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Tetchy さんのレビュー一覧

Tetchyさんのページへ

レビュー数1418

全1418件 481~500 25/71ページ

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No.938:
(7pt)

舞台と登場人物が違うだけでは…

都会を舞台にマフィアややくざの世界を描いてきた馳氏が選んだのはなんと北海道の根室。
都会の喧騒もなく、ネオンもなく、はたまた民族が入り組んだ抗争もない。ただ北海道という地特有の事情、ロシア人を相手に利鞘を得る人々がいるという現実。一見大人しそうな街ながら裏ではお互いがお金を奪おうと虎視眈々と狙っている、陰湿な社会だ。

そんな町を舞台にした物語は至ってシンプル。東京のやくざの金を持ち逃げしたロシア女性のヒモをかつて根室で相当のワルと評されていた男が追ってくるという話。

その男山口裕司は自分の思い通りにならないと気が済まないタイプ。そして買った恨みは死ぬまで忘れない。子供の頃に受けた侮辱でさえも、大人になってまでもそれをネタに強請り、たかる男だ。
それを可能にするのは圧倒的なまでの暴力。威嚇ではなく、後先考えずに欲望のままに振るわれるから、誰もが恐れて止まない。それ故、裕司は街にとって災厄の元凶なのだ。

一方その片割れとされていた内林幸司はお互いの境遇が似ていた裕司と幼き頃に知り合ったのが間違いの始まりだった。一方が露助船頭の息子と蔑まれ、他方はアル中やくざの息子と忌み嫌われていた。幸司は裕司の暴力を恐れ、嘘をついて逃れていた。お互いがお互いを憎む間柄ながらなぜか離れられない奇縁を持つ二人。

と読んでて思ったのはこれはいわゆる成長したジャイアンとスネ夫の物語ではないか!
クライマックスの極限状態の中、幸司はある心理に辿り着く。忌み嫌う二人はこの上なく似ており、それ故忌み嫌う。裕司は幸司で、幸司は裕司だ。
裕司の物は俺の物。俺の物は裕司の物。ここまで読むとまさにこの見方が正しかったことに気付く。

しかし基本的な物語の構造は一緒だ。どんづまりの現状から逃げ出すために汚い大金を手に入れようともがく底辺の男たちの物語。『漂流街』のマーリオ然り、『夜光虫』の加倉然り。舞台が根室に、登場人物らが変わっただけで描く物語は同じ。この辺に馳氏の作家としての物語創造力に首を傾げてしまう。

そしてクライマックスの壮絶な殺し合いも一緒。
一人、また一人とやくざであろうが庶民であろうが、議員であろうが、はたまた警官であろうがばったばったと撃たれ、死んでいく。生き残った人間は結局一人呪詛に憑りつかれたかのように憎むべき相手を探し求める。あれほど執着した大金など見向きもせずに。

ここまで書いてようやく私は作者の真意が解ったような気がした。あまりに不毛な物語の結末にいつものように白けてしまったのだが、つまり根室という閉鎖された町に突如現れた大金を手にするのは、狂った人間以外にありえないのだ。そして勝利者は狂者ゆえに本来の目的を忘れてしまうのだ。

しかしよくもまあこれだけ狂える人間を、執着心の強い人間を生み出せるものだ。特に裕司の造形は凄まじいものがある。幸司の物を欲するがために、幸司が恋した自らの妹でさえ凌辱するとは…。

また馳氏の特徴の一つが街を描くこと。それぞれの街が持つ雰囲気がそこに住まう、もしくはそこで生業を行う人間たちを形成し、またそれらの人間たちによって街もまた性格を持ち、変化し続ける。
今回の舞台根室もまた日本経済の歪みが特異性を生み出すことになった。ロシア人を相手に商売しなければもはや生き残る糧を得られない街。従ってそこの住民にとって北方領土問題の解決なんてものは逆に彼らの生きる糧を奪う行為に過ぎないのだ。その場所その場所に住まう人々にとって正論では割り切れない事情があることを知らされる。
そんな背景を馳氏は巧みに物語に取り入れるのが上手い。

そんなわけで馳氏の物語の熱といい、描く内容というのは買っているのだ。あとはあまりにステレオタイプすぎるプロットから脱却して唸らせるような新たな物語を見せてほしい。

雪月夜 (角川文庫)
馳星周雪月夜 についてのレビュー
No.937: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(8pt)

おススメします!ただし大人たちへ

講談社が打ち立てた児童文学ミステリの叢書「ミステリーランド」シリーズの1冊として書かれたのが本書だが、子供向けというにはなかなかハードな内容だ。

透明人間になってしまったとしか思えない殺人事件の内容はもとより、事件の背景となる主人公ヨウちゃんの家庭環境や隣人真鍋さんとの関係など、およそ子供の読み物とは思えない内容に眉を潜めてしまう。
母子家庭で母親が水商売をして稼いでおり、ホステスのライバルがいて真鍋さんに財産目当てだと吹き込んでいたり、そんな女を憎々しく思い、殺意を抱く真鍋さんの描写、さらには子供が学校に行っている時間中の母親と隣人の逢瀬のシーンなど、大人の卑しい部分を若干オブラートに包んではいるが、はっきりと描いている。
これは島田氏なりに最近の子供はこれくらいのことは知っているという理解の上での創作なのか、それとも大人の世界の汚さを知らせるために敢えて書いたことなのか。いずれにしても真意を知りたいものだ。

重ねて表紙も含めて物語に挿入される石塚桜子氏のイラストは抽象的で観念的で禍々しくておどろおどろしく、怖さを助長させ、読者の子供諸氏はトラウマになるのではないだろうか。

とまあ、いきなりネガティヴな感想を羅列してしまったが、やはり島田氏、他のミステリ作家の一つ上を行く完成度だ。

しかもテーマも今日性に富んでおり、透明人間という幻想的な謎を合理的に解き明かすだけに終始せずに、社会性も絡める。久々に島田氏のストーリーテラーの力量に参ってしまった。

さらには密室からの脱出も温故知新でカーター・ディクスンの某作を思い出してしまった。
あのときの私の感想は批判的だったが、今回は密室を構成する人物にある設定をもたらすことで説得力を持たせている。
21世紀本格を目指しながら古典ミステリにも材を得る、島田氏のミステリマインドの幅広さに感服してしまった。

ただ惜しむらくは前述したようにこれが児童向けに書かれた物語として適切かどうかということ。恐らくは小学高学年以上を想定して書かれたのだろうが、「児童」という言葉の定義は6~12歳までと実に幅広い。本書を6歳が読んだ時の衝撃を考えると相応しい内容かと疑問視せざるを得ない。
本来、作品はそれ自身の出来栄えで評価すべきだろうが、本書に関して云えばやはりそういった外部要因が頭を過ぎらずにいられない。

しかし流石、島田荘司氏。
彼のミステリマインドと明日のミステリへの探求心は少しも揺るぎがないことを知り、ますますファンになってしまった。


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透明人間の納屋 (講談社ノベルス)
島田荘司透明人間の納屋 についてのレビュー
No.936:
(7pt)

待ちに待った再戦!

待ちに待った『王者のゲーム』の続編がようやく出版され、そして無事訳出されることになった。これを愉しみにしていたわが身にとってなんと嬉しい出来事だろう。

しかし前作は上下ともに700ページを超える大著であったが、続編の本書は上下巻それぞれ400~440ページぐらい。さらには活字は大きくなり、これを前作の文字組で構成すれば一冊には纏まったぐらいのヴォリューム。そんな装丁でありながら、本体価格は各905円。ちなみに前作は各1219円…。
前作が出版されたのが2001年11月だから10年以上の隔たりがあるわけだが、コストパフォーマンス的にどうなのだろうかという疑問はある。

とはいえ、まあ、昨今の出版不況を考えるとこれも致し方なしか。出版に踏み切ってくれた講談社に素直に感謝の意を表そう。

刊行は10年後だが物語の中の時間で云えば、前回の事件から3年後、そして9.11からは1年半以上経った頃の話だ。つまりようやくグランド・ゼロを整備し始めながらも、まだテロへの恐怖が冷めやらぬ時期の頃だ。そんな中、アサド・ハリールはアメリカへ上陸する。

とにかくアサド・ハリールが絡むと物語も加速する。早くも前作取り逃がした獲物チップ・ウィギンズも開始100ページの辺りで早々に屍と化す―しかも至極凄惨な殺され方で!―。
そして引き続いて150ページ辺りですぐさまハリールはケイトを毒牙にかける。いやあ、デミルの筆は最初からフルスロットルだ。

そしてわずか9・11から1年半しか経っていないにもかかわらず、アメリカのセキュリティの甘さが作中では指摘される。特に小さな地方空港や個人で経営している航空会社でのチャーター便では身分証明のチェックがなく、しかも荷物検査もなく通されること―なんとハリールは銃をカバンにしまったまま搭乗するのだ!―。
私は2002年の2月にハワイへ旅行に行った際、その時のセキュリティチェックの厳しさには辟易したが、実際はこのようなものであったらしい。

さて前作は巻措く能わずのリーダビリティがあったが、今回は中盤のコーリーのパートで間延びしてしまった感があったのが残念だ。組織内のそれぞれの立場の人間の保身と手柄の取り合いといった政治的ゲームが物語の疾走感にブレーキを掛けたように感じてしまった。
後半ハリールが再度登場してからはアクションシーンの連続で緊張感が再び甦っただけに、この中だるみが勿体ない。

また最後の仕掛けも9・11にこだわるデミルらしいものだが、果たしてあの場にコーリーが行く必要があったのか疑問が残る。作中作者もコーリーに何故その場に向かっているのか自問自答を何度も繰り返させているが、それがコーリーという男なんだというのが最適な理由なのだろう。

前作を私が読んだのが2005年だから6年待たされた続編は私の期待に応えてはくれたが、期待以上だったかと云えばそうではない。やはりハリールの行動に焦点を当て、アクション重視で物語を運ぶべきではなかったか。
巻末の解説によればコーリーシリーズは今後も続くとのこと。本作以上のスリルとサスペンスを期待しよう。


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獅子の血戦(上) (講談社文庫)
ネルソン・デミル獅子の血戦 についてのレビュー
No.935:
(5pt)

設定の意外性やアクション満載なのになぜか薄味感

マレル8作目の本作は西洋の古の歴史が絡む、ある暗殺組織の物語。

主人公のドルーことアンドルー・マクレーンは幼き頃に大使館員だった父をテロで亡くし、その後亡父の友人であるレイに引き取られ、彼に連れられて国を転々とし、各々の国の武術を身に着け、そしてテロを未然に防ぐために作られた組織スカルペルの工作員になった男。しかし彼はある任務に天啓を見出し、突如スカルペルを脱退し、彼の友人で同じくスカルペルの工作員であるジェーク・ハーデスティーによって社会的に抹殺されたことになり、厳格な修道院カルトジオ会に入院し、29歳にて隠遁生活を送る男だ。

