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Tetchy さんのレビュー一覧
Tetchyさんのページへレビュー数87件
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本書は前作『幻想の死と使途』の偶数章を司る作品であり、2つで1つの物語が構成されるという凝った作りなのだが、内容にはお互いの作品に密接に絡み合う要素はほとんどなく、それぞれ独立した作品として読める。
このような形式を取った理由として森氏は作中で殺人事件に限らず、あらゆる犯罪はその首謀者たちがお互いに譲り合ったり、スケジュールを調整しながら起こされるものではないからだと述べている。 つまり前作の有里匠幻殺人事件と本書の簑沢家誘拐未遂事件及び簑沢素生失踪事件は同時期に起きており、これを分離した2つの作品としながら一方を奇数章、こちらを偶数章で構成することで西之園萌絵が大学院受験時に起きた事件としている。 しかしこの試みは成功しているとは思えない。 確かに森氏の云うように犯罪とは1つが終われば次のが起こるように規則正しくないのだが、同時多発的に複数の事件が起こる作品はこれまでも多々あった。モジュラー型ミステリがそれに当たるが、それらのジャンルに当てはまる作品と比べてもこの2作でたくさんの犯罪が起きるようには思えない。単なる奇抜な着想で終わってしまっている。 奇妙な符号としては双方に事件関係者に盲目の人物が関わっていることだ。しかしそれも両者のストーリーには何の関わりももたらさない。 前作『幻惑の死と使途』は個人的には今まで読んだS&Mシリーズの中で最も評価の高い作品だった。 稀代のマジシャンの死と衆人環視の中での死体消失の彼の弟子たちの不審死と、マジックに彩られた派手な事件だったのに対し、本作は政治家一家の誘拐未遂事件で、しかも犯行は第3章で解決する。 80ページにして一応の解決を見る。誘拐犯のうち、逃亡した1人赤松浩徳の行方と、殺された残りの2人の男女の死の真相、そして事件以来姿を見せない簑沢素生の行方と、比較的小粒な謎で物語は進む。 作中で登場人物の1人儀同世津子も述べているが、小粒な事件故に作者は『幻惑の死と使途』の事件と敢えて同時期に起こす設定にして、500ページもの分量で語ろうとしたのではないか。こんなミステリ妙味薄い事件にもかかわらず、事件は有里匠幻殺害事件が起きた8月の第1日曜の3日前に起きながら、事件解決はその事件解決後の9月最後の木曜日と実に2ヶ月もかけられている。 さらに特異なのは犀川創平がなかなか登場しないことだ。彼の登場は第12章、335ページで西之園萌絵が彼の研究室を訪ねるシーンからだ。それからも犀川の登場頻度は増すことはなく、事件の当事者で西之園萌絵の親友簑沢杜萌の身辺、長野県警の西畑、西之園萌絵のパートが大半を占める。 あ、あとやたらと萌絵の叔母の佐々木睦子が萌絵に関わってくる。 とこのように物語は実に無駄の多い内容で、一向に解決に進まない。私は常々森ミステリには事件解決までのタイムスパンが非常に長い事を特徴として挙げており、これを個人的に森ミステリ特有のモラトリアムな期間と呼んでいるのだが、本書はそれが最も長い作品であろう。 西之園萌絵が有里匠幻殺害事件の解決にかかりきりになっていることと大学院受験を控えていることがその理由となっているが、上に書いたように事件に直接関係のない登場人物の頻度が増していたり、西之園萌絵のお見合いシーンや、犀川創平の妹儀同世津子の妊娠のエピソードなど、物語の枝葉にしては長すぎるエピソードの数々が逆に本書のリーダビリティを落としている。キャラクター小説として物語世界を補強するためのエピソードかもしれないが、さほどこのシリーズにのめり込んでいない当方としては退屈な手続きとしか思えなかった。 しかしこれほど拍子抜けする真相も珍しい。誘拐犯殺害の真相は意外な反転があるものの、カタルシスを感じるほどのものではないし、またもや全ての謎が解かれるわけでもない。よほどこのシリーズが、この世界観が好きでないとこの物語は楽しめないだろう。 それほど森氏の趣味が盛り込まれた、それはある意味少女マンガ趣味とも云える幻想味が施されている。 また前作では初めて西之園萌絵が探偵役を務めたにもかかわらず、最後の最後で犀川によって真相が解明されるという詰めの甘さを見せたが、本書では彼女によって真相が見事に暴かれ、犀川はその真相に至っていながらも積極的に事件に介入しない、いわば保護者的役割に終始している。 これは西之園萌絵の成長とみるべきか、シリーズにおける名探偵交代を示す転換期なのか。 何にせよ、ようやく密室殺人事件から離れた作品なのだが、逆にそれ故に小粒感が否めない。あらゆる意味で何とも残念な作品だ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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馳星周氏が夜の仕事や裏社会で生活する人々を描いた短編集。
まずは「ストリートギャル」は渋谷を闊歩する雑誌モデルの女性の日常を描いた1編。とはいえ書いていることは生々しく、自分たちに憧れて近づいてきた女子高生を乱交パーティに誘うえげつなさ。世の中舐めた女の話。 「ギャングスター」は新宿に巣食う素人ギャングの1人が宿敵のギャング一味に見つかり、逃走中に中国人の店に匿われて…と云う話。これも言葉を解さず、ただ微笑むだけの中国人にミステリアスな印象を持たせながら訳の解らない終焉を迎える。 「溝鼠」は700万の借金を抱えるヤクの売人が会社社長の娘を見つけ、金蔓にしようとする話。まさに社会の底辺でもがく男の物語。 「スリップ」はキャバクラでバイトする女子大生がルームメイトの結婚をきっかけに次第にバランスを崩していくという話。 キャバクラという女たちのドロドロとした競争社会の陰湿な世界が描かれ、そんな状況の中で特に売れてないキャバ嬢が私生活ではルームメイトにさえない恋人が出来たことで部屋を追い出されようとする。新しい生活を迎えるため、必死にバイトで金を稼いで引っ越そうとするが、キャバ嬢の陰湿ないじめに遭い、というもの。 「ジャンク」はさらに救いがなく、15歳の少年がまみれた犯罪の日々。学校にも行かず、母親と二人で暮らし、父親は女の所へ入り浸って帰ってこない。そんな家庭で暮らす淳一は日々退屈を持て余し、仲間から麻薬を買って日中獲物を探してブラブラしている。その日見つけたカモは23歳のOL。ナイフで脅し付け、仲間の部屋に連れて行き、ヤク漬けにしてヤリまくる。 とにかく情けない男の悪夢の一日を綴ったのが「土下座」。タイトルそのままのように山田和正なる低下層労働者を思わせる男が競馬で金をすり、逝く先々の行きつけの店で土下座を強いられる話。 主人公の山田はどこにでもいる小汚いおっさんで、昔からの顔なじみはいながらも笑顔の陰で嫌われているような存在だ。そんな微妙なバランスで成り立っていた関係がふとしたきっかけで崩れる様子が描かれている。上手く行かないときは全く上手く行かないという日は誰しもあるが、馳氏はそんな厄日を考えうる最悪の事態まで持っていく。 一瞬ウォーム・ストーリーかと思わせるのが「マギーズ・キッチン」だ。 馳作品のどうしようもない荒廃感から一転して、売れないホストがマレーシア女性の経営する店に勤めることになり、そこでアジア人たちと交流の輪が広がる。そして男は次第にマレーシア女性に惹かれていく、という馳氏にしては珍しいハートウォームな話だと思わせておきながら、中国系マフィアの犯罪に巻き込まれ、付け狙われそうになるという展開はああ、やっぱりねといった印象。 特に東南アジアの、金はあるところから取る、貰う、金持ちと結婚して幸せになるという金本位の価値観は現実味があって痛烈。愛よりも金なんだよなぁ、彼らは。そんな現実を知っている馳氏がロマンティックな国境を越えたシンデレラ・ラヴストーリーなんて書くはずないか。 最後の表題作はジャニーズ顔のために幼い頃から女に体を求められながら早漏のため女からバカにされたことが心の傷として抱えている男の話。美しい顔に美しい指を持った圭介は指のテクニックで早漏の欠点をカバーし、ヒモ生活を送っているが車にのめり込むことで指をオイルで汚し、せっかくの金蔓を逃していくといった展開。 馳作品特有の心に暴力的衝動を抱える主人公。但しジャニーズ顔と美しい指を持ったがために女に云い寄られ、女には不自由しないが早漏という欠点を持っているのが面白い。早漏をバカにされて暴力に走るというのが若さゆえだろうが、今までの馳作品の設定ではかなり浅く感じる。車にのめり込んで走り屋に興味を示し、女から遠ざかっていくなど全てにおいて青臭さが残る作品だ。 各編どれも相変わらず救いがない。ほとんどの作品が物語をほっぽり出して唐突に終わる。歯切れの悪い読後感が残され、自分の中でどう収拾つけたらよいのか解らないと云ったところ。 語られるのは渋谷のギャルの自己本位な生活、一昔前のチーマーを想起させる新宿に跋扈するギャングスターたちの抗争の一幕、ヤクの売人が家出少女を捕まえて借金返済の金蔓にしようと働かす悪知恵、分不相応のお水の世界に足を踏み入れたばかりに人間関係に疲弊する女子大生、家庭不和の環境に育ち、学校にも行かず麻薬と暴力、強姦に明け暮れるやさぐれた少年の日々、その日暮らしの日雇い労働者が陥った最悪の一日、売れないホストとマレーシア女性との交流、ジャニーズ顔と美しい指で女に貢がせながら金を車につぎ込む走り屋、と今まさにどこかに実在しているであろう人々の話だ。 