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羊をめぐる冒険
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羊をめぐる冒険の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.22pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全164件 41~60 3/9ページ
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鹿狩りと羊探し 地獄の黙示録や長いお別れの影響が言われていますが、話としてはマイケルチミノの「ディア ハンター」と同じではないでしょうか。 日本公開は79年3月です。 主人公が友人を探しに行くが、友人は悪(ロシアンルーレットや羊)に取り憑かれており、捜索の果てに見つけ出すが、自殺してしまう(しまっている)。 題名も鹿狩りにちなんでか羊探しです。 本人は論文まで書いて地獄の黙示録を絶賛しつつ、ディアハンターやチミノについて殆ど語らないのは釈然としません。 余りに芸術至上的で現生否定的なチミノのことが嫌いなのでしょうか? 「天国の門」に嫌気が差したのでしょう? 或いは、当時「反ベトナム戦争」陣営に深く傾いていたため、「ディア ハンター」のようなナイーブで愛国的な反「反ベトナム戦争」的映画には党派的に耐え難く、深く影響されながら否認してしまったのでしょうか。 別にこの作品にケチを付けるつもりはなく、小説としては大変に優れていることを保証します。 | ||||
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村上春樹がこの作品を以て、現代の世界文学シーンと渡り合うことに、実質的に決した作品。 現在の視野から見れば、フェチシズム的感覚が現実感を分裂している世界と、「羊」に象徴される観念的ファシズムを釣り合わせて、主人公のビルドゥングス・ロマンを描き出す手腕が素晴らしい。 | ||||
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面白かった。まさか鼠がそうなっていたとは。鼠は日本を救ったのか。 | ||||
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広い文学者・思想家であり村上春樹さんの大ファンの内田樹さんが本書はスコット・フィッツジェラルドの『グレート・ギャッツビー』、レイモンド・チャンドラーの『ザ・ロング・グッドバイ』の系譜に連なる文学史的な傑作だと紹介されていました。 村上春樹さんご自身が上の著書を自ら翻訳されていますが、『ザ・ロング・グッドバイ』を読んだ時、羊をめぐる冒険を初めとする村上さんの長編に非常に近しい感覚を味わいました。 本書は学生運動以降の1970年代の物語ですが、非常に広い視野と深い思考と霊感で描かれた小説に感じました。 下巻の文中からキーワードを以下に列挙します。 ぜひ多くの方に読んで頂きたい常識を逸脱した傑作小説です。 ・悪魔が街を支配する映画 ・細胞は一か月毎に入れ変わる ・メルヴィルの白鯨、コンラッド、ベートーヴェン、スクリャービン ・交霊 ・元朝時代に出版されたある本にはジンギス汗の体内には『星を負った白羊』が入っていたと書いてある ・奴には大きな目的があった。人間と人間の世界を一変させてしまうような巨大な計画だ ・日露戦争、日本人って戦争のあいまに生きてきたみたいね ・許すこと憐れむこと受け入れることを中心に ・東京が核ミサイルで ・本当の弱さ、絶え間なく暗闇に引きづり込まれていく弱さ ・充ち足りている時にはメッセージはやって来ない ・日本の近代の本質をなす愚劣さは我々がアジア他民族との交流から何ひとつ学ばなかったことだ ・東京が核ミサイルで・・・ ・それはちょうど、あらゆるものを呑みこむるつぼなんだ。気が遠くなるほど美しく、そしておぞましいくらいに邪悪なんだ。そこに体を埋めれば、全ては消える。意識も価値観も感情も苦痛も、みんな消える。宇宙の一点にあらゆる生命の根源が出現した時のダイナミズムに近いものだよ | ||||
