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スプートニクの恋人
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スプートニクの恋人の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.94pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全132件 121~132 7/7ページ
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最初に読んだときには「う~ん、いまいちかな…」と思ったのですが、最近、春樹さんの「スメルジャコフ対織田信長家臣団」をよみ、彼がその当時、全力をかけてこのスプートニクを書いていた姿を垣間見、また読んでみたのです。するとなかなかどうして、結構深いです。私的には、主人公すみれよりも、ミュウの存在が非常に魅力的に映ります。一晩の、観覧車の中での体験を経て、髪が真っ白になってしまったミュウ。そういうことって、本当に現実の中に、非常に危うく身近に存在しているような気がします。ひとつ壁やカーテンをくぐり抜けてしまったら、もうそれまでとは違う世界に存在するしかなくなってしまう。これって、春樹さんの書く多くの作品に共通するひとつのテーマであると私は思います!。春樹ファンとして、何度も読み返したい一冊のリストに加えなおしたところです。 | ||||
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人間は大宇宙に浮かぶ小さな人工衛星に閉じ込められた、絶対的孤独をさまよいつづける哀しい存在だ。本書の世界観だ。 私見では、小説はテーマに共感を覚えると、そのプロットはどうでもいいという感がある。「よい」小説は人間の心を描くからだ。仮に風景が描かれていようともそれが描き出そうとしているのは心だ。風景描写が心理描写であることはよくある。 『スプートニクの恋人』に共感できる人間、それはこの世界を人間として生きる孤独を知ってしまった哀しい存在なのだろう。 | ||||
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村上春樹はこれまで、「求めるもの」が最後には指の間からこぼれ落ちていくような、喪失感とか虚無感とかいった感覚を巧みに「物語化」してきた作家だと思うけれど、今作ではこれまでとは違ったラストが待っている。「ねじ巻き鳥クロニクル」のあたりから感じられる作風の変化が、本作でも一つの形となって現れているようだ。確かに作中の「分裂するミュウ」というメタファーなどは、これまでの「(「ノルウェイの森」における)僕と直子」「(「羊をめぐる冒険」における)僕と鼠」といった「光と陰(あるいは日常と非日常)」の対比という手法そのままなのだが、「作家・村上春樹クロニクル」としては、新たな局面を向かえつつあることがはっきりと感じられる作品になっていると思う。 | ||||
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村上春樹作品を読み続けてきた人にとっては、少しもどかしく感じる部分が多いかもしれない。 しかし、根底に流れているものは、ひどく似通っている。 人が絶対的に孤独であること。それゆえに、人との「関係」を渇望すること。そして、関係に永遠はないこと。 文中にも出てくるように、人と人の交わりは、流れ星が一瞬すれ違うかのようなものかもしれない。 私の読後感は「ノルウェイの森」ほどの哀しみは残らなかったものの、すとんと腑に落ちたということでもなく、何かしら、そう何かしら残り、毎日それが少し顔を出す、といったものです。 ごめんなさい。わけわからなくて。 | ||||
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『スプートニクの恋人』は春樹さんの作品の中で私が一番好きな小説です。「ぼく」は「すみれ」の不在によって深く深い寂寥に包まれます。誰かの存在の大切さ…。春樹さんの小説はいつもそれを訴えているような気がしてなりません。終盤に「ぼく」の受け持つクラスの生徒「にんじん」が登場します。「にんじん」が出てくるか出てこないかでこの話は随分と違っていたと思います。「ぼく」と「にんじん」の何気ないやりとりが妙に印象的です。 | ||||
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語り手の「僕」が言った「そういうのはおそらく、選びようのないことなんです」という言葉が胸に突き刺さった。村上春樹さんの長編はこれが初めてだけど、フィクションなのに本当の話だと思えてしまう、私にとっては逸品の小説。きっと人々が日常のどこかで感じ取っている真実を見事に表現した作品だと思う。 | ||||
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一連の村上春樹の小説とエッセイ以外の仕事(訳書『心臓を撃ち抜かれて』、ノンフィクション『アンダーグラウンド』『約束された場所で』、対談『村上春樹 河合隼雄に会いに行く』)で、彼の関心が赴いている「こちらの世界とあちらの世界」に、小説という形でひとつの解答を出したのが、この作品かな、という気がする。解答といっても、結末は宙ぶらりんなのだが。 実は今回の作品は、わたしにとって特別な意味があった。すでに読んだ人から「今回は主要な登場人物が在日だ」ということをきいていたからだ。といっても、期待半分怖さ半分というところだった。怖さ、というのは、在日韓国人3世である私にとって、日本人が小説の中でとりあげたステロタイプな在日像、というのには、うんざりすることもわかったからだ。 結果だけ言うと、「なんで在日なの?」という感じだった。内容自体は、相変わらずのメタファーに満ちた村上春樹ワールドで、以前からおっかけているわたしには、そういう意味では堪能できた。 | ||||
