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羊をめぐる冒険
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羊をめぐる冒険の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.22pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全164件 61~80 4/9ページ
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とにかくさびしい小説だ。 とても渇いている。 ストーリー展開はとても面白いし、最後にはしっかり落ち着くべきところに落ち着く。 羊男や鼠や黒服の男の会話はアフォリズムに過ぎているから、書きとめて人生の参考にしたいぐらいだけれど、そのせいでストーリーが難解に進んでいる気がする。 それでも、とても面白かったし、あっという間に読み終わった。 ただ。 やっぱりさびしい小説だ。 運転手やいるかホテルの支配人が優しいから、主人公のさびしさが引き立つし、読者である自分のさびしさも突きつけられる気がする。 面白いけど、さびしい。 | ||||
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迅速なご対応有難うございました。 商品も予想以上にきれいで満足しています。 今後ともよろしくお願いします。 | ||||
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「あらゆるものを呑みこむるつぼ。気が遠くなるほど美しく、そしておぞましいくらいに邪悪。宇宙の一点にあらゆる生命の根源が出現した時のダイナミズムに近いもの」(文庫下巻から引用) それが羊の象徴するものです。 この作品以降、村上春樹は、この「おぞましいくらいに邪悪なもの」とそれとの対立をテーマにした作品群を生み出していきます。 本作で羊の形をとっていたそれが「ねじまき鳥クロニクル」ではワタヤノボル、「海辺のカフカ」ではジョニーウォーカー、「1Q84」のリトルピープルと姿を変えて、より深く「邪悪なもの」が描かれていきます。 30年前に本作を初めて読んだ際には、とてつもない衝撃を受けた本作ですが、その後の村上春樹作品を読み進め、更に本書を何度も再読するにつれ、ますます本書がいかに画期的であったか、あらためて感心します。 本書は「風の歌を聴け」「1973年のピンボール」同様の雰囲気を持つ物語としてスタートします。 ところがある地点から奇妙な雰囲気を醸しだし、その後の展開から、こんなにも深いテーマを包含する物語だったのかと衝撃を受けます。 前半部分では、村上春樹の優れた文学的技法のひとつである比喩の使い方に相変わらず感心してしまいます。 「本であればなんでもいいのだ。彼女はそれをとうもろこしでも囓るみたいに片っ端から読んでいった」 「僕は最も礼儀正しい酔っぱらいになる。いちばん早起きをするむくどりになり、いちばん最後に鉄橋を渡る有蓋貨車になる」 「のっぺりとしたアパートの群れは、父親の帰りを待ちわびている未成熟な子どもたちのようにも見えた」 「正直さと真実との関係は船のへさきと船尾の関係に似ている。まず最初に正直さが現れ最後に真実が現れる。巨大な事物の真実は現れにくい」 「道路はひどくすいていて、車は産卵期の鮭が川を遡るみたいに空港にむけてひた走った」 店を経営しながら執筆した前二作の後実施された,村上龍との対談集「ウォーク・ドント・ラン」によれば、「自分に一番欠けているもの、自分で難しい方法で長い小説を書きたい」と語っていた村上春樹。 「職業としての小説家」では、本書執筆にあたって店をたたみ、職業作家としてやっていく決心をしたこと、文体を重くすることなく、文体の気持ちよさを損なうことなく、小説自体を重いものにしていきたいとの構想を持っていたといいます。 確かに前二作の文体の気持ちよさを引き継ぎながらも、ずしりと来るテーマの重さが加わった本作は、村上春樹の構想が見事に結実した傑作だと言えるでしょう。 | ||||
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正直なところ、デビュー作"風の歌を聴け (講談社文庫)" 〜 "1973年のピンボール (講談社文庫)" はプログレッシブ過ぎて理解できなかった。 | ||||