彼ら彼女らは家族を憎み社会のせいにして犯罪を愉しむ者、上辺だけの友達付合いに退屈を持て余している者、社会の底辺這いつくばって人を騙して金を巻き上げようとする者などおよそ向上心とは無縁の人間たちの日々と生活が如実に語られる。そこには物語が読者に抱かせてくれる幻想などは一切ない。 そんな人々の話を馳氏は勢いと衝動に任せて筆を奔らせているように感じる。したがって物語の中には起承転結がないものがある。いやほとんどの作品が起承転結がないといってよかろう。本書に収められている物語は過去から未来まで続いていく彼らの生活のワンシーンを切り取って我々読者に見せているだけといった趣が感じられる。 しかしこれほど読後感が悪い短編集も珍しい。この前に編まれた短編集『古惑仔』にも増して救いがない、いやむしろ物語の結末をつけること自体放棄した感が強まったように感じられる。 前に述べたように起承転結がないだけに登場人物も読者も舞台のただなかにいきなり放り出されたような感覚に陥る。唐突に終わるだけに本当に何も残らない。 これは果たして金出して読むだけの価値があるかはなはだ疑問を感じる。 馳氏は自分の読みたい物語がないから自分で書くことにしたというのが作家になった動機だが、これらの作品群が本当に自分で読みたかった物語なのだろうか?こんな奴らがいるんだと酒飲みながら語るようなオチの無い話を文字に表した、そんな作品だと思わざるを得ない。 これでは小説が売れなくなるわけだ。作家と出版社はもっと読者と云うお客のことを考えて書店に並べるべきだろう。 あまりに乱暴すぎる不親切な短編集だと辛口を承知で苦言を呈しておこう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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エラリイ・クイーンのノンシリーズ物。
ギャングの大物が遺した二百万ドルもの莫大な遺産を巡って遺産の相続人ミーロ・ハーハなる男を捜しにアメリカ、オランダ、スイス、オーストリアそしてチェコスロヴァキアと探索行が繰り広げられる。 痴呆症となりかつての鋭さの影すらも見えないほど落ちぶれたギャングのボス、バーニーの殺害事件はクイーンでは珍しく、犯罪の模様が書かれている。 本格ミステリ作家であることから倒叙物かと思っていたがさにあらず。これがエラリイ・クイーンの作品かと思うほど、冒頭の事件は全く謎がなく、エスピオナージュの風味を絡めた人探しのサスペンスだ。 したがって本作には全く探偵役による謎解きもない。純粋に遺産を巡ってミーロ・ハーハなる男を殺そうとする輩と政治的影響力のあるハーハを利用せんとする者達との思惑が交錯するサスペンスに終始する。 痴呆症でかつての冴えが成りを潜め、しかし二百万ドルもの莫大な遺産を持っているギャングのボスの遺産相続人から奪還する為に相続人を探し出し、暗殺しようとする企みがやがてチェコスロヴァキアの政敵同士の構想にまでに発展していく。 それはミーロ・ハーハという男がチェコスロヴァキア人でありながら第二次大戦中にドイツ軍に入り功を成した英雄で、しかもその父親ルドルフもまたかつて国で勢力を持ったカリスマ政治家。ミーロはその血を色濃く継いでおり、政界に乗り出すと現政権を揺るがす危険な存在だからだ。 しかしそんな彼もチェコスロヴァキアのザンダー警察長官に反乱分子の掃討作戦に利用され、クーデターを起こすことなく葬られてしまう。そしてミーロを殺そうと画策したバーニーの妻エステルもまた野望半ばで命を失い、エステルに命じられてミーロを追っていたスティーヴもまた政敵同士の紛争に巻き込まれ、再び故郷の地を踏むことはなくなってしまう。ミーロに関った人たちがそれぞれの思惑の中で命を失っていく。 先にも書いたが最後の最後まで全くどんでん返しや意外な犯人といったものはなく、それぞれの思惑が最後の舞台にて相対すると全くクイーンらしくない作品。 それもそのはずで、Wikipediaによれば本書はクイーン名義による別作家の手になる作品とのこと(ある筋の情報によればスティーヴン・マーロウという作家らしい)。だとするとこのロジックもトリックもない作品をどうしてクイーン名義で出版したのか、そちらの方に疑問が残る。 というのもミーロ・ハーハの追跡の道中でスティーヴとアンディのロングエーカー兄弟がオランダ、スイス、オーストリアで出会う人々との話も各章が短編の趣があり、長編でありながらも連作短編のようになっているのもクイーンというよりもこの手の手法を好んで使っていたウールリッチに近いからだ。さらに各地で起こる事件も解決がなされるわけでもなく、事実とスティーヴとアンディが訪れたことで起こることのみが語られ、置き去りにされる。 特にミーロの隠し子であるカトリナとその養父の爺さんの話はその後も語られるべきなのだが、最後にバーニーの遺産の行く末が語られる際にちらっと触れられるだけである。 これをクイーンの作品とするには作風の変化として受け入れるにしてもかなり違和感がある。逆になぜクイーンはこの作品を自身の名で出すことに承知したのだろうか。 クイーン作品として読むと鮮やかなロジックで解かれる本格ミステリを期待するせいで肩透かしを食らわされるが、通常のサスペンスとして読めば佳作と云える作品だろう。 ただやはりこの違和感は拭えない。作品としての正当な評価ではないだろうが、個人の感想なので感じるままに書いておこう。 |
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更科ニッキシリーズの第1作がこの作品。
前回読んだ『だれもがポオを愛していた』はこれに続く作品となるが、一致する登場人物は主人公の更科ニッキのみで、『誰もが~』ではこの事件については触れもされないから単独で楽しめる作品となっている。 実業家の邸宅で起こる3つの殺人事件。現場は全て同じ部屋でしかもジグソーパズルがばら撒かれていたというシチュエーションが一緒というのが本書の事件。 作者は各章及び犯行現場の見取り図をそれぞれパズルのピースに見立て、102片のピースが出揃った時点で読者への挑戦状を提示する。久々にトリックとロジックに特化した本格ミステリを読んだ。 そしてやはりこのシリーズ探偵更科丹希の性格には反感を覚えずにはいられない。殺人事件の謎解きが好きだという点は甘受してもいいが、事件の捜査の過程で人の秘密を暴いてバラすのが好きだと云ったり、犯人の仕業、例えば今回の事件では殺人現場にジグソーパズルがばら撒かれていることに意味がないと嫌だと云ったり、ましてや謎解きの材料がもっと集まるために誰かもう一人死なないかな、などと人の命を軽視する考えを示すに至っては、例え才色兼備であっても、こんな探偵なんかには助けてもらいたくない!と思わざるを得ない。 エキセントリックなキャラクターを案出するのはいいが、本格ミステリが殺人事件を題材にした読者との知恵比べ的要素を前面に押し出した小説とは云っても探偵が人非人であってはならないと思うからだ。人道的、道徳的な感性が欠如しているこの更科丹希という女性がどうしても好きになれない。 そして彼女の推理方法というのが動機には頓着せず、現場に残された証拠と事実のみを重視してトリックを解き明かし、犯人を限定するというもの。 これはつまり裏返せば読者への挑戦状を提示しているが故に、本書に散りばめられた各登場人物の裏側に隠された事情は推理の材料には一切ならないと公言していることになる。 確かに純粋な作者と読者との推理ゲームに徹する姿勢はいいとは思うが、それを極端に演出する為に探偵役の性格を上記のように設定するのはいかがなものか。 そしてやはり推理小説は小説であるから、理のみならず情にも訴えかけるが故に驚愕のトリックやロジックもまた読者の心の底にまで印象が残るのでは、と個人的な見解だ。 「小説を読むことは人生が一度しかないことへの抗議だと思います」 という名言を残したのは北村薫氏だが、この言葉が表すように心に何か残るものがなければ小説ではないのだと私は思う。 自分には起きない出来事を知りたいから、疑似体験したいからこそ人は物語を書き、読むのだ。だからパズルだけでは今の時代では認められないのではないだろうか? こういう作品を読むと私はもはや本格ミステリを読むことは出来ないのではないだろうかと懸念する。読書を重ねるうちに嗜好が変わってしまうのは否めないだろうが、本格ミステリから読書の愉しさに目覚めた私にしてみればこれはすごく寂しいことである。 この真偽については次に小学生の頃からミステリに離れていた私を再び読書好き、ミステリ好きに開眼させてくれた島田荘司氏の作品を読むことで再度確認したいと思う。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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全てのモチーフがポオの作品に繋がっていた。そんなポオ尽くしの奇妙な事件。
