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Tetchy さんのレビュー一覧

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レビュー数217

全217件 1~20 1/11ページ

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(10pt)

キングが物語に仕掛けたワンダーが横溢した傑作!

スランプ状態から抜け出したスティーヴン・キング復活の作品と云えば先の『ドロレス・クレイボーン』でもなく、私は本書を挙げる。当時6分冊で刊行された本書は日本でも好評を以て迎えられ、更に映画化もされて大ヒットを記録した。

キングがこの作品を6分冊で刊行したのは海外著作権を扱う人物からの提案で昔チャールズ・ディケンズが採用していた分冊形式の話題がきっかけだったとのこと。特にキングがこの趣向を魅力的だと思ったのは、“読者が結末を読めない”ことだった。昔キングは自分の母親がクリスティーのミステリを結末部分を覗き見しながら読んでいるのを目の当たりにしてショックと怒りを覚えたとのこと。
従ってこの分冊方式はそういった輩に対して絶好の対抗策であるのと同時に、この『グリーン・マイル』の題材自体がまだキングの中ではイメージと設定があるだけで物語として固まっていなかったことから作者自身も結末が解らないままに書き出すことが当時のキングの心理状態とマッチングしたらしかった。いわば連載小説や連載漫画の手法を本書は取り入れたわけである。

ただ私が読んだのは6分冊で刊行された新潮文庫版ではなく、合本版を上下巻で刊行した小学館文庫版である。但し私は上にキングが嘆いたような、結末を最初に見て物語を読む性分ではないので通常通り結末までどうなるか考えながら楽しむことが出来た。

作者自身の前書きにも触れているが、本書はキングにとって刑務所を舞台にした2作目の小説である。1作目は映画『ショーシャンクの空に』の原作中編「刑務所のリタ・ヘイワース」で、長編としては2作目になる。そのいずれもが傑作であり、しかも映画も大ヒットしている共通点がある。
実は刑務所小説はキングにとっても相性がいいのではないだろうか。

ところでこの刑務所小説はアメリカでは一定数あるようで一ジャンルを築いているようだが、翻って日本を顧みれば私の経験上、ほとんど読んだことがない。キングを信奉し、数多の傑作を書いてきた宮部みゆき氏やベストセラー作家の東野圭吾氏、大沢在昌氏と書店を賑わすビッグネームの多作家でさえ書いていないのだ。

これはただ単純に文化の違いだろうか?
日本では服役囚のプライバシーを重要視するあまり、取材が困難なのだろうか。

そして「刑務所のリタ・ヘイワース」がそうであるように本書もまた傑作である。いや、もしかしたらキング作品の中で一番好きな作品が本書なのかもしれない。それまでは『ペット・セマタリー』、中編集の『スタンド・バイ・ミー』だったが、本書はそれを超える。
キングは時々魔法を掛ける。それもワンダーとしか呼べないほどの。

前書きに描かれているが、本書は難産だったらしい。
しかしその苦労が報われるほどの素晴らしいお話が降りてきていた。

この物語は語り手のポール・エッジコムの回想録の体裁で書かれている。物語の舞台は1932年で当時のことをジョージア・パインズ老人ホームにいるエッジコムが思い出しながら書いているという内容で、時折現代のエッジコム自身の物語も挿入される。このことについては後に触れよう。

とにもかくにも登場人物のキャラクターが立ちまくっている。
語り手の刑務所看守主任ポール・エッジコムはじめ、看守ディーン・スタントン、ハリー・ターウィルガー、ブルータス・ハウエル、そしてパーシー・ウェットモア。

この看守たちは一人を除いて皆本当の意味のプロである。彼らは自分たちが勤務するEブロックの囚人たちが死刑を迎えた者であることを踏まえ、決してぞんざいに扱わない。

しかしただ1人パーシー・ウェットモアだけが別である。この看守は州知事と義理の血縁関係であることを盾にして自分に不利益なことや周囲が馬鹿にすると周りの看守たちに州知事に云いつけて失職させてやると息巻く、まさに憎き虎の威を借る狐なのだ。電気椅子〈オールド・スパーキー〉で処刑された死刑囚に平手打ちを食らわして罵り、自分より弱いとみれば理不尽な因縁をつけて警棒で叩く一方で、敵わない相手だとみると恐怖に慄き、仲間の前で何もできずに立ち竦むだけ。中身のない、虚勢だけの青二才だ。
この男の非道ぶりと浅はかさが際立つのはドラクロア処刑のシーンだ。

さて一方で囚人たちもまた粒揃いのキャラクターが揃っている。

エデュアール・ドラクレアはフランス系の犯罪者で少女を強姦して殺し、石油を撒いて着火し、その火がアパートメントに燃え移ってさらに6人が死に至った事件の犯人だ。彼は悪たれ看守パーシーに目を付けられ、事あるごとに虐められるが、ネズミのミスター・ジングルズとの出会いが彼の囚人生活を変える。
この不思議に賢いネズミはいつも彼のところにおり、彼が用意した葉巻箱のベッドに眠り、そして糸巻きの芯で遊ぶのとペパーミントキャンディを好み、一躍Eブロックのアイドルとなる。

このミスター・ジングルズによってドラクロアも笑顔が増え、純粋な笑みを見せるようになる。そのギャップがまた世界の皮肉さを助長させる。
なぜ死刑が決まっている人間がこれほどまでに幸せそうに微笑むのかと。

〈荒くれビル〉ことウィリアム・ウォートンは真のワル、生まれながらの悪人だ。19歳にして複数の州を転々としてあらゆる犯罪に手を染め、自分をビリー・ザ・キッドと称する。とにかく行動の読めない男で、刑務所に運ばれたときは心神喪失状態のような様子であったが、いきなり手錠の鎖を看守の1人ディーンの首に巻き付け、絞殺しようとする。また檻に近づきすぎたパーシーを捕らえて下卑た微笑みで卑猥な言葉をかけ、恐怖に陥れる。パーシーはそれでラストネームのウェットモアに相応しい尿の染みをズボンに着けてしまう。

そして何よりも物語の中心となる囚人ジョン・コーフィの造形が素晴らしい。見上げるほどの巨漢で肩幅が広く、胸板がものすごく厚く、合う囚人服がない黒人。もし暴れたら看守5人が束になっても抑えきれるかどうか解らない畏怖すべき存在ながら、最初にお願いしたのは暗いところがちょっと怖いから寝る時間になっても明かりをつけておいてほしいと少女めいた要望を出すギャップにまず引き込まれた。

更に彼は週が変われば前の週の記憶を失い、いつも涙を流している。

また本書における死刑囚が収監されるEブロックの描写は実にリアルだ。
例えばそのコールド・マウンテン刑務所の処刑方法として鎮座するのは“オールド・スパーキー”と呼ばれる電気椅子だが、看守たちは処刑の前日にはそれぞれが与えられた役割に則ってリハーサルをするのだ。

例えば椅子に足を固定する時が最も無防備になるから死刑囚が暴れだした際に片膝を立てて股間を守る姿勢を取ったり、喉を蹴られないよう顎はグッと引いておくそうだ。また電気が流れる側のふくらはぎの毛はすっかり剃っておく必要がある。恐らく電気で焼き焦げて火が着くからだろう。

また電気椅子のスイッチは2段階になっており、第1スイッチが入ると通電され、刑務所内の照明が少し明るくなる。そのことで他の囚人たちは処刑がなされたことを知る。ただこの段階ではまだ電気椅子には電気が流れておらず、チャージされただけで、次の第2スイッチを入れた時に死刑囚に電気が流されることになっている。

また看守は通路の真ん中を歩くよう気を付けなければならない。どちらか一方に近いと隙を見た囚人が檻から手を伸ばして看守を掴んで最悪の場合、鍵を盗まれて殺されるからだ。

そしてこれら刑務所のディテールが最高潮に活きるのが賢いネズミ、ミスター・ジングルズをペットに持つフランス系囚人エデュアール・ドラクロアの処刑シーンだ。
この時、陣頭指揮を採ったのがパーシー・ウェットモア。そう、ドラクロアを目の敵のように虐めていた男だ。そして彼は電気椅子のヘルメットの中には海綿が仕込まれているが、それが塩水に濡らされてないとならないらしい。そうすることで電流を海綿を介して直接脳に撃ち込まれるからだ。しかしパーシーは知らなかったと偽ってそれを敢えてしなかった。そしてドラクロアの処刑はどうなったか。

これはまさに地獄絵図のように陰惨なものとなった。一気に死ねないドラクロアは高圧電流に苦しみ、固定された椅子の上で断末魔の如く、逃れようと信じられないほどの力で藻掻いてその力で自らの骨を砕き、顔を覆うマスクは電気によって燃え尽き、肉は焼け、目玉が眼窩から零れ落ち、意識を保ったまま、自身が焼かれるのを耐えるだけになる。
自分の家族をドラクロアによって殺された遺族は彼の処刑に立ち会ったが、そんな憎しみの渦中にある彼らでさえ、もうたくさんだ、解放してやってほしいと懇願するほどにその有様は惨たらしい。
そしてもしそれでも絶命しなかったら最悪だが、ドラクロアはどうにか絶命する。しかし高圧電流で全身が焼けただれた彼の皮膚はあらゆる衣類に引っ付き、聴診器を当てて死亡を確認するのに胸をはだけるとずるっと爛れた皮膚まで持っていかれ、真っ赤な肉がむき出しになり、そこに当てるしかなくなる。

凄まじいまでのディテールと人間の愚かさが、いやパーシー・ウェットモアという人間が唾棄すべき人間であると再確認させられるシーンだ。

そして後半の結末に向けての展開が凄い。まさに怒涛の展開である。

ポール・エッジコムら他の看守にとって目の上のたん瘤であり、また悩みの種であったパーシー・ウェットモアとウィリアム・ウォートンがまさかこんな形で片付けられようとは。なんという始末の付け方だ。私はこのシーンを読んだときにキングに神を見た。

最後の最後まで驚きと感動が詰まった作品だった。前書きでキングは結末まで考えてなく、読者同様作者もどんな結末になるか解らないと書いてあるが、それが信じられないほど、全てが収まるべきところに収まり、そしてそれがこれまでにない素晴らしい物語となっていることに驚く。
やはりこれはジョン・コーフィにキングが書かされた物語ではないか、そんな風に思わされてしまう。

生みの苦しみの末に出来上がった本書は現時点で私の中でキング最高作品となった。

いやあ、これはぜひとも映画を観てみたい。トム・ハンクスが演じたポール・エッジコム、マイケル・クラーク・ダンカンが演じたジョン・コーフィをぜひとも観てみたい。

久々に読後ため息が漏れ、世界に浸れた物語だった。やはりキングはすごい。まだこんな物語を書くのだから。
そしてその後も傑作を生みだしていることを考えると、本書がまだ彼の創作の途上に過ぎないのだ。いやあ、もう言葉にならないね、凄すぎて。

グリーン・マイル。
それは電気椅子に至る廊下がライム・グリーンのリノリウムが貼られていたことで付けられた俗称だった。
しかしこの言葉は最後に語り手のポールが嘆き呟くように、人生の最期に至る道のりを示すのではないか。
私のグリーン・マイルはまだまだ遠くにある。そして老人のポールと異なるのは彼がそのことを絶望しているのに対し、私はまだそのことに安堵していることだ。

まだまだ読みたい本がたくさんあり、まだまだ人生を楽しみたい。

私がグリーン・マイルを歩むとき、全て成し終えたと笑顔であるように祈っている。


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グリーン・マイル〈1〉ふたりの少女の死 (新潮文庫)
スティーヴン・キンググリーン・マイル についてのレビュー
No.216: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(10pt)

狂おしいほどに切なく、そして悍ましいのに哀しい。

京極夏彦氏の百鬼夜行シリーズの中でもとりわけ評価が高く、2012年に週刊文春が行った『東西ミステリーベスト100』でのベストミステリー投票においても9位にランキングするなど、2作目にしてシリーズ代表作、いや京極氏の代表作となったのが本書『魍魎の匣』である。

そして読了の今、胸に迫りくるのは何ともすごいものを読んだという思いだ。
狂おしいほどに切なく、そして悍ましいのに哀しい。

1つ1つのエピソードが荒唐無稽でありつつも、決して踏み入ってはならない人の闇の深淵を感じさせ、見てはならないのに思わず見ずにいられないほど、つまり両手で目を塞いでもどうしようもなく指と指との隙間から見たくて仕方がない衝動に駆られる人外の姿に魅せられてしまう強烈な引力を放っている。

そんな話で構成される1000ページを超える本書で起こる事件は4つ。

柚木加菜子殺害未遂事件。

柚木加菜子誘拐未遂事件。

須崎太郎殺害及び柚木加菜子誘拐事件。

連続バラバラ死体遺棄事件。

この事件に加え、取り憑いた魍魎を箱に収めて封じ込める御筥様と云う怪しい新興宗教が関わってくる。

そして忘れてならないのは箱の存在だ。
この小説、実に箱尽くしである。箱、筥、匣の連続だ。

前作が関口巽を主体にした物語であれば今回は木場修太郎の物語であると云えるだろう。
職業軍人であった木場は終戦で敵を喪失したことで、新たな敵を違法者に見出し、刑事になった男だ。押しが強く、屈強な刑事の木場修太郎は幼い頃は絵を描くのが好きな神経質な子供で算盤の得意な几帳面な性格だった。そんな生立ちから正反対の現在の自身を鑑みて強面の鎧で装飾した中身の空っぽな箱のようだと称する。そしてその中身がどうやったら満たされるのかが解らないでいる。木場は自分の空っぽな箱の中身を見られるのが怖いため、女性との付き合いが苦手なままでいる。
しかしそんな彼が思わず自分の箱を開けようとする存在に出遭う。それは木場の憧れの存在、殺人未遂事件に見舞われた柚木加菜子の母でかつて銀幕スターだった元女優美波絹子こと柚木陽子である。彼の箱が柚木陽子で満たされ、彼は事件に本格的に関わるのである。

また幕間に挿入される久保竣公の小説「匣の中の娘」は乱歩の「押絵と旅する男」を彷彿とさせる。
久保竣公は処女作『蒐集者の庭』で幻想文学の新人賞を受賞した期待の新人で、「匣の中の娘」匣に収めた少女と旅する男を羨む主人公の男はぴったり匣に収まった少女を見て、自分も同じような少女を切望する。隙間なく過不足なく匣に収めることに執着する独白が延々と語られる。

そしてバラバラ死体の手足だけが収められているのが箱である。最初は相模湖に沈んでいた鉄の箱だったが、2回目からは桐箱。それがいくつも発見される。

更に御筥様として信者を集め、お祓いをしている寺田兵衛は以前はかなり腕のいい箱職人で<箱屋>と呼ばれていた男で、その突き詰める性格から箱に取り憑かれてしまう。

そして本書での最大の箱は美馬坂近代医学研究所である。この巨大な立方体のような建物もまた箱だった。

久保竣公が母親と流れ着いた九州の築上求菩提山に祀られている鬼神殿のご神体は箱であり、その中には壺が収められている。その壺の中にはその鬼神殿を開いた行者、猛角魔卜仙が退治した鬼が封じ込められており、その箱の名を<神秘の御筥>と呼んでいる。御筥様の由来がこの筥に由来するのは後に判明する。

では箱とは一体何なのだろうか?

ある者は部屋や家屋は箱であるといい、構えがしっかりしていても空では何の役に立たないといい、人もまた同じだと説く。

京極堂は箱には箱としての存在価値があり、中に何が入っているかは重要ではないと説く。

これら様々な意味合いを持った箱は最後に全ての謎が解かれると実に禍々しい存在へと転じる。結末まで読んでしまうと箱を開けたくなくなってくる。

ただ正直最初は実にまだるっこしく感じた。
2人の女子中学生、楠本頼子と柚木加菜子の2人が唐突に湖を観に行こうとしたところにいきなり加菜子が駅のフォームから落ちて列車に轢かれ、そこにたまたま出くわした木場修太郎が事件に関わるまでの顛末が延々80ページに亘って書かれるが、加菜子のすぐ傍に頼子が心神喪失状態で当時の状況をなかなか話さないままなのだ。

そして関口の非常に後ろ向きな自分の短編集出版の顛末に移り、カストリ雑誌編集者の鳥口守彦に最近起こっている連続バラバラ殺人事件の調査に相模湖に行ってそこで山中にある美馬坂近代医学研究所にいる木場と出くわす。

その後は楠本頼子の母親が入信している怪しい新興宗教の御筥様が現れて、本書の主題である魍魎がこの家に取り憑いているとのたまう。

やがて頼子は加菜子をプラットフォームから突き落としたのは黒い服を着た男だと木場に話して再び美馬坂近代医学研究所を訪れ、どうにか面会にこぎつけるがなんと入院していた加菜子は衆人環視の中、忽然と消え去る。
ここまでが230ページ強だ。

そんな長い下拵えを過ぎてようやく京極堂が登場するとそこからはもう無類の面白さを誇る。どんどん先を読みたくなってくるのである。

しかし何とも不思議な小説である。
通常であればこれだけの1,000ページを超える大著ならば長さ、いや冗長さを感じるのだが、それがない。確かに導入部はまどろっこしさを覚えたが、気付けば300ページ、400ページ、500ぺージが過ぎている。つまり既に通常の小説1冊分を読み終えているほどの分量なのだが、それでも物語はまだまだ暗中模索の状態。
では無駄なエピソードがいくつも書かれているのかと云えば、決してそうではない。全てが結末に向けて必要な要素であり、そしてそこに向かう登場人物たちの行動原理や動機が無駄なく描かれているのが判ってくる。

さてこのシリーズでは物語の序盤―とはいえ270ページを過ぎた辺りなので通常の長編であればだいたい中盤に当たるのだが、1000ページ超の本書ではそれでも十分に序盤なのだ―に開陳される京極堂の長々と続く説法が物語のキーとなっているのが特徴だが、本書で開陳されるのは宗教者、霊能者、占い師、超能力者についての話だ。これが実に興味深かった。

これらにどこか似て否なる者たちを京極堂は見事に解説する。

曰く宗教者は自らの信仰の布教を目的としており、そのための奇跡を起こす。信仰の姿勢や教義自体に問題なければ簡単に批判糾弾を加えるわけではない。

霊能者は信仰や布教を目的としておらず、信者を救済するのを目的としている。しかしこの霊能者自身を信仰の対象として布教を図る宗教者もいる。さらにバレない限りどんなペテンも許される。

占い師は営利目的の占術理論に基づいて吉凶を占う者だ。ある程度のペテンは容認できるが、祈祷や供養は畑違いなのでそれを売り物にしている占い師には注意が必要。

そして超能力者は特殊な能力を持った者で全く異質の存在。本書の登場人物の1人榎木津はこれに当たる。従ってペテンは一切許されない。

私が今回目から鱗だったのは過去のことを云い当てるのは情報収集によって可能であるため、本来未来予知ができることに存在価値があるのに過去のことをやたらと云い当てる占い師は信用できないという件だ。そして未来のことは解らなくて当然だから大概外れるのが道理だから別に占い師の云っている未来が当たらなくても苦情は出ないだろうし、逆に当たれば感謝されるだけなのだ、寧ろ外れるものなのだという解釈はなかなかに興味深い。

そして霊能者の祈祷お祓いの類は今後どんなことが起きると明確に云わずに、今お祓いしないと悪いことが起きる、壺を買わないと幸せになれないと云うだけで、もし祈祷や壺を買って、幸せになれなくても信仰心が足らない、供養が足らないと云ってさらに寄進を募る仕組みなのだ、云々。

人によってこれらの解釈には異存があるとは思うが、今までこれら4種類の存在について深く考えたことがなかったのでこのあたりの説明はついつい引き込まれてしまった。

ところで本書には奇妙なリンクが見られる。それは他の新本格作家の世界とのリンクだ。
登場人物の一人、小説家の関口巽が寄稿している出版社の名前を稀譚舎といい、京極堂こと中禅寺秋彦の妹敦子が勤めている会社でもある。

この稀譚舎、一部名前が異なるが綾辻行人氏の館シリーズに登場する出版社の名前なのだ。『迷路館の殺人』の作中作が稀譚社から出版されているのだ。
「舎」と「社」の違いはあるが、これも時代の違いだろう。本書は昭和27年の時代設定であり、一方の館シリーズは現代で『迷路館の殺人』当時は昭和63年なので、この間で社名が変更になった可能性はある。
いずれにせよ京極氏による先達のシリーズ作品へのオマージュだと云えるだろう。

そして忘れてはならないのは本書のモチーフとなっている妖怪、魍魎だ。

我々が日頃使う“魑魅魍魎”と魍魎は異なるらしい。魑魅魍魎とはそれ自体が成語であり、いわゆる妖怪全般を表した言葉だ。ちなみに魑魅は山のモノや山神とされ、魍魎は水のモノや水神と区別できるが、孔子が魍魎は木石の怪と云ったことからそちらの説も罷り通っており、いわば川のモノで水神でさらに木石の怪と様々な説が繰り広げられている。

しかし古代中国では帝の子供であるという神話があり、その姿は三歳児くらいの大きさで眼が赤く、耳が長く、体は赤みがかった黒、頭にはしっとりとした黒髪を湛え、人間の声を真似て人を惑わすとあり、これが現代まで妖怪を伝承する鳥山石燕が『画図百鬼夜行』に描いた魍魎の姿の基となっているようだ。従って本書で表紙になっている紙人形もこの姿を基に造形されている。
そして魍魎は死骸を食らう化け物である。

しかしどうもやはり魍魎とは呼称であり、様々な妖怪をひっくるめて指す総称と考えるのが一番だろう。
私が今回魍魎を示す内容で一番腑に落ちたのは箱詰めにされた久保竣公の姿を好奇心に駆られて見ようとする関口を思い留まらせようとした京極堂の言葉だ。

魍魎とは即ち境界である。

つまり人が人であるための領域と狂人の、人外の領域とを分け隔てる境界、それが魍魎なのだ。
やはりそういう意味では魍魎は妖怪の総称と云っていいのではないだろうか。

また本書では京極堂中禅寺秋彦、関口巽、木場修太郎、榎木津礼二郎、そして中禅寺の妹敦子に加えて新キャラが登場する。

カストリ誌『實錄犯罪』の編集者鳥口守彦はお惚けキャラと見せかけて実は京極堂の話を関口よりも理解し、彼の意を汲んで行動できる男だ。

里村絋市は外科医院の開業医だが解剖が好きなために監察医の仕事をしている風変わりな男だ。

伊佐間一成は京極堂と関口の共通の友人で町田で『いさま屋』という釣り堀を経営している。彼は物語の最後で重要な役割を果たす。

川島新造は木場の戦前からの友人で戦時中は甘粕正彦の腹心の一人として働いた男。小さな独立プロダクション『騎兵隊映画社』で映画製作をしている。
私は最初この男のモデルは実在した映画監督川島雄三だと思ったが、その風貌は雲を突くような大男で兵隊服を着ていて頭をつるつるに剃り上げており、普段はサングラスをかけていると筋萎縮性側索硬化症を患い、早逝した小男だった川島氏とは大きく異なる。どちらかというと攻殻機動隊に登場するバトーを彷彿させる。

また本書のオカルティックな作品世界を彩るのに昭和27年という時代設定がかなり活きている。

カストリ誌がまだ広く読まれ、そして昭和27年5月に起きた荒川バラバラ殺人事件が起き、更に私も学研の書籍で読んだ「千里眼鑑定」が行われていた時代である。そして本書でも箱を持った黒服の黒い手袋をした男が子供たちを攫って行くと云うデマが流れる。

そんな何か見えない物が潜んでいてもおかしくない時代の話であることが妖怪が存在してもおかしくないと人々に思わせるからこそ独特の雰囲気を備えているのだ。

なんと恐ろしき事件でありながらもなんとも素晴らしい構築美を備えた小説であることか。

それを特に感じさせるのがそれぞれの場面に書かれた心理描写が巧みなダブルミーニングであることに気付かされるからだ。物語の順を追って読んでいく時に感じる登場人物の心理と真相を知った後で同じ場面の心理描写を読むと全く意味が異なってくる。
そしてそれが実に的確にその時の本当の登場人物の心情が吐露されていることに気付くのである。

匣尽くしの本書と述べたが、本書の謎という匣が開いた時、我々が知らされるのは究極の愛の形、究極の幸福の姿だった。

我々は常に安心を求めて生きている。
誰しもが何の不自由もなく、トラブルもなく、その日その日を一日一日つつがなく過ごすことを求めて日々生きていく。そしてそれを人は幸せと呼ぶ。

しかし不思議なことにその幸せは永くは続かないことを我々は知っている。
不安や不幸がいつかは訪れることを知りつつもそれが来ないように願いながら、一日でも永くこの幸福が続くように目の前にある問題を解決して、もしくはそこから目を背けて生きている。

しかし不幸が決して訪れない幸せな生き方があることを本書は示してくれた。それは人であることを辞めることだと。

もういっその事、狂ってしまおうかしらと。

通り物が楠本頼子を唆し、火車によって亡骸を奪われ、そして魍魎によって死者は掘り起こされ、匣の中に入れられた。

怪奇と論理の親和性という本来相容れない2つを見事に結び付け、そして我々を途方もない人の道の最北へと連れて行った本書。
妖怪と医学という人外の物と人智の極致が正反対であるがゆえに実は背中合わせほどの近しい狂気の産物であることを見事に証明した神がかった作品である。

島田氏の提唱した本格ミステリの定義の理想形がここにある。確かに本書は今後読まれるべき作品であった。

▼以下、ネタバレ感想
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魍魎の匣―文庫版 (講談社文庫)
京極夏彦魍魎の匣 についてのレビュー
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夜のホテルの窓の灯の数々が織り成すモザイクミステリ

映画化もされ、大ヒットとなった『マスカレード・ホテル』。その後前日譚の短編集『マスカレード・イヴ』を経たが、本書が実質的な続編といっていいだろう。

第1作の時に今流行りのお仕事小説と警察小説2つを見事にジャンルミックスした非常にお得感ある小説と称したが、本書もその感想に偽りはない。2つの持つ旨味を見事にブレンドさせて極上のエンタテインメント小説に仕上がっている。

基本的な路線は全くと云っていいほど変わっていない。
高級ホテル、ホテル・コルテシア東京に犯罪者が訪れることだけが警察側に判っており、正体は不明だ。したがって捜査員をホテルの従業員として潜入させ、容疑者を捜し、事件を未然に防ぐ。そして人を疑うのが仕事の警察とお客様を信用し、信頼を得るのが仕事のホテルとの真逆の価値観が生む軋轢とカルチャーショックの妙が読みどころである。

しかし前作と違って本書の主人公の1人新田浩介は既にホテルのフロント係を経験済みであり、前回ほど息苦しさややりにくさを感じさせない。寧ろ愉しんでいる節さえ見られる。特に今回影の主役ともいうべき厄介な客日下部篤哉のプロポーズ大作戦を野次馬根性で見学させてほしいと云った軽薄さも垣間見える。

さらに前回新田の縁の下の力持ち的存在として捜査に大いに活躍したベテラン刑事能勢も登場する。
彼は品川の所轄から捜査一家へ配属され、今回新田の所属する稲垣班が捜査を手伝う矢口班の一員となっている。そして再び能勢は他の捜査陣とは別に隠密裏に被害者の身辺調査に当たり、別の側面から容疑者を特定していく。つまりホテルに拘束された新田ができない捜査を能勢が一手に引き受けるのだ。
まさに新田にとっては盤石の体制と云えよう。

しかしそんな安寧を持たさないよう、東野氏は今回生粋の厳格なホテルマン氏原祐作を新田の指導員にぶつけることで再び新田に不自由を経験させる。
基本的に前回の指導員山岸尚美は不愉快に思いつつも捜査に協力的で、なおかつ新田を一流ホテルに恥じないようなフロント係に仕立てようと努力をしていたが、今回の氏原はホテルの規律と気品を守るためにあえて新田に何もさせないでおくという主義を取る。いわばホテル原理主義者とも云えるガチガチのホテルマンなのだ。
客の前では満面の笑みを見せるが、新田や他の従業員の前では能面のような無表情で辛辣な意見を放つ。私は俳優の生瀬勝久を想像したが、既に彼は新田のかつての教育実習生として出演していたので多分映像化されたら別の俳優が演じたのだろう(映画は未見)。

しかしこの氏原を単なる嫌味なキャラクターに留めないところに東野氏のキャラクター造形の深みを感じる。これについては後に述べよう。

そして今回もお仕事小説としてのホテルマンのお客様たちの無理難題を解決しようと試行錯誤するエピソードがふんだんに盛り込まれている。

本書の導入部では肖像恐怖症の客がリクエストした東京タワーを見える部屋を用意したが、部屋ではなく、外のビルに掲げられた巨大なポスターが目に入るので何とかしてほしいとの難題を山岸が機転を利かせて解決するエピソードを皮切りに、恋人にプロポーズしたいからホテルのレンチレストランを貸し切りにしたい、デザートの時に2人の思い出の曲を演奏してほしい、レッドカーペットを敷いてさらに薔薇の花で飾ってほしいと云った泣きたくなるような難題を解決したかと思えば、その恋人からプロポーズを断りたいので何かいいアイデアはないかと相談される。

さらには一目惚れした女性がいるから彼女と二人きりになる場を設けてくれという無理難題を押し付ける男がいる。しかもその女性は既婚者のように振舞いながらも夫の影は見えないミステリアスな美人。

その美人は多くの店が閉まっている大晦日に凝ったケーキの写真を見せて、これと同じ模型のバースデイケーキを作ってほしいと頼む。

いつも不倫相手の密会に使っているのに、カウントダウンパーティに出るために家族連れで宿泊し、そこに不倫相手もまた宿泊しに来るニアミスが起こる。

小ネタと大ネタを交互にうまく配することで東野圭吾氏はグイグイと読者を引っ張っていく。
いやあ、巧い!非常に巧い!