物語はドルーと彼の協力者で恋人のアーリーン、そして謎の協力者スタニスロー神父ら3人が行方不明のジェークの捜索と、彼が隠遁生活を送っていたカルトジオの修道院を襲った者の正体とその復讐がテーマとなっている。

まず導入部が素晴らしい。
厳格な礼拝形式のカルトジオ修道院での静謐かつストイックな日々が語られる。それ以上でもそれ以下でもない淡々とした描写にふと訪れるドルー襲撃の影。
この静から動への移り方が非常に上手い。

さらに安息を求めて神父へ助けを求めると、神父たちは海兵上がりだったりベトナム帰りだったりといずれも屈強な元軍人たち。そんな彼らがドルーの命を狙うという、いわゆる西洋宗教には疎い日本人にしてみれば予想外の設定と展開が待っている。
まさに息をつく間もないエンターテインメントだ。

デビュー作の『一人だけの軍隊』がそのタイトル通り、一人対集団の物語だったのに対し、本書はドルーとその協力者2名と謎の組織への戦いという小集団対組織へのチーム戦になっている。よくよく考えるとこれは前作『ブラック・プリンス』でもそうであり、しかもそのうち一人が女性であること―しかも両者とも特殊訓練を受けた戦闘能力が高い女性!―も共通しており、この辺はエンタテインメントとしての華やかさも考慮したマレルの演出だろう。
こういった構成はやはり映像化を強く意識した作りだと感じてしまう。

ただ自身の両親をテロで亡くしたドルーが対テロ組織の暗殺組織スカルペルでずば抜けた能力を発揮していたにもかかわらず、突然組織を辞める理由がなんともあやふやな感じがしてしまった。それは自分のミッションで殺した相手の中になんとテロで両親を亡くした頃の自分そっくりの子供を見出したことにより、今の自分こそ幼き頃に激しく憎んだテロリストそのものであるという天啓を得たというもの。
この辺はなんとも首肯しがたいものがある。ドルーが見たのは幻覚だったのか?それとも敢えて組織はこのミッションをドルーにさせることで次なるステップアップを目論んだのか?

そしてタイトルにもある「石の結社」についても触れておかねばならない。その正体は最後の方になってようやく明らかにされる。

またタブーの存在である「石の結社」が物語の結末を予想外の方向へ持っていっている。
まさかこのような結末になろうとは思わなかった。最後の最後でタイトルに冠せられた組織の恐ろしさが見える結末となっている。

しかし『ブラック・プリンス』もそうだったが、現在のテロ組織なり、諜報活動なりが我々が歴史で学んだ出来事なり人物、組織と絡ませるのがマレルのスパイ小説の特徴のようだ。スパイは人類で二番目に最も古い職業と云われているから、このような語り口は実に面白い。これはマレル作品の味だと云っていいだろう。
ただ何かが足りないような気がしてしまう。もっと心に残ってもいいのに、何かが足りない。恐らくはキャラクターの強さだと私は思うのだが。
この辺りはこれからの作品で確認していくことにしよう。


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石の結社 (光文社文庫―海外シリーズ)
デイヴィッド・マレル石の結社 についてのレビュー
No.934:
(4pt)

本格ミステリがしんどく感じた

ラジオドラマ用に書き下ろされた中編3編を収めた事件簿パート2。
最初の一編は「<生き残り(ラスト・マン)クラブ>の冒険」。
80ページ弱の必要最小限の情報と登場人物で構成された佳作。この作品が一番最初に読んだクイーン作品ならば評価は高かったろう。それだけの完成度。

続く「殺された百万長者の冒険」は以前ハヤカワ・ミステリ文庫で読んだ『大富豪殺人事件』と同じもの。つまり再読となる。
しかし再読と云いながら全く内容を覚えていなかった。従ってミステリとしては小粒だったのだろう。確かに再読の今もその感は否めない。
百万長者のピーター・ジョーダンのアパートの中だけで完結するストーリーに限られた登場人物。そんな中で意外な動機を考えるとおのずと犯人は解ってくる。

最後の1編は本書の約半分を占める中編「完全犯罪」。
題名は完全犯罪だが、いわゆる読者が想像する完全犯罪とはちょっと趣が異なっている。
通常完全犯罪とは自殺としか思えない状況なのに他殺であった。しかしそれを証明する証拠が見つからないというものを想像するが、本作は誰がどのように行ったかを延々語る。
容疑者は被害者にいい感情を持たないレイモンド・ガーテンとウォルター・マシューズの2人。犯行当時の見取り図に弾道まで書いて、その捜査の様子は『CSI』のようだ。しかしこれを小説でやると何ともまあ複雑。全てを理解するには難く、途中で字面を追うだけになってしまった。そしてそれらの推理を開陳された上で明かされる真相はその部分をすっ飛ばしても解るものだった。事件が小粒の上にただ単純に長かったという印象の作品。


東京創元社が独自に編んだエラリー・クイーンの作品集。このうち『~事件簿1』は現在でも入手可能なのに、こちらはなぜか絶版状態。従って本書は図書館で借りて読んだ。
3編中2編目の「殺された百万長者の冒険」はハヤカワ・ミステリ文庫で『大富豪殺人事件』で既読。他の2編は初読だが、なんといっても収穫は1編目の「<生き残りクラブ>の冒険」。
戦争で撃沈されたある戦艦の生き残りの子孫たちで構成されたクラブという設定も本格ミステリの特異性が光るし、彼らが生き残ることで得られる報酬のために次々に死んでいくという設定もミステリアス。
明かされた真相はツイストが効いてて、読み終わったときは実にクイーンらしいと感じる趣向に満ちている。これが読めただけでも収穫だ。

残りの1編「完全犯罪」は殺人現場の状況と銃声が起きた時間との相関関係への考察が複雑で理解に苦しんだ。このような室内での弾道の解明などは文章よりも『CSI』のような映像の方が一目瞭然で解りやすい。
もうこのような緻密な推理物は読むのがしんどくなってきてしまった。複雑なロジックの解明ではなく、こんなところにミステリの興趣を求めてくるなんて、年を取ったのかもしれない。

読後の感想は上の星評価となるが、だからといって借り物でよかったとは思わない。やはり本は自分で買って読み、いつまでも手元に置いていたいという気持ちは変わらない。
作品の出来栄えとしてはいささか物足りなかったが、内容的に絶版にする意味があるようには思えないので(評価が低いという点はあるが)、復刊フェアの一冊として近い将来本書がリストに載ることを期待しよう。


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エラリー・クイーンの事件簿 2 (創元推理文庫 104-23)
No.933:
(7pt)

マンガの原作みたいな話だった

今まで『夜光虫』以外は新宿界隈を舞台に物語を繰り広げてきた馳氏が選んだ地が若者の町渋谷。そのため、登場する人物も高校生と二十歳の男と非常に若い。
そして新宿、台湾では外国人マフィアが物語に複雑に絡んできたが、今回は純然たる日本人同士の抗争。渡辺栄司という高校生にして女子高生売春の元締めである男とそれを疎ましく思うやくざ。その中間に新田隆弘というやくざの下っ端が関わる。

一見普通の優男の高校生でありながら、周囲に恐れられている渡辺栄司と伝説のチーム金狼で火の玉小僧と恐れられていた暴力の権化新田隆弘。
彼の肉体と激しいまでの暴力を以ても栄司の恐怖に縛られた彼の仲間を屈することはできない。隆弘は今まで自分が暴力を振るえば回りが屈していただけにいくら殴っても屈さずに笑顔を絶やさない栄司の存在に恐怖を感じる。まさに精神が肉体を凌駕するとでも云おうか、異様な雰囲気を身に纏っている。

栄司の言葉には魔法が宿る。彼が囁くだけで関わる人々は心の奥底に潜む弱い部分を曝け出し、その弱点を克服しようと荒ぶる魂を表出させる。栄司の唇から出る囁きは甘美な毒なのだ。

その栄司に心の中を見透かされ、恐怖と共に栄司の言葉の魔法に取り込まれ、どんどん自我が崩壊していくのが栄司の彼女桜井希生の教師橋本潤子。
幼い頃に支配的な母親に抑制された生活を強いられ、自分の意見を持たなく、周囲の人間の言葉に流されるままの人生を送ってきた女。さらには最初の恋人に強姦同様のセックスを強いられ、男性不信から女性を、生徒に欲情を抱くようになった女。
物語は隆弘、潤子が栄司が持つ、ブラックホールの如き虚無に囚われて転落していく様が描かれる。

よくよく考えると馳作品の主人公は決して暴力が強い人間ではないことに気付かされる。不夜城シリーズの劉健一しかり『漂流街』のマーリオしかり『夜光虫』の加倉しかり。
今回の渡辺栄司という高校生はその最たるもので、喧嘩が強いわけでもない、腕っぷしが強いわけでもない。ただただ非常に頭が良かった。そしてなによりも恐怖を感じない。人間として大事な愛とか情と云った感情を欠落した人物なのだ。自分の欲望のために人を利用し、人を傷つけることを厭わない空虚な心を持つ男。

しかしなんというか高校生で女子高生の売春を取り仕切る渡辺栄司というキャラクター造形がマンガの域を脱していないというか、むしろマンガの原作を読まされているような気がした。
馳氏特有の路地の小便臭さまでが行間から匂い立つようなリアルさと熱が本書では感じられず、むしろ作り物めいた感じが拭えなかった。なんだか飲み屋で交わした会話のままに作ってしまったお話のような手触りがあった。
例えばこのように…

“一番怖い奴ってどんな奴だと思う”
“やっぱりどんな奴にも負けない喧嘩のプロ”
“いや、おれは違うね。恐怖心を持たない奴が一番強いと思う”
“お、それで小説1本書けそうだな”

といった具合だ。

さてこの結末はこの作品がこれから始まる新たな物語の序章だということだろうか?高校生の若さで人の心の弱さに付け入り、どんな男でも女でも籠絡させる渡辺栄司。
この平成のメフィストフェレスは今後も人の心を操り、王として君臨するのか?
今まで馳氏が主役に選んだのは戸籍上日本人の外国人との混血児、もしくは中国系マフィアに翻弄される日本人だった。彼らへの強力な対抗馬として創造したのが渡辺栄司なのか?
今後の作品に注目したい。

・・・しかしやくざがヴァイヴに怯えるかねぇ(苦笑)。

虚の王 (角川文庫)
馳星周虚の王 についてのレビュー
No.932:
(7pt)

強く復刊求む!

