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スプートニクの恋人
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スプートニクの恋人の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.94pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全132件 101~120 6/7ページ
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恋愛小説であり、僕とすみれの距離のとり方がばつぐんに上手い。 さらには、すみれの好きなミュウの話は読んでいるだけで引き込まれて帰って来れなくなる。 本当に素晴らしいできばえ! | ||||
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ノルウエーの森に、よく似たライトノベルだ。たんたんと、書かれていて読みやすい。但し、よくわからない恋愛小説だ。 | ||||
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読書の苦手な私ですが、村上さんの小説だけは、読みたくなります。なんかこう、独特な文章なんですが、いつの間にか、私の日常生活の中にすぅ~っと滑り込んできて、「そんなにせかせかと生きなくてもいいんだよ。ゆっくり生きていけばいいんだよ。」と囁いてくれているような感じがします。精神安定剤のように。 「ぼく」と「すみれ」のお話は、「ダンス・ダンス・ダンス」と「世界の終わりと・・・」を合わせたような感じ。こちら側とあちら側。最後の場面はどっちだったのでしょう。私はこちら側(ってどちらが現実?)現実の方だと思うのですが・・・もう少し「ぼく」と「すみれ」のやりとりがみたかったです。ミュウの奇妙な体験は、明日私にもおきるんじゃないかという不安と期待感を起こさせるくらいのリアリティーがあります。この「ぼく」は、実は村上氏本人では?体験談では?と感じさせられました。さすが、村上さんの世界ですよね。 | ||||
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映画についての言及が作品の中にあります。「ワイルド・バンチ」。どこか映画を意識して書かれた小説だと思いました。ヨーロッパ映画によく見受けられる、ダラダラ感がでているなと思うのは、主人公の「ぼく」がギリシャの島の山に何か音楽に憑かれ歩き思惟するところです。構成自体も、3場面にプラス0.5場面あるといった感じで、読みやすかったです。万引きした生徒は「ぼく」が親と不倫をした事を無意識に咎めているのでもなく、何か確認したかったのではないか、と思いました。数多くのレビュアーさんの中にも「ノルウェーの森」と人物関係が似ていると言う指摘がありましたが、ぼくもそう思います。この場合は前作の「直子」の性交が、今回の「ぼく」の勃起に代わったと思えます。そこは作者が意識しているかどうか知りたいところです。皆さんはどうお読みになるか、お叱りを受けそうですが、「すみれ」は「ぼく」の所に、帰ってくるように書かれていますが、そうではなく、多分それは幻影だと思います。こっち側にいた「すみれ」は現象的には自殺したのです。そしてあっち側にいた、小説が書けるようになった、幻の「すみれ」が「ぼく」に電話をかけたのです。私がそう思ったのは、白石一文さんの『一瞬の光』で人が繋がるとはどういうことなのか学んだから言えることかも知れません。つながりなんて何も示されてない、すかすかな私たちの人生に近い小説だから親近感を持つのかもしれません。 | ||||
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村上春樹初挑戦。 論理的に可能であれば、物理的に不可能であっても許されるというのが「物語」だよなぁ。物理的に不可能なままでは推理小説は成り立たないもんな。物理性を排除した上で論理的に成り立っていれば、物語は成立するんだね。というのがこの本の主題なのかな。違うよな。 なんで「文学作品」な本を読むと「この本は何を伝えたいんだろう」と考えてしまうんだろう。いや「この本は何を伝えたいのか分からない」と諦めたものを「文学作品」と色分けているんだろうな。直木賞作家は読むけど芥川賞作家は読まないもんな。この本もおもしろいはおもしろいけど、「では一体何が言いたいのか」を抽出する事が出来ないんだけど、もっと本を読めば、違う見方が出来るのかもしれない。そう思わせてくれたという意味では、感謝すべき本なのかもね。 愛情と性欲の関係は、象徴と記号の話で説明ができるのか。セックス(=性欲)は愛情の象徴ではあるけど、セックス=愛情ではない。でも若い頃のボクはそれが分からずに、愛情=セックスだと思いこんでいたんだな。それを当時分かっていて、我慢するなり節制するなり出来ていれば、心の傷はいくらか負わずに済んだのになぁ。 | ||||
