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Tetchy さんのレビュー一覧

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レビュー数1426

全1426件 281~300 15/72ページ

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No.1146:
(7pt)

結末が現実的すぎる!

ジャーナリスト出身のフリーマントルがイギリス紙のワシントン特派員レイ・ホーキンズを主人公にして著した作品はかつて偉大な新聞記者として勇名を馳せた父親も関係したヴェトナム戦争の書かれざるある真実だった。

今なおアメリカ人にとって歴史上の汚点とされるヴェトナム戦争には曰くつきの逸話が残されており、またソシオパス(人格障害者)を数多く生みだした暗い歴史を孕んだ、まだ記憶に新しい史実であり、調べれば調べるほどおぞましい話が出てくるのだろう。恐らく兵士の数だけ忌まわしい話があるに違いない。

そして通常このような戦争に隠された真実を暴く物語ならば、その作戦に関与していた生存者たちは口を閉ざし、頑なに秘密を守ろうとし、そのため全てを明るみに出そうとする主人公に対して危難が襲い掛かるのが定型だが、フリーマントルはそんな定石を踏まない。

なんと物語の中盤では孤児救出作戦に関わり、戦死したと思われた元グリーン・ベレー隊員4人はヴェトナムで捕虜として生存しているが判明し、その救出作戦にかつて同じ任務に就いていた生存者2人を採用するのだ。
つまり記録の空白の原因だと思われた2人は隠された事実に固執せず、実は目の前で4人が亡くなるところ目撃したために自ら真実を暴こうと積極的に関わるのだ。

この辺の身の躱し方がフリーマントルらしいと云えるだろう。

そして当事者によるアメリカ人捕虜は無事救出されるが、彼らの精神状態は無反応なままで一向に回復する兆しが見られない。最後の手段として彼らが囚われの身となった孤児救出の一部始終を撮影した件のビデオを見せるという荒療治を行うが、そのことが救出作戦に隠された忌まわしい秘密を暴くことになる。

レイ・ホーキンズに一連の救出劇の生存者たちの証言が実に都合よく捻じ曲げられた真実であったかを悟らせるきっかけが実に見事だ。これには思わず唸らされてしまった。

自身のジャーナリズムを貫徹するために彼が選んだのは真実を暴く事。それは大統領に選出されたピーターソンを失脚させるのみならず、英雄視された花形記者であった自身の父の名誉をも汚すことになる。そうなれば世界的ベストセラーが見込まれている父の伝記の出版も中止され、父の功績に泥を塗る行為になるのだが、それでも彼は躊躇わずに真実を白日の下に晒そうと決意する。
その行動原理は確かに上に書いたように彼の強いジャーナリズムに起因しているのだが、それを超える動機は次期大統領夫人エレナを自分の物にしたいという愛欲なのだ。

結末はやはりフリーマントルらしい皮肉を孕んでいる。作り物の物語であってもそうそう正義は簡単には貫けないのだと仄めかしているようだ。
しかし逆に物語だからこそ現実では難しい「正義は勝つ!」というセオリーを描いてほしかったのが私の本音ではあるのだが。

安定と混迷。
真実を暴くことで正義はなされるがそれによって国が被るのは大きなダメージ。
大人になればなるほど後々の結果を考えて予定調和を目指して敢えて真実から目を背けようとする。
そんな苦い結末を見せるとは。う~ん、なんて現実的な人物なんだ、フリーマントルは!


▼以下、ネタバレ感想
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空白の記録―孤児救出作戦の真相を知った男 (新潮文庫)
No.1145:
(4pt)

ホームズ譚の緻密さと対照的なトンデモ科学の短編集

『失われた世界』で登場したチャレンジャー教授のシリーズ2作目はいきなり人類滅亡の危機に見舞われる。なんと全ての生命が絶命する毒ガス帯に世界が覆われるのだ。チャレンジャー教授の機転で酸素ボンベで生き長らえた一行が直面するのは全てが死に絶えた世界。まさにデストピア小説だ。

毒ガスが一様に世界を撫でた後に残されたのは生きとし生ける物が横たわった死の世界。ドイルはそれぞれの死にざまを描写しながら人類の営みとは何と呆気なく、不安定なバランスの上で成り立っていることを述懐する。
今回の有毒なエーテルが地球を通過した事に対して人間とは何と無力であったことか、世界を支配しているかと過信していた人類の存在のなんとちっぽけなことかと思い知らされ、決して敬虔さを失ってはならないと教訓を説く。人間の驕りに対する警告の小説とみるべき作品だろう。

続く「地球の悲鳴」はチャレンジャー教授が大いなる地球にちっぽけな人間の存在を知らしめるために、ボーリング技師を招いて地殻を突き破り、地球の深淵に触れるプロジェクトを描いた作品。

単純にこれは誰もが子供の頃から疑問に抱いている「地球の真ん中には何があるのか」という疑問にドイルなりの解釈を披露した作品と云えるだろう。

最後の「分解機」は男とチャレンジャー教授が対峙する話。
今回は博識の名声高いチャレンジャー教授が珍しく狼狽える、驚愕の発明が登場する。原子レベルまで物体を分解してさらに再生する事の出来る分解機だ。


チャレンジャー教授物は初めて読んだが、これはドイルの芳醇な空想力が遺憾なく発揮されたトンデモ科学読み物とでも云おうか、本書はドイル自身が愉しんで書いているような節のある作品が収録された作品集である。

「毒ガス帯」は当時のイギリスの小説、特にミステリに対する人々と作者の捉え方が散見されて実に興味深く感じた。

例えば毒ガス帯の接近に対して警告したチャレンジャー教授は知己の友人に酸素ボンベを持参するように忠告するが、いざ毒ガスが来るとそれら友人たちと自身及び夫人たちが部屋に立てこもって酸素を共有するが、その一方で窓からゴルフに興じる人々や赤ん坊を抱いた夫人が毒ガスによって斃れる様を淡々と観察するという傍観者の不気味さがここにはある。特にお抱え運転手のオースティンが自分の屋敷の庭でそのまま息絶えるのを黙って見ているどころか、炭鉱のカナリアのように実験体としてその死にゆくさまを冷静に観察する薄情さに驚かされる。
これはやはり下僕と知識人の身分の違いが当時色濃く残っており、下僕は救助の対象にはならない上流階級の冷たさがその当時は至極当然だったことがこのエピソードから読み取れる。

さらに夥しい数の死者を目の当たりにして登場人物の1人が、胸に穴をあけられて殺された男を見るとその個人に対して胸がむかつく思いがするが、数千、数万単位の死者となるともはや1人の人間ではなく、集団の塊になり、特定の人間の死として捉えることが不可能になると述べる。
この件は笠井潔氏が唱えた「大量死理論」を裏付ける文章であり、やはり戦争による大量死で人の死に対する感覚が麻痺しているからこそ、人の死に注目が集まるミステリが生まれたことの裏付けのように思えた。

さらに「地球の悲鳴」では宇宙のエーテルを地球は内部に注ぎ込み、活力を得ていると教授が持論を述べ、また「分解機」でもエーテル波が引き合いにされる。
とにかく当時はこの光が伝播するための媒質だと思われていた物質が小説家の想像力をたくましくさせ、勘ぐれば全てのトンデモ理論はエーテルを引き合いに出せば信憑性が増すと信じられていたのだろう。特殊相対性理論などで21世紀の現代ではもはや廃れた理論であるだけに隔世の感があった。

とにもかくにもアイデア自体はやはり一昔、いや二昔前の空想物語であることは否めない物の、書きようによっては物語としてはもっと広がりが出来たように思え、導入部の衝撃に比べて結末が尻すぼみであるのは勿体ない。
最も長い表題作は地球上の全ての生命が死に絶えた世界を舞台にドイル自身が展開を持て余したようにも思える。唯一一番短い「分解機」が皮肉な結末と物語として成立しているくらいだろう。

しかしシャーロック・ホームズではホームズの観察眼と類稀なる推理力で実存レベルでの犯罪の謎を解き明かすのに対し、チャレンジャー教授では教授の破天荒な理論から物語が展開する趣向が取られている。
しかし繰り返しになるが物語としての出来はやはりホームズの方が上。チャレンジャー教授物は既にホームズシリーズ発表後の作品であったため、魅力的な謎を現実的な話に落とし込まなければならないミステリを書き続けるのにうんざりしたドイルがとにかく面白い思いつきを物語にしたくて書いた作品群ではなかろうか。それは物語のそこここに性急さが目に付くことからも判断される。
まあ、売れたからこそできる作家の我儘と捉え、好意的に読むこととしよう。


▼以下、ネタバレ感想
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毒ガス帯―チャレンジャー教授シリーズ (創元SF文庫)
アーサー・コナン・ドイル毒ガス帯 についてのレビュー
No.1144:
(7pt)

まさにスパイゲーム!

CIAとKGBの共同作戦と云えば同作者のFBIとモスクワ民警のコンビ、ダニーロフ&カウリーシリーズを想起させるが本書はそれに先駆ける事12年前に書かれた作品。CIAとFBI、KGBとモスクワ民警といった違いはあるものの、恐らくはダニーロフ&カウリーシリーズの原型となる作品なのかもしれない。

さてこの水と油とも云える2大諜報組織の長を務めるのはCIAはジェームズ・ピーターソン。大統領から直々に作戦の指揮と失敗した時の全責任を負うことを担わされた男。そして彼は長官の地位と引き換えにバラバラになった家族を抱えている。

家庭を省みない夫に愛想を尽かし、日々のパーティの繰り返しでアルコール依存症となった妻ルシール。

優秀な成績を修めて大学を卒業しながらも今や法の目を潜り抜けて犯罪を繰り返し、新聞紙上を時折賑わせている息子ポール。

新興宗教のコミューンに入り、消息不明の娘ベス。

KGBとの合同作戦と云う前代未聞の大プロジェクトを抱えながらも家族の問題にも目を向けなければならない境遇を背負っている。

片やKGB議長のディミトリー・ペトロフは政敵リトヴィノフの執拗な攻撃を疎ましく思いながらも自分の地位を維持している実力者。かつて世界的バレリーナ、イレーナ・シニヤフスカヤとの情事に溺れていたが、彼女の亡命を機に縁が切れるや否や愛する妻ヴェレンティーナを癌で喪った男だ。彼の唯一の弱点は今もまだ未練の残るイレーナへの想いだ。

そして初の米ソ共同作戦のメンバーに選出された面々は以下の通り。

CIA側は宇宙センターで働いた実績のある科学者マイケル・ボウラー、聖職者になる寸前で工作員となったヘンリー・ブレイキー、ヴェトナム戦争で代位級の勲功を立てた陸軍将校ハンク・ブラッドリーとその部下たち。

KGB側はドイツ人の血を持つソヴィエト宇宙探査本部から転身した科学者ゲルダ・リンツ、ロシア正教の司祭を祖父に持つウラジミール・マコフスキー、KGB工作員の長官で自身の自慢の部下をチャドの秘密基地潜入作戦で3人も喪い、復讐に燃えるオレグ・シャラコフとその部下たち。

彼ら彼女らで編成されるチームは大きく分けて3つ。

まず典型的とも云えるのがブラッドリーとシャラコフをリーダーとして構成される軍隊で基地を武力で制圧するチーム。

もう1つはボウラーとリンツで構成されるロケット技術者を装ったボンからの査察団として内部からの破壊工作を行うチーム。

最後の1つは異色で聖職者の血筋を持つブレイキーとマコフスキーのチームは司祭を装って枯葉剤と青酸を村々に盛ってこれらの災いが基地からもたらされていると風評を流して外部から打ち上げを妨害させるチームだ。

そしてこれらのチームは通信衛星打ち上げ妨害にそれぞれ成果を挙げて近づいていくが、あと一歩のところで失敗に見舞われる。

本書が発表された1980年当時の世間一般のモサドに対する知識がどれほどだったか解らないが、やはり世界の諜報合戦の主役はCIAでありKGBであったことだろう。そしてジェイムズ・ボンドで有名なイギリスのMI6がそれに続く世間で知られた諜報組織だったのではないだろうか。

しかし一方で原題“Misfire”もまたフリーマントルらしいダブルミーニングを孕んだ皮肉な題名である。
ここでいう“不発”は米ソ共同作戦の失敗を意味しつつ、通信衛星打ち上げの失敗をも意味している。読み進むにつれてその意味が変わってくる抜群のタイトルだ。

個人的にはいぶし銀の活躍を見せるCIA副所長ウォルター・ジョーンズがアカデミー助演男優賞を与えたいくらい気に入ったキャラクターだった。

なお前書きでフリーマントルは本書で書かれた中央アフリカに作られた民営企業数社による通信衛星打ち上げ会社は実在すると述べている。2020年現在も存在するかは不明だが、宇宙を制する者が世界を制するとしてスターウォーズに目を向けていた世界はこんな仇花をも生み出していたことに改めて驚愕する。

国対国ではなくテロ対国家という敵の構図が変化した現代、再びこのような形で争いの火種を生む民間企業が生まれていないことを強く望みたい。


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最後に笑った男〈上〉 (新潮文庫)
No.1143: 2人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(9pt)

シリーズ1作目だからこその大トリック!

森博嗣の新シリーズVシリーズ、堂々の開幕である。
先行する短編集『地球儀のスライス』所収の「気さくなお人形、19歳」で既に小鳥遊練無と香具山紫子は既に登場済みだったのですんなりと物語世界に入れた。しかしその短編ではてっきり小鳥遊練無は女子大生と思っていたのだが、なんと女装の男子大学生だったとは!