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この小説はかなり評判が悪い。だが作品としては、ある観点から眺めれば、成功しているといえる。これはもともと全集に収められた「猫」を主軸としてかかれたもの。そういった意味では、「蛍」「「ねじまき鳥と火曜日の女たち」のそれぞれを軸にした小説へ発展した『ノルウェイの森』『ねじまき鳥クロニクル』と同系列である。それは村上の言葉を借りれば、「書かれたがっている」小説であり、なぜこれらがそのようになるかをじっくりと考えなければ、真の作品の意味が問われることはない。商業的に失敗かもしれないが、作品の上では如実に村上の深まりを見せている。さらに最近では明らかに商業と作品とを区別しているように感じる。世界広しといえども、「売れる文学」を書ける数少ない小説家だ。マラソン選手が常に全力で走らないように、この作品は次へのステップへと続く重要な中継地点である。後半で舞台となるギリシャの小島は、レスボス島をモチーフとしているだろう。女性の同性愛を意味するレズビアンの原義である「レスボス」(レズビアン=レスボス島の住民)である。夜の島で音楽が聞こえ始める。おそらくこのシーンが作品のクライマックスである。主人公とその不安を同調できれば、狂気にも似た神秘が体験できるだろう。大事なのはもはやストーリーそのものではなく、また、構成でもなく、この作品自体に負荷された「重み」もしくは暗闇に引き込む「引力」であるように思う。 | ||||
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特に深く印象を残すことのないまま、あっさり読み終えてしまったのは事実です。拍子抜けした感もあります。 が、小説家になりたい彼女の、無鉄砲だが暗いところのない性格と、まるで終わってしまったかに思えたラストに突然降って湧いた彼女の出現は、小説全体に彩りと前向き感を与えています。 何よりも彼女が帰ってきた、そのグレイの画面に一気に光と色をもたらしたラストを評価します。 | ||||
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僕は春樹氏の熱烈な読者ですが、今までの作品の中でベスト3に入る傑作だと感じました。登場人物の消滅・あるいは失踪が大きな意味を持つ彼の作品の王道は踏襲されているものの、これまでのそれとは一線を画す内容に仕上がっていると思います。 特に、後半の警備員室でのシーンはそれ自体、重要な意味を持ち、かつあの箇所に挿入される点に何とも言えない趣があります。 僕はどちらかといえば春樹氏の作品には目新しさより、あの希有な世界観にまた入り込めるんだという喜びの気持ちを求める方なので、そう言った意味でもこの作品は非常に満足のいく物でした。 | ||||
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「ノルウェイの森」のラストに対しての返答なのではないかと思うような、ラストシーン。そして、そこまでにいたる奇妙で、作られたシーンの連続。物語を楽しむにはチープな感じすら受けるのに、読んでいる間中「村上春樹」を感じるから不思議。「ねじまき鳥クロニクル」に流れる不気味な静けさを、この本にも感じた。 | ||||
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22歳の春、すみれは年上の女性ミュウに恋をし、性欲を感じる。ミュウはすみれを愛しているが、性欲を感じることができない。ミュウは14年前のある出来事が原因でふたつに分割され、もうひとりの自分を「性欲と……生きるための意志のようなもの」と共にあちら側に置いてきてしまったのだ。 すみれの唯一の友人「ぼく」はすみれを愛し、性欲を感じている。すみれは「ぼく」を好きではあるが、愛しておらず、性欲を感じることができない。一方「ぼく」は別の年上の人妻に性欲を感じているが、愛してはいない。「ぼく」は思う。「まるで実存主義演劇の筋みたいだ。すべてのものごとはそこで行きどまりになっていて、誰もどこにも行けない。選ぶ選択肢がない」 だが、ギリシャの小さな島ですみれは突然煙のように消えてしまう。「鏡を抜けて、すみれはあちら側に行ってしまったのだ。おそらくあちら側のミュウに会いに行ったのだ。こちら側のミュウが彼女を受け入れることができない以上、それはむしろ当然の成りゆきではないか?」 あちら側とこちら側で成り立った世界という著者の強迫観念は、否応なしに「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」を思い起こさせる。 物語は最後まで曖昧模糊として、どこまでが現実でどこまでが登場人物の想像の産物なのかが判然としない。読者を不安定な中空に放り出したまま、この物語は終わる。「どうしてみんなこれほどまでに孤独にならなくてはならないのだろう」と「ぼく」は思う。まるで、「地球の引力を唯ひとつの絆として天空を通過しつづけているスプートニクの末裔たち」のように……。 | ||||
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