自作の合評会を行っては最後はいつも行きつけの飲み屋で飲み会をして語り合う。典型的な大学生ライフの模様が繰り広げられる。 そして作中では奥中かおりの自作の詩やショートショート大会で主人公甲斐が印象に残った天間留美子のショートショート、更には『あすなろの詩』の創設者江川文太郎が同誌に掲載した短編「悪夢は素敵」が織り込まれるなど、なかなか意欲的な内容となっている。 文学好きという共通項で集まった仲間はしかし既に大学生という半分大人のような存在で、それぞれに野心や欲望を秘めている。 上に書いたように真っ先に挙げられるのは部内の男女関係の縺れだ。玉岡と天間は以前恋人関係にあったが、天間の心は既に離れており、単に身体を重ねるだけの関係になっている。彼女は父親の厳しい躾に反発して彼の望まない娘になろうと意図的に複数の男と寝る。 大牟田はそんな彼女の真意を知りながら、彼女を自分に向かせようと天間留美子を清濁併せて愛そうとする。 奥中かおりを巡っては虎尾と甲斐が争う。最初に仕掛けたのは虎尾で、映画を観に行くとデートに誘って成功するが、二度目のデートでホテルに誘うと断れる。 一方甲斐は勇気を出して奥中をデートに誘うがあいにく虎尾との先約があった彼女はそれを断り、奥中が自分に気があるとある程度持っていた自信が崩れ、心神喪失気味になるが、虎尾のことを振った彼女から呼び出しを受け、逆に告白されて付き合うようになる。その後も妊娠した天間が甲斐に相談した時に話が長くなって香との約束の時間に遅れてデートがキャンセルになった時に偶々天間と一緒のところをかおりに見られて、二人の関係に罅が入るものの、その後誤解であることが発覚し、再び寄りを戻す。 一方野心と云えば、やはり部の創設者玉岡と既に文学賞で佳作入選の経験のある虎尾の水面下での戦いだ。合評会で見事な鑑識眼で的確な批評をする虎尾と玉岡の目に見えぬ火花を散らすやり取りはどちらが実力として上なのかを知らしめるための戦いでもある。 そんな中で玉岡は文学賞に応募し、見事最終候補に残るが、虎尾は最終候補に残ったと云っても10作のうちの1作でしかない、あまり期待しない方がいいと牽制する。 そんな男女間のやり取りと玉岡と虎尾の戦いを含めて各部員たちの文芸作品に対する造詣の深さに感じ入る主人公甲斐京四郎は、いわばミステリ好きが高じて作家になる夢を抱いた単なるミステリ読者にすぎない。つまり我々読者を投影したような存在である。いや甲斐は我々読者よりも読書量の少ない、本読みの卵のような人物だ。 それらに加えて「あすなろの詩」第1号の発刊に向けて、創作活動に励み、資金集めに東奔西走しながら、とうとう彼らは刊行にこぎつける。そして約束通りに北海道合宿へと臨む。 とここまでが前半。 しかし後半になると物語はガラッと様相を変える。 無事『あすなろの詩』創刊号を発行した「星城文学」の一行は高熱で自宅療養せざるを得なくなった甲斐京四郎を除いて、大牟田の別荘へ合宿に行く。そしてそこで連続殺人事件に巻き込まれるのだ。 電話が通じず、外は嵐で町へも下りれない、典型的な“嵐の山荘物”ミステリの状況下で般若の面を被った犯人に次々と殺される。夜中に一晩につき1人ずつ殺されては離れで首吊り死体のように吊るされ、陳列されていく。 般若の面を着けた殺人鬼が最初に奥中かおりの部屋を訪れて殺し、次に大牟田敦生が殺され、そして玉岡千春が第3の犠牲者になり、最後虎尾と天間2人が玉岡の首吊り死体を発見したところで停電になって終える。後日病気から回復して大牟田の別荘を訪れた甲斐京四郎に部員5人全ての首吊り死体を発見される。 般若の面は大牟田の別荘に以前からあった物で被ると精神が錯乱し、人を殺すと云う謂われがあり、更にこの別荘で人殺しがあったという。 私はどちらかと云えば鯨氏のミステリはダジャレや言葉遊びのような強引な印象を持っていただけに本書の端正さは意外だった。しかしよくよく考えるとあの歴史ミステリ『邪馬台国はどこですか?』でデビューした作家なのだから、論理的ミステリに長けた作家ではあるのだ。 真相に対して、そんな馬鹿な、あり得ないと若い頃の私なら一笑に付していただろう。しかし今、例えばコロナウイルスの影響で外出自粛や宴会の禁止などの制約下の中でストレスを感じているからこそ、この動機は案外腑に落ちた。 しかしこんな特殊な状況でなかったら理解しなかったかと云えば、ある程度人生経験を重ねてきた今なら、周囲の環境や人の言動、そして物に宿るバックストーリーが人の心に作用し、思いも寄らぬ言動を招くことは十分理解できるので受け入れやすくはある。 また一方でこの大牟田の別荘はスティーヴン・キングが云うところのサイキック・バッテリーでもあったとも考えられる。「星城文学」の部員の面々は人殺しの過去があるこの別荘の孕む因縁に囚われたのだ。 これはやはり上に書いたようにコロナウイルスの影響下である事、そしてこの本を読むまでにキングの作品を読んでいたことと、それを論じた北村薫氏のエッセイを読んでいたというそれまでの読書遍歴があったことなどが重なったために理解は深まったといえよう。 私はまた本に呼ばれたのだ。 鯨氏の作品には博識ゆえの作者特有のお遊びが散りばめられているのが特徴だが、本書も同様。 特に新本格ミステリを題材にしたものが多く、例えば「星城文学」創立記念の飲み会で甲斐は新歓コンパでの一気飲みはご法度だけどと綾辻行人氏の『十角館の殺人』のエピソードを織り交ぜれば、大牟田の北海道の別荘は少し斜めになっていると島田荘司氏の『斜め屋敷の犯罪』の流氷館を思わせ、ニヤリとさせられる。しかし実際に合宿が始まると斜めになっていることは一言も触れず、少し違和感を覚えるのだが。 またミステリ好きの甲斐と文学全般を読む他の面々との嗜好の違いによる疎外感も垣間見れて面白い。 例えば彼が好きな作家として井上夢人氏を挙げたが誰も知らなかったこと―こんなこと書いて大丈夫か?―や、合評会で泡坂妻夫氏の『しあわせの書』を推薦したが誰も賛成しなかったとか、髙村薫氏や奥村泉氏などページにぎっしり字が書かれた作品は苦手なのに対し、他の部員は苦にもなっていないといった、いわゆる一時新本格ミステリがブームになった時に増えたぽっと出の読者の素人ぶりが甲斐を通じて語られるのである。 特に面白いのは村上龍氏の『五分後の世界』の合評会の場面だ。上に書いた甲斐が見開きページにぎっしり文字が詰まった作品が苦手というのはこの合評会の中で出てくる心情で、そのことについて1ページ読むのに時間がかかることに対するストレスが招く先入観から来る苦手意識だと玉岡に説かれる。 これは海外作品を読むのが苦手というのに読み替えてもいいだろう。 だいたい海外作品を読まない人たちの多くはその理由として登場人物たちが頭に入ってこないと云う。それはカタカナの名前がどうも苦手だというのだ。ジョーやジョンやジェーンやジャックといった似たような名前が多く、誰が何をしゃべっているのか解らなくなるという。 これもまた先入観だろう。 なぜならマンガやアニメ、そしてゲームではカタカナの名前の登場人物が大半を占める。しかしだからと云って混乱しない。それは小説と違いヴィジュアルがあるからだろう。似たような名前でもヴィジュアルと結び付けることで同一化できる。文章だとそれが出来ないから混乱するという先入観から苦手意識が生まれているのではないか。 他にも都筑道夫は逆に「ページが文字で黒く埋まっていないと読む気がしない」と述べているとの感想もあったり、また小説を、物語が楽しいからこそ読むのに対し、髙村薫氏は今まで小説を楽しみを求めて読んだことはないとの言葉に衝撃を受けるといったことへの考えなども語られており、この『五分後の世界』の合評会には案外ページが割かれ、本の読み方や姿勢について様々なことが書かれていて、興味深く読めた。 また最後に付せられた参考文献に江川文太郎の著書が載っているのもまた作者ならではの虚構と現実の境を曖昧にさせる作者ならではだ。 大学時代、ワセダミステリクラブや慶応義塾大学推理小説同好会といった文芸サークルがなかった私にとって文芸部「星城文学」の活動はなかなか面白く読めた。SNSやブログに小説投稿サイトなど電子化での創作活動が進んでいる昨今、彼らのようにスポンサーを集め、同人誌を刊行すると云った活動がされているのかは不明だが、だからこそ昭和の香りを感じさせるノスタルジイを本書はどこか感じさせる。 もしかしたらこれは作者自身の青春グラフィティなのかもしれない。明日は作家になろうと常に思いながら創作に励んでいた作者の思い出がタイトルと同人誌に込められているのではないだろうか。 そして「星城文学」の面々全てが亡くなる結末は失われた過去への、もう戻れぬあの頃の思い出への作者なりの決着なのかもしれない。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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Gシリーズ2作目で今度のギリシア文字はθ。θといえばサイン、コサイン、タンジェントでお馴染み三角関数で使われる変数θと、英語の“th”の発音記号を想起させるなど、色々想像を巡らして読んでみた。
今回は那古野市で連続する飛び降り自殺の当事者が押しなべて身体のどこかに―1人は例外的に靴の中に―口紅でθの字が書かれている共通点がある。 このθ。時にカタカナでシータと評される今回のギリシア文字は作中それぞれの犠牲者で様々な意味合いを以って示される。 早川聡史はthetaの文字のあるURLを打ち込むと謎めいたサイトにアクセスする。そこではアクセスする者は信者となり、サイトとのコミュニケーションをシータと呼ぶ。 一方で3番目の自殺者田中智美のパソコンの壁紙には大きなθの文字が書かれており、彼女はそれを神の紋章と云っていた。 このように何やらカルト宗教的な色合いを秘めて物語は進行する。 更に前作同様本作でもタイトルと同じ文章が登場する。第1の自殺者早川聡史が自分宛てに送ったパソコンのメールに書かれていた一文が「シータは遊んでくれたよ」だった。 しかしやはり森ミステリには色んな疑問がどうしても残ってしまう。 例えば第2、3の自殺者の動機が不明だ。なぜ彼女そして彼は自殺したのか?そのような節もなく、唐突に。 そして第1の自殺者も引っ越したばかりのマンションから飛び降りているのも腑に落ちない。 そして相変わらず森作品における警察の情報の取り扱いは噴飯物である。 今回事件を担当するのは愛知県警の捜査一課の近藤だが、彼はC大学の国枝助教授の研究室に招かれて西之園萌絵、反町愛、加部谷恵美と海月及介、山吹早月、そして探偵の赤柳初郎らの前で捜査の進捗を語るのである。守秘義務第一、更には中に容疑者がいないとも限らないのにこれだけ警察関係者以外の人間に大事な捜査情報を語ること自体、現代の警察官がやることとは思えない。しかもコーヒーとケーキを食べながら。 そして犀川の存在は更に神格化されつつある。犀川は海月が気付く前に事件について彼と同様の結論に達していた。 どうも森氏は犀川を御手洗潔張りの超天才に仕立て上げようとしているようだ。 御手洗潔と云えば本書刊行の約11年後に同じく連続飛び降り自殺事件を扱った『屋上の道化たち』―その後『屋上』と改題―を上梓している。そして連続自殺事件と云えばジョン・ディクスン・カーの『連続自殺事件』を想起させ、その作品も高所からの落下がメインの謎であった。 しかしなぜかこの飛び降り事件物は傑作が生まれていない。どれも真相には微妙な感じが残ってしまう。 その呪縛からは本書も逃れられなかった。 本書で残る最大の謎はシータという謎めいたサイトだ。実はこれについては探偵の赤柳が保呂草潤平とコンタクトを取ることで少しばかり正体が明らかになる。 しかしやはり森作品は刊行順に読むべきだと痛感した。 また謎と云えば加部谷が赤柳との対話で発想する、前の事件―『Φは壊れたね』―と繋がりがあるのではないかという疑問だ。これはもしかしたらこのGシリーズ最大の謎かもしれない。 一連の妙に割り切れなさの残る事件の裏側には何らかの繋がりがある事を森氏は読者に暗示しているのではないだろうか。 しかし第1作に続き、本書もまたその真相にはモヤモヤとしたものが残る結末となった。いや、海月の事件に関する推理の内容は第1作に比べれば格段に納得できるものではあるのだが、上に書いたようにその他諸々については説明もないため、モヤモヤ感を抱いてしまうのだ。 また正直加部谷、山吹、海月らメインキャラクターの個性もまだ感じられず、キャラ小説としての妙味を感じないでいる。加部谷は森作品にありがちな、とにかく口を出したがる女性キャラ、狂言回し的な役割に過ぎない。個人的にはVシリーズの登場人物たち同等の愛着を感じたいのだが。 また西之園萌絵に続き、本書では彼女の友人でもあった金子の恋人反町愛も登場し、S&Mシリーズ後日譚めいてきた。 ただそんな趣向では私は騙されない。過去は過去として新たなキャラクター達がキャラ立ちしてこその新シリーズなのだ。 このGシリーズはキャラも含め、内容にモヤモヤ感が残ってしまうのだが、それがシリーズ最終のビッグサプライズに繋がることを期待して、次も読むことにしよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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コナン・ドイル財団公認のホームズ譚続編を2作上梓し、もはやパスティーシュ作家として有名になったホロヴィッツが手掛けたのはイアン・フレミング原作の、世界でもっとも有名なスパイ小説007シリーズだ。しかもホームズ作品同様にイアン・フレミング財団直々に007シリーズの新作依頼がされたとのこと。