しかしこのコンシェルジュ山岸尚美の「無理」や「できない」を決して云わずにできる方法を考える、代替案を考えるというモットーは私の仕事にも通ずるものがあるし、私が常に口にしていることなので非常に共感を覚えた。

また彼女が云った話で印象深かったのが時計のエピソードだ。時計の技術が発達して安物の時計でも時が狂いにくくなったがそのせいで時間に遅れる人が増えた、それは正確な時刻が判るがゆえにぎりぎりまで自分のために時間を使おうとするからだという話だ。
これはまさにその通りで私の会社の人間では実に多い。会議の開始時間に来ないことはざらだ。実に身につまされる話だ。

そして今回東野作品の人気の高さの秘密の一端を改めて悟った。
それは物語の設定が非常にシンプルだということだ。今回の物語は始まって60ページまでに云い尽されている。

即ち一人暮らしの女性が殺され、その犯人がホテルコルテシア東京で開催される年末のカウントダウン・パーティ、通称マスカレード・ナイトに現れると匿名の通報が入る。

正直これだけである。
しかしこれだけで読者は一気に物語への興味を惹かれ、結末までの残り約480ページをぐいぐいと読まされてしまうのだ。
シンプルな構成に魅力的なキャラクター、そして読みやすい文体に読者の興味を惹いてページを繰る手を止まらせないプロット。作家として求めるもの全てを東野氏は持っている。

ホテルマン達が相対する宿泊客と新田達刑事が捜査する殺人事件の被害者、そして容疑者には共通する1つの言葉がある。

それは「仮面」だ。

日常から離れて非日常を楽しむ宿泊客にはそれぞれ様々な事情を抱えてホテルに泊まる。
人生の一大イベントの1つ、プロポーズを決意しに来た者や新たな旅立ちを決意する者、さらには不倫のためにホテルを利用している者、それを家族に気取られないようビクビクする者。高級ホテルに泊まっているのに部屋に籠りきりで出ていかない者。

一方新田達の事件も捜査が進むにつれて被害者女性達の奇妙な私生活が判明してくる。

被害者の和泉春菜はボーイッシュな服装を好んでいたが、タンスの中には少女趣味な、いわゆるゴスロリ系の服も残されていた。また高校時代は成績も優秀で彼女と成績を競い合っていた友人は医大に進んでいるのに彼女は東京に出て大学にも進まず、ただ上京し、トリマーの職業に就いた。さらに彼女には恋人とは別の男性と付き合っていたこと、つまり二股をかけていたことも判明する。

それらは彼ら彼女らが公の舞台では見せないもう1つの別の貌、即ち仮面。
いや逆に彼ら彼女らは公の場で仮面を被り、プライベートでその仮面を脱ぎ捨て本性を晒す。

ここにあるのはいわば数々の人生が交錯する社会の縮図だ。物語の最後に明かされる事件の真相を読むにますますその意を強くした。

社会を、人間関係を円滑に平和裏に継続するために少しばかりの嫌悪や嫉妬や怒りは仮面に隠しておかないと世の中は進んでいかないのだ。自分の云いたいことややりたいように振舞ってばかりではぎくしゃくし、不協和音が生じる。

ホテルのフロントはそんなお客様の清濁併せ吞み、笑顔で迎える。
それらの仮面を知りつつ、大事にするホテル側とそれらの仮面を疑ってはがそうとする警察側のぶつかり合いは今回も描かれる。

容疑者を特定するためにハウスキーピングに同行した刑事がこっそり目を盗んで宿泊客のバッグを調べたことが客側に発覚し、危うく訴えられそうになり、さらに捜査に制限が描けられたり、マスカレード・ナイトの参加者がいきなり仮装してチェックインするために素顔が見えないため、外させてほしいと頼むが、ホテル側はそれもまたパーティの趣向でお客様が愉しみにされていることだからと一蹴する。

特に今回登場したベテランのホテルマン、氏原祐作はホテル側の主張を具現化したキャラクターだ。

当初は単に新田ら警察たちを困らせるホテル原理主義の従業員、いわば敵役のように思われたが、彼のお客に対する観察力と記憶力、そして状況判断に対して、苦々しく思っていた新田も次第に彼の能力の高さを認めるようになり、警察に向いているとまで賞賛する。
氏原のアドバイスは豊かな経験に基づいたもので、説得力がある。そして彼はホテルマンという自負があり、たとえ殺人事件の捜査とはいえ、一流ホテルとしての権威と格調を、そしてお客を守ることを第一主義にする。そのために新田にはフロントでの接客業務をさせないようにする。

従って今回新田とお客とのやり取りの妙は鳴りを潜める。しかしこの設定さえも東野氏はミステリの要素とするのである。

いやはや何とも複雑な構造を持ったミステリである。
全ての客が疑わしく思われながら、それら全てについてカタルシスをもたらして読者の腑に落ちさせる。かなりレベルの高いことを東野氏はやってのける。これほどの大仕掛けを仕組むのにどれほど長く構想を練ったのだろうか。

ホテルコルテシア東京という舞台で交錯し、それぞれがモザイクタイルのピースとなって『マスカレード・ナイト』という複雑なミステリを形成する。それはまさに美しきコラージュの如き絵を描いているようだ。

そしてそれはまたホテルも然り。

ホテルコルテシア東京のような大きなシティホテルは夜景が映える。しかしその夜景を彩るのは一つ一つの窓の明かり、つまり宿泊したお客が照らす部屋の明かりだ。その明かりがまさにモザイクタイルのように夜景を彩る絵を描く。

しかしその1つ1つの明かりの中に宿泊するお客は決して自分たちが作っている夜景のような華やかさがあるとは限らない。

奮発して高級ホテルで家族と一家団欒を楽しむ明かりもあれば、出張で宿泊し、疲れを癒す一人客もいるだろう。
その中には単にそのホテルを常宿としている常連もいれば、初めて利用し、胸躍らせる客もおり、高級ホテルを餌に女性を連れ込んで一晩だけの情事を愉しむ者もいることだろう。

待ち合わせに使う客も待ち人と逢って愛を交わす者もいれば、待ち人が来ず、高級ホテルで寂しい思いを抱いている者もいるかもしれない。

身分不相応に高級なホテルで委縮してただ読書やテレビを見て過ごす者、乱痴気騒ぎを起こす者、かつてそのホテルで宿泊した忘れ得ぬ思い出に浸る者、個人の記念日に取って置きのご褒美として宿泊する者、さらには犯罪を企む者。

こうやって考えると改めてホテルという場所は特別な雰囲気をまとった場所であると認識させられる。

様々な人が行き交い、交錯し、訪れてはまた去っていくホテル。チェックインの時に見せる貌は仮面でその裏には様々な事情を抱え、部屋でそれを解放するお客たちに、それらの事情に忖度して訳を知りながらもスマイルで対応するホテルマンたち。
まさに仮面舞踏会そのものである。

さてこの愛して止まないマスカレードホテルシリーズだが、そのホテルマンと刑事のコンビという構成上、なかなか続編は難しそうだ。正直よくも3作まで書いたものだと感心した。

野次馬根性丸出しだがこのお仕事小説×警察小説の極上ハイブリッドミステリの次回作での主人公2人の動向がますます気になってしまう。

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マスカレード・ナイト
東野圭吾マスカレード・ナイト についてのレビュー
No.214:
(9pt)

全身刑事としての生き様

コナリー31作目の本書は久々のボッシュシリーズ。前作に引き続きサンフェルナンド市警の予備警察官として無給で働いている。

御年65歳のボッシュが相手にするのは過去。彼が30年前に逮捕した強姦犯が最近のDNA調査により他の強姦犯の精液だったことが判明し、逆にボッシュが損害賠償請求の的になる恐れが生じる。その金額は7桁にも上る見込みで大学に進学中のマデリンを養うボッシュにとって破産宣告とも云える仕打ちが待ち受ける。

いやはや65歳と云えば日本では定年延長も終える年だ。長年働き、社会に尽くしてきた終末の時に逆に自分の仕事で訴えられ、そして余生を生きることもできなくなるような多額の賠償金を背負わされそうになるとは作者コナリーはボッシュを年老いてもなお窮地に陥れる筆を緩めない。

そんなボッシュの許に知らされるのはショッピングモールにある薬局で起きた経営者親子殺害事件。今まで過去の未解決事件ばかりを捜査してきたサンフェルナンド市警にとって久々の殺人事件だ。周囲をロサンジェルス市に囲まれたわずか6.5万km2の自治体サンフェルナンド市。このことからもボッシュが送られてきた市が犯罪都市LAの中でも比較的平穏な場所であることが解るというものだ。

さてまずボッシュにいきなり災厄が降りかかる。
30年前に逮捕した強姦犯プレストン・ボーダーズは当時売れない俳優であったが、そんな俳優の卵にありがちなバイトで生活費を稼ぎながら日々オーディションを受けるような苦労人ではなく、両親からの仕送りで生活しており、さらにクレジットカードの請求先も親の口座という、親のすねかじりのお坊ちゃんだ。

一方彼が殺害したとみられたダニエル・スカイラーは妹ダイナと共にフロリダのシングルマザーに育てられ、地元の美人コンテストでの成功とハイスクールの舞台での称賛から女優を目指してハリウッドに出てきた女性。レストランのウェイトレスをしながら日々際限なくオーディションを受けては落ち、受けては落ちを繰り返し、片手で足りるほどの端役での出演をしただけ。しかし彼女の精力的な活動により幅広い人脈が出来、キャスティング・エージェントの受付係の職を得る。
そんな凡百の苦労人である彼女が無残にレイプされ殺された事件だ。

彼の有罪がひっくり返される結果になったのはボーダーズの証拠品を収めたボックスに入っていた被害者のパジャマのズボンから容疑者のDNAではなく、ルーカス・ジョン・オルマーという他の連続強姦犯のDNAが見つかったためだ。しかも証拠品のボックス開封の模様はビデオに収められており、ボッシュのサイン入りの封印が解かれるのもバッチリ映っているという堅牢さ。

そしてその結果、ボーダーズ違法拘束の申し立ての審理が行われ、和解交渉中だが、それが決裂すれば当時ボーダーズを逮捕し、ムショに送ったボッシュを訴追でき、彼は7桁の賠償金を支払う羽目に陥る。
通常ならば市法務局が糾弾される一個人を保護しようとするが、ボッシュはロサンジェルス市と不当退職の訴訟を起こして莫大な賠償金をせしめたことでそんなことはありそうになかった。そうまたもボッシュは自身の行った正義のために自縄自縛状態になる。

もう1つはショッピングモールの薬局で起きた経営者親子殺害事件は捜査が進むにつれて次第にスケールが大きくなっていく。
そしてその捜査の過程でかつての相棒ジェリー・エドガーと再会する。彼は薬事犯罪の現状を調査するMBCの職員に転職しており、ボッシュとそのパートナー、ルルデスに事件の背後に潜むアメリカ全土に亘る一大薬物犯罪の実情について説明し、サポートする。

そしてボッシュはなんと薬物依存症者に扮して囮捜査員になることになる。それはボッシュが65歳という高齢であることが条件に合致したからだ。

いやはやまだまだ走って戦う姿を見ていただけになかなか意識されなかったが、世間一般ではボッシュは既に高齢者であるのだ。
しかしまだ若いと思っているボッシュは何度も年寄りのように見られることにムッとしだすのが面白い。

しかしいつの間にボッシュシリーズはディック・フランシスの競馬シリーズのような題名をつけるようになったのだろうか。
前作『訣別』に引き続き、本書は『汚名』である。これは今回ボッシュが直面する30年前の事件が冤罪の疑いがあり、ボッシュがその件で訴追される恐れがあることを示しているのだろう。

原題は“Two Kinds Of Truth”と実にかけ離れた邦題である。これは作中に出てくる2種類の真実を意味する。1つは人の人生と使命の変わらぬ基盤となる真実、もう1つは政治屋やペテン師、悪徳弁護士とその依頼人たちが目の前にある目的に合うよう曲げたり型にはめたりしている可塑性のある真実を指す。つまり前者はありのままの真実であり、後者は全てを明らかにせず都合のいい真実だけを並べた恣意性の高い真実、つまり「嘘は云っていない」類の真実だ。

こうやって考えるとやはり本書の題名は原題に即してせめて『それぞれの真実』とか『真実の別の顔』とかにならなかったのだろうか。まあ、後者はシドニー・シェルダンの小説の題名みたいだが。

しかし今まで古今東西の薬物事件を読んできたが、とうとうアメリカはここまで来たかという思いを抱いた。
ウィンズロウは社会に蔓延する麻薬を売りさばく側を描いているのに対し、コナリーは薬物を売りさばく方に利用され、廃人にさせられていく薬物中毒者を色濃く描いている。特にボッシュ自身を囮にして詳細にシステムの一部始終を描いている件は迫真性があり、本書の中盤のクライマックスシーンと云えるだろう。

またその囮捜査の過程でボッシュは自身が囮捜査員になるのを避けていた理由に直面する。
通常の捜査は犯罪は行われた後であり、犯人を捕まえることで己が成した正義を実感できるが、囮捜査は自身が仲間であると演じる必要があるため、犯行が目の前になされても捜査継続のために看過せざるを得ない。それは悪を一刻も早く排除したいボッシュにとっては耐えがたきことなのだ。

さて結局本書でボッシュは結局3つの事件を解決する。

齢65歳にして八面六臂の大活躍を見せるボッシュ。

ボッシュに定年退職はあっても引退はなく、一生刑事であり、そして昼夜を問わず寝食も頓着しない全身刑事であり続けるだろう。

そしてボッシュは今回それらの事件で数々の世の中の不条理に直面する。

信念に基づいて強姦犯を突き止め、有罪にもこぎつけたにも関わらず、己の私欲のために証拠を捏造して誤認逮捕の汚名を着せられる世の中。

人生は皮肉に満ちている。
これまで刑事として数々の割り切れなさ、遣り切れなさを経験しながらもボッシュは改めて人間というものの恐ろしさ、そしてそれぞれの欲望が招いた業の深さを思い知る。

本来生きるべき者が死に、また報われていい働きをした者が謗られる世の中の不条理。企業が嘘をつき、大統領までもが嘘をつく今のアメリカ。そんな不条理の中で未だに己の正義に愚直に生きる気高きヒーローのためにボッシュはまだ戦う決意を固める。

そして実感されるのは時は確実に流れていることだ。

30年前の事件に自身の立場を追われそうになり、さらに15年間行方不明の母親が見つからずにいる一方でかつてボッシュが所属していたハリウッド分署に殺人担当部署はなくなり、ウェスト方面隊の刑事が所轄の殺人事件を担当する。
そしてかつての相棒ジェリー・エドガーも転職し、カリフォルニア州医事当局に勤め、薬剤の消費者問題の担当になっている。

そんな長き時を刑事として生きてきたボッシュが自分の正しい道を歩んできたことを上司のトレヴィーノに称賛されて顔を赤らめるボッシュの姿は、今まで一匹狼として誰にも称賛されずに生きてきた茨の道の長さを感じさせ、可笑しいやら悲しいやら複雑な思いを抱かせる。

今回製本上の都合か訳者による解説と未邦訳作品を含めた作品リストが付されていなかったが、ボッシュは本書の後に発表された2作でも登場し、なんと両作において『レイトショー』に登場した女性刑事レネイ・バラードと共演するそうだ。

本書はコナリー31作目の作品である。これほどの冊数を出しながらもこのハイクオリティ。
そしてさらにそのクオリティを次も凌駕しようと魅力的なアイデアを放り込んでくるコナリーの創作意欲の高さと構成力の確かさにはファン読者になったことへの喜びを常に感じさせてくれる。

あとは訳出が途切れぬよう一読者として願うばかりだ。彼の作品を読み続けるためなら身銭を払って買うだけの価値があり、見返りはある。

ボッシュが一生刑事なら私も一生コナリーファンであり続け、彼の作品を買い続けよう。


▼以下、ネタバレ感想
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汚名(上) (講談社文庫)
マイクル・コナリー汚名 についてのレビュー
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(10pt)
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これぞウィンズロウ劇場!

ウィンズロウの本邦初となる中編集。デビュー以来ウィンズロウはナイーヴな私立探偵ニール・ケアリーシリーズを皮切りに多種多彩な作品を著してきたが、本書はそんな彼の多彩ぶりが存分に発揮された作品集となった。

まず開巻の幕を開けるのは表題作だ。

警察官一家の凄まじいまでの復讐譚。警察官の弟を、我が子を殺されたとき、秩序を守る警察官も憎しみの炎に巻かれ、皆殺しの決断を下す。

本作の原題は“Broken”。先に警察官を殺すというルールを「壊した」のは二流の麻薬売人の元締めだった。そしてルールが壊されたとき、警察官の中で法の番人としての意識が「壊れ」、法によって裁かれることを良しとせず、自らの手によって処刑を行う。

それを知りつつも警察官たちは敢えて仲間の暴走を止めなかった。警察官は身内が殺されることに異常に執念を燃やす。彼らは仲間の復讐を是としたのだ。いや彼らも法の番人である前に人間であることを選んだのだ。

しかし事件の後の荒廃感は勝者のない戦いの虚しさを助長する。この世界は真面目にまともに生きていてはもはや壊れてしまうのだ。

さて表題作は警察官が主人公だったが、次の「犯罪心得一の一」は一転して高級宝石専門の強盗が主人公だ。

ハイウェー101号線を縦横無尽に走り、疾風のごとく現れては高価な宝石を盗んで金に換える宝石強盗デーヴィス。彼は盗みの前に念入りにターゲットをリサーチする。数か月前からターゲットのメールのアカウントをハッキングし、家族構成に至るまで情報を手に入れ、相手のルーティンを把握し、そしてベストのタイミングを狙って盗みに及ぶ。その手口は実に鮮やかで1分もあれば事を成す。

そして彼は定宿を持たない。リゾート地特有の富裕層が所有する夏季にしか使わない、貸し部屋に出されている高級コンドミニアムの部屋を借りて部屋から部屋へと渡り歩く。決して足を掴まれようとしないよう常に移動することを心がけている。

そして彼の犯行は年に1,2回しか行われないから同一犯による強盗事件であることに気付かれることはない。

…はずだったが、そこにルーベスニック警部補という切れ者の刑事が一連の事件の繋がりを見出すのだ。

この2人、実に対照的である。

宝石強盗のデーヴィスは女性の目を魅くいわゆるイケメンで、己に課した犯罪心得1の1という教義に従い、常に念入りな調査に基づいた隙のない犯行計画を立て、そして決して足がつかないように犯行現場を分散させるなど、用意周到で用心深い性格だ。

一方の事件を捜査する刑事ルーベスニックは典型的な腹の出た中年オヤジで美しい妻は弁護士との浮気を悪びれもせず、別居することを止めもしない。唯一過去10年間に起きた高級宝石強盗が単独犯による犯行だと見抜くが周囲はそれを聞き入れもしない。刑事として優れてはいるもののなかなかその能力を認められない不遇の人物だ。

しかしそんな彼が妻と別居して偶然デーヴィスと同じ海岸沿いの高級コンドミニアムに住むことで人生観を変える。

今まで仕事一辺倒だった彼が周囲に感化され、ボディボードやヨガといった趣味を持ち、余暇を楽しむことになる。それはまさに彼にとって180度人生観を変えることになる。

これはまさにレナード張りのツイストの妙だ。

サーファー、スムージー、カフェでの朝食、美しい女たちと男たち。そんなものが集うカリフォルニアの海には刑事さえも人生を楽しむことを覚える良さがあるのだろう。

人生を楽しむことを選んだ刑事ルーベスニックの車のナンバープレートが最後に明かされるに至るまで最後の最後まで気の利いたウィットに富んだクライムノヴェルの快作である。

レナードを彷彿させる作品だと宣っていたら、次の「サンディエゴ動物園」にはエルモア・レナードへの献辞が捧げられていた。

いやはやこんな面白い幕開けの警察小説がかつてあっただろうか?
なんとパトロール警官が受信した通報は動物園から銃を持って武装したチンパンジーが脱走したという知らせだ。

動物が動物園や牧場から逃げ出すというのは我々はニュースで目の当たりにするが、なんとウィンズロウはそこに武装しているというツイストを仕掛ける。そしてこの何とも珍妙な事件が主人公のパトロール警官クリス・シェイの人生を変えることになる。

この実に魅力的な導入である事件は20ページ弱で解決するが、その後クリスが銃の出どころを探るところが実は本作の読みどころなのだ。

とはいえ最初の武装したチンパンジー脱走事件の顛末も面白く、チャンピオンという名のチンパンジーが脱走したのは求愛したメスのチンパンジーに相手にされなかったからかもしれないという動機やマスコミ、SWATまで駆け付ける大騒動になり、そんな衆人環視の中でクリスが麻酔銃を手にしてチンパンジーを追い詰めた時に、明らかにテレビで学んだであろう降伏のポーズを取って、銃を取り落としてそれがクリスの顔面に直撃し、落下するという映像がYouTubeで流れ、バズるという展開は現代の世相を強く反映していて面白い。

従ってクリスはその後銃の出どころを独自で捜査するのだが、行く先々でモンキーガイと揶揄される、不名誉な有名人となってしまう。特に仲間の警察官には一介のパトロール警官である彼がテリトリーを侵して事件を解決したこと、あまつさえ警官に恥をかかせるような映像を世界中に流したことで彼にとって冷たい態度を取る。誰も彼に協力的になろうとしないのだ。

そんな彼の支えとなるのが動物園の霊長類部門の美しき担当者キャロリン・ヴォイトだ。お互いが惹かれあっているのになかなか本心を打ち明けられず、やきもきする付き合いが続く。

本書では2作目に登場した優秀ながらもうだつの上がらない刑事ルーベスニックが皆の憧れの伝説の刑事として登場することだ。本作の主人公クリスも人生を好転させたがルーベスニックもまた変えた人生をうまく送っているようだ。

またクリスの捜査の過程では奇妙な犯罪者が数々登場する。そんなスパイスも含めてこんな珍妙で軽快で楽しい警察小説はウィンズロウ以外誰が書けると云えようか。

しかし何といってもウィンズロウ作品読者にとって最高のご褒美となるのは次の「サンセット」だ。

ウィンズロウ作品シリーズキャラクター夢の共演である。
デビュー作でウィンズロウの名を不動のものにした『ストリート・キッズ』に登場し、初期作品のシリーズキャラを務めたナイーヴな探偵ニール・ケアリーと『夜明けのパトロール』のサーファー探偵ブーン・ダニエルズが登場する。そしてそれに本書で2作に登場するサンディエゴ警察伝説の刑事ルーベスニックが絡む。

いやはや何とも心憎い演出ではないか。まるで懐かしい友と再会したかのような嬉しさに包まれてしまった。

特にウィンズロウ読者ならば誰もが続編と再会を待ち望んだニール・ケアリーに逢える喜びはこの上ないものだろう。実際私がそうだっただけに。

ニールは既に65歳になり、カリフォルニア大学サンディエゴ校の文学部の教授になって教鞭を執っている。そして妻はなんとカレン。一度別れた2人はニールが探偵業を辞めたと同時に復縁して夫婦になり、今に至っている。

そんな彼らが一堂に会して事に当たるのは伝説のサーファー、テリー・マダックスの行方だ。麻薬所持の容疑で拘留された彼は保釈金30万ドルを払った後、失踪してしまう。

テリーは今では誰もが一目置くサーファー、ブーン・ダニエルズ憧れの人物だ。そして身持ちを崩した彼を懲りずに世話してきたのもブーンである。

本作の題名が「サンセット」なのは象徴的だ。伝説のサーファーとして皆に慕われ、そしてヒーローだったテリー・マダックス。しかし麻薬に溺れ、身持ちを崩し、かつてのようには波に乗れなくなった堕ちた英雄。つまり人生の黄昏を迎えた彼こそがサンセットだ。

それをドーン・パトロール、つまり夜明けのサーファー、ブーン・ダニエルズが捕まえに行く。ターゲットはかつて彼が憧れ、面倒を見てきたヒーローだった男だ。人生を下る者と未だ上る者の追跡劇。
何とも物悲しい。

そしてサンセットが訪れるのはテリーだけではない。

ニールももう探偵の真似事をすることはないと仄めかされている。

そして依頼人のデューク・カスマジアンもまたサンセットが訪れる。

本作はレイモンド・チャンドラーへ献辞が捧げられている。テリー・マダックスは『長いお別れ』のテリー・レノックスがモデルだろう。そしてあの物語がそうであったように本作の結末も甘くほろ苦い。最後にデュークが飲むワインのように。

さてここまでウィンズロウ作品のシリーズキャラが出てくるならば当然あいつらも登場する。次の「パラダイス」は副題にも書かれているように『野蛮なやつら』、『キング・オブ・クール』に登場した麻薬売人ベンとチョンとOが登場する作品だ。

あの4人組のうち、チョン、ベン、Oの3人がハワイでひと悶着起こすのが本作。物語の舞台はハワイのカウアイ島。
ハワイといえば一大リゾート地で日本人にも人気の高い観光都市。私も2回旅行に行ったが大好きな都市だ。しかしそんな温暖湿潤な気候はサトウキビ、パイナップル、米、タロイモの産地として適していたが、大麻もまたそうで、実入りのいい大麻の栽培が増えているとのこと。この辺は複雑な心境で読んでしまったが実際カカオやバニラといったあまり高価に取引されない穀物よりも大麻やマリファナなどを栽培する後進国も多いらしい。

本書は陽気な3人が新たなビジネスを展開するためにハワイを訪れるのだが、ハワイアンのいわゆる島国根性気質が邪魔をし、外部の者との取引を許さない連中との抗争が始まり、彼らと彼と取引相手ティム・カーセン一家が否応なくその渦中に引き込まれてしまう。

で、このティム・カーセン。実は『ボビーZの気怠く優雅な人生』に登場したボビーZの替え玉ティム・カーニーなのだ。彼はあの事件で一緒になったエリザベスとキットと共にハワイに逃れ、いろんな職業を経て大麻栽培で生計を立てていることが判明する。

そしてキットは17歳にして既にスポンサーがつくほどの凄腕サーファーとなっており、よそ者ながらそのサーフィンの腕で周囲の仲間入りを果たし、一目置かれる存在となっていた。

