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アイ・アム・レジェンド
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アイ・アム・レジェンドの評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.33pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全24件 1~20 1/2ページ
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マシスンの『縮みゆく男』でもレビューしましたが、『縮みゆく男』の主人公と本作の主人公のいずれも、人間としての尊厳や希望を奪われ,絶望感から自暴自棄になっていき、それでも生きている人間が描かれています。 「おれは確かにまだ生きているが,自覚を持って生きているのだろうか,単なる生存本能がなせるわざなのではないか」 「なぜあきらめないのだろう。どうしてこんなにねばるんだ」 「事実を受け入れて乗り越えてやる。もう恐れたりしない」 これらは、いずれも『縮みゆく男』における主人公の意思ですが、自暴自棄の状況から、前へ進むんだという心境に至るという、人間の尊厳と生存の意味を問う,単なるエンターテイメントを超えたものを感じさせる力強い作品でした。 本書『アイアムレジェンド』でも主人公は 「なぜ必死に生きてきたのか、俺にもわからない。自分のように疫病を逃れ、いつの日にか人類は復興すると願いながら必死に生き抜こうとしている人間が、自分以外にもどこかにまだいるかすかな可能性を捨てていない」 ただ、『縮みゆく男』と比較すると、主人公の自暴自棄の状況が少しクドイと感じます。 「俺は人生にけりをつけるにはあまりに鈍かったのだ」と言って酒に浸り、壁を殴りつけ、ガラスのコップをたたきつけ、せっかく見つけた顕微鏡を踏み潰すといった主人公のイライラした場面が何度となく繰り返され、そのような描写が本書の半分くらいを占めます。 それでも、本書には、いくつかの印象的な場面があります。 たとえば、野良犬を発見した時の主人公の喜び。 「生きている!昼間なのに!彼はくぐもった声で呼びながらよろよろと前進し、転んで芝生に突っ伏しそうになった。足をばたつかせ、バランスをとろうと両腕を激しく振る。『おおい、ワン公、戻っておいで。何もしないから』犬は一瞬立ち止まり、彼を振り返った。それから二軒の家屋の間に駆け込んだ」 野良犬と友達になろうと、無人のスーパーマーケットで最高級のドッグフードを大量に入手し、「おやおや、まるで赤ん坊でもいるみたいだな、と唇に笑みを浮かべる」主人公。 自暴自棄だった主人公が生きる意味を考えるきっかけになる象徴的な場面です。 | ||||
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謎の病原菌に感染して全人類が斃れて3年後の1976年、地球最後の男となったロバート・ネヴィルはひとり自宅にこもっていた。夜間、外には死後吸血鬼と化したやつらがいる。昼間は眠るやつらの胸に杭を打ちつける日々を送っていた。人類滅亡にいたった病原を独学で解き明かそうと研究に打ち込む彼の前にある日、一匹の野良犬が現れて…。 -------------------- 今から60年以上も前の1954年に構築されたSFです。かつて『地球最後の男』の邦題で出た物語が、2007年の映画化作品の公開にあわせて新訳版で再刊されたものです。私も10代のころに田中小実昌の旧訳版を読んで今も持っていますが、新型コロナウイルス禍で不要不急の外出を自粛するよう求められている中、新訳版で再読してみました。 旧版を読んだのは40年も前ですし、ハリウッドの映画版は小説とは別の代物なので、原作の展開はもうすっかり記憶から拭われていました。今回の再読で一番目を惹いたのは、ネヴィルという非感染者と、彼を狙う(後代の言葉を使うならゾンビ的)感染者との対立を描くだけではなく、そのいずれでもない第三の勢力が構成する新社会の存在があったことです。 思い返せば、人類を脅かす異形の存在が立ち現れたときに人々は、旧来の生活を保守せんとする抵抗者となる者のほかに、新しい生活への変革と適応を提唱する存在が現出するのが常です。ポスト・アポカリプス小説や人類の変転を描く小説の多くは確かにそうした三者の関係の中で展開していき、読者を翻弄していくように思います。ジョン・ウィンダム『トリフィド時代』しかり、アーサー・C・クラーク『幼年期の終わり』しかり、エミリー・セントジョン マンデル『ステーション・イレブン』しかり――。