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沈黙
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【この小説が収録されている参考書籍】
沈黙の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.41pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全337件 101~120 6/17ページ
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宣教師ロドリゴはキリスト教を広めるため日本にやってきた。しかし、既にキリシタン弾圧の時代に入っており、布教は困難を極める。キチジローの裏切りにより役人に捕らえられたロドリゴは殉教するつもりだったが、自分が棄教しないと信徒たちが殺されると知らされ、ついに踏み絵を踏んでしまう。そして、教会を裏切ったロドリゴはイエスの声を聴く。「キリシタンの苦しみを知りながらなぜ神は沈黙しているのか」「キリスト教は日本という泥沼に入ると変質し腐ってしまうのではないか」「イエスはユダのような裏切り者をこそ赦し救うのではないか」など、信仰に関していろいろな問題を提起してくれる作品である。 | ||||
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宗教の怖さと人間の弱さを記述した。神の沈黙をどう受け取るか、死の先を信じるか、現在の酷な状態との選択は、個個の苦しさと体験の差か。 | ||||
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こちらの本は映画を見て、面白かったので購入。 時は江戸時代、徳川家光の頃、ポルトガル人のキリスト教司祭が、日本へ布教するため、やって来る。 その頃、日本では基督教は禁制になっており、信仰者は役所の目を盗んで、密かに信仰を続けていた。 ポルトガル人のロドリゴは日本で布教活動を進めるが、やがて役人に見つかってしまい、踏み絵という形で、棄教を勧められる。 神様を裏切ることへの葛藤と、踏まなければ、他の信仰深かった日本人と同様に、何日間も拷問された後に、殺されてしまうことへの恐怖との板挟みに合いながらも、彼は棄教を選んだ。 周りからは司祭のくせに棄教した、転びのパウロとあだ名をつけられ、日本名まで役所から授けられ、惨めな余生を過ごした。 彼は果たして神を裏切ったのか?踏み絵をしても心の中で信仰を続けていれば、それは決して裏切りではないのでは? 宗教の深い一面を垣間見ることが出来た。映画もとても良い出来だったため、オススメ。 | ||||
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女の一生を読んだ後に、映画化されたので読んでみました。 暗い。。。。とにかく暗くて、どよどよしちゃいました。が、その分、 宗教とはなんだ?と、自分に問いかける面も多くて、☆はたくさんつけました。 キリスト教徒多数圏でなければ映画化はなかっただろうなぁ~って題材です。 | ||||
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映画を見て、本も読んでみようと思い、読みました。映画は原作とほぼ同じでした。いい本です、ただクリスチャンでない私には、理解しがたい部分もありました。 | ||||
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信仰とは何かを深く訴えかけてくる作品であった。 作品冒頭から興味が惹かれる始まりとなっており、展開が気になり、のめり込んでしまう迫真のストーリーであった。 敬虔なクリスチャンであるロドリゴ司祭が、棄教(信仰を捨てる)に至るまでの苦悩や葛藤が描かれている。非常に胸に迫ってくる内容である。 イエスキリストが十字架にかけられた時の受難の場面(神よ、なぜ我を見捨てた?)を重ねて考えさせられた。 生きることは辛く、様々な困難が伴うが、信仰とは、神にすがるためにあるものではない。 残酷な運命に直面しても、「受け入れて生きる・人間としての誇りのことである」と私は考えた。 | ||||
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たまにだけど頑固と言われるぼくには そういう程度の話ではないんだけど 考え方について気づかされるところがありました | ||||
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ここに買いてある事が真実をモデルにしているのなら、日本人は、背負わなければいけない十字架を自ら選んだのでしょう。それぞれの立場の違いが、苦しみを産みだして、とても辛いです。 昨年、長崎の外海を観光して周りましたが、その記憶と重なり、とても読んで辛くなりました。 キリスト者として生きているわたしには沈黙はなぜ、なぜ、だけでは終わらない永遠の問いかけだと思います。 | ||||
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映画化を契機として購入。 人間の無力さ、罪深さを痛感させる作品だった。 この世で力があるものに対して、神の力は、ことこの世の基準で考えるとあまりに無力。 この現実と「絶対者」であるはずの神への信仰を、どのように調和させるか。 本書ではそれらのことについて、私は考えさせられた。 神の存在に対する新たな解釈を得ると同時に、生きるということについてどう意義づけるべきか。 読了後に自分なりの考える課題が残った。 | ||||