さらにはキットが大事に作り上げていたツリーハウスが地元の麻薬組織<ザ・カンパニー>の一味であり、彼の友人でもあったゲイブに放火された現場に現れる保険会社の男は『カリフォルニアの炎』の主人公ジャック・ウェイドである。彼はハワイ火災生命の社員となっていた。

チョン、ベン、パク、Oの彼らがまだ生きていた頃のおそらくこれが最後のエピソードか。彼らが変わらぬ陽気さと優しさのままでまた会えて本当に良かったと思える作品だ。

そして最後の「ラスト・ライド」はトランプ政権が生み出した膿に対するウィンズロウ怒りの物語だ。

本中編集最後の物語はメキシコとアメリカの国境で起こった、ある警備隊のたった1人の戦いの物語だ。

しかし彼キャルが戦うのは捜査陣の連中ではない。彼が戦うのはアメリカが生んだ忌むべきシステムだ。
トランプ大統領が設定したメキシコとアメリカとの国境に建てられたフェンスを隔てて裂かれた親子の絆を取り戻すために孤軍奮闘する。

彼がシステムとの戦いに臨むようになったのはアメリカの杜撰な移民管理システムとそれによって娘の捜索を妨害された親と、強烈な印象を残す少女の熱い眼差しだ。

そしてそんな杜撰な管理で犠牲になった娘の親を見つけたキャルが直面するのはかつての親友で今は密入国者の手引きをして悪銭を稼ぐ“渡り屋”ハイメの魔手だ。

密入国者を取り締まる国境警備隊のキャル、その捜査の目をかいくぐって密入国者を渡米させる渡り屋のハイメ。かつての親友は今では利害関係にある敵同士。そして目の上のタンコブであるキャルをハイメは殺したがっていた。そこに迷い込んできたのがキャルが捜していた娘の母親。

これはいわばもう1つのアート・ケラーとアダン・バレーラの物語とも云えるだろう。
そしてウィンズロウはこの作品に彼ら2人のもう1つのエンディングを授けたのではないかと思える。

一方でキャルに少女の素性を調べる手助けをしたトワイラは容姿はそれほどいい女ではないが、キャルが自分に気があることに気付いている。しかし彼は軍隊にいた頃に爆弾に吹き飛ばされ、人工股関節を入れられ、除隊して国境警備隊に入隊した女性で自分が負った醜い傷跡と一生背負っていかねばならない不細工な歩き方にコンプレックスを抱き、キャルへの想いに応えるのに躊躇している。

彼女は娘の情報を手に入れる手助けをしたのは今のシステムが間違っていると思っていたからだ。
しかし彼女は正しいことをするのに一歩踏み出せなかった。一歩踏み出したのはキャルだった。

これが政府のやり方だ!とばかりの作者の憤りが込められた展開が繰り広げられる。

題名の「ラスト・ライド」は主人公キャルの実家が経営する貧乏牧場にいる老馬ライリーへの最後の騎乗と疾走を意味する。
メキシコの国境を目前にしてあらゆる交通手段を封じられたキャルが選んだのはいつか安楽死させようと思いながらもできなかった老馬に乗って国境を越えるというものだった。もはやただの穀潰しでしかなかった老いぼれ馬が最後の灯を燃やす疾走は彼がかつて名馬であったことを存分に発揮させる目の覚めるような走りっぷりだった。そしてそれはまさに命を燃やす走りだった。


ウィンズロウ初の中編集はいわばウィンズロウの過去と現在を映し出す鏡のような作品群である。

始まりと終わりは作者が怒りの矛先を向ける麻薬組織への報復の物語とトランプ政権が生み出した社会の歪みに対する怒りの物語だ。

そしてそれらの物語に挟まれるのは実にヴァラエティに富んだ作品たちだ。

エルモア・レナード張りの軽妙なクライムノヴェルもあり、またレナードのように先の読めない展開の軽妙な警察小説もある。人捜しの探偵小説やハワイを舞台にした麻薬組織との闘いとテーマも様々。

その中には過去のウィンズロウ作品の登場人物が一堂に会するファンのための作品もある。ウィンズロウ作品に登場した人物たちのその後が語られ、そして活躍が再び垣間見れる、ウィンズロウ読者にとってはご褒美のような作品。

そのうちの1つ、「パラダイス」では特に驚かされた。それは『野蛮なやつら』のあの軽妙な文体を再現しているからだ。
本書のように複数の作品が一堂に並べられると同一作家の作品とは思えない軽妙な文体で改めてウィンズロウの芸達者ぶりが窺える。

そして様々な人生観が語られる。

この世界はもうすでに壊れているという思いを抱き、そしてそんな世界に生れてきた我々はやがて壊れてその世界を出ていくのだという絶望に浸った者もいれば、眩しい陽光と青い海の傍の生活を得て生真面目に生きてきた人生を一転させ、人生一度の犯罪に手を染め、再生を目指す者もいる。
また映画スター、スティーヴ・マックイーンに憧れ、ハイウェー101号線沿いに生涯住む家を買う人生プランのまま、己の教義に従うクールな宝石泥棒もいる。

身内を殺された警察官が隠密裏に復讐を重ねる物語もあれば、同様に身内の不名誉を隠すために下々の警官の捜査を妨害する一面も垣間見れる。

聡明な動物園の霊長類専門家は美人でありながらも恋愛に奥手で恋愛婚活リアリティ番組を好んで見て自分の生活の空虚さを忘れようとする。

そして人生といえば、かつてウィンズロウの作品で登場してきたシリーズキャラクターのその後の人生が垣間見れる作品もある。

今私は並行して大沢在昌氏の小説講座をまとめた本、その名も『売れる作家の全技術』を読んでいるのだが、そこで大沢氏が何度も強調しているのがとにかく個性の強いキャラクターを作ることだということだ。

ウィンズロウ作品を読むと確かにその通りだと納得させられる。

ここに収められた作品のストーリーは読み終わった後纏めてみるとシンプルなものばかりだ。
身内を殺された家族の復讐譚、長年尻尾を掴ませなかった宝石強盗を追う話、一介のパトロール巡査が憧れの刑事に成り上がる話、かつて憧れの存在だった逃げたサーファーを追う話、ハワイで麻薬抗争に巻き込まれる家族の話、そして国境で引き裂かれた子供を親に引き渡そうとする話。

しかしそれらが実に読ませ、そして読書の愉悦に浸らせてくれるのはウィンズロウが生み出したキャラクターの個性が強いからに他ならない。

特にそれまでウィンズロウ作品に出てきたシリーズキャラクターが複数登場する「サンセット」、「パラダイス」の面白さはどうだ。私がワクワクして読まされたのは彼らの個性の強さゆえだ。

もちろんよくもまあこんなことを思い付くものだといった作品、予想外の展開を見せる作品もある。
しかしそれもそこに登場するキャラクターならそう取るであろう行動や選択肢が読み手の意識にするっと入り込んで違和感無しで読まされるからだ。つまりキャラクターがそうさせたのだと云っても過言ではないだろう。

そしてそんな後日譚を読むことで時は確実に流れ、彼ら彼女らが未だ作者と読者が過ごしてきた時間の中で生きてきたことが感じられた。

本書のような中編集を読むことで改めてドン・ウィンズロウという作家の引き出しの多さを思い知らされた。

しかし最後に行きつくのはウィンズロウの社会へ怒りだ。
特に本書では大なり小なり麻薬に関わる物語が6編中5編もある。つまり麻薬及び麻薬組織への怒りが今でも燻っていることが行間から読み取れる。

そしてもう1つはトランプ政権に対する怒りだ。それまで仄めかすような内容でトランプ政権を批判してきたがウィンズロウだったが本書収録の最後の中編「ラスト・ライド」では自分の置かれた国境警備隊の任務を通じて、アメリカに対する配慮はあっても、周辺の国々には全く頓着しないトランプ政権への怒りを明らさまにぶつけている。
その主人公は大統領選挙にトランプに投票し、そして彼が生み出した政策によって苦悩させられている。そして彼の同僚はアメリカのために従軍してイランに行ったのに気づいてみれば違和感だけが残り、自分の内面が壊れてしまったと吐露する。

それはつまりこれらこそが彼の書くべきテーマ、ライフワークなのだと云わんばかりだ。

そうやって考えると本書で登場したそれまでのシリーズキャラクターの再演は彼ら彼女らの“それ以後”を描くことで読者たちに引導を渡したかのように思える。

続編を願ったキャラクターたちはニール・ケアリーをはじめ、すでに歳を取り過ぎていることが判明する。つまりこれは本書における彼らの活躍が最後であり、今後彼らはウィンズロウ作品に出てこないことの決意表明ではないだろうかー伝説のサーファー、ブーン・ダニエルズのみまだ若いのでその後がこれからも書かれるかもしれないが―。

また「ラスト・ライド」に登場するキャルとハイメはかつて少年時代に親友だった者が前者が国境警備隊に入隊し、後者はメキシコから密入国者を手引きする“渡り屋”となって、取り締まる側と取り締まられる側に運命が分けられている。
これは先般シリーズに幕を下ろした『犬の力』シリーズのアート・ケラーとアダン・バレーラ2人の関係の類似型だ。そして本作こそはウィンズロウが書きたかったアートとアダン2人の結末ではなかっただろうか。

そう考えるとやはり『ザ・ボーダー』で決着をつけた2人のシリーズを本作で心の底からけりを着けたのではないかと思われる。

もっと穿った見方をすれば表題作は警察官が隠密裏に警官であった弟を殺した麻薬売人の仲間を次から次へと殺害する悪徳警官物だ。それはつまりもう1つの『ダ・フォース』とも云える。
そしてこれもまた『ダ・フォース』もう1つの結末なのかもしれない。

これまでの作品へ決着をつけた感のある中編集。彼が献辞に挙げたのは我々読者に対する「ありがとう」という言葉。

今まで読んでくれた読者への感謝のプレゼントでもある本書は作者が全てを清算し、そして新たなステップに向かうためのマイルストーンのように思えた。

ナイーヴで感傷的な探偵物語でデビューし、軽快なサーフィンを楽しむが如く、陽気でありながら残酷で現実的でもあった作品群が麻薬との戦いに憤りを感じ、ライフワークとも云えるメキシコの麻薬カルテルの長きに亘る戦いを怒りのままに描いてきたウィンズロウが本書の後、どんなテーマを我々読者にぶつけるのか。

興味は尽きないが、今はただこの作者による極上のプレゼントの余韻に酔いしれることにしよう。

▼以下、ネタバレ感想
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壊れた世界の者たちよ (ハーパーBOOKS)
No.212: 2人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(9pt)

ホロヴィッツ受難の始まり

2018年の海外ミステリランキングを総なめにした『カササギ殺人事件』はフロックではなかったことを証明したのが本書である。本書もまた2019年の海外ミステリランキングで4冠を達成した(因みに『カササギ殺人事件』は7冠)。

本書の最たる特徴は作者アンソニー・ホロヴィッツ本人が登場することだ。
しかもカメオ出演などではない。作者と同姓同名の探偵などでもない。
ホロヴィッツが作者自身として登場するのだ。従って読んでいるうちに奇妙な感覚に囚われていく。

果たしてこれはドキュメントなのかフィクションなのか、と。

まず物語の発端でホロヴィッツはこの事件に関わったのがコナン・ドイル財団から依頼されたホームズの新作長編『絹の家』を書き終えた頃となっている。元々ホームズの熱烈なファンであることもさながら、それは少年冒険小説作家から脱却しようと考えていた時のオファーだったことでよい起爆剤になると思ったのも依頼を受けた理由の1つだったとされている。それは年齢的に子供向けの小説を書くのが困難になってきた事もあり、少年スパイ、アレックス・ライダーシリーズもそろそろ幕引きの頃合いだと考えていたとある。

そしてそのタイミングでスティーヴン・スピルバーグがプロデューサーとなり、ピーター・ジャクソンが監督で『タンタンの冒険2』の企画が進行しており、ホロヴィッツがその脚本家に抜擢されて打合せしたりする。

しかもその打合せの場にホーソーンが乱入して、ホロヴィッツを被害者の葬儀に駆り出す。

被害者の1人、俳優のダミアン・クーパーが通っていた王立演劇学校でホロヴィッツは『刑事フォイル』の主人公フォイル役を務めたマイケル・キッチンの役作りのエピソードもあれば、本書に登場する俳優の1人は『パイレーツ・オブ・カリビアン』でオーランド・ブルームが射止めたウィル・ターナー役を惜しくも逃したと話す。

このように作家自身が登場し、更に自身が手掛けたドラマのアドバイザーの元刑事と共に事件を追う本書はそんな現実とも創作とも判断の着かない世界の狭間を行ったり来たりするような感じで物語は進んでいく。これが読者に実話なのかもと錯覚を引き起こさせるのだ。

特に作者が死体を目の当たりにするシーンなどは実にリアルだ。
例えば殺されたばかりの死体が死後硬直が進むにつれて声帯も硬直し出して呻き声のような音を発するといった描写は実に生々しいし、実際に見てきたかのような迫真性がある。

従って本書の探偵役を務める元ロンドン警視庁の刑事で今は顧問をしているダニエル・ホーソーンも実在しているのか、もしくは作者による創作なのか、終始曖昧なままで進む。

何しろホーソーンと知り合ったのはホロヴィッツが脚本を手掛けたドラマ『インジャスティス』のアドバイザーになった時だ。
このドラマは実在するため、ホーソーンも果たして実在するのか?

そしてこのホーソーンは一言で云うならば、マイペースなイヤなヤツだ。正直云って自ら進んで関わり合いたいと思わない人物だ。ホーソーンと共に行動する主人公の作家ホロヴィッツの心の動きが面白い。

例えば彼の元同僚でクーパー夫人殺しの事件の指揮を執るメドウズ警部はホーソーンがロンドン警視庁の中でも一匹狼であり、一緒に仕事できる刑事はいなかったと述べる。そして彼は独自の勘と捜査方法で勝手に進め、結局最終的に彼のやり方が正しかったことを思い知らされるのだと。

そしてまだこの犯罪実録を書こうか迷っているところにホーソーンは1冊目のタイトルは何にするかとシリーズ化まで考えていることを話し、今後もこんな仕事をさせられるのかとゾッとする―ちなみに題名の付け方についてホロヴィッツが007シリーズのタイトルの付け方が一級品であるとイアン・フレミングを称賛しているのが興味深い―。

更にホロヴィッツは途中で他の作家と組んでりゃ良かったとまで貶される。ホーソーンが複数の作家に自分の自伝を書く企画を持ち込んだが悉く断られたことを明かすのだ。

しかしそこまでされてもホロヴィッツは彼が有能で頭の切れる人物であると認めている。

頭の回転の速さ、正直者と思われた掃除婦がこっそり夫人のお金を盗んでいたことを見抜き、消えた猫についての推察も見事だ。
それはまさに長年積み上げてきた刑事の観察眼とそれを結び付ける直感に長けているからだ。

だから幾度となくホーソーンの性格の悪さを、同性愛者に対する率直なまでの嫌悪を目の当たりにしてその場を立ち去ろうと、受けた仕事を断ろうと思うが、結局ホロヴィッツはその場に留まる。
彼は逡巡しながらも彼の追う、自らの葬儀の手配をしたその日に殺された資産家夫人の事件の捜査の過程と明かされる真相への興味に抗えないからだ。それはまさに作家としてのジレンマであり、性(さが)だろう。

そして彼はこう考えることにする。
この決して人好きのしない元刑事の為人を観察して理解しようと。
つまり探偵自身を探偵することを決意するのだ。

私は『カササギ殺人事件』を「ミステリ小説をミステリするミステリ小説」と評したが、やはりその観点は間違っていなかったとこの一文を読んだ時に確信した。

ホロヴィッツはミステリそのものに興味を持っているのだ。つまりミステリ自身が持つ謎を。
だからこそそれ自身について探偵するのだ。
『カササギ殺人事件』がミステリ小説そのものに対してであるのに対し、本書は探偵役そのものに対して。

また一方でホロヴィッツはミステリ作家の端くれとばかりに自身も事件について推理し、ホーソーンに先んじようとする。

犯人が判明してからはとにかく伏線回収の応酬だ。

ホロヴィッツの許を訪れたホーソーンが語る事件解決に至るまでの彼の推理で作者が周到に犯人を示唆する伏線と手掛かりを散りばめていたことが明らかになる。
この回収は『カササギ殺人事件』でも見られたが、毎度のことながら、よくもまあここまでと感心させられるし、読者が伏線・手掛かりと気付かないほどそれらはさりげなく物語に記述されているのが解る。

本格ミステリのケレン味を感じさせ、感嘆させられた。

登場人物の陰影などもしっかり描き込まれており、余韻を残す。

一方で『カササギ殺人事件』同様に読者が一定の教養を持っていないと解らない伏線もある。

私が本書を読み終わった時、正直年間ランキング2年連続1位獲得するほどの作品とは思わなかった。
確かに上に書いたように最後に畳み掛けるように明かされる伏線回収の美しさは海外ミステリ作家には珍しいほど本格ミステリの端正さを感じさせるし、ホーソーンとホロヴィッツが苦手意識を持ちながらも時に親近感を持ちながらやり取りし、事件解決に向けて関係者を渡り歩く様など昔ながらのホームズ&ワトソンコンビのような妙味もある。

しかしこのホームズシリーズの手法に則った本書だが作者自身が語り手を務めることに対して何か仕掛けがあるのではないかと思っていただけに、案外すんなりと物語が閉じられたことになんだか肩透かしを食らったような感覚を覚えてしまったのだ。

先にも書いたが本書は作者本人がワトソン役を務め、探偵を探偵するミステリである。つまりダニエル・ホーソーンとは一体何者なのかを明かすミステリでもある。

しかしそれだけでは何ともこの小説が年間ランキング1位を獲るだけのインパクトには欠ける。なぜ本書が斯くも賞賛を持って迎えられたのか?

それはやはり日本の書評家たちが自分たちの住まう世界の話が好きだからではないか。

『カササギ殺人事件』も英国のミステリ作家の世界を描いた作品である。実在の人物まで出演して物語に関わってくるし、そして何よりもクリスティ作品の良きオマージュとも云えるアティカス・ピュントシリーズ最終作が丸々1冊入っていること、そしてそれ自体が物語のトリックにもなっている事など実に精緻を極めた作品だった。

本書は英国ミステリ作家ホロヴィッツ自身が語り手を務めることで英国ミステリ文壇の内輪話や作家の創作方法や心情について生々しいまでに吐露されている。
こういう作家稼業の内輪ネタが日本の書評家には堪らなく面白いのだろう。それが本書が称賛を以て迎えられた大きな理由ではないだろうか。

しかし本書の一番の魅力はやはりこの一言に尽きるだろう。

この話、どこまで本当なの?

ホロヴィッツがこの質問をされた時、恐らくはニヤリと笑ってこう答えるのではないだろうか?

「それはみなさんの想像にお任せします。なんせ本書の『メインテーマは殺人』なのですから」

▼以下、ネタバレ感想
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メインテーマは殺人 (創元推理文庫)
No.211: 2人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(10pt)

ミステリ小説をミステリするミステリ小説

2018年末の各ランキングで1位を攫った本書は一躍ホロヴィッツの名を有名にした。そしてこの次に刊行された『メインテーマは殺人』もまた同様に2019年末の各ランキングで首位を獲得する快挙を成し遂げた。
今やホロヴィッツは海外本格ミステリの旗手と呼ぶに相応しい作家と云えよう。

そんな鳴り物入りの本書を期待せずに読むなというのが無理だろう。そしてその期待に本書は見事に応えてくれた。

開巻して数行読むなり、これは傑作だと直感する作品があるが、本書はまさにそれだった。

まず開巻して作中作『カササギ殺人事件』について編集者が賛辞している前書きが載せられているが、これが今思えば日本のミステリ界における本書の高評価を予見しているように読めるのだ。

曰く、“この本は、わたしの人生を変えた”

まさにこの一文は作家ホロヴィッツ自身に当て嵌るだろう。

さらにその後に創元推理文庫の装丁を模したアラン・コンウェイという架空のミステリ作家の『カササギ殺人事件』の扉が挟まれ、実に心憎い演出がなされており、それを開けばそこには海外小説特有の、作品を称賛するあらゆるメディアや作家たちの賛辞が載せられている。しかもそれらは全て実在する新聞紙や作家―イアン・ランキン!―によるものなのだ。

そんな読書通の胸を躍らせる遊び心に満ちた本書は云うなれば“ミステリ小説をミステリするミステリ小説だ”。
この謎めいた評価も本書を読めば実に腑に落ちることだろう。とにかくとことんミステリに淫しているのだ。これについては後ほど詳しく語ろう。

本書は実に面白い構成になっている。

まず前半部分はアラン・コンウェイなるミステリ作家が書いた名探偵アティカス・ピュントシリーズの最新作『カササギ殺人事件』というミステリ小説がまるまる入っている。

そして後半はその原稿を読んだ出版社≪クローヴァーリーフ・ブックス≫の編集者スーザン・ライランドの『カササギ殺人事件』とその作者アラン・コンウェイを巡る物語が繰り広げられる。

これがそれぞれ上巻と下巻を成しており、この配分が絶妙に読者の読書欲をそそらせる、実に心憎い演出となっているのだ。
さらにそれに加え、読書通を、ミステリ読者を身悶えさせつつも先へ先へと気になる展開が待ち受けている。

まず前半部の作中作『カササギ殺人事件』はイギリスはバースの片田舎サクスビー・オン・エイヴォンで起きた2つの殺人事件を脳腫瘍によって蝕まれ、残り3ヶ月の命となった名探偵アティカス・ピュントが解き明かすミステリで、これが実に読ませる。

1955年のイギリスの、何かが起こればすぐに村中のみんなに知れ渡る閉鎖的な片田舎を舞台にした見事なコージー・ミステリとなっているのだ。
本書に当たる前に否が応でも目に入っていた雑誌やWEBでの書評や感想に散見されたのはクリスティのパスティーシュという言葉だ。私はクリスティを読んだことがないが、この作中作の雰囲気はクリスティのミステリを想起させるらしい。

まずこの手のコージー・ミステリには登場人物たちの魅力がきちんと描かれているかが必要不可欠な要素として挙げられるが、これは見事にクリアしている。

まず事件の起きる片田舎サクスビー・オン・エイヴォンにあるパイ屋敷なる豪壮な住宅に住むのはマグナス・パイ准男爵で彼は傲慢で不遜な、村中の皆から嫌われている人物だ。その妻フランシス・パイもまた上流階級であることを鼻にかけ、村民たちを常に下に見ており、また年上のマグナスには愛想を尽かして投資家のジャック・ダートフォードという愛人に逢いにロンドンに通っている。

そしてその屋敷の家政婦として住み込みで働いているメアリ・ブラキストンはいわば村の事情通とも云うべき人物で、なぜかいてほしくない時にそこにいる存在で、他の人が知らない村民たちの側面を知っている女性だ。

この、どちらかと云えば村民たちにとっても好ましくない2人、メアリ・ブラキストンとマグナス・パイが死ぬことで村に波紋が広がる。

葬儀を預かる町の牧師ロビン・オズボーンはメアリがある日勝手に教会のキッチンにいるのを発見して、見られてはいけないある品を見られたのではないかと危惧しており、更に昔から愛していた森をマグナスが新興住宅地に開発しようとしているのを聞いて激怒する。

町の医師エミリア・レッドウィングはメアリとは懇意にしており、時に患者のプライベートにギリギリ触れるか触れないかの相談をしたり、または困りごとを相談をしている仲で、メアリに自分の診療所から紛失した毒の壜の捜索を依頼していた。

その夫でアマチュア画家のアーサーは誕生日にと頼まれたマグナスの妻の肖像画がズタズタに切裂かれ、焚火にくべられていたのを発見して意気消沈している。

メアリの遺体の第一発見者のネヴィル・ブレントは父親の代からパイ家に仕える庭園管理人だが、人遣いが荒い上に、給金が一向に上がらない雇い主に不満を抱いていた。

ロンドンで空巣稼業を行い、刑期を務めた後に逃げるようにサクスビー・オン・エイヴォンに流れて骨董商を営んでいるホワイトヘッド夫妻はメアリの死の直前に確たる証拠を握られていた。

死ぬ直前に罵倒を浴びせたことでメアリ殺害の嫌疑を村中の皆から掛けられ、恋人のジョイがピュントに助け舟を求めるきっかけとなったメアリの息子ロバート・ブラキストンは重い過去を背負った人物だ。幼少期に弟を亡くし、そのことで父親が家を出て孤独な少年期を過ごし、マグナス・パイの取り計らいで整備工場で働くようになり、ある日事故で担ぎ込まれたレッドウィング医師の診療所で働く事務員のジョイ・サンダーリングと出逢い、付き合うようになる。しかしその母親はジョイのことを気に入らず、結婚を妨害しようとしていた。

更にマグナス・パイの双子の妹でたった12分出生が遅れたことでイギリスの独特な限嗣相続制度でパイ家の正統な相続人になれなかったクラリッサ・パイは教師として周囲に認められながらも名家の出とは思えないほど侘しい住まいで独身生活を続けている。更には死の直前にマグナスから亡くなったメアリの代わりに家政婦として住み込みで働かないかという屈辱的なオファーを受けていた。

そして彼女は後にマグナス兄妹を取り上げたレッドウィング医師の父レナードから死の間際に衝撃の事実を明かされる。

とこんな風にそれぞれのキャラが立っており、しかもそれぞれに被害者に対して何らかの動機を持っているといった古典ミステリの王道を行く設定なのだ。

そしてそれらの事件に挑む探偵役のアティカス・ピュントの造形もまた見事だ。ギリシャ人とドイツ人との間に生まれ、警察官となった後、ユダヤ系であったため、戦争中に収容所に入れられながら、イギリスに渡って探偵業を始め、数々の事件を解決し、イギリス中に名探偵の名を広めるまでになっている。
そしてシリーズ9作目の『カササギ殺人事件』では頭蓋内腫瘍で残り3ヶ月の命とされている。

そして物語はこれら誰もが何らかの不平不満、憤りを故人に抱いていた、もしくは弱みや秘密を握られていた村人たちそれぞれが不審な行動や不可解な状況、意外な人物による意外な行動、秘めていた過去への悔恨などが積み重なり、表向きは平凡で牧歌的だった田舎の村に潜む悪意がピュントによって暴かれていく。
そして上巻ではマシュー・ブラキストンが妻メアリを殺したのだとピュントが呟いて閉じられる。

作中作の『カササギ殺人事件』でも十分に面白いのに下巻から始まる作家アラン・コンウェイを巡る物語は更にページを繰る手を休ませなくさせる。

スーザンの許に飛び込んできたのはなんと作者アラン・コンウェイ死亡のニュースなのだから。

それまで連れ添った妻と息子に別れを告げた後に購入した、“恋人”のジェイムズ・テイラーという役者崩れの若者と一緒に住んでいたアビー荘園と呼んでいる屋敷にある塔から落ちて亡くなったのだ。その死の直前に出版社CEOの許に届けられた手紙には自分が癌で余命幾許もないことが書かれており、先短い自分の人生を儚んで自殺したと思われていた。

担当編集者のスーザン・ライランドはこのアラン・コンウェイの遺作となった『カササギ殺人事件』をなんとしても刊行すべく、原稿探しに乗り出す。

社運を賭けた『カササギ殺人事件』の原稿探しと同時にスーザンは恋人のギリシャ人アンドレアス・パタキスからクレタ島でホテルを買ったので結婚して一緒にホテル経営をしてほしいと頼まれる。
更には社のCEOのチャールズ・クローヴァーからは自分が引退した後は社長になってほしいと頼まれ、彼女は結婚を採るかキャリアアップを採るかにも悩まされることになる。

そして彼女の遺稿を巡る探偵行は『カササギ殺人事件』の世界と同化していく。

恐らく下巻に書かれている作品のモデルとなった作家アラン・コンウェイの取り巻く世界は実際の作家でよくあることなのだろう。

私がいつも不思議に思うのは、なぜ作家というのは1つの人生しかないのに、これほどまでに色んな登場人物の人生を、まるで見てきてかのように、経験したかのように書けるのかということだ。
頭で描く他人の人生はどうしても想像の域を出なく、嘘っぽく感じるが、プロの作家は恰もそういう人がいたとでもいう風に写実的に描くところに感心させられる。