クイーン中期において重要な位置づけとされるライツヴィルシリーズ。本書はその3作目にあたる。

戦争後遺症で神経を病み、ついに妻をその手にかける寸前にまでなったライツヴィルの英雄デイヴィー・フォックスの、自らを“生まれながらの殺人者”という烙印を無くすため、過去に起きたデイヴィーの父親の妻殺しの罪を晴らすのが今回のエラリイ・クイーンの謎解き。
しかしそのことは当時の事件に隠された真実を解き明かすことになり、フォックス家の忌まわしい過去を掘り起こすことになる。

さらにベイアードの冤罪を晴らそうと躍起になるエラリイだが、調べれば調べるほど被告側に不利になることばかり。
ベイアードの妻ジェシカが服毒したジギタリスは彼が供したグレープ・ジュースの中に入っており、それに触った物は彼以外いないのだ。エラリイは水道の蛇口、製氷皿に至るまで毒を盛った可能性を追求するがそれらは全て過去の捜査で立証されたものばかり。すなわち全ての状況がベイアードを犯人と示している。

これはなかなかに手強い謎だと痛感した。ものすごくハードルを挙げている。
読みながらこんな堅牢無比な謎をカタルシスを伴って解決してくれるのかと期待と不安が入り混じった気持ちを持っていた。

いやあ後半の二転三転する展開の読み応えといったら、数あるクイーン作品の中でもトップクラスではないか。地味な展開なのに読ませる。
エラリイが捜査を進めるたびに出くわす新たな証拠、それが逆にベイアードを有罪へと追い詰める物になったり、はたまた関係ないと既に証拠から除外されていた物がベイアードの運命のカギを握っていたり、実に読ませる。

そして二転三転する捜査の末、明らかになる真相とはなんとも云えない後味を残す。
世の中には知らなくてもよい真相もある。本書の真相はまさにそうだし、またこれはクイーン自身の手によるあの名作の変奏曲でもあると解釈できる。
さらに当初の問題であったデイヴィーの戦争後遺症が解消されるかどうかもまた不明である。色々なことが解決せずに残った作品だと云えよう。

帰還兵の戦争後遺症を扱った、クイーン作品の中でも珍しく社会的テーマを扱った作品だ。戦争後遺症は特にヴェトナム戦争でその問題が明るみに出たが、本書は同戦争が起こる前の1945年の作品(ヴェトナム戦争は1960年から1975年)。第二次世界大戦終結の年に発表されている。
従ってここで語られる戦争とはすなわち第二次大戦を指す。

この社会問題に本格ミステリを融合させる、つまり人間描写が欠点だった本格ミステリに人物像へ深みを持たせるために用いたファクターがこの戦争後遺症であったわけだが、それをさらにフォックス家という一家庭への悲劇へと昇華させる。
ライツヴィルシリーズは『災厄の町』でライト家の悲劇を、『靴に棲む老婆』ではポッツ家の悲劇を扱い、今回はフォックス家。この後の『十日間の不思議』ではヴァン・ホーン家の悲劇(悪夢と云った方が正解か)をと、一家庭をクローズアップした事件が特徴的だ。

しかし家庭内の悲劇というテーマはロスマク一連の作品を想起させる。しかしロス・マクドナルドが第1長編の『暗いトンネル』を書いたのが1944年、リュウ・アーチャーシリーズ第1作『動く標的』を著したのが1949年。全然クイーンの方が先なのだ。
どちらかと云えばチャンドラーの影響の方があったのかもしれない。つまりそれは街を描き、人を描くということだ。

読中しばしば感じたのは作中に現れるライツヴィルの住人達の面々と彼ら彼女らへ挨拶をし、思いを馳せるエラリイの姿。その快活な筆致はこれこそ作者クイーンが書きたかったことなのだろうと感じた。

そんな中でも今回悪辣ぶりが目立ったベイアードのお目付け役であるハウイー刑事とアルヴィン・ケインという薬剤師。
前者は事あるごとにエラリイの捜査を無駄なことを鼻で笑い、ベイアードに聞くに堪えない悪態、罵詈雑言の限りを吐き、更には自身の自由時間を確保するためにベイアードをベッドに手錠で縛りつけるという所業を行う。ベイアードを罪人として蔑み、エラリイを余計なことをしに来た余所者として面倒がる。
クイーン作品の中でもこれほどひどい刑事は見たことがない。何かこの頃クイーンの身辺で警察にまつわる不愉快事があったのだろうか?

そして後者は女たらしで自分こそがライツヴィル一のプレイボーイでダンディだと勘違いしている輩。人妻リンダを手籠めにするために旦那デイヴィーと別れさせるために偽の証拠をでっち上げることまでする卑劣漢。本書ではことさらこの2人の卑怯ぶりが目立った。

しかし問題はこの作品が絶版で手に入らないことだ。これほど読ませる作品なのに。戦争後遺症に冤罪といった社会的テーマに、人間ドラマが加わり、更には本格ミステリとしてのロジックの面白さも味わえるという作品。ライツヴィルシリーズにおける家庭内悲劇を扱った作品としてぜひとも外せない作品だと思った。
今回偶々、市の図書館にあったので読むことができたが自分の手元に置いておきたい作品だ。近い将来の復刊を期待してこの感想を終えることにしよう。


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フォックス家の殺人〔新訳版〕 (ハヤカワ・ミステリ文庫)
エラリー・クイーンフォックス家の殺人 についてのレビュー
No.931:
(7pt)

このBL臭は今こそウケるかも?

1984年発表のマレルの手によるこの作品は義兄弟である二人のCIA工作員ソールとクリスがその育ての親のある陰謀により、罠にはめられ、世界の諜報部員たちのお尋ね者になる物語である。
しかし物語の構造はスパイ小説の例に漏れず複雑で、単純な復讐劇にはならず、彼ら2人の能力の高さを買って利用しようとするKGB高官なども加わってくる。

そしてこの物語にはもう1つ特徴がある。それはアベラール・サンクションなる施設の設定だ。
このアベラール・サンクションとは、第二次世界大戦前の1938年にヨーロッパ各国が抱える諜報機関の要人が極秘裏に集まって定められた、各国のスパイのための不可侵状態の避難所のことを指す。このアベラールとは1118年に弟子を孕ませた廉で追い出され、その後避難所を設立したノートルダム大聖堂の参事会員ピエール・アベラールの名に因んでいる。

アベラールの避難所は世界に7か所あるが、その上級施設が安息の家と呼ばれる物。これは引退したスパイたちが行き着く場所でもあり、もしくは政治的に抹殺され、行き場の無くなった官僚たちの隠れ家でもあった。

そこは不可侵であり、娯楽、女性、美食と望む物は金さえあれば全て手に入る楽園なのだが、唯一ないのが自由。安息の家はその実求められない自由に絶望した者たちが自ら命を絶つ墓場でもあった。しかしその事実は歴代の所長は隠し通しておかねばならない。
アベラール・サンクションはスパイたちの安息の地を提供しながら、そこを一歩出ると再び命を狙われる修羅場と化す。つまりアベラール・サンクションはスパイたちにゲームオーヴァーを告げるシステムと云える。何とも皮肉な話だ。

こういった背景を踏まえて描かれるマレルのスパイ小説はアクション重視の、映像化を意識したかのような作品である。短い章立てで構成され、実にテンポよく物語が進む。
現在の、例えばフリーマントルとかは1章当たりの分量が20ページくらいか。対してこの『ブラック・プリンス』は平均10ページ未満と実に短い。そういえばバー=ゾウハーも短かったように記憶している。昔のスパイ小説は情報過多に陥らず端的な描写に終始して、スピード感を重視し、それがまたある種の緊張感を生み出しているように感じる。対してフリーマントルは権力者たちがいかに優位に立つかに腐心しており、お互いの権威を保つためのディベートで構成されているから1章当たりの分量が否が応でも増すのだろう。同じスパイ小説でも書き手によればこれほどまでに書き方が違うのか。

上下巻に及ぶこの物語には孤児院に育てられたソールとクリスがどのように腕利きの工作員として育てられたかも語られる。その中で強い印象を残すのは彼らに武道を指導する元柔道世界チャンピオン、石黒ユキオの存在だ。
彼は二人に武道の心得、すなわち武士の魂を説く。恥をかくならばいっそ死を選べという高潔なる精神をソールとクリスに教え込む。切腹などを教える辺りはおよそ新渡戸稲造の『武士道』からの引用だと推察され、いささか時代錯誤の感も無きにしも非ずだが、この石黒ユキオとの交流の件はトレヴェニアンの『シブミ』を連想させられた。
『シブミ』の発表が1979年。本書が1984年だから、この頃はもしかして日本の武士、侍、忍者のブームがアメリカでは興っていたのかもしれない。

さていささか陳腐な題名に感じられる題名『ブラック・プリンス』は薔薇の名前を指す。CIA高官テッド・エリオットは手塩に育てた弟子、CIA工作員に薔薇の名前を準えて呼んでいる。クリスとソールの二人は黒に限りなく近い深紅の花びらを咲かせる品種<ブラック・プリンス>に因んでいる。

しかし原題は“Black Prince”ではなく、“The Brotherhood Of The Rose”、すなわち直訳すれば『薔薇の兄弟』となる。つまり原題も邦題も同じモチーフで語られているのだが、もし『薔薇の兄弟』ならば少女マンガ風と捉えられるか、もしくは同性愛専門誌『薔薇族』に因んで、BL小説風に捉えられるかと、妙な誤解を生むという懸念があったのではないだろうか?
例えば中間を取って『ローズ・ブラザー』とすればちょっとはマシになったのではないだろうか。いや五十歩百歩か(この感想は解説やあとがきを読む前に書いているのだが、訳者があとがきで同じことを書いているのには思わず笑ってしまった)。

閑話休題。

しかしこのような昔のスパイ小説を読むことは案外収穫がある。なんせ冷戦時代の教科書では習わない各国の暗闘が知識として得られるからだ。
今回はMI-6の高官であり、さらにCIAの創立に手を貸しながら、その実ソ連のスパイだったキム・フィルビーの一連の事件が本書の登場人物に深く関わりがあり、それがこの物語の最も深い謎として語られる。
恥ずかしい話だが、このキム・フィルビーという人物は本書を読むまで全く知らず、調べてみるとかなり有名な人物で、そして彼の亡命は当時かなりセンセーショナルな事件だったことを初めて知った。
まさにこれは収穫以外何物でもない。教科書では教えられてない歴史の勉強とはまさにこのことだ。

しかしこのクリスとソールの奇妙な友情は義兄弟という生死を共に分かち合った者たちしか解らない世界なのだろうが、今ならば一種BL小説のテイストもあると云えるだろう。今復刊すると意外な方面から反響があるのではないだろうか。

育ての親エリオットへの憎悪が単なる憎しみと嫌悪から成り立たないソールとエリオットの関係性は、スパイ育成がその人物の人生の根幹まで深く入り込んでいく行為だと知らされ戦慄を覚える。幼き頃に刷り込まれた恩情はなかなか憎しみだけで乗り越えられるものではない。最後のエリオットの対決が大いに心理戦であったのは実に興味深く感じた。

しかし前時代的ではあるが全然今読んでも遜色ない。しばらくマレルの作品を読んでいこう。


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ブラック・プリンス〈上〉 (光文社文庫―海外シリーズ)
No.930: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

最後の微妙な描写の意味は何?