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いつもお世話になりありがとうございます。どうしても欲しかったので手に入りうれしいです。 | ||||
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日本がすごいと自画自賛するTV番組があふれ、小学校から英語を学び、中高生でも海外旅行や留学体験を持ち、SNSやネットで世界と簡単につながるという今日この頃。そういえば「劣等感」という言葉も最近あまり耳にしなくなった。 でも、単なる偏見・差別や言葉の壁に限らず、異文化交流が衝突と苦悩に満ちていることは、満州に育ち、敗戦直後にフランスへ留学した遠藤周作にとっては痛切な真実であったはずだし、そしてその課題は、多くの日本人が見て見ぬふりをしているだけで、普遍的なものとして立ちはだかっている。 神はいるのか、いるならなぜ人間の苦悩を前にして黙っているのか。石川雅之『純潔のマリア』がギャグを散りばめながらも大胆に正面から問いかけた恐るべき疑問。神学においては信仰は奇跡によらずしてあるべきものだとされているし、神が答え、介入しなければ信じられないという欲求は稚拙な願望として退けられるのだろう。それでも、素朴な農民の、孤独な宣教師の苦しみに、なぜ神は答えたまわないのかという問いは、幼稚として片づけられるにはあまりに重すぎる。 キチジローの卑屈さも、貧しい農民の惨めさも、拷問で転ばせる奉行の狡猾さも、今の日本人が見まいとしているわれわれの真実だと思う。そして、作家が洗礼を受けたひとであるからこそいっそう重い、(ヨーロッパ化した)キリスト教は変質せずに日本に土壌に移植されるのかという異文化交流に対する根源的な疑念もまた、英語で世界とつながるとか、インバウンドでもうけよう、とかいった表層的なキャッチコピーあふれる現代においても、決して忘れるわけにいかないものだ。 ただし本書は、悲劇的であっても、絶望の書では決してない。これほど重い真剣な課題を、これほど面白く読ませる小説家は現代で数えるほどしかいないのではないか。発表から半世紀以上たっても本作は決して古びていない。 | ||||
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キリスト者たる著者の、日本におけるキリスト教徒の、殉教を身をもって表現し、現在「隠れキリシタン」なるものが、ローマ法王庁の支配する、キリスト教とは異なるものとして、今に続いて居る所以を説き明かしたものと、評価する。 | ||||
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マーティン・スコセッシ監督の映画が封切りになったので、まずは原作を読み直してみました。以前購入していた本が見つからなくて、文庫本を購入しました。遠藤周作の代表作といえる作品で、改めていろいろと考えるところがありました。 名作です。 | ||||
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一気に読めた。少し暗〜い。人間は残酷だ。映画も見てみたいな。 | ||||
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遠藤周作、川端康成、大江件三郎。この3人の作家を並べて論じたのは、おそらくフジムラ氏の「沈黙と美」が初めてだと思う。画期的な文学論でもある。特に、文学者の自死の問題について切り込んだのも素晴らしい。なぜなら、それは、日本人の美意識と切り離せない問題であるからだ。著者が幼少期、鎌倉で川端康成の近所に住んでいたというエピソードも興味深い。 川端康成の透徹した美とは対照的に、遠藤の文学を以下のように評している箇所がある。 「遠藤の文章も銀色というメタリックな「第三の色」である。それも、空気に触れて深いチョコトルブラックへと変色したものだ。」(74-75頁より) 日本画家ならではの描写と分析が面白い。 日本文化を評する際には、日本人の二重構造あるいは双極性について言及されることが多い。ルースベネディクトは「菊と刀」で、日本人の本音と建前との二重構造について論じており、また、心理学者の岸田秀も「ものぐさ精神分析」の中で、日本人の精神の二極性について述べている。少しだけ紹介すると、岸田氏は、日本国民の精神分裂病素質をつくったのは、ペリー来航の事件であり、それよって惹き起こされた外的自己と内的自己への日本国民の分裂は、まず、開国論と尊王攘夷論との対立となって現れた、と述べている。 本書の中でも、大江健三郎がこの双極性について言及した以下のことばが紹介されている。 「開国以後、百二十年の近代化に続く現在の日本は、根本的に、あいまいさの二極に引き裂かれている、と私は観察しています。のみならず、そのあいまいさに傷のような深いしるしをきざまれた小説家として、私自身が生きているのであります。」(大江健三郎のノーベル賞受賞記念講演より) しかし、本書が斬新であるのは、この双極性に「踏絵」が橋を掛けていると述べている点にある。 「遠藤の聡明さは、すり減ってなめらかになった踏絵の表面にこの傷跡を見つけ、そうすることでこの「あいまいさの二極」に橋をを架けたことにある。」(107-108頁より)。 昨今の社会および政治の閉塞状況の中で益々極端な方向への流れが強くなっていることを感じるが、ここでしばし立ち留まって、押し流されず、著者と共に、この「すり減ってなめらかになった踏絵」の意味を静かに考えてみることも有意義なのではないかと思う。 また、本書は、斬新な文学論・日本論であると同時に、日本人に対する励ましの手紙であるとの印象を受けた。著者はこのように語りかけている。 「層の中にある死は、粉砕されて幾重にも重ねられた顔料のように、豊かさを増殖させ、百倍にも反映させる。日本の土壌もそうなのだ。江戸時代や広島、長崎、そして現在の福島のトラウマがあっても、土壌を怪我されてもない。どの死も、どのトラウマも、世界にとっての糧を福音が見出すことのできるオアシスに、日本がなるために準備である。」(251頁6-9行目より) この本は、決して急いで読む本ではなく、じっくり時間をかけて読むのがよいと思う。できるならば、本書に登場する数々の芸術家、遠藤周作、川端康成、大江健三郎、利休、長谷川等伯、長谷川久蔵などの作品を味わいつつ、そして機会があるならば、著者の作品も鑑賞しながら読み進めてみると良いと思う。 | ||||