本書はその答えの1つを見つけることになった。

実際作中作の『カササギ殺人事件』は典型的なクリスティの作風を模したコージー・ミステリであるが、上に書いたようにそれぞれの登場人物の背景が詳細に描かれており、1人として無駄な登場人物は存在しない。

それほどまでに実在感を伴った人物が描けるのは作者の周辺にモデルとなる人物がいたからだ。

そう、スーザンの失われた原稿の捜索はいつしかアランの自殺が他殺ではないかという独自の捜査の色合いを濃くしていく。
つまり文書の捜索が人の死の真相の捜査へと変わっていくのだ。

そしてその捜査の道行でスーザンは『カササギ殺人事件』のモデルとなった人物や建物に遭遇し、そしてアラン・コンウェイの死によって作者自身の過去へも調査が及ぶに至り、恰も自身がアティカス・ピュントになったかのような錯覚を覚える。物語の舞台となった村は作者の住む村がモデルであり、作中に登場する教会や店、酒場もまた同じだ。

更には登場人物たちは作者を取り巻く人物たちが投影されているどころか、作者自身の過去、そして名前さえも似通っており、作中であまり読者の共感を得られない人物は私生活でも仲の良くなかった人物であることが判明するなど、作者が日常の鬱憤を作中の人物で晴らしているような節が見られる。

従ってスーザンはそれらモデルになった人物たちを『カササギ殺人事件』で自らが推理した犯人のように疑い、訊問するようになる。それはさながら創作物の舞台が現実世界を侵食していくかのような錯覚を及ぼすのだ。

しかしアンソニー・ホロヴィッツ、またもや同じ台詞で評さざるを得ない。
本当に器用な作家だ。
ドイル財団から依頼され、シャーロック・ホームズの正典の続編を、見事なドイル作品の高い再現率で著し、その後『モリアーティ』という異色のホームズ譚を発表した後、次はイアン・フレミング財団から007シリーズの“新作”を依頼され、現代ではなく、興盛時の1950年代を舞台にして忠実に007を再現した。

そのどちらにも共通するのはマニアであればあるほど琴線に触れるであろう、本家ネタの多種多様な引用で、それらはまさに“解る人なら解る。解る人のみ解る”ような一般的な内容とディープな内容がほどよくブレンドされている。

しかし本書を読むとそれらパスティーシュの習作は本書を書くための大いなる準備に過ぎなかったのではないかとまで思わされるほど、それまでのホロヴィッツ作品を凌駕した出来栄えである。

それまでの作品は本家の表現や雰囲気を忠実に再現し、尚且つ正典の登場人物や事件などのネタをふんだんに盛り込んだファン及び読書通を唸らす作品であった。
それだけでも本来ならば十分なのだが、本書はそれに加え、クリスティの作風の雰囲気と思考までをも上手く再現した作品をまるまる1つ作中に盛り込み、尚且つその作品を俯瞰する、もう1つの創作者、出版社、読者の側でのミステリを加味した多重構造になっているからだ。

つまり読者は作中作である『カササギ殺人事件』という名探偵アティカス・ピュントが登場するミステリと、作者アラン・コンウェイの死の謎を追う編集者スーザン・ライランドの物語という2つのミステリを愉しむことができるのだ。
まさに一粒で二度美味しいミステリなのである。

そしてその2つのミステリの同化は物語が進むにつれてどんどん加速していく。
それはつまりミステリという創作物の中の世界は実は作者を取り巻く環境をヒントにしており、つまり現実世界とは地続きであるのだということを悟らされるかのようだ。

更には『カササギ殺人事件』のみならず、アラン・コンウェイが著した未発表作品の純文学『滑降』やアティカス・ピュント物の別の作品『羅紗の幕が上がるとき』に加え、更に自分のアイデアを盗作したと主張するウェイター、ドナルド・リーの書いた小説『死の踊る舞台』まで盛り込まれている。

それらそれぞれがきちんと文体を書き分けて特徴づけている。
『カササギ殺人事件』はじめアティカス・ピュント物は古き良きコージー・ミステリのテイストで読み手の興味をぐいぐいと惹きつければ、純文学の『滑降』はまどろっこしい、勿体ぶった文章で退屈を誘えば、素人作家の文章はいかにも小説勉強中のアマチュア作家にありがちな凝った文章であるなど、類稀なる器用さを感じる。まさに職人作家だ。

一方後半部では出版業界の裏話もふんだんに盛り込まれている。

例えば編集者のスーザンは『カササギ殺人事件』の犯人を推理するがそれが読者視点と編集者目線の二方向で語られるのが面白い。

原稿の中に散りばめられた齟齬を挙げ、論理的に推理して特定する犯人もあれば、物語を盛り上げるならこの人物が犯人に相応しいだろう、私ならこいつを犯人に選ぶなどと宣う。

また人気作家ともなれば名うての作家たちからの、例えば本書ではアラン・コンウェイはP・D・ジェイムズから新作出版を祝す手紙が送られ、それを額に入れていたり、J・K・ローリングやはたまたチャールズ皇太子と一緒に撮った写真が飾られたり、一番驚いたのはアティカス・ピュント物のモデルとされているアガサ・クリスティの孫マシュー・プリチャードまで登場させ、しかも祖母の作品から色んなモチーフを散りばめているのも知っている、新作が出るたびに読むのが楽しみなんだと作中で賛美している始末だ。

このようにホロヴィッツは実在の人物を物語に絡めて恰もアラン・コンウェイが実在するかのような演出をどんどん放り込む。

その他ミステリに纏わる現代社会のエピソードもまた面白い。
例えば英国ミステリでは田舎の村が殺人事件の舞台になることが多いが、それは小さな村の住民はそれぞれの村人、特に新参者に対して過干渉であるかららしい。
始終監視されているような錯覚を覚えるほど、色々注文を付けてくるとのこと。つまり些細なことが揉め事になりやすいからこそ、殺人事件が起きてもおかしくないというわけだ。

そして昨今の刑事ドラマの多さについても何度か登場人物たちの口から語られる。特に私が面白いと思ったのはあまりに供給過多になって米国の平均的な子供は小学校を出るまでに約8000件の殺人事件を観ることになるとのこと。

このようにいわゆる出版業界並びに小説そのものの魅力がふんだんに盛り込まれた本書はやがて作家だけのみが知るミステリへと展開していく。

それはアラン・コンウェイというミステリ作家そのものの謎だ。

彼はなぜ好評を以て迎えられたアティカス・ピュントシリーズを9作で終えることに拘ったのか?

それは彼の作家性が孕む心の闇にあった。

人気シリーズを持つミステリ作家の中には寧ろそのシリーズキャラクターに嫌悪を、憎悪を抱く作家もいるという。
コナン・ドイルがシャーロック・ホームズシリーズを終わらせたくてホームズを死なせようとしたのは有名な話だし、ジェイムズ・ボンドシリーズで有名なイアン・フレミングもまたそうらしい。
またルース・レンデルもウェクスフォード警部シリーズは書きたくないが商業的に成功しているので書いているに過ぎないと公言している。
これら作家の抱く感情は人気シリーズの役を務めることでイメージが固定されることを嫌った俳優―ジェイムズ・ボンドを演じたショーン・コネリーが特に有名だ―が抱く心情と同じなのだろう。

また作中作の『カササギ殺人事件』も真相に至るまでに散りばめられた村の人々の隠された秘密や不審な行動、不可解な事実を全てここに記すにはかなりの紙幅を費やすので止めるが、とにかくそれら全てにきちんと説明が着き、全てが収まるべく所に収まる、まさに古き良き黄金時代のミステリの風格を備えた作品となっている。
久々に良質な本格ミステリを読んだ気がした。

そして私が本書を素晴らしいと思うのは通常本書のように小説が現実を侵食していく、つまり虚構と現実の境が曖昧になっていく作品はホラーや幻想小説のような展開を見せるが、本書はミステリに徹しているところだ。
きちんとどちらも結末が描かれ、そして腑に落ちる。
これぞミステリの醍醐味だろう。

とにかく感想がいくらでも書ける作品だ。読んだ人と色んな話をして感想を分かち合いたくなる作品だ。

作中作である『カササギ殺人事件』はきちんと結末が着けられ、その内容は黄金期の本格ミステリ、即ちクリスティが生きていた時代のミステリとしても内容・質ともに遜色ない。
しかしこの作品をいつものようにアティカス・ピュントをポワロにしてポワロシリーズの続編として書いたなら、いつものホロヴィッツの巧みな仕事として終わっただろう。

しかし本書はクリスティの意匠を借りつつ、架空のアティカス・ピュントシリーズを創作し、そこで水準以上の本格ミステリを紡ぎながら、更にそのミステリ小説をミステリの題材として別のミステリを著し、有機的に密接に繋いだことでそれまでのホロヴィッツ作品よりも一段高いレベルの作品を生み出すことに成功したのだ。
つまりホロヴィッツは確実に本書で一皮剥けた、所謂“化けた”のだ。

いくつか疑問は残るものの、そんな疑問が吹き飛ぶほどのミステリを読む醍醐味を本書はもたらせてくれた。

21世紀も20年が経とうとしている中、こんなミステリマインドに溢れた本格ミステリど真ん中の、いやそれらを土台にした新しい本格ミステリが読めること自体が幸せだ。
歴史は繰り返す。
もしかしたらこれからは21世紀の本格ミステリの黄金期が始まるのかもしれない。ホロヴィッツの本書はそんな楽しい予感さえも彷彿させる極上のミステリであった。

▼以下、ネタバレ感想
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カササギ殺人事件〈上〉 (創元推理文庫)
No.210: 4人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(10pt)

いや、こういうの好きなんです、ホント

東野氏は実業之日本社文庫でスキー場シリーズという瀬利千晶と根津昇平がシリーズキャラとして活躍する作品を書き下ろしで出しているが、本書はスキー場を舞台にした短編集でしかも単行本で出ている。順番としては上の2人に幸せの結末が訪れる『雪煙チェイス』が本書より後に出ている。

さて開巻1発目の「ゴンドラ」はスキー場のゴンドラで繰り広げられるあってはならない苦痛のひと時を語った1編。
東野氏は『夜明けの街で』で不倫中の男を主人公にしたミステリを書いているが、本作に登場する広太もその系譜に連なる尻軽男だ。
彼女との婚約が決まった後で自分好みの女性で出逢ったらと実に心憎い演出をし、そこから案の定、婚約者に隠れて浮気を重ね、そして出張と偽って浮気相手とスノボ旅行まで行く始末。そんなところに内緒にしていた彼女となんとスキー場のゴンドラで一緒になるという地獄のようなシチュエーション。
実は私も彼女が出来、結婚を決める前に合コンに行ったことがある。それは彼女と本当に結婚していいものかという決断を下すためだった。幸いにして彼女との付き合いを解消するような女性に出逢わなかったのでそのまま結婚するに至った。それが今の嫁さんである。
とまあ、男という物は一途になれないところがあり、他の女性へと目が移り気味になるのだが、広太の前で繰り広げられる美雪の女友達との会話は女性の恐ろしさを思わせる凄みのようなものを感じた。物語の結末は何とも皮肉。

次の「リフト」は職場仲間の男女5人組のスノボ旅行の一場面が語られる。
これはいわゆる男女親しい仲間で繰り広げられる恋の鞘当て話。誰と誰が実は付き合っているがそれは秘密にされており、しかし一方その恋人は彼氏を疑っていると、男と女の勘繰り合戦が繰り広げられる。

その日田に春が訪れようとするのが次の「プロポーズ大作戦」だ。
いい人だが、なぜか結婚に縁のない日田へ春を訪れさせようと「リフト」の面々が彼のためにサプライズプロポーズ作戦を行う前作からの続編のような話になっている。
そしてこれが1作目の「ゴンドラ」とリンクする。
日田のために色々尽くす仲間たちの友情は実に心地よく、またそれが日田の人柄によるものであろうことが解る。
ああ、この報われない男日田に春は訪れるのだろうか?

日田の恋のチェレンジは次の「ゲレコン」へと続く。
「結婚できない男」日田が再び登場。今度は水城とゲレンデで開催されるゲレコンに参加することになるのだが、彼が狙った相手はなんと「ゴンドラ」で登場した広太の浮気相手、桃実だった。
そしてゲレコン中の日田の会話の冴えないこと。報われない男ではなく、その空気の読めない感は正真正銘の結婚できない男ぶりを発揮。桃実の心の声が不器用な日田には悪いが実におかしく、何度も笑い声が出た。
さて次の短編では一体どうなってる?

という想いで臨んだ次の「スキー一家」では日田の話ではなく、彼のスノボ仲間の2人、結婚した月村春紀・麻穂夫妻の話で肩透かしを食らってしまう。
スキー好きとスノボ好きが犬猿の仲、いや寧ろスキーヤーが後発のスノーボーダーを一方的に嫌っている感のあるこの関係性はよく聞く話だ。そして月村夫婦のようにスノボ好きなのに親がスキー好きで尚且つスノボを毛嫌いしているためにスノボ好きを封印しなければならないカップルは日本のどこかには本当にいるのかもしれない。
このような現状を打破すべく麻穂が企んだのはプロ級の腕前を持つ、礼儀正しいスキーヤーが実は本業はスノーボーダーだったことをスキー一辺倒の父親に見せることで凝り固まった考え方を改めさせ、そして自分たち夫婦のスノボ好きを認めさせようという作戦だった。
しかしスキー場シリーズの根津がここで登場して重要な役割を果たす東野氏のサーヴィス精神が心憎い。千晶が出なかったのは少し残念だが。

さていよいよ日田に春が訪れるのか?「プロポーズ大作戦 リベンジ」では再び日田のために水城が一肌脱ぐ。
これは上手い!題名も含めてのミスディレクションとなっている。まだ付き合ってもいない日田にプロポーズをけしかける水城の強引さに違和感を覚えたが、なるほどそういうことか。
またこの作戦に一役買うのが根津だ。月村夫妻への協力といい、広太の恋人捜索にも協力するなど、根津もまたなんとサーヴィス精神の高い男だこと。

今回の文庫化の際に収録された書下ろしの1編がこの「ニアミス」だ。
日田栄介が「結婚できない男」であるなら、もう1人の影の主人公広太は「懲りない男」だ。
本短編集の冒頭を飾る「ゴンドラ」で浮気が婚約者にバレ、「プロポーズ大作戦」で坊主頭になって詫び、そして結婚に至ったにも関わらず、結婚も10カ月が過ぎるとまたぞろ浮気の虫が起きてきて、別の女性と定期的に逢うようになる。しかも既婚者であることを明かさずに。

さて最後を飾る「ゴンドラ リプレイ」はそのタイトル通り、再び広太と桃実、そして美雪がゴンドラで鉢合わせする。
悪夢は繰り返される。この短編集の1作目の「ゴンドラ」と同じ状況が再度発生する。しかもまた違ったシチュエーションで。
広太自身の風貌はこれまで不明だったが、桃実の目から見た話ではどうもいい男らしい。逆に云えばいい男で女性が寄ってくるからこそ、自分に対して甘いのだろう、この男は。


本書は雪山を舞台にした連作短編集だが、ミステリというよりもシチュエーションコメディといった方が適切な、笑いに満ちた内容になっている。

そしてメインとなるのは日田栄介と同じホテルで働く遊び仲間水城直也、木元秋菜、月村春紀、土屋麻穂たちのエピソードと並行してリフォーム会社に勤める浮気男広太の話だ。

さてこの日田栄介という男、風貌については描写がないが、いいヤツだと皆が口を揃えて云うが、女性から見ると結婚の対象としては考えにくい存在と評される、私も含め読者の身の回りに実際のモデルが思いつく男である。

そんな彼を応援するのがプレイボーイの水城直也はじめ、後輩の月村春紀と収録作の中で彼と結婚する土屋麻穂ら、同じシティホテルで働くスノボ仲間たちだ。

そしてこの日田栄介を取り巻く面々に間接的に絡み合うように浮気男、広太のエピソードが加わる。

また忘れてならないのは各編に登場する人物が共通してスノボの愉しさを満喫していることだ。可愛い女の子と二人で滑るスノボ、職場の親しい仲間たちと滑るスノボ、ゲレンデでスノボを愉しみながらの合コンまで登場する。

そんな中で繰り広げられる各短編は非常に読みやすく、また愉しめるものばかりだ。

婚約者に隠して浮気相手とスノボ旅行に行く男が待ち受けていた意外な展開。

スノボ仲間たちのそれぞれの思惑と意外な関係。

モテない男のために仕掛けるプロポーズ大作戦の意外な結末。これは哀しい結末と幸せな結末2編が収録されている。

ゲレンデ合コン、通称ゲレコンで出逢った男女の恋の行方。

生粋のスキー好き、スノボ嫌いである結婚した相手の父親にスノボを趣味とすることを認めさせるための作戦。

ゲレンデで出逢った美人と思わぬ再会を果たし、結婚しているにも関わらず食事を一緒にする、懲りない男の話。

なかなか付き合う決意が固まらない女性が、相手と向き合うために参加したスノボ旅行で偶然にしては悪戯すぎる元カレ(?)の再会。

とこのように我々読者の周りにネタとして語られるような男女の恋愛に纏わる、どこにでもありそうな話が東野氏に掛かると非常に面白い読み物に仕上がっているのだ。

特に上手いと感じたのは浮気男の2人を登場させ、見事に対比させているところだ。

一方は広太で仕事は真面目でそんな姿勢に女性が惹きつけられるのか、案外モテるようで女性を食事に誘っても断られないタイプ。しかし脇が甘いのか、それとも運に見放されているのか、自分の浮気が原因で修羅場を引き寄せるタイプだ。

もう1人はプレイボーイの水城直也。高身長のイケメンでホテルのブライダル担当で、口も上手く、手も速い。そして飽きると捨てて次の女性に走るが、なぜか後腐れがないようだ。

そして2人の違いは広太は橋本美雪との交際を隠して浮気するのに対し、水城は自分に恋人がいることを公言しながら堂々と女を口説くこと。そして前者はそれが元で失敗し、後者は修羅場も招かない。

しかし共通しているのは自分勝手な解釈で平気で複数の女性と関係を持つことだ。広太はあれだけ手ひどい目に遭ったのにも関わらず、結婚してしまったからこそ他の女性に目が映るのは当然だとか、美雪は「結婚している女性」であり、「付き合っている女性」ではないと自分の疚しさを消し去るための苦しい言い訳をしては女性と付き合う、更に自分を正当化するためには自分には婚約者がいると云っているのに女性の方から積極的にモーション(死語?)を掛けてきて困ってしまったなどと嘯く、女性の敵とも云える男なのだ。

また水城は堂々と一緒にお泊りしようと誘うのも違いか。
広太は流れに身を任せるタイプだが、水城は流れを作るタイプだ。

そして恐らく読者のほとんどが期待していた「結婚できない男」日田栄介の結婚までの道のりは…。

しかしこの日田栄介という男。典型的な同性にはモテるが異性にはモテない男だ。いやあ、この男のダメっぷりが実に面白い。

同じ話を繰り返す芸の無さ、雰囲気や秘密を平気でぶち壊す空気が読めない感、そしてファッションセンスの無さ。仕事の時は女性が惚れ惚れするほどの洗練さを見せるのにプライベートではとことんダサい男。

この日田という男を創造した東野氏がやっぱり偉いのだ。

いや寧ろ容姿も悪くなく、仕事もできるのになぜか長らく独身な男はこの日田栄介のエピソードを読んで自らを振り返ると、自分が結婚でない理由が解るのかもしれない。

果たしてこの作品のネットでの評価はどのようなものなのかは解らないが、私は非常に楽しく読めた。
いやこういう話が私が好きなのだ。

このスキー場シリーズはスノボ好きの東野氏が集客数が減退しつつあるスキー場に少しでもお客さんが多く来るようにとそれまでスキーやスノボをやったことのない人、もしくは長らくそれらから離れている人たちにその面白さを伝えるために広い範囲の読者に読まれるよう、ミステリ色を抑え、あくまでエンタテインメントに徹し、更にキャラクター達におかしみを持たせた非常に読みやすい作品ばかりが揃っている。

その軽快さを生粋の東野ファンやミステリ好き読者がクオリティが低いだの、東野圭吾にはこんな作品ではなく、『白夜行』や『容疑者Xの献身』などの重厚な作品をもっと書いてほしい、といった原理主義的なコメントが目立つのに失望感を覚える。

逆に私はベストセラー作家であり、読者が求める東野作品が上に挙げられた作品であることを知りながらもこのような軽快なコメディミステリを著す東野氏の創作姿勢に尊敬を禁じ得ない。
東野氏は今やかつて赤川次郎氏が担った初心者が日本のミステリを読むいい窓口であり、その売り上げからも宮部みゆき氏と並ぶ日本ミステリ界の第一人者となったと云っても過言ではないだろう。
寧ろ今多くのミステリ作家が採算を取れないほどの発行部数でありながらも新作を刊行できるのは東野作品の売り上げによるところが大きいのではないか。

もはや国民的ミステリ作家となった東野氏自身がその役割を自覚しているからこそ、幅広い作風やテーマを扱って作品を著し、そして重厚な作品から軽妙なものまでを今なお出しているのではないだろうか。

とにかく本書は面白かった。上に書いたようにミステリというよりもシチュエーションコメディ的な作品集だが、そこは東野氏、ミステリ風味も加味され、サプライズも用意されているし、またスノボ愛を筆頭としたウィンタースポーツへの愛情も織り込まれている。

東野圭吾読みたいんだけど、どれから読んだらいいと訊かれたら、その人があまり本を読まない人であれば間違いなく本書を勧めたい。
本書はそれほどとっつきやすく、また思わずにやけてしまう面白さと人間模様が詰まった作品集だ。

しかし東野氏が帯で述べているように、男とはこういう生き物なのだ、とは思われたくないなぁ。


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恋のゴンドラ (実業之日本社文庫)
東野圭吾恋のゴンドラ についてのレビュー
No.209: 2人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(10pt)

さようならの裏側

2017年3月に第1作を手に取り、2年7カ月を経てようやくここまで辿り着いた。
しかしその道のりは長いなんて全然思わなかった。なぜならこのシリーズはそのどれもが私に最高の読書体験をもたらし、そして読み終わるとすぐに次の作品を手に取らさせたからだ。

今回ボッシュが追うのは2つの事件。1つは免許再取得によって再開させた私立探偵稼業において、大富豪のホイットニー・ヴァンスから若き頃に別れることになった大学食堂の女性との間に生まれたと思われる子供の正体と行方を捜す依頼。

もう1つは嘱託の刑事として勤務するサンフェルナンド署の未解決事件、<網戸切り>と名付けられた連続レイプ犯を追う事件だ。

コナリーはこの2つの話を実にバランスよく配分して物語を推し進める。
これら2つの話はよくあるミステリのように意外な共通点があるわけではなく、平衡状態、つまり全く別の物語として進むが、コナリーは決してそれら2つの話に不均衡さを持たせない。どちらも同じ密度と濃度で語り、読者を牽引する。
そう、本書はボッシュの私立探偵小説と警察小説を同時に味わうことができる、非常に贅沢な作りになっているのだ。

さて、まず私立探偵のパートではチャンドラーへのオマージュが最初からプンプン匂う。それもそのはずで本書の原題“The Wrong Side Of Goodbye”そのものがチャンドラーの『長いお別れ』、原題“The Long Goodbye”へのオマージュが明確であり、大金持ちの家への訪問とこれまたフィリップ・マーロウの長編第1作『大いなる眠り』を髣髴とさせる導入部。

その富豪の依頼は親によって別れさせられた、かつて愛した女性が宿した自分の子供探し。この内容だけがチャンドラーには沿っていないが、私立探偵小説としては実に魅力的な内容だ。

そしてこの1950年に別れた女性の足跡を辿る、つまり約70年も前の過去の足取りを、それまで培ってきた未解決事件捜査のノウハウと刑事の直感で切れそうな糸を慎重に手繰り寄せるように一つ一つ辿っていくボッシュの捜査はなかなかにスリリングで、しかも人生の綾をじっくりと味わわせる旨味に満ちている。

一方連続レイプ犯<網戸切り>を追う警察パートもまたこれに勝るとも劣らない。事件の捜査の歩みは遅いが、レイプ未遂の事件が起きるとそこからの展開は警察捜査と犯人の不可解な行動から推測される現場に残された手掛かりを辿るきめ細やかさはボッシュが閃きと優れた洞察力を持った一流の刑事であることを示すに十分な内容だ。

そして同僚のベラの消息が不明になった後の怒濤の展開はまさにコナリーならではの疾走感に満ちている。

また一方でボッシュは非常勤の嘱託刑事という立場とロス市警を訴え、賠償金を勝ち取った、いわば売国奴的な目で警察官たちに見られている四面楚歌状態にある。特に署の内務のトップであるトレヴィーノはボッシュが公務ではなく私立探偵の立場で警察の施設を、データを利用していないかとボッシュがボロを出すところを虎視眈々と狙っている。

しかしボッシュはそれまでの経験と直感で自ら周囲の尊敬を得て、サンフェルナンド署の正規雇用の警官として雇われるまでになる。

そして大富豪ヴァンスの隠し子の捜索も紆余曲折を経てようやく血の繋がった孫に辿り着く。
ヴァンスと別れた後、シングルマザー用の養護施設で自分の子供を産みながらも、養子に出さなければならない苦痛から自ら命を絶ったビビアナ。

その息子ドミニク・サンタネロはボッシュ自身も従軍したヴェトナム戦争で戦死し、既にその存在はない。そんな絶望の中で彼のカメラの中に納まっていた写真から彼に未婚の子がいることが判明。

そう、これは血の物語なのだ。それについてはまた後で述べよう。

ボッシュが関わった2つの事件に共通点があるとすればそれは報われなさによる感情の歪みが起こした犯行だろう。

人は長い間、何かを抱えて生きている。それはまたボッシュもまた同じだ。
今回探していた人物が自身と同じヴェトナム戦争に従軍し、もしかしたら同じ船に乗っていたかもしれない奇妙な繋がりをボッシュは感じる。そして彼の思いはヴェトナム戦争へと向いていく。

息子ドミニクが鉄鋼王で航空産業も手掛けていたヴァンスの会社が製作に関わったヘリコプターによって墜落死した運命の皮肉。

戦場の現実から逃避するために自身もまたトールキンの『指輪物語』を読んでいたこと。

悪天候にも関わらず、慰安に訪れたジャズプレイヤーの粋な計らいと数年後そのうちの一人と再会した時の胸温まるエピソード。

一方トンネル兵士として敵を斃すため、匂いで悟られぬようアメリカ人の食事ではなく、ヴェトナム料理を食べて体臭を敵と同じにしてきたこと。それがゆえにヴェトナム料理が食べられなくなったこと。

そんな過去を抱えてボッシュはそれでもなお犯行を起こす側でなく、犯罪者を捕まえる側にいる。その理由は彼が最後に述べる。それについては後述しよう。

さてヴァンスの忘れ形見を巡る物語は血縁のビビアナ・ベラクルス発見後、ヴァンスの遺産を狙う会社重役連中から彼女を守るためにボッシュはミッキー・ハラーと組み、追手を出し抜いてDNA鑑定、遺言状の保管を行う一方、ヴァンスの死の真相を突き止め、犯人逮捕の引導まで行う。

よくよく考えると本書は警察小説に私立探偵小説だけでなく、これにリーガルミステリも加わった、1粒で3度美味しい、非常に豪勢な作品ではないか。

彼が最後に同僚のベラ・ルルデスを鼓舞するように話す、自身の血に刻まれた警官というDNA。
やはりこのヒエロニムス・ボッシュことハリー・ボッシュは全身刑事なのだという想いを強くした。

彼は我々とは訣別しなかった。
原題“Wrong Side Of Goodbye”。
それは物語のエピローグに登場するヴァンスの忘れ形見で彫刻家のビビアナ・ベラクルスの作品のタイトル『グッドバイの反対側』でもある―しかしこの訳はどうにかならなかったのか。私なら『さようならの裏側』と付けるのだが―。この訳に従えばそれは別れではなく出逢いを意味する。