ディーヴァーのノンシリーズ作品。2年前くらいから訳出されると云われていた作品がようやく日の目を見た。

物語は唐突に始まる。
いきなり弁護士夫妻の別荘を二人組の強盗が襲撃し、あっという間に二人は殺されてしまう。そこに居合わせた弁護士をしている夫人の事務所で秘書として働いている本業女優のミシェルと、通報を受けて非番の身でありながら現場に一番近い所にいたことで駆り出された女性保安官補ブリン。特にブリンは頬を弾丸に打ち抜かれるという重傷を負う。
かつてこれほどまでに深手を負ったヒロインがいただろうか?しかも女性の命ともいえる顔にいきなり重傷を負うのである。しかしこれでブリンという女性保安官補のタフさが読者の脳裏に焼き付くのだから、やはりディーヴァーの創作作法はすごい。

追う者と追われる者の物語。しかしディーヴァーならではのサスペンス豊かな状況でありながら何とも奇妙な味わいを見せる。

それは追う側も追われる側もお互いのパートナーに奇妙な友情が芽生えてくるのだ。

逃げる側のブリンとミシェル。前者はタフで生きる術、そして相手を出し抜く術を知った女性だ。後者のミシェルは都会暮らしで女優の端くれでスタイル抜群で身に着けている服も高級品ばかり。およそ山歩きとは無縁の女性だが、いわゆる吊り橋効果が作用して同族意識が生まれてくる。

また追う側のハートとルイス。片や職人と仇名されるプロの殺し屋で片や軽薄な人殺しをゲームの一環だと思っている男。最初ハートはルイスの考えの甘さを見下していたが次第にルイスのサバイバル知識の豊富さに感心し、対等のパートナーとして意識するようになる。
特に二人の交流シーンは男の友情が次第に芽生えてくる読み応えがあり、とても殺し屋二人とは思えない。むしろ狩りを楽しむ男二人のようだ。何とも奇妙な味わいをディーヴァーは演出したものだ。

そして逃げる側のブリンは立ち止まることを自らに禁ずる。その心情を表すエピソードにかつてブリンが高速で捕まえた容疑者の台詞にこんなのがあった。

「そりゃ動いているかぎり、おれは自由の身なんでね」

追われる者の拠り所になる台詞なのだが、これに似た台詞をディーヴァーの作品で私は読んでいる。それはリンカーン・ライムシリーズ第1作の『ボーン・コレクター』だ。アメリア・サックス初登場の場面でアメリアは次のように独りごちる。

走ってさえいれば振り切れる。

とにかく前へ。これがアメリアの信条。この台詞が前述の台詞に重なる。ブリンはアメリアに似た性格の持ち主なのだ。

そして敵役のハートの造形もまた魅力的だ。その筋の界隈の者たちから“職人”の異名で呼ばれる凄腕の殺し屋ハートは自分の痕跡を一切残さずに任務を遂行する。しかしそれはライムシリーズに出てくるような病的なまでに神経質な性格ではなく、プロ意識から生まれる注意深さと、あくまで沈着冷静で相手の心理を読み、二手三手先を読みながら追い詰める、ゲームの達人ともいうべき凄みがある。そしてハートは次第にブリンのサバイバル術に感心し、恋心にも似た関心を抱くようになる。
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追撃の森 (文春文庫)
ジェフリー・ディーヴァー追撃の森 についてのレビュー
No.929: 5人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

謎は謎のままで

『どちらかが彼女を殺した』に続く、結末を書かずに読者に推理を強要するミステリの第2弾である。
前作が容疑者2人だったのに対し、今回は3人。しかもその三人とも自身が手を下したと確信している。

新進気鋭の詩人神林美和子と婚約した落ち目の文化人穂高誠。彼に対してある特別な感情を抱いている3人。元恋人の雪笹香織、マネージャーでほのかに恋心を抱いていた女性を穂高に盗られた駿河直之、兄弟愛を超えた愛情を注ぐ妹を今まさに穂高誠に取られようとする神林貴弘。この3人が今回の事件の容疑者だ。

本書のメインの事件の被害者穂高誠という脚本家はこれまでの東野作品の中でも一、二を争う卑劣漢だ。
女癖が悪く、気に入った女性に次々に手をだし、関係がこじれるとマネージャーの駿河に尻拭いをさせ、罪悪感一つ抱かずにまた新しい女性へ手を出す。そして婚約者神林美和子との結婚も脚本や小説では成功したものの、ヒットをいまだに生み出していない映画で話題となっている美和子の詩を題材に映画を作ることで寵児となろうとしている、非常に打算的な理由からだ。

この穂高誠の設定を読んで思い出したのは『悪意』に出てくる小説家日高邦彦だ。しかし日高がいわば作られた偶像だったのに対し、穂高は真性の自己中心男である。

つまり読者の共感を覚えるのには極北に位置する人物であり、私も含め読者の大半は彼が殺されたことに快哉を挙げたことだろう。そんな死んで当然の男を殺したのは誰かというのが今回の謎だ。

しかし唾棄すべき人間が被害者ならば、それを殺した犯人に同情を覚えるのが読者というもの。読者の側とすればどうにか捕まらずにいてほしいと奇妙な共犯意識が芽生えるのも事実。こんな状況で犯人捜しを読者に強いる東野氏の演出がなんとも憎らしい。

さて肝心の謎解きの部分だが、前回よりもレベルが上がっているというのが正直な感想だ。最初に読み通した時は全く解らなかった。『どちらかが彼女を殺した』の方は加賀が仄めかすヒントについて記述されていた箇所が解ったものの、今回の事件は加賀が謎解きの手掛かりとしたポイントがどこのことを指すのか、全く覚えがなかった。
う~ん、これでは東野氏の云うただ単純に字面を追っているだけの読者に過ぎないではないか。

この感想は文庫巻末に添えられた袋綴じ解説「推理の手引き」を読んだ後で書いているのだが、それを読んでも全く分からなかった。というよりもこの手引きでさらに新たな手がかりが提示され困惑しているといった次第だ。むむぅ、この謎は難しすぎる。

ところで加賀刑事の尋問方法は刑事コロンボのようだ。一旦引き揚げると見せかけてまた戻って質問を投げかける。しかも直前の会話とは脈絡のないことを唐突に。
それは恐らく刑事の尋問で張りつめた緊張の糸が、刑事が去ることで緩められる、いわば無防備な心に付け入って動揺を誘うためだろう。本当に怪しい人物、つまり容疑者ならば不意の質問に動揺し、理論武装の殻が破れるだろうからだ。
私は逆に加賀刑事の尋問方法からコロンボのそれの意義を知らされた。

また今回複数の刑事が事件に携わるが、やはりその中でも加賀は異色の存在だったことが解る。本書は容疑者3人の視点で語られる一人称叙述なのだが、彼らの目に映るのは加賀の動じない性格に決して臆さない、ある意味無粋なまでに容疑者に介入してくる態度だ。そして彼らをして加賀を他の刑事とは一癖も二癖もある刑事であると思わせている。
これはやはり容疑者側の視点で書かれた『どちらかが彼女を殺した』、『悪意』、そして本作で加賀が今までの東野作品で一歩抜きんでた存在の刑事であることを読者に悟らせることに成功しているだろう。それはつまりノンシリーズ物を多く書いた東野氏が当時唯一加賀恭一郎をシリーズキャラクターにするために肉付けしなければならなかった部分に違いない。
この辺はセイヤーズがピーター卿をハリエット・ヴェインと結婚させるためにあえてシリーズを重ねて人間臭く描いていった創作意図を想起させた。

といった横道感想を経て、私はウェブ上で開陳されるネット名探偵たちの真相解明に目を通した。

・・・今回も惨敗。

ただし今回の真相はウェブ上の推理を読んでもいささか歯切れが悪い所があるようだ。本当の真相は作者のみぞ知るのだろうが、これを是とするか否とするかは読者次第なのだろう。
謎は解かれるからこそミステリと考える読者はもやもや感が残るだろうし、逆に謎は謎のままだからこそまたいいのだと考える読者は是とするだろう。
私は『秘密』の後に書かれた(発表された)作品として本書を捉えると真相は一つでなくてもいいのではないかという作者の声を感じてしまう。
『秘密』の感想で私は結局藻奈美は藻奈美だったのか、それとも直子だったのかはそれこそ作者が読者に仕掛けた秘密ではないかと述べたが、本書もまたその延長線上にあるように思える。
単純にミステリとして作品にちりばめられた手がかりと伏線を拾えば、犯人は駿河と行き当たるだろうが、そこに残る「何故」もまた本書で書かなかった部分なのだ。謎が犯人に、そして真相に収束するのが本格ミステリだが、拡散するのもまたミステリだというのがこの頃の東野氏のミステリ観だったのかもしれない。

いやあ、今回は完敗でした。
またいつかこのような作品を書いてくれることを臨む。なぜならこの趣向が一番本格ミステリの愉しさを味わえるのだから。


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私が彼を殺した 新装版 (講談社文庫)
東野圭吾私が彼を殺した についてのレビュー
No.928: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)
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エロに溺れる救われない人々のお話

性欲に対する人間の異常なまでの欲望と情動をテーマに描いた短編集。

まず最初の「眩暈」の主人公は外資系のコンピュータ・メイカーで働く35歳の男の妄想を描いている。
電話回線を使ってのインターネット利用や、会社のインターネットを不正利用してエロ画像をダウンロードする、などとおよそ現代の会社のITセキュリティーの観点からは一昔前の感が否めないが、もちろん本書の本質はそこにはなく、35歳の、営業の激務に晒され、おまけに家に帰れば赤ん坊の夜泣きのために寝不足になり、かつて美しかった妻はその輝きを失いつつあるという倦怠期にある男の肥大していく、義妹への妄想にある。
果たして奈緒は隠れた痴女だったのか?そこを敢えて明かさないところが上手い。

続く「人形」は実に馳氏らしい、どろどろの因縁話だ。
なんともやるせなさが残る作品。ハッピーエンドなど望むべくもない陰鬱な設定と話だった。実に作者らしい。

馳作品と云えばやくざだが、「声」ではとうとうやくざが登場する。
主婦のちょっぴり危険な秘め事が、やくざと出逢ったことで転落の人生の第一歩を辿る。犯され、蹂躙され、女として人妻としての人格を否定され、堕ちていく聡子とやくざ俵の関係と、苛められていると疑いのある息子将人の友人との関係が最後にリンクするところに上手さを感じた。しかし、ホント救いのない話だなぁ。

そして締めの短編は表題作「M」。MとはもちろんSMのMのことだ。
話は単純に風俗、それもSMクラブに嵌った男がどんどん自分の貯金をすり減らし、ドツボに嵌ってしまうという、よくある話なのだが、これを馳氏は主人公稔に父親殺し、そして夜な夜な繰り広げられる夫婦のSM、鑑別所を出所した後に引き取られた叔母との性交の日々などを絡め、性と暴力の物語に仕上げていく。
まゆみへの愛に狂い、衝動的に人を刺していく稔の末路までを描かず、報われなさを描くことで稔をどん底に引き落とす。