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ハリウッド映画化されたので読んでみました。「神の沈黙の力」を得ることは真の信仰であり信仰への力の源となり本人を支える。キチジローは沈黙の力を得られたのか?読み終わっても分からない。信仰は人間の弱さへの拠り所である。しかし遠藤周作は海と毒薬だな。 | ||||
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遠藤周作についての文芸評論で、もっとも優れていると言えよう。 とにかく、何かと誤解をも招いている遠藤の人柄を、芸術家の鋭い洞察力で分析しているのではなかろうか。 従って、遠藤文学を理解するための必読の書と言えよう。 | ||||
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「日本人は人間とは全く隔絶した神を考える能力を持っていない。日本人は人間を超えた存在を考える力も持っていない」 「基督教と教会とはすべての国と土地とをこえて真実です。でなければ我々の布教に何の意味があったろう」 「日本人は人間を美化したり拡張したものを神と呼ぶ。人間と同じ存在をもつものを神と呼ぶ。だがそれは教会の神ではない」 「あなたが20年間、この国でつかんだものはそれだけですか」 「それだけだ」フェレイラは寂しそうにうなづいた。(236p) 映画を観たので原作を紐解いた。どうしても確かめたかった点があったからである。それは後述するが、フェレイラとドロリゴの対決場面や井上筑前守との対決場面は、基本は映画と同じで流石に詳しく描かれていた。 この会話は、加藤周一の「日本文化史序説」を読んでいる私には頷く所の多いものだ。日本の「土壌(文化)」には、確かにそれがある。しかし、それと日本人一人ひとりにその能力が有るか無いかとはまた別問題であるし(実際に「ホントの神」を信じた宗教家は何人かいる)、ましてやそういう文化的土壌があるからといって、人間の思想を権力が強制・弾圧するのは言語道断ではある。と、370年後の私が言っても仕方ないのだが。スコセッシ監督は、台詞をかなり選んではいるが、原作にかなり忠実であったことを確認した。問題のキチジローの描き方も、彼の存在そのものの解釈は様々に出てくるかもしれないが、基本的原作に忠実であった。 「主よ。あなたがいつも沈黙しておられるのを恨んでいました」 「私は沈黙していたのではない。一緒に苦しんでいたのに」 「しかし、あなたはユダに去れとおっしゃった。去って、なすことをなせと言われた。ユダはどうなるのですか」 「私はそう言わなかった。今、お前に踏絵を踏むがいいと言っているようにユダにもなすがいいと言ったのだ。お前の足が痛むようにユダの心も痛んだのだから」(294p) 私の解釈は、キチジローはやはりロドリゴの揺れる心の分身であったのだ。 映画ではロドリゴの日本人妻が彼の葬式時に密かに聖像を含ませた。紐解いて確かめたかったのは、これは原作にもあるのか、ということだった。「あれは妻を教化するほど、信仰を捨てなかったことだろう。あの場面の意味をどう考えるか、でこの作品内容は大きく変わる」という映画仲間もいたほどだ。結論からいえば、あれは映画のオリジナルだった。しかし、 聖職者たちはこの冒瀆の行為を烈しく責めるだろうが、自分は彼らを裏切ってもあの人を決して裏切ってはいない。今までとはもっと違った形であの人を愛している。私がその愛を知るためには、今日(こんにち)までのすべてが必要だったのだ。私はこの国で今でも最後の切支丹司祭なのだ。そしてあの人は沈黙していたのではなかった。たとえあの人は沈黙していたとしても、私の今日までの人生があの人について語っていた。(295p) このラストのロドリゴのモノローグを映画的映像に「直した」のが、あの場面であったことがわかるのである。 無神論者の私が映画の時に感じた「一般的な思想弾圧」に対する感慨は、原作の時には微塵も感じることができなかった。純粋にキリスト教について、私は様々な感慨を持った。そしてそれこそが、おそらく小説と映画との違いなのだろう。 2017年4月13日読了 | ||||
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マーチン・スッコセシオ監督の映画を見たあとに、購入しました。内容が手に取るように理解でき、映画と比べながら読み終えました。 映画もさる事ながら、こちらの本のほうがやや情景豊かに表現されています。 | ||||
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正直、ベースにあるストーリーは驚きを含んだものでもなく、実にシンプルなものだと思う。 しかし、それを感じさせてくれない程のドラマティックな描写に、いつしか夢中で読み進めていることに気付かされた。 神の沈黙という、信仰を持つ方にとってはある種普遍的なテーマであるのではないだろうか。 届かぬ叫びはいつしか沈黙になる。 裏切りを恨み突き放すのでなく、その弱さを知るが故に放つのである。 語らぬことは誤解を生むこともあるが、 それは語れぬ者にしか語れぬ領域でもある。 | ||||
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