しかしもう1つ考えられるのは“Born on the wrong side of the blanket”で「非嫡出子として生まれる」という意味があり、それは即ちホイットニー・ヴァンスとビビアナ・デュアルテとの間に生まれたドミニク・サンタネロとその子供ビビアナたちを意味する。
色んな意味を含んだ、言葉の匠コナリーらしいタイトルだ。


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訣別(上) (講談社文庫)
マイクル・コナリー訣別 についてのレビュー
No.208:
(10pt)

小説が、物語が書かれ、読まれる意味がここにある

今回もコナリーにはやられてしまった。もはやページを捲ればそれが傑作だと約束されているといっても過言ではない。

前作『燃える部屋』で図らずも停職処分を受けたボッシュは本書では再びハラーとタッグを組む。それは停職処分中に定年延長選択制度への支払いが停止し、その状態で異議申し立てをするとその手続きの間で退職を迎えてしまい、そうなると退職金も定年延長選択制度資金も貰えなくなることから、刑事を退職し、それらを得て処分が不当であると訴えを起こし、その弁護士にハラーを雇った。

一方ハラーは有名な市政管理官補レクシー・パークス殺害事件の容疑者ダクァン・フォスターの弁護を請け負っており、調査員のシスコがバイク事故で重傷を負って動けないことからボッシュに調査員になるように依頼する。

ボッシュの停職処分から余儀なくされた早期退職に対する訴訟、それを弁護するのが異母弟のミッキー・ハラー。そしてハラーはボッシュに自分の仕事の調査員になるように依頼する。
この2人の職業と関係性を十分に活用しながら実に淀みなくシリーズが展開する様にいつもながら感心する。コナリーはハリー・ボッシュ、ミッキー・ハラーという2人の男の人生を知っており、それを我々読者に提供している、そんな気がするほどの事の成り行きの自然さを感じさせられる。

しかし殺人課の刑事をしていたボッシュにとっていわば刑事弁護士は自分たちが捕らえた悪人の味方をする、忌まわしき存在で云わば敵対関係にある。そんな弁護士の手伝いをする調査員の仕事をすることは刑事仲間を裏切る行為になる。作中ではダークサイドに渡る(クロッシング)とまで書かれている。これはボッシュが調査員になるようになって初めて知った感覚だ。なぜならハラーのかつての調査員ラウル・レヴンもまた元警官で彼はその昔のコネを活かした調査能力でハラーの信頼を得ていたからだ。つまりラウルもまた刑事たちにとっては裏切者であり、それでありながら警察内に有力なコネを持っていたという実に優れた調査員だったことが解る。なぜならボッシュは調査員となることで刑事たちの不興を買うからだ。

一旦ボッシュが刑事弁護士の調査員になったことが知れ渡ると元同僚や不特定の警官から次から次へとボッシュの携帯に非通知の電話が掛かり、またテキストが送られてくる。彼をよく知っている刑事仲間はボッシュが一時的なものだという言葉を頼みの綱として信じようとするが、その他の警察官は彼を裏切り者として罵倒する。
やがてボッシュ自身も自分が向こう側に渡ってしまったことを意識し、背徳の念に苛まれる。

また本書ではそれまでと異なる描き方がされている。それは事件の犯人の行動が物語の冒頭から同時並行的に描かれていることだ。しかも彼らが刑事であることも判明しており、予め悪徳警察官であることが判っている。
これは非常に珍しい。なぜならコナリーはこの手法をサプライズに用いることが多いからだ。

しかしこの新しい手法はまた物語に新たな魅力を生み出している。この2人の行動が不穏過ぎて物語に常に緊張をもたらしているからだ。
彼らに監視されるハラーとボッシュ、そしてその他事件関係者たち。彼らが何をしようとしているのか読者は不安の中でページを捲らされる。その先を知りたくて。

今回久々にボッシュは『暗く聖なる夜』、『天使と罪の街』以来、刑事ではない立場にある。従って彼もまた警察の脅威を感じ、いや特権的立場を失っている状態にあることで正しい市民であろうとする。

例えば刑事時代では運転中であっても携帯電話で通話し、シートベルトの着用も疎かだったが、一介の市民となった今ではシートベルトはきちんと着用し、携帯電話はイヤピースを嵌めて通話する。

刑事時代では駐禁など気にしなかったのに今では普通に切符を切られてしまう。

ボッシュは今更ながらに刑事であったことの利点を痛感させられる。そしてそれは今回の事件の真犯人に繋がるファクターでもあった。それについては後述しよう。

前科者は必ず犯行を再発する。それは彼らが根っからの悪だからだと悪に対して執着的な怒りを覚えるボッシュ。

一方で人は変われる、やり直せる、だからそんな更生した人を偽りの犯行から護らなければならないと、かつての悪人の贖罪を信ずるハラー。

元刑事と弁護士の価値観の違い。それがいつしかこの異母兄弟の間に乖離を生む。

ハラーは弁護士として裁判に不利益や予断を与えるような情報をボッシュが警察側に与えるのを抑えようとし、警察側に対して非協力的であるのに対し、元刑事のボッシュは真犯人を捕まえるために自分の情報を与えたいと思う。ハラーにとって警察側は裁判での敵であるのに対し、ボッシュは元々そちら側にいた人間で仲間意識が強いからだ。

従ってボッシュはレクシー・パークス殺害事件の真相究明に積極的で刑事の血が騒ぎながらも、一時的でありながら弁護士の調査員という対立の立場にあることに苦痛をしばしば感じるのだ。

さて調査員として臨んだレクシー・パークス殺害事件の行方はスキャンダラスな事件へと繋がっていく。
この妙味。そしてボッシュという男の刑事としての勘の鋭さを感じさせる事件だった。

終わってみればエリスを含め8人もの死者が出た陰惨な事件となった。

私欲のために大勢の人の立場と人生を利用し、そして危なくなればゴミのようにその命を葬り去る。人の死を扱う仕事に就くことで人の死に対して鈍感になり、そして自分の仕事が庶民に対してある種の特権を持つことに気付き、いつしか王にでもなったかのような尊大な男が生んだ悲劇の産物が今回の事件だった。
一介の市民となったボッシュが刑事でないことの不便さは即ち彼ら2人の悪徳警官が刑事であるがゆえに覚えた特権だったのだ。

コナリーはシンプルなタイトルに色んな意味を、含みを持たせるのが特徴だが、本書の原題“The Crossing”もまた様々な意味で使われている。

まずは元刑事が刑事弁護士の調査員になることをダークサイドに渡る(クロッシング)という裏切り行為という意味で使われ、次は被害者レクシー・パークスが有名な市政管理官補であり、メディアにも多く登場していたことで不特定多数の人間に遭遇(クロッシング)していたことで容疑者特定の困難さを示す言葉として。更に被害者と加害者の動機と機会とを結びつける交差(クロッシング)する瞬間をも意味する。

しかし私はその言葉は次の一言に集約されると感じた。

The Crossing、それは即ち一線を越えること。

まずボッシュは元刑事としてはタブーとされる弁護側の調査員となる一線を越えた。
それは逆に彼が別の人間に冤罪を着せ、のうのうと生きている悪を野放しにしてはいけないという刑事の信念に駆られたが故であるのが皮肉なことに一線を越えさせた。

そして一連の事件の主犯であるハリウッド分署風俗取締課の刑事ドン・エリスとケヴィン・ロングは職務を濫用することが甘い汁を吸えることに気付き、刑事としての一線を越えた。

一線を越えた者たちの内、正しい方への一線を越えたのはボッシュだった。
しかしそれがゆえに彼は元仲間たちの警察官から裏切者のレッテルを貼られることになった。なぜなら彼は刑事を犯人として告発したからだ。

正しいことをしながら元仲間たちに蔑まされる。ボッシュの歩んだ道のなんと痛ましいことよ。
そしてその正しさを認めることのできない警察官たちの何とも愚鈍なことよ。
正義を司る者たちが仲間意識を優先して正しき進むべき道を見誤るようになってしまっている。コナリーは今までも正義を裁く側の人間を犯罪者として物語を紡いできたが、それをアウトサイダーになったボッシュによって裁くことでより一層警察組織そのものの歪みが浮かび上がらせることに成功したように思える。

この原題が非常に本書の本質を掴んでいるがゆえに今回は邦題の『贖罪の街』がなんともちぐはぐに感じてしまう。訳者はあとがきでその理由について述べているが、正直苦しい。
私ならば原題をそのままカタカナにして『クロッシング』にするか、それともボッシュも常に吐露している、事件の被害者たちが陥った『ダークサイド』もしくは『アザーサイド』か。
簡潔にして多種多様な意味を持つ言葉だけに日本語でそれを成そうとすると実に難しい題名だ。

さてここいらで本書に関して思ったことを書いていきたい。

まずシリーズ恒例のエピソードの進展について触れておこう。

まず私が本書のサブストーリーの中でも関心が高い、ボッシュの娘マディとの関係だが、ボッシュは思春期の微妙な年頃の娘の素っ気ない態度に苛立ちと戸惑いを覚えながら、メールのやり取りに一喜一憂しているという相変わらず不器用な父親振りを見せる。マデリンはボッシュが唯一敵わない相手にもはやなっている。

更に今回亡き母親エレノア・ウィッシュについて2人で話す機会があり、初めてマディが母親が恋しいと吐露する。同性として、そして少女から女性になりつつあるマデリンにとって良き相談相手となる母親の不在がここにきて響き、ボッシュも胸を痛める。

またロサンジェルスという映画産業の街を舞台にしたエピソードが多く盛り込まれているのもこのシリーズの特徴だが、本書で触れられているのは知事となったある映画俳優が行った権力濫用とも思える措置に対するエピソード。これはもうあのシュワルツェネッガー以外何物でもないが、彼が映画復帰してさほどヒットがないのもむべなるかなと思えるエピソードだった。

また事件の関係者である形成外科医のジョージ・シュバートによって明かされるキャッシュ・コールも興味深い。
有名人が整形をするのに、プライバシーを守るため、証拠を残さないために医療保険を利用せずにキャッシュで払う習慣があるとのこと。その中でマイケル・ジャクソンの死について触れられているが、まさかマイケルが自宅で整形治療の最中に死んだとは知らなかった。

そして本書の献辞はサイモン・クリステンスンなる人物に捧げられている。
今までコナリーは自分の創作の協力者や家族に献辞を捧げていたが、この人物はコナリーとの所縁はない。
では誰なのか?

それは書中で明かされる。その内容は本書を当たって頂くとして、色々含みを感じる献辞である。

さて何度目かのボッシュとハラーのコラボレーションとなった本書は双方の持ち味が十分に反映された作品となった。

ボッシュは刑事の職を離れ、一介の民間人というハンデを負いながらも生まれながらの刑事とも云うべき執念の捜査を続け、真犯人に辿り着き、そしていくつもの危難を乗り越えた。

一方ハラーはボッシュが集めた証拠とアドヴァイスを存分に活かし、法廷でハラー劇場とも呼ぶべき鮮やかな弁護を披露し、見事依頼人の無実を勝ち取った。

被害者は保安官補の妻でマスコミにも多く登場し、人望厚い市政管理官補。
被告人が黒人の元ギャング、一方真の悪は悪徳警察官。
つまりクリーンな立場の人間が無残に殺され、捜査上に浮上してきたのが悪人の先入観を余儀なく与える人物。
一方暗躍して悪事を重ねる警察官が真犯人であることが半ば自明でありながら面子を保つために司法の側の捜査は遅々として進まなく、このまま被告人を生贄の山羊として備えることを望むような雰囲気さえ漂う状況を覆す、四面楚歌の中での勝利はドラマとしても出来過ぎだろう。

しかし我々はもはや何が正しく何が間違っているのか解らない世界に生きている。
社会に秩序をもたらすために作られた精巧なシステムが正しくなければならない、誤作動するなどあり得ないと断じる、それを扱う側の人間たちによっていつしかその信頼性を守るために、いやミスを認めようとしないつまらぬプライドのために、正しいことがなされず、いつしか過ちがうやむやに葬り去ろうとされる、もしくは落としどころを付けるために弱者に標的を定め、犠牲として捧げる、そんな歪みが蔓延していた世界にいつしかなってしまった。

そんな世界だからこそ小説の、物語の中だけでも正しいことが正しく落着する結末であってほしい。そのために小説は、物語は書かれ、読まれるのではないか。

コナリーの描くボッシュサーガは正義を貫くことの困難さとそれを乗り越えた人々の、人生の充実を常に与えてくれる。
ハラーの物語はいつも結末は苦いが、今回はさすがに爽快感をもたらしてくれた。

さて未だ異議申し立て中で元刑事の一介の市民のままのボッシュ。しかも刑事から蔑まれる弁護士の調査員の仕事に手を染めてしまった彼の次の去就が気になるところだ。

そしてそれを描いた作品は既に出ている。次作『訣別』を手に取るのに何の障害があろうか。
ただ今は少しばかりこの最高の物語の結末の余韻に浸り、心を落ち着けて次作を手に取ろうか。


▼以下、ネタバレ感想
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贖罪の街(上) (講談社文庫)
マイクル・コナリー贖罪の街 についてのレビュー
No.207: 5人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(9pt)

怪異も超常現象も起きない極上ホラーがここにある

第4回日本ホラー大賞受賞作で貴志氏の本質的なデビュー作となり、そして映画化もされた本書。
ホラーと云えば怪異現象、超常現象を扱った物が多い中、保険会社員が顧客の訪問先で子供の首吊り死体に出くわし、更にその保険金を巡って遺族であるその両親との陰湿で執拗な催促に取り乱される、そんな風にストーリーの概要を理解していた私

本書は正真正銘のホラーである。それもとても他人事は思えないほどの迫真性を孕んだ怖さがある。それはどこかにはいるであろう、少し変わった隣人が本書の元凶であるからだ。

まず題材が実に一般的だ。怪我や入院、そして人の死を日常的に取り扱う保険会社が舞台。

自殺した子供の保険金を巡ってその両親との確執にて主人公に降りかかる災厄が本書の内容で、従って物語の細部に保険会社の業務や保険業界の裏話などが丹念に織り込まれており、非常にそれが読み応えのある内容となっている。

主人公の若槻慎二は入社当初は東京本社の外国債券投資課に配属になり、投資関係の仕事を扱っていたが、昨年春の人事異動で大学の時に住んでいた京都に異動になり、そこで本来の仕事である保険業務に携わるようになった。その日常はまず人の死に纏わる死亡保険金の請求書類といった類の書類のチェックから始まる。彼は入社5年しか経っていないが、早くもそんな暗鬱な内容で業務が幕を開ける保険会社の仕事に嫌気が差してきている。

次から次へと送られる保険請求の書類の詳細な内容のチェック、保険の窓口にいつもクレームを付けに来る客への対応の仕方、自殺で保険は下りるのかといった一般人が抱くような疑問に対する応対、わざと異なる印鑑を持ってこさせ、貸付が断られると、そのことで手形が不渡りになって会社が倒産したと賠償金を請求されたり、または交通事故でムチ打ち症でずっと入院して給付金を貰い続けて、期限が切れそうになると新たな症状で診断書を書いてもらって更に延長する、病院とグルになって詐欺を行う者、また一方でそんな詐欺に対抗すべく保険会社でも「潰し屋」と呼ばれるヤクザまがいの人間を雇っていたりすること、毎年11月は『生命保険の月』と云って過大なノルマが課され、それによって審査のチェックが甘くなること、などなど、生命保険会社に勤務していた作者が知る業界の内輪ネタに事欠かない。

そんな保険会社の裏事情が放り込まれ、我々読者の眼前に本書メインの事件の発端となる主人公若槻への災厄の始まりを告げる事件が幕を開けるのは物語が始まって70ページが過ぎてから。それは副長の葛西が受けた1本の電話が若槻を指名したことから始まる。

自分を名指しで指名してきた顧客。しかしその菰田幸子と重徳という名前には心当たりが全くない。不思議に思いながら家を訪ねてみると嵐山付近という高級住宅街にありながら周囲に全くそぐわない黒い家で荒れ放題で中には異臭が漂っている。案内されるとなんとそこで…。

恐らくはこのショッキングな展開もまた生命保険会社時代に聞いたエピソードの1つであろう。それを貴志氏はサイコパスと結び付け、ホラーへと昇華させたのだ。

つまり自分の顧客が次から次へと身内を殺し、また傷をつけ保険金を請求するサイコパスであった。本書はこのワンアイデアのみと云っていいだろう。
しかし物語はシンプルなものこそ面白い。本書はまさにそれを具現化した作品だと云える。

公共の場での対面が対会社ではなく一個人を標的にしてどんどん私生活へと侵入してくる怖さがここにはある。

作者は真綿で首を絞めるように主人公若槻を、読者を恐怖の底へと導く。

そんな具合に実に計算尽くしで書かれた本書は、日本ホラー小説大賞の受賞作であることから、その内容はいわゆる賞を獲るために必要不可欠な小説の要素が教科書通りに放り込まれていることが解る。

まず作者自身が生命保険会社に勤務していた強みを活かし、保険業界のエピソードをふんだんに盛り込み、その業界ならではの内輪話、蘊蓄で読者の興味を惹きつけながら、更に忌まわしい過去を設定している。
主人公若槻はあるトラウマを持っており、そのトラウマが顧客に対して不信感を抱き、調べる原動力となっているのだ。

原因と結果という因果をきちんと設定し、物語を淀みなく進める磐石さを持っている。

更に物語に心理学、生物学などの専門知識を放り込み、読者の知的好奇心を刺激し、次から次へと事件を連続させ、ページを繰る手を止めさせない見事な筆捌きを見せる。
もう、受賞のためのファクターが過不足なく盛り込まれており、戦略と戦術を立てて応募されたことが如実に判るのである。

そんな作者の恣意的な創作作法が見えながらもやはり本書は実に面白い。あざとさの一歩手前で踏み止まるバランス感覚に優れているのである。

しかし保険業界とはまさに世に蔓延る魑魅魍魎共を相手にするような職業であることが本書でよく解る。お金が人間の欲望と直結して駆り立てるものであるがために人の生死をお金で取引するシステムに人はどうにか旨い汁を吸ってやろうとたかるのだ。
また生保業界も契約を取れれば天国、取れなければ虫けらのように扱われる極端な成果主義となっていることも慈善事業ではなく金満事業となっている歪みが生じているのだ。

本来突然の死に見舞われた時に遺された者が安心して生活を続けられるように作られたシステムであるのにそこに蓄えられた金をどうにか騙して手に入れようとする詐欺師たちが横行するからこそ保険会社もまた支払いにはより一層慎重となり、そしてなかなか支払いが行われなくなるのだろう。

通常その業界に身を置いている者はそういった業界の特異な状況が常識となり、奇異に感じなくなってくる。
しかし貴志氏は保険業界に身を置きながらも一般人の感覚を持ってそのおかしさ、恐ろしさに気付いたのだ。そして彼は自分たちの日常業務こそホラーそのものだと発見したのだ。

但しそれでもまだ小説としては疵も目立つ。

前作『十三番めの人格―ISOLA―』でも気になった男女の関係の書き方だ。若槻慎二と黒沢恵の2人の関係がなんとも稚拙すぎる。
繊細で傷つきやすい性格である黒沢恵が菰田幸子に襲われ、危うく一命を取り留めた後、両親に庇護されることについて自分を2人の思い通りに動く人形のようにならないと決意するくだりがあるが、これも思春期の子の台詞ではないかと思ったくらい成熟味がない。また若槻が彼女を欲するあまりにその思いをぶつけるのもいつの頃の話だと思ったくらいだ。

この辺の男女関係の機微をもう少し違和感なく書くと引っかかることはないのだが。いや寧ろ物語の彩りのために無理矢理恋愛のエピソードを入れる必要もないのだ、物語が面白くさえあれば。

第1作目が多重人格、大賞受賞の第2作の本書がサイコパスと貴志氏がホラーの題材として選んでいるのは常に人間そのものが持つ怖さだ。その後の諸作のテーマを見ても常に作者が人間の心に潜む悪意や宿る狂気に目を向けてその怖さに注目しているのが解る。
本書はまさに受賞するための法則に則って書かれたような教科書的作品であり、怖さを感じる反面、その端正さが逆に気になった。

しかし受賞する目的のために書かれた作品は本書にて終わった。これ以降の作品は貴志氏が思う存分自分の書きたいテーマを扱い、型にはまらない面白さを追求した作品があると信じたい。それまで5つ星の評価はとっておこう。

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黒い家 (角川ホラー文庫)
貴志祐介黒い家 についてのレビュー
No.206: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(10pt)

そして刑事魂は受け継がれていく

コナリー作品25冊目で作家生活20年目の記念碑的作品『ブラック・ボックス』からミッキー・ハラー物の『罪責の神々』を挟んで、前作から2年経った本書では色々とボッシュの身の回りに変化が訪れていた。

既に前作のパートナー、デイヴィッド・チューと目の上のたん瘤だった上司クリフ・オトゥールもいなくなり、ボッシュは新人の刑事メキシコ系アメリカ人のルシア・ソトを相棒に迎えている。ボッシュにとっても定年延長制度最後の年であることもあって、残り少ない刑事人生をルシアに自分の経験と知識を十分教え込むことを使命として良きパートナーかつ良き師として彼女に接している。ボッシュのこの対応は一匹狼で単独行動ばかりしては上層部の悩みの種となっていた彼からは隔世の感を感じさせる。

また変化と云えば前作まで付き合っていたハンナ・ストーンとの関係も既に終わっていた。彼女の息子ショーンはレイプの有罪判決を受け、刑務所に入っていたが、仮釈放審査でボッシュが彼の味方をするのを拒んたことがきっかけでそれで関係がすっぱりと終わったことが知らされる。前作でも彼女の息子の件がボッシュの出張費を私用目的で使ったと疑問を与えたのが母親との仲を嫉妬したショーンからの訴えであったことから彼女との関係は険しいものになると予想されたが、意外にもあっさりと幕を閉じたようだ。

さて刑事生活最後の年を迎えるのは前作から引き続いて未解決事件班で、10年前に起きた射殺未遂事件の真相を追うというもの。しかし事件は10年前に起きたが、被害者が亡くなったのはつい前日。被害者であるオルランド・メルセドは銃弾を体内に残したまま一命をとりとめ、下半身不随になり、更に体内に残った銃弾の影響で両脚と片手をも失いながら、10年間生き長らえた人物で、世間では英雄視された人物、つまりちょっとした有名人だったのだ。

彼の死後、ようやく解剖によって彼の背骨に埋まっていた1発の銃弾を手掛かりに事件の再捜査が始まるという実にドラマチックな幕開けを見せるのである。

しかしコナリーは銃弾がよほど好きなようで人の運命を決定付ける絆を例えるにも使っている。そして本書もその銃弾にて10年前の事件が再度幕を開けるのだから。

ただ追う事件はそれだけでなく、もう1つある。
それは1993年に起きたボニー・ブレイ放火事件だ。当時大半の子供を含めた9名の死者を出した放火事件で、なんと被害者の1人がボッシュの新相棒ルシア・ソトだったのだ。彼女はこの事件で亡くなった保母と5名の仲間たちのためにこの未解決事件を解決するために刑事になったとも述べる。

但しこの事件は他のチームが扱っており、通常ではそれはテリトリー侵害に当たるため、そのチームから横取ることをしないのだが、ボッシュはかつて自分も母親殺しの事件を単独で捜査した過去を思い出し、ルシアの意図を組んで自ら事件の通報者に模してメルセド襲撃事件とボニー・ブレイ放火事件2つの事件に関係があると仄めかせてボッシュ達に捜査を当たらせるように仕向ける心憎い配慮を示す。

本書のタイトル『燃える部屋』、原題“The Burning Room”はルシアがこのボニー・ブレイ放火事件で生き長ら得ることができた地下の無許可託児所のことを示す。
火災によって煙が充満していく部屋の中、濡れたエプロンを鼻と口に当てて、しのぎながらも更に進入してくる煙を避けるためにクロゼットに入り、助けを待っていた彼女。クロゼットに入れずに外でひたすら助けを求め叫び続けながら死んでいった保母のエスター・ゴンザレス。

そしてもう1つの意味は事件の核心に近づいた時、それが思わぬ権力者や社会的重要人物に突き当たった時には慎重に物事を当たらなければならないことを云い表す際にボッシュが火事で燃えている部屋はドアを決して開けてはならないと表現したことによる。

バックドラフト。内部で燻ぶり続けた炎は部屋の中の空気を全て使い果たし、次の空気を待っている状態だ。迂闊にそのドアを開けようものなら急激に入り込んだ空気によってドアを開けた者は一瞬にして炎に包まれる。
パンドラの箱は無暗やたらに開けてはならない。慎重に動かないと自分たちが怪我をするという意味だ。

本書では刑事事件の捜査に各種の検索エンジンが活用されていること、容疑者との尋問はスマートフォンの録音アプリが使われており、グーグルマップで行き先を検索したり、はたまたウェブ新聞の勢いに押され、閑散としたLAタイムズの事務所の様子が描かれていたりとIT化による利害がやたらと目に付くようになっている。そしてウェブ上では自分の意見を自由に発言できるようになったことで注目が増し、多くのシンパを得てムーヴメントが巻き起こしやすくなる一方で、リテラシーを理解しない人間がその発言で世界中から袋叩き状態になる、いわゆる炎上することも多くなってきている。

つまり本書の『燃える部屋』とは我々ウェブを活用する人々が持っているブログやSNSのアカウントのことを示しているのではないかとまで考えるのは少し穿ち過ぎだろうか。

そうそう、忘れてはならないのはボッシュシリーズのもう1つの関心事、娘マデリンの成長だ。既に彼女は17歳になり、警察官になるための準備を着々と整えているようで、ハリウッド分署で行われている警察体験班に参加し、更には身体の不自由な老人へのボランティア活動を行って大学進学の申請書に箔を付けるのに勤しむ毎日。しかも警察体験班の連中との付き合いも出来、ボッシュは嬉しい反面、娘に悪い虫がつかないかとハラハラしている状況だ。

しかし何といっても本書の一番の読みどころはボッシュと相棒の新任刑事ルシア・ソトの師弟関係だ。

上にも書いたようにボッシュは定年延長制度最後の年でルシアにそれまでの刑事生活で培ってきた自身の捜査技術とノウハウ、そして刑事という生き方とも云うべき心構えを教えるべく良き師となって彼女に付き添う。そこにはもはや一匹狼として単独行動が常であったボッシュの姿はなく、去り行く老兵が手取り足取り若者に戦い方を教え、歩むべき刑事の道へと導く先達の姿があるのみだ。恐らくボッシュはルシアに警察官志望の将来の娘の姿を見出していたのではないだろうか。

そしてボッシュの教えを頂くルシアもまた自分が将来刑事の道を歩む強い意志を示し、ボッシュの期待に応える。もし自分だったらそうするであろうことを云わずとも行うルシアにボッシュは自分に似た部分を感じる。

そしてルシアもまたある信念をもって警察官になった女性だった。
彼女は1993年に起きたボニー・ブレイ共同住宅放火事件の被害者の1人で当時7歳だった。彼女はそこの地下にあった無認可託児所におり、大半の子供を含む9名の人命が亡くなった陰惨な事件で奇跡的に生き残った児童の1人だった。彼女を助けて亡くなった保母のエスター・ゴンザレスとその他5名の友達の無念を晴らすために警官になり、そして未解決事件班でこの事件を独自で捜査しようと決意したのだった。

そしてボッシュは次第にこのルシアの信念と刑事の資質に感心するようになる。
誰よりも早く出勤し、そして誰よりも遅く退社する。休日であっても署に出向いて事件について調べる。
それはボッシュがいまだに行っていることだが、いつもそれを先んじて彼女が行っている。最後の方はボッシュがついていくのがしんどくなってきたと吐露するほどだ。