そして小鳥遊の理解者で関西弁の姉御肌の長身美人香具山紫子に自称探偵兼便利屋の保呂草潤平。彼の憧れの的でバツイチお嬢様の没落貴族の趣がある瀬在丸紅子とシリーズはこの4人を中心に進むそうだ。そしてこの4人が実に個性的で私には好感を持って読むことが出来た。

S&MシリーズよりもこのVシリーズの方が私の好みに合うのはメインの登場人物たちが個性的であるのもそうだが、何よりも西之園萌絵の不在が大きい。あの世間知らずの身勝手なお嬢様がいないだけでこれほど楽しく読めるとは思わなかった。
確かに瀬在丸紅子もお嬢様だが、30歳という年齢もあってか、どこか大人の落ち着きが見られ、不快感を覚えなかった。

さらに保呂草は瀬在丸紅子に惚れているが、紅子は保呂草には全く好意を示しておらず、一方で香具山紫子は保呂草に惚れているが、彼は全くそれに気付いていない。そして紅子は小鳥遊練無を可愛がっている。
この4人の奇妙な関係も物語に彩りを添えている。

さてシリーズ1作目の事件は連続殺人事件。しかも1年に一回起きる殺人事件でどれも共通してゾロ目の日にゾロ目の年齢の女性が殺害されている。
3年前は7月7日に11歳の小学生の女の子が、2年前は同じく7月7日に22歳の女子大生が、そして1年前には6月6日に33歳のOLが絞殺され、そして今年は6月6日に44歳の誕生日を迎えた小田原静江が殺害される。そして凶器はインシュロック、電気工事や最近ではDIYで使われることで有名になったナイロン製の結束バンドだ。

これら無差別殺人だと思われた一連の殺人事件にはあるミッシングリンクがあることが判明する。

そしてそれを見破った瀬在丸紅子もまた天才の1人だった。

まさかまさかの真犯人。しかしこれこそ読者に前知識がない、シリーズ第1作目だから出来る意外な犯人像。タブーすれすれの型破りな真相を素直に褒めたい。

しかしそんな驚愕の真相の割には殺人事件のトリックは意外と呆気ない。

本書は1999年の作品だがこんなチープなトリックを本格ミステリ全盛の当時で用いるとは思わなかった。

さてタイトルの隠された意味は理系の学生ならば皆知っていると書かれているが、私は知らなかった…。

天才同士の戦い、数学的興味に満ちた殺人動機とS&Mシリーズ第1作『すべてはFになる』を髣髴とさせる設定であるのは作者として意識的だったのだろうか。
S&Mシリーズと表裏一体の構成はこれからのシリーズ展開を示唆しているのだろうか。

ともあれ保呂草潤平、小鳥遊練無、香具山紫子、瀬在丸紅子らの織り成す居心地の良い新シリーズはまさに波乱に満ちたシリーズの幕明けとなった。
正直S&Mシリーズは世評高い1作目を読んでもそれほど食指が動かなかったが―多分に西之園萌絵のキャラクターがその原因であったのだが―今度のVシリーズは今後の展開が非常に愉しみだ。

ところで何故Vシリーズって呼ぶの?


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黒猫の三角―Delta in the Darkness (講談社文庫)
森博嗣黒猫の三角 についてのレビュー
No.1142: 4人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

刑事、会社の重役とその部下、老夫婦、やくざ、女子高生、看護婦、主婦とその子供、ニートの若者。貴方はどのタイプ?

東野圭吾氏によるSFサスペンス長編。3月13日13時13分13秒に起きたP-13現象なる超常現象で世界中の人々が一部を除いて一瞬にして消失するパニック長編である。

まず驚いたのはP-13現象が起きた後の世界ではほとんど全ての人間が消失し、運転していた車がところどころで衝突し、事故の山を築き、飛んでいた飛行機もまた墜落している、まさに地獄絵図のような状況が繰り広げられることだ。
私は最初この情景描写を読んだ時にアメリカドラマの『フラッシュフォワード』を想起したが、その後度重なる巨大地震と集中豪雨で川が決壊し、地震と重なった起きた津波の描写で東日本大震災を想起した。
しかし本書は2009年4月に刊行された作品で東日本大震災は2年後の3.11なのだ。まさに本書で描かれた状況は当時の被災地の人間が体験したそれのように思えるのだ。
『天空の蜂』もまた3.11で起きた原発事故を予見するような内容だったが、それに加えて被災地の状況をも予見した作品として読むと驚愕に値する。

そしてほんの十数人を残して消え去った人々の世界を東野圭吾氏は持ち前の想像力とシミュレーション力で克明に描いていく。食糧危機にライフラインの根絶、あまり小説で描かれない登場人物たちのトイレ事情なども忘れずにきちんと書くところがこの作家が他の作家とは一線を画した存在であると云えよう。実にリアルである。

最も印象に残るのは度重なる危難の際に集団のリーダーとして皆を先導する久我誠哉の冷静な判断だ。

翻って腹違いの弟冬樹は感情に任せた判断をしては兄の誠哉に諌められる。しかし冬樹の判断こそが通常我々が陥る一般常識だ。

しかし有事の時はその常識が役に立たなくなる。

例えば1人の死にかけた人間が出れば、可能性がある限り、一命を取り留める措置を全力でするのが常時だが、未曽有の災害が起きた時では助かるか解らない1人のために全員を犠牲にするわけにはいかないから、見殺しにすることが求められる。

これまで自分が絶対だと信じていたものが、次々と壊れていくのを彼は感じていた。

これは冬樹の心情を表した作中の一文だが、実に正鵠を射ている。

もはや国家と云う拠り所が無くなった状態では今までの道徳や決まりごとが無意味となり、彼らが最大数で合致する価値観に添って物事が決められる世界になることを節目節目で語っていく。

ただ一方で冷静に判断を下していた誠哉も理性や論理だけでは全てが解決しないことを知らされる。

皆がインフルエンザに次々に感染していく中、冬樹はタミフルを飲ませるために嵐の中、病院に取りに行くという一か八かの賭けに出る。幸いにして満身創痍になりながらもその試みは成功するが、それは常に皆の安全を考えて消極的に行動する誠哉にはできない事だった。

つまり常に安全圏にいては何も変わらず、ただ死を待つだけであり、時にはリスクを抱えて行動しなければならない事、そして人間はその意志の強さで思いも寄らない成果を挙げることを誠哉は目の当たりにするのだ。

そして次第に誠哉の論理的思考はエスカレートしていく。
極限状態の中、もはや生存者が彼らだけとなった事実を突き付けられた後、誠哉は残された人類だけで繁栄する方法を披露する。それは皆がアダムとイヴとなって子孫を増やしていくという選択だった。流石に好きでもない相手とセックスは出来ないと女性陣は皆、強い拒絶反応を示し、それが仲間たちの団結に亀裂を生じさせてしまう。
皆がそれぞれの考えで生き方、死に方を選ぶようになるのだ。つまり論理的思考が全てではなく、理屈では割り切れない物が人間にはあるのだ。

論理的思考型人間の久我誠哉と感情的行動型人間の弟冬樹の2人を対照的に描くことで物語に起伏を、そして読者の思考に揺さぶってページを繰る手を止めさせない東野氏の筆致に改めて感心した。

『プラチナデータ』の時も思ったが東野氏のSF物は結末が正直に云ってカタルシスに欠ける結末が多い。

本書でもP-13現象によって図らずも並行世界に取り残された面々は再び起こるP-13現象で救われるわけではない。いや並行世界で死んだ者は揺り戻しによって再び亡くなり、生き長らえた者たちのみ死を免れるのだ。このドライさが何とも云えない苦さを後味として残す。

本書のキーワードは一同のリーダー格である久我誠哉が苦難に見舞われた時に呪文のように唱えるのが「天は自ら助くる者を助く」だ。

これがもしクーンツ作品ならばP-13現象というパラドックス現象を逆手にとって彼らの苦難を全てリセットされたかのように全員生還する、もしくは生まれ変わりになって新しい人生を歩むと云った何らかの救いを設けるのだが、東野氏は敢えてそんな安易な道を選ばず、生と死のシビアな二者択一のカードを切り、犠牲者を容赦なく切り捨てる。

これをどう捉えるかは読者次第なのだが、私はやはりパラドックスを成り立たせた上のハッピーエンドが欲しかった。確かに本書の結末もハッピーエンドではあるのだが、あまりにもドライすぎると感じるのは私の甘さだろうか。

ただ本書は単にSF的興味やクライシス小説として読むには勿体ない。大災害が発生した時に生存するためにいかに行動し、どのような選択をしてくかを示した一種の指南書にもなり得るからだ。
絶望的状況に見舞われた老若男女たちがそれまでの人生の中で培った価値観によってどのような選択をしていくかもまた読み処だ。それぞれが己の人生観に添った選択をするため、それぞれに一理ある。
刑事、会社の重役とその部下、老夫婦、やくざ、女子高生、看護婦、主婦とその子供、ニートの若者とメンバーは実にヴァラエティに富んでいる。
そのどれに自分を重ねるか。そんな風に自分と照らし合わせて読むのもまた一興だろう。


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パラドックス13 (講談社文庫)
東野圭吾パラドックス13 についてのレビュー
No.1141:
(7pt)

9・11を経た殺し屋稼業の意味に迷う心の振幅が興味深い

殺し屋ケラーの第2短編集。彼は今回も依頼された仕事を遂行するため、そしてそのついでに趣味の切手を買うために軽快に全米を飛び回る。

「ケラーの指名打者」ではケラーはターポンズの指名打者フロイド・ターンブルの暗殺を依頼される。
メジャーリーグの指名打者がターゲットと野球好きのブロックらしいネタで幕を開ける。大記録を目前とした大打者がターゲットである理由が正直解らないのがこの話のミソだ。
ケラーへの依頼は斡旋人のドットを通じてくるわけだが、ドットもまた仲介人を経て依頼を受けるため、目的については不明。ケラーは野球観戦で知り合った野球通の男から聞いた話からターゲットになった理由を推理するが、実際にこんな選手はいるのだろうと思わされるから面白い。

2番目の「鼻差のケラー」は一風変わった趣の作品だ。
しかしなぜかケラーは観戦場でよく話しかけられるものだ。そんな雰囲気を纏っているのかもしれない。

ここまでの作品は正直これまでの作風と変わりないが、次の「ケラーの適応能力」はあの9・11が前面に出た作品であり、本書の中で最も多い120ページの分量で語られる。
9・11を経てヴォランティアに参加して、救助隊員へ食事を配ったり、またそれまでに行った仕事の犠牲者に思いを馳せるなど、実に“らしくない”感傷的なケラーが語られる。
作品のトーンはこれまでと同様なのだが、かかれる内容は明らかにこの前に書かれている2作とは趣が異なる。特に仕事を成し終えた後、オレゴンからニューヨークに戻る道中で寄り道をしてジェシー・ジェイムズやジョン・ディリンジャーらの西部開拓時代の悪党たちの博物館に立ち寄って、彼らの人生を殺し屋稼業の自分と重ねあわせているケラーがいる。そしてケラーは引退を決意する。かつて同様の決心をしたがそれよりも強い意志で。

そんな過程を経て次の「先を見越したケラー」では殺しを自分で営業するケラーが登場する。
作中でドットが述べているように本作はケラー版『見知らぬ乗客』。帰りの飛行機で隣り合わせたビジネスマンに殺したい人物がいると持ちかけられ、ケラーは顔を知られていながらもその依頼を受けることになる。
前作で引退のために残りの余生の軍資金稼ぎのためにしばらく殺し屋稼業を続けることにしたケラーだったが、いきなりその顔を知られた相手の依頼を飛び込みで受けるとは大胆。しかしそれを伏線として皮肉な結末に持ってくるのがブロックの上手さ。
9・11を経てもやはりケラーはこうでなくちゃならない。

ケラーの犬好きは作中でもしばしば語られるが「ケラー・ザ・ドッグキラー」はそのタイトルが示す通り、ケラーに犬殺しの依頼が舞い込む。
犬殺しと云うショボイ依頼から思わぬ展開を見せる本書はそのシチュエーションが実に面白い。
自分の大切な飼い犬を殺された夫人2人からそれぞれ別の殺しを依頼される。一方は共同出資者の片割れを、もう一方は自分の夫を。
そうでいながら陰惨さがまるでない。本当に不思議な味わいのあるシリーズだ。

次の「ケラーのダブルドリブル」はインディアナポリスでの殺しの依頼を受ける。
今回のケラーは投資会社が仕掛けた株価操作に巻き込まれ、しかもケラー自身もその標的になるという異色の作品。
また本作では幼少のケラーのバスケットに対するトラウマについても描かれており、それもまた興味深い。

株取引は次の「ケラーの平生の起き伏し」でも続いており、ドットの趣味にもなってしまっている。
今回のケラーは同好の士の殺人。依頼を受けた時は有名な切手収集家シェリダン・ビンガムで顔を見知っている程度だったが、切手展の会場で図らずも接触してしまい、意気投合してしまう。そしてケラーは初めて彼を殺せるのかと自問自答する。しかしこれをどうにか克服するケラーのドライさと感情のスイッチの切り替え方には思わず感心してしまった。
しかしそれまでの彼は標的を殺害した後は独自のメンタル・コントロールで記憶を雲散霧消してしまっていたが、今回は記憶に留めることにしたようだ。ケラーにも徐々に変化が起こってきている。

続く「ケラーの遺産」は前作のシェリダン・ビンガムの死を受けて、もし自分が亡くなった後の自分の持ち物の整理を斡旋人のドットに頼むところから始まる。それはケラーに何かが起こる不吉な前触れのように感じさせたが、ドットが持ちかけた身元不明のアルという人物からの依頼を引き受け、なんとほとんど日帰りで依頼をこなして帰って来てしまうという物。
そしてこのことがつまりケラーにある迷いを吹っ切ることになる。
本書は「ケラーの適応能力」に対するブロックが自身で見出した回答編となっている。従って本書についての感想は後述する事にする。

最後はたった4ページの小編「ケラーとうさぎ」。標的の許へレンタカーで向かっていたケラーがカーラジオを入れると前の使用者が忘れていったうさぎの物語の朗読が流れてくる。しかし次第にその物語に夢中になる自分に気付いたケラーは標的の許を訪れると続きが早く聴きたいがためにさっさと殺してしまう。
正直本当にこれだけの話なのだが、実はこの作品もまた書かれるべき作品だったのだと思わされる。これについては「ケラーの適応能力」と「ケラーの遺産」と合わせて後述する事にする。


殺し屋ケラーシリーズ3作目の本書は1作目同様の短編集で、始まりはそれまでのシリーズ同様の雰囲気だが、それまでのシリーズと決定的に違う所がある。
それは本書が9・11を経て書かれていることだ。