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自分の世界を持っている女性である。自分の本能に従ってだたひたすらまっすぐに進んでいる。ミュウとの出会いから悩みをかかえ、「人間らしく」なっていくが、非常に魅力のある女性である。主人公の僕はすみれ独自の世界に入っている。読みながら、主人公の僕に嫉妬さえ感じてしまうこともあった。 | ||||
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私は読書をしようと思い立ってまだ数年で、恥ずかしながら本作品が初めての村上春樹との接触です。誰に勧められるでもなく、書店で題名にひかれ、購入したのですが、一気に読破してしまいました。素直におもしろい作品です。 他のレビューにもあるように、彼の文体として比喩を用いる表現が多い傾向にあるようで、受け取り方によってはそれがわかりやすくも、わかりずらくもなっているようですが、私はその文体に彼独特の魅力があるように感じ、知らずのうちに彼の世界に入り込んでいるかのような錯覚を覚えました。 特に彼が主人公に与えている教師と言う役割は知識的な雰囲気を漂わせ、その周囲の登場人物の職業は洒落てはいますがどこか暗い印象を与えているような気がします。こういった点で本作品においては「職業」や趣味といった点に注目して読み進めると楽しめるのではないでしょうか。心理的な描写も登場人物の設定と彼の文体が合っているからこそ、生きてくるのだと思わせるような運びでした。 私自身、結末に落胆を覚えた面もあったので、星を一つ引かせていただきましたが、そこは読み手の好み次第。良くも悪くも印象が変わる事でしょう。本作品を読んで、機会があれば村上春樹ワールドにどっぷりとはまってみたいと思いました。 | ||||
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村上春樹さんの小説の中で、一番好きな作品です。前半はまさに春樹スタイル炸裂! といった感じで春樹さんのあの独特な比喩とアイロニー豊かな文体が続きます。物語そのものは切なく、そしてやはりどこか諦念が底流にあり、その世界に惹きこまれます。好きな人への思いが成就されず、しかしそれを追い求めないわけにはいかない、客観的には不毛とも取れる気持を抱えながら、僕も彼女も生きているのだと思います。 この物語には、幾つかの世界が交錯しています。その一つに、死んでしまったものの世界が、示されている様です。人間には、自分の一部が死んでしまい、死んでしまった部分が確実に死の世界に行ってしまう、といったことがことがあると思います。僕自身、どこかで自分を半分失ってしまっているようなものなので、その悲しみのようなものには共感します。登場人物たちは皆そのような思いを抱きつつ、自分なりのスタイルで生きているように僕には思えます。クールだ、と思います。そして彼らが体験する物語をなぞることで、読者も失ってしまったものを追い求めていくことができるのではないでしょうか。その想いが成就するかどうかは人それぞれでしょうが。大切なのは、それをどうくぐり抜けていくかで、こうして書くと実に年寄りくさいですが、物語を通すと不思議にすっと心に収まります。 読み終わった後、自分自身はまったく変わっていない(成長もしてないし深みも増していない)のに、何かを通過した、という気がしました。 | ||||
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『ノルウェーの森』を書いた時、村上氏はイタリヤに住んでいた。そして『国境の南、太陽の西』を書いた時、スコット・フィッツジェラルドに幾多の天啓を与えたプリンストンの地に住んでいた。そして1988年には村上氏はギリシャ・トルコの辺境を旅行していた(『雨天炎天』)。僕は作家の小説を書き上げた場所というのはものすごく重要な小説構築の要素だと考えるが、村上春樹の場合、その重要性は他の作家とは比べ物にならないほど大きなものに感じられる。なぜなら、氏の小説の背景たる風景は、氏がそうした中で見た風景や、人々の動きそのものだからだ。氏はそれらの体験や風景を自身の中で再構築し、性別や職業を入れ替えて小説を作り上げてきた。そして氏自身の持つ世界は、イタリヤやプリンストンの風景や、ナット・キング・コールの音楽の方が、どこまでも同じ風景のようなこの国の景色やJ-POPなどよりずっとしっくりくる。『スプートニクの恋人』の風景は『雨天炎天』で旅したギリシャの風景である。その中で、氏は『こころ』と『からだ』が別物であることを僕らに知らしめていく。これはラヴ・ストーリーなのではなく、『こころ』と『からだ』が別物であることを僕らに知らしめていくことに重きが置かれているのだと僕には思える。そして再び村上氏は主人公に自問させる。この人生は確かに順調かもしれない、でも本当に俺の本当の人生なのか、と。別の場所からドッペルベルガーの自分を見る。その自分は今の自分とは全く別の事をしている。全く別のこころとからだを持って別の人生を生きている。そして氏は僕らに自問させる。きみの人生は確かに順調かもしれない、でも本当に君の本当の人生なのか、と。 | ||||