本書は数あるガイドブックで時折取り上げられる作品。それほど評価が高いのであれば食指が動くというもの。どれどれといった感じで読んでみた。 本書では捜査に当たったボルティモア市警のナゲット・マクドナルド警部の私記という体裁を取っている。そのため、創元推理文庫特有の国内作品の英題表記のページにわざわざその旨が謳われているという芸の細かさにニヤリとしてしまった。 しかも“読者への挑戦状”付のど真ん中の本格ミステリ。久々にこの挑戦状を見た。 だが哀しいかな、この頃には私は既にこの作品に対する興味を失っていた。 あいにく私はポオに疎く、読んだ作品は『モルグ街の殺人』、『黄金虫』、『黒猫』の3作品しかない。本書でメインモチーフとして扱われている『アッシャー家の崩壊』は未読の為、十分に愉しむことが出来なかったのだ。 そのため、作中で繰り広げられるポオの作品に擬えた犯罪の数々と登場人物が折に触れ語るポオ作品との関連性に逆に辟易としてしまった。 こういった作品とはやはりモチーフとなるものに読者もある程度の造詣を持っていないと、乱痴気騒ぎを窓の向こうから見ているような冷めた目線で読んでしまいがちだ。それはある種その仲間に入っていけないものにとってパーティとは騒音以外なにものでもなくなってしまうのと同様に、作中で出てくるポオ作品のモチーフの数々が作品の進行を妨げているようにしか、思えなかったのが辛い。 確かに明かされる一連の事件の流れは確かに理路整然とした本格ミステリなのだが、謎を魅力的にするファクターに乏しかった。それもそのはずで、作者は作中で主人公のニッキに動機や陰謀などは興味がなく、誰がどのように動いたら一番合理的かを推理する方法を探り当てるのが彼女の推理作法だと云わせている。つまり人間の“情” ではなく、あくまで“理”を追及する作品であるのもこの要因の1つだと考えられる。 しかしそれでもなお本書の面白さがあまり伝わらなかった。特に本書ではエピローグの作者の分身ともいえる人物にポオの『アッシャー家の崩壊』に関する新解釈が収録されているが、原作を読んでいない私にとって全く以ってどうでもいいような内容だった。 こんな趣向も含めてもしも私がポオを読んでいたらこの評価もガクンと上がるのではないだろうか? ともあれ久々に自分に合わない本を読んだ。それほどこだわりのない人ならばポオ経験なしでも十分楽しめるが、経験者の盛り上がり様はいかほどだろうか。 次に読む本が読書の愉悦に浸れる作品であることを祈りつつ、この感想を閉めよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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建築探偵桜井京介シリーズ第8作目。8作目にして舞台は初の海外。イタリアのヴェネツィアである。
本書の前に編まれた初の短編集には桜井の海外放浪時代の事件が書かれていたが、それはこの作品への手馴らしといったものか。元来海外、特にヨーロッパ建築に造詣の深い作者だから、京介が大学を卒業して輪をかけて融通のつく立場になったことも含めてこの舞台は満を持しての物だと云えよう。 やはり海外が舞台になると観光小説の色が濃くなるのか、作者が取材で得たイタリアの風習や各所名所についての薀蓄が施され、実際殺人事件が起きるのは344ページあたり。最後のページが489ページだから、約3/5を過ぎたあたりなので、これは非常に遅いといえよう。アーロン・エルキンズのスケルトン探偵シリーズを読んでいるような感じを受けた。 さらに異色なのは建築探偵シリーズでありながら今回は対象となる建築物がないことだ。羚子が住まう島に京介、神代教授、蒼の一行は向かい、ブランドメーカーの前社長の遺した屋敷に滞在するがその建物に関する衒学的知識を披瀝する場面は一切ない。 今まで事件の真相よりも建物に込められた人の想いを解き明かすのがシリーズの主眼だったのだが、今回は全くそれが見られず、逆に殺人事件に主眼を置いた本格ミステリになっている。 しかしそれでも篠田氏の騙りは浅いなぁと思う。特に賊が襲ってきて無差別に人を撃ち殺すところなんかはその時点で真意が透けて見えるほどバレバレだ。やはり驚愕の真相やどんでん返しをこの作家に求めるのは酷なんだろう。 そしてやはりこの作家、自分の美学に酔っているとしか思えない。最後で明かされる本書の真犯人の動機はなんとも観念的で独りよがりだし、最後に自決するのも昭和の頃の少女マンガを読まされているような感じがした。毎度毎度酷評を連ねて恐縮だが、このような自己陶酔ミステリはどうにも苦手で斜に構えて読んでしまいがちになる。 さらに二十歳になった蒼は成人しても京介とじゃれ合うことを止めない。この辺のBLテイストをどうにかしてほしいものだ。この2人の関係性、特に蒼の同性愛的親愛の情にはついていけなかった。 とどのつまり、シリーズを親しむのは読者がそのキャラクターにどれだけ感情移入し、友好関係を築けるかが鍵なのだ。申し訳ないが女性がハッとするほどの美貌を持つ探偵桜井京介にしろ、成人しても幼稚さと同性愛的愛情表現が抜けない蒼は嫌悪感を招きこそすれ、また逢いたいと思わせるキャラではなかった。ある意味私にはBL小説は向かないことが解っただけでも収穫かもしれない。 これでこのシリーズは打ち止めにしたいと思う。というよりも篠田氏の諸作からは本書を最後の一切手を出さないことにしよう。 他の本格ミステリ読者同様、探偵を擁立しながら本格テイストが薄かったこのシリーズと上に書いた付加的要素が私の求めるものとは違ったようだ。シリーズ当初から仄めかされている京介が抱える闇の正体など気になるエピソードは残るものの、それが今後私をしてシリーズを読ませるだけの魅力を放っているわけではない。 さらば桜井京介。シリーズ半ばだが、我、君の許を去らん。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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1999年6月に行われたケルンサミットにおける米国大統領暗殺計画が本書のおけるメインテーマだ。この暗殺計画が作者の創作物か否かは判らないが、これをモチーフに女性暗殺者と物理学者の対決という図式を描き出した。
暗殺者は世界で一番厳重に警護されている人物の暗殺を依頼されたヤナことラウラ・フィドルフィ。表向きはIT企業ネウロネット社の若き女社長だ。しかし彼女は世界でも十本の指に入る凄腕のスナイパーだった。 彼女を雇うのはテロを生業にしているプロのテロリスト、ミルコ。 片や彼らテロリストを迎え撃つのはノーベル賞候補になっている物理学者リアム・オコナー。長身で誰もが振り返る容姿を持っていながら、頭の中は常に物理や化学のことにとり憑かれていて、突然奇行を始める危うさを持っている。 さらに彼のパートナーとしてオコナーの本をドイツで出版している会社に勤める広報係の女性キカ・ヴァーグナーがオコナーとのロマンスで本書に色を添える。 物語はPHASE1から4まで分かれており、PHASE1でまずミルコとヤナのテロリストのパートとオコナーのパートが交互に語られる。前者はプロの殺し屋の緊張感に満ち、また民族主義が抱える社会的問題なども交えて語られる重苦しい内容であり、後者はオコナーの奇行に振り回される出版社のキカとクーンの2人というコメディタッチの内容と陰と陽が交互する。 しかし注意が必要なのはこの2つの物語の時制が違うことだ。 テロリストのパートは1998年の12月から語られ、オコナーのパートは1999年の6月、ケルンサミットの開催日の前後から語られる。 つまり一方はテロを起こすゼロ時間へ向かい、もう一方はそのゼロ時間付近にいるのだ。最初はこの時制の違いに戸惑いを覚え、時制を混同することしばしばだった。導入部としてこの方式は物語世界に没入するのに支障になった。 この時間軸をずらして書かれるパートはPHASE1のみで後は暗殺計画とオコナーたちの身の回りに起こる出来事が並行して語られる。 読後の今、この手法が何の効果をもたらしたのかは解らない。単純に混乱を招いただけのように今は思う。 本書の帯に書かれていた惹句「女暗殺者VSノーベル賞級物理学者」という構図から想像されるのは緻密な暗殺計画を論理的思考にて解き明かすという天才的頭脳を駆使した計画の看破と駆け引きを期待したが、上巻の400ページを過ぎたあたりで解るのは、単純にアイルランド人である物理学者オコナーがかつて政治活動を一緒にしていた同僚をサミットの開催が明日に迫った空港で発見することからテロの疑惑が巻き起こるというものだった。 つまりこれだとテロリストの相手役は物理学者である必然性はないのだ。なんとも期待感を裏切るような展開だ。 しかし下巻の200ページあたりでどうにか期待外れ感は幾分か解消される。光を減速させる原理でノーベル賞候補になったオコナー、つまり光学の権威である彼だからこそテロリストの暗殺方法に気付くことが出来たという必然性が生まれる。 シェッツィングの小説はしばしば取り上げるテーマについてかなりのページを割いて語られるのが特徴だが、本書ではこの兵器の技術や専門知識についても相変わらず詳述される。それはあまりに専門過ぎて読者の理解度を考慮することなく、滔々と語られる。理解できない奴はついてこなくてもよいと云っているかのようだ。 またテロリストとの戦いを描いているがゆえに政治的問題についても語られる。彼は登場人物たちの口を借りて前世紀末から現在に至るまでのヨーロッパが抱える問題について様々な意見を述べている。 特に世間ではほとんど注目されないコソボ紛争について書かれているが、非常に主張が強すぎて読書の興を殺いでいるのが難点だ。 単なるスリルとサスペンスとアクションに満ちたエンタテインメントに留まらず、問題提起をして読者に何らかの意識を植え付けるという制作姿勢は買うものの、今回は逆に物語のスピード感を奪ってしまい、読む側にしてみれば退屈を強要してしまっているのが残念だ。 特に本書は果たしてこれだけのページを費やす必要があったのか、甚だ疑問だ。 