本書中最も多い分量の3編目「ケラーの適応能力」はケラー自身が9・11を通じた変化について語られる。そこにはケラーが物語の主人公として成立するためには非常に困難になってきた9・11以後のアメリカの姿が描かれている。

飛行機のチェックインで厳密に身分証明を求められるようになったため、ケラーはニューヨークからオレゴン州までレンタカーを借りて陸路で向かうのだ。
正直この時点でケラーシリーズは終わりを迎えたとブロック自身は思ったのではないだろうか。アメリカを横断する陸路で標的を殺しに向かうケラーが成立するのか。ブロックにとってこのようなケラーを書いてみることがある意味シリーズ存続の可否を占う一種の挑戦だったのではないだろうか。

そして9・11を経験したケラーは感傷的であり、9・11当時では偶然依頼のためにニューヨークを離れていたケラーはテレビで衝撃のテロを目の当たりにし、断続的に嘔吐する。殺しをしても標的を人間と故意に認識しないことで心から消し去っていたケラーが、テロによって不特定多数の人間の命が失われていく様を目の当たりにして、知らず知らずに精神的ショックを受けるのだ。
そしてそれがそれまでケラーが行った仕事の標的について語られ、ケラー自身が思いを馳せさせる。それはまるでシリーズの総決算のような趣を湛えている。

恐らくこれは『砕かれた街』同様、ブロックにとって9・11を消化するために書かなければならなかった作品なのだろう。“あの日”を境に変わってしまったニューヨークの、いやアメリカの中で彼が想像した人物たちがどう折り合いをつけて物語の中で生き続けているのかを確かめるために。

そして奇妙なことにドットの許に身元不明のアルと云う人物から殺しの依頼をされるが内容が不明のまま、前金のみ送付されるのみの奇妙な依頼が残されて終わる。

その後のケラーの物語はヴァラエティに富んでいる。
まずデトロイトの殺しは標的が逆に依頼人を殺害して実行前にキャンセルになり、帰りの飛行機で話しかけられた男が殺したいと思っている男の殺しを請け負うことになる。

更に犬殺しの依頼を受けたケラーは2人の依頼人がお互いに相手を殺したがっており、逆に2人と1人の浮気相手、更にターゲットだった犬の飼い主を殺害してしまう。

そして次の依頼では標的ではなく、殺し屋である自分をも殺そうと企んでいる依頼人を殺害して、逆に標的にそのことを教え、株の売買で報酬を得るというツイストを見せる。
更に顔見知りの切手収集家が標的になり、案に反して標的と親しくなってしまい、殺害すべきかどうか苦悶する姿もまた見せる。

つまりこれら一連の物語では単に依頼を引き受け、標的の生活や習慣を見守り、また彼・彼女が住む町に身体を委ね、じっくりと仕事を遂行してきたケラーに、自分の意志が仕事に介入して単純に依頼を遂行するだけではなく、全てを合理的に解決するために依頼以外の殺しを行ったり、また逆に依頼人を殺して標的を助けたりと、依頼の動機などまったく斟酌しなかったそれまではありえなかった感情が介入してくるケラーの姿が描かれるのだ。

依頼よりも自分の感情に左右されてしまうケラーは殺し屋としては失格であり、さらに自分の遺産整理をドットに頼むに至って正直これらの物語を最後にケラーは引退するかと思われた。

しかし「ケラーの遺産」でドットに訪れる依頼は「ケラーの適応能力」でドットの許へ前金のみ送ってきた正体不明の依頼人アルからの物で、ケラーはこの依頼を最速で遂行して帰ってくる。そしてそれが彼にある踏ん切りをつけらせることになる。

恐らく余生を過ごす軍資金を得て引退しても、ある時期が来れば何かすべきことが自分にはあるのではないかと思い始め、再びドットに電話して依頼の有無を確認する自分がいることに気付くのだ。つまり自分はやはり生粋の殺し屋であり、この稼業を辞めることはできないのだと悟るのだ。

そして最後の「ケラーとうさぎ」ではレンタカーで子供向けの物語の朗読CDに図らずも夢中になり、その続きが気になって早く聴きたいがために実に簡単に人を、しかも2人の子供を学校に送り迎えするごく普通の主婦が自分の都合で厄介払いしたくなった夫の依頼で始末され、ケラーは再び朗読CDの続きに思いを馳せるのだ。
つまりドライな殺し屋ケラーが最後に見事復活するのだ。

ブロックが選んだのは9・11を経てもケラーはケラーであることをケラーに気付かせることだった。本書にはブロックが模索しながらケラーを書いている様子が行間から浮かび上がってくるが、どうにか本当のケラーを見つけたようだ。
ケラーよ、お互い変わらぬ姿でまた次の作品で逢おうではないか!


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殺しのパレード  (二見文庫 ザ・ミステリ・コレクション)
ローレンス・ブロック殺しのパレード についてのレビュー
No.1140:
(7pt)
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ウィンズロウ版『ナヴァロンの要塞』

久々のウィンズロウはノンシリーズの復讐劇。妻子をテロリストに殺された元デルタフォースの男が遺族たちの賠償金を募ってそのお金でかつての上司が率いる世界各国の精鋭たちを集めた傭兵部隊を雇い、テロリストを追い詰める物語だ。

とにかく物語の展開はスピーディで、勿体ぶったところがなく、デイヴが精鋭たちを雇うのは全ページ610ページ強のうち、178ページと3分の1に満たないところだ。そこからウィンズロウは主人公デイヴ達が標的に迫っていく様を世界中を舞台に入念に語っていく。

航空機爆破テロ。9・11を経験したアメリカならば即大統領は声明を発表し、テロに屈しないとメッセージを出し、どんな手を使っても犯人を見つけ出し、報復行為に出るはずだ。
しかし本書では逆に相次ぐ報復行為で疲弊したアメリカが事件を事故と発表して穏便に済ませようとする。従って本書でテロリストに行う報復は一個人によるものだ。
つまりデイヴの行う襲撃は全て犯罪に変わってしまう。従って異国で行われる作戦は絶対にその国の政府に見つかってはならない。見つかると部隊は全て刑務所にぶち込まれるからだ。

従ってデイヴの行為が各国政府に知られると国際問題に発展しかねない危険性を孕んでいる為、政府としても彼らを止めなければならない。アメリカ国防情報局のデーナ・ウェンデリンはデイヴ達を執拗に追う。デイヴは追う側でありながら追われる側でもあるのだ。
しかしウェンデリン本人もデイヴ達の行為こそ自分たちがすべきことだと思っているジレンマを抱えている。にもかかわらずウェンデリンはデイヴの資金源を、情報源を絶ち、じわりじわりと追い詰めていく。

さてそんな物語の中心となるデイヴの上司マイク・ドノヴァンが率いる“ドリーム・チーム”の面々はウィンズロウらしく実にキャラが立っている。

まず“ドリーム・チーム”の長マイク・ドノヴァンはデルタフォース時代のデイヴの直属の上司であり、共に死線を駆け抜けた同志でもあるため、デイヴは絶大な信頼を置いており、命を補い合った者同士が持つ断ちがたい絆が2人の間にある。ピッツバーグ郊外の鉱山町生まれで安定した食事と寝場所を求めて陸軍に入隊。そんな下層階級の出でありながらノートルダム大学で憲法史の文学士号を持ち、海軍大学院で特殊作戦と低強度紛争課程を履修し、文学修士号を授与されたエリートでもある。彼の決断は信頼する元部下デイヴであっても能力が不足していると思えば切り捨てる意志の強さを持つ。しかしそれは自分の部下を一人たりとも死なせたくないという優しさの裏返しでもある。

コーディ・ペレスはメキシコ出身の元アメリカ空軍パラレスキューで医療及び高度特殊作戦の訓練を受けた兵士。アフガニスタンのタンギ渓谷でSEALs隊員を助けるために死線に飛び込みながら、1人の隊員を救えなかった苦い過去を抱えて生きている。

ドイツ人のウルリッヒ・マンは元ドイツ連邦陸軍特殊戦団出身で破壊工作のプロフェッショナル。アフガニスタンの任務でタリバンを目の前にしながら上からの命令で敵を抹殺せずに捕獲を要請されたため、自身を危険に曝しながらも観察を強いられた事から隊を辞任した。

金のために戦うと公言して憚らないのが元イタリア陸軍空挺部隊のアレッサンドロ・ボルギ。兵士でありながらモデル並みの容姿を持ち、ダウンヒルのスキーヤーでもある。報酬は全てフェラーリと女性へと消える。

チームの中で興味深いのは歴史的犬猿の仲であるイスラエル人とパレスチナ人が同居していることだ。
前者のレヴ・ベン・マロムはイスラエルの選りすぐりの精鋭で構成された極秘組織“ザ・ユニット”出身で多くのテロリストを殺した。
後者のアミール・ハダドは難民キャンプの出でイスラエル軍に母親を殺害された拭いきれない過去を持つ。従って彼はイスラエル軍と戦ってきたが、ある任務で爆破テロを命ぜられながらも出来なかったことから組織だけでなく父親からも勘当され、追い出されたところをドノヴァンに拾われた。しかしイスラエルに対する憎しみは続いており、レヴとの仲は今でも険悪だ。
この2人が死闘の中でお互いの立場を理解し、認め合うところが意外なアクセントとなっている。

ドノヴァンの片腕で前線での作戦の指揮を任されるミッシェル・ディアロはフランスの海軍コマンド出身。しかし軍への緊縮政策による予算削減の際にアフリカ系フランス人であるという理由で除隊を命ぜられたところをドノヴァンに拾われた。

今ではジンバブエと云う名の別の国になったローデシア出身で隊最年長のロルフ・フォルスターはセルース・スカウツ出身の格闘術のプロ。祖国を失い、各国で雇われ用心棒をしながら流浪していたところをドノヴァンにスカウトされた。

マイク・ドノヴァンと云うカリスマの許に集められた精鋭たち。激しい訓練と死地を幾度となく潜り抜けてきた彼らの絆は海よりも深いと考えられていたが、意外な形で彼らの作戦は綻び始める。それはメンバーの裏切りだ。

上にも書いたように訳者が変わったせいではないだろうが、短い文章でテンポよく物語を運ぶのはウィンズロウらしさがあるものの、彼の持ち味であるユーモア交えた小気味いい文体が本書では一切ない。
実にストイックに家族を喪い復讐に燃える男の物語が、専門知識をふんだんに盛り込まれながらも悪戯に感傷を煽るようにならず、ほどよい匙加減で切り詰められた文章で進んでいく。
特に描写がリアリティに満ちていて実に痛々しい。
例えばよく映画で目の前で敵の頭が吹き飛び、血漿を浴びるセンセーショナルなシーンがあるが、本書ではさらに砕けた頭蓋骨の破片が顔に突き刺さり、それらを除去しないと感染症に罹ってしまうという実に生々しい説明が付け加えられる。

また飛行機から飛び降りる高高度降下落下傘にしても単に潜入するだけに留まらない。高高度から飛来することの危険性―気温が摂氏マイナス48度であるから凍傷や低体温症の危険性がある、飛来する人が“X”の形で降りるのは風の抵抗を受けて少しでも落下スピードを落とす為で、落下スピードが速すぎるとパラシュートを開いた瞬間の衝撃で関節が外れてしまう、等―を詳らかに数行に亘って説明する。それも決して熱を帯びていなく、あくまで淡々と。
『野蛮なやつら』や『キング・オブ・クール』で見られた実験的な文体を書いた作者と同一人物とはとても思えないほどの変わりようだ。

特に最後のテロリストの巣窟への襲撃戦はさながらマクリーンの『ナヴァロンの要塞』のようだ。

そしてウィンズロウ版『ナヴァロンの嵐』がいつか読めることを期待しよう。


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報復 (角川文庫)
ドン・ウィンズロウ報復 についてのレビュー
No.1139: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

当時の世相が色濃く出ている

前作『新参者』で日本橋署に転勤になった加賀が同署で再び相見えたのは一見簡単だと思われた行きずりの殺人事件。そして『赤い指』の事件でタッグを組んだ松宮刑事と再び捜査を共にする。

新宿に本社を持つ建築部品メーカーの製造本部長を務める男性がなぜ日本橋で殺害されたのか?
しかも腹を刺されながら日本橋交番を素通りしたのか?
そしてなぜ麒麟の像の下で彼は息絶えたのか?