全4編で構成された短編集。全てセックスに関する人間の情動を描いた作品だ。そして全てバッドエンドなのがこの作者らしい。

ネットに蔓延するエロ画像、秘密の出会い系クラブ、伝言ダイヤルを使った主婦売春、SMクラブとここに挙げられているのは誰もが街中で目にする光景だ。
電話ボックスのチラシや街中で配られるポケットティッシュの広告に書かれたそれらの情報に興味を持った方もいるだろう。好奇心に押されてちょっと勇気を出して踏み出すことで、いつもと違うディープな世界に迷い込む、そんな性の扉たちだ。
つまりは人間の、少しだけモラルを踏み外したいと思った時に、一番手っ取り早い方法が、これらセックス産業だと云える。本作の主人公たちはその陥穽に嵌り、人生を転落していく人々。ちょっと踏み外しただけで運命の歯車に巻き取られ、堕ち行くしかない状況へ追いやられる。それまでの長編で見せた転落人生劇場がこの約80ページの短編でも繰り広げられる。

馳氏のそれまでの作品は忌まわしい過去や血の絆に縛られた主人公がどんどん暴力的衝動を肥大させて、退廃への末路を辿るストーリーばかりだが、作品を重ねるにしたがってそれらの描写や行為もエスカレートしてきた。そして特に生々しいまでに描写が増えたのはハードSM、凌辱ポルノと云った感じの激しいまでの性描写。本書はその激しいまでの性への衝動が前面に押し出されている。

そして今までの作品と違い、主人公は他の民族の混血児などではなく、純然たる日本人。ただ彼ら彼女らは隣にいるようでいない人物でもある。

1話目「眩暈」の主人公はできちゃった結婚した35歳のサラリーマンで営業の激務に苛まれながらも帰宅後は妻の愚痴の相手に赤ん坊の夜泣きと疲労が募って仕方がない男。

2話目の「人形」は家族ぐるみで付き合いのあった隣人との間には両親同士が浮気をして性交を重ね、また娘、息子たちもまた性交を重ねていたという過去を持つ女性。

3話目の「声」では暇つぶしに始めた主婦売春が病み付きになり、やがてやくざに嵌められ、売春を強要される主婦。

4話目の「M」では両親が夜な夜なSMプレイを愉しみ、そんな父親を憎んで衝動的に殺害した青年。

こう並べると4話中半分は誰もが経験しそうな話でもあり、また片方は異常な家庭環境にいた者たちが壊れていく話である。

性と暴力、抑えられぬ情欲と衝動。お決まりの馳氏のカードばかりだ。ただ本書の主人公たちはいつもの作品と違って我々の身近にいそうな人々。
そう、ノワールは我々のすぐそばに潜んでいるのだというのだろうか?セックスという生物誰しもが持つ性欲をキーに馳氏は4つのノワールの扉を用意した。ここに書かれているのはいずれも救いのない話。同じように堕ちていくか、そうならぬようぬ踏みとどまるか?貴方ならどうする?と問いかけられているようにも思える。
今までの馳作品の中でも最も薄い作品だが、中に書かれた人間の激情はいささかも薄まっていない。これを単なるポルノ小説と捉えるか、暗黒小説と捉えるか。私はやはり何を書いても馳氏は馳氏だとその思いを強くした。
セックスとは男女を問わず獣になる瞬間であり、そこに本性が生々しく表せるからだ。やはりセックスもまた馳氏のノワールには欠かせない要素なのだ。

馳氏の、人間の心の闇への探究はまだまだ続きそうだ。



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M(エム) (文春文庫)
馳星周M(エム) についてのレビュー
No.927:
(7pt)

アーロン風味が濃い1作

リー・オフステッドシリーズ3作目。
わずか10か月足らずでもう3作も訳出されたことに驚く。案外人気があるのだろうか?

それはさておき、今回は海難救助サービスの仲介業者の役員研修に参加したリーが誘拐未遂事件と殺人事件に巻き込まれるというもの。その背景にはその会社が大きく発展するに至った1971年のある海難事故があった、というお話。

今まで妻シャーロットのロマンスミステリ風味が強かったが、本作では過去の因縁話が現代の事件に翳を落とすというアーロンの特色が色濃く出ている。
ロマンスの相手グレアムは警備コンサルタントの仕事が忙しく、世界中を駆けずり回っている身であり、物語の中盤に出てくるのみで大きく事件には関与しない。したがってロマンス色は薄目であり、逆に被害者である会社社長スチュアート・チャペルが、過去に同僚であるアンディ・ゴットリーブを見放した事件が意外な形で現代に因果を残していることが物語が進むにつれて明らかになってくる(とはいえ、終盤グレアムは大いに物語に関与し、また二人の関係に大いなる前進があるのだが、まあ、それはアーロン・エルキンズのスケルトン探偵シリーズでも見られる程度のロマンスだと云えるだろう)。

ところでこのスチュアートが危うく遭難しそうになって仲間のライフラインを切断したという行為は何かを想起させないだろうか?
そう、少し前に巷で話題となったハーバード大学のマイケル・サンデル教授の正義についての講義の内容だ。
急変した気候のために船は岩礁にぶつかりそうになっている。そんな中、海に潜った同僚は合図を送るも一向に浮上してくる気配がない。このような窮状で果たしてどのように行動するのか?つまり二人の命を救うために一人の人間の命を犠牲にできるかという命題が示されている。
本書はなんとまだ前世紀の1997年の書。この手の話はミステリではよく取り上げられるといえばそれまでだが、22年も前の作品が現在話題になっている大学教授の講義とリンクすることに奇妙な縁を感じる。

そしてやはりエルキンズのキャラクター創作力とユーモアのセンスは素晴らしい。例えばこんな一節がある。

「角でばったり犬と顔をあわせた猫の反応を想像できる?」ペグはそう訊いた。「それがジニーよ」

この一瞬意味不明な比喩でなかなか頭にそんな猫が浮かばないのだが、エルキンズはまさに云いえて妙の人物を拵えてくる。どんな人物なのか?と知りたい方は本書にあたって確かめてほしい。

これほど面白く読みやすいコージーミステリなのだが、本格ミステリ要素が濃いのもエルキンズ作品の特徴。

以前からエルキンズの作品を私は素晴らしきマンネリと呼んでいるが本書もその例に漏れない。本書には時間が止まるような驚きや謎解きによって得られるカタルシスなんてものはないが、作品世界に浸ることで得られる読書の愉悦が確実にある。面白さ保証のエルキンズの次作を楽しみにして待つことにしよう。

ところで本書の邦題はあまり内容とは関係がないような…。


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邪悪なグリーン プロゴルファー リーの事件スコア 3 (プロゴルファー リーの事件スコア) (集英社文庫)
No.926:
(7pt)

これが完全版?

本作は一度1979年に出版されたが改稿と短縮を余儀なくされたものであり、それを1994年にリライトされた完全版である。

一作目がヴァイオレンス・アクション小説ならば二作目の本書はパニック・ホラー小説と趣をがらりと変えている。

かつて鉱山町として栄えた人口二万人ほどの町、そこにはかつてヒッピーたちと村人との間に死者が出るという忌まわしい過去があった。そして町の人々から信頼を得ている警察署長、そんな町に起こった雄牛が血の一滴も残すことないまま切り裂かれる怪事が起こる。やがて同種の被害が住民たちの間にも起こっていく。

とまあ、典型的なハリウッド映画的パニック物語である。
デビュー作『一人だけの軍隊』も実際に『ランボー』として映画化されたが、マレルという作家は実に映画向きの題材を扱う。

狂犬病と思しき症状を呈した犬が見つかり、そして野獣のようになった少年が現れ、それを皮切りに襲われた人々が同じような病に侵され、徐々に恐怖が町全体を覆っていく。奮闘するのはデトロイトから来た警察署長ネイサン・スローター。

そこに絡むのが編集長の命令で過去を回顧する記事を題材を訪ねに来たしがないアル中の雑誌記者ゴードン・ダンラップ。

そしてポッターフィールドを長く統治する市長パーソンズ。

街の治安を守ろうと孤軍奮闘する者と、落ちぶれた雑誌記者から何かスクープを手に入れて再起を図るジャーナリストと1970年代に起きたヒッピーとの抗争という忌まわしき過去を吹っ切り、安定を維持しようとする者。
それぞれがそれぞれの事情を抱えながら、彼ら3人を中心に物語は進行する。

そんな物語にサブストーリーとして加わるのが1960年代のフラワームーヴメント。ヒッピーのリーダー、クイラーが1970年にポッターフィールドの山奥に50エーカーもの広大な土地を購入して理想郷を築く。
彼らはしかし村人たちに厭われ、次第に忘れられていく。このサブストーリーが物語の終盤に大きくかかわっていく。

さてフラワームーヴメントに翳を落とすのはやはりヴェトナム戦争だ。デビュー作『一人だけの軍隊』もまたヴェトナム戦争帰りの軍人の物語。マレルはヴェトナム戦争を自身の小説のテーマとしているようだ。
この辺は彼の作品を読み進むうちにおいおい判ってくることだろう。

さて元々1979年発表の作品だが、その頃の小説の特徴なのか物語の合間合間に挿入されるエピソードが実に色濃い。
それは端役にしか過ぎない登場人物がポッターフィールドという田舎町に住むようになった経緯の話だったり、その町の歴史だったり、町にある文化財にまつわる逸話、狂犬病に関する知識だったりと様々だ。しかもその内容が箸休め程度ではなく、突然に延々と10ページも割かれたり、はたまた1章を費やしたりとやたらに長い。しかしそれでも内容は濃いため、実に読ませる。まるでサーガを読んでいるような気分になる。
改稿と短縮を余儀なくされたのはこの辺のエピソードの数々だったのかもしれない。

特に作者の創作であろうポッターフィールドの成り立ちが非常に読ませる。恐らくどこにでも存在するアメリカの僻地の旧鉱山町がモデルになっているのだろうが、マレルはその歴史を克明に描く。恰も実在の町であるかのごとく詳細に書く。

そういえば『一人だけの軍隊』の舞台もアメリカのマディソン郡にある片田舎の閉鎖的な町が舞台だった。そんな排他的な土地に紛れ込んだヒッピーという得体のしれない存在は何も危害を加えなくとも住民たちにとっては脅威だった。
そんな相互理解が及ばない状況だったからこそ起きた殺戮の幕開け。つまりマレルは閉鎖的な町も物語の主要因として考えているのだろう。だからこそできる限り詳細に描くのか。

本作で印象的なのは主人公の警察署長スローターだ。“屠殺者”という意味のラストネームで、大柄な体躯を持ち、デトロイト警察を引退して牧場を開こうとポッターフィールドに引っ越し、結局警察職に復帰した男。射撃の腕前は一流で、部下の信頼も厚い。いわゆる理想の上司なのだが、彼が臆病であることをひたすら隠しているところに興味を惹かれた。
彼はある事件(コンビニ強盗を働いた少年に散弾銃で撃たれ、瀕死の重傷を負った)で恐怖心を抱き、実は警察稼業を辞めて山奥で牧場でもやろうかと逃げてきた男だったのだ。しかし警察官しかしたことのない男には畜産業は無理で、周囲に求められるがままに警官に復帰したのだった。そんな彼の本当の姿を知られずに今までタフで理解ある、部下からの信望の厚い警察署長を務めてきたのだった。
つまりこのようなパニック小説で主役を張る人物が全て万能ではないのだということをマレルなりに皮肉っているのかもしれない。