とにかく無駄に長いと思わされるエピソードが多すぎるのだ。それぞれの政治的主張や主義を盛り込みつつ物語はクリントンやエリツィンら各国の政府要人が訪れるサミット当日、ゼロ時間へ向かっていくが回り道が多すぎて物語の加速度を減じている。特に主人公となるオコナーと彼の見張り役であるヒロインのキカ・ヴァーグナーの話が長すぎて辟易した。 そんな知識や薀蓄の中には非常に興味深いのもある。 例えば大統領のアドリブに対する周囲のスタッフの用意周到ぶりだ。よく芸能人がわがままで例えば冬に柿が食べたいので用意しろなどと無茶をいい、冬に柿を探してADが奔走するなんてシーンがあるが、大統領の側近たちともなると、あらゆる大統領の予期せぬリクエストや我侭を想定して準備をしておくというのだから恐れ入る。云うかもしれないし云わないかもしれないその我侭のために訪問先を事前にリサーチして、そこの主に大統領が来るかもしれないが他言しないようにと含み置きしておく。多分心理学のエキスパートもスタッフにいるだろうから出来るトラブルシューティングだ。 また本書では1999年当時の世界の首脳陣が実名で登場する。 英国のブレア首相、ロシアのエリツィン大統領にドイツのシュレーダー首相にフランスのシラク大統領。日本は小渕首相(懐かしい!)だ。そしてアメリカはクリントン大統領。 この中でも渦中の人物クリントン大統領に関しては小説の一登場人物として詳細に語られる。彼の性格や政治的手腕、当時彼が周囲の政治家にどのように思われていたのか。これがけっこう辛辣な内容を孕んでおり、作者は本人にあらかじめ許可をもらったのかと不安に駆られる部分があった。当時スキャンダルとされていたモニカ・ルインスキーとの情事についてもここでは語られるし、さらには彼の陰部に纏わる持病(ペロニー病という陰茎が極度に湾曲して勃起する病気)についても暴露される。既に20年近く前の出来事を今更蒸し返さないでもと思わんでもない。よく出版できたなぁと感心した。 しかし相変わらずの情報過多ぶりで引き算の出来ない作家だなぁというのが読後の感想だ。正直に云ってこの手の暗殺謀略物はストーリーは定型化されているので、後はどう語るかが鍵となる。 私の好きなバー=ゾウハーならばこの半分以下の分量でもっと起伏に富み、ミステリマインドに溢れた作品に仕上げてくれるだろう。 訳が悪いのかもしれないが、いまいち物語に没入できないところも相変わらずである。今回も残念ながら徒労感を覚える読書だった。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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今回の物語の舞台は東京ザナドゥ・ランドと警視庁内部。前者は千葉にあるのに東京という名前を冠し、さらに愛くるしいキャラクターで日本では無類の人気を誇るアミューズメントパークという説明から、名前を呼ぶのも公共のメディアでは著作権の関係から憚れる東京ディ〇ニー・ランドのことを婉曲的(?)に指したものであるのは明白。
この東京ザナドゥ・ランドについて述べる内容が特に辛辣。グリム童話やアンデルセン童話を堂々と流用し、恰も自家薬籠中の物のように振舞うといった件はその極致だと思った。 かようにこのシリーズは田中氏が日頃抱えている日本の政治と歪んだ社会のシステムへの不満という毒を存分に吐くために書かれているといっても過言ではないほど、本書は痛烈な皮肉と罵倒に満ちている。 例えば本書に登場する外務大臣はマンガ・アニメ好きのA元大臣をモデルにしている。その描写と人物説明に込められた皮肉はこれまた強烈で田中氏がいかにこの政治家を好きではなかったのかが目に見えて解るほどだ。 しかし本書にも書かれているが本書刊行当時2007年12月では次期首相の有力候補だったA元大臣が実際に首相となったのに、文庫が刊行されたちょうど3年後にもはや彼が首相だったのは遠い昔となり、彼の退陣後、与党も変わってしかも首相も2人も変わっているというたった3年間での日本の政治の激変振りに思いを馳せると呆れるしかない。 今回の敵はゴユダという名のワニ人間。メヴァト王国に昔から存在し、時に君主に成り代わって国政を支配していた怪物である。メヴァト王国は作者の産物であるから、これは全くの田中氏の創作か、もしくはメヴァトが位置する周辺の国、インド、ネパール、チベット、ミャンマーのいずれかの国に昔から伝わる言伝えから取ったのかは解らないが、それにしてもワニ人間とはちょっと発想が貧困のように思う。 そういえばこの薬師寺涼子シリーズは筆致や設定はライトノヴェル風だが、書かれている内容は必ずしも中高生が読むほど健全ではない。 主人公の涼子は己の財力を傘に堂々と買収を持ちかけるし、相手の弱みを握って常に優位を立とうとし、恐喝を行いもする。つまり情操教育上、あまりよろしくないのだ。 前にも書いたが、このシリーズは田中氏が日本の現状に対して声高に存分に不満を並べ立てるために書かれている節があるので作者の想定する読者層はもっと高い年齢層にあるのだろう。逆に大学生や社会に出た若者には日本という国の歪みを認識させるのに実にとっつきやすい読み物かもしれない。 しかし前作も軽井沢で今回も東京と舞台が日本。それまで海外を舞台にしていたことを考えると取材費の縮減という創作の外側の台所事情が気になるところだ。 とはいえ、今回の舞台の東京ザナドゥ・ランドのモデルとなったテーマパークのオフィシャルホテルについて作中で書かれていることから取材のために宿泊したと察せられるので、それなりにやはり取材費は割かれているのだろう。う~んこんなことを感想に書くなんて私もずいぶん卑しくなったものだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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建築探偵桜井京介シリーズ第3作。
本作にてようやく京介が所属している研究室の主である、神代宗教授が登場する。名探偵の師匠とはいえ、快刀乱麻を断つが如くの、八面六臂の活躍を見せるわけではなく、かといえば、迷える京介に道を示す標の役割をするわけでもない。京介を取り巻く蒼、栗山深春のコンビに新たな脇役が加わっただけの役割でしかない。そのため、絵に描いた英国紳士を髣髴させる三つ揃えが似合うダンディの風貌に、べらんめえ調の下町言葉を使うという戯画化された人物像となっている。 この作者のこの辺りの安易なキャラクター造形にどうしても馴染めないのだが。 そしてなぜか毎回のめり込めない作品世界に加え、今回は非常に複雑な姻戚関係の一族の内紛が物語の中心であったため、いつもよりもさらに作品世界に入れなかった。登場人物の中には姻戚でありながら、冒頭に附せられた家系図に乗っていない人物もあり、途中で理解するのを投げ出してしまった。 しかしやはりそれよりもこの作家の登場人物の描き分け方に問題があると思う。上に書いた神代教授に繋がることだが、どこかで見たようなマンガの登場人物のような感じがして、なんとも印象に残らないのだ。つまり貌が想像できない登場人物が多すぎる。 したがって本書のように複雑な家系を持つ同じ苗字を持つ者たちの区別がつかず、それぞれの人物に関わる因果関係が頭に描けなかった。またもや記憶の残らない本を読んでしまったという感じだ。 またミステリの根幹を成す事件とその謎も読書の牽引力としては非常に弱い。登場人物がどれも同じに見えるから、誰が犯人でも全く驚きをもたらさないし、とりわけ酷いのはこの物語は何を解決しようとしているのか、しばしば失念してしまうほど、無駄に長いと思わされてしまった。 特に今回は専門分野の小さな勘違いがそんな悪印象に拍車を掛けた。 建築探偵という通常の名探偵物とは一線を画し、事件そのものよりも建物に纏わる謎を解くことを目的としているこのシリーズ。当然のことながら建物に関する専門的な知識が求められるわけだが、やはり図書館やネットで調べられる範囲のことしか書かれていないというのが正直な感想。 細かい仕上げの部分などは素人目を通じての解釈が見られ、記述の間違いが散見させられた。この辺のリサーチは近くの工務店とかに訊けばすぐにわかるのだが、なまじっか門外漢よりも知っているだけに、自分だけの論理が形成されてしまい、その正誤性の裏付けを取ることなく、公的な作品として記述してしまったようだ。 「砕石をまぜて粗く仕上げた大柱~」という件が特にそれを裏付けている。「砕石をまぜて」という表現がすでにコンクリートが何で出来ているのか知らないことを公言しているし、建築物の作り方の本質を机上でしか理解していないことを露見させている。 なんともミステリとして読むべきなのか、キャラクター小説として読むべきなのか、非常に判断の困るシリーズである。どっちの方向にも中途半端な印象を受けるため、読む側も軸足をどちらに置くべきか非常に迷う。 はっきり云ってミステリとしては凡作である。 したがってコミケで桜井京介らの同人誌が一時期隆盛を誇ったという背景からやはりこのシリーズはキャラクター小説として読むべきなんだろう。好きな人は好きなんだろうな、この少女マンガ的探偵譚が。 3作読んで今のところ、しっくり来る作品は皆無である。とにかく早く手元にあるシリーズ作品を読み終えてしまいたいというのが現在の本音だ。今後の作品でこれがプラスの方向に変わることを祈る。 |
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【ネタバレかも!?】
(1件の連絡あり)[?]