容疑者となったのはかつて男の勤める会社で働いていた派遣社員。彼は警察の職質で逃げ出し、トラックに轢かれて意識不明の重態に陥る。そして彼は男の会社の労災隠しで派遣契約を打ち切られたことが発覚する。

当時社会問題となっていたいわゆる「派遣切り」問題を扱いながら、ある会社の本部長を務める男がなぜ日本橋七福神を参っていたのかという小さな謎が加賀を奔走させる。
さらに調べていくと被害者は七福神の1つ、水天宮で千羽鶴ならぬ同一色の折り紙で折った百羽鶴をお供えしていたことも判明する。
一つの謎が明らかになると浮かび上がる被害者の謎めいた真意。加賀は軽い臆測で事件を片付けず、とことん真相を追及していく。

さらに今回加賀は『赤い指』で亡くなった父親加賀隆正の三回忌を迎えようとしていており、その際に隆正の看護を担当した看護婦金森登紀子の世話になっている。
この金森が加賀に隆正の三回忌の打合せをしている時に放つ言葉が今回の事件解決のヒントになるところが本書のミソだ。

この2つの構図をなんと上手くリンクさせることか。
そしてこの加賀の父親との不和が『赤い指』を経て徐々に浄化されていく過程こそ、シリーズを読んできた者が得られるカタルシスであり、特権だ。

加賀恭一郎シリーズの例に漏れず、今回の真相も苦い。

また本書は事件が残された家族に招く社会の冷たさにも触れている。
『手紙』では加害者である殺人犯の弟が受ける理不尽とも思える社会の冷たさを扱ったが、本書では被害者の遺族が、被害者が会社の労災隠しの首謀者と報じられたことでマスコミや周囲から遠ざけられていく。突然の悲劇に追い討ちをかけるようにのしかかるスキャンダル。

一方で結果的に冤罪となった容疑者八島冬樹の唯一残された同棲相手の中原香織もまた事件の影響でバイト先から暇を告げられる。
加賀が呟く「殺人事件とは癌細胞のようなものだ。ひと度冒されたら、苦しみが周囲に広がっていく」の台詞に全てが集約されている。

そしてタイトルとなっている“麒麟の翼”には伝説の獣、麒麟には本来備わっていない翼が日本橋の麒麟像にはついていることに由来している。それは日本の全ての道の原点である日本橋から人々が日本中に飛び立っていく、そんな思いがその翼には込められているそうだ。

それは加賀にもまた当て嵌まる。『赤い指』で一旦決着したかに見えた父親との不和。しかし看護婦金森を通じて、何も解決していなかったことを悟らされる。冒頭の振り込め詐欺を見破るエピソードに象徴されるようにシリーズにおいて常に全てを見抜いているかの如く、事件の捜査に当たる加賀が初めて見せる動揺が家族についてのことだった。つまり周りのことは見えていても自分のことは一切見えてなかったことを知らされるのだ。

恐らく次は再び加賀が父隆正へ向き合う物語になるのではないか?
本書では青柳家が父親の死に直面して改めて父親のことを知らなかったことを再確認させられ、また父親の真意を汲み取ることで父親が向けた家族への眼差しを改めて知ることになった。

さて次は加賀恭一郎の番だろう。次作『祈りの幕が下りる時』を読むが愉しみだ。


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麒麟の翼 (講談社文庫)
東野圭吾麒麟の翼 についてのレビュー
No.1138:
(7pt)

9・11を経たNYでの事件をブロック流に描くとこうなる

ニューヨークに生まれ、マット・スカダーシリーズを中心にニューヨークを描いてきたブロックが9・11後のニューヨークを描いたのが本書。そこにはスカダーは描かれず、ニューヨークに住む人々を描いた群像劇の様相を呈している。

ニューヨークで知り合いや友人の掃除代行をして生計を立てているジェリー・パンコーが出くわす殺人事件を軸にニューヨークに住む人々の生活が語られる。

画廊を経営するスーザン・ポメランスは殺人事件の被害者マリリン・フェアチャイルドに不動産を紹介してもらった縁があった。彼女は彼女の専属の初老弁護士モーリー・ウィンタースを筆頭に男と女区別なくセックスに溺れていた。

殺人事件の容疑者にされた小説家のジョン・ブレア・クレイトンは自分の無罪を晴らすためにモーリー・ウィンタースを弁護士として雇い、保釈金を払って釈放される。事件の話題がホットなうちに次作を物にして、ベストセラーを狙っている。

元ニューヨーク警察本部長のフランシス・バックラムは次期市長選に乗り出そうと画策している。

そして9・11の事件で家族を喪った男は殺人を重ねていた。
ニューヨークの歴史の中で起こった数々の悲劇。南北戦争時に起きた徴兵暴動。ドイツ系移民をぎゅうぎゅう詰めにした遊覧船が全焼して沈没したジェネラル・スローカム号事件。150人もの針子が工場火災で亡くなった<トライアングル・シャツ>社火災事件。ニューヨーク・ギャング、マフィアの抗争。
それらの事件はこのニューヨークという市が甦る為に捧げられた犠牲だと彼は考えた。従って彼が殺人を重ねるのはもまた9・11で破壊された市を甦らせるための人身御供を捧げるためであり、建物に放火していくは再建するためだった。

そんな彼の正体は案に反して早々に判明する。下巻の76ページで彼の素性が警察の捜査で明らかになるのだ。
広告会社の元調査課長である彼はしかし隠れ家を転々としながらニューヨークを離れない。寧ろ自分の痕跡を残すことで彼の名前と偶々犯罪でハンマーと鑿を使用したことから付いた綽名“ハービンジャー・ザ・カーペンター”の存在をニューヨーカーたちに知らせ、畏怖させようとする。

一方でもう1つの物語の軸となるのは美人の画廊主スーザン・ポメランスのエスカレートするセックス・ライフだ。専属の弁護士とたまに情事を愉しむだけだったのが、ボディ・ピアスを開けたことで潜んでいた性に対する飽くなき探求心が高まり、性欲の赴くままに街を徘徊しては男たちを誘い、アブノーマルなセックスに興じる。その相手が当初殺人事件の容疑者とされていたクレイトンへと繋がっていく。

それぞれ関係のないと思われた登場人物が次第に事件とスーザンの夜の活動によって繋がりを形成し出す。

そう、この800万もの人間が巣食うニューヨークで起きる、9・11のある犠牲者によって引き起こされる狂信的な連続殺人はなんと1人の奔放な性活動を多種多様な人物と繰り広げる女性によって解決の糸口が見出されていくのだ。

これはブロックなりのジョークなのだろうか?
アラブ人のテロリストによって破壊されたニューヨークで悲劇のどん底に突き落とされた人々。どうにか傷が癒え、再興に向けて歩き出している人々が再び出くわした悪夢に対して、セックスによってそれまでの価値観を崩され、新たな自分に目覚めていく男たちを生み出す一人の女性がそれぞれの事件を繋げていく。
つまりスーザン・ポメランスのセックスこそは再生の象徴と云っているのだろうか?

率直に云ってスーザンが繰り広げるセックスの開拓はほとんどポルノ小説のようである。いやそのものと云っていいほど詳細に、且つ濃密に描かれている。
これが1人の哀しきテロリストによる狂信的なニューヨークの再生を謳った暗い色調の物語を一変させているのだ。しかもこの2つは物語に上手く溶け合っているとは正直云い難い。このスーザンの物語は本当に必要だったのか、甚だ疑問である。

さてニューヨークを舞台にしていながら探偵は出てくるものの、それはスカダーではなく、全く別の人物である。しかしそれでも本書とスカダーシリーズは同じ世界で書かれていることが明かされる。

それは『死者の長い列』で登場した三十一人の会に所属する不動産会社を経営するエイヴァリー・デイヴィスが登場した事だ。また事件発見者のジェリー・パンコーがAAの会にも出ているなど、随所にスカダーシリーズを想起させる世界観が内包されている。

そう考えるとニューヨークのハイソサエティの世界で奔放な性活動を繰り広げるスーザン・ポメランスはエレイン・マーデルの代役とも考えられる。つまり本書はエレインの側から事件を描いた作品なのだと。

いやこれはやはり穿ちすぎだろう。

ニューヨーカーであるブロックにとって9・11は途轍もないショックをもたらしたことだろう。しかしブロックが紡いだ9・11後のニューヨークは悲劇を乗り越え、それでも強かに生きている人々の姿だった。
9・11は終わりではなく、また始まりでもない。確かに以前と以後では変わった物も事もあったが、それはニューヨークの歴史の中での通過点の1つであった。
それが証拠に我々はまだ生きているではないか。生活を営んでいるではないか。ブロックが人生讃歌の物語を書くとこんな風になる、いい見本だと思った。


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砕かれた街〈上〉 (二見文庫―ザ・ミステリ・コレクション)
ローレンス・ブロック砕かれた街 についてのレビュー
No.1137: 2人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(9pt)

もはや理系作家とは呼ばせない!

森氏がシリーズの節目に刊行する短編集。本書はS&Mシリーズ完結の節目に編まれた第2短編集だ。

最初の「小鳥の恩返し」は昔話のモチーフから物語が転じる様子が鮮やかだ。
いきなり心揺さぶられる短編である。
現代の童話とも云うべき小鳥の恩返しと云うテーマから陰惨な殺人事件の驚愕の真相が立ち上ってくる。寓話的な主題が事件の哀しい結末と結びつく、珠玉の1編だ。

「片方のピアス」もまた幻想的かつ切ない印象を残す作品だ。
双子の兄弟の一方と付き合っていながらも他方に魅かれるというあだち充氏の『タッチ』などに代表されるラヴコメの定番のような設定をこれほどまでに叙情的かつ幻想的な1編に仕上げる森氏の技巧の冴えに感服する。
兄に隠れて逢瀬を重ねる2人。決して叶わない恋の行く末に絶望を抱きながらも好きにならずにいられない2人。そしてサトルが選択した究極の決断。

「素敵な日記」は不思議な話だ。
手記で繰り広げられるその内容は被害者がそれぞれ綴った日記だ。
それはある時は詩であり、それはある時は事件の一部始終を語ったものだ。
山荘でひっそりと亡くなった若い男の密室死。それを発見した恐らくはヒモの男もまた付き合っていた女性によって殺害され、その女性もまた殺害される。そしてその捜査を担当する刑事の手記と日記を発明した最初に亡くなった若い男性の父親の手記を経て日記の正体が明かされる。
人から人へ渡り、その所有者が次々と亡くなる呪われた日記というモチーフがこんなにSF的な意外性を持った結末を迎えるとは。こんな発想はまさに森氏ならではだ。

「僕に似た人」はマンションの隣人同士の交流を語った物語。

終了したS&Mシリーズが短編と云う形で帰ってくる。本書には2編収録されており、まず1つ目の「石塔の屋根飾り」は犀川が西之園萌絵とその叔母佐々木睦子と叔父捷輔、そして国枝桃子と喜多に問いかけるのは萌絵の父恭輔がインドで出逢った巨石を掘り込んで作られた石塔の屋根飾りがなぜか塔の屋根ではなくその隣に建てられていたかを生前の恭輔が解き明かした説を推察する話。
所謂日常の謎系のミステリだが、それを陰の存在である執事の諏訪野が解き明かすのが本編の妙味か。

もう1編「マン島の蒸気鉄道」は観光小説とも云える作品。喜多と大御坊と犀川は偶然イギリスへの出張で一緒になり、それをきっかけにマン島にある西之園家の別荘で佐々木睦子を交えてのディナーに招待される。
逆回転の三本脚の真相は実にしょうもないもの。
それよりも作中で大御坊が出した機関車のクイズの答えの方が気になる~!

さて幻想小説が続く。

「有限要素魔法」は不可解な物語だ。
この2つの事件が並行して語られるが、この関係のない事件がどこか次元のずれた世界で起きているように語られ、物語は唐突に終わる。この平衡世界が繋がりそうで繋がらないむずかゆさだけが残される。

次の「河童」はまだ解りやすい作品だ。
多感な高校生の娘亜依子を巡って翻弄される2人の男。突然消えた親友は果たして手首を切って池に飛び込んだのか?
未だに死体が見つからない彼が消えたとされる池に最後に浮かんでくる頭が真相を示している。森氏にしてはオーソドックスなホラーだ。

そして最後の2編は「思い出」の物語だ。

「気さくなお人形、19歳」は19歳の女子大生小鳥遊練無が出くわす奇妙なバイトの話。
森氏にしては実にオーソドックスな物語だ。典型的な人生の皮肉の物語。
しかし本書の主眼はそこにはなく、やはり小鳥遊練無という少林寺を嗜むボーイッシュで男勝りで恐らくルックスもいい女子大生のキャラクターを愉しむことにある。
彼女の一人称で語られる非常にライトな語り口は過剰なまでにふざけているように感じて最初は抵抗感があったが、物語が進むにつれて彼女の優しさが垣間見えて、最後には実に魅力的な小鳥遊練無像が浮かび上がってくるのだから不思議だ。
そして彼女と彼女が住むアパートの隣人香具山紫子と保呂草は次のVシリーズの登場人物であるそうだ。つまり本編は次シリーズのイントロダクション的作品と云えよう。

最後の「僕は秋子に借りがある」は実に切ない物語だ。
この作品には語りたいことがたくさんある。読後、心が秋子で満たされる。それほどこの秋子という女性が魅力的なのだ。後ほど存分に語る事にしよう。


森氏は短編になると情緒が際立つ文系色が出てくると自身でも述べているようで、『まどろみ消去』でもその特徴は顕著に表れていたが、第2集の本書ではそれがさらに洗練さを増している。

とにかく冒頭の3編が素晴らしい。
「小鳥の恩返し」の湛える大事な物を喪った切なさ、「片方のピアス」の禁断の恋に溺れるカップルが迎える悲劇、全編手記で展開する「素敵な日記」の読めない展開が最後に一気に想像を遙かに超えた、そして全てが腑に落ちる驚愕の真相と立て続けに打ちのめされる。

その後には完結したS&Mシリーズが短編で2編収録されているのはファンとしては嬉しいサーヴィスであろう。特にその2編では今まで前作に登場しながらも萌絵の影となり支えてきた執事の諏訪野にスポットを当てているのが興味深い。しかもそれらは日常の謎系のミステリでほのぼのとした雰囲気が心地よい。萌絵の非常識ぶりも抑えられていて、これなら普通に読むことができる。

そして次は幻想小説が続く。

森氏はS&Mシリーズでも感じていたが、どこか幻想小説を好む指向性がある。ミステリでありながら動機にあまり執着せず、トリックと犯人に固執する。シリーズ最終作では殺人事件の犯人や動機よりも真賀田四季の居所が最大の謎だったことからも明白だ。

そんな彼の幻想趣味が短編では存分に発揮されている。「僕に似た人」、「有限要素魔法」、「河童」の3編。幻想強度としては「河童」<「僕に似た人」<「有限要素魔法」の順になろうか。特に「有限要素魔法」は有限要素法とは関係がないように思えるのだが。

そして最後はオーソドックスでありながらもやはり心に強く残る、想い出の物語。
「気さくな人形、19歳」は老人が自分の亡くなった娘にそっくりな女子大生に共に過ごすだけのバイトを頼む。偶々テレビで見かけた自分の娘そっくりな女性を発見したことで適わぬ想い出づくりをしたかったのだろう。そしてその役目を務めた小鳥遊練無の魅力的な事。イントロダクションに相応しい快作だ。

そして最後の「僕は秋子に借りがある」は実に美しい物語だ。
突然現れたいわゆる不思議っ娘、秋子。彼女の話はとりとめがなく、思いつくままに行動し、主人公木元を翻弄する。木元が姉を事故で亡くしたと云えば彼女も兄を工場の爆発事故で亡くしたと云い、家に置くと捨てられるからと大量のファッション雑誌やインテリア雑誌を紐の切れた紙袋に入れて持ち歩く。
面白い所に連れていくと云って亡くなった兄のイラストレーターの友人の家に連れて行き、ただ過ごすだけ。
ある朝突然電話かけてきて近くのミスドに来いと云う。行ってみると木元に逢いたくて30キロもの道のりを徹夜して歩いてきたのだという。

それは木元にとっては迷惑に感じながらもその実とても魅力的でファンタスティックな出来事であったこと。

物語が閉じると同時に木元が感じた思い、つまりそれは題名「僕は秋子に借りがある」と思わされる。
この物語は作者の想い出に似た宝石のようなものがこぼれ落ちて生まれたようなものなのだろう。当然ながらこれが個人的ベストだ。

そして次点はやはり最初の3編「小鳥の恩返し」、「片方のピアス」、「素敵な日記」となる。「僕は秋子に借りがある」がなければ甲乙つけがたく3作同点ベストとなっていただろう。

しかし小鳥遊練無といい、秋子といい、森氏の描く女性は難と魅力的なことか。
西之園萌絵には最初から最後まで辟易し、この短編でも好感度が増すことがなかったので、正直森氏の女性像には失望していたのだが、本書ではその考えを180度変えざるを得なくなった。
いやあ次のVシリーズが愉しみになってきたぞ!