さて町を恐怖のどん底に陥れた未知の狂犬病。その発祥の源はヒッピーのリーダー、クイラーが築いた理想郷のさらに奥、昔鉱山町だった跡地にあった。一念発起した住民たちはそこを一掃しようと乗り出していく。さらに途中にリーダーシップを放っていたスローターは市長パーソンズの策略で留置場に入れられてしまう、となかなか面白い展開を見せる。

(以下ネタバレへ)


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トーテム 完全版〈上〉 (創元推理文庫)
デイヴィッド・マレルトーテム についてのレビュー
No.925:
(7pt)

深すぎるダイイングメッセージ

クイーン後期の作品だが、ダイイングメッセージと意外な犯人、と少しも本格スピリッツは衰えていないことを示した佳作。

複数の女性を浮名を流す、石田○一のようなジゴロ、カーロス・アーマンドがいかにして前妻グローリーを殺したか?というのが今回の事件。
このカーロスがものすごい女たらしであり、さらには何故かほとんどの女性は彼の手に落ちてしまうという凄腕テクニックの持ち主。そして彼の殺人計画の片棒を担いだのがすみれ色のヴェールを被った謎の女。クイーンと相棒のスコットランド人の私立探偵ハリー・バークは事件のカギを握るこの「幻の女」を探し出そうと躍起になる。

つまり本書はいつもと趣向が変わっている。主犯が明らかになっているのだが、実行犯である共犯者を探し出すという物語なのだ。しかしこの趣向は物語が終わってから気付かされるのであり、今までのクイーン作品を読んだ読者ならば犯人捜しがメインだと思わされるのだ。

例えば『災厄の町』などの諸作に見られる価値観の転換という手法をクイーンはよく取る。従って今回も早々に判明する夫の妻殺害計画もまたこの価値観の転換により覆るのではないかと思わされるからだ。往年の読者でさえも自らの作品傾向を利用してミスディレクションする、というのは穿ちすぎだろうか?

さらに今回は今までの作品で見られた趣向が織り交ぜられているにも気づかされる。トリックに関してもそうだが、それは他の作品を読んでない読者の興を削ぐのでやめておくが、特に近似性を感じたのが『ドラゴンの歯』。今回タッグを組むハリー・バークは『ドラゴン~』で相棒を務めたボー・ランメルだ。
両者が事件の関係者と恋に落ちるところなどもそうだが、更によく読めば今回の登場人物の名前の一部が『ドラゴン~』でも出てくるところなんかもそうだ―容疑者“カーロス”・アーマンドと執事のエドマンド・デ・“カーロス”―。

さらには被害者グローリー・ギルドの姪ロレット・スパニアが公演をするローマン劇場は第一作『ローマ帽子の謎』の舞台ローマ劇場と思われるし、物語の終盤に登場するJ・J・マッキューは初期クイーン作品で語り手を務めたJ・J・マックであろう。つまりこれは原点回帰の作品ともいえる。

『盤面の敵』(これは純粋にはシオドア・スタージョンとフレデリック・ダネイの合作だが)と本作と晩年のクイーンはいわゆる後期クイーン問題を経て、改めて原点に戻ったパズラー志向を目指したようだ。それには初期の荒唐無稽さはなりを潜め、中期から後期にかけて人の心の謎を織り交ぜ、地味ながらもあくまでロジックで事件を解き明かすことを追求している。この頃、ようやく自分の足元を見つめて自らの書きたい作品を書くことを再認識したのではないだろうか?

しかし、とはいえ今回の真相には首を傾げざるを得ない。

またクイーンはダイイングメッセージが好きでよく作品で使われているが、本作のメッセージは実にシンプル。なんせ“face(顔)”の一語。しかもなんともありふれた単語だ。このメッセージに込められた意味はしかし実に深い。

この謎解きを読んだ時に、いくらなんでも死の間際にここまで機転を利かせたメッセージを残せるだろうかとはなはだ疑問だったが、ここで物語の初期に登場する同じ単語が浮かび上がる日記の白紙のページに浮かび上がる“face”の文字という伏線が生きてくる。

さて今回やたらと当時の風俗を忍ばせる固有名詞が頻出する。NASAやビートルズ、ジョーン・バエズ、プレイボーイにポップ・アート、etc。
もしかしたら今までもこのような固有名詞は出てきていたのかもしれないが、自分が知っている、いや地続き感を覚える固有名詞は初めてである。それまではるか昔の作家だと思っていたが、ここにきてようやく私の時代に繋がった、そんな思いがした。

しかし余談だがかつてのクイーン作品で女性のバストに注目した小説はあっただろうか?いやに出てくる驚くべき胸のふくらみという描写。これも当時活況を呈したグラヴィアの流行なのだろうか。前述の固有名詞の頻出と云い、今まで以上に現代風味に溢れた内容になっている。

シンプルな謎、そしてたった一つの殺人事件ながらも謎解きは複雑で、おまけにアイリッシュを髣髴させる「幻の女」探しと、晩年の作品ながらもミステリ趣向溢れる作品なのだが、ネタバレに書いた理由により、肝心の真相に納得がいかなかった。

本書巻末に添えられた著作リストによればクイーン作品はあと4作。そこに私が感じるミステリがあるのか。期待してみよう。



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顔 (ハヤカワ・ミステリ文庫 (HM 2-23))
エラリー・クイーン についてのレビュー
No.924: 7人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(10pt)

私は最後このように思いました

東野圭吾氏の第一のブームを生み出すことになったのが本書『秘密』である。広末涼子主演で映画化され、更に2010年にはドラマ化もされたのは記憶にも新しいことだろう。

この作品を読むまで、やはりこういった「入れ替わり」物は映画に向いているのだろうなぁ、ぐらいにしか考えていなかったが、さすがは東野氏、凡百の入れ替わり物とは一味も二味も違った味わいを感じさせてくれる。

上手い、上手すぎる。ため息が出るほどにいい作品だ。こんな話が読みたかったと強く思わせられた。

特筆するのはやはり娘と妻の意識が入れ替わったというのが一番大きいだろう。娘の頭の中に妻の意識が宿ることでこれほど父、いや夫側の苦悶が生まれるとは思わなかった。
そしてその娘の年齢を思春期を迎えつつある小学6年生に設定したところが上手い。女性が初めて経験する大人へのステップ、生理や恋人など、男親が戸惑うことが起きる年齢だからだ。
さらに夜の営みについてまで東野氏は書く。いやこれこそが本書のテーマと云っていいだろう。
娘の身体に妻の意識が宿った時、夫婦なのか?親子なのか?実にリアルにこの命題について生活感を持って語られていく。

もしこの設定が逆だったらどうだろうか?つまり妻の身体に娘の意識が宿ったら?
これもまた面白いだろう。なぜなら思春期の娘は父親を生理的に嫌悪するからだ。
ただその場合はこのような鮮やかな結末は生み出せなかっただろう。文庫版『毒笑小説』収録の京極夏彦氏との巻末対談で東野氏は元々『秘密』はコメディ小説を目指したと述べている。もしかしたら設定を逆にすれば東野氏は本来書きたかった小説を書けたのかもしれない。
しかし読者はこの誤算を大いに喜ぶべきだ。なんせこれだけ素晴らしい話に巡り合うことが出来たのだから。

第2期の東野作品はそれまでのトリックやロジックを駆使した本格ミステリから人の心の謎にテーマを求めた作品を書くようになってきた。それらの作品は『宿命』、『変身』、『分身』、『悪意』と二文字の題名になっているのが特徴的である。この『秘密』もその系譜に連なる作品であり、さらに云えばそれまでの一連の作品の集大成的な作品であると云えるだろう。
娘の心に妻の意識が宿る。このたった一行で済まされる物語のテーマを軸にその事実に直面した夫と妻の心の機微が詳らかに描かれる。淡々とした文体で日常の所作から実に細かく描写を重ね、実生活感を滲ませ、ごく普通の家庭で起きた不可解事を見事に生活に溶け込ませている。そして男性ならば平介の立場を自らに重ね合わせ、自分ならどうするだろう?と煩悶し、女性ならば直子の立場に自らを同化させ、私ならどうするだろう?と自問することだろう。

さらにそんな苦悶の日々にすっと一筋の光が平介の心に降りてくるのが、サブストーリーで描かれるバス運転手がなぜ残業までして前妻に仕送りしていたのかという謎の真相なのだ。
なんていう上手さなんだろう。全く無駄がない、卒がない。これこそが人の心の謎を上手く物語に溶け込ませた瞬間である。まさに至高のストーリーテラーである。

さて余談になるが本を読むと奇妙な偶然に出くわすことがある。全く無作為に選んだ作品なのに扱っているテーマが似ていたり、現実に起こった事件と同種の事件を扱った作品を読むことになったり。私はそれをシンクロニシティと呼んでいるのだが、今回もそれを感じさせることがあった。

主人公の平介が妻と娘を失う危険にあったのがスキーバスの転落事故なのだが、これはまさに昨今起きている夜行バスの事故を髣髴させる。
作中で繰り広げられる被害者の会の内容などは今まさにその事故の遺族や当事者が直面している問題なのだろう。

『天空の蜂』でも東日本大震災に端を発する原発事故がシンクロし、単なる読み物とは思えなかったが、本書もまさにそうだった。東野氏がいかに普遍的な事件を幅広く扱っているのが解る。

閑話休題。

物語のラストに賛否両論があったという声を聞いたが、それはなぜだろう?

