アイ・アム・レジェンド
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アイ・アム・レジェンドの総合評価:
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マシスンの『縮みゆく男』でもレビューしましたが、『縮みゆく男』の主人公と本作の主人公のいずれも、人間としての尊厳や希望を奪われ,絶望感から自暴自棄になっていき、それでも生きている人間が描かれています。 「おれは確かにまだ生きているが,自覚を持って生きているのだろうか,単なる生存本能がなせるわざなのではないか」 「なぜあきらめないのだろう。どうしてこんなにねばるんだ」 「事実を受け入れて乗り越えてやる。もう恐れたりしない」 これらは、いずれも『縮みゆく男』における主人公の意思ですが、自暴自棄の状況から、前へ進むんだという心境に至るという、人間の尊厳と生存の意味を問う,単なるエンターテイメントを超えたものを感じさせる力強い作品でした。 本書『アイアムレジェンド』でも主人公は 「なぜ必死に生きてきたのか、俺にもわからない。自分のように疫病を逃れ、いつの日にか人類は復興すると願いながら必死に生き抜こうとしている人間が、自分以外にもどこかにまだいるかすかな可能性を捨てていない」 ただ、『縮みゆく男』と比較すると、主人公の自暴自棄の状況が少しクドイと感じます。 「俺は人生にけりをつけるにはあまりに鈍かったのだ」と言って酒に浸り、壁を殴りつけ、ガラスのコップをたたきつけ、せっかく見つけた顕微鏡を踏み潰すといった主人公のイライラした場面が何度となく繰り返され、そのような描写が本書の半分くらいを占めます。 それでも、本書には、いくつかの印象的な場面があります。 たとえば、野良犬を発見した時の主人公の喜び。 「生きている!昼間なのに!彼はくぐもった声で呼びながらよろよろと前進し、転んで芝生に突っ伏しそうになった。足をばたつかせ、バランスをとろうと両腕を激しく振る。『おおい、ワン公、戻っておいで。何もしないから』犬は一瞬立ち止まり、彼を振り返った。それから二軒の家屋の間に駆け込んだ」 野良犬と友達になろうと、無人のスーパーマーケットで最高級のドッグフードを大量に入手し、「おやおや、まるで赤ん坊でもいるみたいだな、と唇に笑みを浮かべる」主人公。 自暴自棄だった主人公が生きる意味を考えるきっかけになる象徴的な場面です。 | ||||
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謎の病原菌に感染して全人類が斃れて3年後の1976年、地球最後の男となったロバート・ネヴィルはひとり自宅にこもっていた。夜間、外には死後吸血鬼と化したやつらがいる。昼間は眠るやつらの胸に杭を打ちつける日々を送っていた。人類滅亡にいたった病原を独学で解き明かそうと研究に打ち込む彼の前にある日、一匹の野良犬が現れて…。 -------------------- 今から60年以上も前の1954年に構築されたSFです。かつて『地球最後の男』の邦題で出た物語が、2007年の映画化作品の公開にあわせて新訳版で再刊されたものです。私も10代のころに田中小実昌の旧訳版を読んで今も持っていますが、新型コロナウイルス禍で不要不急の外出を自粛するよう求められている中、新訳版で再読してみました。 旧版を読んだのは40年も前ですし、ハリウッドの映画版は小説とは別の代物なので、原作の展開はもうすっかり記憶から拭われていました。今回の再読で一番目を惹いたのは、ネヴィルという非感染者と、彼を狙う(後代の言葉を使うならゾンビ的)感染者との対立を描くだけではなく、そのいずれでもない第三の勢力が構成する新社会の存在があったことです。 思い返せば、人類を脅かす異形の存在が立ち現れたときに人々は、旧来の生活を保守せんとする抵抗者となる者のほかに、新しい生活への変革と適応を提唱する存在が現出するのが常です。ポスト・アポカリプス小説や人類の変転を描く小説の多くは確かにそうした三者の関係の中で展開していき、読者を翻弄していくように思います。