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地球儀のスライス (講談社文庫)
森博嗣地球儀のスライス についてのレビュー
No.1136: 3人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(8pt)

単純面白主義万歳!

文庫書き下ろしで刊行された本書はまたもやスキー(スノボ?)シーズンの雪山が舞台となる。そして主人公を務めるのは『白銀ジャック』でも登場した根津昇平と瀬利千晶の2人だ。

しかし彼ら2人が本格的に事件に乗り出すのは物語の中盤185ページごろだ。それまでは今回の物語の核である新種の炭疽菌『K-55』が盗まれた泰鵬大学医科学研究所の栗林とその中学生の息子秀人のコミカルな捜索劇が繰り広げられる。

そう、本書は細菌テロという重いテーマを持ちながらも、雰囲気は軽妙でコミカルな装いで物語は進む。

まず新種の炭疽菌『K-55』の名自体が作者の名前をもじっていることからも深刻さを避けようとしているのが明白だろう。

しかし構成は単純ながらもさすがはベテラン作家東野氏、ストーリーに様々な要素を織り込んでいる。

まず脅迫者が事故死したことで『K-55』の隠し場所が解らなくなるというツイストもなかなかだ―ディーヴァーの『悪魔の涙』に成り行きが似ているという声もあろうが―。
さらに必死になって不祥事を揉み消そうと躍起になる東郷&栗林のコンビとは別に『K-55』を先に手に入れて3億円どころかそれ以上の身代金を請求しようと企む研究員、折口真奈美という第3の影。

そして捜索に同行させた栗林の息子秀人が現地で知り合う地元の中学生山崎育美の同級生高野一家に降りかかったインフルエンザで亡くなった妹の死に絡む母親の昏い情念と、コミカルながらも不穏な要素をきちんと用意している。
いやあ、いい仕事してますわ、東野氏は。

そしてそれらがきちんとクライマックスに向けて二転三転するストーリー展開に寄与していくのだから凄い。単に思わせぶりなエピソードに終わらず、それぞれがそれぞれの事情で正体も知らずに『K-55』の争奪に関わり、利用しようとする。
どうにか被害が広がらないように『K-55』を隠密裏に回収したい栗林。『K-55』を手に入れて脅迫金をせしめて大金を手に入れようと企む折口姉弟。妹の死に悲嘆にくれる母親を改心させようと自分のクラスに再び重病者を出して後悔させようとする高野裕紀。
正体を知っている者たちの思惑と知らない者たちの思惑が交錯して、クライマックスではスキーヤーとスノーボーダーの滑走しながらの一騎討ちといった活劇も織り込んで最後の最後まで息をつかせないノンストップエンタテインメント小説に仕上がっている。

さらには栗林が中学生の息子とのぎくしゃくしていた関係が事件を通じて次第にお互いに理解を深め合っていくといった、思春期を迎えた子供とのコミュニケーションに困っている親子がスキー、スノーボードを通じて親子の絆が深まるといった温まるエピソードまで加味されており全くそつがない。

正直これだけの物語を文庫書き下ろしで出す東野氏のサーヴィス精神に驚くばかりだ。

恐らくおっさんスノーボーダー東野圭吾は経営難で苦しんでいる日本中のスキー場を救わんととにもかくにも爽快で軽快な物語を愉しんでもらいたいという思いで本書を著し、そして多くの人に手に取ってもらうために文庫書き下ろしという形での発刊を選んだに違いない。

従って本書は徹底的に娯楽に徹したエンタテインメント小説である。難しいことは考える必要は全くない。
従来の東野作品の読者ならばこの単純さが、ベストセラー作家の走り書きとか、ストーリーに厚みがなくて物足りないなどとのたまうかもしれないが、単純面白主義の何が悪いと開き直って読むのが吉だ。
逆にこれだけウィンタースポーツとしてのスキー、スノーボードの疾走感やスキー場の臨場感も行間から滲み出てくるような躍動感に満ちていることをきちんと気付いてもらいたい。読みやすいが故にこの辺の技術の高さが軽んじられているのが東野圭吾氏の長所であり短所でもある。

普段読書をしない人たちに「何か面白い本、ない?」と訊かれたら、今はこの本を勧めるだろう。そして『白銀ジャック』に続いてドラマ化されてもおかしくないくらい映像化に向いている。

こうやって東野圭吾氏の読者が増えていくわけだが、それも仕方がないと納得せざるを得ないリーダビリティに満ちた作品だった。

疾風ロンド (実業之日本社文庫)
東野圭吾疾風ロンド についてのレビュー
No.1135:
(8pt)

名匠の手による短編は実に心酔わせる

長編のみならず短編の名手であるブロックの久々の短編集。その出来栄えは『おかしなことを聞くね』以来、ファンが渇望していた切れ味が健在であることを証明してくれる珠玉の作品ばかりだ。

まず初めの編はスポーツを題材にした作品だ。

「ほぼパーフェクト」はアメリカの代表的なスポーツである野球だ。
「野球は何が起きるか判らない」とよく云われるが、これはまさにその常套句を逆手に取った異色作だ。

次の「怒れるトミー・ターヒューン」の題材はテニス。
激昂してラケットをへし折るテニスプレイヤーとしてすぐに思いつくのはジョン・マッケンローだ。本書のトミー・ターヒューンのイメージは彼しかなかった。
私自身も短気で怒りの衝動を抑えられない事があり、自分もこの性格を変えたいと思っているが、なかなか上手く行っていない。従ってこの短編は実に興味深く読んだが、やはり抑えられた怒りはどこかに捌け口を求めているのかと痛感した次第だ。
ああ、全てに寛容になれるのはもはや悟りの境地に過ぎないのか。

「ボールを打って、フレッドを引きずって」はゴルフ場が舞台。
淡々と物語が進むため、ローランド・ニコルスンという男の不可解な行動の真意が解らなく、読者はとにかく彼の言動に翻弄されながら物語を読み進めることになる。
タイトルの意味は作中で紹介されるあるゴルフのジョークであるため、ニコルスンがヘドリックに打ち明ける殺人計画もまたジョークなのか本気なのかが解らない不安定感をもたらしているのも上手い。

次の「ポイント」はバスケットボールが扱われているが、それまでの短編とは趣が違い、NBAの試合を観戦しにきた、元バスケットボール選手の親子の対話で物語が進む。
それは久方ぶりに出逢う親子の、今だからこそ云える打ち明け話。こんな夜の対話はどんな親子にもいずれは訪れる。そんなある一夜の物語だ。

スポーツシリーズ最後の1編「どうってことはない」はボクシング選手の話。
格闘家を夫に持つ妻の気持ちとはいかほどなのだろうか?
最初は試合での夫の強さに魅かれ、結婚したのだろうが、結婚することは人生を預けることであり、そうなると人生のパートナーが公然と殴り殴られる姿を見なければならないのはかなり辛い事なのだろう。
色々と興味深い結末でもある。

「三人まとめてサイドポケットに」はふらりと入った酒場である男が出くわす典型的な美人局の話だが、ブロックは実に奇妙な余韻を残して物語を閉じる。

16ページと短い分量で語られるのが「やりかけたことは」だ。
主人公ポールは出所したばかりでシンプルに生きることを肝に銘じているが、彼が何の罪で服役していたのかは最後の1行で明らかになる。
それが性というものだと痛感する1編だ。

本書中約120ページと最も長いのが「情欲について話せば」は警官、軍人、医者、司祭の4人がトランプゲームに興じている奇妙なシーンで幕を開ける。
なんとも奇妙さ作品である。
まず司祭、警察官、軍人、医者と全く職業の異なる人物たちが一堂に会してトランプゲームに興じているというシチュエーション自体が奇妙である。そして彼らが語る“情欲”に纏わる話もまた奇妙である。
司祭の話はかつて彼が赴任先で親しくしていた仲睦まじい夫婦に隠されたある不道徳的かつ壮絶な過去の話。その夫婦は実は実の姉弟で弟の夫が13歳の時に父親の折檻から慰めようと姉が施したある癒しから次第にエスカレートして恋するまでに至った姉弟だった。
続く警察官の話は猛烈な性欲を持つ年長の元同僚の話だ。彼には美しい妻がおり、浮気をしていないか日に何度も頻繁に電話をするほどの執心ぶりだったが反面彼は特に犯罪者の妻と寝ることを日常的に行っていた。そしてある日赤毛のジョニーという美しい女性を目にしたことで彼は次第に彼女にのめり込んでいく。しかし一方で彼の妻に男が出来たことを強く疑っていた。そして相棒に自分が不在の時に見張るように頼むと果たして彼女を訪れる男がいたとの報告を受ける。彼は見境なくその男を襲撃しようとするが返り討ちに遭う。
軍人が紹介した男はかつて軍の名狙撃種だった男の奇妙な性欲の話だ。彼はいつしか戦争で人を狙撃する事にエクスタシーを感じていた。退役後、妻も出来、結婚したがセックスでオーガズムに達する事が出来なかったが、戦争中の狙撃のシーンを思い出すと最後まで達する事が出来た。
医者の話に出てくるのは奇妙な女性の話。連続レイプ魔に襲われた女性は自らの命を助けるため、絶頂に達した演技をし、あまつさえ彼に自分の家に来てくれるよう懇願する。
この話には正直オチはない。しかし「情欲」とは一体何なのかを探ろうとしたこの奇妙な四人組同様、知れば知るほど解らなくなるのが情欲の正体であることに気付かされるのである。

さて表題作もまた奇妙な味わいを残す。
ある意味これは前編の「情欲について話せば」に連なる作品と云えよう。
そして最後に明かされる「やさしい小さな手」の意味するところが解ると、果たしてこれが短編集の表題にすべきだったのか、思わず赤らんでしまった。

「ノックしないで」はかつて付き合った男と女の関係の物語。
折に触れ男はかつての恋人を訪ね、自分の近況を語って、泊まっていく。しかしそこに肉体関係は生まれない。
彼女はそれを知りつつも彼の訪問を断れずにいつも彼を受け入れてしまう。彼女は心のどこかで復縁を期待しているのだ。しかしとうとう彼女は2人がかつてのように愛し合う仲ではなく、単なる友人同士で、しかもちょっと都合のいい女になってしまっていることに気付くのだ。そして彼女は新たな一歩を踏み出す。心に刺さった苦い棘の傷みと共に。
ブロックは奇を衒わず、男女の心の機微を淡々と謳っている。

最後の4編はマット・スカダー物。
「ブッチャーとのデート」は長編『慈悲深い死』の原型となった作品でここでは敢えて取り上げないでおこう。

その次の「レッツ・ゲット・ロスト」はまだ警察官だった時代にエレインの依頼で対処したある事件の顛末の回想記の体裁で語られる。
突然巻き込まれたある他人の死をどうにか擬装して逃れようとする男たちを警察官の視点で事件の疑わしい所を浮き彫りにして逆に事件を真の姿に戻すことにする若いマットの熱心さが新鮮だ。
まだ前妻アニタと結婚生活を送っていた頃のマットの話。それが今ではエレインと再婚し、実に豊かな生活を送っているのだから、人生とは本当に解らないものだと感慨深く思わされる1編。

次の「おかしな考えを抱くとき」もスカダーがまだ警察官だった頃の話。しかもまだエレインと逢う前の話。
突然家族の団欒に訪れた夫の銃自殺。スカダーは当時相棒のヴィンス・マハフィとその事件を担当し、ヴィンスが施したある救済の話をする。
それは実際にヴィンスが図った便宜だったのか、はたまた妻が犯した罪を隠した事なのかは解らない。真相は藪の中だが、逆にもはや真相を知ることが目的ではなく、全てが丸く収まるような処置をしたことに満足をしているマットの考えが、己の正義に基づいて生きてきた人生の落伍者だったかつての彼とは真逆であることに感慨を覚える。

そして最後の1編「夜と音楽と」はたった8ページの小編。内容もスカダーとエレインがオペラを観劇した夜に、寝ずにニューヨークの夜を徘徊する、ただそれだけの物語。
事件も起きず、ただ2人の過去を懐かしむ会話が続くだけ。取るに足らない話なのだが、最後の2行にスカダーとエレインの真の思いを見た。


本当に久々のブロックの短編集である。早川書房が2009年に突如企画したハヤカワ・ミステリ文庫での「現代短編の名手たち」シリーズにブロックが選ばれ刊行されたのが本書。名手の名に恥じない傑作が揃っている。特徴的なのは全体的にブラックなテイストに満ちていることだ。

まずはスポーツを絡ませた短編が続く。野球、テニス、ゴルフ、バスケットボール、ボクシングと続く。

そして面白いのはそれぞれ殺人を扱いながらも微妙に時間軸がずれていることだ。

「ほぼパーフェクト」では殺人を“犯した” 男が完全試合を成し遂げようとし、「怒れるトミー・ターヒューン」では殺人を“犯す”までに至った男の奇妙な経緯を、「ボールを打って、フレッドを引きずって」では殺人を“犯そう”と計画している男の奇妙な予行練習を、最後は夫を殺された妻が復讐のために行おうとしている奇妙な殺人を語っている。それらが全て物語の最後の最後でサプライズを以て明かされるのだから、ブロックの小説テクニックは相当に高い。