007シリーズの続編はこれまでもジョン・ガードナーやジェフリー・ディーヴァーなど錚々たる作家が書いており、ホロヴィッツもそのメンバーに名を連ねるようになった。 私が今回感心したのは物語の舞台を現代ではなく、過去、つまりイアン・フレミングが現役で新作を紡いでいた時代に設定しているところだ。しかも時代としてはボンドがプッシー・ガロアと共に組織を壊滅に追い込んだ『ゴールドフィンガー』の直後、つまり1950年代となっている。 ディーヴァーの007シリーズは物語の舞台を現代にし、またボンドも若者に設定しており、スマートフォンのアプリを駆使してスパイ活動する実に若々しい内容になっていた。それはそれで作者としての特色も出ており、興味深い物であったが、どうしても往年の007シリーズを映画でも見ている当方にしてみればどこか違和感を覚えたのは正直なところだった。 しかし本書は当時の時代設定でまだ携帯電話すらない時代だ。逆にそれが007シリーズならではの雰囲気を演出しており、私個人的には映画の007シリーズの世界に一気に引き込まれるような錯覚を抱いて、物語世界に没入することができた。 さてそんなホロヴィッツ流007はまずボンドがレーサーに扮してスメルシュが画策する現在優勝争いトップのアメリカ人レーサー暗殺計画を阻止せよという任務から幕を開ける。 私は007シリーズを映画でしか見たことがないので、敢えてそれをベースに述べるが、今までの007シリーズでも類稀なる身体能力を発揮してプロさながらの腕前を見せてきたボンドだが、流石にこれは無茶ぶりだ。 彼もカーレースが趣味で齧っているということで任務に選抜されたが、明らかに無理がある。そして彼の相手はロシアのトップレーサーで腕前は一流ながらも過去に他のレーサーを故意に事故らせたとして処分された男。更にレースが行われるのはドイツのニュルブルクリンク。 しかし読書というのはどうしてこうも私を導くのか。 このボンドがレースに挑むドイツのレース場ニュルブルクリンクは実在するレース場でしかも世界でも最も難易度の高いレース場として知られており、本書に書かれている様々な悪条件は決して誇張ではない。そしてそれを私はつい先週に観たF1レーサー、ニキ・ラウダとジェームズ・ハントの伝記映画『ラッシュ/プライドと友情』で知ったばかりだ。ニキ・ラウダが全身大火傷を負う大事故を起こしたのがこのニュルブルクリンクだったのだ。まさに本書を読むに最高のタイミングだったと云えよう。 とまあ、知識があればあるほど今回の導入部の無茶ぶりが解ろうというものだ。 その後物語の軸は謎の韓国人実業家ジェイソン・シンことシン・ジェソンへと移る。 レース場でスメルシュの幹部とやり合っていた、1950年代当時ではまだ珍しかったヨーロッパの上層階級の交流場にいるアジア系のこの人物は人材派遣業で一大財を築いた男。 このスメルシュとの関係から繋がった糸はやがて偽札事件を追うアメリカの財務省に属する秘密捜査局の人間ジェパディー・レーンへとボンドを繋ぎ、更にロシアが画策するアメリカの宇宙ロケット打上失敗を絡ませたニューヨークの中心エンパイア・ステート・ビルの直下で地下鉄に乗せた、マンハッタン中心部を壊滅状態に陥らせるほどのテロ計画が発覚する。 つまり本書におけるボンドの敵はスメルシュではなく、韓国人の実業家シン・ジェソンだ。 彼は貴族階級の出で裕福な家庭に生れ、自身もソウル国立大学で経営学と法律を学び、英語もマスターしたエリートとして順風満帆な人生を送っていたが、朝鮮戦争で1950年6月25日に北朝鮮の韓国侵攻で避難生活を余儀なくされた。そして北朝鮮に加勢したアメリカ軍によって自分の家と祖母の命を失くし、ノグンリの橋に差し掛かった時にアメリカ軍用機から苛烈な攻撃を受け、一人命からがら生き延びた男だ。 妹を守ろうと胸に抱えて必死に避難したが、実は助けていた妹に弾が当たって自分の命が助かったという過酷な過去を持つ男だ。 そして去り際に祖母が渡してくれたブルー・ダイヤモンドを元手に人材派遣会社を立ち上げ、今の地位を築いた男だ。 このシン・ジェソン、なかなかの手強い相手でボンドは何度も窮地に陥る。 さて007シリーズの定番と云えばやはりボンドガールの存在だ。今回ボンドは3人の美女と出遭う。 1人目はプッシー・ガロア。彼女は前の任務ゴールドフィンガーの金塊強奪計画で知り合ったゴールドフィンガーの手先で同性愛者組織セメント・ミキサーズの首領で共に計画阻止を行った女性。 その任務の後、ボンドと共にロンドンへ渡り、同棲を続けていたが、ゴールドフィンガーの残党に拉致され危うく殺されそうになる。 2番めの美女はボンドにレーサーになるための訓練を行った女性ドライバー、ローガン・フェアファックス。 最初はボンドのレースへの挑戦を無謀だと思い、彼の運転技術を見くびっていたが、日に日に上達する彼を見直し、食事を共にし、その後一緒の部屋に行くまでになるが、プッシー・ガロアの拉致事件が起きて、ボンドと共にガロア救出へと向かい、なんとその後はガロアと恋仲になってアメリカに渡ることになる。 そして3人目の女性こそが今回のボンドガールだ。ジェパディー・レーン、Jeopardy、即ち「危険」をファーストネームに持つ彼女の正体については既に述べているのでここでは繰り返さないが、彼女の経歴もまた異色だ。 父親を6歳の時に亡くし、母親に捨てられ、路上生活を送っていたところを巡回サーカスに拾われ、そこで数々の曲芸を身につける。母が肝臓ガンで亡くなった後、叔父に拾われ、きちんとした教育を受けてアメリカ政府に仕える身になった。そしてその魅力は午前4時にも関わらずボンドに欲情を掻き立てさせるほどだ―というよりもボンドの性欲の凄さには驚かされるやら呆れるやら―。 そしてそのボンドの内面についても描かれるのが興味深い。 上にも述べたように私はフレミングの作品を読んだことがなく、映画でしか見たことないのだが、そのスーパーヒーロー然としたキャラクターはタフさが強調され、繊細さが描かれるようには感じられなかった。しかし本書ではボンドがスーパースパイであると同時に1人の人間としての弱さを備えていることも描かれる。 彼が色んな女性と色恋を繰り広げられるのは1人の女性と長く暮すことに苦痛を覚えるからで、一時の情熱にほだされるが長くは続かないことが吐露される。 またそれまでの任務が数限りなく悪の手下どもを抹殺してきたことに思いを馳せる。 絶大な権力を持つボスに家族や自身の命を盾にして好むと好まざるとに関わらず悪事に加担し、従わざるを得なかった、それまで普通の暮らしをしていた者もいるだろう、家族もいるだろう手下たちを殺してきた自分は果たして正しかったのかと自問する。“殺しのライセンス”を持つボンドは決して殺人機械ではないと自らを納得させることに成功する。 しかし毎回思うのだが、ジェームズ・ボンドはスメルシュやスペクター、またCIAやKGBにつとに知られた名前、コードネームだろう。 しかし彼はいつも他の職業に扮してもその名を名乗るのだが、なぜ偽名を使わないのだろうか。恰もスパイが来ましたと名乗り出ているようなものではないか。よほどその名前に誇りを持っているのか。 閑話休題。 常々述べてきたがホロヴィッツは本当に器用な作家だと今回も痛感した。先に述べたように時代設定を敢えて007シリーズがリアルに執筆されてきた1960年代にすることでシリーズ特有の雰囲気を味わえるし、また正典のキャラクターやエピソードもふんだんに盛り込まれ、地続き感が味わえた。 しかしやはりそれでもこれまでの作品にはどこか物足りなさが残るのは否めない。 それはやはり既存の有名シリーズのパスティーシュ作品であるがゆえに避けられないオリジナリティの欠如だ。 人気シリーズが作者の逝去によって続編が期待できないことはファンにとっては残念なことであり、その続編を他の作家が書くことは期待と不安が入り混じった物になる。ホロヴィッツはその器用さゆえに水準をクリアしているのが素晴らしいところだが、出す作品がいずれもパスティーシュになると、ましてや1つのシリーズのみならず、他のシリーズも同様に書くとなると、この作家は自身で新たな作品が創出できないのか、つまり既存の設定の上でしか書けないのかと疑いたくもなる。 彼のオリジナル作品である少年スパイアレックス・ライダーシリーズも必ずしもホロヴィッツの独自色が出ているわけではなく、既存のスパイ小説、特に007シリーズの影響が色濃く見え、寧ろ作者がそうすることで解る人には解るマニアックな愉悦を与えているような感さえある。 まさに職人作家とも云える才能と姿勢なのだが、水準は保てても突出したものが生まれないきらいがある。 しかしその懸念を振り払ったのが2018年の海外ミステリランキングを総なめにした『カササギ殺人事件』である。この作品をようやく読むに至った。 それまでの作品で蓄えてきた技能と技巧がどのように結実したのか、じっくり確かめながら読むことにしよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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レンデルの短編集は過去に2冊読んでいるが、長編さながらに短編もレンデル特有の毒に満ちており、一読印象に残る作品が多いのが特徴。従って今回もそんな期待の中、読んでみた。
開巻最初の作品は表題作である夫婦の奇妙な“浮気”を扱った物。 男に対する免疫のない女性。 少し女性っぽく、そして女装をして完璧な女に成りすますことのできる男性。 女性は女性の心を持つゲイやオカマ、いわゆるトランスジェンダーに異性よりも抵抗なく接しやすいと云われるが、まさにクリスティンはその典型だった。 公の貌から私生活の貌へと変貌した男に怖さを覚える世慣れぬ女性の恐怖心がよく描かれた作品である。 次の「ダーク・ブルーの香り」も男と女の関係の話。 かつて愛した女性との再会を求めるのは女性よりも男の方がその思いが強いようだ。私も経験があるが、女性は恋に対して踏ん切りがつきやすく、別れてもすぐ次の恋に向かっていけるが、男は未練が残り、なかなか次に踏ん切れないでいることが多いのではないか。 斯く云う私もその経験者の1人なのだが。 本作の主人公の男もかつて別れた妻への思慕が募り、退職してから再会を望むようになった。彼の中に残る彼女の姿は若かりし頃の元妻の肖像。そして男は年不相応な若々しい風貌をしていることから、相手もそうではないかという錯覚に陥る。 このオチは容易に読めるだろう。 しかし愛は盲目で通常ならばそんな馬鹿な!と思われるようなことも盲目ゆえに信じてしまう。人を狂わせるのもまた愛なのだ。 「四十年後」はそのタイトル通り、回想の物語だ。 田舎の町で男女の不埒な関係がすぐに町中に伝わるような閉鎖された場所に送られた思春期の女性の回想譚。 出征中の夫を待つ美貌の妻。そこに現れた美男のパイロット。それを盗み見て男と女のロマンスと、セックスの妄想に耽る私。 いつの世も不倫に纏わる話の結末はこの上なく苦い。 いわゆる曰く付きの家というのがあるが、「殺意の棲む家」はそんな家を買った夫婦のお話だ。 幽霊が出るとか人殺しがあったとか、いわゆる曰く付きの家に住んだ人々には表面上は気にせずにいても、ふとそれが潜在的に意識され、そして妙な違和感を覚えるものである。スティーヴン・キングはそういう得体のしれない雰囲気を宿した物をサイキック・バッテリーと評したが、ある意味本作のカップルが買った家もそれに類するものだったのかもしれない。 真夜中に勢いよく閉まる窓。この実に些細な厄介ごとが、住民たちの神経を蝕んでいく。 「ポッター亭の晩餐」は一種面白みのあるデートシーンから始まるが、展開は予想外の方向へと移る。 イギリス男児特有のプライドの話。 最初はお財布代わりに誘われた男が、次から次へと高級料理を注文する女性に財布と心が蝕まれていく、半ばコメディな物語と思いきや、因縁の相手の浮気現場を目撃する展開になり、高額の食事代を立て替えられたことに奮起し、なけなしの貯金の中から鼓舞して返還をする若き男のプライドが示される。 原題の意味は「賄賂と堕落」だが、堕落は賄賂に屈したわけではなく、魂を売ったことに起因するのがレンデル流の捻りだ。 「口笛を吹く男」はレンデルでは珍しくアメリカと南米を舞台にした作品。 海外のメイドや使用人は手癖が悪く、すぐに家主の持ち物をくすねるが、本書のジェレミーもまたそんな盗癖を持った若者だ。そして彼がどこかの家の鍵を手に入れ、そこにある物をくすねてしまおうと企む。しかしそれは家主の壮大な復讐計画だったことが最後に判明する。 この復讐者マニュエルはいつも口笛を吹きながらその日暮らしをしている年輩の男性だが、のどかに見える口笛吹きが実は心の中では淡々と遠大な仕返しを練っていたと思うと、心に寒さを感じざるを得ない。 いわゆる老害を扱ったのが「時計は苛む」だ。 仲のいい老人たちが、いつか来るべき時と意識しつつ、また次第にボケが始まっていく恐怖に慄きつつもお互い行き来してそれぞれの生活に変化を与えながらその日その日を暮していく様を語りながらも、突然破局を迎える様がごくごく自然な成り行きで語られる。 欲しいと思った時計が既に売却済みだったことがしこりとなり、店に再び行ってみると店主は居眠りして気付かないので、思わず魔が差して時計を盗み出してしまう。 こんな些細な犯罪がやがて・・・。 特異な性癖を扱ったのが「狼のように」だ。 