本書のタイトルは『秘密』。
もちろんこの秘密とは杉田家が抱えた秘密であり、またラストの書かれた永遠の秘密のことだろう。
さらに私は重ねたいのは物語の真相こそが作者が最後まで取っておく読者に対する秘密だということだ。
秘密であっていいこともある。本書の秘密もまたそんな秘密の1つだ。


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秘密 (文春文庫)
東野圭吾秘密 についてのレビュー
No.923: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

結局行き着く先は同じ

今までは東京の裏社会に暗躍する外国人の世界を舞台にしていたが、今回は逆に異国の街の暗黒世界に身を置く男を描き、生き抜くために喘ぐ姿を活写する。
それまでに発表されていた作品と180°設定と舞台を変えたのが本書である。

そして扱う世界はなんと台湾野球界。しかしそこは馳氏、ただのスポーツ小説を書くはずがない。
彼がテーマに選んだのは台湾野球にはびこる八百長。野球賭博を牛耳る黒道というマフィアが野球選手のみならず球団関係者をも買収して八百長―放水というらしい―を取り仕切っているのが台湾プロ野球界の現状らしい。

そしてその八百長の元締めを務めるのが日本人投手加倉。かつて鳴り物入りでプロ野球チームに入団し、ノーヒットノーランも達成したが、肩を故障してから調子を崩し、引退後会社を興すも倒産し、莫大な借金を抱えて誘われるまま台湾野球に逃げ込んだ男だ。

その加倉がどんどん人殺しの螺旋に堕ちていくのが今回の話。

加倉は頑なに自分が八百長に加担していないと主張するが、次第にそれが通じなくなっていく。どうにか自分が潔白の身であることを信じ込ませるために足掻くが足掻けば足掻くほど泥沼に陥り、一人、また一人と自分の立場を危うくする人を殺さざるを得なくなる。

しかし加倉が落ちぶれていながらも、そして実際に八百長に加担していながらも世間向けには無実である姿を死守しようとするのは何故だろうか?
それは台湾にいる日本人野球選手で八百長に加担している者がいないからだ。日本人選手は台湾野球界の実状に絶望し、帰国してしまう。加倉は唯一台湾野球界の暗部にどっぷり浸かった人間なのだ。
そんな加倉が潔白の身であろうとするのはひとえに日本野球界の名誉を汚さずにおこうとする意地なのだろう。かつて大型投手として期待されながら故障によって日本球界を去らざるを得なかった加倉の心に最後に残った一握りのプライド。それは彼が日本人の野球選手だということなのだろう。
その本人さえも気付かなかった思いがずしりとのしかかるのは所属チームの社長から解雇通告を受けた時だ。水商売の経営、八百長の元締め、そして殺しと野球以外での活動が忙しかった加倉が解雇通告を受けて激しく動揺する。
自分から野球を取ったら何も残らない、と。野球こそ彼の拠り所であり、全てであった。だから自らプロ野球を汚しておきながらもどこかで大切な守るべき部分であったことに気付かされるのだ。

ただ刑事の王が加倉を手下として使うことになった理由について納得がいかない。刑事の王は物語半ばで加倉が生き別れた弟邦彦だったことが解り、王東谷は加倉の元母親の再婚相手だったことが判明する。
それ自体は特に驚きがない。王の執拗な加倉への憎悪は過去に大きな禍根を残したことによるものだろうと推察できたし、かつて元黒道だった王東谷が献身的に加倉の助けになるのも恐らく過去に加倉にまつわる何かがあっただろうことは容易に推察できたからだ。

しかしその後王が加倉の話を全部聞いた上でをスパイにして徐の情報を手に入れようとするのが解らない。理由として王は逮捕した犯人が実は兄だったと判明することで自分の刑事生命も危うくなるからだと述べているが、初めて加倉に逢った時から王自身はそれを知っていたはずである。その上で加倉が八百長に関わり、また俊郎を殺した犯人であると疑い、逮捕への執念を燃やしていたのはどうにも矛盾を感じる。
この辺については物語の終盤で何か説明があるのかと思っていたが、特に明確な答えには行き着かなかった。せいぜい憎悪する徐を始末せんがために利用したというぐらいしか語られなかった。

今回最も印象に残るキャラクターは加倉の通訳であり、良き理解者でありながら元黒道だった王東谷だろう。平時は善人ながらも窮地に陥った時は落ち着いた態度で迅速に対処する。そして自分が元黒道だった過去を忌まわしく思いながらもその過去に振り回される。
かつて山村輝夫という名だった在日台湾人の彼は加倉を支え、また加倉を助けるのに協力を惜しまない。その理由は物語半ばで判明するが、何よりも彼が植民地時代に受けた日本人教育の影響で日本人の精神をこの上なく尊敬しているのが彼の最たる特徴だろう。大和撫子と結婚し、陛下のために益丈夫を育てることが夢だったとまで述べている。
小林よしのりのゴーマニズム宣言シリーズの『台湾論』に詳しく述べられていたが、台湾人は日本の植民地時代に当時台湾に住んでいた日本人に生活を豊かにしてもらった経験があり、新日派が多い。その後中国からの侵略を受け、台湾には中国からの移民組、外省人と生粋の台湾人、本省人の対立は根深い。王は本省人でしかも日本人の精神を学び、自らを天皇の民、皇民と誇りを持って自称する。そんな人物がかつては黒道という台湾やくざの一味であったというギャップ。

それは彼の純粋さ故だ。日本人を尊敬し、日本人でありたいと願うばかりにいざ結婚した日本人妻が子供の産めない身体だったと知ると烈火のごとく怒り狂い、暴力も辞さない。

題名となった夜光虫とはつまり台湾の闇に蠢く加倉、王東谷、王國邦、徐栄一ら手を赤く染めた人たちを指しているのだろう。しかしそれはいつもの物語設定であり、この物語だけに当て嵌まる題名ではない。
登場人物、舞台設定などはリアルであるのに語られる物語がいつも同じというのは非常に勿体ない。馳氏の新しい物語を期待する。


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夜光虫 (角川文庫)
馳星周夜光虫 についてのレビュー
No.922:
(8pt)
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悲劇なのに爽やかなのはなぜ?

ジョー・ヒル待望の新作。傑作短編集『20世紀の幽霊たち』以来だから実に4年ぶり。
日本での訳出は逆だったが本国では前作に当たる『ハートシェイプト・ボックス』から5年ぶりの新作である。

いやあ、さすがはジョー・ヒル。どのジャンルにも属さない素晴らしくも奇妙な味わいの作品を読ませてくれる。

朝起きると角が生えていたというカフカの『変身』を思わせる発端から、角が生えたイグに逢う人物はことごとく腹に溜まっていた悪意の言葉を口にすることが解る。
これがもうとても聞きたくない話ばかり。普通の隣人や知り合いが実は腹の中でどんな風に思っているのか。それが制限なく毒を垂れ流すが如く溢れ出る。なんというか、まともな人間はいないのかとまで思わされる。
そして触れた者の秘密事が一瞬にして解る能力も授かる。この秘密事も知られたくはない性癖だったり悪事だったりする。しかしこんな能力は願い下げだ。

そして彼らよりも輪をかけて悪いのはイグの友人リー。とにかく今回はこの敵役のリー・トゥルノーの下衆野郎ぶりに尽きる。なんとも自分勝手な利己主義者であることか。
他人の善意を利用し、全てを自分の都合のいいように解釈する。友人は全て利用する物、全ての女性は自分に抱かれたいと思っている、そんな傲慢な性格の持ち主だ。

日本の小説ならばここまで書くと…というブレーキがかかるところをジョー・ヒルはとことん描く。人間の嫌な部分をあからさまに謳う。
この辺の筆致はクーンツに出てくる唾棄すべき悪役に似ている。

物語はイグに角が生えた現在と、イグが恋人メリンと出逢った少年の頃の時代の話、そしてメリンが殺された夜の話が交互に語られる。

イグ、兄テリー、そして親友のリーとの出会いと日常を語る過去の章は青春小説の趣があり、マーク・トウェインの『トム・ソーヤの冒険』を髣髴させるほど色鮮やかでノスタルジックだ。実にアメリカ的な物語である。

特にイグとメリンが最初に会話を交わすシーンなんかは眩しくて美しすぎるくらいだ。本当にこういうのを書かせるとジョー・ヒルは上手い。

そして私が特にジョー・ヒル作品で好きなのは物語に挟まれるサブカル、特に音楽に関する薀蓄や冗談。突然歌詞の一部が地の文に挿入され、思わずニヤリとさせられるし(この辺は洋楽ファンの特権だ)、平気で物語の登場人物に実在のアーティストを絡ませたりもする(ちなみに今回はローリング・ストーンズのミックとキース)。
そしてその最たる物はやはりこの物語の要となる設定だ。頭に角が生えるという着想はさすがジョー・ヒル!と思わせる奇抜な発想だと思ったが、いやはやAC/DCのアンガス・ヤングだったとはね!そのネタが解った頃からイグの風貌はアルバム・ジャケットで角を生やしているアンガスのそれとなってしまった。やはりジョー・ヒルの作品と音楽は切っても切り離せない要素であるようだ。

しかし本書は哀しい物語である。
優しい者同士がお互いを強く愛するがゆえに起こった悲劇。
そうこの物語は悲劇から始まる。
そしてジョー・ヒルは悲劇から始まった彼らに対して安直な救いは用意しない。物語の結末としては苦い物ばかりなのだが、なぜかその喪失感こそが爽やかだ。
全てを燃やし切った彼らの心地よい徒労感が行間から漂う。
そして題名『ホーンズ』のもう1つの意味が最後に解る、この演出もまた憎い。

もう少し削ればこの物語は傑作になりえただろう。ジョー・ヒルの長編を読んで残念に思うのは全てを語らんとする冗長さだ。この辺をもう少しそぎ落とし、行間で語れるようになればもっとすごい作家になるに違いない。


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ホーンズ 角 (小学館文庫)
ジョー・ヒルホーンズ 角 についてのレビュー
No.921:
(7pt)

映画のイメージを覆す原作

ハリウッドアクション大作『ランボー』の原作である。
同映画が公開されたのがまだ小学生だった頃。当時ワクワクしながら観たのを覚えている。とにかくアクションがすごいというだけで観たため、詳細なストーリーや設定は頭に入っていなかった気がする。

さてその原作がマレルの手によるものだというのは知っていた。発表されたのは映画より10年も前の1972年。なんと私の生まれた年である。
映画化から37年経って読んだ原作。なんだか感慨深いものがある。

一読して驚いたのはランボーの敵役の警察署長ティーズルがいわゆる田舎町を牛耳る悪徳署長などではないことだ。

ランボーを町から追い出そうとしたのも身元不明で怪しい身なりの人物が町をうろつくことで住民が不安を覚え、治安が乱れるのを防ぐためだし、またランボーを追うことになったのも彼が目の前で自分の部下を殺したからだ。また彼は朝鮮戦争を経験した後に警察署長としてマディソンに戻ってき、警察機構として機能していなかった署の改善に尽力してきた人物でもある。
つまり至極まっとうな人物なのだ。

片やランボーはヴェトナム戦争で捕虜になり、そこから生還した元グリーンベレー。名誉勲章も得たが捕虜になった時の経験で心が壊れた状態になっている。
従って署に運ばれた時に髪を切り、ひげを剃られる時に捕虜で受けた拷問を思い出し、とうとう耐え切れなくなり警官から剃刀を奪って殺害し、逃亡してしまうのだ。
そこからはグリーンベレー時代のことを思い出し、人を殺すことへの罪悪感も薄らぎ、逆に追ってくるティーズルら一味を皆殺しにすることを決意する。

そう、通常の物語構造から云えばランボーは元グリーンベレーでヴェトナム戦争の時に抱えたトラウマでおかしくなった殺戮マシーンであり、それを追い出そうとする警察署長ティーズルらは彼のターゲットとなり、善と悪で云えばティーズルが善、ランボーが悪なのだ。
これは映画の構造と全く逆で驚いた。まさに価値観の転換である。