また本書中最も長い「情欲について話せば」の警官、軍人、医者、司祭と奇妙な取り合わせの4人がトランプゲームに興じているシーンはどこかある有名な本格ミステリのシチュエーションを想起させる。

そして表題作は穏やかな題名にそぐわないエロティックでブラックなテイストに溢れている。このギャップがすごくてインパクトを残す。

そして「ノックしないで」を前奏曲としてマット・スカダー物の短編4編が続く。正直「慈悲深い死」の原型となった「ブッチャーとのデート」を読んだ時は失望感を覚えたが、その後の3編は味わい深く、長い年月を重ねた人生を経た者たちの達観を感じさせる。

さて個人的ベストを挙げるとするとやはり本編で一番長い「情欲について話せば」になろうか。短編4つ分のネタが放り込まれた内容はもとより、トランプゲームに興じる警官、軍人、医者、司祭と云う奇妙な取り合わせが寓話めいていて奇妙な印象を残す。

「ノックしないで」も捨てがたい。ブロックには珍しくシンプルな作品だが、求めつつもそれを自分から求めない元恋人の女性の心の機微が静かに心に降り積もるかのような作品だ。

そしてスカダー物4編から1編を挙げるとすると「夜と音楽と」になる。
なぜ単にスカダーとエレインが夜のデートをするだけの何の変哲もない8ページだけの1編を挙げるのか。それは最後の2行、スカダーとエレインが2人して「誰も死ななかった」ことを喜ぶシーンが妙に痛切に胸に響くのだ。

元警察官で無免許探偵をしていたマットは彼を訪ねる人達に便宜を図って人捜しや警察が相手にしない取るに足らない者たちの死を探る。人捜しであっても彼は誰かの死に必ず遭遇する。しかし警察官であったマットは死自体には何の感慨も抱かず、ニューヨークによくある八百万の死にざまの1つを見たに過ぎないと振舞う。

しかしエレインが襲われることになり、そしてエレインを伴侶とし、安定した生活を得たことで彼らにとって死はもう沢山だと思い始めたのではないか。
探偵をする限り、彼は陰惨なシーンに出くわさざるを得ない。しかし2人で一夜を過ごすときは忘れたいのだという思いをこのたった2行に感じさせる。
しかし初めてこの短編集でブロック作品を読んだ人たちには「何だったんだ?」で終わる話だろう。つまりこれはシリーズを読んできた者だけが行間から読み取れる深い内容だと云える。そういう意味では今回の「現代短編の名手たち」という企画にはそぐわないのかもしれない。

いやはややはりブロックは短編も読ませると再認識した。
確かに上に書いたようにブロック初体験の読者にとって解りにくい作品もあるし、何よりも短編集でしか読めない悪徳弁護士エイレングラフ物が1編もなかったのが残念でもある。

しかし本書以降ハヤカワ・ミステリ文庫でブロック作品が全く刊行されていない事実が非常に残念でならない。ブロック作品再評価の為にも彼の作品を既刊のみならず未訳作品も刊行してくれないだろうか。
毎回早川書房の本を読むとこの締めの言葉に落ち着く現況が哀しい。


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現代短篇の名手たち7 やさしい小さな手(ハヤカワ・ミステリ文庫)
ローレンス・ブロックやさしい小さな手 についてのレビュー
No.1134:
(4pt)

シンプルな構造で別の意味でビックリ

チャーリー・マフィンシリーズ2作目の『再び消されかけた男』に続く3作目が本書。実に懐かしい気分で読むことが出来た。

まず非常に読みやすいことに驚いた。『魂をなくした男』の、学生に頼んだ下訳のような日本語の体を成さないひどい日本語ではなく、実に滑らかにするすると頭に入っていく文章が非常に心地よい。

そしてこれもまた『魂をなくした男』と比べて恐縮だが、二分冊になるような長大さがなく300ページ強と通常の厚みでありながらスピーディに展開していくストーリー運びもまた嬉しい。若さを感じる軽快さだ。

さて本書ではチャーリーは前作同様英国情報部を追われる身でロンドンに潜伏していたところをルウパートに自身の保険会社が抱えた巨額の保険金支払いを回避してほしいと依頼される。
ルウパートの会社が抱えた保険金とは香港の大富豪ラッキー・ルーの所有する豪華客船が中国人によって放火され、爆発した事故の保険金600万ポンド。しかも容疑者は逮捕され、裁判中に殺害されてしまう。

そんな圧倒的不利の中でチャーリーは過去のルウパートの父親の恩義のために動き出す。

最近のシリーズ作に比べると非常に構造がシンプルだ。
したがって特にサプライズも感じずに、「えっ、もうこれで終わり?」的な唐突感が否めなかった。

また最近のシリーズ作では既に忘却の彼方となっているが、前作で妻イーディスを喪ったチャーリーは彼女の想い出と悔恨に苛まれて日々を暮している。従って折に触れチャーリーのイーディスへ向けた言葉と当時の下らないプライドを後悔しているシーンが挿入される。折に触れチャーリーは自身の行為が生前イーディスが話していた台詞が裏付けていたことを思い出す。疎ましく思っていた存在を亡くしてみて気付く愛しさと妻こそが最大の理解者であったことを自戒を込めてチャーリーは改めて確認するのだ。
う~ん、この辺は実に教訓になるなぁ。

さて本書では保険調査員に扮し、そのまま無事に難関をクリアしたチャーリー。特にピンチもなく―以前出逢った外交官と思わぬ再会をするというハプニングはあったが―物語は終えたため、よくこのシリーズが現在まで続いたものだなぁと不思議でならない。
この後は『罠にかけられた男』ではまたもやFBIと保険調査員として見えることになり、実に痛快に活躍するのだから本書はシリーズの動向をフリーマントル自身が探っていた小編だったとも考えられよう。

とにもかくにもチャーリー・マフィンシリーズの空白を埋めていくことにしよう。


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呼びだされた男 (新潮文庫)
No.1133:
(8pt)

まだまだ驚かせてくれる、この作家は!

現代のシャーロック・ホームズ、リンカーン・ライムが対峙する今回の敵は“電気”。正確には電気を武器にニューヨークを翻弄する敵が相手だ。

普段はその有難みが解らないが、いざ台風や地震で停電が起きるとその大事さに気付かされるのが電気だ。
3・11の東日本大震災で計画停電が行われ、当時東京に住んでいた私はネオンサインがない渋谷の街を毎日目の当たりにして、夜闇に乗じて犯罪が起きてもおかしくはないと半ばこの世の終わりのような思いを抱いたものだ。

「電気は、市民の道徳心にもエネルギーを供給しているのだ」の作中の一文には激しく頷いてしまった。

この電気、実は私も仕事で縁がある代物だが、非常に便利であるが反面、非常に恐ろしい物だ。それは本書でも実に詳細に語られている。

いわゆる“見えない凶器”であり、電線のみならず帯電している金属から人間の体内を通って地面に通り抜ける間に絶命してしまうからだ。

最初の被害者は過剰な電流がある特定の変電所に集中することでアークフラッシュを起し、最寄りの金属製品が細かい礫になって人々の身体を突き抜けて、それら1つ1つが高熱を放ち、身悶えしながら死んでいく。

第2、3の被害者は大量の電気を流されたビル、エレベーターの金属部品に触れることで感電し、激しい痙攣をしながらも手を放すことが出来ず、恰も死のダンスを踊りながら全身から煙を出して死んでいく様が描かれる。

アメリアやロナルド・プラスキーたちは現場での惨状を見て、金属に触れることを怖れ、半ばノイローゼになって捜査に携わる。この感覚は非常に腑に落ちた。

今回の事件の首謀者はレイ・ゴールトという電力会社元社員で修理技術者だった男と早々と明かされる。この男が仕事で高圧の電気近くで長年作業することで白血病を患い、その復讐として電力会社に混乱を起こして脅迫を重ねているとライムたちは焦点を絞る。
そして一方で“地球の日(アースデイ)”イベントを控えていることで何らかの環境テロ組織が絡んでいるとFBIは捜査を進める。その結果“ジャスティス・フォー”と“ラーマン”という2つの名前が浮かび上がる。

さらにライムはキャサリン・ダンスたちがメキシコ警察と共同してメキシコシティに潜伏しているウォッチメイカーの逮捕にも携わる、いくつもの要素が絡まった物語となっている。

メインの物語の焦点は昨今日本でも3.11以来、物議を醸しだしている電力会社の半ば強引なやり方だ。
火力、水力、原子力と云わば発電所“三種の神器”で大量の電力を賄うアルゴンクイン・コンソリデーテッドは日本に存在する電力会社そのものだろう。
それに対抗するのが風力、太陽光、地熱、波力発電、メタンハイドレードといった再生可能エネルギー、つまりクリーンエネルギービジネス。やり手の“女”社長アンディ・ジャッセンはこれらエネルギー対策に前向きではない。それがこの事件に潜む真の動機になっている。

更にディーヴァー自身もこのシリーズを現代のホームズ物と意識して書いているようだ。特に下巻220ページの次の台詞

考えうる可能性を全て排除したあと、一つだけ排除できなかったものがあるとすれば、一見どれほど突飛な仮説と思えても、それが正解なんだよ

はホームズが短編「ブルース・パーティントン型設計図」での台詞

ほかのあらゆる可能性がダメだとなったら、どんなに起こりそうもない事でも残ったことが真実だ

とまるで同じである。もはやこれは確信的ではないか。

そしてそれら一連の事件の絵を描いたのは意外な人物だったことが判明する。

とにかくすごい犯人だ。どんでん返しの帝王とも云えるジェフリー・ディーヴァーだが、もう騙されないぞと思いながらもやはり驚愕させられてしまった。

また今回『悪魔の涙』で主役を務めた筆跡鑑定のスペシャリスト、パーカー・キンケイドが登場する。これで同シリーズで2回目の登場となった。もはや大事なサブレギュラーになりつつある。

しかし振りかえれば『ソウル・コレクター』から3年ぶりのライムシリーズである。もはやネタは出尽くしたと思ったがこれほどのサプライズをまだ見せてくれるとは、やはりディーヴァーは只者ではない。


▼以下、ネタバレ感想
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バーニング・ワイヤー
No.1132: 4人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(10pt)

いやぁ、もう舞台モロバレでしょう。

S&Mシリーズ10作目にして最終作の本書は1作目の真犯人真賀田四季と再び相見える事件であり、シリーズ中最も厚い文庫本にして約850ページの大作だ。
そしてそのボリュームに呼応するかのように次々と事件が発生し、様々な仕掛けが物語全体に仕掛けられている。

本書の舞台は那古野市から今までで最も離れた地長崎。ハウステンボスをモデルしたユーロパークなるテーマパークで事件は幕を開ける。

数ヶ月前に起きた船員風の男がドラゴンに噛まれたかのような死体の消失事件、通称「シードラゴンの事件」を皮切りにナノクラフト社の社員

松本卓哉の教会での転落死とほんの数分後に腕一本以外が消えうせる死体消失事件。そして自室で密室状態で殺害される新庄久美子。

さらに夜の空を飛ぶ全長5mほどのドラゴンにバーチャル・リアリティの空間で起きる衆人環視の中での密室殺人と森氏はギアを1速からいきなり4速へと加速するかの如く次から次へと事件を謎を畳み掛ける。

森氏は惜しみもせずにアイデアをどんどん放り込み、読者を翻弄する。そしてそれらのいくつかは実に早い段階で犀川と萌絵によって解き明かされる。

果たしてこれはいわゆる世に流布するミステリ全般に対する森氏の皮肉なのだろうか?
一般的に市民が殺人事件に出くわす確率はそう高くはない。私自身、直接的間接的にせよ、殺人事件どころか刑事事件に関わったことはない。
本書でわざわざ長崎まで出向いた西之園萌絵がそこで事件に出くわすことがもはや作り物めいているといえないだろうか。
ミステリを読み慣れた我々にとってそれらが至極当たり前のことになっているが、実際は旅行先で事件が起こるなんてことは確率的にはかなり低いことであり、森氏はそれを逆手にとってわざと事件を起こさせるという真相を持って来たのではないだろうか。

さて本書の本当の謎とは?
それについて述べる前にちょっと気になった点について述べよう。

本書の中ではいくつか誤解を招くような表現もあった。
例えば萌絵が建築学科の学生と云う理由で東西南北を間違えるはずがないとあるが、これは根拠としては薄弱だろう。私は建築学科は出ていないが、初めて訪れた地の、建物の中の方角を認知する方法を大学で教えられるとはとても思えない。

また犀川が塙理生哉の妹香奈芽に海外へ行く疑似体験をしたいなら電脳空間上でバーチャル・タウンを作り出すよりも実物の街を作った方が安いと述べているが、これは現代ならば真逆だろう。
もはや映画はセットを作るよりもブルースクリーンの前で俳優たちに演技をさせて映像を当て嵌めて合成する方が安価で主流となっているからだ。本書が出版された1998年当時ではまだCG技術とコンピューターの処理能力がそこまで追いついてなかったからこその時代錯誤的表現であろう。

さて本書の最大の謎とは「真賀田四季は一体どこにいたのか」だ。

いやはやこの最終作でシリーズに散りばめられた仕掛けが解り、森氏の構想力に脱帽した。
まさにシリーズの締め括りに相応しい大作だった。


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有限と微小のパン―THE PERFECT OUTSIDER (講談社文庫)
森博嗣有限と微小のパン についてのレビュー
No.1131: 5人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(10pt)

1人の死に介在する人々もまたそれぞれの事件を抱えている

2010年度『このミス』で堂々1位に輝いた本書は加賀恭一郎シリーズでも異色の構成で物語は進む。

日本橋署に赴任したばかりの加賀が携わるのは小伝馬町で起きた1人暮らしの女性の殺人事件。その捜査過程で彼は被害者三井峯子の遺留品を手掛かりに捜査を進めていくのだが、彼が訪れる先々ではそれぞれがそれぞれの問題を抱えており、加賀はそれらに対しても対処していく。
その問題は市井の人々ならば誰しもが抱える問題で、いわばこれらは殺人事件が起きない日常の謎なのだ。つまり殺人事件の謎を主軸に加賀恭一郎は日常の謎を解き明かしていくのだ。