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小説家というものは一度長大重厚な作品を物にし、それが当たってしまうともうその呪縛から逃れられないらしい。
この前に書かれ、日本でも話題になった『深海のYrr』も三分冊で合計1600ページもの大作だったが、今回の『LIMIT』はさらにそれを上回る合計約2280ページの四分冊で刊行された。 今回のお話は大きく分けて3つ。 1つは大富豪ジュリアン・オルレイが各界の有力者と共に月面に行き、そこで起こる事件。 もう1つはサイバー探偵オーウェン・ジェリコが依頼された失踪人瑶瑶の捜索と彼女を付け狙う殺し屋ケニー辛との攻防。 そして最後の1つはカルガリーで起きた石油メジャーEMCOの営業戦略本部長ジェラルド・パルスタイン射殺未遂事件を追うジャーナリスト、ロレーナ・ケオワの話。 そしてこのようなモジュラー型小説の定石どおり、3つの事件はやがて関係性を伴って1つに収束する。 ただ長々と読まされた割にはなんともありきたりな真相でがっかりしたというのが正直な話だ。 また毎度この作家の専門分野に関する詳述には唸らされるものだが、今回も例外なく、『深海~』よりもさらに多岐に渡っている。 たとえば宇宙ステーションで初めて遭遇する無重力空間で人間の体に起こりうる事象について事細かに述べていく。 宇宙酔いは知ってはいたが、それ以外にも体液の再分配に応じて脚が冷たく感じたり、汗が噴き出るようになったりすることや無重力では徐々に日々筋力が衰えていく為、筋肉トレーニングやエクササイズが義務付けられていることなど。 また面白いのはラヴバンドという代物。これは無重力空間においてセックスをするときに相手を固定する為にどこかへ縛り付けておく為の物。果たしてこれは実在するのか?私は実在すると思う。なかなか面白いエピソードだ。 また宇宙では当たり前だが真空の為、窓を開けての空気の入れ替えが出来ない。したがって100%空気清浄システムに頼らざるを得ないのだが、クルーに体臭が強い人がいるとかなり不快感を感じることや、また宇宙から地球に戻った人たちはすべからく重力の恩恵によって膀胱と肛門が開いて排泄をしてしまうため、それらを回収する器を装着していることなど、非常にリアリティに富んだ叙述が実に興味深い。 さらには月面では一日の温度変化が激変することからそれにより地震が頻発しているなどという薀蓄もあった。月に関する研究はここまで進んでいるのかと驚嘆したものだ。 さらに興味深かったのは癌や心不全などの病気に対する治療方法や抗生剤の研究がさかんで年々発達していくのに対し、マラリアやデング熱といったある地域限定の病気に対する治療方法や抗生剤がなかなか進まないことについて、前者がいわゆる富裕層にも罹り得る病気であるのに対し、後者が未開の地に多く、富裕層が行かないところの病気で縁がないからと作中人物の口を借りて述べているところだ。 いやあ、これはまさに経済原理の厳しさというかあざとさを見せられた思いがした。確かにこれらの研究開発には莫大な費用がかかり、それらをバックアップするのは財界人や彼らの組織なのだから、自分に降りかからない不幸には全く関心がないのだ。つまりマラリアなどの病気を根絶し打破するには野口英世が黄熱病を根絶したように医療関係者の志に賭けるしかないのだろう。 う~ん、また自分の知らない世界を知らされてしまった。 最先端の科学そして技術情報をふんだんに盛り込んで紡がれたこの近未来SF超大作だが、それでもやはり人間のやることは万能ではない。 例えば月面のホテル、ガイアで供される魚料理を実現させる方法として海水養殖と答える件がある。しかしその後海の環境を月面で生み出す困難さについて得々と登場人物の口から語らせており、それに対する答えをぼやかして処理させている。 思うに現在これは確立されていない技術であり、作者自身もここが弱点だと思っていたような節がある。しかしながら現在では日本の山梨大学が好適環境水という海水魚と淡水魚が同一の水で暮せる環境を生み出す粉を発明しており、恐らくこの問題はこの方法で解決されるだろう。この辺のリサーチは残念ながら甘かったと云わざるを得ない。 その他サブカルチャー的な面についても記述は多い。どうやら2025年になってもビートルズやボブ・ディランはまだ聴かれているようだし、なによりもあの長大河SF小説ペリー・ローダンシリーズは映画化されているようだ。 確かにこれが実現すればかなり息の長い映画シリーズになることだろう。まあ人気があればの話だが。 3つの事件が本書の大きな流れであることは前述したが主流となるのは瑶瑶、屠天とサイバー探偵オーウェン・ジェリコたちと殺し屋ケニー・辛の攻防だ。 特にケニー・辛は影の主役ともいうべき存在感を放ち、再三再四に渡ってジェリコらをつけ狙う。『スターウォーズ』シリーズにおけるダース・ヴェイダー、『マトリックス』シリーズにおけるエージェント・スミス、それほどの存在感を持っている。 しかし長い。長すぎる。不要なエピソードが目立った。例えば赤道ギニアの歴史なぞは要約すれば2ページに収まるくらいの話である。それを起源から詳細に話すものだからどんどん長くなる。 とにかく知りえたことを全て書かなければ気が済まないという思いが行間から滲み出している。全体のバランスをもっと考えて細を穿つところを考えて欲しいものだ。 そして今回も多くの登場人物が登場し、そしてカタストロフィに向かうに従い、次々と死んでいく。 特に今回は月面へ招待された客が財界の著名人だったり、芸能人だったりと個性豊かな人物が勢ぞろいしているだけにキャラクターが立っていて、その悲劇性は増している。主要登場人物40名以上にも上る彼ら彼女らそれぞれにバックストーリーがあるため、ただでさえ長いこの小説がさらに長くなっている。 しかしこの構成は『深海のYrr』そのままだし、特に作者自身が揶揄しているハリウッド映画の手法とそっくりではないか。映画化を狙ったあざとさが非常に気になるのである。 情報小説というジャンルがあるが、これは情報過多小説だ。 物語に関係する全ての分野について事細かな情報を盛り込んでいるがためにこれだけの分量にまで膨らんでしまっている。 月面旅行の実現性やそして石油を取り巻く各国の駆け引きや智謀策略の数々、石油から次世代エネルギーへの転換の展望(『深海のYrr』でさかんに叫ばれていたメタンハイドレードに関する叙述が皆無なのは一体どういったことなんだろう?)、そして2025年にあるべきハイテクマシンの姿や仮想空間を利用した人々の生活様式などなど、自らがその道の専門家から取材し、またおそらく自身の想像も付け加えて詳細に述べたそれらの情報の数々は正直に云えばかなり削ることができたはずだ。 ストーリーの本筋である3つの事件に焦点を当ててこれらの情報をほんの彩り程度に語れば、もっとスピード感も増したことだろう。 恐らく実際取材に当たり、執筆に5年費やした作者にしてみれば、これでも泣く泣く削らざるを得なかったエピソードがあったのだとのたまうことだろうが、それは己が調べて得た知識を披露したいという自己顕示欲に過ぎない。つまりこの1巻平均570ページの4分冊という大作になった時点でこれは読者の目を無視したほとんど自己満足の領域に入ってしまっている。 もし作者がさらに語りたいことがあればそれらはまた別に本書で書けなかった情報を集め、本書を補完する形のガイドブックのような物を出版すればいいのだ。 小説とは物語である。小説を読むことで新たな知識を得るという知識欲の充足を求める人も確かにおり、私もその中の一人だ。 しかし基本は物語なのだ。 従って足し算引き算というのは必要なのだ。 『深海のYrr』の成功以降、シェッツィングは小説家として間違った方向に進んでいるのではないだろうか? 訳者あとがきによれば本書は本国ドイツでベストセラーを記録したそうだが、これは国民性なんだろうか、とても信じられない。 日本の村上春樹作品のようにシェッツィングも出せばベストセラーになるような風潮になっているのかもしれない。 このくらいの長さになるとスティーグ・ラーソンの『ミレニアム』シリーズのように大きく1つの話という括りにしLIMIT4部作としてシリーズ物として出版し、1冊ごとに小さな事件の結末を描いて最終巻で全体を貫く大きな事件の結末を描くという構成にした方が読者にも優しいだろう。 事実、私は途中流し読みした箇所が何箇所もあった。内容の割には意外に心に残らない小説。そういう風に落ち着いた。 失敗作、駄作とまでは云わないが佳作とするには首肯しかねる。 しかし今回はいやにシンプルな題名に落ち着いたものだ。原題と全く一緒。通常ならば今までの傾向からして『宇宙の~』とか『月面の~』とか一見意味の解らないドイツ語と組み合わせて煙に巻くようなタイトルにするかと思ったのだが、今回はそのものズバリで来た。 もしかしたら今までのシェッツィング作品の感想で書いてきた要望が受け入れられたのかしら。まさかね。 しかし重ね重ね云うが、これほど徒労感が残る小説も珍しい。誰かシェッツィングにもっと刈り込むようにアドバイスしてくれ! ▼以下、ネタバレ感想 |
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フランク・シェッツィング第2作目。1作目が13世紀のケルンを舞台にした歴史物で、2作目はグルメ警部が主人公のコージー・ミステリとガラリと趣向を変え、多彩振りを見せている。