更に彼女はラッキー・ルーシーの異名があるように運にも見舞われている。まだ市警に入って5年目にも関わらず、酒屋での武装強盗の事件で、4人を相手にし、彼女のパートナーは撃たれて死亡したものの、彼女は2人を倒し、残り2人をSWATが駆け付けるまで釘付けにしたことで有名になった。その功績を買われ、彼女はいきなり刑事となり、未解決事件班に配属され、ボッシュの相棒となった。

ボッシュはこのルシアの話を聞いており、彼女が相棒となることを喜んだ。彼は若くして職務遂行中に人を殺し、相棒を喪った彼女の気持ちが同じ境遇を経験した自分には解ると思ったからであり、それを知っているからこそ彼女を上手く育て上げることができるだろうと思ったからだ。

つまりボッシュは自分を彼女に投影し、そして彼女を自分と同じような刑事、いやもしくは自分を超える刑事に育てようとしているのが文面からひしひしと伝わってくる。そしてそれを理解し、ボッシュの期待に応えようとするルシアの姿もまた健気に映り、なんともこの2人のやり取りが今までにない爽快感をもたらす。
なかなか相棒に恵まれなかったボッシュが退職間際でようやく自分と同じ価値観を持つ相手を得たことが読んでいるこちらも嬉しく思わされてしまう。

そしてそんな刑事の運はボッシュにも働く。捜査令状は自分に好意的な当番判事だったことで容易にもらえ、出張先のタルサでは地元警察に協力的で有能な捜査官に恵まれ、帰りのフライトはファーストクラスにアップグレードされるという幸運を得る。

私はしかしルシア・ソトが幸運の星の下にいるのではないと思う。
人は努力をすれば報われることを単に証明しているだけなのだと思うのだ。信念をもって何事にも取り組めば自ずと運はついてくることをルシアとボッシュの2人の捜査を通じてコナリーはメッセージとして載せているのではないか。
それは常に作品に真摯に向き合い、上質なミステリを読者に提供し、楽しませることに心を砕き、ボッシュという刑事を中心にして緻密な作品世界を描いてきたことが現在のベストセラー作家の地位まで自分を押し上げることになったことを作者自身がそれとなく述べているように思える。

メルセド襲撃事件。ボニー・ブレイ放火事件。この2つの事件は結局結び付きがないまま終わるがどちらもボッシュ×ルシアのコンビで真相に行き着くがその結末はいつものように苦いものだった。

どれも完全に割り切れない。特にその後の続きを読むに至っては。

悪はきちんと裁かれなければならないと云う信念をこの男は決して曲げない。それはルシアに告げることで彼は自分の信念を、刑事としての魂を引き継ごうとするかのようだ。

今回の結末は前途ある有望な刑事ルシア・ソトに事件解決の現実を教えるための物だったように思う。

ボッシュ2人が辿り着いた事件の結末についてルシアは複雑な思いを描く。彼女は自分を含め友人と保母を悲惨な目に遭わせた放火犯を何年経っても自分の手で探し出し、そして罪を償わさせること。それが彼女が警察官になった時に描いていた図だった。

悪は暴かれ、裁かれなければならない。

しかし物事はそんな単純に割り切れる物ではなかったことを彼女は悟らされる。胸の中に燃えていた思いの行き先は一気に燃え立ち、そして消失する者だと思っていたが、燻ぶり続け、心に熾り続けていくことを彼女は経験した。たとえそれが事件を解決したことになっても。

我々読者がミステリや物語に求める物は何か。
それはその時その人によって違うだろうが、明らかに大きな1つの共通項としてあるのは物事が解決し、爽快感をもたらされることだろう。

事件が起き、そこに謎があり、もしくは主人公がのっぴきならない境遇に陥って先行きが読めない状態にあり、それが主人公たちの行動によって見えなかった部分が明らかになり、収まるところに収まって物語が閉じられる。

それは我々の日常生活において起こること、世間で起こる現実の事件が物語で語られるようにすっきりとした形で終わらないからだ。

小説とは、物語とは率直に云えばその中身にどんなにリアルが伴っても、作り事、虚構に過ぎない。
しかしだからこそそこに割り切れる結末を求め、読者は日常生活で抱える鬱屈を解消するのだ。

しかしコナリー作品は決して100%の結末を我々に提供しない。なにがしかのしこりを常に残して物語は終わる。それはある意味リアルであり、もしくはある意味イーヴンであれば申し分ないと云う妥協、いや物事への折り合いをつける着地点を示しているかのようだ。

それが逆に読後感に余韻を残し、しばらく読者の胸に留まるのだ。言葉を変えれば読者の胸の中に物語が、登場人物たちが生き続けるのだ。

ボッシュがこの後も登場するのは我々は判っている。どのような形で我々の前に姿を現すのかは不明だが、再会するボッシュは、頭の先から爪先まで変わらぬボッシュであることだろう。


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燃える部屋(上) (講談社文庫)
マイクル・コナリー燃える部屋 についてのレビュー
No.205:
(9pt)

もやもやしつつもカタルシス

リンカーン弁護士シリーズも5作目を数えるようになった。前作『証言拒否』では民事訴訟を扱い、最後は地方検事長選に出馬するとの決意表明をして物語は閉じられた。
本書はその選挙の1年後に当たる。結局ハラーは選挙には破れ、再び刑事裁判を扱うようになった。いわば振出しに戻ったような形だ。

今回ハラーが扱う事件はアンドレ・ラコースというデジタルポン引きの殺人容疑の弁護で、奇妙なことに彼は殺害された娼婦当人からハラーが優秀な弁護士だと勧められたという。そしてその娼婦の名はジゼル・デリンジャー。ハラーは全く心当たりがなかったが調べていくうちにかつての依頼人グローリー・デイズことグロリア・デイトンであることが判明する。

私はこの名前をかすかに覚えていた。第1作『リンカーン弁護士』の中で麻薬所持で起訴されそうになっていたのをハラーによって助けられた売春婦でトラブルメイカー的な存在として書かれていた。そしてその後ハワイに送ってそこで過去と断ち切った生活を送っていると思われていた女性。しかし彼女は名を変え、アメリカ本土に戻り、また売春婦の仕事をしていた。

それがきっかけでハラーはラコースの弁護を引き受けることになる。そして調査を進めていくうちにこのラコースが無実であり、嵌められたことが明らかになってくる。グロリアが麻薬取締捜査官ジェイムズ・マルコのタレコミ屋、そして手先として飼われていたことが明らかになる。そしてグロリアによって身に覚えのない火器を自分の物だと証拠づけられ、終身刑で服役することになった麻薬王ヘクター・モイアの存在も浮かび上がりつつも、事件はこのマルコによって仕組まれた罠だったことが判明する。
つまり法の番人である麻薬取締局が今度の相手という巨大な相手をハラーはしなければならなくなる。

コナリーの作品の特徴の大きな1つとして過去の作品の因果が新たな事件に大きな要因として作用してくることが挙げられるが、今回もまたその例に漏れない。

上に書いたようにグロリアの初登場シーンは麻薬所持で起訴をされそうになったところをハラーに助けを求めるシーンだ。つまりグロリアは既に麻薬取締局の手先になっていたことが仄めかされている。
この何気ないエピソードの1つでこのような壮大な物語を描くコナリーの着想にまたもや唸らされた。

そればかりでなく、今回は原点回帰であるかのように第1作の登場人物がやたらと出てくる。

まずハラーの元調査官で事件の調査中に殺害されたラウル・レヴンの名。その名を想起させたのはその事件を当時捜査していたグレンデール市警殺人課の刑事リー・ランクフォードが再登場する。彼は刑事を辞め、検察側の調査官となっており、ラコース事件を担当する検察官ウィリアム・フォーサイスの調査官となり、ハラーの前に立ち塞がる障壁という重要人物になっている。

また運転手も2作目で雇われた元サーファー、パトリック・ヘンスンではなく、1作目に登場したアール・ブリッグスだ。彼は今回運転手以上の働きを見せ、ハラーのミーティングにも参加するようになる。

そしてハラーが1作目に使っていた保釈保証人フェルナンド・バレンズエラも登場する。

なぜこれほど1作目の登場人物が登場するのか?
それはハラーが前作の最終で立候補した地方検事長選に敗れたことに起因する。一旦は弁護士から検事の側へ移ることを決意しながらも叶わなかったハラーは民事弁護士ではなく再び刑事弁護士として再出発する。そしてこの地方検事長選の敗北で被った被害がハラー自身に留まることではなかったことも明かされる。これについてはまた後で述べよう。

一方でこれまでのシリーズで新たに加わったメンバーも更にキャラクターが濃くなり、シリーズとしての醍醐味も増してきた。

頼れる調査官シスコはもうハラーには無くてはならない存在でその有能ぶりを遺憾なく発揮する。高度な調査能力と腕っぷしを誇る彼はしかし、裏切者を容赦なく制裁する麻薬カルテルのボス、そして自分の利益のためならば無実の人でさえ罪を着せる冷酷な悪徳捜査官を相手にする今回の裁判で妻ローナはこの屈強な夫もラウル・レヴンのような危難に遭うのではないかと心配する。それはラウル殺害事件を捜査したランクフォードの登場が起因しているのだろう。

そしてブロックスことジェニファー・アーロンスンもハラーの片腕として申し分ない一人前の弁護士となっている。ハラーも自分を超えるのもさほど遠くないと云わしめるほど頼りになる存在だ。

そして今回初登場のデイヴィッド・“リーガル”・シーゲルを忘れてはならない。彼はハラーの父親の弁護士事務所の共同経営者で弁護の戦略を立てていた人物であり、またハラーの弁護士としての師匠でもあった。
50年近いキャリアを持つ彼はまさに生きる伝説の弁護士であり、あらゆる手法に精通した人物だ。『スター・ウォーズ』で云うところのヨーダ的存在だ。

またハラーの家族も出てくるが、あまりよろしくない状態となっている。
ボッシュとマデリンの親子がシリーズを経るにつれ、信頼を深めている一方、ハラーとヘイリーの親子関係は悪化の一途を辿っていることが書かれている。ヘイリーは悪人を弁護する父親の職業に嫌気が差し、またそれによって彼女自身も学校の友達から中傷を受けるようになって転校する被害を被るに至り、今まで隔週で水曜日と週末にハラーの家に泊る取り決めも事実上なくなっていた。更に地方検事長選で落選したために、ハラーを支援していた元妻のマギーは文書整理担当という閑職に追いやられ、心機一転ヴェンチュラ郡地区検事局に転職することになり、ますますハラーの住むLAから間遠になってしまう。

ハラーも悪人を刑務所に送り込む刑事のボッシュと悪人―といっても無実の人かもしれない人―を刑務所から釈放する弁護士という職業の自分とを比較し、その差について落胆をする始末だ。

しかしボッシュが刑事という職業に誇りを持ち、悪に制裁を加えることを使命と感じているように、ハラーも無実なのに刑に処されようとしている人を救う職業だと誇りを持って、仕事に臨めばこのような罪悪感に苛まれることはないのだ。

今回の事件でハラーが対峙する麻薬取締局捜査官ジェイムズ・マルコと彼と組む元刑事で検察側の調査員リー・ランクフォードは自分の目的のためならば平気で凶器や麻薬を仕掛け、恰もそれをターゲットの人物が所持していたかのように見せかけて不当逮捕を平気で行う悪徳捜査官だ。このような正義の名の下で自分の利己心を優先して無実の人に刑を与えようとする法の番人がいるからこそ、弁護士もまた必要なのだ。

本書は原点回帰のような作品だと上にも書いたが、それを踏襲するかのように本書ではラウル・レヴンに匹敵する犠牲者がハラーの仲間に出てしまう。

コナリーの作品には以前も書いたが3つの大きな要素がある。

1つは警察やその他捜査機関の連中が決して清廉潔白な人物ではなく、彼らもまた犯罪者になりうると謳っていること。

もう1つは娼婦が関わる事件が多い事。

そして最後の1つは過去の作品の因果が大きく作用していることだ。

正直3つ目の過去の因果については既に述べたのでここでは書かない。

やはり特徴的なのは1つ目と2つ目だ。1つ目はこの要素を作品に持ち込んだことでコナリーはいつも我々に驚きと何とも云えない荒廃感漂う読後感を与え続けていることだ。パターンと云えばパターンだが、これがまた不思議と盲点となり、そして常に苦い気持ちを抱かせてくれる。

もう1つの娼婦についてはボッシュが娼婦の息子であると云う設定から事あるごとに物語に登場する職業だと云っていいだろう。この頻度の高さは正直異常である。
前にも書いたかもしれないが、娼婦という職業を選ばざるを得なかった生活に貧窮した女性たちを描くことと、そんな社会の底辺でも逞しく強かに生きていく彼女たちを描くことでアメリカ社会の現実を知らしめようとしているようにも取れる。特に今回ハラーが裁判の調査の過程で知り合ったケンドール・ロバーツは元高級エスコート嬢から足を洗い、ヨガ教室の先生として生計を立てた女性で、過去を捨てて生きていく彼女の姿勢と美しさに魅かれ、彼は彼女と付き合うようになる。

また一方でケンドールと一緒に働き、今もエスコート嬢をしているトリナ・ラファティとの対比させることで変われる女性と変われなかった女性の有様をまざまざと見せつける。誰もがチャンスに恵まれていることではないことも現実的に突き付ける。

しかしコナリーがハラーをして娼婦のグロリアを「放っておけない女性」とし、また彼の新恋人に元娼婦を選んだのも彼なりにこの職業の女性たちにどこか親近感を抱き、そして亡くなっても歯牙にもかけられることのない彼女たちへエールを送っているのかもしれない。

さてここでちょっと話題を変えて私の心に留まったエピソードを書き留めておきたい。

ハラーによれば自身を主人公にした映画がヒットしたことでリンカーンに乗る弁護士が増えたようだ。従って自分の車がどれか解らなくなり、誤って他の車に乗り込むシーンさえもある。本当ならば実に面白いことだ。

また右脳と左脳との関係で人は自分の左手にいる人の意見に賛成するものらしい。これはちょっと試してみようと思う。

またハラーが日本酒好きになっていたことも明かされる。世界で日本酒が好まれ、現在消費が拡大しているが、まさかハラーまで飲んでいるとは。
いやこれは正確には作者コナリー自身の話ではないか。彼の写真は酒焼けしているかのように顔が赤いからかなりの酒飲みではないかと私は睨んでいるのだが。

さて本書のタイトル「罪責の神々」はハラーの父親が陪審員たちに与えた呼称だ。彼らは自分たちの生活基盤に基づいて罪を決める。従ってその判断基準は多種多様だ。いかにこの神々を説得し、納得させるかが裁判の鍵となるのだと。
それを意識してかハラーは陪審員の中のキーパーソンを意識して裁判を進める。自分の意を組む神を見つけ、そしてあるべき結果に導くようにと。

しかし今までの例に漏れず、今回の裁判も苦い結果に終わる。

しかし裁判も恐ろしいものだ。本来悪を罰するために行われる裁きが、弁護士、検事の口八丁手八丁で歪められていく様、また証拠不十分であれば罰せられない現実から、証拠を捏造して狙った獲物を刑務所に送り込もうとする捜査官も存在する。

またそれを隠匿するために麻薬を無実の人の家に忍ばせ、不当逮捕を企む。更には裁判で敗色が濃厚になると他の服役囚に襲わせ、無効化させようとする。

罪を裁くために行われる裁判が高等なロジックの上に成り立ち、また公平さを重んじるあまり、法律や規則にがんじがらめになって罰せられるべき者が罰せられず、無実の人が罪を着せられ、刑務所に送られるようになる。
手段が目的となっており、悪を征するために正義が悪を成すと云う本末転倒な社会に、システムになり、そしてそんな危険な思想が横行している。それが現代社会なのだ。

世の中全てが正しく解決されることは限らない。寧ろ現実世界はうやむやになって人々の記憶から忘れ去られる事件ばかりだ。
そんな世の中だからこそ我々は答えが出るミステリを読むわけだが、コナリーは実に現実のシビアさを突きつける。まあ、今日はこれくらいで良しとしようといった具合にはカタルシスを与えるかのように。

さてリンカーン弁護士という非常に特徴的なキャラクター設定で登場したミッキー・ハラーを通じてコナリーは時に弁護士側、検事側、刑事裁判に民事裁判と多面的にアメリカの法曹界を描いてきたが、ここに来てようやくシリーズの本流を刑事裁判に絞ることに決めたようだ。
本書の結びにはかつてのように刑事裁判を続けることへのハラーの疑問や悪を裁く側の検事長への立候補するなどと云った意外な展開、悪く云えばハラーの心情のブレがない。最後の決意表明はボッシュ同様に弁護士としての使命感に溢れ、まさに決意表明と云った感がある。

次作はまたボッシュと組んで事件に取り組むようだ。色んな犠牲の上に今の自分があると悟ったハラーの次の活躍が非常に愉しみだ。


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罪責の神々 リンカーン弁護士(上) (講談社文庫)
No.204: 2人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(10pt)

コナリー版白雪姫の結末はあまり苦い

ハリー・ボッシュシリーズに関してもはやシリーズ何作目と書くことは意味をなさなくなってきたようだ。
というのもコナリー作品は複数のシリーズが交錯しており、しかも主人公もシリーズキャラクターが、初期はサブキャラとして描かれていたが、最近では同じ比重で書かれてることからもはや1つの作品がそれぞれのシリーズの1作品として見なされるようになった。従って訳者である古沢氏もシリーズ○作目という表記をせずにコナリー作品25冊目という表記に変えているので私もそれに倣うことにしよう。

とかなり前置きが長くなったが、コナリー25作目である本書は作家デビュー20年目という節目の作品となった。

それを意識してか、内容も20年前にボッシュが関わったロス暴動に巻き込まれた女性外国人記者殺害事件の再捜査になっている。

しかしそこはコナリー、物語はそれだけに留まらない。20年目の25作目と作品数も数を重ねているにも関わらず、その精緻なプロットには全く以て舌を巻いてしまった。

いつもながら物語の発端はシンプルながら、事件の捜査が進むうちに判明してくるプロットは複雑で実に混み入っているが、謎が謎を呼ぶ展開は全く以て飽きさせない。

ロス暴動の最中の女性外国人ジャーナリストの死。20年後その未解決事件(コールドケース)に着手したボッシュは唯一の手掛かりだった現場で拾った薬莢からストリートギャングによる犯行であると焦点を絞り、決定的な証拠に欠け、解決の糸口が掴めないまま、ボッシュは上層部から捜査中止の圧力を受ける。

一縷の望みを被害者の記事を採用していたデンマークの新聞社と遺族である兄弟に託すが彼女が休暇ではなく、取材でアメリカに来ていたことが解るのみ。渡米するまでに彼女はドイツ、クウェートを経てニューヨークに入り、そこからアトランタを経てロスアンジェルスに辿り着き、そこで亡くなったことが判明するが、そこに何の手がかりも見出せない。

やがて一人の容疑者が浮かび上がるがそれも外れ。しかしそこからようやく凶器の銃が見つかり、それがやがて湾岸戦争の最中に起きたある犯罪へと繋がっていく。

たった1つの薬莢から切れそうな手掛かりの糸を辿り、そして事件の真相へと繋がっていく展開はまさにスリリングだ。

ここで注目したいのが事件の動機が湾岸戦争へと繋がっていくことだ。ボッシュシリーズの幕開けはヴェトナム戦争時代の戦友の一人ウィリアム・メドーズ殺害事件だった。つまりそれはハリー・ボッシュという男がヴェトナム戦争のトンネル兵をしていた帰還兵であることを強く意識した幕開けであり、その後もこの元ヴェトナム従軍兵という過去はボッシュの中のトラウマでありつつ、闇を見つめ続ける宿命として描かれる。

そしてこの20年目の作品で再び扱われるのは戦争に纏わる忌まわしい過去。しかし既に21世紀になった今、戦争はもはやヴェトナム戦争ではなく湾岸戦争なのだ。この20世紀末に起きた湾岸戦争に従軍したある一隊、カリフォルニア州兵部隊が起こしたスキャンダルが事件の正体なのだ。それはやはり20年目の25作目という節目を意識した原点回帰的作品ことの証左でもある。

本書のタイトルは原題と全く同じ。このシンプルな題名は今では航空機に内蔵された事故が起きた際のフライト・データ全てが記録されている機器、ブラックボックスで有名だが、本書もそれに擬えられている。

ボッシュが作中で述べるように、かつて彼が若き頃ロス市警の強盗殺人課の刑事だった時の相棒フランキー・シーハンがたびたび漏らしていた、殺人事件の捜査に全てが明るみになるものの存在を指し、それを見つけることが解決のカギとなる。
それまでの作品でも色々なブラックボックスが登場したが、本書のそれは実に意外な形で登場する。それについては後でまた述べることにしよう。

さて私が本書のタイトルを刊行予定で見た瞬間に思ったのは、久々にコナリー作品のタイトルに「ブラック」の文字が躍ったということだ。

初期のコナリー3作品は原題、邦題それぞれに意識してこの「ブラック」が使われていた。

1作目の『ナイトホークス』の原題が“The Black Echo”、2作目が邦題、原題ともに『ブラック・アイス』、3作目は邦題が『ブラック・ハート』と、原作者、訳者ともにボッシュの持つ、ヴェトナム戦争帰還兵という経歴に由来する、心の奥に蟠る暗い情念を意図してこの「ブラック」が使われていた。

そしてそれから18年(原書では19年)を経て久々にこの「ブラック」の文字を冠したのは勿論作者としても意識的だったことは間違いない。

なぜなら本書は作家生活20年目の集大成的な作品の趣を備えたオールスターキャスト登場と上に書いたようにボッシュの原点回帰的な内容になっているからだ。

まず物語の冒頭ではハリーがハリウッド分署で働いていた時のシーンだ。従って元相棒ジェリー・エドガーとの捜査が語られ、懐かしさを覚える。

また上に書いたように題名の基になっているのはハリーがハリウッド分署に移る前にロス市警の強盗殺人界にいた時の相棒フランキー・シーハンであり、彼は『エンジェル・フライト』の事件で陰謀に嵌められ、もう既にこの世にいない。

また元未解決事件班の班長だったラリー・ギャンドルは強盗殺人課を統括する警部に昇進しており、ボッシュは彼にかつてデンマーク語を翻訳した警官について問い合わせをする。

またキズミン・ライダーは前回のアーヴィングの事件で出世し、ウェスト・ヴァレー分署の警部となっていることが明らかになる。そしてその事件の後、一切口を利いていないことも。

亡き父親J・マイクル・ハラーの墓参りにも行き、そこで『シティ・オブ・ボーンズ』で虐待死したアーサー・ドラクロワの墓へも行く。レイチェル・ウォリングに銃のシリアルナンバー特定のために助けを乞い、とまさにそれまでのボッシュシリーズの足跡を辿るような趣を所々感じる。

一方で前作で知り合ったハンナ・ストーンとの仲も続いているようで、既に娘のマデリンとは面会済みで今回ボッシュはスタニスラウス郡の単独捜査で数日留守にしている間、ハンナに娘の面倒を見ることすら頼んでいる。
しかし一方強姦罪で服役中の彼女の息子ショーンと刑務所で面談したことで2人の関係に暗い翳が落ちそうな予兆を孕んで物語は終わる。

そう、そしてもはやシリーズのオアシス的エピソードとなっているのがボッシュと娘マデリンとのやり取りである。
ボッシュは更に着々とマデリンに刑事としてスキルと心得を伝授していることが描かれる。今回はポリス・アカデミーで行われているフォース・オプション・シミュレーターで実際の現場さながらの緊迫した状況の中での警察としての判断と狙撃の正確さを問われる訓練を行う。狙撃の腕前と判断はもはや凡百の警察官をしのぐ技能をマデリンは見せるが、唯一謝ってキャビンアテンダントを狙撃してしまったケースに意気消沈する。
やはりまだティーンエイジャーの彼女には実際さながらの命のやり取りを行うシミュレーションを行うのには早すぎたようだが、その時に抱いた思いは今後彼女が警察になった時には決して忘れない教訓として活きることだろう。

他にもボッシュが娘をいじめている男子がいることに心を痛めていることや娘が自分の誕生日にビールを買っていたことに対して娘が偽造IDで成人だと偽って買ったのではないかと勘繰り、勝手にバッグを調べているところを見咎められ、気まずくなるところなど、親子の少し不器用で子煩悩なボッシュとのやり取りが実に面白い。このエピソードが胸に心地よく響くのは娘マデリンがボッシュを父親として好いていることが解るからだ。野獣のようだったボッシュにとってマデリンはこの上もなく大切な存在であり、そしてマデリンも父親を一人の刑事として尊敬していることが更に物語に厚みをもたらしたように思える。

そして今回掘り起こされる事件はこのロドニー・キング事件で暴徒と化したロスアンジェルスの只中で殺害された女性外国人記者の死だ。
もはやコナリーにとってロドニー・キング事件について語ることはライフワークと化しているようだ。この事件が起きたのは1992年でコナリーが作家デビューした年でもある。そういった意味でも今もアメリカ社会に蔓延る人種差別問題を語るためにもコナリーにとってこの事件は忘れずに語るべき事件となっているのかもしれない。
今回もそのロス暴動から20周年の年にギャングに殺された白人女性の捜査をしているボッシュを快く思わない元同僚の本部長マーティン・メイコックに捜査の一時保留を命ぜられる。これもまた一種の人種差別だ。

そしてやはり昨今のテレビ刑事ドラマを意識してか、今回もCSIばりの最先端の科学捜査が紹介される。それは削られた銃のシリアルナンバーを浮かび上がらせる方法だ。
いやあ読者を愉しませるためには貪欲なまでに昨今の流行までをも取り入れるコナリー。全く卒がない。

そして本書が原点回帰的作品であることのもう1つ大きな理由は今回の犯罪が湾岸戦争帰還兵によるものだからだ。

粘り強いボッシュが事件を解決できるのは一旦原点に戻ることを厭わないからだ。彼が事件を再検証する時はもう一度原点に戻って事件のファイルをつぶさに読み返す。それはまさしくコナリー自身そのものを指しているように思える。

コナリーの作品が面白いのは過去の因果がボッシュの現在に及ぼしていることだ。それはつまり過去にこそ作品の種は蒔かれており、それを忘れずにコナリーは育つのを待ち、そして時が来た時に刈り取っているからだ。そうすることで物語と作品の世界に厚みが生まれ、そしてハリー・ボッシュを、登場人物たちに血肉を与えることに繋がっている。それがシリーズに濃いドラマを生み出し、そして常に傑作レベルの水準を保っているように思える。
こう書くとコナリーと同じようにすれば誰もが傑作を掛けるのかと勘違いしてしまうが、そうではない。そういう眼を持っているからこそ、このコナリーという作家は優れているのだろう。

また遅まきながら25作目において今回痛烈に気付いたのはボッシュが相手にしているのは法ではなくあくまで人だということだ。

無慈悲なまでに殺された人がいる。
自分の都合で人を殺した奴がいる。
その人が殺されたことで哀しむ人がいる。
そんな人達を目の当たりにし、相手にしてきたからこそ、ボッシュは正義に燃えるのだ。

彼は悪に対して異常なまで憎悪する。悪事を働きのうのうと生きている輩に対して鉄槌を落とすことを心から願っている。
従って犯人を捕まえるためには多少のルール違反も厭わない。そうしないと捕まえることのできない悪人がこの世にいるからだ。

今回の捜査も際どい行為を行う。
休暇を取り、当時の事件関係者が住まうスタニスラウス郡のモデストに単独捜査をするために。そして彼は容疑者一味の中でウィークポイントと思われる、事件のことを後日電話で偽名で尋ねてきたレジー・バンクスに焦点を当て、ホテルに監禁し自白を強要する。

そんな綱渡りをするのも全て殺された人の、そして遺された人たちの無念を晴らすためだ。

今回新しく未解決事件班の班長になったオトゥールが上司からの圧力をそのまま部下に伝え、世間体を重んじ、部下の出張や必要経費について厳しい目を配り、そして過剰なまでにルールから逸脱しようとする行為を取り締まるのに対してボッシュは強く反発する。警察は上司への点数稼ぎや報告するために存在するのではなく、被害者や彼らの家族のために現場で事件を解決するためにいるのだと。