実に変わった内容だ。 40を超えた男が狼の被り物を着て狼ごっこに興じる。定職にも就かずアマチュア劇団に所属して役者として出演する生活を送る男。 しかしその狼ごっこがやがて彼の中で狼そのものと同化するようになる。 人間の心の狂気を必然性を以って語るレンデルだが、こんな話、レンデルしか書けない。 ちなみに原題の“Loopy”は英和辞典では「狂った」とか「ばかな」という意味が挙げられているが、本書ではラテン語で狼を表すルーパスから派生した言葉であるとされている。 次の短編「フェン・ホール」のタイトルは主人公プリングル達3人の少年がキャンプをしに連れられたリドゥン氏の家の名を指す。 父親の友人宅の近くでキャンプをすることになった彼らが遭遇した事故。それは前日の強風で倒れた木を剪定している時に起きた不意の事故。木を切った時にバランスが崩れ、根っこが穴に落ち、そこにいた妻が下敷きになって死ぬ。 しかしその前夜に夫婦が云い争う声を聞いていた彼らはそれが本当に事故なのか故意なのかが解らない。 不穏な空気を纏って物語が閉じられるのは次の「父の日」も同様だ。 結婚し、子供が生まれて家族が形成され、それは安らぎの場になったり、もしくは疎ましく思う場になったりと様々だが、愛情が強すぎるとそれを失う恐怖感に苛まれるようにもなるようだ。この実に特異な恐怖観念に囚われた男の話だ。 子供を大事にするあまり、外出時もベビーシッターに頻りに連絡を取り、安否を確認する、妻が綺麗になったら子供を連れて逃げやしないかと慄く。勝手な被害妄想だが、旅行最終日に現地の友人と食事に行った夫婦は夫しか戻ってこなかった。 彼の話では妻はその友人とドイツに帰ると云って家族を捨てたと云う。しかし彼の掌にはざらざらした石の表面に押し付けたような小さな穴がいっぱいついていた。それは滑りやすい崖で落ちないように踏ん張ったかのように。 果たして本当に彼の妻は家族を捨ててしまったのか。 それともいつか子供たちを盗られると思って夫が崖から突き落としたのか。 しかしこの結末はもはや自明の理だろう。 そして題名「父の日」には一読後、戦慄を覚える。のどかな言葉が一転して恐ろしさを帯びるところがレンデルらしいと云えばらしいが、それにしても…。 さて最後の短編「ケファンダへの緑の道」はそれまでとは毛色の違った作品だ。 何とも云えない味わいを残す作品だ。 小説家が小説家を語る時、そこには小説家自身が投影されているだろうと思えるが、レンデルは英国女流ミステリ作家としてP・D・ジェイムズと比肩する一流作家であるのに対し、本書に登場するアーサー・ケストレルは新作が発表されても批評家も取り上げない売れない作家であるところが興味深い。 本作はそんな不遇な小説家がヒットを放つ、というような話ではなく、あくまでレンデルはシビアに描く。 ファンタジーのシリーズ小説を発表しながら、決して書評に挙げられることはなく、毎月数多出版される作品群の中に埋没するだけ。従って毎回作品を発表した後は鬱に見舞われ、家に引きこもる。それを繰り返す。 そして初めて書評に挙げられた作品が最後の作品となる。 レンデルの第3集目となる短編集は1985年に本国イギリスで刊行された物で、バーバラ・ヴァイン名義であるの第1作『死との抱擁』が発表される前年に当たる。 ヴァイン名義の作品は犯罪を扱いながらも純文学に寄り添った作風であるのが特徴だが、その志向が滲み出ているせいか、本書収録の作品も純文学に寄り掛かったミステリが多いように思える。内容的には人間の心が思いもかけない行動を起こす物が多いように感じるのだ。 それは各編が男と女の関係の纏わる皮肉な結末を扱っているからだ。 特殊な不倫関係、別れた妻との再会を望む男、出征中の夫を持つ妻の不倫、曰く付きの家を購入した夫婦、父親の敵の浮気現場を見つけた息子、家主に隠れてセックスを交わす若い男女、40を超えたカップルと息子離れしない母親、価値観の違う夫婦、綺麗になった妻に子供と一緒に逃げられやしないかと恐れる夫。 そして内容は自分を変えたと錯覚したがゆえに陥った過ちだったり、幼い頃のトラウマとなったことが年月を経て判明した事実で自分の抱いた推測が確信に変わったり、噂だと一笑していたのにいつの間にかそれに取り込まれてしまったり、プライドを護ろうとしたことが相手に格の違いを見せつけられ、卑しき虚言者に陥る者や相手の寛容さを利用して金を騙し取ろうとしたが逆に罠に嵌る者もいる。 その中でも最も変わったのが「狼のように」に出てくるコリンとその母親だ。 後半に行くと更に真相は曖昧になる。 例えば「フェン・ホール」と「父の日」がそれに当たるだろう。 収録作品中男女の情愛がないのは「時計は苛む」と「ケファンダへの緑の道」だ。 前者は仲の良い老人仲間の話でそこにしかしそこには長らく築いた友好関係が存在するのだが、微罪によってそれが崩壊する、実に皮肉な様が描かれている。 後者は売れない小説家が初めて自作を批評される話だ。 この「ケファンダへの緑の道」が本短編集の中の個人的ベストだ。 全ての作品に共通するのは錯覚であれ、疑問であれ、懸念であれ、それらは最初はほんの些細な火種に過ぎない事だ。それがしかし各人の心の中で肥大し、暴走し、そして取り返しのつかないほどまで成長する。そしてそれが過ちへと繋がる。 それは我々一般読者でも抱くような小さな火種で決して他人事ではない。つまり日常と非日常の境は斯くも薄い壁で遮られているのだということ思い知らされるのだ。 しかし各編ページは少ないながらもなかなか入り込むのに手間取った感がある。長い物でも30ページ前後でほとんどが20ページ前後と実にコンパクトだ。 しかしそれでも読むのに時間がかかったのはレンデルの創作作法にある。 導入部がいきなり渦中から始まるため、各登場人物の設定やシチュエーションが頭に入ってこず、把握するのに何度も読み返す必要があったからだ。しかも案外各編の設定は特殊なため、なかなかその世界に入り込むのに苦労した。きちんと状況は書かれているが、数ページしてようやく設定が判ってくるため、それまでの地の文などに書かれた時間軸や場所、更に登場人物の相関関係、果ては性別までもが後からついてくる形となり、結構手こずった。 しかしそんな困難さが逆に物語の味わいを深めるのも確か。特に最後に収録された「ケファンダへの緑の道」を読むと主人公の口から小説をいかに読むかを示唆され、また悪意ある書評に対する作者への非難も行間から読み取れ、レンデルが目の前で訓辞を垂れているかのような錯覚までに陥る。 そしてこの作品の結びのように作者の思いが読者に届くことこそ小説家の本望だろう。私にはその思いは確かに届いた。 しかし作者の思いが届くには物語が読み継がれなければならない。レンデルの死後、彼女の作品の大半が絶版状態で読めなくなっている。英国女流ミステリ作家の大御所だった彼女でさえ、そんな 悲惨な状況だ。 今なお未訳作品も多いレンデル=ヴァイン。是非ともジョン・ディクスン・カーのようにいつか全作翻訳され、そして新訳復刊されるようになってほしい。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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レンデルのバーバラ・ヴァイン名義の4作目のノンシリーズ作品で1990年の作品。もう30年も前になるのか、1990年は。
ヴァイン名義の作品はミステリ要素よりも人間心理をメインにしたミステリ要素の薄い、どちらかと云えば純文学寄りのものが多いが、本書は今でいうBL小説だ。 列車への飛び込み自殺をすんでのことで止められた鬱病の青年ジョーとそれを止めたモラトリアムな青年シャンドーがそれをきっかけに同居生活を始め、やがて富豪の妻の誘拐計画を企てる。 ただそれだけではなく、彼ら2人がターゲットとしている富豪の妻側にも恋物語がある。 離婚し、娘を男手1つで育てるシングルファーザーのお抱え運転手ポールと富豪の妻ニーナがやがて心通わせ、恋に落ちる。 片や同性愛、片や身分違いの道ならぬ恋と、90年代初頭ではまだ前衛的な恋愛と恋愛小説の王道がないまぜになった作品である。 しかしヴァイン名義の作品はとにかく書き込みが多くてじっくりと物語が進むのが特徴だが、本書もまたなかなか物語が進まない。 シャンドーとジョーが富豪のアプソランド邸に偵察に行けばお抱え運転手に見つかるわ、屋敷の警護の難攻不落振りを思い知らされるわ、運転手を内通者にしようとするが呆気なく断られるわと全く進展しない。途中で彼らの計画に参加するジョーの里親の娘で姉のティリーに痛烈にそのことを指摘されてバカにされる始末だ。 そしてこのティリーが仲間に加わることでようやく彼らの計画は進展する。 またお抱え運転手ポールと富豪の妻ニーナの恋もなかなかに進展しない。かつて教師だったポールはいつしかニーナに恋をしていることに気付かされるが、聖職者の経歴が一線を越えることに制約を掛ける。ニーナにどうなってもいいから自分の思いを告白しようと何度も思うが、出来ないでいる。主人が出張で海外に行き、子供も外出し、そして他の使用人も留守にしている絶好のチャンスでも、最後の一歩が踏み出せないでいる。 結局その一線を越えさせたのはニーナからの言葉だった。彼女の後押しでようやく彼は正直に思いの丈をぶつけるのである。 このポールはほとんど侍である。この異常なまでのストイックさは我慢強さか度胸無しかのどちらかである。 いや両方が彼にあったからこそのじれったさに繋がったのだろう。 しかし私はこのニーナのサインに思わず遥か昔の自分にあったことを思い出してしまった。 それはまだ小学生の時だった。習字の教室のクリスマス・パーティの席でのことだ。私は生来のひょうきんぶりをその教室では発揮していたのでいわばそこでは人気者だった。だから出し物がある時はいつも先生が私に声を掛けて何かやれとけしかけた。そして私もそれが嫌ではなく寧ろ待ってましたとばかりに色んなことをしたものだった。 確かそれは私が6年生の時の、最後のクリスマス・パーティの時のことだったと思う。1コ下の女子が自分から歌いたいと車座になった中心に出たのだった。その子は普段は大人しくてとてもそんな人前で歌うなんてことをする性格には思えなかったのでみんな意外に思ったが、先生も勿論そんな彼女の出し物を喜んで、歌わせた。 その子は大勢いる中のなぜか私の方に向かって一生懸命に歌った。その時彼女が何を歌ったのかは正確には覚えていないが、当時流行っていた松田聖子の歌だったように思う。その子は半ば潤んだ瞳で私の方を見ながら訴えるように歌ったのだ。小学生だった私はそんな一途な瞳を見て恥ずかしくなり、おどけて見せたものだったが、やっぱりあれは私に対しての一種の愛の告白だったのではないかと思うのだ。 その後彼女と話もしなかったし、何かあったわけでもないのだが、ニーナのポールに対して見せた数々のジェスチャーを読んでその時の瞳を思い出してしまった。 閑話休題。 誘拐を企てる者と誘拐されようとする者。この2つの相反するグループには奇妙な符号が見える。 題名のギャロウグラスは作中の登場人物シャンドーの話ではアイルランドとスコットランドの西高地で使われていた言葉で族長に仕える家来のことを指す。これは富豪アプソランドの妻の誘拐を企てるシャンドーが命を救った鬱病の青年ジョー・ハーバートがこのギャロウグラスになるが、実はもう1人ギャロウグラスがいる。それはアプソランドの運転手ポール=ガーネットだ。 更にシャンドーとジョーのコンビに新メンバーとしてジョーの姉ティリーが加わるが、このティリーとシャンドーがお互い求め合う関係になる。そしてジョーは一旦蚊帳の外に置かれる。 しかしこの三角関係は堅牢なものでなく、ジョーを要としてそれぞれが自分の立ち位置を誇示するかのように、つまりシャンドーとティリーは我こそがリーダーであると自らの賢さを誇示するかのようにマウンティングが応酬されるのだ。 そして一方のアプソランド側はいつしか恋仲になってしまったポールとアプソランドの妻ニーナ。お互いはもはや自分たちの秘めたる想いを隠さず、忍ぶ逢瀬を重ねながらもアプソランドに本心を告げてその許から離れる決意まで見せる。 しかしニーナとポールの関係に介入する三角関係の残された一辺はアプソランドではない。それはポールの愛娘ジェシカだ。 離婚の末に自分の許に残された娘ジェシカをこの上なく愛するポールはしかしニーナの自分への愛情を知るとあれほど目に入れても痛くもない娘の存在が次第に希薄になっていく。寧ろニーナに逢いたい思いが募るあまり、2人の時間を取るために娘が外出することを喜びだす始末だ。しかし一方に傾きかけたこの歪な三角関係も1つの事件で変化を見せる。 新しい恋の始まりと娘との愛情の天秤を強引に一方へ傾けさせ、更にそれをまたもう一方へ傾けさせるこの展開。まさに悪魔的だと云えよう。 これはヴァイン=レンデルの十八番とも云うべき皮肉な展開だ。 そしてそれまでストイックな侍と思われたポールが娘の誘拐の電話に対して警察に届け出るでもなく、ニーナに相談するでもなく、ただ狼狽えて酒へと逃げるに至り、単純に優柔不断な男だったことに気付かされる。 とにかくこのポール=ガーネットという男。実に煮え切らないじれったい男なのだ。 ニーナに惚れながらもなかなか本心を出さず、結局ニーナ本人の口から一緒にいたいと云わせてようやく恋仲になるかと思えば、犯行の報せを受けても警察へ通報せず、どにか1人で解決しようと考えるが、思い悩むだけで何一つ行動を起こさない。 