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大学時代に「すみれ」に恋をした主人公「僕」。だがそのすみれは年上の人を好きになってしまう。しかも女性...その女性と海外旅行に行ったすみれはその道中失踪してしまう。そんな彼女を僕は探しに向かう。 というのが話の大筋となるのだろう。筋だけ読むとわけのわからない話となるのだが、実際読んでみると非常にわかりやすかった。著者の他の作品ほどメタファリカルにも描かれてないし... 本作の最大の特徴はラストシーンだろう。たまには読み終わった後にほっとする村上春樹はいかがでしょうか? | ||||
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本書は透明な小説である。主人公の日本人男性「僕」、彼が愛する日本人女性「すみれ」、「すみれ」の愛する在日韓国人女性「ミュウ」。彼らはいずれも、国籍を剥奪されている。「僕」が「ミュウ」を見るまなざしに、「韓国人」を見る認識が欠けているし、「すみれ」と「ミュウ」とが、ギリシャに行っても、自分たちをアジア人であると認識させられることがない。西欧人と同等に、食事の作法を身につけ、外国語を操る登場人物たちは、「地球市民」的な透明さが底を通っているのだ。 だが、だからといって「透明」なままで済まされる筈がない。具体的な、拠ってたつ場所が欲しい。そう思った時、「ミュウ」を襲うのは、欧州に滞在している折、自分が東洋人であると認識させられる瞬間なのである。そして、そのことから、自分は疎外されているように感じる。西欧は、異国なのだと悟る。その時彼女は自分の「ドッペルゲンガー」を見た。「地球市民」的透明さで生きてきた彼女は、本当の自分ではないような気がする。その時彼女は髪が真っ白になった。 「僕」や「すみれ」や「ミュウ」のように、外国に赴いても自分が何人だと認識しない人がいる。自分に世界をボーダーレスのように感じる「スキル」があれば自然でもある。だが、そういう人々にとっても、IDは必要である。外国に染まるにしろ帰国するにしろ、判断は自由だ。だが、どこでもない彼方へと飛ぶことはできない。自分を「何人」だと意識しないで済ませる「スキル」があっても、日本は鎖国している訳ではない。おのずと外に開かれた世界にさらされなくてはならない運命にある。だから、この透明な小説には、「ミュウ」の白髪や、「すみれ」の失踪などによって、色をつける必要があるのだ。 | ||||
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私はこの作者のいい読者ではない。熱狂的なファンではないし、なろうとしたこともないけれども、たまたま最近、娘の本棚にあったので読んでみたわけだ。そうしたら、これはかなりおもしろい作品だと気付いた。たとえばニューヨーク近代美術館へ行けば必ず見ることのできるはずの、解釈不能な作品群をだだっと見ていると、そのうちになぜか、自分にとってはとても大切でよくわかる作品にぶつかることがある。それに似た感触だった。 中身についてはとやかく言う必要はなく、言葉遣い、描写、文体ともに現代の作家としての優れた部分が充満していて、それだけでリッチな感じを得られるのだが、全体の構成から得られる楽しみは、さらに高いものが感じられる。おそらく、この作品で成功した部分と失敗した部分を著者はその後の作品にうまく昇華させていることと思うけれども、私としては全体がとてもいい、と感じた。 世の中は自分の内面と外面(そとづら)があって、人はそれぞれ内面を抱えながら、外面を付き合わせて社会生活を営んでいる。外の社会は人々の外面で構成されていて、内面は自分の内面しか見ることができない。 じゃあ、私たちは生きるにあたって、どちらをより多く信用したり、悩んだり、注目したらいいんだろうか。どこに依存したり、なにを拒絶したりして生きるのだろうか。そんなことを考えてしまう。 | ||||
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難しいコメントはできませんが、私は村上春樹氏の小説に出会ってから、彼のつむぎ出す世界の虜になりました。。気持ちが震えたり、下がったり情緒不安定になっていても彼の文章に触れると、そのずれを元に戻せるような感覚を憶えるのです。その私が一番好きな彼の小説がこの「スプートニクの恋人」なのです。はっきりとした理由は一言で言うなら、スミレのような生き方をしてみたいということにつきます。そして「ぼく」のような人に愛されてみたい。是非この作品の世界を実際に感じてもらいたいと思います。 | ||||
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結末に至っても理解は出来なかったけれど、読んでいる間の奇妙でドキドキする感覚は激烈で、久しぶりに本を読む楽しさを味わいました。片思いと言うには、あまりに宿命的な三者それぞれの思い。絶望的に受け入れてもらえなくて、膜がかかったように孤独で。ドッペルゲンガーのような体験とかとても現実味のないストーリーなのに、原体験として感じたことのあるような離脱感。すみれもミュウも、いつもの春樹ワールドの女性でありながら、どの作品よりも魅力的に思えました。村上春樹のモチーフがことごとくちりばめられていて、最新作の「アフターダーク」よりよほど完成度は高いです。 | ||||