まず1章の「煎餅屋の娘」では被害者宅に残された保険のパンフレットを手掛かりに保険外交員の足取りを追うが、そこに空白の30分があることに気付く。
その外交員が最後に訪れたのが人形町の甘酒横丁にある煎餅屋だった。加賀はその空白の30分が外交員が殺人を犯す時間だったのではと疑うが、捜査をするうちに煎餅屋が抱えるある哀しい真実に行き当たる。

第2章「料亭の小僧」では被害者宅に残された人形焼き、しかも餡入りと餡抜きが混在した奇妙な構成から人形町の料亭に加賀は行き当たる。
その容器に残された指紋は3つあり、1つは人形焼き屋の店員、1つは被害者の女性だが残る1つは不明だった。主人の愛人への手土産にいつも同種の人形焼きを買いに行かされる修行中の小僧はその愛人こそが被害者なのではと疑うが、その人形焼きの1つにわさび入りの物が含まれていたことから、料亭の女将のある仕返しが浮かび上がる。

第3章「瀬戸物屋の嫁」では三井峯子が最後に送ったメールの宛先が商店街の瀬戸物屋『柳沢商店』の嫁麻紀だったことから加賀は彼女を訪ねる。
そこはひょんなことから嫁と姑の仲は最悪で、息子の尚哉はその板挟みでいつも苦しんでいた。麻紀は顔馴染みの客だった三井にキッチンバサミを数件先の刃物専門店『きさみや』で買うように頼んだのだった。なぜそんな不可解な事を客に頼むのか。調べていくうちに加賀は男には解らない女心の裏腹さを知らされる。

第4章「時計屋の犬」では三井峯子のパソコンに残された書きかけのメールに彼女が小舟町の時計屋の主人にあったと記されたことからその時計屋を訪れることになる。
何の変哲もないそのメールの内容はしかし時計屋の主人が彼女に逢ったと云っている浜町公園では主人以外誰も見かけた人がいないという奇妙な状況があった。しかし生粋の江戸っ子である頑固親父の時計屋の主人は頑として自分の証言を覆さない。加賀は犬の散歩コースを一緒に辿ることであることに気付く。

第5章「洋菓子屋の店員」では三井峯子が過去に離婚した経験があり、彼女には既に成人した息子弘毅がいることが明かされる。
彼は俳優になると家を飛び出し、その後夫の清瀬直弘とは離婚したのだった。加賀は三井峯子の小伝馬町の家を訪ねてきた弘毅に彼女がつい最近になってここに引っ越してきたことを知らせる。そして彼女の部屋には育児雑誌が置かれていたが、彼女が妊娠した節はなかった。三井峯子が突然小伝馬町に引っ越し、そして育児雑誌や安産で有名な水天宮を訪れていた理由について加賀は知ることになる。それは哀しい錯誤であった。

第6章「翻訳家の友」では三井峯子の死体の発見者で友人の吉岡多美子がそれ以来自責の念に駆られる日々を送っている。
家庭に不満を持っている三井峯子を翻訳業へ誘い、離婚させたのが彼女であり、その自分が今度は恋人と結婚してロンドンへ移住しようとしているのだ。無論のこと、峯子は彼女に対して不平と不安を表出し、再度の話合いに向かった日、恋人と指輪を買うために約束の時間を1時間遅らせたために峯子が死んだのだと吉岡は思い込んでしまった。そんな時に彼女の許を訪れた加賀から三井峯子の隠された吉岡への思いを知らされる。

第7章「清掃会社の社長」は三井峯子の元夫、清瀬直弘に焦点が当てられる。
それは三井峯子が友人の翻訳家が海外へ移住することになったため、収入が不安定になることから慰謝料の請求を弁護士と相談していたことが発覚する。そして最も有力な方法は離婚前に直弘が浮気をしていたような証拠を突き止める事だった。そして直弘には最近になって若い秘書を雇入れていた。その女性宮本祐理は実は元ホステスだった。つまり周囲は社長の愛人だと噂していた。しかし加賀はある点に気付き、直弘の意外な過去を導き出す。

8章「民芸品屋の客」は最終章に向けての布石の章だ。
甘酒横丁の民芸品屋『ほおづき屋』を訪れた加賀はそこに売っている独楽を買った客について訊き込みをしていた。訝る店員に小伝馬町の事件と何か関係があるのかと尋ねられた加賀はこの店の独楽が関係ないことが重要だと謎めいた言葉を残す。清瀬直弘の会社の税理士をしている岸田要作は息子夫婦の許をしばしば訪れていた。加賀はその家を訪れ、事件のあった6月10日にも岸田が訪れたかどうかを訊くと、義理の娘は確かに家を訪れ、独楽を置いていったというのだが、その独楽は『ほおづき屋』のそれとは違っていた。

そして最終章「日本橋の刑事」で事件は解決される。

突然の癌発症、主人の浮気、嫁姑問題、勘当した娘、生き別れた息子との再会、友人の死、若い頃の過ち、クレジットカード借金の滞納、愚息の尻拭いと各章で明かされる各家庭が抱える秘密や問題は我々市井の人間にとって非常に身近で個人的な問題だ。そんな些末な、しかし当事者にとってはそれらはなかなか深刻な問題である。
普通に暮らしている人々の笑顔の裏には誰もがこのような問題を抱えている。それは表向きは当事者以外にしか解らない。従ってその問題がひょんなことで表出した時に謎が生まれる。そんな謎を加賀は細やかな観察眼と明晰な推理力で解き明かす。それらは家族の中でも一部の人間しか知らされていない、実に人間らしい家庭の秘密である。

1章では店の前を往来するサラリーマンのある特徴から保険外交員の空白の30分の真相とそれを招いた煎餅屋の哀しい事実を解き明かす。

2章では事件現場に残された人形焼きの中にわさび入りが1つ混じっていたことから、気丈夫の料亭の女将が抱える女性ならではの苦悩を解き明かす。

3章では犬猿の仲のように見えた瀬戸物屋の嫁と姑が他人に頼みごとをする嫁の不可解な行動からそれぞれが秘める互いを気遣う気持ちを表出させる。

4章では駆け落ちして高校卒業と共に家を飛び出した娘に対して憤懣やるかたない時計屋の主人が殺人事件の被害者の遺したメールの内容から実は密かに娘の動向を確認していた優しさを知る。

5章では三井峯子の母親としての優しさを知る。

6章では死体の第一発見者であり、彼女を離婚させ、翻訳業の道に誘った友人吉岡多美子を通じてさらに三井峯子の人間としての優しさを浮き彫りにする。

7章では被害者の元夫に焦点を当てられる。

8章では解決編となる最終章に向けての布石が語られる。

そして最終章では親の子を思う、愚かなまでの愛情が明かされる。
そしてそれは加賀の捜査の相棒となった捜査一課の上杉が抱える苦い過去をも浄化させることになる。

このどれもが人間の心の不可解さを表している。それは他者を思う気持ちを表面に出さない江戸っ子の人情ゆえの歪んだ愛情とも云えよう。
日本橋署に赴任したばかりの“新参者”加賀恭一郎にとってそれらは殺人事件の捜査の過程で出逢った謎でありながら、実に興味深い物であったことだろう。

しかし全てが明かされると、この世界は人間の優しさや人情で出来ているのだと温かい気持ちになるから不思議だ。

小伝馬町のワンルームマンションの一角で起きた離婚歴のある45歳の女性の孤独な死。その真相に至るまでに煎餅屋、料亭、瀬戸物屋、時計屋、洋菓子屋、翻訳家、清掃会社、役者志望の若者、税理士、建設コンサルタントの面々が直接的、間接的に事件に関わっていることが物語の最終で明らかになってくる。この構成が素晴らしい。
そしてそれらの事件を通して被害者三井峯子の人物像が浮き彫りになってくる。たった1人の女性に対してこれだけたくさんの人たちの人生が交錯し、またすれ違っていることを教えられる。

また特筆なのはこの事件を通してシリーズキャラクターとして読者にはお馴染みである加賀恭一郎の人となりが今まで以上に鮮明に浮き上がってくることだ。

日本橋署に赴任したばかりの一介の刑事が人と人の間を練り歩き、事件とは関係のない謎を解き明かすことで1人の人間の死が及ぼしたそれぞれの小さな事件を知り、1つの大きな絵が見えてくる。それを飄々とした態度で、明晰な観察眼と頭脳で解き明かす加賀の優秀さ、いや清々しさがじんわりと読者の心に満ちてくるのだ。

特に第7章で被害者の元夫である清瀬直弘と対峙した時に加賀が清瀬に告げた家族の力の強さは、以前の加賀からは決して出なかった台詞だろう。これはやはり長年確執があった父の死を超えた加賀だからこそ云えた言葉だった。

本書は家族への愛を色んな形と角度から描いたミステリだ。人の心こそミステリだと宣言した東野氏がこんなにも心地よい物語を紡いだのは一つの到達点だろう。
『秘密』、『白夜行』、『容疑者xの献身』が彼にとって単なる通過点に過ぎなかったことを改めて知らされた。
いやはやどこまで行くのだ、この作家は。


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新参者 (講談社文庫)
東野圭吾新参者 についてのレビュー
No.1130:
(7pt)

原点回帰であるが昔のようではないマットがいる

今回マットが対処する事件は強盗による弁護士夫婦殺害事件。強盗が入っている間に家主が帰って来て強盗によって殺される。
これはもう1つのブロックのシリーズ、泥棒探偵バーニイ・ローデンバーがしばしば巻き込まれるシチュエーションだが、その場合は軽妙なトーンで物語が進むのに対し、マット・スカダーシリーズでは実に陰惨な様子が淡々と語られ、恐怖が深々と心に下りてくるような寒気を覚える思いがする。この書き分けこそがブロックの作家としての技の冴えだ。

今回はマットとTJの機転で警察組織を巻き込んで大規模捜査網が敷かれる。かつて個人が巨大な悪に立ち向かうためにミック・バルーと云う悪の力を借りて対峙したマットだったが、前作でミックの組織は瓦解し、彼を残すのみとなった。
今回総勢12人も殺害したシリアル・キラーと立ち向かうために組んだ相手が警察組織だったことは元警官であったマットにとって自分の立ち位置が原点に戻ったように思える。

原点回帰と云えばシリーズも15作目になって、マットは更なる過去へ対峙する。それはシリーズが既に始まった時から離縁関係にあった元妻アニタと彼の息子マイケルとアンドリューとの再会である。

既に2人の息子は成人となって働いている。齢62となったマットの元妻アニタが心臓発作で亡くなったことを息子の電話で知らされる。
決してシリーズに大きな影響を与えていたわけではない、元家族との意外な形での再会はしかしスカダーにとってもはや遠い日の追憶でしかないことを悟る。
2人の息子の内、次男のアンディは危うい橋を渡るような生活を送っている。長男のマイケルにたびたび無心をしては職を転々とし、そして今回もまた会社の金を横領した廉で警察に突き出されそうになっている。それはかつて警官と云う職に就きながら、心に傷を負うミスを犯して身持ちを崩してしまったマット自身の姿とどこか重なる部分がある。彼も元父親としてアンディに横領金の肩代わりを半分担い、その金でアンディは事を免れるが、マット自身も云っているようにそれが最後になるとは思えない。アンディの厄介事はこれからも続きそうだ。

敢えて証拠を残して警察や探偵に誤った方向へ捜査を導く。証拠から導かれるロジックが完璧であればあるほどそれを信じて疑わなくなる。
これはエラリイ・クイーンが抱えた“後期クイーン問題”から連綿と続くテーマである。現代のシャーロック・ホームズと云われているジェフリー・ディーヴァーのリンカーン・ライムシリーズでも既にこの問題に直面し、ますます捜査の難度と物語の構造の複雑さは増してきている。
まさかこのシリーズでこのようなテーマに出くわすとは思わなかったが、長らくミステリを書いていると作家はこの問題に直面する運命にあるのだろうか?

さて私がこのシリーズを読み始めて足掛け2年4ヶ月の付き合いになる。既に本書までは既刊だったため、シリーズを1作目から本書に至るまで通して読むことが出来たが、この2年4ヶ月という凝縮された期間であっても本書を読むにここまで来たかと感慨深いものを感じるのだから、シリーズを1作目から、もしくは有名な“倒錯三部作”からリアルタイムで読み始めた人々のその思いはひとしおではないだろうか。

本書で語られているように、マットが断酒してから18年の歳月が流れ、作中での年齢は62歳と既に還暦を超えてしまっている。

しかしマットは登場当初の、人生に打ちひしがれた元警官の無免許探偵という社会的には底辺に位置する人々の一員であったが、15作目の本書では元娼婦の妻エレインが蓄財した不動産収入でニューヨークでマンション暮らしをし、安定した生活に加え、エレインが趣味で始めた画廊からの収入もあり、マットは探偵業を気が向いた時に営むといった、人が羨むような生活を送っている。
もはやホテルの仮住まいで定職に就かず、毎日アームストロングの店に入り浸ってアルコールを飲み、時折訪れる人のために便宜を図るように幾許かの金で人捜しや警察が扱わない事件の掘り返しを請け負い、依頼金の1割を教会に寄付して過去の疵を癒す慰みにしている、人生の負け犬のような彼の姿はもはやそこにはない。陰の暮らしから日の当たる世界へ出たマットの姿をどう捉えるかは読者次第なのだろう。

ただマットの生活も変われば彼の捜査方法も変わったのも確かだ。TJにパソコンを与えてから人捜しも市井の人々の間を逍遥することで不意に得られる奇妙な縁から全てが繋がっていく、そんなマットならではの方法ではなく、インターネットによってアーデン・ブリルという本名か偽名かも解らぬ名前を手掛かりに犯人を特定していくようになる。

そして犯人もまた闇サイトでの評判を愉しみにするサイコパスと、現代的な犯人像なのも特徴的だ。いや“倒錯三部作”から既に時代に添った犯人像をこのシリーズは描いていたと云えるので、これは本書での変換点ではない。

ともあれマットが裕福になり、エレインとの夫婦生活が充実していくにつれて、このシリーズ特有の大切なペシミズムやムードが失われていくような気がするのは私だけだろうか。

相変わらず読ませる物語であることは認めよう。
しかし上に書いたようにかつて読んでいたようには私の中に下りてくる叙情性といったような物が薄れているのは確かだ。
しかしそれでも私はいいと思う。エレイン、TJ、ミックと彼を慕う人々の中でマットが事件と対面していくのもやはりこのシリーズの特徴であるからだ。

さて次の『すべては死にゆく』は未だ文庫化されていない。このシリーズ全作読破のために一刻も早い文庫化を望む。
しかしブロックの新作は文庫で出ているのになぜこの作品だけ文庫化されないのだろうか?気になって仕方がない。


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死への祈り (二見文庫―ザ・ミステリ・コレクション)
ローレンス・ブロック死への祈り についてのレビュー
No.1129: 3人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

9作目にして作者大いに趣味に走る!?