そして単なる一人対多勢の戦闘小説に終始しない。ランボーが生き抜くためのサヴァイバル小説でもあり、はたまた冒険小説の要素も兼ね備えた内容になっている。

そして読中、しきりに頭を過ったのはレンデルの『ロウフィールド家の惨劇』だ。この全く色合いの違う作品だが、物事の発端は全く以て同じだ。

先にも書いたが、ティーズルは不審者である男を尋問し、町から出るよう警告したのだが、相手が何者であるかを知らなかった。というよりも理解しようとしなかった。
だから彼は通常犯罪者に行うように裸にして、洗浄したり、個室に入れて取り調べをしようとした。しかしランボーはヴェトナム戦争で捕虜としてひどい扱いを受け、閉所に対して深いトラウマを持っていたため、それが彼の生存本能を引き起こしてしまった。

片やランボーは署長の警告を無視した。彼はそれまで何度も行く先々で同じような仕打ちを受けており、うんざりしていた。彼は戦争の英雄であり、ティーズルのような小物に指図されるような男ではないと思っていた。そして彼は逃げ出した時に元来持っていた闘争本能が目覚め、自分がどれほど強い男なのかを知らしめようと思ってしまったのだ。
お互いがそれぞれの思惑を通そうとしたが故のボタンの掛け違え。それが大量殺戮を生み、1つの町を殲滅する寸前の大事にまで発展してしまうのだ。

最終的にこの小説はあらぬ疑いを受け、いわれのない虐待を受けた戦争帰りの男の復讐譚ではなく、町の治安を守るために不安要素を排除しようとした町の署長が一人の男によってそれまで築き上げてきた地位や安定、全てを失う物語であり、ヴェトナム戦争で捕虜となって奇跡的に生還した男が再び闘争心を甦らせ、無敵の戦士になる物語であるのだ。
そう、これはランボーとティーズル2人の物語なのだ。あまりにも有名になってしまった映画のためにこの作品の本質は多くの人間が誤解を招いてしまっているように感じる。斯くいう私もまたその一人なのだ。

しかし映画と小説は別物だという主張もある。ハリウッドはこの作品の設定を借りて映画史に残るアクションムーヴィーを作り、成功した。
作者の意図や希望がそれに合致したかどうかは寡聞にして知らないが、それもまた良作故の功罪か。
『ジュラシック・パーク』がクライトンの作品から一人歩きをしたように、この作品にもまたそのような道を辿ったのかもしれない。

とはいえ、続くシリーズ2作、3作もマレルによって書かれているのだから上のような判断は早計というようなもの。果たしてマレルの真意はどこにあったのか。
これについてはそれらも読んで判断していこう。


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一人だけの軍隊 ランボー (ハヤカワ文庫)
No.920:
(5pt)

クイーンがホームズを書くとき

クイーンが伝説の名探偵ホームズに挑む。しかも扱う事件は切り裂きジャック事件!
当時のミステリ界ではこんな煽情的な謳い文句が躍ったのではないかと推測されるが、クイーン作品にしては文庫本にしてたった200ページ強と今まで一番短い小説である本書は、識者によれば映画作品のノヴェライズだという。

ドイルのホームズ譚に切り裂きジャック事件がないのか、いやいや『バスカヴィル家の犬』事件で途中ホームズがいなくなるのは切り裂きジャック事件に取り組んでいたからだ、などとマニア、シャーロッキアンの間ではまことしやかに囁かれていた稀代の名探偵と稀代の殺人鬼の対決がエラリイ・クイーンの手によって実現されたのが本書。
本書はエラリイの許にワトスン博士の未発表原稿と思しき文書がもたらされ、その内容がホームズが切り裂きジャック事件に挑む話だったという作中作で構成されている。
ホームズの物語ではドイルのホームズ譚にまつわる人物や事件、舞台がそこここにあしらわれ、マニア、シャーロッキアンの興趣をくすぐる。

とにかく1章当りの分量が少なく、おまけに1ページ当りの文章量も少ない本書はサクサク読めることだろう。特にホームズ作品に慣れ親しんだ読者ならば実に親近感を持って読めるに違いない。
前述したようにホームズ作品を読んだ者にとって楽しめるネタが仕込まれているし、作中作のホームズ譚はドイルが書いたそれと比べても違和感はない(ホームズ作品が出てくる文章は他の作家の手によるものらしい)。

限られた登場人物たちで繰り広げられる切り裂きジャック事件の鍵となるのはオズボーン家という公爵の爵位を持つ貴族にまつわる忌まわしいエピソードだ。
事件の発端は何者かによってホームズの許へ送られてきた手術道具セット。そこに隠されていたのはシャイアズ公爵オズボーン家の紋章。そこから物語は行方知れずとなった公爵の次男、そしてフランス帰りと思しき白痴の男の登場と通常の切り裂きジャック事件とは変わった切り口から事件とその犯人が明かされる。

そしてやはりクイーン。単にホームズによる事件解決に話は留まらない。
まず送られた原稿がワトスン博士によるものかという真偽の問題から、ホームズの解決からさらに一歩踏み込んで別の解決を導く。
そしてその真相をワトスンの未発表原稿を叙述トリックに用いているのだからすごい。この発想の素晴らしさ。さすがクイーンと認めざるを得ない。

物語として、また一連のクイーン作品群の中においても出来栄えではごく普通の作品に過ぎないかもしれない。しかし上に書いたこの作品が内包する当時の時代背景や世情、さらにこの作品が書かれた背景ーホームズが切り裂きジャック事件に挑むという映画のノヴェライゼーションを頼まれたクイーンが、その映画の内容を作中作にしてエラリイに謎を解かせるという構造に置き換え、さらに真相をも変えてしまったらしい―を考えるとなかなかに深い作品だと云える。
さらに現代の日本のミステリシーンにおいてもしばしば作家によって試みられているテキストによる叙述トリックの走りだと考えるとこの作品の歴史的意義はかなり大きい。


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恐怖の研究 (ハヤカワ・ミステリ文庫 2-10)
エラリー・クイーン恐怖の研究 についてのレビュー
No.919: 3人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

探偵ガリレオ初お披露目

ガリレオこと帝都大学理工学部物理学科第十三研究室助教授湯川学が活躍する探偵ガリレオシリーズ。
福山雅治が主役でドラマを演じ、一世を風靡し、その後現在に至るまでの東野ブームを作った『容疑者Xの献身』へと続く加賀恭一郎と並ぶ東野圭吾のシリーズキャラクターだ。これはその湯川の初登場作となった短編集。

まず冒頭の「燃える」はいきなり発火して焼死した男の謎を湯川学が解き明かす。
トリックは比較的単純でミステリを読み慣れた者ならばすぐに解るに違いない。しかし犯人については非常に上手いミスディレクションがなされている。冒頭と途中に挟まれるエピソードが叙述トリックになっているのが憎い。
また町工場に置かれた製作機械について湯川が色々と会話するシーンは久しぶりに元エンジニア東野氏の面目躍如といったところか。

次の事件「転写(うつ)る」ではリアルなデスマスクが中学の文化祭で発見され、それが失踪した歯科医の物だと判明する。
これは半分当たり、半分外れたといったところか。
結末はオカルトチックにまとめられていてなかなか面白い。

続く「壊死(くさ)る」では風呂場で怪死した事件を扱っている。
物語は倒叙物として描かれる。同居を迫るスーパーの社長を嫌悪するホステスが自分に惚れる男の話に乗って殺人を犯す。しかしその犯行方法が解らないのが通常の倒叙物とは違っている。

さて次の「爆ぜる」はいきなり海水浴場の沖合でビーチマットに乗った女性が爆死するという衝撃的なエピソードから始まる。
この事件の構造は複雑。まず最初の犠牲者は湘南海岸の沖合で爆死する。次に一人暮らしの男性の変死体がアパートで見つかる。第2の被害者は帝都大学のOBで就職していた会社を辞め、斡旋した教授や大学に只ならぬ感情を抱いていた。
この2つの事件が意外な糸で結びつくのだが、これは最初の被害者の女性が帝都大学で事務をしていたことが終盤になって解るのはアンフェアだろう。

最後のエピソードは「離脱(ぬけ)る」。幽体離脱した少年がたまたま殺人事件の被疑者になった男が停めていた車を見たという不思議な現象を扱っている。
これも科学の実験で証明される。正直この作品が一番どうやって解決するのかが解らなかった。そしてその種明かしも知らない現象だった。しかし本作はそれにとどまらず、フリーライターを生業にしている父親が息子の現象を利用してひと山当てようと画策する卑しい心がテーマとなっている。


天下一大五郎シリーズ『名探偵の掟』、『名探偵の呪縛』の後に刊行されたのが本書。その内容はバリバリの理系本格ミステリ。前述の作品で本格ミステリへの訣別宣言とも取れる文章を書きながら、直後に発表された。

さて本書の中で最も古いのはオール読物1996年11月号に発表された物。片や『名探偵の掟』収録作品で最も新しいのは1995年に書かれており、『名探偵の呪縛』は1995年10月に書き下ろしで発表されている。

ん?

ということは訣別宣言の後に書かれていることになる。つまり『~呪縛』で書かれた作者自身と思われる主人公の発言は本格ミステリからの訣別ではなく、もう1段上を目指した本格ミステリを書くという宣言だったのかもしれない。

さてそんな東野氏が目指した本格ミステリ連作短編とはいかなるものか。
それは科学の現象を利用した犯罪を暴くという物。

事件の不可思議さの反面、それぞれの犯行の動機は実に普通の他愛もない。これらは人の心の謎へミステリの要素をシフトしていった当時の東野氏にしてはびっくりするほど普通のミステリである。

しかし本書の狙いはそれらの動機ではなく、理工学系の大学教授を探偵に配して科学の知識を利用した犯行方法を解き明かすことに焦点を当てている。つまりHowdunitを追求した作品集なのだ。

さて本作はこの後続く湯川学シリーズ、いやガリレオシリーズの第1作目。いわばお披露目用の短編集といった趣。従って読み心地も軽く、ミステリとしては佳作といった内容だろう。
しかし奇妙だったのはガリレオの由来が明確に書かれていないことだ。突然最終話の「離脱る」で草薙刑事の同僚、上司がガリレオ先生と綽名をつけて呼んでいることが判明する。
当時はあまり深く考えていなかったのかもしれないが、上述したようにガリレオシリーズは東野作品を代表する柱の1つになっているから、この呼び名の由来はきちんと補完してほしい。

さて傑作『容疑者Xの献身』に向けてガリレオシリーズを読んで同作をもっと深く楽しめるために次の『予知夢』も読んでおこう。

最後に全くの蛇足だが、本書の解説は佐野史郎氏。彼の文章によれば主人公の湯川はなんと佐野氏がモデルだったとのこと。
現在では福山雅治がガリレオ像を作ってしまったが―不思議と私は読書中脳内変換されなかったが―、当時ドラマ化されたときの佐野氏の心境はいかなものだったのか?
それは触れると野暮というものであろう。


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探偵ガリレオ (文春文庫)
東野圭吾探偵ガリレオ についてのレビュー