文体も1作目に比べると軽妙だが(まあ、訳者も違うのだが)、どうもこの作家の文章は私には合わないように感じた。 今まで私は数多くの海外作品を読んできた。従って普通の読者がよく云うような、人物の名前の区別がつかない、舞台が海外で馴染みがないので解りにくいといったような抵抗感無しに物語に入っていけるのだが、この作家の場合は少しばかり勝手が違うように感じる。 一番感じるのは、本書で作者が前作にも増して散りばめているウィットやユーモアがこちらに頭に浸透してこない事。そのため、各章の最後に書かれた締めの台詞が私にはビシッと決まらず、頭に「?」が浮かんだり、もしくは「ふ~ん」という程度で終ってしまうのだ。 もしかしたらこれは作者のユーモアセンスではなく、ドイツ人共通のユーモアセンスなのだろうか?アメリカやイギリス、そしてフランスの作家の作品を読んできたが、これらの国のユーモアに比べて、洒落てはいるとは思うが、機知を感じるとまではいかない。 ではミステリとしてはどうかというと、2つの殺人事件が起きるわけだが、この真相はなかなかに入り組んでおり、なるほどとは感じた。 さて題名に「グルメ警部」と謳われているように、主人公キュッパーは美味い物に目がないが、この手の作品にありがちな料理に関する薀蓄が展開されるわけでもないため、際立って美食家であるという印象は受けない。 むしろ、普通に美味い物が好きで料理も出来る男が警部だったというのが正確だろう。 また巻末にはケルンの街の有名な店の名前と料理のレシピが載せられているが、これらが作中に登場したのか確信が持てない。読み慣れないドイツ語表記の料理名は私がドイツと料理の双方に疎い事と相俟って、想像を掻き立てられなかった。 そんな私はこの本を読む資格がないと云われれば素直に認めざるを得ないが。 登場人物も個性があり、例えばドイツ人なのに、イギリスの執事に憧れる召使いシュミッツを始めとして―ただこの特異さについては日本人である私にはいささか解りかねるところがある。なぜならドイツも城が多くあり、貴族も多いため(「フォン」とは貴族の称号だし)、執事がいることがさほどおかしいとは感じないのだが―、被害者インカの夫フリッツとその影武者で元俳優のマックス、絶世の美女であるフリッツの秘書エヴァに大富豪の娘でありながら、動物園の飼育係であるマリオンなど、役者は揃っているが、彼ら彼女らの台詞が前述のようにこちらの頭に浸透してこないので、作られた紙上だけのキャラクターとしか映らなかった。 しかしこの作者はきちんとクライマックスシーンをアクションで見せるところに感心する。『黒のトイフェル』にも大聖堂の屋根上での迫力ある格闘シーンがあったし、今回は動物園を舞台に追跡劇とライオンの柵の中での攻防ありと、サービス満点だ。 この2作に共通するのはこれらアクションシーンが非常に映像的だという事。広告業界で働いた経歴を持つ作者だから、こういったお客に“魅せる”手法を常に意識しているのだろう。 まあ、しかしまだ2作目。この作者の真価を問うにはまだ早すぎるか。次の『砂漠のゲシュペンスト』で上に述べたような不満が解消されるのか、はたまた世評高い『深海のYrr』まで待たなくてはならないのか。 ともあれ、過大な期待をして臨むことだけは避けて、次作に取り掛かることにするか。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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文庫上中下巻という大巻でありながら、世の好評を得た『深海のYrr』。
その作者フランク・シェッツィングの作品を読むに当たって、まずはデビュー作となる本作から読んでみた。 13世紀のドイツ、ケルンを舞台にした貴族の陰謀に巻き込まれた盗人の物語。 『オリヴァー・ツイスト』のような物語を想像したが、濃厚さに欠けるように感じた。 大聖堂の建設が行われるケルンでその建設監督であるゲーアハルトが転落死する。しかしたまたま大司教の林檎を盗みに入ったヤコプは現場を目撃してしまう。事故と思われたその事件にはゲーアハルトに寄添う影があり、ヤコプはそれを捉えていた。 この殺し屋ウルクハートはある陰謀の下、集った貴族の結社が雇った殺し屋。彼はヤコプが目撃した自分の犯行と死に際にヤコプに漏らしたゲーアハルトのメッセージを抹殺せんと執拗に追う。 痛いのは物語の主役を務めるヤコプがさほど聡明ではなく、偶然の連鎖で身に降りかかる災難を避けているに過ぎないことだ。 こういう物語ならばやはり社会の底辺でしたたかに生きてきた盗人が狡猾さと悪知恵で大いなる陰謀を乗越えていく姿を見たいものだ。 そして物語の背景を彩ると思われた大聖堂建設が全く響かないことだ。 物が作られるというのは、物語が作られることの暗喩となる。特に今回のような話では大聖堂の建設が最高潮に達するに従って、貴族らの陰謀もまた最高潮に達するという劇的相乗効果が出来たはずなのだが、シェッツィングはそれをしなかった。これが非常に勿体ない。 大聖堂建設、貴族らの陰謀、そして1人の殺し屋の暗躍と物語を盛り上げるに事欠かない要素をこれだけ盛り込みながら、熱気がほとんど感じさせないとは、ほとんど罪のような小説である。 そしてケルンの貴族連中で結成された結社がなぜゲーアハルトを手に掛けたのか、この謎が曖昧模糊として物語の牽引力になっていないように感じた。少しずつ陰謀の手掛かりを晒しながら徐々に全貌を明らかにしていく語り口を期待していただけに残念。 これがデビュー作なのだからそこまで要求するのは高望みか。 しかしこの物語の主人公はヤコプというよりもこの殺し屋ウルクハートだと云えよう。金髪の長髪を湛えた長身のその男は目に奈落の底を感じさせる。彼の脳裏に時折過ぎるのは暗闇に鳴り響く人のものとは思えない悲鳴の波。元十字軍騎士だった彼がなぜ殺し屋に身を堕としたのかが物語の焦点の1つとなっている。 原題である“Tod Und Teufel”は英語に直すと“Death And Demon”だろうか。ドイツ語には明るくないのでWEB辞書でそれぞれの単語を調べて繋げると「死と悪魔」となる。この悪魔とは即ちウルクハートのことだろう。 しかし『黒のトイフェル』という題名はミステリアスで、読者に「どういう意味だろう?」と食指を動かす魅力はあるが、読み終わってもその意味が伝わらないのは明らかにマイナスだろう。 ドイツ語の「トイフェル」と聞き慣れない一種蠱惑的な響きを敢えてそのままとしたのだろうが。やはり題名というのは人の興味を惹きつけつつ、読了後にその意図が明確になるのが一番だろう。版元はもう少し配慮をして欲しいものだ。 しかしあとがきによれば、本書は本国ドイツでベストセラーを記録したらしい。ドイツにはよほど面白いミステリ・エンタテインメント小説がないのだろう。 まだ見ぬ傑作が山ほどあるドイツ国民はなんとも羨ましい限りだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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本作も前作同様、第一次大戦開戦の火花がいつ起こるか解らない1913年を舞台に歴史上の人物らとシャーロック、マイクロフト、セバスチャン、ワトスンらが共同し、諜報活動に乗り出す。
前回はアメリカが舞台だったが今回はタイトルにもあるように、ロシア。 自由の国の諜報活動とは勝手が違い、社会主義国家のロシアでは警察以外にも総国民が皇帝秘密警察の手先のように、異分子に対して監視の目を配り、何かあれば報告されているという、セバスチャンにとっては四面楚歌状態がさらに強まった困難な任務となった。 しかもまだロマノフ王朝が国を治める時代の話。 しかしレーニン、スターリンら、後のロシア革命の立役者たちの暗躍も同時に語られ、ロシアの歴史の大転換期と第一次大戦が起こるか否かの瀬戸際の非常に緊迫した雰囲気の中にセバスチャンは晒されており、前作にも増して状況はスリリング。 さらに前作同様、皇帝一族の娘とのロマンスもあり、諜報活動に加え、仕事先の恋もありと、イアン・フレミングのジェームズ・ボンド張りの活躍を見せるセバスチャン。 しかしそれでもなお、なんだか割り切れない物を感じてしまう。 シャーロック・ホームズのパスティーシュ物でありながら、エスピオナージュ作家フリーマントルの特性を生かしたスパイ小説という新たな側面を持ったこのシリーズ。前回はホームズ物という先入観から感じた違和感を拭いきれなかったと述べたが、どうも本作を読むに当たり、違和感の正体はどうもそれだけではないことに気付いた。 それは本作で描かれるシャーロック・ホームズ像である。 正典で描かれるホームズとは超然とし、達観した人物像であり、全てを見抜く全能の神的存在であるのだが、本作では息子とうまくコミュニケーションが取れずに苦悩する父親像、自身の叡智を絶対な物と信ずる自信家、躁鬱の気が見られる非常に情緒不安定な人物像が前面に押し出されている。 従って本作のホームズは時に麻薬の力を借りられずにはいられない弱さを持った人物であり、それを息子のセバスチャンは当然のこと、パートナーのワトスン、兄のマイクロフトらが常に心配している。 特に「わたしは失敗によって苦しむという経験をほとんど味わったことのない男だ」といいつつ、セバスチャンを兄に預け、長く別れていた事を悔いていると自戒するのが象徴的だ。鋭敏さよりも他国で危ない橋を渡る息子に心配し、息子との心の和解を望む弱さを持ったホームズ。 つまりフリーマントルの狙いは云わば御伽噺の人物であった正典のシャーロック・ホームズを長所もあれば欠点もあるという現実的な非常に人間くさい人物として描く事にあったと云えるだろう。私見を云えば、もはや世界一有名なこの探偵はもはや偶像視されており、正典のイメージが定着しているので、この手法はやはり合わないのではないかと思う。 世の中にはいわゆる“スター”と呼ばれる人々がいる。ミュージシャンや映画俳優など、多数の人々が崇拝する存在。彼らは私生活が謎めいているのもまた自身の魅力の1つになっていると思う。 もしそのような人物の私生活、家族内での立場などを知らされ、それがもし我々もしくは近所に住んでいる人たちとあまり変わらないものであれば、自らが描いていた偶像が壊れるような失望感を得るのではないだろうか? 本書で抱くのは正にそういった類いの感覚である。 こういうホームズをシャーロッキアンが期待しているのかどうかというと疑問を持たざるを得ない。他の人の意見も訊きたいものだ。 私なりにこの設定を効果的に活かされる方法を考えてみた。それはセバスチャンが何者か知らされず、彼の協力者を叔父マイク、父の友人ジョンといった具合にファースト・ネームや愛称だけの表記にして、物語の最後に実は彼のラスト・ネームはホームズであり、父親はあのシャーロック・ホームズだったと明かされる手法だ。 これだともし作中でシャーロックが上記のように描かれていても、サプライズと共にすんなり受け入れられたように思う。 第一次大戦前のロシアの情勢を詳らかに描く歴史ミステリであり、スパイ小説であり、またホームズ物のパスティーシュでもある本書。確かにこの上なく贅沢な作品なのだが、上記のような理由でどうしても私には手放しに賞賛できなかった。 |
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本作の趣向は、狂人の仕業としか思えない奇妙な状況をいかに論理的な説明をつけるかということにあると思う。