最後事件が解決したことを報告するために被害者の遺族のいるデンマークへの出張をオトゥールから断れる。もう20年も前のことだから必要ないとの理由で。

しかしボッシュは電話越しにその被害者を殺された無念の怒りを感じとる。事件はまだ終わっていないのだと云うことを。

ボッシュは事件を解決する。それは犯人が解らないまま事件が葬り去られる遺族の無念を晴らすためであると同時に悪がのさばっている現実を良くしようとするためだ。
しかし犯人が逮捕されても被害者遺族の無念は続いたままであることをボッシュはその都度思い知らされるのだ。
それでも彼が犯人を追う。“それが私たちのしていること”という信念に従って。

その被害者の北欧人特有の色の白さから白雪姫事件と名付けられた今回の事件。毒リンゴで眠らされた白雪姫は七人の小人に連れられた王子様のキスで目覚めるが、彼女アンネケ・イエスペルセンは逆に消されてしまった。
そんな彼女の事件を掘り起こし、5人の兵士たちに目覚めさせたのはボッシュという王子と呼ぶには泥臭い刑事だった。

事件は解決したが童話のように幸せな結末とはならなかった。
無念が、犯人への怒りが遺族とボッシュ自身にも残ったままだった。
これがコナリー版白雪姫。殺人事件にハッピーエンドはないと痛烈に突き付けられた思いがした。


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ブラックボックス(上) (講談社文庫)
マイクル・コナリーブラックボックス についてのレビュー
No.203: 5人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(10pt)

ファン、怖い…

私も映画化作品を観たこともあり、またガーディアン紙が読むべき1000冊の1作に選ばれた、数あるキング作品の中でも1,2を争うほど有名な作品。
映画も怖かったが、やはり小説はもっと怖かった。

説明不要のサイコパスによる監禁物であるが、驚かされるのが作品のほとんどが監禁状態で語られることだ。しかも物語の舞台は95%以上が狂信的なファン、アニー・ウィルクスの家で繰り広げられている。

限られたスペースで物語が繰り広げられるキング作品は先に書かれた『クージョ』が想起されるが、あの作品もメインの舞台となる車の中での監禁状態に至るまでの話があった。
しかし本書は始まって5ページ目には既にアニー・ウィルクスの部屋にいるのである。文庫本にして500ページもの分量をたった1つの部屋で繰り広げるキングの筆力にまず驚かされる。

とにかく主人公ポール・シェルダンを監禁し、自分だけの新作を書かせる熱狂的なファン、アニー・ウィルクスが怖い。

元看護婦でもある彼女は夫と離婚して1人ひっそりと町の外れの一軒家に住む女性。彼女はポール・シェルダンの小説の熱狂的なファンだが、彼が書いているミザリー・チャステインという女性を主人公にしたシリーズ物だけを愛読している。彼女がかなりの躁鬱症であることが次第に解ってくるが、それだけでなく非常に残酷で厄介なサイコパスであることが物語が進むにつれて明らかになってくる。

彼女は雪嵐に見舞われて、交通事故に遭って瀕死の状態だったポール・シェルダンを助ける。彼は事故によって両足に重傷を負い、歩くのもままならない。彼女は元看護婦であり、治療となぜか大量に薬を所有しているため、献身的に看病する。
九死に一生を得たポールは感謝しつつもしかし主人公はなぜこの女性が一向に病院に連絡しないかを訝しむ。いや、意識を取り戻し、彼女と最初に話した時点でこの女性がまともではないことを悟る。

そこからはポールの災難、いや災厄の日々の始まりだ。

このアニー、とにかく自分の思い通りにならないとすぐに癇癪を起す女性だ。
そして彼女は狂人でありながら理性も備えており、ある一定の自分なりのルールに従って生きていることも解ってくる。

例えば彼女は無断でポールの鞄の中を物色し、そこに彼が2年がかりで仕上げたばかりの渾身の新作『高速自動車』の原稿を勝手に読むが、その中にある財布の中の金は取らない。

また一ファンとしてミザリーの続編についてアイデアを出すが、それを強要したりしないし、また早く続きが読みたくなっても、鞭打って書かせるわけでなく、作者ポールが作品を書きやすいように色々と世話を焼いたりする。

しかし上に書いたように彼女はサイコパス。それも長続きはせず、突然虚ろになったかと思うと、憮然としてポールを見捨てたり、またポールが笑うと自分が嘲笑われているように勘違いし、ポールに嫌がらせ、もしくは体罰を施すのだ。その拷問とも云える仕打ちがまたすさまじい。

もう痛々しいどころの騒ぎではない。これほどまでに人に執着し、自分の思い通りにならないことに癇癪を立てる人がいただろうか。
いや、いるのだ、実際この世には。

愛。
それは何ものにも代え難い感情で困難に打ち克つ力として愛をテーマに人は物語を書き、詩を書いて歌にする。人が誰かと一緒になるのも愛あればこそだ。

しかしこの強い感情が実は最も人間の怖さを発揮することになることを本書は知らしめる。

アニー・ウィルクスはポール・シェルダンの書くミザリーシリーズという小説が大好きで大好きで次作が出るのを待ち遠しくしていたのに作者がこの主人公を殺してしまったから、それが許せなかった。
自分の好きな作品を返してほしい。そして彼女にはそれが出来た。なぜならその作者が満身創痍の状態で自分の家にいたからだ。

彼女は献身的に重傷の作者を介護し、自分に逆らうとどういう目に遭うかを知らしめるために彼を支配した。

それもこれも自分の大好きなミザリーシリーズの、自分のためだけに作者が書いてくれる続きを読みたかったからだ。

ファンというものは有難いものだが、一方で恐怖の存在にもなりうる。
そしてこれはただの作り話ではない。キングが遭遇したある狂信的なファンの姿なのだ。

そして面白いのはこの事実に基づいて書かれた作品でありながら、本書でも他の作品とのリンクが見られることだ。
まず主人公ポール・シェルダンの母親が彼が12歳の頃に一緒にボストンに行く隣人ミセス・カスプブラクは『IT』に出てくる喘息持ちの少年エディのあの過干渉の母親のことだろう。

またアニーが殺害したアンドルー・ポムロイが絵に描こうとしたホテルは『シャイニング』の舞台になったオーヴァールックで『シャイニング』の事件のことが触れられる。

つまりキングは自らの実体験に基づいた話もまた彼の作り上げたキング・ワールドに取り込むのである。それは恐らく自らの経験を現実から切り離す必要があったからかもしれない。

これがもしキング自身が抱いたトラウマだったら、彼は本書を著すことでトラウマを克服し、解消しようとしたのではないか。
つまり彼は自分の紡ぐキング・ワールドに狂信的なファンの幻影を封じ込めようとしたのではないか。

そう、忘れてはならないのは本書がサイコパスによる監禁ホラー物だけの作品ではなく、小説家という職業の業や性を如実に描いた作品でもあることだ。

上述したように本書は95%がアニー・ウィルクスの家で繰り広げられるが、この長丁場を限られた空間で読ませるのは狂えるアニーのエスカレートするポールへの仕打ちとそれに対抗するポールの生への執着だけではなく、ポール・シェルダンという作家を通じて小説家の異様なまでの創作意欲、ならびに創作秘話が語られることも忘れてはならない。

とてつもなく非人道的な仕打ちをうけながら、なおもミザリーの新作を完成させようとする彼は作者キングの生き写しだ。

最初はどうにか助かりたいと思って苦痛を抑えるために屈辱的なことも敢えて行った彼が次第に回復するにつれ、自分の命を繋ぎ留めるミザリーの新作に次第にのめり込んでいく。今までファンのためだけに書き、自身では早く終わらせたくて仕方がなかったミザリーがアニーという狂信者によって続編を書くことを強要され、文字通りその身を削って命懸けで案を練るうちに彼の中に今までになく充実したミザリーの物語が展開するのだ。それはさながら極限状態から生まれたアイデアこそが傑作になりうるといった趣さえある。

一度始めた物語は最後まで書きあげたい、自分の頭にある物語を形あるものとして残したい。
満身創痍の中、必死に『ミザリーの生還』に取り組むポールはキングそのもの。

そしてそこここに挿入されるポールが小説を書くことに纏わるエピソードもまたキング自身のそれだろう。

ある駐車場でそこの係員が鉄梃で車のドアを開けようとしたのを見て2,3ブロック歩くと頭の中に1人のキャラクターが生まれていた、物を書くときには目の前にある向こう側の世界の穴に入り込む、昼寝をしているといきなり爆弾めいた閃きが起こり、メモを書き留める手ももどかしくなるほどアイデアが泉のように沸く、本当は他人のために小説を書くわけではない、全ては自分が書きたいから書くのだ、そんな自己本位な態度が空恐ろしいから本の初めに献辞をつけるのだ、等々。

本書を著した1987年頃、キングはアルコール依存に加え、薬物依存症に陥っていたと云われている。アニーがくれる痛み止めを欲するポール、そして最後に涙を流しながらインスピレーションに従い、タイプを打つポールの姿はキングそのものといっていいだろう。
話を続けること、それしか小説家は前に進めないのだ、と自身に云い聞かせているように思える。

そしてアニーが獲得した状況はまたファンにとって理想的な物だろう。

自分だけにポール・シェルダンという作家が自分の好きなミザリー物の新作を書いていること、新しいページが出来るたびにそれを読む恩恵にあずかっていること、そして早く続きが読みたいこと、時に自分からアイデアを出し、それが採用される喜びなどからポールを繋ぎ留める。
それは一種彼女にとっての愛情であり、恐らく同様のことを思うファンもいることだろう。

支配欲の強い彼女は相手が自分に逆らうことを忌み嫌う。
自分がこれほどしてやっているのに何が不満なのか?
なぜこうまでしているのに自分の許から離れようとするのか?
彼女はいつも自分の行為に対して相手に代償を求めているのだ。それも自分がした以上の代償を。
だから自分の意に反することを相手がやられると裏切られた気持ちになり、それによって生じる憎悪が生じる。
しかしこれはごく普通の人間が抱く感情でもある。ただ彼女の場合はそれが強すぎ、そして普通の人が超えられない一線を超えることが出来るだけなのだ。

作中で頻りに語られるようにポール・シェルダンとアニー・ウィルクスの関係は自分の命を繋ぎ留めるために王へ千夜一夜話を続けたシェヘラザードのそれと同じなのだ。つまりこれはキング版アラビアン・ナイトなのだ。

そのアラビアン・ナイトに相当するのが作中でポールが書くミザリーの新作『ミザリーの生還』。本書ではこの新作もまた断片的に作中作として挿入される。

本書のタイトル『ミザリー』はこのポール・シェリダンが続編を強要されるシリーズ作品の主人公の名前ミザリー・チャステインから採られているように思えるが、やはりポール・シェルダンが出逢ったこの途轍もない悲惨な状況を示していると云える。
この決していい意味では使われない単語を名前に冠する主人公の物語は本書では再生の物語として書かれる。それは今まで書けなかった傑作となるミザリーの新作。悲惨な状況が傑作を生む皮肉を表している。
そして当時薬物依存という最悪の状況に陥っていたキング自身の心理状態をも表しているようだ。

またアニーのような人物を生まれるのは物語に対して人が感情移入をするからだ。物語の主人公、つまり虚構の存在であるのに、それが次第にそれぞれの読者の心に住まい、恰も現実の世界の住民となっていくことが作中ポールの独白で語られる。

シャーロック・ホームズを葬り去った時にファンたちのみならず実の母親からも猛抗議に遭い、結果、ホームズを蘇らせ、その後数十年間シリーズを続けたコナン・ドイルの話から自分の好きなシリーズキャラクターが死んで喪に服したファンの話―そういえば日本でも力石徹が死んで葬式を行ったファンがいた―、作品の中で強烈に印象付けられたシーンのせいで眠れなくなる、云々。

単に一人の人間が想像した人物・世界がもはやその作者のみものではなく、共有されることで作者の手を離れた1つの人格、世界として認識されてしまい、そしてそれぞれの心の中にそれぞれの世界が築かれるのだ。それが物語のマジックである。
つまりこのマジックにアニーは取り込まれてしまったのだ。そしてそれをマジックの生みの親である作者が逆にファンによって虐げられる皮肉が描かれているのだ。

狂信的なファンによる監禁ホラーというシンプルな構造の本書は上に書いたようにファン心理の怖さ、そして自己愛が強すぎる者の異常さと執念深さのみならず、小説家という人間の業、更に物語が人から人へと広がっていくマジックなど、非常に多面的な内容を孕んでいたが、それだけでは終わらない。

実はここに書かれていることが現実となるのである。

交通事故に遭い、満身創痍になったポール・シェルダンは本書を著した12年後のキング自身の姿である。彼自身も車に撥ねられ、重傷を負い、そして片脚に障害を負う。

この作品が他のキング作品と異なる怖さを秘めているのは、そんな現実とのリンクが―しかも未来を暗示していた!―あるからこそなのかもしれない。

キングは本書をフィクションとしてキング・ワールドに封じ込めたのではなく、実はキング・ワールドが現実にまで侵食してしまったのだ。

一人の作家が描いた世界がとうとう現実世界へ波及した稀有な作品として本書は今後私の中で忘れらない作品となるだろう。


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ミザリー (文春文庫)
スティーヴン・キングミザリー についてのレビュー
No.202: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(10pt)

秋は実りの季節

四季シリーズ第3作目の本書は森作品ファンへの出血大サービスの1作となった。

今まで真賀田四季を主人公に彼女の生い立ちを描いてきたこのシリーズだが、3作目に当たる本書はそれまでと異なり、なかなか真賀田四季本人が登場せず、寧ろ犀川創平と西之園萌絵とのやり取りと保呂草潤平と各務亜樹良の再会とそれ以降が中心に語られ、S&Mシリーズの延長戦もしくはVシリーズのスピンオフといった趣向で、主人公である真賀田四季は全283ページ中たった10ページしか登場しないという異色の作品だ。

ファンにとって嬉しいのは両シリーズのオールキャスト勢揃いといった内容になっていることと今まで断片的であったS&MシリーズとVシリーズのリンクがもっと密接に結びつく内容になっていることだ。更に両シリーズのみならず、それまでの森作品のほとんどが結びつくようなものになっている。

本書の主題とは犀川が『有限と微小のパン』で語られたユーロパークで起きた事件以後、真賀田四季とコンタクトを取ったことが明かされ、それによりさらに真賀田四季への理解と疑問が深まった犀川があれほどの天才が娘を殺害してまで妃真賀島を脱出した目的を探ることである。

そしてそれを探るべく犀川は当時四季の部屋に残されていたレゴブロックに手掛かりがあると睨む。そして残されたパーツに不足分があること、ブロックで作られた兵隊の人形に隠されたメッセージに従い、イタリアのモンドヴィに萌絵と飛ぶ。

一方保呂草は各務亜樹良の行方を探るために彼女が接触していると思われる真賀田四季の足取りを追っており、彼も同じブロックの兵隊に隠されたメッセージを見つけ、イタリアに飛ぶ。そしてミラノで各務を見つけることに成功するが、四季からメールを受け取った各務と共に同じくモンドヴィに向かう。

その地こそが犀川と萌絵、そして保呂草と各務、即ち両シリーズのランデヴーポイントとなる。

しかし常々思っていたことだが、S&MシリーズとVシリーズ、やはり意識的に森氏はその趣を変えていたことが両シリーズが邂逅する本書で如実に判った。

S&Mシリーズが西之園萌絵の生い立ちに暗い翳を落としつつもその天然な天才少女とこれまた浮世離れした大学の助教授という組み合わせでライトノベル風に語られているのに対し、Vシリーズが小鳥遊練無と香具山紫子というコメディエンヌ(?)を配しつつも、登場人物間の関係に纏わる恋愛感情の縺れや諍いを描き、更に保呂草という犯罪者の暗躍も描いた少し大人風なダークの色合いを湛えており、それがそれぞれのパートで見事に対比できるのである。

まず犀川と萌絵の登場パートはシリーズ終了以降の2人が描かれる。それには短編集『虚空の逆マトリクス』に収録されていた「いつ入れ替わった?」で語られた犀川が婚約指輪を渡すエピソードも語られ、犀川と萌絵の結婚生活が始まりそうで始まらない状態で物語は進む。真賀田四季を追ってイタリアへと飛ぶが萌絵は婚前旅行と思い、嬉々としているが、犀川はようやく真賀田四季に逢えると思い、喜んでいるといったギャップがあり、結局そこでは何も恋愛沙汰は起きない。

一方保呂草と各務のパートは犯罪者の2人らしく大人のムードで話は進む。まあこれが実にスマートで、一昔前のトレンディドラマを観ているかのように台詞、仕草どれをとっても洒落ている。

そして保呂草は各務との再会を果たすために色んな人物と出逢ったことを後悔する。特に愛知県警の本部長を叔父に持つ西之園萌絵との再会は彼に日本の地を踏むことを半ば諦めさせるほどに。

ジャーナリストである各務が書くべき記事や原稿が沢山あると述べ、保呂草が自分でも何か書こうかなと零すシーンは彼がその後自分の一人称で始まるVシリーズを執筆することを仄めかしているようで面白い。

そしてやはり触れなければならないのは西之園萌絵と瀬在丸紅子、2大シリーズのヒロイン同士の邂逅だろう。

瀬在丸紅子は無言亭からどこかにある、ある金持ちによって移築された歴史建造物に管理人として住んでおり、使用人だった根来機千英は既におらず、1人で暮らしているようだ。

萌絵は犀川から婚約指輪を貰ったことで挨拶に行くために訪れたのだが、そこで萌絵は彼女から人生訓を授かる。

犀川創平が好きでたまらず、自分の物にし、自分の方だけを向いてもらいたい萌絵は、つまり若い女性にありがちな独占欲とも云うべき愛情を強く抱いている。

それに対し、紅子は一方向にしか風が来ない扇風機を愛するよりも全てに光を当てる太陽を愛でるように愛しなさい、それが許すということですと諭す。

私はこれを読んだ時にかつて祖父江七夏と犀川林を巡って醜い女の争いを繰り広げていた紅子がここまでの悟りの境地に至ったのかと驚き、そして感心した。

その言葉によって西之園萌絵は少し救われた気持ちになる。

面白いのは西之園萌絵よりも年上で大人の女性である各務亜樹良もまた同じように独占欲が強いことだ。
彼女はモンドヴィの教会堂の壮麗さに感心する保呂草に自分はこれが自分の物にならないから駄目だと云う。つまり彼女は欲しい物は手に入れたく、そしてそれが出来た人間だったからだ。そして彼女が今欲しいと思うのは保呂草潤平と名乗るこの危険な男だ。西之園萌絵と各務亜樹良は似て非なる女性でありながら実は根っこの部分では同じ精神性を持った女性といえるだろう。

しかし各務はこの後どのように変わるかは解らない。彼女は彼女のままで、いや少し保呂草という支えを欲する弱さを感じているのを自覚しながらも強い女性であり続ける芯を備えた女性として生き続けるのに対し、西之園萌絵はこれから世間知らずの天才少女から脱皮し、1人の女性としての成長していくことが語られる。

まず印象的だったのが西之園萌絵が真賀田四季を畏れており、そしてまた嫌っていることが明かされる。

彼女の物語の始まりである『すべてがFになる』の始まりは西之園萌絵と真賀田四季の会談である。彼女は現代最高の天才と称される真賀田四季と逢うことを愉しみにし、そしてその会談を愉しんだ女性だ。しかしその後シリーズ最終作『有限と微小のパン』で再び彼女と対面した時に四季の凄まじいまでの天才性に慄いてしまったのだ。

それまで高速の計算能力を持っていることが自分の才能であり、それを自覚しながらもそれを拠り所にしているとは考えていなかったが、全てにおいて自分を凌駕する存在である真賀田四季と逢ってから自分がその長所にしがみついていたことを自覚させられるのである。
つまりそれは自分がそれだけの存在であると卑小化することに繋がり、彼女は挫折を味わう。そしてその天才が関心を持つのがもう1人の天才犀川創平であり、犀川もまた真賀田四季に並々ならぬ関心を寄せていることが嫌で堪らないのだ。それを乗り越えさせてくれたのが前述の瀬在丸紅子との邂逅だった。

そして彼女が修士課程を終え、ドクタとなり、犀川や助手の国枝桃子から指示を受けて研究を続けていた立場から自分でテーマを決め、大学生や院生に指示を出す立場に変わったことで自分の立場、立ち位置を理解し出したことだ。
それは即ち集団から1つ抜け出た存在になることを自覚し、それによって彼女に責任が生まれる。それは即ち仕事に向き合うということだ。ようやく彼女は社会人としてスタートラインに立ったと云える。

また犀川が好きなことをしていたら仕事ではない、嫌なことをするからお金が貰えるのだと云う件はまさしく私が常日頃思っていることだ。
好きなことをするにはお金が必要。それが嫌であるけど、それを乗り越えるのは好きなことをやるという原動力があるからだ。

しかしこれに対して余りある財産を持つ萌絵がすべて面倒を見るから働く必要はないと云うと犀川はそれなら大学を辞めるという。

これについては私も同じ心情だったが、最近では変わってきている。
多分本当に好きなことばかりやると飽きてくるのではないかと思い始めている。何か外に出て誰かのために働き、そして終わった後、自分のために時間を使う。これが退屈せずに生きることではないかと思っているのだ。

しかしこの西之園萌絵の足取りを通じて森氏は1人の人間の成長の軌跡を語ると同時に、我々読者に人生訓を説いているようだ。本書は大学教授という社会人でありながら執筆活動を続けていた森氏ならではの示唆に富んだ内容が盛り込まれている。

さて秋はやはり実りの秋と呼ばれる収穫の季節だ。まさにその季節が示す通り、収穫の多い作品となった。

前作で保呂草の許に飛んだと思われた各務は逆に保呂草に捕まり、その秘めたる恋を始まらせる。

西之園萌絵の収穫はやはり犀川との婚約だろう。そして彼の母親瀬在丸紅子との会談で得られた人生訓もまた大きな収穫だ。

犀川創平は妃真賀島の事件に隠された真賀田四季の動機がようやく明かされた。

まさに収穫の1冊である。

本書はシリーズ中異色の作品と書いたが、春編と夏編で全ての始まりとなった作品『すべてがFになる』の“それまで”の四季を描き、本書から“それから”の四季を描いていることから、もしかしたら最終作もまた犀川と萌絵の2人を中心にして、そこに保呂草たちが絡む展開になるのかもしれない。

ともあれ起承転結の転に当たる本書は確かにシリーズにおける大転換を見せた作品だった。これは最終作の冬編にますます期待値が上がるというものである。愉しみにしていよう。


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四季 秋 (講談社文庫)
森博嗣四季 秋 についてのレビュー
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(10pt)
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色んな“DROP”の物語

またしても過去がボッシュを苛む。
今回ボッシュが担当するのは彼の宿敵で目の上のタンコブだったアーヴィン・アーヴィングの息子の墜落事件。しかもアーヴィングが強権を発動してボッシュを捜査担当に指名する。

この水と油の関係の2人。
これほどシリーズを重ねながらもアーヴィングの影はなかなか消えない。振り子のようにボッシュとアーヴィングはお互い離れ近づきを繰り返す。

しかもアーヴィングは市議会議員としてロス市警の残業代の予算を大幅カットするのに成功していた。何らかの取引を本部長にしたことでボッシュを捜査官に指名したことが判ってくる。

相変わらずだが、アーヴィングという男は何を考えているか解らない男だ。唯一解っているのは自分の得になるためだったらどんなことでもやる男だ。
その行動原理は独特で、実に政治家に向いていると云えるだろう。微笑と寛容で近づいてきたかと思えば次の時点では冷徹なまでに突き放し、もしくは職さえも奪おうとする。己の考えが全て正しいと思っている、何ともイヤなヤツなのだ。

そしてボッシュはもう1つ事件を担当する。いや本来ならばそちらが担当する事件だったのをアーヴィングによって強引にねじ込まれたのだが。

1989年に起きた未成年女性強姦殺人事件に残された血痕のDNAがヒットし、クレイトン・ペルという男が浮上したが、なんと事件当時彼は8歳に過ぎなかった。
この鑑定が担当刑事の証拠取り扱い不注意によって生じた結果なのか、それとも本当にそれがクレイトン・ペルの物であるのか、そして彼が事件の犯人なのかを探るのがボッシュの任務だ。

さて今回の原題“The Drop”は色んな意味を含んでいる。

最初のDROPはボッシュが申請を認められる定年延長選択制度(DROP)の略称だ。
つまりボッシュは定年を迎えながら更に刑事を続けることが出来るようになる。但し彼が申請したのは遡らずに5年であったが、遡っての4年。即ち定年を9カ月過ぎてからの承認であり、残り39ヶ月がボッシュの刑事人生となることが明示される。

次のDROPはボッシュとチューが担当することになったコールドケース、リリー・プライスという女性強姦殺人事件だ。彼女の首に付着していた滴下血痕(DROP)のDNA鑑定により、クレイトン・ペルという性犯罪者が浮上するが、事件当時彼はたったの8歳だった。

第3のDROPはそのものズバリでボッシュが図らずも担当することになるアーヴィン・アーヴィングの息子ジョージの墜落事件だ。
アーヴィン直接指名での担当となることでその事件を担当していたハリウッド分署の刑事からも白い目で見られる。そして一見自殺と思われた墜落死が調べていくうちに他殺の線が濃くなる。しかもそれが警察関係者である線も濃厚になっていく。

つまりまたもボッシュは警察同士の軋轢に巻き込まれるのだ。まさにアーヴィン・アーヴィングはボッシュの人生にとってのジョーカーのようだ。

さて私がシリーズ継続に当たって懸念していたマデリンとの関係はどうにか上手く行っているようだ。本書ではボッシュなりの娘との関わり合い、いやボッシュ流子育てが垣間見れる。

職業柄、家庭にも危険が及ぶ可能性があるため—実際、『判決破棄』ではハラーの裁判相手がボッシュの自宅の前で待機するという事態が発生した—、ボッシュは娘に自分で自身を護る術を教える。

自宅に鍵を掛けるのを念押しするのは勿論のことながら、自宅に拳銃を置いて、それをいざというときに扱えるよう射撃場で練習もさせている。しかも射撃コンテストにエントリーするまでにもなっている。

また1年前にマデリンがボッシュのような刑事になりたいと云ったことから事件に関するビデオを一緒に見せて観察眼を養ったりしている。勿論ショッキングなそれは避けているようだが。

更にはロス市警の無線で使われるアルファベット暗号クイズも行ったり、一緒にドライヴしている時はナンバープレートを無線コードで答えさせていたりもしている。

つまりリトル・ボッシュを着々と育てているようだ。それは即ち自分が以前のように事件に没頭できる環境を整える意味もある。

そしてマデリンもまたボッシュ並の刑事としての才能の片鱗を覗かせる。
例えば上に書いたボッシュが見ていたジョージ・アーヴィングが自殺した夜のホテルの監視カメラの映像でジョージが大して金額を確認せずにチェックインのサインをしている様子から自殺するつもりだと推察したり、一番面白いのはもう1つの事件で知り合ったクレイトン・ペルの担当医であるハンナ・ストーンと一夜を過ごしたことをワイングラスに口紅が残っていたとかまをかけてボッシュに女性を泊まらせたことを白状させたりもする。

このやり取りは実に微笑ましく、ボッシュの娘に対する愛情と、そして娘のボッシュに対する親愛の情を十二分に感じさせる。

しかしマデリンの学校の課題図書がスティーヴン・キングの『ザ・スタンド』だったのには驚いた。
あんな重厚長大なデストピア小説を中学生に読ませるとは。
しかもそれを面白いと読むマディもまたかなり大人びている。

そう、このマデリンは実に大人びているのだ。ボッシュが刑事を辞めるのを最初に切り出す相手がマデリンならば、父親に適切な回答をするのもまた彼女なのだ。
その内容はボッシュをしてとても15歳の少女を相手に話しているとは信じがたいと思わせているが、まさにその通り。
私の懸念は見事に吹っ飛び、マデリンはこのシリーズにとってなくてはならない存在までになった。