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星印の羊=権力(国家権力、父親のようなもの)、という構図で物語は組み立てられております。主人公(狂言回し)の親友、鼠(本当の主役)は父親からの権力の継承を忌避して、「いるかホテル」で偶然見つけた、権力のシンボルである星印の羊=権力(父親のようなもの)と対峙すべく北海道十二滝町の牧場に行き着き、結局、そこで自らの死を以って父親(邪悪なもの)との関係に決着をつける。 鼠は世間の汚れとの距離感を掴むのに失敗したが、主人公を含む多くの若者は少しずつ汚れながら(目をつぶって)何とか人生を進んで行く選択をする・・・・権力者も、非権力者も行きつく先は、全員公平に同じであるにも関わらず・・・あたかも、自分だけは違う、とでも言いたげに。 | ||||
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上下巻通しての感想。いや~、何か不思議な映画を観終わった感じがした。ハッキリ言って意味はよくわからない(毎度のことながら) だがこの作品は面白かった!「ノルウェイの森」→「風の歌を聴け→「1973年のピンボール」→「羊をめぐる冒険」と読んできた。上巻の3分の2くらいまでは、何だかよくわからないいつもの展開だったが、黒秘書が登場し、羊にまつわる話が出てきてから俄然面白くなってきた。どう考えても児玉誉士夫としか思えないフィクサー(先生)の話とか。今まで読んだ村上春樹の作品では味わえなかった、ワクワクする感じ。そこからは最後まで一気に読みきった。何故そうなるのかは意味がわからないが、自分が思った通りのオチだった(緑のコードを緑のコードに…予想通り) どうでもいいことだろうけど、背中に星形の班紋がある羊は悪魔なんだろうと思った。羊に入られた人間…過去に羊に入られた人間には一代で世界帝国を築いたあのジンギスカンが。もしや安倍首相は一度辞任した後に羊に会ったのか?なんて作り話と現実をごっちゃの妄想をしてしまった。 | ||||
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上下巻通しての感想。いや〜、何か不思議な映画を観終わった感じがした。ハッキリ言って意味はよくわからない(毎度のことながら) だがこの作品は面白かった!「ノルウェイの森」→「風の歌を聴け→「1973年のピンボール」→「羊をめぐる冒険」と読んできた。上巻の3分の2くらいまでは、何だかよくわからないいつもの展開だったが、黒秘書が登場し、羊にまつわる話が出てきてから俄然面白くなってきた。どう考えても児玉誉士夫としか思えないフィクサー(先生)の話とか。今まで読んだ村上春樹の作品では味わえなかった、ワクワクする感じ。そこからは最後まで一気に読みきった。何故そうなるのかは意味がわからないが、自分が思った通りのオチだった(緑のコードを緑のコードに…予想通り) どうでもいいことだろうけど、背中に星形の班紋がある羊は悪魔なんだろうと思った。羊に入られた人間…過去に羊に入られた人間には一代で世界帝国を築いたあのジンギスカンが。もしや安倍首相は一度辞任した後に羊に会ったのか?なんて作り話と現実をごっちゃの妄想をしてしまった。 | ||||
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運よく108円で入手できた。小説は1冊ものに限るかも。 ・まず、文章がまったく古くなっておらず、むしろ今でも未来的ってことに一驚。まあ、古典の最低条件、必要十分、絶対条件かもしれないが。 ・あと、タイトルの秀逸さ。パロディーにせよ、何度 引用されたことだろう。 ・あと、「調べもの」ってのが「世界の終り」との共通点か。 ・あと、ムラ神さんはどうも沖縄方面に向かわず北海道方面に向かう傾向があるかもしれない。そうゆう意味ではトーマスマン的な。 ・あと、けっきょく この小説を最初から最後までミッシリ読んだことがないことに気付いた。 ・つか、出だしの部分は前2作と同じ感じだったんだなあ・・・・・・・ | ||||