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文学者・思想家であり村上春樹さんの大ファンの内田樹さんが本書はスコット・フィッツジェラルドの『グレート・ギャッツビー』、レイモンド・チャンドラーの『ザ・ロング・グッドバイ』の系譜に連なる文学史的な傑作だと紹介されていました。 村上春樹さんご自身が上の著書を自ら翻訳されていますが、『ザ・ロング・グッドバイ』を読んだ時、羊をめぐる冒険を初めとする村上さんの長編に非常に近しい感覚を味わいました。 本書は学生運動以降の1970年代の物語ですが、非常に広い視野と深い思考と霊感で描かれた小説に感じました。 上巻の文中からキーワードを以下に列挙します。 ぜひ多くの方に読んで頂きたい常識を逸脱した傑作小説です。 ・広告を押さえるというのは出版と放送の殆どを押さえたことになるんだ ・政治家と情報産業と株の三位一体の上に鎮座する表にでない右翼の大物 ・ドストエフスキー、カラマーゾフの兄弟、チャイコフスキー ・マルクス ・神様は同時的な存在 ・小人、火星人 ・どんなものにも哲学があり、運命がある ・欲望とプライドの中間点のようなものが人間には必ずある ・(神様の)メッセージは万物の中に既にあるのです。花にも石にも雲にも ・アウシュビッツ、ヒトラー ・そのうちに核戦争で人類は死滅したが、結局は何もかもがうまくいった、という映画ができるかも知れない ・日本の近代の空虚性 | ||||
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「平凡な僕」が 相変わらず主人公である ということだ。 でも物語はそれから 平凡でなくなるぞ。という暗示で。 読者が 平凡だから 君 平凡じゃいけないんだ。 という 平凡脱出 物語 を描いているんですね。平凡 啓蒙書 なんだ。 そういえば 「平凡」という雑誌が ムカシ あったが、 なんで そんな名前の 雑誌が うれたのだろう?今から 思うと不思議だ。 平凡な 情報を 読んで何が 楽しいのだろう。 ムラカミハルキは 平凡であることを自認する僕を 登場させることで 現在の中に 平凡な僕を もぐりこませようとする。 平凡である読者に平凡な僕を摺り寄せさせるのである。 平凡な現実。そして 非現実的なことが現れて、平凡な 僕は 区別がつかなくなり、 セックスしたオンナに「あなたは 平凡だけど 普通の平凡とは違うのよ」 とお告げがあって 変身 するのである。 平凡な僕は やれやれ といって 重い 腰を あげるのである。 主人公は 平凡な やれやれ 青年である。 30歳を目前にすると そんな気になるもんだ。 | ||||
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いつも想像力を掻き立てられる作品で新鮮な世界に連れて行ってくれる村上春樹。 初期三部作?の最終長編。 とても面白かったです。 | ||||
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何度目かの再読をしました。3部作のうちの3作目に当たり、村上春樹が専業作家となってから書いた長編です。3部作の前2作や「ノルウェイの森」や近年の作品から読み始めて、村上春樹を諦めた人にも、辛抱してこの作品は読んでほしいです。前2作もできれば読んだ方が登場人物の背景などよくわかりますが、この作品だけ読んでも十分楽しめます。この作品は、村上春樹的なエッセンスが詰まっていますから、これを読んでもやっぱり合わないと思った場合は、やはり、村上春樹は合わないと思います。数ある著作の中では相対的にストーリーが明確で、ミステリー感、スリル感がありる作品です。羊とは一体何なのか、羊的なもの、羊男的なものの魅力にはまったときには、春樹ファンになっています。 | ||||
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この本がなんであるか、なんの為に存在しているか、そのワケは。 | ||||
