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5の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.88pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全16件 1~16 1/1ページ
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「鳩の撃退法」の津田伸一の前日譚。性格がひねくれて相手を傷つける会話しかできない男(のくせして女性に不自由しない男)という、あまり好きになれない主人公なので、先にこちらを読んでいれば「鳩」を読まなかったかもしれません。書いた順とは逆ですが、読む順としては「鳩」→「5」が正解だと思います。そしてまた「鳩」の上巻へと・・・。 | ||||
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「鳩の撃退法」に出てきた津田伸一の小説家時代のお話。 「鳩の撃退法」が感動的に面白かったので、佐藤さんの小説をそれから何冊か読んでみると、いずれも面白く、徹夜して読んでしまったものもありました。きっと文章自体が好みなのでしょう。 さて、そんな私でもこの作品は読むのに結構な時間がかかってしまいました。主人公・津田さんの考え方が結構独特で(「鳩の撃退法」の時はそんなこと思わなかったのですが)、それはとっても作品としては興味深いですし、共感できるところもないわけではないのですが、女性としては反感を感じるところもあり…。一応の緩やかなあらすじはありますし、ファンタジー的なこともありますが、やはりメーンは主人公・津田さんの日常のあれこれだと思いますので。 凄く好きか、退屈で読むのがしんどいか、結構好みが分かれるのでは?と感じました。 佐藤さんの文章がとにかく大好き!という方なら文章自体を楽しむという意味で面白く読めるとは思います。 | ||||
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かつて筆禍事件を2度起こしながらも作家・津田伸一はなんとか文壇に生き残り続けていた。2度の離婚を経て、今はネットを使っては次々と複数の女性との逢瀬を、手軽に気楽に、そして自棄ともいえる具合に続けている。 ある日、津田は密会相手の夫から、不思議な体験を聞かされる。夫婦で出かけたバリ旅行中に出会った石橋という女と手を合わせたところ、その手を介して何かが自分に移ってきたというのだ…。 --------- この小説『』を私は単行本で出た直後の2007年に一度読んでいます。その時、津田伸一という主人公の、出鱈目だらけに見える日常と、石橋という女との幻想的な邂逅を通して描かれる、愛の苦みに接して、大いに感応(かんのう)した自分を見出していたことをよく覚えています。 今回、9年ぶりに文庫本で読み返してみることにしました。669頁もあって手にずしりと重い書ですが、それでもあの時と同じく、津田の物語に魅せられました。 佐藤正午の文章のリーダビリティの高さには、本当にうならされます。衒学的な漢字熟語が並ぶでもなく、馥郁たる文学表現が豪奢に散りばめられるでもなく、ごく当たり前の日本語によって綴られる彼の文章はするすると読者の目を通して体内へと取り込まれます。それでいて、心内で文章が緩(ゆる)りと発酵を始めるような感覚を味わうのです。 かつて作家・関川夏央がこの小説を評して、夏目漱石『明暗』の実にみごとなパロディになっている、と言ったことがあります。(NHK『週刊ブックレビュー』出演時) なるほど、そう言われて読み返すと、漱石のあの、どこか世間に倦み疲れた高等遊民がごとき主人公が和光同塵という体(てい)でたどる、どこへ向かうとも知れぬ日々と似た物語がここにはあります。事実、『5』の主人公・津田は、物語の中で幾度も夏目漱石の名を口にしていて、読者にあの文豪の小説を思い返すよう重ねて念を押しているようです。 さて、私は単行本で読んだ際にはこれを痛ましくも苦い愛の現実を描いた悲劇として読んだのですが、今回文庫本で読み返してみて思うところに変化がありました。 「必ず冷めるもののことをスープと呼び愛と呼ぶ」(234頁) 「愛の記憶と、愛は別のものだ」(519頁) 「人は思い出すだけじゃだめなんじゃないかな? たぶん、だめだというか、足りないんだ。