ジョン・ウィンダム『トリフィド時代』しかり、アーサー・C・クラーク『幼年期の終わり』しかり、エミリー・セントジョン マンデル『ステーション・イレブン』しかり――。TVシリーズの『ウォーキング・デッド』シーズン3でも、主人公リックたちのグループと感染した死者ウォーカーとの死闘に加えて、総督が率いる町ウッドベリーの集団が新たな対立軸として登場し、物語を複雑に、そして豊かなものにしていきました。 そこには正邪善悪の二項対立では解消しきれない、人類社会の複雑さが描出されます。この『アイ・アム・レジェンド』でも、読者が伴走できる絶対的主人公であるかにみえたネヴィルは、やがて三者対立の図式の中で相対化されていってしまいます。その意外な展開を前にして、驚きと悲しみを味わうSFといえるかもしれません。 この尾之上浩司氏の新訳版は大変読みやすいものです。尾之上氏はこれまでもマシスンの作品を数多く訳してきましたし、この新訳版の末尾解説を読むと見えてくるように、高校時代から筋金入りのマシスンファンと思われます。それだけに、その訳文は実に見事です。 ただし、私は最後の一行の解釈は田中小実昌旧訳版のほうが正解だと思います。主人公は第三勢力の前で自分が相対化されたことに初めて思いが至ってそのことに驚愕し、大いにたじろいでいるのであって、尾之上氏が巻末の解説で指摘するような「満足感」がそこにあるとする考えは到底納得できないからです。 ネット上でもウィル・スミス主演映画のもうひとつの結末について、in line of the original book, he has become the monstrous legend of a new world.と評しているのを見つけたこともあり、田中小実昌旧訳版は決して間違っていないと思います。 さて、尾之上氏が巻末の解説の中で『アイ・アム・レジェンド』がアメリカで3度映画化される傍らで、「詳細は不明」だがスペインでも一度映像化されていると紹介しています。私はそのスペイン版を見たことがあるので少し情報を付記しておきます。 スペイン版の題名は『Soy Leyenda』、これはI am Legendの直訳です。監督・脚本はマリオ・ゴメス・マルティン。製作されたのはスペインがまだフランコ独裁政権下にあった1967年です。International Movie Databaseにはruntime(上映時間)15分とありますが、実際にはその倍以上の36分もあるモノクロ短編映画で、アメリカ版を含めた4つの映像化作品の中ではこのスペイン版がもっとも原作小説に忠実です。セリフこそ全編スペイン語で、野良犬との邂逅のくだりこそありませんが主人公の名はロバート・ネヴィルのままですし、最後の結末まで原作から一歩も踏み外さずに展開し、最後のセリフも原作通りです。時代と場所が1999年の米国ロサンゼルスに設定されているのは、製作年から30年以上の未来にしたかったのでしょう。 スペイン版『Soy Leyenda』(1967年)は同時代の日本のTVシリーズ『怪奇大作戦』(1968~69年)と同質の禍々しさが、その物語の展開、映像の編集、音楽のトーンの各所にたっぷりと込められています。ですから『Soy Leyenda』には、私のような60代を目前に控えた年代の日本人にはどこか懐かしさすら感じられます。 ――――――――――― この小説の結末を読んで、以下の書を思い出しました。 ◆山本太郎『感染症と文明――共生への道』(岩波新書) :著者は長崎大学熱帯医学研究所教授で、国際保健学や熱帯感染症学を専門とする研究者です。感染症がどのように人類の文明史に深い関わりをもってきたのかをコンパクトにまとめて解説してくれています。 著者は感染症の完全な撲滅ではなく、あえて緩やかな共生を目指すというスタンスで本書をまとめています。病気と共にある文明という視点が決して怪しいものではなく、説得力をもって受け止められる書であるといえます。 . | ||||