TVシリーズの『ウォーキング・デッド』シーズン3でも、主人公リックたちのグループと感染した死者ウォーカーとの死闘に加えて、総督が率いる町ウッドベリーの集団が新たな対立軸として登場し、物語を複雑に、そして豊かなものにしていきました。 そこには正邪善悪の二項対立では解消しきれない、人類社会の複雑さが描出されます。この『アイ・アム・レジェンド』でも、読者が伴走できる絶対的主人公であるかにみえたネヴィルは、やがて三者対立の図式の中で相対化されていってしまいます。その意外な展開を前にして、驚きと悲しみを味わうSFといえるかもしれません。 この尾之上浩司氏の新訳版は大変読みやすいものです。尾之上氏はこれまでもマシスンの作品を数多く訳してきましたし、この新訳版の末尾解説を読むと見えてくるように、高校時代から筋金入りのマシスンファンと思われます。それだけに、その訳文は実に見事です。 ただし、私は最後の一行の解釈は田中小実昌旧訳版のほうが正解だと思います。主人公は第三勢力の前で自分が相対化されたことに初めて思いが至ってそのことに驚愕し、大いにたじろいでいるのであって、尾之上氏が巻末の解説で指摘するような「満足感」がそこにあるとする考えは到底納得できないからです。 ネット上でもウィル・スミス主演映画のもうひとつの結末について、in line of the original book, he has become the monstrous legend of a new world.と評しているのを見つけたこともあり、田中小実昌旧訳版は決して間違っていないと思います。 さて、尾之上氏が巻末の解説の中で『アイ・アム・レジェンド』がアメリカで3度映画化される傍らで、「詳細は不明」だがスペインでも一度映像化されていると紹介しています。私はそのスペイン版を見たことがあるので少し情報を付記しておきます。 スペイン版の題名は『Soy Leyenda』、これはI am Legendの直訳です。監督・脚本はマリオ・ゴメス・マルティン。製作されたのはスペインがまだフランコ独裁政権下にあった1967年です。International Movie Databaseにはruntime(上映時間)15分とありますが、実際にはその倍以上の36分もあるモノクロ短編映画で、アメリカ版を含めた4つの映像化作品の中ではこのスペイン版がもっとも原作小説に忠実です。セリフこそ全編スペイン語で、野良犬との邂逅のくだりこそありませんが主人公の名はロバート・ネヴィルのままですし、最後の結末まで原作から一歩も踏み外さずに展開し、最後のセリフも原作通りです。時代と場所が1999年の米国ロサンゼルスに設定されているのは、製作年から30年以上の未来にしたかったのでしょう。 スペイン版『Soy Leyenda』(1967年)は同時代の日本のTVシリーズ『怪奇大作戦』(1968~69年)と同質の禍々しさが、その物語の展開、映像の編集、音楽のトーンの各所にたっぷりと込められています。ですから『Soy Leyenda』には、私のような60代を目前に控えた年代の日本人にはどこか懐かしさすら感じられます。 ――――――――――― この小説の結末を読んで、以下の書を思い出しました。 ◆山本太郎『感染症と文明――共生への道』(岩波新書) :著者は長崎大学熱帯医学研究所教授で、国際保健学や熱帯感染症学を専門とする研究者です。感染症がどのように人類の文明史に深い関わりをもってきたのかをコンパクトにまとめて解説してくれています。 著者は感染症の完全な撲滅ではなく、あえて緩やかな共生を目指すというスタンスで本書をまとめています。病気と共にある文明という視点が決して怪しいものではなく、説得力をもって受け止められる書であるといえます。 . | ||||
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ウィル・スミスの映画は、つまらなかったがヒットした。確かに、映画の前半から中盤まではすごく良かった。ただ、後半がダメ。映画評論家の町山智浩によると、当初の完成版は会社から許可がおりず、途中から撮り直しになったそうだ。もしかすると、その第一版のほうが名作として残る映画だったのかもしれない。そういえば、レンタルで観ると、別エンディングのバージョンも入っていた。まったく異なる結末であったが、たとえその別バージョンであったとしても最終評価は大して変わらない。それくらい、後半の流れは残念だった。 原作はどうかというと、名作と呼ばれるのも納得の内容。これまで3回も映画化されたというのも頷けるし、いずれまた映画化されるのではなかろうか。原作の刊行は1954年とずいぶん古いが、その古さを感じさせない作家リチャード・マシスンは凄い。 そういえば、小野不由美の『屍鬼』に登場する主人公の一人に医師がいて、彼が医学の知識をつかって吸血鬼の生態を解明しようとする。その行動がマシスンの描く主人公とかなり似ている。『屍鬼』のほうが分量も多いし描写も緻密になってはいるけれど、小野不由美はマシスンからの影響をかなり受けたのだと思う。 終末世界ものが好きな人や、吸血鬼もののファンにはお勧め。 | ||||