古い記憶をどれだけなまなましく取り戻すことができても、いま生きている実感とのあいだには、ずれがあるんだよ。(中略)だから人は、これからも生きていくつもりなら、思い出すだけじゃ足りないんだ。思い出した記憶はまたいずれ消えるだろう。でもひとりの男がひとりの女を愛する、いま愛している、その自然な感情は永遠に続いていくだろう」(523頁) 愛をめぐるこうした言辞があちらこちらで顔を出す小説が描こうとしているのは、かつて誰かを愛した記憶に淫することなく、明日への一歩を踏み出すことこそが大切さなのだ、という点だと私は思い直したのです。最終章で津田は、石橋の手から身内へと移動してきたものに背中を押されるように一歩を踏み始めます――少なくとも私にはそう見えます。 冷めないスープは確かにない。ないのだけれども一方で、ならば温め直すか、もしくはもう一度スープを作りなおせばよい。 そんなことを、かなりの程度いい加減な主人公の人生に託して、佐藤正午は読者に語りかけているように思えてなりません。 ひとつの小説を9年の歳月を経たのちに読み返すことで、見えてくるもの、感じることに違いが生まれる。それは読書の醍醐味でもありますし、同時にみずからの人生のたどった月日を想うよすがにもなるということです。 | ||||
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津田さん(主人公の小説家)今『鳩の撃退法』でまた・・・もてるんですね。ほんとに・・・・ 他人の嫁口説いて騒動起こすのはなぜだろう | ||||
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こ、これは好き嫌いの分かれる本だ。 正午ファンとしてはもうまさに正午節全開!の本だけど、 いきなり佐藤正午の本を読むのはこれが初めて!という人には向かないかも… とにかくダメすぎる男の話ですからね(笑) | ||||
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佐藤正午氏の最高傑作の触れ込みのとうり、堪能させていただきました。 細かい内容に就いては、控えさせていただきますが、今作も文章表現が微に入り細に入り、超絶技巧の限りを尽くしており、また語りの視点を意図的にぶれさせる手法を採っており、正午氏のファンならずとも、この作家が単なるエンターテイメントとしての文学を指向するものではなく、本物の文学を究めつつある道程にあるのはわかっていただきたいと、一ファンとしておもいました。 最後の名文句がありますが、書くことに関してはたとえ手書きであろうと情熱は失わないという、隠れた作者の決意をよんだ気がして、頼もしく感じました。一切内容に触れない、レビューなんてすみません。 | ||||
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登場人物に共感できない、という感想がとても嫌いだ 評価としてはまっとうで、素直な気持ちなんだろうが だったらミクシィのコミュニティで遊んでればよいじゃないって攻撃的な気持ちになる。 冷めた夫婦の愛が「次第に」復活する話しかと思ってみたらば、序盤から裏切られる。 女たらしな小説家先生が登場し不埒な男女関係が美しくなく連ねられていく。 だけれど、恋愛語りをアクセサリーのように自己陶酔の道具にはしない、 簡単に酔えない頭の良い男女のようすはサクサクよめます。 読売新聞で読んだ作者の言葉を思い出した。 「最近は、登場人物の生き方が『道徳的でない』と非難するような読み方ばかり。だったら小説など読む必要はない。僕は少なくとも、面白い小説を、まともな文章で書きたい」 もともとアウトローな作家の主張など、上品な方のお耳には届かないかもしれない だけど お茶の間に大人気で、子供に見せたい映画ナンバーワンであろう、 あのアニメーション監督も 「理屈にあわないと言ってくる人がいる。そういう人は映画を見ないほうがいい」と(たしか)ポニョ公開前に言っていた。 原稿用紙やセル画に世界を誠実に写しとれば、 不都合なディテールも汚い気持ちも写って当然だ 生きてる作品の証拠。 | ||||