一族の中で唯一大学を出て教職に就き、伴侶を手に入れながらも結局はその両方を失い、お抱え運転手の職に就く、いわば堕ちた男だ。何1つ決断せずに来たことが彼の現在の境遇を作ったといえるだろう。 そしてもう1つ興味深い存在がニーナ誘拐を企むシャンドーという男だ。彼は親の仕送りで生活しているモラトリアムな男なのだが、妙に体裁を気にする。 一緒に暮らすことになったジョーには最初親が仕送りしてまで家から出したかった男だ、癪に障るからこっそりクレジットカードの家族カードを作ってやった、これで色々買い物してやろうと悪ぶれながら、実は母親はこの一人息子を溺愛し、クレジットカードで買い物していることも了解済みだったことが解る。 つまり彼は何不自由なく幸せな境遇であることを他人に見せることを厭う性格なのだ。 いや母親のことを嫌いではないのだが、母親に愛されて世話をされていることを人に知られるのを嫌う男なのだ。私に云わせれば思春期がまだ続いている男である。 また自分が常に上位に立たないと気が済まない人間でもある。自分の思い通りにならないことに極端に腹を立てる。そんな時に彼は剃刀を使って気に食わない存在を切りつける。拾ってやったジョーはパートナーというよりもやはりギャロウグラス、つまり家来としか見ていない。 そして一方のジョーは自分にはない物をたくさん持っているシャンドーに心底惚れ、彼のために尽くすことを厭わない。だから彼が自分を追いだして自分たちの部屋でティリーとセックスをしても自分が好きな2人がそれほどまでに仲良くなったことに喜びを見出す男なのだ。 このジョー・ハーバートといい、シャンドーといい、ポール=ガーネットといい、そしてニーナの夫アプソランドも加え、総じて本書に登場する男は大人としての未熟さをどこかしら備えている。 対照的に登場する女性陣、ニーナ、ティリー、そしてポールの娘ジェシカまでもが達観した考えを持っている。やる時にはやる、そんな覚悟を備えた人たちなのだ。 いやあ、女性は強い。 やがてニーナの誘拐をどうにか成し遂げた後、我々は本書に書かれた真のギャロウグラスが誰だったのかを知る。 そしてそのニーナにも運命の皮肉が待っていた。 またもやヴァイン=レンデルの運命の皮肉がここに繰り広げられた。 困難を乗り越え、新たな人生を掴もうとした矢先に訪れる悲劇。男を手玉に取った女性には真の幸せなど訪れないということなのか。 人は誰かを必要とし、そして誰かに必要とされて生きている。そう思って生きている。 ジョー・ハーバートはシャンドーに必要とされて生きていると思っていたし、ティリーは金を必要とし、そのためにシャンドーを必要とした。 誰しも誰かのギャロウグラスなのだ。それを生き甲斐にしている。 しかし本当に誰かのギャロウグラスなのかを知ることは実は生き甲斐を奪う危うさを孕んでいることを本書はまざまざと見せつけたのである。 貴方には必要とされる人はいるだろうか? そしてその人は本当に貴方を必要としているのだろうか? それを知ることは止めた方がいい。それはとても恐ろしい事だから。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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ホロヴィッツがコナン・ドイル財団からホームズ譚の正典の続編を書くことを公認された作家であることは『絹の家』の感想に述べたが、本書はそれに続く第2弾の続編に当たる。
そして大胆不敵にもホロヴィッツはホームズとワトソンを一切登場させず、脇役であり道化役でもあったスコットランド・ヤードの一警部アセルニー・ジョーンズとアメリカから来たピンカートン探偵社の調査員フレデリック・チェイスを物語の主人公に据えた。 前作『絹の家』はホームズとワトソンによる真っ当なホームズ譚であったが、本書はホームズがモリアーティ教授と格闘の末にライヘンバッハの滝に落ちた直後から始まる。 モリアーティ教授と手を組むためにアメリカからイギリスへ渡ったアメリカの犯罪組織の首領クラレンス・デヴァルーを追ってロンドンまでやってきたピンカートン探偵社の調査員フレデリック・チェイスとモリアーティ教授を追ってスイスに訪れたスコットランド・ヤードの警部アセルニー・ジョーンズがコンビを組んで、ライヘンバッハの滝から上がったモリアーティ教授の物と思われる遺体から出てきた奇妙な手紙を発端に正体不明の犯罪者デヴァルー逮捕に向けて捜査を行うといった趣向で、ホームズとワトソンは一切彼らの捜査には関わらない異色な作品になっている。 そう、本書ではホームズの世界観をバックに2人の主人公が縦横無尽に活躍する内容になっている。 とはいえ登場するのは正典に所縁のある人物ばかりで、本書で主役の1人を務めるアセルニー・ジョーンズは『四つの署名』に登場したスコットランド・ヤードの警部である。 本書では親切なことに訳者による本書で登場するスコットランド・ヤードの面々が正典のどの作品に出たか詳しいリストがついている。 このアセルニー・ジョーンズ、私自身は忘却の彼方であるのだが、実は正典では無能ぶりが強調された警部として描かれているようだが、本書では実に緻密な観察眼と推理力を持つ、おおよそ正典では存在しえない優秀な捜査官ぶりを発揮する。 私は当初彼は滝に落ちて亡くなったと見せかけたホームズが成りすました人物だと思っていた。というのもその推理振りはホームズのそれを想起させるものであり、更に足が悪くて休み休みでないと歩けないという描写があることから、怪我がまだ治り切れないホームズであると思われ、更に彼の台詞「たとえそれがどんなにありそうにないことでも、問題の本質として充分考慮しなければならない」はホームズのあの有名な台詞を彷彿とさせるからだ。 しかし彼が妻による夕食をチェイスに招待する段になってその確信が崩れてしまう。 そしてその妻エルスぺスがチェイスに語る、彼が正典で被った屈辱から徹底的にホームズを研究して彼に比肩する頭脳明晰な捜査官になろうとしていることが明かされる。 つまりは本書においてのホームズはかつてその名探偵とその助手によってコテンパンに揶揄われることに一念発起して切磋琢磨したスコットランド・ヤードの警部である。いわば彼はホームズシリーズにおける「しくじり先生」なのだ。 上記のようなことも含めてシャーロック・ホームズのパスティーシュ作品である一方で批評小説でもある。語り手をピンカートン探偵社の調査員フレデリック・チェイスにすることで部外者の視点からホームズ譚について疑問を投げかける。 例えばライヘンバッハの滝でホームズとモリアーティ教授は対決するが、わざわざ敵の首領自身がスイスくんだりまで乗り込んでホームズと対決することが解せないとチェイスは問う。 更にホームズがこの後身を隠して自分が死んだことに見せかけようとするのも理解しがたいと述べる。 加えてその後セバスチャン・モラン大佐が突如現れて崖を下るホームズに岩を次々と投げ落とすのもなぜモリアーティ教授が格闘している時に加勢しなかったのかと問い質す。 まあこれはドイルが無理矢理ホームズシリーズを終わらそうとしたが、読者の猛抗議に遭って無理矢理再開したことの弊害を指摘しているだけなのだが。 更にスコットランド・ヤードの警察官たちの中にはホームズの推理に疑問を持つ者をいることが描かれる。 曰く、筆跡から書いた者の年齢まで解るものだろうか、歩幅で身長を本当に推定できるのだろうかと云い、今になると彼の推理は何の科学的根拠もない荒唐無稽な代物だとまでこき下ろす。 更には今までさんざんバカにされてきたことに腹を立てたりもする。 つまりホームズに頼ってきたスコットランド・ヤードの警部が物語の中心になることで警官たちのこれまでホームズという奇人に対して募ってきた本音が描かれるのである。 更に毎度同じことばかり云って恐縮だが、ホロヴィッツは読み度に実に器用な作家だなと思わされる。 例えば作中に大文字と小文字の入り混じった手紙が登場するが、それは大方の予想通り暗号なのだが、それを読み解くプロセスは正典の暗号小説「踊る人形」を彷彿とさせるのだ。 また正典の「赤毛組合」で登場した犯罪者ジョン・クレイとダンカン・ロスが本書に登場し、デヴァルー一味の逮捕に一役買う。しかし彼らの末路は何とも哀しいのだが。 しかしつい先月読んだ島田氏の『新しい十五匹のネズミのフライ』でも正典の「赤毛組合」が下敷きになっており、何とも奇妙な偶然に見えざる手による導きを感じざるを得ない。 物語はその後意外な展開を見せる。 それまでスコットランド・ヤードの警部とピンカートン探偵社の調査員の物語だったのが最後になって題名となっているモリアーティの意味が立ち上ってくるのである。 そう、これは緻密な頭脳を持つ犯罪者モリアーティの恐ろしさを知らしめる物語である。 最後に付されたホームズのパスティーシュ短編「三つのヴィクトリア女王像」には再びホームズと共に長屋に住む年輩の夫婦が侵入した泥棒を殺害したことを発端にそこに住む3軒からそれぞれヴィクトリア像が盗まれる奇妙な謎を追うアセルニー・ジョーンズの話が添えられる。 そこに登場するジョーンズは他のホームズ譚同様にホームズの明晰な推理によって事件の解決がなされ、白旗を挙げる典型的なスコットランド・ヤードの警部像があるだけだ。そこにはチェイスが幾たびも感心したジョーンズの姿はない。しかしそれでも彼がホームズに憧れる契機となった若き肖像が写し出されている。 これは全くの私見だが、シャーロッキアン達を筆頭にするホームズ作品の愛好家たちが好むホームズのパスティーシュ作品は正典で名のみさえ出ながらも語られなかった事件や正典の中で触れられた出来事に由来する物語、即ち正典の隙間を埋める作品が好まれ、更にそれらをもう作者の筆によって読めなくなったホームズとワトスンの活躍を再現しているような作品が高く評価されているように思える。 従って本書のようにホームズの世界観をベースに置きながら主人公は別のコンビであるような作品は、例えその一方が正典に登場するスコットランド・ヤードの警部であっても評価が高くならないのではないか。 彼ら読者にとってやはり読みたいのは本家のホームズとワトスンによる新たな活躍なのではないだろうか。 そう思うのは先月に読んだホロヴィッツの『絹の家』や島田荘司氏の『新しい十五匹のネズミのフライ』どちらもホームズとワトソンが主人公になったパスティーシュでどちらも『このミス』でランクインしているからだ。 そして本書の後、ホロヴィッツはホームズのパスティーシュ作品を2020年現在書いていない。それは本書の出来栄えにコナン・ドイル財団がお気に召さなかったのか、それともホロヴィッツ自身の意志によるものなのかは解らない。 本書はホロヴィッツが一ミステリ作家としてのオリジナリティを発揮することを試みた野心的な作品であることは想像に難くない。しかしそれは実にチャレンジングな内容であった。 この結末の遣る瀬無さを世の中のシャーロッキアンやホームズ読者がどのように捉えたのか。それが今なお彼が次のパスティーシュ作品を書いていない(書けてない?)答えのように思えてならない。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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スカイ・クロラシリーズ4作目の本書での語り手はクリタ・ジンロウ。そう、1作目では既に戦死しており、その機体を引き継いだのがカンナミ・ユーヒチだった。
1作目では明かされなかったクリタ・ジンロウの死と草薙の絶望についてようやくこの4作目で語られるのかという思いでページを捲った。 予想できたことだが、草薙水素は前作にも増して絶望している。彼女は会社のロールモデルとして生きることを強いられ、死と隣り合わせの空中戦闘に参加させられないことにフラストレーションをため込んでいる。 そして物語の終盤で語られる草薙水素の驚愕の秘密。 さてとびとびに読んでいるこのシリーズはそれまでの登場人物が密接に関わり合ってくるのできちんと備忘録として残しておかねばならない。 フーコは1作目から登場する女性で『スカイ・クロラ』では娼婦頭だったが本書ではクリタ・ジンロウの恋人(?)だ。 『スカイ・クロラ』でカンナミのパートナーとなる土岐野も本書で登場し、1作目で語られていたようにクリタのパートナーである。 そして本書のキーを握る人物相良亜緒衣は草薙の知り合いの医者だった人物だ。 また前作で草薙の取材をしていた新聞記者の杣中も登場する。 新たな登場人物としては草薙水素の異父妹でクサナギ・ミズキが登場する。但し風貌はまだ幼い少女だ。 そして情報部のコシヤマという人物も登場する。 これらの人物が今後の物語にどのように関わってくるのかもこのシリーズの興味の1つだ。 戦闘機のパイロットは常に死と隣り合わせだ。出発前に元気だったからと云ってそのまま基地に還ってくるとは限らない。 しかしそれでもなお彼ら戦闘機のパイロットは空を飛ぶことを止めない。その理由が本書には思う存分書かれている。 それは彼らが到達する天上は鳥さえも飛ぶことができない不可侵領域だからだ。その空と宇宙との間の澄み切った世界に入れるのは彼らパイロットの特権だからだ。 彼らが飛ぶのは敵と戦うためだが、そこに命のやり取りという意識はない。 彼らは存分に彼らしか到達できない世界で自由に飛んで戦うことを愉しむことができるからこそ飛ぶのだ。 そこで彼らは地球の重力からも解放され、全き自由が得られるのだ。この自由、そして不可侵の空にいることの無敵感こそが彼らに至上のエクスタシーをもたらす。 