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本当に久しぶりに、村上春樹の第3作目の作品である「羊をめぐる冒険」を再読し、上巻を終え、下巻も読み終えた。村上氏のこの“鼠シリーズ”とも呼べる初期の三部作は、いずれも初々しい一方、最新作である「騎士団長殺し」に至るまで取り扱われている題材が、あちらこちらに、と言うよりは村上氏の作品を鳥瞰するには、この3部作をすべて読んでおかないと、村上氏の作品を理解できないと感じてしまうほどだ。 そしてこれ以降の作品に通じる村上氏の有する世界観が、やはりこの作品には存しているのではないだろうか。例えば羊の名を借りているが、村上氏の描こうとしているもののひとつは、この世に構築された‟権力機構”であるようだ。この権力機構は、「ねじまき鳥クロニクル」、「1Q84」で描かれており、有名なJerusalemでの演説でも述べられたものではないだろうか。それからこの3部作以降の作品で描かれている謎めいた世界の構成も、既にこの作品の中に萌芽している。。また「風の歌を…」、「1973年の…」について、村上氏は『自分が未熟な時に書いた』として、海外での翻訳をなかなか認めなかったのに対して、「羊を…」については、上記2作よりも先に翻訳を許可したのも自作に対する自信の表われだろう。 ところで、なぜ主人公である僕の親友の名が“鼠”とされていることが、漸くこの第3作の最終盤になって、分かった。直接この本の内容に触れないので言及してしまって、差し支えないだろう。昔時、村上氏の作品の解説書にも書かれていたようなのでご存知の方もいると思うのだが、“鼠”が1948年のネズミ年の生まれだからである。そしてもう少し、述べてしまおう。この作品で、主人公である“僕”は、“鼠”よりも少し後で30歳の誕生日を迎えることになっている。その理由は、村上氏が“鼠”の誕生年の翌年1949年の1月12日に生まれているからである。と言うことで、この作中の“僕”は、村上氏の分身である、と考えても問題ないだろう。そして“鼠”と“僕”は、同学年と言う設定になっていることになる。 何はともあれ村上氏は、この3部作の最終作品にふさわしい内容、そして以降の彼の作品を語るにおいて避けて通れない内容の小説を書き上げた。そして詳しくは本書を手に取ってほしいのだが、“鼠”をはじめとして、それなりの運命を登場人物に与えることに成功している。 | ||||
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本当に久しぶりに、村上春樹の第3作目の作品である「羊をめぐる冒険」を読み始めた。上巻だけで、これまでの「風の歌を聴け」と「1973年のピンボール」のいずれよりもページ数が多くなっている。これまで主要な登場人物であった鼠とジェイも、みたび現われる。“鼠シリーズ”の集大成と言ったところでは、ないだろうか。 本当に不思議なもので、主人公である‟僕”は、小説が始まって間もなく、離婚してしまう。これ以降の作品でも、村上氏は「ねじまき鳥クロニクル」で主人公の妻が家出してしまう、或いは最新作の「騎士団長殺し」でも主人公の男性が離婚してしまう、と言う設定を取っている。村上氏にとっては、妻の消息不明、または離婚、と言うのが大きなテーマになっているようだ。 最初に読んだ時は恥ずかしながら気づかなかったのだが、1970年11月25日に三島由紀夫が自衛隊市ヶ谷駐屯地で演説している場面がテレビに映っていると言う描写が冒頭に出てくる。村上氏は、あの時代に生きた文学好きの青年だったら一度くらいは手に取ったであろう三島については、ほとんど関心がなかったと述べているようだ。その一方で、どこかエッセーで記していたのだがショーロホフの「静かなるドン」とドストエフスキーの「罪と罰」は三回ずつ読んだそうで、この「羊を……」の僕もこの両作品を三回ずつ読んだことになっている。登場する作家の好みからすると、村上氏は三島のことを余り気に入っていなかったのかもしれない。 題名通り、主人公である僕は、ある女性と羊を探しに出かける、その出発までのいきさつが、上巻の内容である。けれども、これ以降の村上氏の作品がそうであるように、いろいろな仕掛けが備えつけられているのだろう。それを楽しみながら、読み返したい。 | ||||
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大好きな作品です。 ~「ダンス」まで、合わせてもう何度読んだか分かりません。 「ノルウェーの森」と「ハードボイルド」と「羊シリーズ」で、ぶっちゃけ村上春樹は完成されています。 その後、三人称への挑戦やら、技巧の掘り下げ等有り、名作「ねじまき鳥」や迷作?「1Q84」等が生まれていますが、幹は出来ていたのです。 と、勝手な解釈ですが、それくらい好きです。 | ||||