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佐藤正午の小説は、読めば必ず読んだだけのことはある。 その意味で読者を裏切らない作家である。 最近の日本の長編小説はエピソードをたくさん挿入することで長くなっている。 そのエピソードの多くが未解決で放置され、「何だったのかな」と思わされる事態が続いている。一種の放置プレイだが、大部分は50ページで済むような話である。 少なくとも佐藤正午はそうならないように、必死に考えて書いている。もくろみのすべてが成功しているとは思わないが、それが伝わってくる。 某作家のベストセラーなんか、何だったのか全然わからないし、長くある必要があったのかとさえ思う。何で四国に行って、図書館の人と知り合うのか。 そうかと思うと、別のベストセラーでは延々と風呂に入ったり。ただ、長引かせているだけではないのか。 そういう本に星を5つつけているレビュアーは、時代の雰囲気に追随しているだけでしょう。 そんな人に「佐藤正午はいいぞ」といっても、たぶん伝わらないだろうが、たまには自分の目で読んで、自分の文章で評価してみろよ。そういいたい。 | ||||
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主人公の小説家「津田伸一」は佐藤正午の小説ではおなじみの皮肉屋タイプの人物で、 前半は彼が多数の女性と関係を持つ話が長々と続き、読み進めるのに正直苦労した。 ところが、一夜を共にしたある女性に出版前の小説の生原稿を持ち去られてしまうところから 一挙に事態が急変し、主人公は小説家として破滅への道をたどることになる・・・。 主人公は今の生活にけりをつけるためにも、わざとはちゃめちゃな女性関係を続けてたように思えてならない。 この本は小説家が主人公という部分でも、昔読んだ「放蕩記」の続編のような気がした。 | ||||
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当然のように冷める愛を蘇らせ超能力を授かったとしても・・・ ここでいう愛はエロスのことをさしているのだと思う。 逆に冷めなかったら、人は四六時中いちゃついて仕事にもいけないし 日常に障りがあるでしょうね。 それでもやっぱり永遠を求めてしまいます。 | ||||
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現代の「明暗」という書評に惹きつけられて読んでみたが,それとはちょっと違うような読後感.人間のエゴをむきだしにしていきながら,そこに永遠や愛の本質をからめていき,結局は人間は何も果たせないまま終わる,まるでカミュかサルトルを読むようでもあり,一種の実験小説にもとれる. | ||||
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2月初めに購入した本書を2ヶ月掛かりでようやく読破した。と言うと、さぞ読むのに四苦八苦した様に聞こえるかもしれない。確かにある意味そうなのだが、決して詰まらなかった訳ではない。私は、佐藤正午の熱心な読者ではないが、彼の著作である「Y」や「ジャンプ」を読んで、その映画的で巧緻なレトリックと文章力の見事さに舌を巻いたひとりとして今作に接し、相変わらずの筆力の凄さに、文句なく感服した。特に今回は、心理分析と語彙に長けた小説家が狂言廻し的主人公として登場する。不特定多数の女性たちと体を交わしながら生きていくその奔放かつ辛辣な心理描写に煽られ、性描写など殆どないにも拘らず、女性たちとのなんともなまめかしいエロチックなリアル感溢れる会話に当てられながら、小休止しつつ読み続けていたのだ。ただ、主人公のキャラと日常が強靭であった為、“倦怠期を迎えたカップルに再び燃えるような情熱を呼び戻させる超能力”や、“その超能力を持つ石橋”の存在と言う本来なら魅力溢れる作品のテーマ、肝と思える部分が、私的には霞んでしまった。ラストの“愛”の真理の苛酷さが今ひとつ胸に迫ってこないのは、私の読みが浅いのか、それとも、、、。 | ||||