その純粋さは恐らく新雪のゲレンデを一番乗りで滑るスノーボーダー達が感じる喜びの数百倍に匹敵するのではないだろうか。 だから彼らは命を亡くすかもしれない戦闘機パイロットの職を辞めない。 例え敵に撃墜され、命を喪うことになっても、何物にも代え難い空での自由の前では死すらも安く感じるのではないか。 もしくは永遠の命を持つキルドレは普通に生活していれば無縁の命の危機をパイロットとなって戦闘に関わることで死を意識するスリルを味わうことができる。 あるいは長らく生きていることでもはや死を望んだ彼らが永遠の眠りを手に入れるために敢えて死地として空を選んだ者もいるだろう。 戦闘機乗りは地上では穏やかだが、空に出ると戦闘的になる者が多いと作中には書かれている。戦うことが礼儀だからだと語り手のクリタは述べる。 つまり彼らは命の駆け引きなしで空を飛ぶことに満足できなくなっているようだ。 敵を撃墜すると気分はハイになるとも書かれている。 人の命を奪ったのに彼らに残るのは“人を殺した”という罪悪感ではなく、敵を撃ち落としたという即物的な喜びだ。 一方で仲間が撃墜されるとその喪失感でしばし呆然となる。そんな時の食堂は閑散としているが、パイロットたちは彼らの死を偲ぶのではなく、寧ろ新しい人員がいつ補充されるかを考えているだけだとクリタは述べる。それはやはり自身も戦闘機に乘る駒の1つに過ぎないと思っているからだろう。 クリタ曰く、草薙水素が笑うのは空の上にいる時だけらしい。その時の彼女は実に愉しそうに、そして嬉しそうに笑うようだ。 そんなエピソードが草薙水素の絶望を更に引き立てる。 そして本書の最大の焦点である語り手クリタ・ジンロウの末路はどうなったのか? 1作目の『スカイ・クロラ』では草薙水素がクリタ・ジンロウを殺したとあり、それは彼が永遠の命を持つキルドレという呪縛から解放されたいがためにクリタが死を選んだとあったが、本書に登場するクリタは永遠の命を持つキルドレであることを寧ろ受け入れ、飛行機に乗りたいからキルドレであることを選び、死にたくないと公言している。 果たしてこの真逆なクリタの心情がいかにして180°変わるのか、興味を覚えながら読み進めた。 Flutter Into Life、“生への羽ばたき”とでも訳そうか。戦闘機乗り達は自分たちの生を実感するために命を喪うかもしれない空の戦場へと向かう。 この大いなる矛盾はもはや理屈ではなく、戦闘機乗り達が持っている共通項なのだろう。 命を賭けてまで辿り着きたい場所がある。その場所でしか味わえない自由がある。 草薙水素もクリタ・ジンロウも、そして黒猫こと元ティーチャも生きるために死地へ向かい、飛びたがっている。 生きている限り、彼らは飛び続けたいのだ。 ハリケーンや台風が訪れる前後の夕焼けは紫色に染まるという。本書の表紙が紫色なのはクリタ・ジンロウと草薙水素に大いなる人生の転換という嵐が、空を飛べなくなった災難が訪れたからだろうか。 願わくば草薙水素をもう一度空へと飛ばしてほしい。 しかしもはや残された空の色は哀しい色しかないのだろうか。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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コナリーの新しいシリーズの幕開けで新キャラクター、レネイ・バラードの初お目見えとなった。
ハワイ生まれのまだ独身の女性刑事はかつての上司を告発したことでその上司からハリウッド分署に飛ばされ、そして深夜勤担当になった。 仕事を終えると中古で買った白いヴァンを駆って、預けていた愛犬ローラを引き取ってビーチに出かけ、パドルボードをし、そしてビーチに設営したテントで寝た後はまたローラを預けて出勤する。そして仕事着のスーツは分署のロッカーに全て保管しており、職場で着替える。どうやら家を持っていないようだ。 また彼女は深夜勤担当に追いやられても決して腐ってはいない。寧ろ一刑事として事件を最初から最後まで追いかけたいと強く願う女性刑事だ。 彼女がトランスジェンダーの男娼殺人未遂事件の容疑者を突き止めたと確信した時のアドレナリンが体内から沸々と湧き上がるような高揚感を覚える様はボッシュが悪を突き止めた時と全く同じだ。彼女はこの瞬間を、快感に似た感覚を得られるからこそ左遷されようが警察を辞めようと思わないのだ。 そんな彼女のパートナーであるジョン・ジェンキンズは有能なベテラン刑事だが、癌に侵された妻の介護のために深夜勤刑事になった異色の存在だ。しかし彼は刑事としての常識を備え、“レイトショー”の自分たちが昼勤刑事たちへ事件を引き継ぐ宿命の存在であることを受け入れ、出しゃばったことをしない。あくまで妻のことを第一に思い、事件に深入りせず、残業せずに帰宅する。 こういう風に書くとサラリーマン刑事のように思えるが、そうではなく、自分の役割をわきまえた刑事であり、レネイの相棒でありながら先生でもある存在だ。 そして今回バラードが関わった事件の内、ナイトクラブ<ダンサーズ>で起きた銃殺殺人事件の陣頭指揮を執るロバート・オリバスはロス市警本部の強盗殺人課警部補だ。 彼はクリスマス・パーティーでバラードにセクハラを働き、それを告発されるが権力で強引に取り下げさせ、彼女を花形のロス市警の強盗殺人課からハリウッド分署の深夜勤刑事へと左遷した男だ。 そして彼はレイトショーに携わる刑事を無能と見なしている。ボッシュシリーズでのアーヴィング的存在だ。 そしてかつてロス市警時代のレネイの相棒ケン・チャステインは上昇志向の持ち主で彼の上司オリバスがバラードに告発した時に自らの地位と将来を重んじてオリバス側に着いた男だ。ちなみに彼はボッシュシリーズの『エンジェルズ・フライト』で殉職したジョン・チャステインの息子だ。 息子のケンは警察官であった父を尊敬し、道半ばで殉職した父親の無念を晴らすが如く、上の地位を目指してきた。 しかし彼はそうすることである程度の地位に就き、そしてやがて機密事項にも触れられる立場になったことで父親ジョンの死の真相を知り、ショックを受ける。 それがさらに彼の上昇志向に火を着ける。 このチャステインを筆頭にロス市警を舞台にしているだけあってハリー・ボッシュシリーズとのリンクがそこここに見られる。 『死角 オーバールック』と『ナイン・ドラゴンズ』でボッシュの上司を務めたラリー・ギャンドルがロス市警の強盗殺人課指揮官として登場し、物語の後半ではバラードが関わった事件で起こったことに対するカウンセリングを、ボッシュのカウンセラーでもあるイノーホスが受け持つ。 さてこの新ヒロイン、レネイ・バラードが関わる事件は大きく3つある。 1つは老人から盗んだキャッシュカードでネットショッピングを行い、商品の横流しをして金稼ぎをしている詐欺事件。 もう1つはホームレスの男娼ラモナ・ラモネを悪辣な暴行で瀕死の重体に負わせた犯人を追う暴行事件。 そしてナイトクラブ<ダンサーズ>で起きた5人が殺害された銃殺事件。 最初の詐欺事件は容疑者を逮捕することでレネイは初めて事件を最初から最後まで務めることになる。 次の事件ではなんとバラードが犯人に拉致監禁され、前妻と共に殺されそうになる。これについて後で述べよう。 このナイトクラブ事件の犯人を特定するのにまたもや新しい鑑識技術が出てくる。VMDというその技術はメッキのように薄い金属被膜を利用して平坦でない表面に付着した指紋を抜き取るというものだ。やはりドラマ『CSI』を意識しているのだろうか、コナリーは。 この犯人を挙げるまでのミスリードはなかなかのものだが、今回は案外彼を犯人と目する伏線が張られていたので予測が着いた。 しかしレネイ・バラードはよくよく男性にモテる魅力を備えているようだ。上に書いたように元上司のオリバスはクリスマス・パーティーで彼女の口に自分の舌を強引にねじ込もうとするセクハラを働くし、一緒に捜査に携わるようになった州保護観察官のロブ・コンプトンも彼女に魅かれ恋人になる。またパドルボード仲間のアレックスにも誘いを掛けられ一夜を共にするし、<ダンサーズ>殺人事件の被害者の1人ゴードン・ファビアンの弁護士ディーン・タウスンからも誘いを受ける。 ボッシュも女性にモテるが彼は男性で誘う側だ。一方バラードは女性で誘われる側である点が異なる。もしかしたら将来バラードもボッシュと一緒に捜査をするとなると彼から誘われるのかもしれない。 また余談だが事件の被害者の1人、クラブのウェイトレスのシンシア・ハデルがシンダーズ・ヘイデンという芸名でウェイトレス役でドラマの<BOSCH/ボッシュ>に出演していたというお遊びがある。 またあの有名な音楽プロデューサー、フィル・スペクターがバーで引っ掛けた女性を殺害したとは知らなかった。その時のクラブでの現場調査は41時間に上り、ロス市警での最長記録らしい。 閑話休題。 警察は身内が被害に遭う事件に対して異常に闘争心を燃やす。それは市民の平和と街の治安を守る危険と隣り合わせの苛酷な境遇下で置かれる者同士の絆が堅牢であるからだろう。 正直に告白すれば待ちわびたコナリーの新作ということで期待が高まったのと、新シリーズの幕開けということでの不安が入り混じった中での開巻となり、最初はボッシュシリーズで馴染んだハリウッド分署とロス市警を舞台にしながらもいつもと異なる登場人物たちに戸惑い、なかなか物語に入り込めなかったが、流石に物語の中盤に差し掛かり、レネイの追う事件の容疑者が判明し、さらに蚊帳の外に追いやられている<ダンサーズ>銃殺事件からの疾走感はコナリーならではのリーダビリティーをもたらしてくれた。 特に物語の中盤を過ぎた頃の、男娼暴行事件の容疑者トーマス・トレントに拉致され、全裸で監禁された時の決死の抵抗は鬼気迫るものがあった。満身創痍の中、全身全霊を傾けて犯人に打ち克つ姿は身の震える思いがした。 そこからはもうレネイがボッシュでなくともそこまでにコナリーの描写も相まって逆境にも挫けない女性刑事の肖像が立ち上り、いつの間にか彼女を応援する自分がいた。 少しルールを逸脱してまでも自分の欲するものを手に入れようとする、朝になれば昼勤刑事に手掛けた事件を引き継がなければならない、つまり自分の事件を最後まで全うできない宿命にある“レイトショー”の刑事レネイ・バラードのタフさは読んでて気持ちいいものを感じた。 ボッシュ同様、部下に持つと苦労させられる刑事ではあるが。 またもやコナリーは現代アメリカの警察小説のトップランナーに恥じぬ仕事をした。出すたびにベストセラーランキングに躍り出て、そして傑作を書き続けるという高いハードルを越えて見せた。それもレネイ・バラードという魅力的なヒロインを引っ提げて。 いやはやコナリーの筆は衰えるどころか魅力ある女性刑事を主人公に添えることで今まで男臭い刑事の物語に涼風を与えることに見事に成功した。 新しいシリーズキャラクターを迎える不安は最後のページを閉じる時には次作への大いなる期待に変わっていた。 まだコナリーを読む喜びはしばらく続きそうだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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新しいシリーズ、即ちGシリーズの開幕である。Gは恐らくギリシャ文字がタイトルに冠せられているからGreekのGの意味か。
しばらく退場していた西之園萌絵と犀川創平が再登場しているのでこのシリーズでは主役を務めるらしいと思いきや、探偵役は別の人物だった。 物語の中心人物はN大の生徒ではなく、国枝桃子が助教授として勤めているC大学の学生で国枝の研究室に入っている大学院生の山吹早月と同じ大学の2年生で加部谷恵美と海月及介の3名が務める。 このうち、加部谷恵美が西之園萌絵と繋がりがある。確かS&Mシリーズの『幻惑の死と使途』にちらっと登場していたように記憶している。調べてみたらその時はまだ中学生だった。 因みに西之園萌絵はN大学の大学院でD2であり、明確には語らないが既に犀川創平とは結婚しているようだ。 西之園萌絵は彼らが遭遇する密室殺人事件にいつものように興味本位から関わるが、実際に探偵役を務めるのではない。 彼女は愛知県警との太いパイプを活かし、これまた再登場の鵜飼と近藤、三浦たち捜査官から捜査状況を提供してもらい、それを要求に応じてこの3人に提供する。そしてその中の1人である海月及介が真相を解き明かす。 この3名の役割は山吹早月(因みに男性)が語り手を務め、加部谷恵美はコメディエンヌとしてこの3人の中で色々な推理を開陳しつつ、袖にされながらもめげずに2人についていく。Vシリーズでの香具山紫子のような位置づけで、少々ウザい。 そして探偵役である海月及介は大学2年生でありながら、実は山吹の中学時代の同級生である。2年ほど世界を旅していた後に大学に入学した変わり種。いつも本を読んでおり、必要以上のことはしゃべらず、また頷くといったジェスチャーもそれと気付かないほど小さな男でとにかく無駄を極限的に排除する性格の持ち主。周りが事件のことを話していても積極的に関わったりしない反面、必要なことは聞いており、真相を看破する。つまり常に頭は思考でいっぱいという人物だ。西之園萌絵曰く、犀川創平に似ているとの評。 さてそんな彼らが初めて遭遇する事件は森博嗣ミステリではお馴染みとなった密室殺人事件だ。 マンションの一室で広げた両手を紐で吊らされて、作り物の翼を身に着けた状態でナイフを胸に刺されて殺されたN芸大学生の他殺事件だ。マンションは鍵が掛かっており、しかも管理人代理をしていた山吹が鍵を開けると立て掛けて積み上げられていた箱が倒れてきたのでそこからの脱出は不可能。