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ウィル・スミスの映画は、つまらなかったがヒットした。確かに、映画の前半から中盤まではすごく良かった。ただ、後半がダメ。映画評論家の町山智浩によると、当初の完成版は会社から許可がおりず、途中から撮り直しになったそうだ。もしかすると、その第一版のほうが名作として残る映画だったのかもしれない。そういえば、レンタルで観ると、別エンディングのバージョンも入っていた。まったく異なる結末であったが、たとえその別バージョンであったとしても最終評価は大して変わらない。それくらい、後半の流れは残念だった。 原作はどうかというと、名作と呼ばれるのも納得の内容。これまで3回も映画化されたというのも頷けるし、いずれまた映画化されるのではなかろうか。原作の刊行は1954年とずいぶん古いが、その古さを感じさせない作家リチャード・マシスンは凄い。 そういえば、小野不由美の『屍鬼』に登場する主人公の一人に医師がいて、彼が医学の知識をつかって吸血鬼の生態を解明しようとする。その行動がマシスンの描く主人公とかなり似ている。『屍鬼』のほうが分量も多いし描写も緻密になってはいるけれど、小野不由美はマシスンからの影響をかなり受けたのだと思う。 終末世界ものが好きな人や、吸血鬼もののファンにはお勧め。 | ||||
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発表は1954年で非常に古いが、これまで何度も映画化され、最近もウィル・スミス主演で公開された。原作も映画に合わせたタイトルでそのたびに出版されているはず。 伝染病で世界が死滅するが、死者は吸血鬼としてよみがえり、主人公は彼らと終わりのない戦いを強いられる。なんだ、パンデミック・ディストピア+バンパイヤ+ゾンビがテーマの通俗SFホラーかと気楽に読み進む。文体も実に読みやすく軽く感じる。途中ではキング「ペットセメタリー」のエンディングとそっくりの場面もあり、キングの作品は本作の翻案かも、と思う。 しかしプロットは次第に病原菌の謎を解明するバイオ・ミステリー/スリラーになっていく。終盤では人間としての存在が問われるかなり重たいテーマが提示され、ついには悲劇的な結末を迎える。“アイ・アム・レジェンド”の意味があまり軽いものではなかったことが明かされる。 近未来として1970年代後半が設定されている。読んでいてあまり違和感がないのはさすが。ストーリー展開は、派手な起伏はないが納得できるもので、これもさすがマシスンという感じだ。 傑作という気はしないが、エンタテイメントの中に純文学的なテーマをさりげなく組込む手際の良さはさすがだ。かなり上手くできたディストピアものの古典、という感想を持った。54年でこのレベルは大したもの。 | ||||
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当たり前の事ですが、読んでいると小実昌訳と違う部分に違和感を感じます。 何が違うのでしょうか? 原書も手に入れて比較してみました。 訳の正確さから言えば、実は尾之上訳の方が正確です。 単語の選び方にも無理が無く、非常に読みやすい。 ただ、なぜかそれ程面白くない。 小実昌訳の方が面白く、悲壮で、緊迫感がある。 気になって調べてみました。小実昌氏は作家としても活動していて、直木賞、谷崎潤一郎賞も取っています。数え切れないほど著作を出しています。 翻訳も凄い数を出していますが。 対して尾之上氏は翻訳家がメインであり、著作は数えるほどしかない。 結果、尾之上氏の方が訳が正確でこなれているにも関わらず、訳が多少不正確な小実昌氏の方がエキサイティングに感じてしまう。 これはつまり翻訳の実力+作家としての実力で、お互い勝負するところが違う、と。 そういう事なのではないかな?と思います、 悩ましいところです。つまらなく正確な本か、面白く不正確な本か。 と述べましたが、両者の差異は小さいものです。どちらが絶対駄目というものではなく、8:10と10:8の違いで均衡していると言えましょう。 はじめて手に取る方には恐らく何の問題もありません。 ですが旧訳がお好きな方はわざわざ新訳を求める必要は無いでしょう。 微妙にずれた世界観に多少悩まされる事になります。 私のように。(笑) | ||||
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