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5の評価:
| 書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.80pt | ||||||||
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全25件 21~25 2/2ページ
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| 例えば、ジョンレノンとオノオーコの愛はまぶしすぎる。あれが本当の愛なら・・・自分は相当まずいんじゃないか!この人生のうちでああいう愛の土俵に上がれる日がくるのか!と愛の模範スタイルに知らず知らずのうち苦しめられている方、などが読むと愛に対して新しいスイッチが入るのではないかと思いました。女性が読むと多分イライラします。ページも残り少なくなってきてるのに多分「・・・まぢ?このまま?」と絶望しかけるでしょう。でも麒麟の田村の実話に「ご飯の味の向こう側」というネタがありますが、多分最後は「ひどい男の向こう側」がほんのり見えてくるでしょう。大丈夫です。 | ||||
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| 中志郎と真智子は倦怠期の夫婦。バリ島旅行に出かけた先で、常夏の国でも手袋をしている不思議な女・石橋と出会う。その石橋が手袋を脱いで、中志郎と手を合わせたところ、石橋から志郎へとあるものが移動していくのがわかった…。 あのベストセラー「ジャンプ」から7年。待ちに待った佐藤正午の新作がようやく登場しました。この7年間、佐藤正午の長編小説に今一度じっくり・どっぷりつかってみたいと飢餓感を募らせていた私にとって、本書は読書の愉悦に浸ることの出来た一冊となりました。 そもそもこれはジャンル分けを拒む小説です。出版元は恋愛小説として売るつもりなのかもしれませんが、そうであるともいえるし、そうではないともいえます。石橋という不思議な能力を持った女と志郎との物語かと思わせて、にわかに津田伸一という物書きの一見軽佻浮薄でスキャンダラスな恋愛物語へと乗り換わっていくところなど、読者を見事に欺いてくれるコンゲームのような様相も呈しています。ミステリアスで、幻想的で、荒唐無稽で、とにもかくにもつかみどころのない、一体どこへ読者を連れて行くつもりなのかといぶかしい思いを募らせながら頁を繰ること数時間。 浮世離れした物語にしかみえなかったこの小説は最後の段落(505頁)で突如として、痛ましくも苦い愛の現実を突きつけてくるのです。世に溢れる“恋愛小説”の大半こそが実はどうしようもなく現実離れしたお話に思えてきて仕方ないほど、この物語の最後は、うつし身のやるせなさを、輪郭線も鮮やかに浮かび上がらせてくるのです。私はこの最終段落で、この物語の謎めいた展開が一気に氷解したように思え、そしてまたその「答え」を前にしばし呆然と言葉を失ったほどです。 これほど面白い小説を読み終えた今、早くも私は佐藤正午の次なる長編小説に対して飢餓感を募らせ始めています。次回もまた7年待たされるのでしょうか。 ーーーー 2016年5月20日文庫版読了後に追記 でたらめな物語と思わせながら、実はどんな恋愛小説よりも明日への希望を見せてくれるみごとな小説 かつて筆禍事件を2度起こしながらも作家・津田伸一はなんとか文壇に生き残り続けていた。2度の離婚を経て、今はネットを使っては次々と複数の女性との逢瀬を、手軽に気楽に、そして自棄ともいえる具合に続けている。 ある日、津田は密会相手の夫から、不思議な体験を聞かされる。夫婦で出かけたバリ旅行中に出会った石橋という女と手を合わせたところ、その手を介して何かが自分に移ってきたというのだ…。 --------- この小説『5』を私は単行本で出た直後の2007年に一度読んでいます。その時、津田伸一という主人公の、出鱈目だらけに見える日常と、石橋という女との幻想的な邂逅を通して描かれる、愛の苦みに接して、大いに感応(かんのう)した自分を見出していたことをよく覚えています。 今回、9年ぶりに文庫本で読み返してみることにしました。669頁もあって手にずしりと重い書ですが、それでもあの時と同じく、津田の物語に魅せられました。 佐藤正午の文章のリーダビリティの高さには、本当にうならされます。衒学的な漢字熟語が並ぶでもなく、馥郁たる文学表現が豪奢に散りばめられるでもなく、ごく当たり前の日本語によって綴られる彼の文章はするすると読者の目を通して体内へと取り込まれます。それでいて、心内で文章が緩(ゆる)りと発酵を始めるような感覚を味わうのです。 