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発表は1954年で非常に古いが、これまで何度も映画化され、最近もウィル・スミス主演で公開された。原作も映画に合わせたタイトルでそのたびに出版されているはず。 伝染病で世界が死滅するが、死者は吸血鬼としてよみがえり、主人公は彼らと終わりのない戦いを強いられる。なんだ、パンデミック・ディストピア+バンパイヤ+ゾンビがテーマの通俗SFホラーかと気楽に読み進む。文体も実に読みやすく軽く感じる。途中ではキング「ペットセメタリー」のエンディングとそっくりの場面もあり、キングの作品は本作の翻案かも、と思う。 しかしプロットは次第に病原菌の謎を解明するバイオ・ミステリー/スリラーになっていく。終盤では人間としての存在が問われるかなり重たいテーマが提示され、ついには悲劇的な結末を迎える。“アイ・アム・レジェンド”の意味があまり軽いものではなかったことが明かされる。 近未来として1970年代後半が設定されている。読んでいてあまり違和感がないのはさすが。ストーリー展開は、派手な起伏はないが納得できるもので、これもさすがマシスンという感じだ。 傑作という気はしないが、エンタテイメントの中に純文学的なテーマをさりげなく組込む手際の良さはさすがだ。かなり上手くできたディストピアものの古典、という感想を持った。54年でこのレベルは大したもの。 | ||||
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当たり前の事ですが、読んでいると小実昌訳と違う部分に違和感を感じます。 何が違うのでしょうか? 原書も手に入れて比較してみました。 訳の正確さから言えば、実は尾之上訳の方が正確です。 単語の選び方にも無理が無く、非常に読みやすい。 ただ、なぜかそれ程面白くない。 小実昌訳の方が面白く、悲壮で、緊迫感がある。 気になって調べてみました。小実昌氏は作家としても活動していて、直木賞、谷崎潤一郎賞も取っています。数え切れないほど著作を出しています。 翻訳も凄い数を出していますが。 対して尾之上氏は翻訳家がメインであり、著作は数えるほどしかない。 結果、尾之上氏の方が訳が正確でこなれているにも関わらず、訳が多少不正確な小実昌氏の方がエキサイティングに感じてしまう。 これはつまり翻訳の実力+作家としての実力で、お互い勝負するところが違う、と。 そういう事なのではないかな?と思います、 悩ましいところです。つまらなく正確な本か、面白く不正確な本か。 と述べましたが、両者の差異は小さいものです。どちらが絶対駄目というものではなく、8:10と10:8の違いで均衡していると言えましょう。 はじめて手に取る方には恐らく何の問題もありません。 ですが旧訳がお好きな方はわざわざ新訳を求める必要は無いでしょう。 微妙にずれた世界観に多少悩まされる事になります。 私のように。(笑) | ||||
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映画版のエンドだけでも二つあるのに、小説も異なるのか! といった感じです。 ストーリも全く異なっており、主人公の最期も必見かと思います。 | ||||
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この原作と映画を比べてみた感想を述べてみます。 この原作とウィルスミス主演の映画のどちらが怖いかと言われると、ウィルスミス主演の映画の方が何十倍も恐怖が募ってきます。 ですが、他の方も言っておられる通り、犬と心を通わすシーンは原作の方が心に響きました。 あと、オチは衝撃でした。ウィルスミス主演の映画でも別エンディングでそれに似たエンディングがありますがね。 原作と映画は別物として読んだ方が面白いと思います。 | ||||
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ドラマ ウォーキング・デッドを観ています。 作者が影響を受けた作品とのことで読みました。 ウィル・スミス主演の映画版も観ましたが、本小説の方が面白いです。 映画版もこの小説を忠実に再現した内容にすれば良いのにと感じてしまいました。(にんにくは不要だと思いますが、、、) | ||||
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何といっても、ゾンビ映画の原点がここにあったとは驚きでした。 アメリカのホラー怪物モノの基礎と言えますね! | ||||