そしてその他の出入り口として考えられるベランダも鍵が掛けられた状態という完全なる密室。しかし両手を吊るされた被害者は自分の胸を刺すことは出来ないため、明らかに他殺としか考えられない。 しかもマンションの鍵は電子ロックで簡単に合鍵が作れず、居住者の被害者が持っている2つの鍵は両方とも室内にあった。 そして奇妙なことに室内にはビデオカメラが据えられており、被害者発見時の様子が録画されていた。 そしてそのテープには「Φは壊れたね」という奇妙なタイトルが付けられていた。 以上が今回の事件だが、真相を読めば何とも思わせぶりだけで終わったミステリだったというのが正直な感想である。 事件の真相はもはや森ミステリ定番となったように全てが明かされることはない。 そして山吹が事件の真相を解明した海月と話していた時に駅のフォームから突き落とされたのは正直蛇足でしかないだろう。山吹が事件の真相を見抜いたわけでないし、また突き落とされたのが海月だったとしても犀川創平が真相を見抜いていたようなので犯行が明るみに出るのも時間の問題だ。 彼らを排除することで事件の真相を分からなくしたようだが、全く何の意味もなさない。恐らくは素人が殺人事件に関わることの危うさをアクセントとして加えたのかもしれないが。 そんなモヤモヤとした気分で読み終えた本書だが、この森ミステリ特有のスッキリしない感は海月の台詞に垣間見られる。これが森氏のミステリに対するスタンスであると私は感じた。 ミステリに登場する素人探偵は警察に頼まれずに勝手に推理して事件をさも解明したかのように振る舞うが、それは推論であり、事件を直接解決したことにはならない。それはあくまでその人本人による解釈であり、1つの予測、予感に過ぎない。そして犯人を指摘することは極めて原始的で一種の犯罪であると考えても間違いないだろう。 つまり素人探偵が解き明かす真相というのはあくまで1つの解釈に過ぎない。それを真相だとするのはおかしいし、暴論であり、それが元で犯人が捕まるなんてことは現実問題としてあり得ない。証拠があり、証人がいて初めて事実が犯人を決定するのだということだ。 そしてそんな本当のことなど解りはしないのだというのが森氏のミステリ観なのだろう。 しかしそれはあまりに現実的な話だ。 現実社会で何か事件が起こり、もしくは納得のいかないことがあってもそれが数学のようにきちんと割り切れた形で終わるのはごくごく少数に過ぎない。大半はうやむやな形で幕引きされる。誰も責任を取りたがらないからだ。 しかしだからこそ物語の世界ではきちんと割り切れてほしいのだ。決着が着き、結論が出てほしいのだ。 モヤモヤした思いが残った新シリーズの幕開け。 果たして彼ら3人はかつてのシリーズキャラを超える活躍を見せてくれるのだろうか。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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2015年、私が最も驚いたのは御大島田荘司氏がホームズ物のパスティーシュを著したことだ。彼のホームズ物のパスティーシュと云えば直木賞候補にもなった『漱石と倫敦ミイラ殺人事件』が有名だが、それが発表されたのが1984年。
そう、実に30年以上の時を経て再び島田氏がホームズ物のパスティーシュを発表したのだ。 なぜ今に至って御手洗潔シリーズのモデルとも云える彼の原点であるホームズ物のパスティーシュを著したのかが私にとって不思議でならなかったが、BBCドラマの『シャーロック』の放映をきっかけに昨今ホームズ物のパスティーシュが映画、ドラマのみならず国内外で発表されており、そのいずれもが正典をリスペクトした上質なミステリになっていることがもしかしたら御大のホームズ熱を触発して書かれたのかもしれない。 そして私はホロヴィッツのドイル財団公認の“正式な”ホームズシリーズ続編である『絹の家』に続けてホームズ物を読むことになった偶然にまたもや運命の意図を感じてしまった。 さて今回島田氏が紡いだパスティーシュはなんとあの有名な「赤毛組合」の事件がホームズを誤った推理に導くように画策された事件だったというもの。その裏側では更に別の犯罪計画が潜んでいたという、まことに大胆不敵な内容だ。 今までホームズのパスティーシュは数多書かれているが、それらは正典の中から登場人物やら事件やらをエピソードとして語るに過ぎなかったが、短編そのものをミスディレクションに使用した作品はなかっただろう。 島田作品の長編には本筋に関係したサブストーリーが結構な分量で収められているのが特徴だが、上に書いたように今回はそのサブストーリーがなんと「赤毛組合」1編がまるまる収められている。ドイルの生み出したシャーロック・ホームズとワトソンから御手洗潔と石岡和己のコンビの着想を得た島田氏がとうとう師匠の作品を下地に更なる高みを目指した本格ミステリを生み出すに至ったことに私は感慨深いものを覚えてしまった。 また先に読んだ『絹の家』でもそうだが、ホームズ物のパスティーシュには正典からのネタが織り込まれているのが常道だが、本書もその例に洩れず、いや洩れないどころか島田荘司氏の奔放な想像力で読者が予想もしていなかった使い方をしている。 そういう意味では上に書いた赤毛組合の使い方も島田流のアレンジだと云えるだろう。 また『絹の家』でも感じたことだが、私はいわゆるシャーロッキアンではないので本書に織り込まれたネタを十全に理解しているとは云えない。従って本書の中には正典に含まれていたかどうか不明なネタもある。 今回は麻薬中毒で全く使い物にならなくなったホームズに代わってワトソンが事件解決に乗り出すというものだが、本書で描かれるワトソン像は御手洗シリーズの石岡君そのものだ。 ホームズ抜きでホームズ短編を独自のアイデアで書いたことを誇らしげに思えば、今までのホームズ作品の中で一番の駄作と断ぜられ―因みにその作品は「這う人」というもの―、亡くなった兄の妻に交際を申し込めば、貴方にはもっといい人がいると云われて断られ、涙で枕を濡らすいじけぶりを見せる。 また一方でホームズはどうかと云えば『漱石と倫敦ミイラ殺人事件』でも見られたように、島田氏はシャーロッキアンでありながらも自作で登場させるホームズをヤク中で奇怪な行動が目立つ変人として描く。 特に赤毛組合の事件を解決した後のホームズの体たらくぶりはここまで書いていいのかと思うほどひどい有様だ。 さて本書の最大の謎はタイトルにも冠されている「新しい十五匹のネズミのフライ」が何を意味するのか、そしてどうやって詐欺グループは難攻不落と云われる刑務所から脱獄できたのかの2つだが、この真相はなかなか面白かった。 いやはや作者は当時御年65歳だが、まだまだこんなミステリネタを案出する柔軟な頭を持っていることに驚かされる。 但し幸か不幸かこの一月でホームズのパスティーシュ物を2作続けて読むことになり、どうしてもその2作を比べてみてしまうのだが、ホームズの作風を、いやドイルの作風を忠実に再現しているとすればやはりホロヴィッツの『絹の家』に軍配が上がるだろう。 島田流ホームズのパスティーシュは上に書いたように本家をモデルにして書かれた御手洗シリーズのテイストがどうしても滲み出ており、正典の2人の性格や為人が島田流に料理されている感が否めないからだ。 さて最後に興味深く思った一節にちょっと触れよう。 ワトソンが自ら自信作として放った「這う人」がひどい駄作だと評されて世にも出なかったのに対し、編集者に急かされてホームズの奇行を基に無理矢理書いた「まだらの紐」が大絶賛を受けたことに対してワトソンは読者の好みというのが解らなくなったと漏らす。 それをホームズは全ては嘘八百であり、そんな嘘に読者は真実を見る、だから誰も何が受けるのかは解らないから他人の評価に一喜一憂する必要はないと説く。 これは今まで数多くの作品を放ってきた作者自身が抱き、目の当たりにした傑作と凡作の見えない境についての心情のように思えた。 常に作家は全力投球をしているがどうしても礼賛される作品とそうでないものが現れる。そして作家はどんな作品が受けるのかと研究を重ねるが、渾身の作品が世評が低かったときにショックを受け、落ち込み、もはや何を書いたらいいのかが解らなくなる。それがスランプへと繋がるのだろうが、結局傑作か凡作かは受け手である読者がどのように思うのかによるので誰も解らないのだと作家生活を40年近く続けている島田氏が説いているように思える。 そして今やネットで簡単に本の感想を公共の場で云い合える環境にある中で、作者の創作意欲を喪失させるようなひどい感想が散見されることもあるが、そんなものは気にせず、己の信じた道を進めばよいと諭しているようにも感じた。 本書が島田氏にとってどんな位置づけの作品なのかは解らないが幸いにして発表当時本書は『このミス』に久々にランクインを果たした。恐らく作者自身自信作として放ったが、あまり受けないことをも想定して上のようなことをワトソンの口を借りて話したのかもしれない。 恐らくこの島田荘司という作家は死ぬまで本格ミステリのことを考え、新しい力を支援し、そしてそれに負けじと自らも作品を発表し続けるに違いない。 まだまだこんな作品が書ける島田氏をこれからも私はその作品を買い続け、そして読み続けるつもりだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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少年スパイアレックス・ライダーシリーズで日本に紹介されたホロヴィッツが年末のミステリ界のイベントであるランキング本に初めてランクインしたのが本書である。
つまり本書は初めてホロヴィッツがミステリ読者に認知されることになった作品でもある。 日本人というのはなぜかホームズのパスティーシュ作品に目がないようで、いわゆるシャーロッキアンと呼ばれるホームズマニアが多くおり、日本シャーロック・ホームズ・クラブなるものまである。そしてそういう方たちの中には自らホームズのパスティーシュ作品を手掛ける者もおり、本書の解説をしている北原尚彦氏はその第一人者である。彼の作品はまさに正典を読んでいるかのように忠実にシリーズの文脈や雰囲気を再現しているが、本書もまた同様に正典を読んでいるかのような錯覚に陥るほどの出来栄えだ。 それもそのはずで実は本書は通常のパスティーシュに留まるものではなく、コナン・ドイル財団から正典60編に続く61編目のホームズ作品として公式認定された続編なのだ。 そんな大業のためにホロヴィッツは自ら本書を書くに当たり、10箇条を設定し、その中の1つに19世紀らしい文章表現をすることを課していたのだ。 今回ホームズが手がける事件は≪ハンチング帽の男と絹の家≫と呼ばれる事件で時期としては『シャーロック・ホームズ最後の挨拶』所収の「瀕死の探偵」事件以後に当たる。その内容はアメリカでの取引でギャングにつけ狙われることになった美術商の依頼で彼の身辺をつけ回すハンチング帽の男の正体を探ることに端を発し、その男の行方を探らせたベイカー街別動隊の1人が殺害される事態まで発展し、さらにその捜査の中で浮上した“絹の家(ハウス・オブ・シルク)”なる不明な言葉の謎を探るうちにいつの間にか国際的な陰謀に巻き込まれるという実に壮大な事件である。 ホロヴィッツはそれまでのホームズ物にない、ベイカー街別動隊の仲間の死と“絹の家(ハウス・オブ・シルク)”の謎が英国政府機関からも口止めされるほどの機密事項であることから彼の兄マイクロフトの助けさえも借りられなくなるという大きな試練を与えている。 そしてこのベイカー街別動隊の一員の死がその後作品でベイカー街別動隊が登場しない理由となっている。即ち子供を事件捜査に携わらせて危険な目に遭わせることをホームズは禁じたのだ。恐らく正典ではアクセントとして登場していたに過ぎないであろうベイカー街別動隊の登場について上手く理由づけまでするのだ。 またワトスンの妻メアリの死の前兆などにも触れられていたりと、こんな風に本書ではそこここにシャーロッキアンをくすぐるような演出や情報が取り込まれている。これも作者自身が積極的に正典から主な登場人物を意表の着く形で登場させると10箇条の1つとして入れているからだ。 従って本書の中に登場する数々の人名や事件の数々は正典とのリンクが多々見られ、生粋のシャーロッキアンならばニヤリとするに違いない。私もホームズシリーズは全て読んだものの、あいにくシャーロッキアンほどの記憶力と知識を備えておらず、どこかで聞いたことがあるがどの作品だったのかと記憶を掘り起こしてはみるもいささかも思い出す気配のない始末だった。 そしてワトスンによる序文にこの事件が今まで語られなかったのはホームズの名声を傷つける恐れがあることとあまりにおぞましく、身の毛のよだつ事件であったこととある。 往々にしてこのような話は読者の気を惹きつけるために煽情的に書かれ、実際はさほどと云ったものが多いが、本書はその言葉が示すように確かに今までのホームズ譚にはなかった、刺激的で痛烈な真相が暴かれる。 蓋を開けてみればイギリスの政界がひっくり返るような大スキャンダルと執念深いアメリカ・マフィアの意外な正体、その他色んな事実が判明する痛烈な真相であった。 まさにホームズ生前では語るのを躊躇われる悍ましい事件だった。 しかしホロヴィッツ、実に器用な作家である。