しかしそれにしても作者はとんでもない冒険に出たものである。なんせ死体の衣類はもとより、部屋の家具・調度類全ても逆さまにされているというのだから。これにどんな合理的説明が付くのか。本作の焦点は正にそこにあると思う。 こんな手間暇をかけた殺人事件は今までに私も読んだ事がなく、かなり頭を絞った。色んな手掛かり、特に死体の上着の下を潜らせて足先から首まで通してある槍の意味や消えたネクタイの謎、などなど。 私の推理と真相についてはネタバレに語ることとして、ただ本作をこのロジックとトリックだけに注目すると陳腐だと云わざるを得ないが、クイーンの物語の味付けについても語っておこう。 本作は今までの国名シリーズにもましてモチーフとなった国に関するガジェットがふんだんに盛り込まれている。食べられたチャイナ橙の謎から、中国文化に詳しい女性による中国人の奇妙な風習についてのあれこれ、中国の稀少な地方切手の話などなど。特に中国の文化があべこべの文化であるというのはなかなか面白い着眼点だ。 曰く、中国人は人と逢ったときに相手と握手せず、自分と握手する、暑い日には冷たい物を飲まず、熱いお茶を飲む、他所の家でご馳走になるときはわざと大きな音を立てて、げっぷをする、入り口に低い塀―衝立のことだろう―を立てて、悪霊の侵入を防ぐ、云々。 中には首を傾げるような物もあったが、なるほどと思った。 そして本作の事件の底流にあるのは切手収集の世界である。『ドルリイ・レーン最後の事件』では稀覯本が事件の主眼であったが、本作では稀少な切手、それに纏わる収集家の話が散りばめられてあり、またそれが事件に大いに関与している。 特に最後に題名の真の意味が解るのにもこの趣向が大いに関わっており、作者のミスディレクションにニヤリとしてしまった。 と、こんな風に一概に明かされる事件の真相のみで評価するには勿体無い作品ではあるのだが、この謎に対して読者への挑戦状を挿入するクイーンも無茶な事をやるなぁと思わずにはいられない。特に本作では冒頭の謎が格段に奇妙であったため、期待が高くなり、それだけに落差が大きかった。 クイーンの信望者である作家法月綸太郎のデビュー作『密閉教室』に、担任の教師が本作を非難するシーンがある。確か、有名な作品ということで読んでみたが、一体あれは何なんだ、バカバカしいといった感じの非難だった。 読書中、幾度となくそのシーンが想い出されたが、それがそのまま私の言葉になってしまった。 更に本作はアメリカではクイーンの最高傑作と出版当時評されたそうである。なんともアメリカという国の懐の深さを感じるとでもいうか、こういうトンデモない話をユーモアとして解する国民性ゆえの賞賛といおうか、いやはやなんとも理解しがたい話だ。 しかし、クイーンは『ドルリイ・レーン最後の事件』以降の質の低下が気になる。『アメリカ銃の謎』からこの3作は手放しで賞賛できない物ばかりだ。 しかし第2期にまだ名作が残っているとの話。クイーンはまだ終わっていないはずだ。これからもまだ見ぬ傑作との出逢いを信じて、読んでいこう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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本書は前書きにも書かれているように小森氏が調査に携わっている1945年にエジプトのナグ・ハマディで見つかった古文書群のうち、イエス・キリストについて書かれた雑記を基に物語形式にされたものだ。小森氏によれば、他の記録に関しては公表されているのに、このイエスに関する記録については50年経った今(1997年当時)も公開される模様がないので彼はミステリという体裁を取って公表しようとしたのが本書に当るとのことだ。
したがって本作は厳密な意味ではミステリではないだろう。 前の『ネヌウェンラーの密室』でも書いたが“ミステリ”というよりは“ミステリー”に近い。すなわちキリスト復活という非常に有名な奇跡の謎について書かれたものだ。 本作で語り手を務めるエジプトの通商隊の通訳兼雑用係の私はそのまま件の古文書の記録者であるらしく、この物語で書かれた彼がイエスについて様々な人々から聴取した内容は事実であるらしい。 その内容は商売の理解者、東方思想の伝達者、医者、弱者の味方、神に愛される者という賛美の意見から、手品師、臆病者、夢見人、詐欺師と卑下する意見がほぼ同数であり、それぞれの属する立場による己の規範での評価で見方が変わる人物像であったようだ。 そして物語の主眼は磔刑によって死刑にイエスがどのように復活したのかに移っていく。これが本書の謎のメインなのだが、これがどうも魅力的とは映らなかった。 キリストの復活とは西暦の始まり頃の話である。この悠久の時を超えて明かされる謎にしてはいささかチープな印象を受けるのだ。 確かに書かれている内容は当時の各宗教の習慣や常識が詳細に記され、それに基づいた考察がなされ、理論的であり興味深いのだが、それが逆に仇にもなっているように感じてならない。 そして物語はその後、移送されたイエスが閉じ込められた安置所から如何にして消え失せたのかという謎へ移る。これこそ本書の題名となっている密室の謎なのだが、これも解ってしまえばなんともチープ。 さて小森氏が冒頭で述べたいつまでも公表されないイエスの復活についての記述だが、私はこれは関係者同様、公表は控えた方がいいと思う。謎は謎である方が魅力的だというが、まさしくこのイエスの復活の謎についてはそれが当てはまる。もしこれが事実だとして世界に公表されれば、世界中のキリスト教徒の猛反発を受けるのではないか。 明るいところで観るお化け屋敷ほど陳腐なものはない。まさしくこの謎はそっとすべき謎だと私は云いたい。 学者は歴史の謎を明らかにするのが仕事なのは解るが、その逆もまた学者の仕事なのではないか。小森氏が崇高なる使命感で小説という形で発表したこの謎は、その意気込みとは全く逆に、蛇足を連ねただけのように感じてしまった。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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さて乱歩賞史上最年少である16歳で最終選考に残ったという本作。結末まで読んだ今となっては、よく当時の選考員たちが最終選考まで残したなぁと、その暴挙にも似た英断に感嘆というよりも戸惑いを感じずにはいられない。
特に当時最終審査員だった多岐川恭氏が本作をして、「その発想の若さに羨望を感じる」めいた感想を述べていたとの記事を読み、その度量というか、懐の広さにただ感心する次第だ。 なぜならば、これは一種の壁本だからだ。最後の結末を読むにあたり、この真相の是非を問うて、是と答える人はそうはいないだろう。 私の見解では本作を乱歩賞として刊行した場合、絶賛をするのは一部の物好き―普通のミステリに飽いた人々―であり、大方の読者ならば非難を浴びせ、もし当時、現在のようにインターネットが普及していれば例えば2ちゃんなどで喧々諤々とした論議が繰り広げられていただろう。それは乱歩賞が普段ミステリを読まない方々も手に取るほどのネームヴァリューを備えた賞の性質上、当然起こるべくして起こる現象だろう。 本作の内容に触れると、本作の特異な点は主人公の二人が少女漫画の世界に入り込んで、そのストーリーの登場人物となり、そこで起きる殺人事件に巻き込まれるというメタミステリである。 しかし本作で語られる少女漫画の内容というのが中世ヨーロッパを思わせる古城での宮廷生活、王子を巡る2人の花嫁の戦い、さらにもう1人の花嫁の因縁めいた血筋によって起こる騒動が延々と語られ、それはミステリを読んでいるというよりも、『ベルサイユのバラ』のような漫画、厳密に云えば作中で漫画とは云え、表現は文字のみでされているから、『ベルサイユのバラ』のノヴェライズ版を読んでいるような錯覚を覚える。実際本作でメインとなる密室殺人が起きるのは400ページ中260ページ辺りと実にストーリーの5/8を費やした辺りである。ミステリを期待する者にしては冗漫さを感じるだろう。 私にしてみれば、実はこの辺は苦痛でもなく、例えるならば、カーの歴史ミステリに見られるような舞台装飾の面白さを感じた。もしこれを16歳の人物が書いたままならば、驚くほど成熟した筆致・文体なのだが、恐らくこれはその後齢を経た作者の手による改稿版であろうから、そういう外側の部分にはあまり目が行かなかった。 で、本作の目玉、ミステリ界史上の問題作と云われるほどのこの真相、私は少女漫画の中の世界という特異な設定を前提にした驚愕の真相という前情報を得ていた事もあり、実は看破してしまった。というよりも「これだ!」という天啓にも似た閃きといったものではなく、「まさか、こういう真相ではないだろうな」と軽く思っていたのがそのものズバリだったという、なんとも拍子抜けした感慨だった。 こういうメタミステリは非常に読者の理解を得られにくいだろう。それを逆手にとって誰もが発想しない作品を紡ぐ作家も世界中にいるだろうが、本作がそれらと比肩するに値しないのは、真相のアイデアが誰もが思いつくだろうけど、敢えてしないだろうというレベルでしかないこと、これに尽きる。そのアイデアを得意満面に史上初の試みで自家薬籠中の物として長編本格推理小説として世に問うてしまったところにこの作者の若さがあったのだ。実際16歳だから本当に若い。 読後の今となっては、本作は作家小森健太朗氏の若気の至りとして末代まで記録される作品としか思えない。作者が今後どのような活躍を展開するか解らないが、もし大家になった場合、本作はその経歴に傷をつけかねない汚点になると思うので、早々に絶版にする方がいいんではないかというのが私の個人的な心配である。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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さて最近ミステリ作家というよりもミステリ評論家としての活動の方が忙しい小森健太朗氏の作品を初めて読んだ。
曰くつきの作品『ローウェル城の密室』で史上最年少16歳での乱歩賞ノミネートのこの作家がどんな作品を書くのか、非常に興味があったわけだが、本作は私が呼ぶところのキヨスクミステリであり、出張中の車内で読み終わるような軽い内容である。 主人公は作者と同姓の小森で女性名を使った覆面ミステリ作家(?)である。その彼が出版社のパーティーでミステリアスな雰囲気を持った探偵星野君江と出逢い、溝畑という編集者に原稿の督促を受け、それがもとで殺人事件に巻き込まれるという物。 本作で扱われているバビロンの空中庭園から消失した王女の謎だが、これはこれで歴史上のミステリの真相を探る面白みがあるわけで、これに現代で起きた同様の事件を絡ませた着想は買えるが、やはり最後に明かされる作者の推理は読者の期待を裏切るほど小粒な内容だったと正直云わざるを得ない。 舞台を出版業界、大学(当時東大教育学部博士課程に在籍中とある)と、作者の周辺の環境を扱った内容であり、また本作のテーマとなっているバビロンの空中庭園及びセミラミス王女の消失事件も作者自身の趣味で調べている内容であろうことから、なんともやっつけ仕事のような気がせんでもない。作中、主人公の言葉を借りて書下ろしと雑誌連載では原稿料も違い、連載の方がはるかに実入りがいいとの記述があるが、これなぞ本作が書下ろし作品である事からも作者が自分が元々知っている内容とトリックのストックを1つ使って1本仕上げました、そんなお手軽感が拭えないのだ。 御大島田荘司氏も云っていたが、やはり作家という物は押並べて文筆業一本で生計を立てられているわけではなく、裕福な暮らしをしているのはほんの一握りの作家に過ぎなく、売れるためには量産を強いられるのは止むを得ない。島田氏も路線を変更して吉敷シリーズといった日頃ミステリを読まない人が手に取りやすいトラベルミステリにも手を出したわけだが、それでも彼の作品には単なる謎解きパズル小説に終わらないケレン味があり、登場人物たちには血肉が通っていたように思う。だからこそ吉敷竹史という主人公は御手洗潔と双璧を成すキャラクターになったのだと思う。 まあ、ともあれこれ1作で小森氏の作家としての本質を判断するのは早計であると私も認める。これから彼の諸作を読むことで見極めていこう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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薬師寺涼子シリーズも6作目。最近はパリ、香港、バンクーバーと海外を舞台に活躍する話が多かったが、今回はお膝元の東京を舞台に活躍する。