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もう既に皆様の的確なレビューがこの名作を語っています。 なので、私がこの小説で一番好きな部分について書きます。 生き物が途絶えた世界で主人公が出会った犬・・・そしてその犬との(以下未読の方のため省略)。こういったところにマシスンのうまさを感じます。それにしても田中小実昌さんの訳しか知らない私は、その小気味のよい翻訳文が好きだったのですが。。。今度、新訳も読んでみることにします。 | ||||
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吸血鬼というゴシック時代の遺物を科学的解釈でもって現代的にソフィスティケイトした傑作SF。 昨今興隆を見せる「バイオハザード」や「28日後…」、その亜流たちの元ネタは、突き詰めればこの作品に行き着くだろう。 吸血鬼菌に冒され、世界はゾンビたちに支配された。たったひとり正常な人間として生き残ったネヴィルのサヴァイヴァル生活がリアルにドラマチックに描かれる。 吸血鬼と化した女たちが肌をさらけ出して主人公を誘い出そうとしたり、主人公がその姿に肉欲を感じたり、といった描写が幾度となく頻出しますが、その辺りが非常にリアル。 極限状態に置かれてもなお本能的な飢えというサガからは逃れられない、というより極限だからこそそういった本能が昂ぶるのかも。 それに限らず、非常に想像力豊かに人類最後の男の苦悩を描出しています。さすが巨匠。 何度もあきらめそうになりながらも、それでも生き残ろうとする姿、また生き残るだけでなく人間として建設的に生き続けようとする主人公の姿には、学ぶべき部分や励まされる部分も多いです。感動的。 映画化に当たっては、アクション的な部分やホラー的味わいをメインに据えているのですが、本作、ただそういう見た目の派手さだけでなく、内面の葛藤の描写が見事なたしかな名作。 ぜひとも完全版ともいうべき小説という媒体を手にとってほしいところです。 | ||||
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映画を先に見てから原作を読んだ。 映画では最後にゾンビともども木っ端微塵だったが、 こちらは少し後味の悪い結末だった。 | ||||
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多彩な作風を持つ作者の近未来SF(1954年発表)。1976年、吸血鬼が世界を席巻する中で唯一人生き残った男ロバート・ネヴィル。吸血鬼は伝説の通り、太陽光が致命的で夜間だけ活動し、十字架とニンニクにも弱く、杭を胸に打たれると瓦解する。だが、優れたSFに良く見られるように、すぐさま問題提起がなされる。吸血鬼は世の諸悪と比べて、より怪物的存在なのか ? ネヴィル一人闘う事に意味があるのか、即ち吸血鬼の仲間になった方が楽ではないのか ? だが、ネヴィルは闘いを止めない。 闘いの合間に、主に妻ヴァージニアを対象とした回想シーンが入る。感傷的シーンだが、当初、吸血鬼への変身は伝染病だと考えられていた事が分かる。そのせいもあってか、ネヴィルはニンニクや血液の成分分析などの科学的手法で敵と闘おうとする。面白い捻りである。そして「細菌は吸血鬼病の原因になり得る」との閃きをネヴィルは得て、遂に"吸血鬼菌"を発見する。着想外の展開である。吸血鬼伝説を細菌学で説明しようとは。しかし、これだけでは感染の原因は説明出来ても、十字架や杭は説明出来ない。ネヴィルは懊悩の末、キリスト教的終末論や吸血鬼伝説の精神的影響と解釈する。まさに謎解きミステリの趣きである。二年後。反攻に出たネヴィルは吸血鬼狩りを始める。そこで生きた娘ルースと出会う。「女か虎か」ではないが、ルースは感染者か否か...。そして、題名の「伝説」の意味とは何なのか ? 余りにも皮肉な結末である。社会の中でマジョリティとは何か、標準とは何かを、吸血鬼伝説に託して問い掛けた本格SFの秀作。 | ||||
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ウィル・スミス主演の映画は、吸血鬼をゾンビのようなグロテスクな存在に描くことに終始してしまい、原作がもっていたアイデンティティへの不信感や、化け物とは何かという問いかけが無くなった台無しでした。 ぜひ、映画を観てつまらない、ただのゾンビ映画ではないかと思った人も、こちらの原作を読んでください。 | ||||