複雑怪奇な事件を案出し、更にそこここに正典で語られる事件のネタを放り込みつつ、更に今回の時制がホームズが亡くなって1年後という回顧録の体裁を取っていることで、リアルタイムでホームズの活躍を綴っていた時には語れなかったワトスンの心情が思い切り吐露されており、それがまた実に面白い。 ホームズの引き立て役となったスコットランド・ヤードのレストレイド警部の作中での扱いに対するお詫びにベイカー街別動隊が必ずしも清廉潔白な一味ではなく、貧民窟で育った子供なりに手癖が悪かったことや彼らの生活環境が“最底辺”と呼ぶに相応しい劣悪な環境に逢ったこと、ホームズの兄マイクロフトに抱いた印象とその後の彼について、そしてホームズ最後の敵となったモリアーティ教授との邂逅と彼による刑務所に入れられたホームズの救済への意外な助力と、まさに「今だからこそ云える」話が盛り込まれている。 しかし一番驚いたのがホームズシリーズでも随一の人気を誇る『バスカーヴィル家の犬』のストーリーの流れを擬えたかのような展開だ。 あの作品では一旦ホームズは捜査の舞台から退き、しばらく語り手のワトスンだけの捜査になる。本書もまた同様に捜査の途上で亡くなったベイカー街別動隊の1人ロス・ディクスンの仇討ちとばかりにアヘン窟に乗り込んだホームズがその姉を銃殺した容疑で逮捕され、ワトスンは一人での捜査を強いられる。 『バスカーヴィル家の犬』ではホームズはロンドンでの別の事件の捜査に携わなければならない事態で一旦退場するのに対し、ホロヴィッツは本書でホームズ逮捕、しかも目撃者多数で「ハウス・オブ・シルク」という禁断の領域を侵そうとする彼の殺害計画が進行しているという絶体絶命な状況を演出するのだ。 そして彼が単に器用な作家に留まらず、センス・オブ・ワンダーを持っている作家であることが今回よく解った。 正直私は島田氏の作品を読んでいるかのような錯覚を覚えた。 また冤罪で捕まったホームズが脱獄する手法もホームズが変装が得意であることを上手く活かしてサプライズをもたらしている。また刑務所からホームズが脱走するシチュエーションはある意味ルパンへのオマージュではないかと思ったりもする。 また男娼の施設の名称が「ハウス・オブ・シルク」である理由もよく練られている。 まさに続編と呼ぶに相応しいホームズ作品だった。そしてそんな大仕事を見事にこなしたホロヴィッツはまさにミステリの職人である。こんなミステリマインドを持った作家が日本ではなく、英国に今いることが驚きだ。 さてこの職人、次はどんな仕事を見せてくれるのか、愉しみだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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天童荒太氏の名を世に知らしめたのが3作目の『永遠の仔』であることに論を俟たないが、そのブレイクへの大いなる助走となったのが、家族全員を陰惨な方法で殺害する、何とも陰鬱な事件を扱った本書だ。この2作目で天童氏は97年版『このミス』で8位になり、初のランクインを果たした。
本書で扱われる事件はタイトルから想起されるそのものズバリの一家惨殺事件だが、その内容は愛に不器用な者たちの痛々しいまでの物語だ。心から血を吐くほどに狂おしいまでにそれは痛々しい。 それに触れる前に本書で扱われる一家惨殺事件について触れよう。とにかくその内容は想像を超える凄惨さを極めた残酷ショーだ。 最初の一家惨殺事件では全裸にされて手足を縛られ、背中合わせに転がされた夫婦が声を出さぬよう、テニスボールを喉に入れられた状態でノコギリで全身を何度も切り刻まれながら拷問され、最後に喉をノコギリで切られて絶命した様が描かれる。更に母親の方は鋏で右の乳房を抉り取られてもいる。 もう1人老人がいるが、掌を釘で椅子の腕木に打ち付けられ、更に頭を金槌で打ち付けられて頭部が陥没している。 更に発見者の巣藤浚介が見ている最中に左の眼球が零れ落ち、その眼窩から大量の蛆虫が流れ出るという食事前には決して読みたくないような状況が描かれる。 もう1つの家族は更に凄惨を極める。 同じく裸にされ、椅子に針金で縛られた状態で灯油を掛けられ、火を付けられたかと思うと3秒くらいで濡れた毛布で消され、再度灯油を掛けられ、また火を着けられ、毛布で消されを繰り返される。父親は上半身を、母親は下半身を燃やされては消されを繰り返され、この世の物とは思えない苦痛の中で死に絶える。死体はもはや誰かも解らない炭と化した肉塊と成り果てる。 そして最後の生贄になった夫婦は裸で椅子に座らされた状態で首を足首に電気コードで繋がれた状態で、夫は柳刃包丁で皮膚を刮ぎ取られ、妻は安全ピンを深く刺された状態で乳首から臍まで皮膚を引き裂かれる。 こんな常軌を逸した凄惨な事件を捜査するのが杉並署の刑事馬見原光毅。かつては捜査一課のエース的存在だったが、今は所轄署の書類仕事専門の閑職に就いているこの男もまた家族が壊れた男だった。 馬見原は厳格で理不尽な警察官の父親に育てられた。この父親は暴君的な存在であり、母親はそんな父親の横暴ぶり、理不尽な仕打ちにも家長を立てる古風な女性で、些細なことでぶたれても逆に夫に自分をぶたせるようなことをしてしまった自分が悪いと謝る始末。もちろん馬見原自身もぶたれることがしょっちゅうだった。 しかも父親のことを褒め称えた作文が小学校で賞を受け、喜んで父親に報告した馬見原の目の前で下らんと母親を叱り、更にはその作文を破るまでした。それ以外でも長男である彼は弟や妹たちよりも一層厳しく育てられた。 本書で語られる馬見原の少年時代に被った親の躾は度が過ぎており、もはや虐待だ。 そして長じて馬見原は父親と同じ警察官になり、現役時代ずっと巡査長のままで終わった父親とは違うと仕事にのめり込み、実績を上げ、名刑事の名をほしいままにする。 更に息子を厳しく育て、息子もその期待に応えるかのように目上の人間に敬意を払い、礼儀を重んじ、成績も優秀になる。しかし馬見原はそんな息子を褒め称えず、もっと上を目指すよう厳しさを緩めない。それでも馬見原の期待に応えるが、偏差値の高い進学校への入学が決まった中学の卒業パーティーでアルコールを飲み、今までの父親からの抑圧から、鬱屈から一気に解放されたかのようにバイクを乗って暴走し、事故死する。 そのショックで今まであまり目を掛けてもらえなかった娘は馬見原を恨み、非行に走り、暴走族に入って補導され、少年院に入るまでする。その後更生し、結婚して子供も設けるが、父親の馬見原を忌み嫌い、父と呼ばず、「こいつ」と呼ぶ。 そして妻の佐和子は馬見原の母親と同様に古風で従順な女性であり、息子の死と非行に走った娘について馬見原が全て彼女のせいにすることを受け止めたが、少年院で賞を獲った彼女の作文が送られた時、それを夫に読ませたがっていた佐和子は眼前で馬見原がその作文を破り捨てたのがトリガーとなり、とうとうリストカットをして精神を病んでしまう。 しかしそういった不幸な境遇は解るものの、本書における馬見原の行動は決して褒められたものではない。 自分に対して理不尽なまでに育てた父親が自身に行った酷い行動―褒められた作文を破り捨てる―を同様にするように結局自身も忌み嫌った父親と同じ人間に成り下がってしまう。作中児童相談センターの氷崎から親失格の烙印を押されるが、それだけでなく、夫失格でもある。 自分を忌み嫌う娘真弓との接し方が解らず、彼女の夫が自分の子供、つまり馬見原の孫を抱かせようとするがそれを頑なに拒否する。まるで家族の修復を厭うように。 更に精神病院から退院し、薬の影響もあって躁状態にある佐和子の変貌ぶりに戸惑い、以前のような従順さを潜在的に求めて、決してやってはいけない、常に彼女を怒鳴りつける言動を繰り返す。そして彼女がきちんと毎日薬を飲んでいることやリハビリに定期的に行くように面倒を見なければならないのに事件の捜査と、以前の事件で知り合った冬島綾女親子の方を優先し、逃避する。冬島綾女こそが従順であり、そして儚げな美人である馬見原の理想の女性であることから精神不安定で支えなければならない妻を置き去りにして、彼女の息子を入院するまで虐待し、その廉で刑務所へ送り込んだ元夫油井の魔の手から護るためと称して逢瀬を重ねる。 更には暴力団からみかじめ料を請求する悪徳警官でもある。 つまりおおよそ読者の共感を得られない、警察官としてでなく、上に書いたように親、そして夫失格、いや人間として失格な人物なのだ。 その馬見原が世話をする冬島綾女と研司親子は精神病の妻を抱え、息子を喪い、自暴自棄に警察の仕事を続ける馬見原の心のオアシスといった存在だ。 綾女は馬見原が好む従順な古風の女性であり、研司は彼をお父さんと慕う。彼女らは暴力団の元夫油井の家庭内暴力で苦しんでいるところを馬見原に救われ、そして離婚するところまでお世話になった親子でそれ以来馬見原が面倒を見ているが、いつしか馬見原の中で理想の家族となり、また綾女も馬見原を慕い、身体の関係を持つまでになっている。 馬見原はこの親子に昔壊れた自分の家族が戻ってきた、もう一度一からやり直したいという願望を見出しているように思える。そして精神病の妻佐和子の世話から逃れる駆け込み寺のようにも。 その妻佐和子は治療と薬により躁状態だが、かつて自分に従順な尽くす姿を知っている馬見原には別人のように写る。そのため、馬見原は自分で面倒を見ると云いながらも捜査と出所した油井から冬島親子を護るためと口実を設けて次第に佐和子の許から遠ざかっていく。そして佐和子は仏壇から夫が冬島親子と河口湖で取った写真を見つけ、馬見原が自分から離れていくのを知り、再び精神を病んでいく。 また奇しくも一家惨殺事件の生徒たちが自分の学校のせいとだったことで事件に関わりを持つようになる美術教師巣藤浚介は最初は女性との付き合いはするものの、結婚は煩わしいと感じる、恋はすれど愛を軽んじる軽薄な男として登場する。しかし彼は生徒の1人芳沢亜衣と、その後自分の学校の生徒2人が一家心中のような形で惨殺される事件に関わることで自分がもしかしたら事件を早期に発見できたのでは、未然に防げたのではとの悔恨の念を抱き、次第に愛情について、特に親と子のそれについて深く考えるようになる。 児童相談センターの氷崎游子は職務のためには自らの命も投げ出す覚悟を持った女性だ。彼女もまた介護する父親がおり、それが原因なのか独身でいる。 そして芳沢亜衣。親の期待と自分のことを理解されない、愛がほしいのにどうして抱き締めてくれないのかと心の中で叫びながら、表面では口汚い言葉で周囲の人間を罵り、部屋を無茶苦茶にし、自傷行為も行い、どんどん荒んでいく女子高生。 正直私はこの登場人物が一番理解できなかった。 周りがとにかく気に食わないから蔑み、罵倒し、ありもしないレイプの事実をでっち上げ、人を犯罪者に仕立て上げようとする。そしてどんどん心は荒み、夜毎起きては冷蔵庫の前で獣のように食料を漁っては食べ、それらを全て吐き出すことを繰り返す。 彼女がそんな風に心が荒んでいくことになった原因は祖母が原因で喧嘩が絶えなかった夫婦がいざ祖母が亡くなっても仲良くなるわけでもなく、逆に自分がいい子になれば幸せになり、愛してくれると一流校進学を果たしてもさほど変わりがなく、寧ろ目標が無くなったことで虚しさを感じるようになり、自分が価値のない存在だと思うようになったからだ。 しかし私はただこれだけのことで本書に彼女のようにおかしくなっていくのだろうかと疑問に思わざるを得ない。彼女は思春期の女子高生の不安定な心情が極端に振り切った存在として描かれているだけなのだろうか。 物語は連続する一家無理心中事件を殺人事件として追う馬見原の捜査と次第に精神を病んでいき、エスカレートする芳沢亜衣と馬見原佐和子、そして学校を追い出されながらも児童相談センターの氷崎2人で就かず離れずの状態で事件と関わっていく巣藤浚介の日々で進んでいく。 また作中では白蟻と家庭崩壊した家族の類似性について語られる。 白蟻はある日オスとメスで一緒に家に飛来し、そこで結ばれ、たくさんの子供を産む。その生んだ子供たちは食料を求め、家をどんどん食いつぶしていく。やがて一戸の家に飽き足らず、周囲の家へと移り、どんどん被害は拡大していく。 一方で崩壊した家庭の子供も同様だ。親子の関係が上手く行かなくなった子供は幸せに暮らす子供を妬み、虐めを繰り返し、そして自殺に追い込む。または悪い遊びに誘って非行の道へと歩ませる。さながら一軒の家に寄生した白蟻のように、その影響は他の家族へと波及していく。 本書は1995年の作品。つまり28年も前の小説である。 まだファミコンが人気を博し、携帯電話は普及しておらず、ポケベルが出先での連絡手段だった頃の時代の話だ。 しかし本書に描かれる家庭内暴力、児童虐待の痛ましいエピソードの数々は20世紀から21世紀になった今でも、平成から令和になった今でも全く変わらない。 寧ろ改善されるどころか、毎日児童虐待による幼い命が奪われる哀しいニュースが流れる始末。 この世は全く変わっていない。四半世紀を経ても児童の教育は色々な変化を行ったが、親子の抱える問題はいささかも解消されない。 いやもしかしたらそれまで報道されずにいただけであって、最近の高度情報化社会で一億総情報提供者となった現代だからこそ今まで隠蔽されていた事件の数々が明るみに出るようになったのか。 本書の登場人物はどこかみな狂っている。 いつの間にか子供が親に従わず、暴力を平気で振るうようになり、我が子に怯える家庭に、そんな家族を惨たらしい方法で拷問するように殺害する犯人、その事件を追う刑事もかつて自分も厳しく育てた息子を自殺行為の事故で亡くし、その責任を妻に負わせ、狂わせた男だ。 