そのせいか、どうもコレといった売りがないような気がした。登場人物も泉田&涼子コンビを取り巻く室町由紀子、岸本、マリアンヌにリュシアンヌと定番キャラクターが全て登場するが、それに加えて何かという物がない。 今回の敵役である黒林道義も断片的に登場する物の、前作『黒蜘蛛島』に出てきたグレゴリー・キャノン二世のような特徴というか外連味がない。東京都内で起こる人喰いボタル、ネズミ、ムカデの大量発生に関する真相も単純に黒林氏の研究成果によるもので終わっており、展開としては非常にストレートである。捻りがあるとすれば、ゼンドーレンで起きた防衛大臣誘拐事件の真相ぐらいか。 今回はスケールダウンしたと云わざるを得ない。そして前作の感想にも書いたが、やはり涼子が無敵すぎ、クライマックスが派手なだけで、スリルがない。シリーズも6作を数えるようになったからには、そろそろ涼子を苦しめるライバルの登場が必要ではないだろうか? あと泉田と涼子の間の進展を見せるなど、シリーズの転換を次回は期待したい。 |
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現在も続くススキノ探偵シリーズの第1弾。そしてこれが作家東直己氏のデビュー作である。
一読後の率直な感想としては若書きの三文芝居のようだというのが本音。 まず主人公が28歳という設定に微妙なずれを感じた。私の28歳像はようやく社会の仕組という物が解り始めたばかりの青二才である。大学を中退し、早くから飲み屋街を根城に、色んなトラブルを片付ける便利屋稼業で糧を得ている俺が、いくら世間の風にすでに揉まれていたとしても、ヤクザにも一目置かれるような存在になるとは思えない。 確かに時代はまだソープランドがトルコ風呂という名前だった昭和50年代後半か昭和60年あたりだろうか。確かにその頃の若者は今の平成の世のそれと違い、精神年齢も高く、成熟していたかもしれないが、ちょっと想像つかない。 それは作中に語られる妙に時代がかった風俗描写も、私が作品世界から隔絶されているように感じたからかもしれない。 ヤクザの着る物について、ゴルフ・ウェア、白ベルト、ローファー、ファスナーで締める厚手のカーディガン。スケタン、ナハナハナハという笑い声。今ではもう想像できる人がいるか解らないファッションや、流行語・俗語が古き良き時代のハードボイルドというよりも、その時代でしか楽しめない風俗小説といった色合いを濃く感じさせ、古びた感じを抱かせる。 そして確かに主人公<俺>は若い。一人称描写で初めから終わりまで語られる文章に織り込まれる<俺>の皮肉や自嘲めいた台詞が、非常に青臭く感じた。時にマンガで行われるような表現を文章で行う事もあり(例えば頭の中でふざけた俺と冷静な俺、さらに熱血な俺が出てきて言い争いをするシーン)、なんか勘違いしていないか?と思うことが多々あった。 タイトル『探偵はバーにいる』がまずいけなかったのだと思う。このタイトルだと主人公は、酒を片手に周囲の友人や街の弱者のトラブルを片付ける、酸いも甘いも知った30代後半の男を想像してしまう。 しかし東氏が設定した主人公は最近大学を中退したアル中の男で、やっていることは単なるチンピラの小遣い稼ぎと変りはしないという物。おまけに常に斜に構える、減らず口を叩くのだけは一人前。夜の街を徘徊するから友達には事欠かない、といったちょっと相容れない人物なのだ。 単純に云って、私と<俺>は合わないのだ。 あと文体。ススキノの夜を一生懸命に生きる底辺層の人々を描きつつ、時折、<俺>の社会の落伍者に同情する感傷を挟むことで男のペシミズムを語りながら、なおかつ軽妙洒脱さを狙ったのだろう。 小説には極上の旨みを感じさせる美文、しっとりとした質感などの綺麗な文章も大事だが、やはり外連味も必要である。しかし、この小説は外連味しかない。だから非常に俗っぽくて情緒が感じられなかった。なんだか風俗ルポを読んでいるような気がした。これもハードボイルドを読むと期待しただけに一層居心地の悪さを感じた。 北海道最大の繁華街ススキノ。そこを舞台にし、その街とそこに住む人を描こうとした趣向は買うが、ちょっと変に力が入りすぎたようだ。 そして肝心の事件だが、大学の後輩の失踪した恋人捜しから、ラブホテルで起きた殺人事件の犯人捜し、そしてススキノの夜の天使の捜索へと移りいく。これらのプロットはそれぞれがきちんと関連しており、淀みは無い。ただもうちょっと何か欲しかった。サプライズもそうだが、心に響く何かが・・・。軽めの文章だっただけに印象も軽くなってしまった。 とまあ、第1作の印象は非常に悪く、正直このまま読むのを躊躇ってしまいそうだ。しかし現在も続くこのシリーズ、人気があるのだろうから、その後何かが変ったのかもしれない。ちょっと間を置いて、第2作も読んでみるか。 |
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奥田哲也作品3作目。意外にオーソドックスだったというのが正直な感想。1年前に起こった殺人事件と現代に起きた殺人事件の犯人探しが美術学院職員という狭い人間関係の中で300ページ強に渡って展開されていく。
奥田氏の提示する謎は不可能趣味ではなく、セイヤーズの作品のように、事件はシンプルだが、なんだかおかしい、その奇妙な違和感を解き明かす類いの、トリックよりもロジック志向型になるだろう。しかし、セイヤーズがシンプルな謎であるのにも関わらず、最後の解決に鮮烈なイメージを与えて物語を閉じるのに対し、奥田氏の謎は、ああそういうことだったのねと単純に納得するだけに終わっている。 それは真相を解明する“殺し文句”とでも云うべき衝撃の事実がないからだろう。 セイヤーズはシンプルな謎に隠されたバックグラウンドを物語の進行に合わせて一つずつ丁寧に解き明かし、最後どうしても残る違和感がたったの一言でばっと眼の前の霧が晴れていくように解決される心地よさがあるのだが、奥田氏の作品においては最後の最後においても複数の謎が残ったまま、しかし探偵役は全ての謎が解けているという趣向であり、終わりの方の章で延々と数学の証明問題を解くかのような長い解説が行われる。 これが私にとってはあまり面白くない。こういうのはメインの謎が解けた後、その他残る細かな謎を逐一説明するために行えばいいのであって、メインの謎解きに適用するべきではないだろう。 今回も最後の25章から28章にかけて刑事と探偵役の主人公との問答によって謎が解かれていく。三章に渡って解かれていくその謎は淡々としており、“最後の一撃”らしきものもなく、ようやく辻褄が合った程度の物であり、カタルシスも感じなかった。 あとこの作者、意外に言葉に対して意識的かつ無自覚である。 まず文章をなぜかスムーズに読み進む事が出来ない。読み進もうとすると袖口を引っ張られるような引っ掛かりを覚える。 では文章が特殊なのかといえば、全然そうではなく、むしろ平板。『三重殺』で見られた斜に構えたような文体はなく、普通の人々の会話と私生活がごく普通に語られるようなのだが、なぜかふと立ち止まる事が多い。 なぜこうなるか、ちょっと考えてみると、まず場面転換の唐突さが1つ特徴としてあるだろう。 主人公の内面をまず語る形で場面の転換がなされるのだが、作者の癖なのだろうか、前のストーリーの流れからは飛躍した内容で文章が始まり、5,6行進んだあたりで、主人公が今どこにいる、もしくは奇妙な夢を見た、そんな事実が語られるのである。 それは謎解き部分でのロジック展開でも出ており、戸惑ってしまった。 ネタバレにならない程度に書くが、今回の第1の殺人での謎の1つにタイムカードの紛失というのがある。これが第2の殺人の真相解明の問答において何の脈絡もなく出てきて面食らってしまった。思わず何ページも遡って読み直してみたが、やはりそれまでの論理展開にはタイムカードには触れてなく、しかも第2の被害者がタイムカードを所持しているなんて事も書いていない。その事は5ページ後に出てきて、ここに来てようやく事件の脈絡が繋がるわけだが、この5ページの間は何を登場人物は語っているのかさっぱりだった。 あと妙に凝った文章表現が文章のリズムを壊しているように感じた。恐らく作者の意図としては無味に流れていく文章にアクセントをつけるために選んだ言葉だろうが、ちょっと大袈裟すぎる。 それは各章題にも現れており、何となく鼻につくきらいが無いでもない。いきなり第1章の章題は「呑気な蜘蛛」である。これは何かというと、サブキャラの刑事の風体の比喩であり、この章における主題でもなんでもないのである。その他にも「魂を塗りこめた男」、「水槽のなか」といった章題なんかも単純にその章に用いた比喩をそのまま章題として使っており、何か居心地の悪さを感じた。素人がちょっと普通の人よりもヴォキャブラリーが多いということを見せつける、文章表現の引き出しが多いことを自慢しているかのようだ。 かなりきつい物言いになるが、作者が自らこの文章を一度読み直したのか、気になるところだ。 あといやに中身が淡白なのだ。タイトルの『絵の中の殺人』は、もう全く以って的外れである。本作の謎を象徴する印象的な絵が出てくるわけでもなく、また絵がトリックに活用されるわけでもない(絵ではなく額縁が活用されるがあれはかなり無理を感じる)。また絵画の世界、業界をモチーフにするならばもっとそれに関するエピソードがほしいところだ。登場人物の学院の職員達は絵を描くという設定で、その中には筆を折った者もいたが、絵画という芸術の世界に片足でも突っ込んでいる人物達にしてはごく普通であり、単純にどこかの会社、学校の事務員と変らない。物語を彩るガジェットに欠けているのだ。 それは人物設定もまた然り。主人公に元プロ野球選手を持ってきた割にはそれを活かした活躍シーンが何も無い。元プロ野球選手だからこそ出来ることがあるのに、ただの男になっている。 P.D.ジェイムズやレンデル、真保裕一など、作品ごとに色んな職種を題材に扱う作家は物語の餡子を包む皮も美味しいからこそ、読んで満足を得られる。この辺をもう少し意識してほしい。 本を読む側としては内容に入る前にタイトル、表紙を見て、どんな物語が展開されるのか想像を巡らすのだから。 |
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