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失うものなど何も無いはずだった「僕」の冒険。自発的な選択によって進んできたかに見えた旅も、 物語の終盤では様子が変わり、無力感とある種のカタルシスに包まれます。 そもそも私たちの人生には自由意志の余地など残されていないのではないか?という無力感。 羊をめぐる冒険(下)では、運命に立ち向かう人々の物語から始まります。 【十二滝町の誕生と発展と転落】 貧しい18名の開拓民とアイヌの青年の苦難から十二滝町の歴史は始まる。 開拓民たちは夜逃げ同然に故郷の村を出て、人目につかない未開の奥地を探し求めていた。 僕と彼女は98年前に彼らが辿ったのとほぼ同じ道のりで、列車を乗り継ぎ彼の地に辿り着いた。 「せっかく苦労して土地を開拓して畑を作ったのに、とうとう借金からは逃げきれなかったのね」 【風の特殊なとおり道】 「鼠は何かを理解している。」「あの黒服の男も何かを理解している。」 自分が辿ってきた全ての行動が黒服の秘書の思惑通りであったことを知り僕は落胆する。 「彼らが利用し、しぼりあげ、叩きのめしたものは、僕に残された最後の、本当に最後のひとしずくだったのだ。」 【時計のねじをまく鼠】 「羊の代償は気が遠くなるほど美しく、そしておぞましいくらいに邪悪なんだ。」 「もう少し遅かったら羊は完全に俺を支配していたからね。最後のチャンスだったんだ」 鼠は羊の差し出す運命を拒否して自ら死を選んだ。 自殺が彼に残された唯一の自由意志の発露だったのかどうかは分かりません。 それでも十二滝町の歴史の始まりが名も無きアイヌの青年の情熱であったように、 鼠の葛藤が発火点となって「僕と鼠の物語」が生まれ、今や世界中の読者に読み継がれています。 それはまるで鼠が生み出した神話の世界を目撃しているような錯覚を私は覚えます。 | ||||
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羊をめぐる冒険(上)では、主人公が冒険の入り口へ立つまでの過程が描かれています。 「僕」は過去と未来を全て失い、困惑しながらも徐々に運命を受け入れていきます。 それは鼠の招く異界へ辿り着くための条件でもありました。 【水曜の午後のピクニック】 大学時代の彼女の死の知らせが届いた。 「彼女が僕に求めていたのは優しさではなかったのだろう」 【彼女の消滅】 部屋に戻ると妻が泣いていた。 「あなたと一緒にいてももうどこにも行けないのよ」と告げて妻は出ていった。 【鼠の手紙】 鼠が手紙を通じて僕にある頼み事をしてきた。 そのことをきっかけに僕は街に戻るが、自分が帰るべき場所が何処にもないことを実感する。 「もう誰も僕を求めてはいないし、誰も僕に求められることを望んではいない」 【三つの職業を持つ女】 妻と別れた直後に、耳専門のモデルのガールフレンドと知り合った。 「あなたは本当に何もわかっていないのね」 「それはあなたが自分自身の半分でしか生きていないからよ」 彼女に導かれて僕の「羊をめぐる冒険」が始まる。 「僕」は「いとみみず宇宙」のような奇妙な世界に立たされながらも、 現実の今の瞬間を生きる自分自身を確認しながら対応していきます。 「風の歌を聴け」「1978年のピンボール」で確立した彼の世界観がここでは試されているように思えます。 | ||||
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『風の歌を聴け』『1973年のピンボール』とリンクしているようなので こちらも読んでみようと思います。 本書だけでも充分楽しめましたが、続けて読むと数倍楽しめそうです♪ 順番に読んで、もう一度「羊を~」も読もうかな。 | ||||
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スタイリッシュな文体、しかしリアルな現実が伝わってきて、なかなか自分にはとてもハードな小説でした。 | ||||
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「風の歌を聴け」で小説家としてデビューした村上春樹氏でしたが、「1973年のピンボール」までは当時経営していたバーと並行しての執筆でした。 毎晩遅く、バーの仕事が終わってから台所でこつこつを書き上げたそうです。 その後小説家として生きていく決心をした氏は、ジャズバーを売り払い、専業の小説家になりました。 当時バーは軌道にのっていたので、それは易しい決断ではなかったそうです。 私は本作が、村上春樹氏の小説家としての真のデビューとなったと思います。 私は「風の歌を聴け」も好きですが、この作品はどうもふわふわしているというか(そこが魅力でもありますが)、非常に短い章から構成されていて、一冊の小説を読んでいるというよりは小説の断片的なものを読んでいるような気になります。 