そして理解されず愛情に飢えながらも耳を覆いたくなるような罵詈雑言を浴びせ、事実無根のレイプをでっち上げ、教師一人を辞職に追い込みながらも獣のように足掻き苦しむ女子高生。 刑事の夫になかなか向き合ってもらえないから動物を殺して幸せそうな家の前に捨てる事件を起こして犯人である自分を捕まえるために駆け付けさせようとする妻。 誰一人まともな人間はいない。 社会に適合しようと振る舞いながら、自らの感情をむき出しにして衝動的な怒りと不満、エゴをぶつけ合う人々たちばかりだ。 しかし彼らもまた虐待をされてきた人間だったのだ。 因果は巡る。 親の云うことが絶対だった日本に根付く厳しい家父長制度。云うことを聞かなければ殴る、蹴るが当たり前の時代。それが今なお親から子に引き継がれ、暴力を家庭から拭い去ることができなくなっているのだ。 愛が欲しい、自分の方へ向いてと叫ぶ一方でどうして自分の思い通りにしないのかと突き上げられる憤怒と衝動を抑えきれず、思わず暴力を振るいながらも誰かこんな自分を止めてほしいと願う人々がいる。 普通であることの難しさ、幸せを維持することの難しさ、そして我が子を育てることの難しさが本書には凝縮している。 また物事の表と裏についても考えさせられる。 例えば馬見原が子供を立派に育てるために厳しく接し、それに応え、どんどん人格者として成長していった息子がちょっと羽目を外しただけで実は鬱屈をため込んでおり、暴走して事故死する。 これらは良かれと思ってした行為が実はそれを受ける人々には実は苦痛以外の何物でもなかった難しさを思い知らされるエピソードだ。 しかし最も恐ろしいのはそれら登場人物の中に自らの影が見いだせることだ。 でも私の家族はまだこれほどひどくないと安堵して本を閉じながらも、いやもしかしたら近い将来…と不安になりもする。何とも魂に刺さる物語である。 人生が苦痛と苦難を伴うものだと見せつけ、それでも生きていくことの難しさを刻み込まれる。 今度家に帰ったら子供たちを抱きしめてあげたい。そうする衝動に駆られる心が痛む物語であった。 児童虐待事件が連日報道される今こそ読まれるべき、心が痛む小説だ。 しかしこの作品は『永遠の仔』を経て心境が変化した作者にて文庫版では改筆されているらしい。私はそちらも持っているので読んでみるつもりだが、どんな内容であれ、上に書いた児童虐待に対する強いメッセージが残されてほしいと願うばかりだ。 児童虐待、家庭内暴力。これらが撲滅されるまで我々人類はどのくらいの時間があと必要なのか?いや過去に暴力を受けた大人たちがいる限り、この負の連鎖は無くならないのではと令和になった今でも思わざるを得ない。 その証拠に今日もまたそんな虚しくも哀しいニュースが流れてきたではないか。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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カー初期のシリーズ探偵アンリ・バンコランのシリーズ最終作が本書。悪魔的な風貌と犯罪者に対して容赦ない仕打ちを行う冷酷非情振りに皆が恐れた予審判事も本書では既に引退した身であり、温厚な性格になり、しかも洒落者とまで云われた服装は鳴りを潜めてくたびれた服を着ている。
しかし名探偵の最終巻とはなぜこのように似通っているのだろうか。 私は引退し、かつての切れ味鋭さが鳴りを潜めてくたびれた隠居然―地元警官からは「かかし」のような男とまで呼ばれる―としたアンリ・バンコランの描写を読んでホームズやドルリー・レーンを想起した。それらに共通するのは全盛期ほどのオーラは感じられないものの、腐っても鯛とも云うべき明敏さが残っている。つまり老いてなお名探偵健在を知らしめるための演出なのだろうか。 さて死んだ高級娼婦は短剣で刺殺されたはずなのに、事件現場には短剣以外にもカミソリ、ピストル、睡眠薬と3つの異なる凶器が残されている。本書はその題名からもこの奇妙な状況が取り沙汰されているが、もちろん本書の謎はそれだけではない。殺害された高級娼婦を取り巻く人々や背景事情も複雑に絡んでいるのだ。 事件はどんどん色んな方向へと展開し、そして迷走していく。 さてそんな1人の遺体の周囲に4つもの異なる凶器が転がる不可解な状況の真相はまさにカーの特徴であるインプロヴィゼーションの極致とも云うべきアクロバティックな内容だった。 そしてこんな偶然と即興の産物による奇妙な状況をバンコランが名探偵とは解き明かすのはいささか無理を感じずにはいられない。ほとんど神の領域の全知全能ぶりである。 そんな複雑な事件を考案したことを誇らしげに語り、そして作品として発表するカーの当時の本格ミステリ作家としての矜持と野心と、そして気負いぶりが行間からにじみ出ている。 私の中で疑問に残っているのは本書の結末の意味だ。 本書には事件の真相を自分の中に落とし込むための解きほぐす作業と最後の件の意味を考える、読んだ後にも尾を引く要素がある。 あと最後に触れたいのは今やディーヴァーのリンカーン・ライムシリーズでお馴染みとなったロカールの法則が本書に出てくることだ。 恐らくディーヴァー作品を読む前に本書を読んでいたらスルーしていた内容だが、逆にその後だからこそカーの時代からこの法則が有名だったことが判ったのが収穫だ。 バンコランシリーズは本書で最後になり、私もカー読者になって約四半世紀でこのシリーズを全て読んだことになった。 とはいえ、ジョン・ディクスン・カー及びカーター・ディクスン作品読破にはまだ至っていない。 東京創元社にはこれからも長らく絶版となっているカーの諸作の新訳刊行を続けてもらいたい。大いに期待する。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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少年スパイアレックス・ライダーシリーズ第3作目の舞台はウィンブルドンからコーンウォール、マイアミにキューバ、そしてロシアへと目まぐるしく移り変わる。巻を重ねるごとにそのスケールも本家007シリーズ並みに大きくなってきているようだ。
そして前作に引き続き導入部でのアレックスの最初のサブミッションが含まれているが、前作『ポイントブランク』では学生相手の麻薬の売人を無茶ぶりを発揮して捕まえる内容だったのに対し、今回はMI6のクロウリィからの依頼であることが異なる。導入部から既にMI6の任務となっている。 そしてその内容はウィンブルドン選手権での中国の秘密結社が仕掛けた、オッズを引き上げるための選手への妨害工作を見破るという物。これ1つで既に1話ができるようなハードな任務となっている。更にこの任務がアレックスがあれほど嫌がっているMI6の任務を呑ませるための楔となっている。 アレックスはCIAのスパイと協力してキューバにある元ロシアの将軍アレクセイ・サロフのアジトに潜入することになる。 そう、今回はスパイ小説でお馴染みの共産圏への潜入任務なのだ。弱冠14歳の少年にとってかなりハードな任務である。 そんなアレックスを同行させてまで危険な場所に潜入するCIAの目的はサロフが核爆弾に利用できる濃縮ウランを大量に仕入れたとの情報を受け、その情報の真偽を確認するもの。 ただこういう異色のチームという設定にはありがちなように、CIAのベテラン工作員でアレックスの両親役を務めるトム・ターナーとベリンダ・トロイと14歳の新米スパイ、アレックスの相性は抜群に悪く、CIAの両者は自分たちの実績を誇示してアレックス不要論を唱えるばかりだ。 このようないわゆる犬猿のバディ物ではいがみ合っている者同士があることがきっかけでお互いを認めて、1+1=2以上の効果を発揮する展開になるものだが、本書ではそんな定石通りの展開を見せず、アレックスは機転と持ち前の身体能力を活かして2人の窮地を救うのにも関わらず、彼の欠点である、オーバーワークによる損害を謗られ、なかなか認めてもらえない。 そう、またもやアレックスは孤独な戦いを強いられるのだ。 そしてアレックスは今回拷問に掛けられ、敵から執拗な訊問を受ける。CIAが潜入してきた目的についてコンラッドから問われるが、通常のスパイならば任務のために命を落とすことを選ぶがさすがに14歳のアレックスにそれを求めるのは酷だ。14歳の未熟さゆえに、やりたくもない仕事をやらされている恨みつらみがぶり返し、彼はスパイとしては失格である任務の詳細を嘘偽りなく明かすのだ。 この辺は大人の私から見れば14歳の少年スパイらしい展開だが、少年少女がこのアレックスの行動についてどのように思うかが逆に気になるところだ。 そんなアレックスが挑む相手アレクセイ・サロフの陰謀を読んで慄然としたのはもしこのサロフが云うムルマンスクに無数の―本書によれば100隻―原子力潜水艦が遺棄されており、最も古い物で40年前―本書の原書刊行時2002年時点―の老朽化した、いつ放射能漏れが起きてもおかしくない潜水艦もあるということだ。 もしこれが本当ならば世界は大変なことになるだろう。そしてそれが真実ならばロシアはチェルノブイリの悲劇から何も学んでいないことになる。 またこれらは冷戦時代の遺物であり、いわば負の遺産だ。そしてこれらをきちんと処分するのが国の務めであり、そして世界の務めであるのだ。 このアレックス・ライダーシリーズはジャンルとしては少年少女向けの読み物だが、本書に含まれた世界の危機は大人たちも是非とも知っておくべき事実であろう。 さてこのシリーズはもはや007シリーズのように秘密兵器と特徴ある殺し屋の登場が定番となっているが、前者はアンテナが針のように飛び出し、武器となる携帯電話と唾液と反応して爆薬となるチューイングガム、さらに一時的にショックを与えることのできる閃光弾となるマイケル・オーエン人形―きちんと作者は本人に許可を貰っているんだろうか?―がアレックスに与えられる。 後者はコンラッドというサロフの忠実な下僕だ。ノートルダム寺院のせむし男の如き、醜悪な姿をしたこの男はかつては過激なテロリストだったが仕掛けるはずの爆弾が輸送中に爆破して吹き飛ばされたが、大手術の末に全身を縫い合わされ、どうにか回復し、現在のような風貌になったのだった。 いわばフランケンシュタインのような歪んだ性格の男とアレックスは最後に決闘することになる。 また第1作ではクォッド・バイクでのチェイス、前作がスキーでの雪山チェイスと本家007風味を盛り込んできたこのシリーズだが本書では出るべくして出た海でのスキューバダイビングでの潜入行、そしてお約束通りのホオジロザメとの格闘とやはり期待を裏切らない展開が待ち受けている。 本書では両親のいない、そして唯一の血縁であった叔父のイアンをも喪った天涯孤独の14歳アレックスが親という存在を意識する物語でもある。 ウィンブルドンでの任務中に知り合い、友達以上の仲になったサビーナに旅行に招待されたアレックスは昔からの付き合いであるかのように自分に接する彼女の両親に、自分にもこのような両親がいればと思いを馳せる。 14歳と云えば思春期の只中にあり、反抗期である。従って自我に目覚めつつある彼ら彼女らにとって両親とはいつまでも自分たちを子ども扱いする煙たい存在として映り、疎ましく思うのだ。 しかしアレックスにはそんな反抗をする親がいない。彼が反抗するのはボスの冷血漢アラン・ブラントだ。彼は権力者であり、いつもアレックスを逃げ場のない状況に追い込んで無茶な任務を呑ませようとする。反抗期の少年少女にとって親が越えるべき壁・障害であるならば、アレックスにとっての親代わりは局長のアラン・ブラントになるのだろう。 但し学校と私生活、仕事と私生活での顔が異なるように、なかなかそれが上手く行かないのも事実だろうが。 そして無気力になったアレックスを救うのは今回親しくなったサビーナだった。両親も血縁もいない天涯孤独の身であるアレックスにとって頼れるべき存在は友達もしくは恋人しかいない。アレックスにサビーナという相手ができたことは彼がこの後成長するためには必要なステップだった。 またそれは危険な任務に就かされるアレックスにとって護るべき存在ができたことでもあるのだが。 さて今後サビーナとアレックスの仲がどのように発展していくのかが気になるところだが、次作の『イーグルストライク』は単行本で刊行されているものの文庫化はされてなく、もちろん単行本は絶版状態だ。従って私のアレックス・ライダーシリーズも本書が最後となる。 『このミス』、『本格ミステリ・ベスト10』、週刊文春ミステリーベスト10でそれぞれ『カササギ殺人事件』、『メインテーマは殺人』、『その裁きは死』、『ヨルガオ殺人事件』が1位を獲得し、最新作の『殺しへのライン』も上位を占めるなどホロヴィッツはいまや最も勢いに乗った海外ミステリ作家と云っても過言ではないだろう。 従って今こそホロヴィッツの作品が読まれるのに最適の時であるから、このアレックス・ライダーシリーズもまた再評価の気運が高まるのではないか? そんな期待をしつつ、近い将来次作の『イーグルストライク』が文庫化されることを期待したい。 ただまだまだ助走状態。少年向け007シリーズの域を脱していない本書を以てホロヴィッツの真価を評することはできないだろう。次からが私のホロヴィッツ本体験となるのは必定。 さてどんなミステリマインドを見せてくれるのか、非常に愉しみである。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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