かつて作家・関川夏央がこの小説を評して、夏目漱石『明暗』の実にみごとなパロディになっている、と言ったことがあります。(NHK『週刊ブックレビュー』出演時) なるほど、そう言われて読み返すと、漱石のあの、どこか世間に倦み疲れた高等遊民がごとき主人公が和光同塵という体(てい)でたどる、どこへ向かうとも知れぬ日々と似た物語がここにはあります。事実、『5』の主人公・津田は、物語の中で幾度も夏目漱石の名を口にしていて、読者にあの文豪の小説を思い返すよう重ねて念を押しているようです。 さて、私は単行本で読んだ際にはこれを痛ましくも苦い愛の現実を描いた悲劇として読んだのですが、今回文庫本で読み返してみて思うところに変化がありました。 「必ず冷めるもののことをスープと呼び愛と呼ぶ」(234頁) 「愛の記憶と、愛は別のものだ」(519頁) 「人は思い出すだけじゃだめなんじゃないかな? たぶん、だめだというか、足りないんだ。古い記憶をどれだけなまなましく取り戻すことができても、いま生きている実感とのあいだには、ずれがあるんだよ。(中略)だから人は、これからも生きていくつもりなら、思い出すだけじゃ足りないんだ。思い出した記憶はまたいずれ消えるだろう。でもひとりの男がひとりの女を愛する、いま愛している、その自然な感情は永遠に続いていくだろう」(523頁) 愛をめぐるこうした言辞があちらこちらで顔を出す小説が描こうとしているのは、かつて誰かを愛した記憶に淫することなく、明日への一歩を踏み出すことこそが大切さなのだ、という点だと私は思い直したのです。最終章で津田は、石橋の手から身内へと移動してきたものに背中を押されるように一歩を踏み始めます――少なくとも私にはそう見えます。 冷めないスープは確かにない。ないのだけれども一方で、ならば温め直すか、もしくはもう一度スープを作りなおせばよい。 そんなことを、かなりの程度いい加減な主人公の人生に託して、佐藤正午は読者に語りかけているように思えてなりません。 ひとつの小説を9年の歳月を経たのちに読み返すことで、見えてくるもの、感じることに違いが生まれる。それは読書の醍醐味でもありますし、同時にみずからの人生のたどった月日を想うよすがにもなるということです。 | ||||
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| 誰でも過去の気持ちを忘れてしまうものだ。たとえば誰かを好きになった頃のときめきを、いつまでも持続し続けるというのは難しいのではないだろうか。それが何かの力で取り戻すことになったらどうか、というのがこの小説の中では語られていると思う。恋愛に限らず、記憶というものは薄れがちである。日々生きているし、身の回りに起きる事は日々変化し続けているのだ。その歯車がカチリと合った時にこそ、感情が動くかもしれないし、大幅にずれた時だから動くのかもしれない。 もし記憶を取り戻す超能力があったとしたら、人生はこんな風に転がっていくのかも、と思わせてくれる小説だ。からくりは淡々と埋め込まれていて、最後の一行まで気を抜かずに読ませてくれるはずだ。 | ||||
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| 男の人に都合の良すぎな恋愛小説として読んでしまったから、今イチ。“超能力の流れ込み”という発想の面白さは買いかと思うけど、主人公の作家があまりに無頼で独り善がりで、入りずらかった。私が女の立場で読むせいかな。男の人には楽しいかも。 | ||||
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| タイムスリップを扱った「Y」、失踪を扱った「ジャンプ」に続き、超能力をテーマにして描かれたのが「5」。 ただし読者はしょっぱなから超能力とは何ぞや、という迷路に迷い込むことになる。 ふとした事件から中志郎に授けられた能力は「(奥さんと)出会った頃の情熱を取り戻せる能力」。 エモーショナルな超能力だ。だが、その能力(あるいは情熱)が、ほのかな赤い光のようにずっと物語の中に小さく灯り続け、ときには光が弱まり、そしてときには柔らかくも強烈は光を放っている。 この赤い光を、自分の中のなにかと照らし合わせるきっかけがあれば、この作品は生涯忘れられない作品になるだろう。もし何かのの巡り合わせのちがいで、その光と同質のものが読者の内側になかったとしたら、これは、ただ朽ち果ててゆく作家が再生しようとしているだけの作品に見えるかもしれない。 | ||||
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