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映画「アイアム・レジェンド」を見ました。 前半は楽しめたのに、その結末に納得がいかず、原作はいったいどんな話だったのだろうと思って読んでみました。 この作品が50年も前に書かれたものだったことにまず驚きました。 50年前のものなのに、古さを感じさせず、ぐいぐい話に引き込まれました。 主人公の孤独や、絶望、そして、そのあとに続くある種の平穏が凄くリアルでした。 直らないであろう病気にかかったときの人間の心の動きに、少し通じるものがあるかもしれません。 なぜ、アイアムレジェンドだったかが分かり、そのせつなさにぐっときました。 読んでよかったと思います。 | ||||
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見たいなと思っていた映画の原作なので、読んでみました。 たった一人の登場人物(時々吸血鬼は襲ってくるし、回想には人が出てくるけど)の 吸血鬼との日常的な格闘生活を描いて、引き込んでいく筆力は凄いなと思います。 絶望的な孤独の中で、時々くじけそうになりながらも、原因を究明し、 何とか事態打開を目指そうとする姿に、尊敬を覚えました。 私なら諦めてしまうと思ったし。 ある日見つけた野良犬を何とか懐かせようと努力し、撫でる時にじーんとしている シーンは、こちらも胸が熱くなりました。 どんなに強くたって、孤独は辛いです。 でも、結末もご都合主義には流れていかないんですよね。シビアーです。 一口にハッピーエンドじゃないけれど、どこか納得のいく結末でした。 それはやるだけの事はやった主人公の姿と、自分を滅ぼそうとする存在に対しても 注げる客観的な眼差しに、深い人間性を感じたからだと思います。 | ||||
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「地球最後の男」(もしくは「オメガマン」Ωはギリシャアルファベットの最後の文字)のほうがピタッとくるというか、想像力をかきたてられるタイトルだと 思うんですけど、映画の題にあわせざるを得ないのでしょうがないか。 映画はまだ見てませんが、原作とは違うようですね。 少なくとも原作は傑作です。新訳もすばらしい。 | ||||
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映画を観てから本書を読みました。素材的には面白いと思っていましたが、映画の出来が今一つだったので、原作はどういう仕上がりになっているのか興味があったためです。内容は文句無しに面白くて、映画とあまりにも違うことに驚きました。映画が「アイアムレジェンド」というよりは「ヒーイズレジェンド」だったのに対し、原作はキッチリ「アイアムレジェンド」になっています。読んで損はないです。 | ||||
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古典的名作を映画にかこつけてハヤカワ文庫が再販したものですが SF映画として過去4回もリメイクされいることからもわかるとおり 傑作です、今の日本にも薬害騒動でシンクロされているテーマから 映画化のタイミングとしては申し分ない時期なのかもしれませんが 下記に書いたとおり美術スタッフの頑張りに演出人が答えられたか 疑問が残る映画化になりました。 地球最後の男という作品の名前で何度も映画化されている名作です。 NYの荒廃した姿に圧倒されてしまう映像美で、この作品はどうせ 観るなら映画館で観たほうが数倍いい点を付けるでしょう、ただホラー 映画に仕立てたせいで、後世に残す可能性があった素晴らしい世界観を 構築した美術スタッフの頑張りを無駄にした可能性があるのかもと考えて しまいました、素晴らしい映画には違いありませんが2度観たいとは思わない | ||||
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映画の予告をテレビで観て興味を持ち、買ってみた。 最初はサバイバルホラーだと思っていたら、実は熱いロマン小説だったので吃驚。 ラストの一行を読んだとき、『ロッキー・ザ・ファイナル』における、ロッキーが リング上でコールされるシーンが脳裏に浮かんできた。 自分自身は吹けば飛びそうな自陣で密やかに生き残っているつもりが、過酷な環境が 主人公を鍛え上げ、まさに「ロッキーは本気で体を作ってきました!」的な、 客観的に見たら凄いことになっていたことに本人は気付いていませんでした、 という展開がたまらん。 仕事とか趣味や勉強なんかで、孤独に戦わざるを得ないような人が疲れたときに 読めば、熱いエネルギーをもらえるでしょう。 | ||||
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