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例えば、ジョンレノンとオノオーコの愛はまぶしすぎる。あれが本当の愛なら・・・自分は相当まずいんじゃないか!この人生のうちでああいう愛の土俵に上がれる日がくるのか!と愛の模範スタイルに知らず知らずのうち苦しめられている方、などが読むと愛に対して新しいスイッチが入るのではないかと思いました。女性が読むと多分イライラします。ページも残り少なくなってきてるのに多分「・・・まぢ?このまま?」と絶望しかけるでしょう。でも麒麟の田村の実話に「ご飯の味の向こう側」というネタがありますが、多分最後は「ひどい男の向こう側」がほんのり見えてくるでしょう。大丈夫です。 | ||||
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中志郎と真智子は倦怠期の夫婦。バリ島旅行に出かけた先で、常夏の国でも手袋をしている不思議な女・石橋と出会う。その石橋が手袋を脱いで、中志郎と手を合わせたところ、石橋から志郎へとあるものが移動していくのがわかった…。 あのベストセラー「ジャンプ」から7年。待ちに待った佐藤正午の新作がようやく登場しました。この7年間、佐藤正午の長編小説に今一度じっくり・どっぷりつかってみたいと飢餓感を募らせていた私にとって、本書は読書の愉悦に浸ることの出来た一冊となりました。 そもそもこれはジャンル分けを拒む小説です。出版元は恋愛小説として売るつもりなのかもしれませんが、そうであるともいえるし、そうではないともいえます。石橋という不思議な能力を持った女と志郎との物語かと思わせて、にわかに津田伸一という物書きの一見軽佻浮薄でスキャンダラスな恋愛物語へと乗り換わっていくところなど、読者を見事に欺いてくれるコンゲームのような様相も呈しています。ミステリアスで、幻想的で、荒唐無稽で、とにもかくにもつかみどころのない、一体どこへ読者を連れて行くつもりなのかといぶかしい思いを募らせながら頁を繰ること数時間。 浮世離れした物語にしかみえなかったこの小説は最後の段落(505頁)で突如として、痛ましくも苦い愛の現実を突きつけてくるのです。世に溢れる“恋愛小説”の大半こそが実はどうしようもなく現実離れしたお話に思えてきて仕方ないほど、この物語の最後は、うつし身のやるせなさを、輪郭線も鮮やかに浮かび上がらせてくるのです。私はこの最終段落で、この物語の謎めいた展開が一気に氷解したように思え、そしてまたその「答え」を前にしばし呆然と言葉を失ったほどです。 これほど面白い小説を読み終えた今、早くも私は佐藤正午の次なる長編小説に対して飢餓感を募らせ始めています。次回もまた7年待たされるのでしょうか。 | ||||
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誰でも過去の気持ちを忘れてしまうものだ。たとえば誰かを好きになった頃のときめきを、いつまでも持続し続けるというのは難しいのではないだろうか。それが何かの力で取り戻すことになったらどうか、というのがこの小説の中では語られていると思う。恋愛に限らず、記憶というものは薄れがちである。日々生きているし、身の回りに起きる事は日々変化し続けているのだ。その歯車がカチリと合った時にこそ、感情が動くかもしれないし、大幅にずれた時だから動くのかもしれない。 もし記憶を取り戻す超能力があったとしたら、人生はこんな風に転がっていくのかも、と思わせてくれる小説だ。からくりは淡々と埋め込まれていて、最後の一行まで気を抜かずに読ませてくれるはずだ。 | ||||
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タイムスリップを扱った「Y」、失踪を扱った「ジャンプ」に続き、超能力をテーマにして描かれたのが「5」。 ただし読者はしょっぱなから超能力とは何ぞや、という迷路に迷い込むことになる。 ふとした事件から中志郎に授けられた能力は「(奥さんと)出会った頃の情熱を取り戻せる能力」。 エモーショナルな超能力だ。だが、その能力(あるいは情熱)が、ほのかな赤い光のようにずっと物語の中に小さく灯り続け、ときには光が弱まり、そしてときには柔らかくも強烈は光を放っている。 この赤い光を、自分の中のなにかと照らし合わせるきっかけがあれば、この作品は生涯忘れられない作品になるだろう。もし何かのの巡り合わせのちがいで、その光と同質のものが読者の内側になかったとしたら、これは、ただ朽ち果ててゆく作家が再生しようとしているだけの作品に見えるかもしれない。 | ||||
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