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先日、著者の『走ることについて語るときに僕の語ること』(書評済)を読んだ。 その中で、著者は本書についてこのように書いている。 「この作品が小説家としての実質的な出発点」 「なにしろあとがないから、持てる力をありったけ注ぎ込んで書いた。持っていない力まで総動員したような気さえする。」 ここまで言われては、読まない訳にはいかない。 読んでみると、ミステリー小説のようで面白い。一応の解決はある。 でも次々になくしていく話でもあり、失う理由は明らかではない。 不思議な人々ばかりがでてくるが、一番のキャラクタは羊男。羊の毛皮を着ている。 評者は著者の本を読み出した早い時期に絵本『図書館奇譚』(書評済)で羊男には出会ってはいる。 『1Q84』(書評済)やチェーホフ『サハリン島』(書評済)を読んだ後は、羊男はギリヤーク人に思えてくる。 | ||||
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彼のつるっとした、陰影のない文体は苦手だったけれど、最近読みなおすとそれほど気にならない。この小説も現実感がなく、人物は名前がなく顔も見えない。あまり共感できない。できるとすれば、運転手とフロント係くらいかな。右翼の大物は児玉誉士夫がモデルか。前半は前作の延長で後半はサスペンス調。耳という表情のない器官、名前のない登場人物、ほとんど意味不明な比喩。共感や理解、認識といったものは、幻想だろう。この小説を読むと仏教的な思想を感じる。その辺が海外で受けてる理由じゃないかな。サリンジャーが幼いゾーイーか誰かに同じ家や家具、家を間違えたり家族を間違えたりするような生活のほうがずっと楽しい(良い?)とか、言わせてたのを思い出す。持っていたものを失くす、ではなく、持たないことを求める。余計なもの、表情や名前?、がないこと。拒否するのは、肩書き、組織、大金、同情、啓蒙とかかな。個人主義。ドストエフスキー的社会に「僕」が迷い込んだら、ますます影が薄くなり、見失うかもしれない。良いとか悪いとかの道徳は置いといて、目的があまりない。家庭、労働、冒険など(冒険が失敗したとして、何が失われるのか誰もわからない)。帰省しても、ホテルに泊まり、「このためにわざわざ来たの?」と言われる。自由意志や固有名詞への疑問は、現代的な気がする。羊をとらえることは、まだまだ先のようだ。 | ||||
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20年以上も前に読んだ作品ですが、最近になって、猛烈に、再読したくなりました。 以前に読んだときは、よくわからないまま、ただ、もう、怖くて、不可思議で、よくわからないのに、深い印象として、残っていました。 いま、改めて読むと、羊に暗喩された闇の存在が、いまもなお日本を、地球を支配し、解決されていないことに、おののきました。 と、同時に、主人公が、個人として越えなくてはならない、大きな課題、すさまじい孤独と空虚感といったものが、故郷の原風景や、鼠や、妻や、耳の美しい恋人の喪失というメタファでもって、胸をずんと、締め付けてきます。 私たちは、ずっと失い続けているんだということ。 村上春樹が、ずっと、ずっと、向き合ってきたものの正体が、現在(いま)ほど、わかるときはないのではないか、と。 もう読んでしまった方も、たくさんいるかと思いますが、再読お勧めします。まだの方は、もちろん!お勧めします。 故人となってしまわれた、村上春樹が師として敬愛する河合隼雄氏が、この作品を評価されていたことを、付け加えておきます。 | ||||
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読み終えると、めちゃくちゃ 切なくなった。 去って行った鼠と、素敵な耳の女の子。 社会の枠組みにどこか相容れない、 風変わりな人々の 哀しいヴォイスが胸を打つ。 冷静な感想を述べるなら、 まだ作者に大きなフレームの中での. いわゆる社会(陳腐な言葉で申し訳ないが) を描ききる技術がないためか、 長編だが、ページ数も後の著作に比べれば抑え目で、 テーマも最後の最後に、小さく余韻のように響かせるにとどまっている。 だが気の抜けた一行など、どこにもないし、どのキャラクターもシーンも、確かな空気と息遣い、必然性を持っている。 アメリカンな文化の影響が色濃いが、 描かれるどこか幽玄な思想観は まぎれない和風のカラー。 特に鼠との再会と別れからは、 もののあはれを、強く、くさびのように心深くに刻み込まれた。 | ||||
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村上春樹の作品はどれも好きですが、 羊をめぐる冒険は読み返すことが多いです。 先日、村上春樹を読んだことのない知人に、 どうしても村上春樹の素晴らしさを知って欲しくて、 この本を貸しました。 読んでくれるでしょうか。 | ||||