S&Mシリーズ9作目の本書ではこのシリーズの原点回帰とも云える密室殺人事件を扱っている。しかも同時に2つの密室殺人が離れた場所で起こるが、どちらも容疑者は同一人物だったという、魅力的な謎をいきなり提示してくれる。

一方の密室殺人は大学の実験室で起こる。共同実験者の上倉裕子が扼殺されて横たわっていた。その部屋の鍵を持つのは被害者の上倉裕子と助教授の河嶋、そして研究室の学生用の1つでそれは容疑者の寺林が持っていた。

他方の密室殺人の舞台はオタクの祭典、模型展示会が行われている公会堂の控室。そこにいたのは首のない、しかし体型からコスプレモデルとして来ていた筒井明日香の遺体、そして頭から血を流して昏倒していた寺林だった。そしてその部屋の鍵は寺林と管理人のスペアキーしかなかった。だが鍵を持っていた人物は部屋で昏倒していたので誰がどうやって鍵を掛けたのかが解らない。

さらに筒井明日香の兄紀世都もまた自分のアトリエで萌絵、寺林、大御坊、喜多、犀川ら衆人環視の中で殺害される。死因は感電死だが、浴槽に浸かっていた彼の遺体は白い塗料が吹き付けられていた。それは恰もフィギュアのようだった。

本書で特徴的なのは『幻惑の死と使途』以降付されていなかった登場人物表が復活していることだ。
『幻惑の死と使途』、『夏のレプリカ』、『今はもうない』は登場人物表を付けられない、凝った構成の作品だったからだが、本書でそれが復活しているということはつまり原点回帰的な密室殺人ミステリであることを意味している。

さて本書では森氏の趣味がある意味横溢していると云っていいだろう。
まず事件の舞台となるのが模型作品展示・交換会、つまりモデラー達の集いである。作者自身がかなり本格的な鉄道模型マニアであることから、これは満を持してのテーマだったと思われる。そのためか登場人物が模型やフィギュアに対する哲学を語るシーンがそこここに挟まれており、それらは作者自身の考え・意見であると窺える。

そしてもう1つ特徴的なのはコスプレイヤーも登場するところだ。
モデラー達よりもその色合いは薄いものの、本書では西之園萌絵がコスプレしているところに注目されたい。まずは上記の展示会でのオリジナルキャラクターのコスプレに、事件の容疑者寺林に話を聞くために彼が入院している病院の看護婦に成りすまして潜入する。
コスプレマニアにとってはある意味萌え要素が盛り込まれており、やはり西之園萌絵の名の由来はオタクやマニアにとって馴染みの“萌え”から来ているのかと思わず勘ぐってしまった。

もう少し云えば、本書の章題に注目したい。「土曜日はファンタジィ」、「日曜日はクレイジィ」、「月曜日はメランコリィ」とラノベ的な軽さを持っており、これもオタク要素を盛り立てている。本書の題名に隠されたもう1つの意味、「数奇にして模型」≒「好きにしてもOK」の如く、森氏は奔放に本書で遊んでいるようだ。

さて真相を読めば至極面倒な手続きを踏んだ事件だったと云える。
正直「夜はそんなに長いか?」と疑わずにいられない。この真相のバランスの悪さがカタルシスを感じさせないのが残念だ。

しかし本書では真相に至るまでの経緯も含めて色んなミステリのガジェットに満ち溢れているように思える。

例えば録画好きの大御坊の8ミリカメラの映像で第3の殺人事件、筒井紀世都の遺体が発見されるまでの彼のアトリエで起きたイベントの一部始終を振り返るところはジョン・ディクスン・カーの『緑のカプセルの謎』を髣髴させるし、犯人の動機である理想形の人物をシリコンで型取って等身大のフィギュアを造る件は島田荘司氏の『占星術殺人事件』のアゾートを想起させる。

さてシリーズ9作目になると固定メンバーの知られざる事実が小出しに明かされていく。犀川の友人喜多が鉄道マニアであったこともそうだが、特に今回は萌絵の同級生で同じ犀川研究室に所属する金子勇二が姉を萌絵の両親が遭った同じ旅客機事故で亡くしていることがちょっとしたサプライズだった。これが彼と萌絵との関係にどのように展開していくかは今の段階では解らない。

さらに初登場の萌絵の従兄、大御坊安朋もまた実にエキゾチックなキャラクターである。
妾の子という暗い生い立ちにありながら作家にして女装家でオネエ言葉を連発する、1998年と今から17年前の発表当時では実に濃くて生理的に受け付けない人物であっただろうが、オネエタレントが芸能界を闊歩する今では免疫が出来て寧ろ魅力的に映った。あと1作を残すのみとなったS&Mシリーズの終盤では登場するに遅すぎたと残念に思った。

本書はフィギュアにコスプレにとオタクたちの集いと云った趣のある内容、大御坊安朋のオネエキャラは刊行当時ではそれほどこれらの世界が認知されていなかったせいか、比較的その濃度は控えめだが、現在ではもはや珍しくもない題材なので、いささか早すぎたテーマだったのかもしれない。逆に昨年ドラマ化されたことはようやく時代が本書の内容に追いついたことということか。

またこのシリーズのもはや特徴となっているが、殺人を犯すことの動機の浅薄さ、不可解さは逆にネット社会で人とのコミュニケーションがリアルよりも電脳領域での比率がかなり高くなっている現在の方が実に解りやすくなっている。

そして9作目にして初めて犀川は犯人と対決する。犯人の毒牙に落ちようとする萌絵を救うため、身体を張って彼女を護り、怪我を負う。ドライでクールなミステリだったシリーズがホットでフィジカルな色を帯びて正直驚いた。

このようにシリーズの評価は私的には尻上がりに好ましくなってきているが、唯一変わらないのは西之園萌絵に対する嫌悪感である。本書でも彼女は我儘で傍若無人、傲岸不遜であった。萌絵と私には決して近づくことができない斥力が働いていると認識しよう。
いやはや身の回りにいなくてよかった。


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数奇にして模型―NUMERICAL MODELS (講談社文庫)
森博嗣数奇にして模型 についてのレビュー
No.1128:
(7pt)

解説本必須の難解作品

SF作家のプリーストが今回取り上げたテーマは第2次大戦時代を扱った改変歴史物語。J・L・ソウヤーと云う名の双子の奇妙な人生譚だ。

第2次大戦時の英国首相として有名なチャーチルの手記が言及する良心的兵役拒否者でありながら現役の英空軍爆撃機操縦士という相矛盾する価値観を内包するソウヤーと云う人物の正体は同じイニシャルを持つジャックとジョウゼフのJ・L・ソウヤーと云う全く同じイニシャルを持つ双子のそれぞれの来歴が混同されたことだったと判明する。
戦争の混乱期にありがちな間違いであるのだが、プリーストの語りならぬ騙りはそんな定型に陥らない。

まずJLとジョーという同じJ・L・ソウヤーという名前の双子が片や英国軍の軍人の道を、一方は兵役拒否者として赤十字で働く道を選んだそれぞれの人生が手記や記事の抜粋などの様々な形式で語られる。

メインとなるのが戦争ドキュメント作家スチュワート・グラットンが興味を示したチャーチル直属の副官となったほとんど無名のソウヤーなる人物で、それが読者の1人が自身のサイン会に持参した手記によってJ・L・ソウヤー大佐であることが高い確率で確認される。

しかしそこに書かれている内容と関係者の証言や手記とは異なる事実が判明してくる。

これらの記述は様々な人物による手記や著作、記事の抜粋によって構成されている。これが全て“信頼できる語り手”であるか否かは不明であり、それらによって物語が進んでいることに留意されたい。
従って前に書かれた内容が新たな事実によって否定され、物語のアイデンティティが揺らいでいく。

これは夢か現か妄想か?この足元が揺らぐ感覚はまさにプリースト作品ならではのものだ。

さて誰が嘘をつき、誰が真実を語っているのだろう?
いやもはや事実の受け取り方はその者に与えられた情報や体験によって構成されるが故に、純然たる真実はあり得ないのか。

一見ストレートな物語と見せかけて読み返すと様々な語り―騙り?―が散りばめられていることに気付かされるという実に複雑な構成を持っていることに解ってくる。
とにかく読書中は付箋だらけになってしまった。しかしそれこそが本書を読み解くのに必要な作法であることは物語の最後に気付かされる。
上に書いたように2人のソウヤーの手記の内容は異なり、さらには挿入される様々な記事や手記においてもまた辻褄が合わないことが多々書かれているため、前に書かれた文章を行きつ戻りつしながら補完していくことが必要なのだ。
しかしそれがまた物語の、いや本書で語られる歴史の真実を揺るがせることになるのだから侮れない。全くプリーストは相変わらず一筋縄ではいかない作家だと思いを新たにした。

この複雑な物語を解き明かす一つの解釈として巻末の大森望氏の解説に書かれた緻密な説明は必読。ホント、この作品には解説本が必要だ。


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双生児 (プラチナ・ファンタジイ)
クリストファー・プリースト双生児 についてのレビュー
No.1127: 3人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(8pt)

過ちの連鎖が哀しすぎる

探偵ガリレオ長編3作目では恐らく神奈川の伊豆辺りと想定される都心から電車で訪れる事の出来る南国情緒のある町、玻璃ヶ浦。深海鉱山開発の説明会に狩り出された湯川がそこで元刑事の殺人事件に巻き込まれる。

帝都大学の研究室を離れて、警視庁の管轄外での事件ということで定型通りに草薙と内海から事件の捜査を依頼されるわけではない。草薙が登場するのは100ページを過ぎた辺りとシリーズの中で最も遅い。
つまり本書では湯川が出張先で草薙達に先んじて事件に出くわす、変則的な構成を取っている。しかも草薙と内海は東京で湯川の援護射撃をするのみ。最終的に2人が合流するのが全460ページ中396ページと最後の辺りとシリーズの定型を崩しているのが興味深い。

さらに本書はある意味、シリーズの約束事を裏切ることで成り立っていると云える。

まず今回のパートナーが柄崎恭平という少年であることが驚きだ。シリーズ当初の短編で湯川は自身が子供嫌いであることを公言しているが、本書では電車で伯母夫婦の許に向かう恭平が湯川に助けられることが発端となっている。子供嫌いの人物ならば恐らく子供が困っていても無視するだろうと思われるのでこの展開は実に意外だった。

そして最も私が驚いたのは湯川が今回事件の捜査に自発的に関わっていることだ。特に旅先で知り合った柄崎恭平と云う少年から事件のことを知らされると自ら遺体発見現場に案内してくれと申し出る場面では面喰ってしまった。
事件に携わることで親友とかつての恩師に手錠をかけるようになってしまった湯川が再び草薙そして内海に協力していく経緯は『ガリレオの苦悩』や『聖女の救済』で語られているが、しかしそれでも湯川は事件が起きた直後は捜査協力に後ろ向きであった。しかし今回は上に書いたように自ら申し出るようになる。

子供嫌いの男性で警察の捜査に興味を示さない男が本書では全く逆の姿勢を見せている。シリーズの基盤が揺さぶられるような展開だ。

元刑事塚原の殺人事件の裏にあるのが、かつて彼が携わった仙波英俊が起こした殺人事件。
それは落ちぶれた小さな会社経営者がトラブルを起こして店を首になった元ホステスを金の縺れで衝動的に殺害した、動機も明確な至極単純な事件だったが、事件現場がそれぞれが縁のない荻窪で起きたことが唯一おかしな点だった。

最先端科学を売りにした探偵ガリレオシリーズだが、長編になると科学よりも、事件に関わった人たちが表面に見せない、人と人の間に起きた齟齬から生じる奇妙な縺れを探ることに主眼が置かれている。
純粋な左脳ミステリであるこのシリーズが長編では右脳ミステリになるのだ。

これは誰にしもあり得る過去のひと時の過ちがきっかけとなった事件。

それぞれがごく普通の日常を護ろうとした。しかし過去の過ちはそれを崩そうと彼らを苛むように忘れた頃に訪れる。
彼らにとって忘れたい忌まわしい過去が、いやもしくはそっと胸に潜めておきたい儚い恋の想い出が歪な形で追いかけてくるような思いがしたことだろう。そしてそんな過去から日常を護るにはもはや殺人と云う最悪の非日常に身を落とすしかなかった。
しかしそれが負の連鎖の始まりだった。普通の生活を続けようとするのが斯くも難しいのか。これが人生の綾なのだろうか。

そして今までの定型を崩し、事件に積極的に関わった湯川。最後に彼の思いを知った時に彼は変わったのだとさらに確信した。
『容疑者xの献身』以前以後と湯川の人物像ははっきり区分けできる。それは作者東野圭吾氏の境遇もまた重なるのが興味深い。

まさに期待通りの作品だった。湯川が解いた真夏の方程式は実に哀しい解を導いた。
しかしその解ゆえに湯川はまたより魅力的に変わる事だろう。シリーズはますます深みを増していくに違いない。


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真夏の方程式 (文春文庫)
東野圭吾真夏の方程式 についてのレビュー