そしてそんなシングルファーザー、ハリー・ボッシュにも相手が現れる。それは担当するコールドケースで浮上した容疑者クレイトン・ペルの担当医ハンナ・ストーンだ。

ボッシュは彼女に繋がりを見出す。それは彼女の中に自分と同じような暗闇を抱えているのを見出したからだ。

彼女のそれが犯罪者の息子、性犯罪で服役中の息子がいることが彼女の口から明かされる。そして彼女はそのことについてボッシュに性急に意見を求める。それがボッシュにとって戸惑いを覚えさせる。
時間をかけて進めたい60歳を過ぎたボッシュ、40歳を過ぎ、女性としての幸せを得るのに時間がないと思い、次の幸せを早く得ようとするハンナ。

この2人の価値観の違いは一旦ボッシュを引かせるが、結局再び寄りを戻す。
しかし彼にとっての“一発の銃弾”はエレノア・ウィッシュだけだったし、シリーズで出逢った女性とは長続きしなかっただけにハンナ・ストーンとボッシュとの関係が今後どのように続くかは現時点ではあまり期待しない方がいいだろう。
しかし60を超えてもなおお盛んでモテ振りを発揮するなあ、ボッシュは。

悪に対して絶対的な執着心、己の正義を貫くことを曲げないボッシュ。しかし彼はその悪と対峙して今回自分自身を揺らがせる。

まずはアーヴィングの事件で判断を見誤り、危うく冤罪者を作るところを寸前に回避したことでかつての自分の刑事としての能力の衰えを感じさせられることだ。悪人を追いながら、もっと大きな悪が描いたシナリオ通りに動かされ、泳がされた自分に気付き、ボッシュは一度バッジ返上を考える。

しかし彼の心に刑事としての使命感を燃やさせたのもまた悪人だった。彼は改めて絶対的な悪を目の前に刑事を続けること、出来る限り続けることを決意する。
4年だった定年延長が5年になることを喜んで受け入れる。

ヒエロニムス・ボッシュ。まさに彼こそ人生の全てを刑事という職業に捧げた、全身刑事ともいうべき存在だろう。
彼の娘マデリンが将来ボッシュみたいな刑事になりたいと云ってから彼は娘を刑事の訓練を行うが、それは第二のボッシュを育てるというよりも、彼亡き後も悪を罰する使命を娘に託しているのだろう。
ボッシュサーガはこのハリー・ボッシュという男の刑事の血を継いでいく物語になる、そんな一大叙事詩のように感じた。

そして私がこのボッシュシリーズ、いやコナリー作品に強く惹かれるのは欺瞞と本音のぶつかり合いが見事に描かれているからだ。

事件の発端、ボッシュが事情聴取する関係者は協力しながらも見事に仮面を被っている。表面上はどこにでもいる一般人、ごく普通の家庭であり、なぜこんな事件が起きたのか全く解らないと滔々と述べる。

しかしボッシュが掘り下げていくことで隠された真実や本音が見えてくる。そしてボッシュは自分が掴んだ疑念を容赦なくぶつけ、本音を引き出す。そこにドラマが生まれるのだ。

そしてやはり触れなければならないのがクレイトン・ペルという男だ。最後は彼の暗黒の深さを思い知らされた。

また今までのシリーズでも生々しく描かれていたように、本書に登場する刑事・警察官は決して清廉潔白ではない。

本書でもボッシュの相棒デイヴィッド・チューが自分たちの事件の捜査情報をLAタイムズ紙の記者エメリー・ゴメス=ゴンズマートにリークしていたことが発覚する。
彼は彼女と付き合う代償として捜査情報を彼女に与えていた。それをボッシュは許せずにチューとのコンビ解消を切り出す。

チューは全てを掌握するが、相棒に情報を全て渡さないボッシュのやり方が気に食わなかったのだ。ボッシュがこのまだ若い刑事の将来を慮って、キャリアを棒に振るような政治の汚い世界を知らさない方が身のためだと思った配慮が仇になった結果だ。

そんなエピソードも含め、今回強く感じたのはハリー・ボッシュシリーズとは刑事・警察の生き方を描いた物語であることだ。

刑事を続けることの能力の限界を悟り、一度はその職を辞しようと揺るいだボッシュの心を繋ぎ留めたのはキズミンが放った怪物たちを捕まえ、止めることこそが気高い我々の仕事なのだという言葉。
「これこそ、わたしたちがやっていることの理由」
それがボッシュの刑事としての生き様なのだ。

そしてそんな暗鬱な作業の実態を敢えて省かず書いたコナリーの仕事もまた見事だ。彼は警察とは、刑事とはこういう人たちなのだと示したかったからこそこの場面を敢えて詳細に書いたのだ。

大きな正義に小さな正義、そして法を超えた正義。
それぞれの立場で異なる正義が主張し、そして実行される。その渦中にいるのがハリー・ボッシュという男だ。

物語の最後は実に苦い。

作用・反作用の法則。
悪が巨大ならば逆に英雄視する者が出てくる。ボッシュはそれを避けるために本音では犯人は葬り去らされねばならないと感じていた。
しかしそれを止めたのは刑事という生き方によって備わった反射神経だ。刑事である限り、犯罪者は法で裁かれなければならないという原理原則が身に沁み込んでいたために彼は止めてしまったのだ。

それでもボッシュは刑事を続ける。キズミン・ライダーが彼に投げ掛けた言葉、「これこそ、あたしたちがやっていることの理由」を心の支えにしながら。

見事だ、コナリー。またも心に染み入る仕事をしてくれた。
またもやハードルが高くなったが次もまたそれを越えてくれるだろう。我々の期待以上に。


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転落の街(上) (講談社文庫)
マイクル・コナリー転落の街 についてのレビュー
No.200: 2人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(9pt)

“もし”の選択肢の行く末は…

いつものように出社し、その日もいつもように仕事を終え、家に帰って家族といつものように変わらぬ会話と小言を繰り返し、寝床に就いてまた同じような朝を迎える。
そんな日常が繰り広げられるはずだったところに突然転機となる事件が起こったら、貴方はどうするだろうか?

レンデルのノンシリーズ作品となる本書はそんな日常から突如切り離された4人の男女の話だ。銀行強盗がきっかけで人生が変わりゆく男女4人の人生の転機の物語だ。

イギリスで一番小さい銀行支店で働く、1人の妻とその義父、そして自分と同じくらい所得のある不動産会社に勤める息子と15歳なのに夜な夜な出歩いては、しかしきちんと門限の10時半に戻ってくる娘をもつ38歳の男アラン・グルームブリッジ。アングリア・ヴィクトリア銀行のチルトン支店に勤める銀行員。

もう一人の銀行員は20歳のジョイス・M・カルヴァという女性。どちらかと云えば自由気ままな毎日だが、それは退屈の裏返しでもある。

アラン・グルームブリッジは人生が決められたことを成すためだけに存在しているかのような平凡な男だ。

18歳の若さで結婚したのは妻パムと一夜の過ちで子供が出来たために結婚し、愛情を感じる前に一緒になった間柄。しかも妻以外の女性とそれまでに性交渉をしたことがない。お客が来たらいつでも振る舞う酒を飾っているが、そうしたことはなく、その酒を飲みたいのだが、寸でのところでいつも留まる。

庭に植えた花を愛で、詩を読むのを好み、その後は男は宵に新聞を読むものだから新聞を読み、結婚したら子供を産むものだとしたからそうした、そんな風に思っている男だ―実際は子供が結婚の動機なのだが―。

その銀行の話をあるきっかけで知り、銀行強盗を企てるのはマーティ・フォスターとナイジル・サクスビイの2人。

マーティは農業労働者の子供で母親の駆け落ちがきっかけで家を出て色んな職を転々とし、ロンドンに出てナイジルと知り合う。

ナイジルは医者の一人息子であり、長身でハンサムで見た目は教養ある青年に見えるが、将来に陰りが見えるとロンドンに出て、コミューンのようなところに潜り込み、その日暮らしをしているところをマーティと知り合った。いわば2人は人生の落伍者である。

この2人の行き当たりばったりの銀行強盗が4人の人生を変える。

ごくごく平凡な男だったアラン・グルームブリッジは灰色だった人生が一転してバラ色に変わる。

ジーパンすら履いたこともなかった彼は手に入れた金を元手に若さを取り戻すかのように今まで銀行員ゆえの常にスーツを着ていたアランはカジュアルな服装に着替え、「変身」する。

そして美術館や劇場に入り、豪華な食事を採り、行ったことのないパブで酒を愉しみ、偶然出会った女性に声を掛け、生まれて初めてタクシーに乗り、下宿人を募集していた家を訪れ、新たな生活を始める。それまでの借りを返すかのように人生を謳歌するのだ。

銀行で目にした男の名前ポール・ブラウニングと名乗り、そこで家主のユーナ・イングストランドと同じく間借り人のシーザー・ロックスリーとの共同生活を始める。

やがてアランは家主のユーナを愛するようになり、アラン・グルームブリッジの人生を捨て、2人で暮らすことを決意する。

一方ジョイスの方はアランに比べるといささか不幸だ。

人生の落伍者2人に監禁された状態が続く。
一方は最下級の出身で学もなく、その日暮らしをしているマーティ・フォスターともう一方は医者の息子と上流階級の出身でありながら社会のシステムに則って生きることを良しとせず、大学を飛び出し、コミューンでの暮らしを続けているうちにマーティと出逢ったナイジル・サクスビイ。彼は見た目もハンサムで知的に見えることから相棒のマーティを、いや周囲を常に見下して生きている。

こんな倫理観の欠けた2人にジョイスは小汚いアパートの一室に閉じ込められたままの生活を強いられる。最初は持ち前の明るさと気の強さでこの2人を手玉に取り、虎視眈々と脱出の機会を窺う大胆さを見せていたが、ナイジルが持っていた銃が本物であることが解ると急に心が萎え、彼ら、特にナイジルに従うようになる。

銃。
それは即ち圧倒的な暴力の象徴だ。
ジョイスにとって最初この2人は自分に手出しの出来ない臆病者だと見下していたことが、ナイジルの隙を見て弄んでいた銃から弾丸が出てしまったことから、ジョイスはこの暴力の象徴に圧倒されてしまうのだ。彼女の気の強さはそれまでそんな野蛮な物とはかけ離れた生活をしていた環境によって築かれたものであり、銃という生命与奪の権利を有する、それまでの人生にはなかった暴力が介入することでジョイスは初めて犯罪の恐ろしさを知るのである。

この2人の対照的な境遇は王子と乞食、天と地の開きを感じ、人生の皮肉を感じざるを得ない。これこそレンデル節たる所以なのだが。

そしてこの2人の人生の転機はしかし急展開を迎える。

それは天国を手に入れかけた男アラン・グルームブリッジその人によってだ。彼が自分の上向きの人生を変えたのは彼自身が持っていた真面目さゆえの罪悪感だった。


そして忘れてならないのはアランが惚れたユーナ・イングストランド。
ハンサムで女性遊びに奔放な夫スチュアートに半ば捨てられるような生活で、そんな夫に赤ん坊を不注意で亡くされ、失意のどん底にいたところを夫の父親に拾われ、自宅を間借りして生計を立てている、まだ32歳の女性。彼女はアランことポール・ブラウニングの求愛に応え、新たな人生に踏み出そうとするが…。

私はこのユーナ・イングストランドという女性のことを思うとどうしても切なくなってくる。
けなげに生きながらもなぜか幸福に恵まれない女性がいる。ユーナ・イングストランドはそんな女性だ。

ハンサムすぎるがために女性たちが次から次へと寄ってき、そしてまたそれに応えるがために家を離れて他の女性と暮らす夫。そんなだらしのない夫の女性遊びのせいでかけがえのない1人娘を火事で亡くし、絶望に苛まれ、義父の助けによって立ち直った彼女は一旦は人生を諦めたのだろう。だから彼女はまだ32という女の盛りなのに化粧もせず、余所行きの服にも着替えず、擦り切れ、くたびれた服装で出かけても何も思わなくなっていた。

しかし彼女は人を嫌いになったわけではなかった。だから部屋を貸して生計を立てることにしたのだ。人と関わることを捨てなかった彼女の前に現れたアランは最初ただの、身なりの正しい男に過ぎなかったのだろう。しかし彼から求愛された時に彼女は女を取り戻したのだ。

しかしそれもまたアラン・グルームブリッジという男によって作り出された幻に過ぎなかった。
恐らく彼女は再び殻に籠って生きていくのだろう。今度こそ何も期待せずに生きることを誓いながら。

原題“Make Death Love Me”、「死神が私に惚れるほどに」という題名は実は主要人物4人を指すのではなく、このユーナの心情を指すのではないか。彼女が辿り着いた心の叫びのように聞こえてならない。

そしてまたユーナをこのような状況に招いたアラン・グルームブリッジがまた悪い人間ではなく、いい人だから困ったものだ。

彼は最初ローズという女性に恋をする。彼にイングストランドの家を知らせることになった店を紹介した魅力ある女性。アランはそのお礼として彼女を食事に誘い、彼女はそれを快諾するが、彼女の美しさに身分不相応だと恐れをなし、なんと彼女を自分が間借りしている家に招待し、女家主のユーナを紹介がてら夕食を共にしたいと誘うのだ。
勿論彼女はそれを断り、それによってローズとの縁は切れる。それが逆にアランの目をユーナに向けるようになり、彼はユーナと恋に落ちるのだ。

人生に“もし”はないが、本書はその“もし”の連続の物語だ。

“もし”アランの娘が夜遊び好きでなかったら?

“もし”その娘の友達が悪人でなかったら?

“もし”アランがここではないどこかへ行きたいと思わなかったら?

“もし”アランがローズと付き合っていたら?

“もし”ジョイスが銃を弄ばずにこっそりと脱出していたら?

この“もし”の選択肢の中で我々は生きている。
本書はその選択肢の1つを選び間違えたが故の歩むべきでなかった人生の道筋の物語。平凡な毎日は選択を一歩間違えばこんな悲劇が待っている。心にずっと痛みが残るような出来事はちょっとしたタイミングや心に差す魔によって起こるのだ。

実にレンデルらしい皮肉に満ちた作品だ。最後にある有名な曲の一節を引いてこの感想を終えよう。

「誠実さ、なんて寂しい言葉なんだろう」


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死のカルテット (角川文庫 (6256))
ルース・レンデル死のカルテット についてのレビュー
No.199: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(10pt)

正しきことをしようとしたハラーだったが…

リンカーン弁護士ミッキー・ハラーシリーズ第4作目。
今までハリー・ボッシュシリーズを主に書き継ぎ、その合間にノンシリーズ物やスピンオフ物、そしてこのミッキー・ハラーシリーズが書かれていたが、このシリーズが連続して刊行されたのは本書が初めて。よほどコナリーの中で弁護士を主人公とした取り扱いたいテーマがあったのか、はたまた『ナイン・ドラゴンズ』以降、娘を引き取ることになったボッシュの動かし方を模索している最中なのか、いずれにせよコナリーにとってこのミッキー・ハラーシリーズはもはや作家として新たな地平に立つために必要なシリーズとなったようだ。

それを証明するかのように本書では刑事弁護士であるミッキーが民事も扱うようになる。当時世間を騒がしたサブプライムローン問題で住宅ローンが支払えなくなり、多くの差し押さえが発生したこの事件にミッキーはビジネスチャンスを嗅ぎ取り、差し押さえ訴訟を多数扱うようになる。

しかしやはり常に災厄を抱えるこの弁護士は自身の依頼人の一人リサ・トランメルが住宅ローンの責任者であった副社長のミッチェル・ボンデュラント殺害の容疑を掛けられることで久々に刑事裁判を取り扱うようになるのである。

ただこれまでと違い、不当な差し押さえ案件を扱うことで不当に虐げられ、不利な立場を強いられている人々を救うことになり、救世主的な存在となっていることがハラーの中で今まで刑事裁判を扱っていた時の疚しさを和らげていることが救いとなっている。それは娘のヘイリーから母親が犯罪者を刑務所に送る検事であるのに対し、本来は無実の人を冤罪から救うための正義の使途であるはずの弁護士が犯罪者の味方をする職業のように見られていたことからも改善する一助なっていることが多分に大きいのだろう。

このヘイリーの想いはそのまま私の想いにも繋がる。
ミッキー・ハラーの物語を読むといつもこう思うのだ。一体正義とは何なのだろうか、と。

今回ハラーの“事務所”は1人の新人を雇っている。ブロックスことジェニファー・アーロンスン。彼女は裁判が無実を証明するためのものだと信じている方に携わる人間で彼女を配置することでアメリカの裁判がもはや正義を証明するものではなく、被告人がその犯罪を行うのに妥当であることを証明しているに過ぎなく、従って弁護士は検察側が繰り出す数々の証拠や証言の矛盾点を突くこと、もしくは別の方向から攻め立て、捜査事態が正当な手続でなされていない、もしくは違法に行われたことであることを立証して事件自体を無効化することに腐心する。
従ってハラーは決して依頼人が無実であるとは信じていない。寧ろやったかやっていないかを聞きもしない。彼は父親の教えから依頼人が潔白でないことに立脚して事を進めるのだ。

そんなアメリカの裁判にまだ浸っていないアーロンスンは恐らく全ての弁護士がかつてそうであった、正義を重んじ、あらぬ罪を掛けられた依頼人を護る正義の使途としての純粋さを持ったルーキーで、事あるごとにハラーのやり方に疑問を挟む。

なぜ依頼人の話を聞かないのか?
単に目くらましだけで他の容疑者を召喚するのか?
なぜ証人を誤魔化すためにありもしなかったことを訊くのか?
実際に起こってないかもしれないのに陪審員の注意をそらせるために偶然かもしれないことを利用するのか?

ハラーと調査員のシスコがその都度アーロンスンを諭す。
我々は弁護の手段を模索し、依頼人に最良の弁護を施す方策を、戦略を作るのだ、と。

このアーロンスンとハラーのやり取りはそのまま今のアメリカの裁判が抱えている、いや世界の裁判が抱えている正義を成すことに対する矛盾を見事に示唆している。
我々一般人が常に弁護士や検察官たちが下す判定に違和感を覚えることをこの新人とベテランのやり取りを通じて教えてくれる。アーロンスンがまだ感情というものに寄りかかっている我々に近い立場の人間であり、ハラーたちは徹底して論理を追及する法律を扱う側の人間である。ここにかなり大きな溝があることを知らしめされるのだ。

そしてそれは訴追する検事側も同様だ。
やり手の女性検事アンドレア・フリーマンは次から次へと奇手を繰り出してハラーを翻弄する。物的証拠を二度に亘って裁判の大事な局面の直前に提出し、ハラーに検証する余地を与えようとしない。フェアであるべき裁判はいかに相手を出し抜くかのゲームに終始するのだ。アングラな場所で行われる違法な高額で行われるポーカーゲームと大差がないほどに。

こういった裁判の実情を思い知らされるとボッシュが正しいことが為されるべきとして自ら制裁を加えたくなる衝動に駆られるのも無理もない、むしろそちらの方が正しいのではないかと思わされてしまう。

さてそのハリー・ボッシュも本書でカメオ出演する。ハラーが二人組に襲われ重傷を負い、その快気祝いのメンバーとして娘のマデリンと駆け付けるのだ。
前作でお互いの娘を引き合わせ、それまでビジネスライクだった関係から親戚付合いへと発展する兆しを見せた両者だが、それ以降の発展はないことが語られる。今回の事件は前作から1年後とされており、日本人ならまだしも親戚同士の付き合い、事あるごとにパーティーを開く慣習のあるアメリカ人にとってこの疎遠ぶりは珍しいことだろう。それはハリーが孤独、いや孤高であろうとすることへの拘りの強さから来ているのだと思う。
犯罪者と向き合う仕事は常に家庭を、もしくは親類を危険に晒すようなもので、特に犯罪者に対して徹底的に容赦を見せないボッシュにとって前作でもそうであったように娘マデリンだけでも足枷、弱点になっている。ボッシュの性格もあるだろうが、根っからの刑事であるボッシュがハラーとの付き合いに発展を見せないのはそういった配慮もあるのではないだろうか。

前作の感想で私はハラーとマギーが知の戦士でボッシュが力の戦士を担うと書いた。
これは実際に犯罪者と立ち向かうのがボッシュであることから来ているが、本書ではその役割を担うのが調査員のシスコことデニス・ヴォイチェホフスキーだ。

1作目で殺害されたラウル・レヴンの後釜でハラーに雇われるようになった元武闘派ハーレー集団の1人だったこの調査員は有能ではあるものの、いわゆるその腕っぷしを披露する機会はさほどなかった。しかし今回はハラーの守護天使ぶりを存分に発揮する。

2作目で秘書のローナ、3作目で元妻マギー、4作目でシスコとシリーズごとにそれぞれのキャラクターに厚みを持たせている。このシリーズは単に作者の気分転換のための物でなく、もう私も含めコナリー読者が待ちわびる、ボッシュシリーズと比肩するほどの人気と実力を備えているといっても過言ではないだろう。

今回驚いたのがハラーがハリウッド・エージェントと契約していることだった。
これまでコナリーは作中で自作の映画化について登場人物に語らせており、本書の中でも第1作の『リンカーン弁護士』が映画化されていることが触れられているが、話題性のある裁判が映画化され、ヒットする可能性を秘めていることからハラーは単にその裁判の弁護を務めるだけでなく、映画化の際に映画会社にその権利を売ることができ、しかも本を書いて売ることも出来るようになっている(ところでコナリーは映画でミッキー・ハラー役を務めたマシュー・マコノヒーがよほど気に入ったようで本書のみならず何度も引き合いに出しているのが面白い)。

リサ・トランメルの裁判の映画化権を巡るハリウッド・ゴロと呼ばれるハーバート・ダールとの丁々発止のやり取りもこの裁判に掛かる副次的な戦いとして描かれており、もはや弁護士は単に裁判の弁護や法律相談役といった法的関係の仕事のみでなく、メディア関係にも手を伸ばして多角経営をしないと生き残れないのかと感じ入った。

裁判はもはやショーであり、法廷の中にドラマがあるのだ。

あとやはり触れておかねばならないのはSNSが犯罪に利用されやすいということだ。
リサは銀行の不当な差し押さえに抗議する活動団体の代表を務めており、フォロワーが1000人以上もいるが、その大半は彼女が自分たちの活動を支援する人々だと思って、申請を許可した人ばかりだ。

まさに現代のIT社会が招く恐ろしさを本書では扱っている。私がこのFacebookのみならずLINEやインスタグラムをしないのは、そのネタのために話題作りをしたり、まめにアップするのが煩わしいからもあるが、自分の行動を他者に伝えることで自ら禍を招くことを恐れてのことでもある。今回の事件はまさに私の懸案が扱われたものとして興味深く思った。

さて今回のタイトルである証言拒否だが、これは物語の終盤になってようやく登場する。証言を証人に拒否させることで自分に有利に裁判を運ばせる。
私は裁判のことをよく知らないが、究極のテクニックではないか。証人がこの権利を行使するよう、追い詰め、そうさせたハラーはメンタリストとしても超一流のように思える。原題の“The Fifth Witness”は「証言拒否をさせられるための証人」を意味するらしい。

また今回特に元妻マギー・マクフィアスとの再婚を熱望する彼がいた。
しかし弁護士と検事の夫婦は真逆の立場で仕事を家庭に持ち込まないようにしないと夫婦生活が成り立たないのだ。やり手の2人はそれが出来なくて結婚が破綻した。

このリンカーン弁護士シリーズの結末はいつも苦い。

ボッシュシリーズが彼が悪と信じる人間をとことん追求し、そして捕えるまでを描くため、そこでいかなる形にせよ終止符が打たれるのに対し、このシリーズは容疑者が捕まり、それが果たして本当の犯人なのかを証明する物語であるが、もはや法廷が無実を証明する場所でなく、無罪か有罪かを勝ち取るゲームになっているからだ。
裁判とは証拠に基づいて裁かれることで、一抹の割り切れなさを残して終わるものとなり、それが決して万人を満足させるものになっていないのだ。

そこに正義はない。あるのは有罪であると証明できるか否かしかない。たとえ被告人が犯罪者であろうがなかろうが。

正しいことが出来なくなってきているこの複雑になり過ぎた社会の苦さを痛感させられる物語だった。


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証言拒否 リンカーン弁護士(上) (講談社文庫)
No.198: 2人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(9pt)

ススキノ・エレジー

ススキノ探偵シリーズ第2作目。映画化された『探偵はBARにいる』第1作の原作が本書である。

正直1作目は何とも調子に乗った、おちゃらけ気味の主人公<俺>の独特な台詞回しに若書きの三文芝居といった酷評を挙げたが、あれから11年経ったことで私の中で何かが変わったのか、それとも免疫ができたのか、今回はさほど気にならなかった。
いや勿論所々演出過剰気味の云い回しは本書でも散見されるが、<俺>を一度体験した後ではこの斜に構えることでいっぱしのタフガイを気取る若気の至り的態度に対してどうやら寛容に捉えられるようになったらしい。

また本書の物語が実にミステリアスに進むことも以前よりも抵抗なく読み進む理由の一つとして挙げられる。
コンドウキョウコとだけ名乗る女性から10万円が口座に振り込まれて依頼されるのは何とも奇妙な物ばかり。ある人に会って○月○日に誰かはどこにいたかを尋ねろとか誰かを喫茶店に呼び出してその時の態度を見てほしいといった掴みどころのない依頼だ。

しかし最初の依頼でなんと主人公の俺は電車のホームから突き落とされ、危うく死にそうになる。更に調べていくうちに1年前の不審火の火災事故で近藤京子という女性が死んでいることに気付く、といった具合に次から次へと謎が連続し、それがページを繰らせるのだ。

そしてストーリーが進むうちに見えてくるのは右翼団体とやくざの関係。更にそこから立ち上る霧島敏夫という男性のいたたまれない死。

また本書で映画で良き相棒を務めた北大の大学院生で空手の達人高田が登場する。バーを根城にススキノの夜を西へ東へ、そこに住まう人々の便利屋稼業をやっていた<俺>が1人の卑しき騎士―というよりも未熟なタフガイと云った方が正解か―から、1人の背中を預けられる相棒を得たバディ物へ転換する。
この方向転換は率直に云って成功している。前作で抱いた<俺>に対する嫌悪感が高田の存在で和らぎ、寧ろススキノのトラブル請負人の2人を応援したくなるのだ。
小説はキャラクターだと最近大沢在昌氏はインタビューで応えていたが、まさにそれを具現化したような好例である。

そう、本書の特徴はキャラクター造形に秀でたところにある。特に霧島敏夫という人物は印象的だ。

彼は直接的には物語に登場しない。拉致されそうになった女性を救おうとして暴走族たちに立ち向かい、逆に返り討ちに遭って命を落とす60前のこの男は物語の時間では既に存在しておらず、<俺>が関係者の話を聞いていくうちにその肖像が出来てくる。その手際は実に見事。

そして最後に忘れてならないのは沙織という女性だ。

誰からも愛されたい人もいれば、たった1人、自分を愛してくれる人がいれば、他がどう思っても構わないと思う人もいる。沙織は後者の女だ。

誰もが振り向き、自分の女にしたいと思わせる容姿と雰囲気を漂わせ、それを自覚し、女の武器として使うことを厭わないこの女性。
しかしそのような外見は両刃の剣で、逆に周囲の嫉妬を買い、敵を作りやすい。沙織はまさにそんな女だった。

しかし彼女にはそれを苦にしない拠り所があった。それが霧島敏夫という男だったのだ。

日本で最も北に位置すると云っても過言ではない繁華街ススキノ。そこでは人知れずこんなドラマが起こっている。
北海道を愛し、そして専らススキノを愛する作者はそれを青臭くもセンチメンタルに描く。
第1作目を読んだ時はこの作者の作品を読むのに躊躇いを覚えたが、そんな懸念はこの2作目で払拭された。

またいつか作者の描くススキノを訪れよう。


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バーにかかってきた電話 (ハヤカワ文庫JA)
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