たくさんの短い章は、リチャード・ブローティガンやカート・ヴォネガットからの影響なのかもしれません。 いずれにせよ、このときは村上春樹氏はまだ自分のスタイルやテーマを模索していく中の手探り状態にあったと言えると思います。 「羊をめぐる冒険」からは、物語がより強い芯を持つようになりました。 短い短編的な章の寄せ集めではなく、ここにはひとつの物語があります。 タイトルの指し示すように、本作は一匹の特別な羊をめぐる冒険です。 冒険、つまり何らかの目的があって、そこに至るまでの過程が描かれているのです。 この冒険が我々読者に与えてくれるのは経験です。 主人公の視点を通し、我々は読書という体験を通してひとつの冒険を潜り抜けます。 本を読む前の我々と、本を読み終えた我々は厳密な意味合いにおいては別の人間なのです。 もし氏が「羊をめぐる冒険」を書き上げることができていなかったら、多くのデビューしたての小説家のように、氏も文学界からひっそりと消えていたかもしれません。 物語の終盤で、鼠がああなったのは、やはりまだ完全とは言えなかった最初期の「風の歌を聴け」と「ピンボール」への別れだったのかもしれません。 | ||||
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30年前にこの本で出会い、北海道への強い憧れを抱いた。就職後札幌に拠点を移し、道内の都市や市町村へ訪れる機会も得た。 あの感動を再び・・と思いキンドル版発売を機に読み返してみた。 30年分の知識や経験は、10代の感受性を鈍くしてしまったのかもしれない。或いは北海道のことを知り過ぎたせいかもしれない。当時の感動がそのまま訪れることはなかった。 が、やはりいろんな意味で懐かしい。 10代の自分が感じていた世界を少し思い出した気がした。 | ||||
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主人公の「僕」は失踪した友人の「鼠」から郵送されてきた羊の群れの写真を、仕事でパンフレットに使った。その後、パンフレットを見て主人公のもとに訪れた男に「この写真に写っている羊を探してほしい」と依頼される。 主人公と友人の鼠は「風の歌を聞け」から出てくるおなじみのキャラ。出だしはスローペースで、主人公が羊を探しに出かけるまでがけっこう長いが、春樹らしい文章のリズムで楽しく読める。 やがて主人公と鼠は再会するが、それは酷く物悲しく、そしてほとんどが主人公の内面世界で起こったことか、あるいは幻影のようなシーンである。主人公の中ではその事実ははっきりと実感できるもので、1つの結論に至り、話は終わる。 しかし、これで何かの事実が確認できたとたぶん大方の読者は思わないのではないか。急に消えてしまう登場人物や解決に至らない筋もあるし、えっこれで終わり?的なのだが、しかし主人公の中では心理的に結論が出ているらしいし、主人公の周りの人物も納得しているし、小説もそこで終わりなのだから仕方がない。それにとにかく彼の悲しみとか感情の余韻は、解決のないまま宙ぶらりんになった疑問符と共に強い印象を残すのだ。一面の霧の中で何も見えないけれどその霧のひんやりした感じは解る、そしてその景色は美しくさえある。そんな感じがなんというか春樹らしい。 | ||||
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ここ数年、この作品が村上春樹の最高傑作かもしれない、と思っている。上巻の最初からお行儀よく読んでいくと挫折する可能性があるので、まずは上巻は斜め読みにして、この下巻をしっかりと読んでほしい。北海道の地図を参照しながら読むと想像力が鍛えられ、すごく面白い。自分の考えでは、《羊》というのは、人間のなかに潜む、残酷で「(価値中立的な意味で)純粋」な「美学」(近現代美学の祖であるバウムガルテン的な意味というよりも、むしろプラトン・アリストテレス・中世ヨーロッパ美学の皮相な誤用・悪用の意味で)の象徴的動物(あるいはユングの言う「元型」)だと思うし、自らの内に潜む《羊》(「羊男」)に負けてしまったのが鼠、負けそうになりながらも、「なんとか克服」して生き延びたのが主人公なのかもなと思う。すべての人の内面には、そのような意味での《羊》という要素がある、というのがポイントなんでしょうね。 | ||||
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