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- 恋愛小説 (118)
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全1件 1~1 1/1ページ
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よくわからんが、人の気持ちは冷めるのが普通っていう小説? | ||||
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「鳩の撃退法」の津田伸一の前日譚。性格がひねくれて相手を傷つける会話しかできない男(のくせして女性に不自由しない男)という、あまり好きになれない主人公なので、先にこちらを読んでいれば「鳩」を読まなかったかもしれません。書いた順とは逆ですが、読む順としては「鳩」→「5」が正解だと思います。そしてまた「鳩」の上巻へと・・・。 | ||||
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津田伸一のような駄目人間、すごく魅力的。何でもこなしちゃう完璧人間よりもこういう人の方が万人受けはしないと思うけど、私は好きだな~。こういう人種と出会えるなら出会い系も悪くないかもと思ってしまった。フィクションだから成立しているとわかっとりますが。 5の数字が好きってだけで買った一冊だったけど、愛の脆さというか不完全さというかやっぱ絶対的なものではないなと。ますます他人を愛するなんて私にはできないと思った。絶対的主義、完璧主義だと恋愛しにくいんですよなまったく~。不完全を好むのにいざ自分がとなると完璧を求めてしまう。…単に興味ないだけか。 | ||||
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「鳩の撃退法」に出てきた津田伸一の小説家時代のお話。 「鳩の撃退法」が感動的に面白かったので、佐藤さんの小説をそれから何冊か読んでみると、いずれも面白く、徹夜して読んでしまったものもありました。きっと文章自体が好みなのでしょう。 さて、そんな私でもこの作品は読むのに結構な時間がかかってしまいました。主人公・津田さんの考え方が結構独特で(「鳩の撃退法」の時はそんなこと思わなかったのですが)、それはとっても作品としては興味深いですし、共感できるところもないわけではないのですが、女性としては反感を感じるところもあり…。一応の緩やかなあらすじはありますし、ファンタジー的なこともありますが、やはりメーンは主人公・津田さんの日常のあれこれだと思いますので。 凄く好きか、退屈で読むのがしんどいか、結構好みが分かれるのでは?と感じました。 佐藤さんの文章がとにかく大好き!という方なら文章自体を楽しむという意味で面白く読めるとは思います。 | ||||
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かつて筆禍事件を2度起こしながらも作家・津田伸一はなんとか文壇に生き残り続けていた。2度の離婚を経て、今はネットを使っては次々と複数の女性との逢瀬を、手軽に気楽に、そして自棄ともいえる具合に続けている。 ある日、津田は密会相手の夫から、不思議な体験を聞かされる。夫婦で出かけたバリ旅行中に出会った石橋という女と手を合わせたところ、その手を介して何かが自分に移ってきたというのだ…。 --------- この小説『』を私は単行本で出た直後の2007年に一度読んでいます。その時、津田伸一という主人公の、出鱈目だらけに見える日常と、石橋という女との幻想的な邂逅を通して描かれる、愛の苦みに接して、大いに感応(かんのう)した自分を見出していたことをよく覚えています。 今回、9年ぶりに文庫本で読み返してみることにしました。669頁もあって手にずしりと重い書ですが、それでもあの時と同じく、津田の物語に魅せられました。 佐藤正午の文章のリーダビリティの高さには、本当にうならされます。衒学的な漢字熟語が並ぶでもなく、馥郁たる文学表現が豪奢に散りばめられるでもなく、ごく当たり前の日本語によって綴られる彼の文章はするすると読者の目を通して体内へと取り込まれます。それでいて、心内で文章が緩(ゆる)りと発酵を始めるような感覚を味わうのです。 かつて作家・関川夏央がこの小説を評して、夏目漱石『明暗』の実にみごとなパロディになっている、と言ったことがあります。(NHK『週刊ブックレビュー』出演時) なるほど、そう言われて読み返すと、漱石のあの、どこか世間に倦み疲れた高等遊民がごとき主人公が和光同塵という体(てい)でたどる、どこへ向かうとも知れぬ日々と似た物語がここにはあります。事実、『5』の主人公・津田は、物語の中で幾度も夏目漱石の名を口にしていて、読者にあの文豪の小説を思い返すよう重ねて念を押しているようです。 さて、私は単行本で読んだ際にはこれを痛ましくも苦い愛の現実を描いた悲劇として読んだのですが、今回文庫本で読み返してみて思うところに変化がありました。 「必ず冷めるもののことをスープと呼び愛と呼ぶ」(234頁) 「愛の記憶と、愛は別のものだ」(519頁) 「人は思い出すだけじゃだめなんじゃないかな? たぶん、だめだというか、足りないんだ。古い記憶をどれだけなまなましく取り戻すことができても、いま生きている実感とのあいだには、ずれがあるんだよ。(中略)だから人は、これからも生きていくつもりなら、思い出すだけじゃ足りないんだ。思い出した記憶はまたいずれ消えるだろう。でもひとりの男がひとりの女を愛する、いま愛している、その自然な感情は永遠に続いていくだろう」(523頁) 愛をめぐるこうした言辞があちらこちらで顔を出す小説が描こうとしているのは、かつて誰かを愛した記憶に淫することなく、明日への一歩を踏み出すことこそが大切さなのだ、という点だと私は思い直したのです。最終章で津田は、石橋の手から身内へと移動してきたものに背中を押されるように一歩を踏み始めます――少なくとも私にはそう見えます。 冷めないスープは確かにない。ないのだけれども一方で、ならば温め直すか、もしくはもう一度スープを作りなおせばよい。 そんなことを、かなりの程度いい加減な主人公の人生に託して、佐藤正午は読者に語りかけているように思えてなりません。 ひとつの小説を9年の歳月を経たのちに読み返すことで、見えてくるもの、感じることに違いが生まれる。それは読書の醍醐味でもありますし、同時にみずからの人生のたどった月日を想うよすがにもなるということです。 | ||||
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作家を主人公として私小説風に描いた理解不能の創作。冒頭に、「記憶術」をマスターしていて、"手のひら"を相手と重ねるだけで、相手に「(愛を主とした)「記憶」を蘇らせる」能力を持った女が登場するので、「愛」と「記憶」の考察を主体とした物語が紡がれるかと思いきや、夜郎自大の作家の日常がダラダラと綴られるだけ。 それも、読者が本作を途中で投げ出す事を予期しているかの様な投遣りな文体・台詞(作者も計算済みなのだろうが)で、読み通すのに苦労した。現代の文壇に対する不満、本当の文学のあり方といったものを描きたかったのかも知れないが、トンだ空回りといった所。困った作家の困った小説だと思った。 | ||||
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