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まず羊を探す経緯がまともじゃない。 それに耳の特殊能力を持つ女も、共同経営者も、親友の鼠もまともじゃない。主人公の取り巻く世界がまともじゃないことで、彼は文字通り羊をめぐる冒険へ出る事になる。 不思議な会話のやりとりや文章の独特な流れは、春樹ワールド好きには最高の作品なのかもしれない。 鼠という主人公の唯一のたったひとりの大親友がこの物語の大きなキーである。鼠がその名に合わず、人間らしさとはなにかを教えてくれるのだ。鼠がその過程で苦しみもがいた姿を想像すると、胸が痛む。 親友はひとりいれば、それでいい。そういうことだ。 | ||||
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作者が実際に北海道に滞在した経験から書き上げただけあり冬の描写がリアルです。雪国出身の人ならわかる季節感。 主人公の僕もいつしか厳冬期の世界に溶け込みます。 最後人知れず堰を切ったように泣く僕には一種のカタルシスを覚え、余韻が残りました。 | ||||
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非常にはじまりは、わくわくさせる内容でいいと思う。上巻は最高。しかし下巻はふつう。 | ||||
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羊博士、羊男とこれまたとても変な人物が登場する。 作品の締めにあたる自殺した鼠との会話は読み応えがある。 また、その後ジェイズバーに立ち寄り、砂浜で泣いたあたりの文面は、お涙頂戴ものの作品と異なり、非常に感慨深いものがあった。 | ||||
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羊が出てくる必然性は理解できないが、フィクサーの出現と鼠の関係の謎など、変わった発想は好感が持てる。 | ||||
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出てくる作品みながっかりしてたが、これを読んでみて、なるほど、 誰もが言う「喪失感」らしき?ものを味わえた。 それぞれの主観の中に大なり小なり、これが味わえると思うので、 大きいほど、感涙するかも。 ただ意味不明な台詞もあるので、そこを考えていくこともこの作品の価値を自由にするのかもしれないので、 各々挑戦する意義はあると思う。 前半は退屈。 ハルキファンなら再読する価値もありうる。 不覚にも涙。 | ||||
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『羊をめぐる冒険(上巻)』の最後、ある一人の男から羊にまつわる奇妙な話が告げられる。僕は耳専門のモデルのガールフレンドと一緒に星型の斑紋を背中に持つ一頭の羊とかつての友人〈鼠〉の行方を追って北海道へと旅立った。物語は大きな謎を秘めたまま、『羊をめぐる冒険(下巻)』へと展開される。 この小説は村上春樹の青春三部作をまとめたものと云われるけれど、『ダンス・ダンス・ダンス』のようにではなく当初はこのような三部作編成によって完結するものとは違いそれぞれが単独にスケッチされたものではないかという気がした。それはつまり、通常の短編集でもなく連作短編とも違う独特の形式で構成されているからである。どうして“羊をめぐる冒険”なのだろうと不思議に思うけれど、きわめて寓意に富んだこの物語は確かにこの作家の今後の可能性を早い時期から予感させるところがある。 吉本隆明の芸術言語論的にみれば、「指示表出」と「自己表出」の概念を合わせ持つ稀有な作家と云っていいのではないか。言い換えれば、エンターテイメントな要素と同時にその時代とフィットする鋭い感覚と思想的要素を備えた独特の文体と云うことになる。それ故に、著者自身の青春期とともに時代感覚のようなものが露呈され、否応なくその時代の気分を感じさせる。 エピローグでは、羊をめぐる冒険の果てに北海道を引き上げ友人ジェイのバーを訪ねる。すべてを失った僕はジェイとの約束を交わし静かにその場を去っていく。“切ない想いと青春の香り”その余韻を残して物語は完結する。この爽やかな読後感が素晴らしい。 | ||||
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