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この本は世間での評判はイマイチのようだが、個人的にはなかなかに面白かった。少しの間本を読む機会を失い、久々に本を読んだという具合だったから、余計に面白く感じたのかもしれない。しかし感想を述べよといわれると相変わらずいささかまごついてしまう。意外と哲学的、形而上学的でそれでいてSFチックなものが入り混じっている、と言うのが春樹小説の多くのものに共通しそうな特徴だ。この作品は他の作品よりも、より一層そのような性質の濃度がアップしているような気がする。「自分で分かっていると思われるものと、分かっていないと思われるものの間には、実際には明確な識別をすることはできない」と言うこの小説内の一つのテーゼがあるが、これも上のような「形而上学性」に結びつく例の一つに数え上げられそうだ。そのような意味で、この小説は春樹小説の代表作と言ってもいいかもしれない。他、終盤の、万引きで引き止められ、母親と先生(僕)を呼びつけられる少年「にんじん」の描写がよかった。微妙な年頃の、微妙な精神的な乖離により、犯罪を起こす「普段はまじめな」少年像が浮かび上がってくる。そしてそれが主人公の「すみれ」を失った事による精神の遊離に結び付けられているのだ。この少年が、今後「犯罪を起こさない」ことが確信できないようで不安な気持ちになったが、人間誰もがこのような危険性を持っているのだろう。いかに危険性と対峙するか、そのようなことを少々考えさせられた。この小説は「ノルウェイの森」と人物配置が近い(「すみれ」は「直子」に、「ミュウ」は「レイコさん」に投影できるだろう)ので、この二つをセットで読んでみればより理解が深まるかも知れない。 | ||||
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奇妙な恋愛小説。そう新刊の帯には書いてあった。 それはノルウェイの森の帯に100%の恋愛小説、と書いてあったのに呼応しているように思う。 ノルウェイでも、今回でも最後は電話ボックスの中から電話をかけているし。 今なら携帯で「電波が届かない場所にあるか・・・」と言われると、「こういうのってジャン・リュック・ゴタール風だ」とか言っちゃうんでしょうかね。 ノルウェイのとき、テーマは失われたものの大切さ、だったように思うけど、今回は、今あると思っているものは、失われつつあると言う事実!がテーマのような気がします。 | ||||
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自分が、今・ここに生きているということに対して考えさせられました。そして、消えていってしまった私自身の、かつての仲間に思いを馳せました。どこの世界で生きていようとも、楽しく過ごしていて欲しい。「夢の世界に入っていって、そのまま出てこないこと。そこで永遠に生きていくこと」。困難な現実にぶち当たっている私としては、こんな生き方に惹かれます。こういう生き方について、どう思いますか?「ぼく」はひと時の夢を見ていたのかもしれません。果たして、本当にハッピーエンディングだったんでしょうか・・ | ||||
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読んでいる間は翻弄されてどきどきし、読了して、ホッとした。そしてそれ以上に、とても熱い気持ちになった。読書中のどきどきはいつも村上作品で感じるのと同じ程度だったのに、この読後感の違いはなんだろう? それは、わたしが今まで村上作品に出てくる女性には、一度として現実的な感覚や親しみを抱いたことはなかったのに、この作品ではものすごく身近に感じたことによる。誤解、というかわたしが誤読をしている可能性を恐れずに言うならば、この作品の「すみれ」はとっても『赤毛のアン』っぽいのである。ぜんぜん美人じゃないけど、その言葉が紡ぎ出す世界はとても魅力的、そしてお金のかかったものを着て、外見を整えれば美しく見える。そんなところが。『赤毛のアン』が好きで、村上春樹を読んでいないひとに読ませてみたい一冊。 | ||||
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村上春樹はやっぱり恋愛物がいい!!出てくる女性が皆魅力的だ。村上春樹みたいな男の人と結婚したい。この本を今まででもう何度も読み返している。 | ||||
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あんまり評価は高くないけど、とは言ってもやっぱり村上春樹。読ませる力は十分にあったと思います。 | ||||
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